1日雑記

2004年11月29日(月)


もう少し言葉としてまとめると
『申し訳ないと思うけど後悔はしていない』
って事なのかなぁ。

今までの価値観だと
『謝るならやらなきゃいい』
なんですよ。

やった後に、申し訳ない、
やらなきゃよかった……と考えるのが後悔です。

でも今の私の心境は
何度同じことを繰り返せても
結論を変えることは無いだろうということなんですよね。


まぁ……何というか。
今まで恵まれてきたということなんでしょうね。
いざというときに頼れる人がすごいと思うけど
それが実践できない私はまだまだ未熟です。

最近そう感じることが多くなったなぁ。



2004年11月28日(日)



私に何が出来たんだろう?


後悔先に立たずで過ごしてたけど。
後悔してないのに辛い事もあるって事なんだよね。
逃げ道あっても逃げたらダメだしね。

そろそろ辛いです。



2004年11月23日(火)


鏡を見て、ふと。

当たり前なんだけど、
写すことでしか自分を見ることが出来ないんだなって。

そこに違和感を少し。

写るということは古来からあったわけだけど……。
『本物』って見えないんだよね。
目に映るものが『真実』と言えないかもしれないけど。

虚像としてしか『自分』を捕らえられないことに
違和感を感じるのは
不自然って程でもないと思うんだけどね。

自分以外のほうが自分をよくみれる、
自分以外しか本物の背中を見れない、
そういうことです。



2004年11月21日(日)


なんていうのか、個性って。


個性ってありそうだけどあんまりない。
人によって違いそうだけど、実はあまり違わない。

結局のところ、あまり我々に選択肢なんてないんでしょうね。
例えば趣味でも仕事でも。
……いや、その選択の一つを選ぶだけで
人生の大半を費やすことになるわけなので
我々にとっては唯一つの選択になるのかもしれませんが。

しかしまぁ、人類全体人口から見れば
趣味にしたって仕事にしたって。
そんなに選択肢があるわけじゃないんですよ。

同じ環境に放り込まれたら
人間似通うのは仕方ないのかもしれませんね。

もちろん、個人個人で感じるのには
大きな違いがあるでしょう。
隣をみて、自分とそっくりだ、なんて思う人も少ないわけで。

ただ、客観的に見たとき
やっぱり同じ環境に居る人は似通ってるんですよ。


個性ってものは程度によっては大切かもしれないけど
出るくいは打たれる、と。

あるいは個性が無いというのは
それを否定するものが人の中に存在するから
……故の必然なのかもしれません。



2004年11月20日(土)

しかし、私が悩むとき。
その多くは私のことではなく、他人事だ。

例によってまた頭を少し抱えるような状況。
だけどやっぱり自分自身のことではなく人のことについて。

そう考えてみると、私は随分悩みの少ない
人間なんだなぁと。
別に能天気に生きてるわけでもないんだけど。
……いや、能天気なのかな。

ふと風呂で
ヘルプ・ミーと。
そんな言葉が頭をよぎる。

だけど実際は(文法的に正しいかどうかはしらないけど)
ヘルプ・ヒム
ヘルプ・ハー
と祈るべきだし、そっちの方が随分楽だ。

もし、助けを請う対象が神だとするなら、
すべてが解決するとするなら。
私はどっちを口にするべきだろう?
ヘルプ・ミーかヘルプ・ヒム(ハー)か。

悩んでる人助けてくれればそれでいいけど
変な話だけど神様に頼んで
絶対の答えを授けてもらうよりも
自分で考えて出す答えのほうが
必要なんじゃないかなぁとも。
この場合だとひらめきとかでも授けてもらうのかな。

言葉っていうのは自分が責任を持って発するべきだと。
それが間違っていても。
そして私に何かを尋ねられたのなら
私の答えを返すべきなのだと。

……神様は信じてませんので
できる限り頭をしぼって考えます。



2004年11月17日(水)


自信を持つのはいいことだ。
誇りや、自尊心も重要だろう。

しばしば、それは考えられる。
しかし、自分を過信するのは良くない。

自分の力量を、正確に測ることが出来ることこそ
うらやむことの出来る資質なのではないだろうか。


と……ソコから先の話。
まかり間違えば、自分の力量を過信し……
あるいは信じすぎるが故に、他者を正当に評価できない、
さもなくば見下してしまう事になりかねないのではないかと思う。


とあるサイトを見ていたら
少々不快になる文章が載っていた。
もしかしたら、正当な評価をしていたのかもしれない。
ただ、「私ならこの程度のことを〜くらいで出来る」や
「自分がその場に居たなら〜である」という文章に
好感をもてなかったことは事実である。

……というか、私自身、
他者を見下すようなところがあるのではないかと心配になる。

心がけてはいるものの……。

信念じゃないけど、他者に恨まれない生き方をしたい。
当たり障りの無い生き方してるといわれればそれまでだけど
むしろそれを特化して
誰からも恨まれないような生き方したいと考えたりするわけです。

無理でしょうけどね。

やっぱり嫌われるのは嫌なんですよ。
というより、恐いんですよ。
いや、何があったというわけではないのですが……。



2004年11月15日(月)

なんというか。
郵便を宅急便で出すなんて初めてです。

月曜日までに(今日までに)
レポート北海道に送らなきゃいけなかったんですよ。
んで、土曜日の午前中くらいまでに速達なら
郵便でも届いたんですけどね。

間に合わなかったから土曜日の夜に
宅急便んで送りました。
ちょーそく宅急便。

これなら月曜日に届く。
お金かかるんですけど。

泣く泣く。
次からはと思いつつもやっぱり変わらないんだろうなっと。
でもくじけません……(TT)



2004年11月11日(木)


簡潔に。

ただ今午前4時10分。
おそらく明日くらいまでに終わらせなければ
致命的なレポートが後二つ残っている。
一つは手をつけてすらいない。

簡潔に。

後悔してます(TT)



2004年11月09日(火)

向き不向きって確かにあるんですけどね。
教育者の立場の人間が
学生を不向きだと切って捨てるのは
正直見ていて気持ちのいいものではないわけです。

こういうところが大学ってことなんだろうけれど。


学部(大学4年生)で、ウチの研究室から
ウチの大学の大学院に行きたいという人がいまして。
そういう話をしていたわけです。

確かに理論的なことが全然できてないので
これで院もどうかなぁ……と、思うところはありますが
後は本人のやる気しだいなんですよね。

ダメならダメでいいと思うんですが
教授の方はあまりそういうのにいい顔してないのですよ。

止めといた方がいいんじゃないかなって雰囲気が……。


そういえば院生になって、
なんとなく学部のことは年下みたいなイメージで見てたんですが
(こういうところが老けてるっていわれる原因だとおもうけど)
その院にいきたいという子は
一浪しているらしいので私と同い年だったという……。

やばい、同い年に見えません。
相手、若いです。

……すごく敗北気分。


話変わりますが
私ネットで文字とかを書いたりするときは
ローマ字入力なんですよね。
実際結構なれてきてるし……不自由もないんですが。
昔からパソコンはローマ字入力みたいな偏見というか、
教え込まれてきたし。

でも最近聞いた話だと
文章を書く人なんかは日本語入力の方がいいらしいとか。
思考の妨げにならない程度に早くタイプできる、と。

まぁ私からしてそんなスピードでタイプできるわけでもないし。
そんなに気にすることもないとは思うのだけど
少しくらい日本語入力を練習してもいいのかなぁ、とは。

確かにローマ字よりタイプの回数は減るよね。



2004年11月08日(月)

なんで情報という教科の教員免許取るのに
マルクスやらポストモダンやら調べなきゃいけないのだろう(;;

いえ、面白いからいいんですけどね。
でもレポート書くのがやたらめんどくさいというか難しいというか。
あさって後6教科のレポートって終わるんだろうか……。
恐い恐い。


ところでしっかりした本読んでると
やっぱりたくさん本を読むってことは大切だな、と思うわけです。

私の考えの中に、これから書籍というものは
その意味をあまり持たなくなるだろう、というのがあります。
ネットワークの普及などにより
書籍よりも電子データとして
広く主張がされる時代になるのではないかと。

著者のいるところでは双方向性の議論をすることが出来るし
電子データであれば検索も、関連データの収集も
容易に行われるからです。

極端な話、図書館という存在は次第に廃れ
大量の図書データを持ち、パソコンなどから閲覧できる空間に
取って代わられるのではないかとすら思っています。

その中で貸し出しを待つということも少なく
必要な書籍を司書の力を借りる事無く探すことの出来る人間が増え
静かなままに日本中、
あるいは世界中の人と多くの議論がなされる……
そんな空間が出来るんじゃないかと。

にもかかわらず、やっぱり本を読むのは大切だなぁと思うあたり
少々矛盾があるのかもしれないですが……
現状ではそれほど図書の電子データは普及しておらず
パソコンで文字列を読むのにはかなり労力を要するなど
問題がたくさんあるのでそんなに矛盾はしてないでしょう。

言い回しや歴史背景など、書籍から学ぶことが多いな、ということで
本を読むべきだと言っただけですので。

現状では書籍のような出版物に比べ
ネットに流れる情報の信頼性と重みが薄いように感じるのは
おそらく気のせいではないでしょうし。

それこそ小学生から学者にいたるまで
情報の発信者は多種多様なのですから。


さて……それよりレポートやらねば(;;



2004年11月05日(金)


どうにも、ウインドウズXPのSP2のいい噂を聞かない。

アンインストールしても調子悪いとか。
一方でIE6にまた欠陥が見つかった。
……欠陥というのはふさわしくないかもしれないけど。

弱いところを見つけるのが上手い人も居るもんです。
前に流行ったウイルス「ブラスター」についても
お金儲けに目がないビルゲイツに対する
抗議の意を含めたプログラムだったようだし。

いえ、私自身はビルゲイツがお金儲けをしているかどうかなんて
あまり関係ないんですけどね。

どこぞの米企業ではハッカー(クラッカー)の少年だかを
採用して話題を呼んでいたっけか。


さて、そろそろ部屋の掃除をするとしましょうか。



2004年11月04日(木)

なんだかんだと忙しくてなかなか日記をかけません。
……いえ、時間を取ろうとしてないだけといわれれば
それまでなんですが。

先日(火曜日)にビジネスフェアというのに行ってまいりまして。
通学でないので電車で行ったわけですが……。
お決まりのように『電車で携帯電話での通話はご遠慮ください』と。
最近メールは容認の方向になってきたのかな。
優先席付近では電源もおきりくださいとアナウンスがあるけど。

つまり、通話はご遠慮くださいというのは
電車内での会話が他の人間に対する迷惑になるということなんだよね。
さて、ここでふと疑問に思うわけです。

携帯電話が普及してからこの手のアナウンスを聞かない日はないわけだけど
携帯電話の普及する前、いや、普及してからもか、
電車での会話はご遠慮くださいという言葉を聞いたことがない。
普段の生活の中でも電車での会話がノーマナーだと
言われたことも聞いたこともない。
……いや、一度くらいあるのかもしれないが
はっきりと覚えていない程度のもの。

話し声が人に迷惑をかけるというのならば
それは電車内で友人と会話するのも変らないはずだ。
携帯電話は聞こえにくいから声量が大きくなるということもあるまい。
電車内での騒音はかなり大きく
普通の会話でも結構ボリュームを上げなければならないのだから。

確かに電車内での携帯電話は鬱陶しいが
音という観点から考えれば
電車内の雑音がかなり大きくそんなに
気にならない程度なんじゃなかろうかと。

ヘッドホンからの音漏れもしかり。


気持ちのいいものでないことは確かなんだけどね。

それにしても……
究極的に静かな空間を電車が演出できたとして
電車に乗るときはいつも図書館に居るような
静けさと共にあるなんて事になったら……
それはそれで居心地があまりよくないような気がするのは私だけだろうか?



2004年11月01日(月)

どうやら明日は立ちっぱなしになりそうなのだけれど
こういうときは靴をいいものにしないとかなりつらい。
どうするかなぁと考えたとき

1.中敷にスポンジを投入してみる。
2.スーツ姿だけど健康サンダルが一番。
3.気合の青竹踏み。もちろんスーツ姿。
4.ゴルフボールが良いらしい。
5.筋トレでいいやん、つま先立ち。
6.愛はそこにあるのか?床に座る。
7.靴のしたにマットをひいてみる。
8.ここは地獄だ、逆立ち。
9.この機会にブレイクダンスはどうだろう。


と、数々の方策を考えてみたのだが
どれも決定打にかける。
土踏まずに何かボールでも入れれば気持ちよくすごせるのかなぁと。

とりあえず緩衝材でも探して見ることにします。
始まりは通勤ラッシュの電車から。
そろそろ寝ることにしましょうか……。


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