枕元にプレゼント。 あんなに楽しみだった日はないだろうなぁ。
ニュースでペットのクローンの話。 死んでしまった飼い猫のクローンを作ったとか。 動物の愛護団体は そのお金を他にまわせばもっと多くの動物が救える、と。
自分の子供一人の心臓手術をするのを諦め ワクチンを送れば何百人、何千人の子供が救われる。 それと同義。
クローンの正当性云々はここでは問題じゃない。 クローンであろうがなかろうが 欲しいのは自分の飼い猫だった猫なんだよね って言うところは理解できる。 そういう意味じゃ、動物愛護団体の話は的外れだと思うわけです。
倫理云々というよりも 世界の多くを占めるキリスト教の教えに反するからという、 それがクローンを否定する大きな要因なんじゃないかな……。 個人個人で反対する人は当然いるだろうけれど。
極端な話、臓器移植の手段や道具として クローン人間が生み出される可能性がある。 ……そういう理由で否定もできるのだけど それが現実に起こりえる、というほど世界は悲観的でもないと思う。 人として生み出された限り 人権を持つ事になると思いますよ、仮にクローンが正当化されても。 奴隷という制度は過去の汚点として 多くの人々に記憶されているわけですから。
過去の自分やらをふと振り返る。
クリスマス時期、一人身でさびしいなと思うことがあった。 本年度は意外とどーでもよくなった。
……そろそろまずいと思う、いや、本当に。 自堕落な生活で幸せってやっぱり堕落だよね。
一日一日。
と、いう表現よりは一秒一秒って表現のほうがいい。 そっちの方が重みがあるだろう。 紛れもなく、過ぎては戻らぬ。
生きていると時間に気づくことがあまりない。 時計をみてあせることはあるが 時間を感じてあせることはない。
何かをしていて、時間がたってしまった、というのは あくまで日の高さなど、相対的なものによる。 絶対的な体内時間は25時間周期だし……。
時間軸っていうのが何とも難しい。
音楽でも絵でも小説でも そういったものには意味を持たせるべきである。
……か、どうかは知らない。
けど、一部のモノ(創作物)は そうあるべきなんじゃないのだろうか。 一部というか、元々のモノは、かな。
表現したいものの手段として 創作物をつくるんだろうなぁって。
テーマがあって、 それを表現するためのもの。
でも、過程が素晴らしかった。 だから過程を目的にしてしまう。 目的の手段は昇華し、手段が目的となる。
結局中身のない手段(過程)が生まれる。
それはそれでいいと思うのですが、 過程に目的をこじつけるのもありじゃないかなっと。 道を作るつもりならそれでかまわないが どこに続くのか、くらいは示せるんじゃなかろうか。
さてと。 ハリーポッターと不死鳥の騎士団を読み終わった。 日本語で1200〜1300字くらいあったんじゃないだろうか。 流石に疲れた。
んでまぁ、一方では色々考えはしたんですよ。 最近ごちゃごちゃしてるから。
とりあえず自信喪失してるんだなーってことで 一つ結論出せました。 明日には結論変わってるかもしれないけど。
……根拠のない自信って色々扱いにくい。
1、2、3、……と。
いくつか出来事はあったけど、 行動ではなくて頭の中が動くものばかり。 おかげで夜には何かがぐーるぐると回っていたわけです。
この状態で寝たら変な夢でも見そうだなぁと……。
案の定見たんですよ、夢。 人を待つ夢。
人が来るのを待つんじゃなくて 人の気持が決心するのを…… 恐怖している事を克服するのを待つ夢、のような。
夢の相手が誰だったのかさっぱり。 内容は覚えているけど相手が誰だか分からないのも久しぶりのような。 ……あれは誰かだったのかなぁ。
なんというか、新聞やらテレビ見てて、 教職員の性に関する不祥事が良く取り上げられてるなぁと。
んで、ふと。 『いかがわしい行為』と 『わいせつな行為』の違いってなんなんでしょうか? 合意と非合意の違いなんだろうか……?
日本語ってむずかしーですよね。 NHKなんて特に硬いし。
相変わらず気持の面で少し不安定な日々です。 考えたりすることがなんと多いことか。 忘れてしまえばいっそ楽なのにねぇ。
オタクっぽい物言いになってしまうが……。 やっぱり宮崎駿はすごいなぁって。
と、千と千尋の神隠しみたら思うわけです。
一つの作品としてとらえると ストーリ、筋道もしっかりとまとまってるし。 演出とか……そういうところが奇麗だなーと。
振り返ってはいけないといわれ、振り返りそうになる。 でもこらえて顔を戻すと『かみどめ』が 頭をかすかに動かしたことによって光る。
最後の部分ですけどね。
こういう細かい事が 随所にちりばめられているんじゃないのかなぁって。
なんていうんでしょうね…… 気づかなかったらそれはそれでいいんです。 気づいたらもう少しだけ、楽しめる。 アニメ映画だけじゃなくて 作品とってそういう部分は作品としての質を高める 要素なんじゃないのかなって思います。
最近頭を使っていない。 ……まったくではないけれど。
ちょっとした知人と車をダウンフォースではなく アップフォースをかけるとどうなるかについて議論したり。
揚力とか……。 こういうのを面白いと思う私はやはり機械系なんだろうなぁ。
懲りずに、ネットのとあるゲーム(?)で ロールプレイングをしている。 役を演じるってやつ。
青年という設定のキャラクターなので 演じるもなにもそのままなのだけど……。 どういうわけか、ネットで『俺』や 『だぜ』とか『じゃねーか』とかそういう口調に違和感を……。
日常でそういう言葉を使わないからなのでしょうね。
やっぱり性格ってことなんですかねぇ。
どうもここ数週間気持ちの面がよろしくない。
間違いを認めて改めるのも一つの決断だろうけど 間違いを知りながらも突き進むのも必要なのではないか、と。
そうやって考えて突き進んだ先にあるものが何か 当分のところ分からないけれど。
古人達の言葉に過ちを知りながら突き進めなんてないよなぁ……。
どうも、私は……人を信用できないんじゃないかと思う。
考えてみれば思い当たることが結構。 人がやっていることに口を出したくなるのは その人を信用してないからなんじゃないだろうか。
何も言わずに、その結論にたどり着くまで 見ているということが私に出来るだろうか?
成功は成功の母とは言わないようで 失敗することで人が成長していくのなら その芽をもつぶしてしまっているのではないだろうか。 そんな自問を少しする。
以前から。
物語の人物は作者を超えられない、と。 そんな事を考えたことがあった。 かれこれ5年くらい前からのことかなぁ。
作者が100メートル9秒で走れなくても 登場人物なら一行でそれを書けるじゃないか。 ……もっともなんですが。
体力や運動の話じゃなくて、頭の中のことね。
物語(あるいは漫画)でもいいんですけど 結局作者の手の上での出来事なんですよ。
殺人事件がおきた、トリックを考える。 それを暴く主人公が居る。
でもやっぱり作者を超えるトリックはないし 作者を超える探偵は存在しないわけですよ。 ……まぁ、そんな感じで物語に限界があるならば それはこういうところなんじゃないかなぁと。
5年たって全く同じ事を考えているかといえば そういうわけでもないですが。 実際のところは、自分で書いてて突発的に思いつくとか そういう事もあるわけで……。 一言でいってしまえば『ひらめき』ですね。 ひらめきというのはその人の能力として思いつくというより 過去の経験などから突発的に思いつくわけですから その人の能力として期待することはできないですし。
書いてる過程で、そういう事をひらめく事もあるでしょう。 そうすると多分作者の手のひらを越えた出来事が 物語の中には存在しているんじゃないのかなぁ……。 って、5年の歳月はこれだけのことを私の頭の中に追加しました。
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