1日雑記

2004年09月30日(木)


渦中の人。

と、まぁ……、渦中という言葉がありますよね。
揉め事やらの中心にいる人。
つい、先ほどまで『火中』だと思ってた私です。
だって、火のないところに煙は立たない、じゃないけど
良くないことって火で形容されるじゃないですかっ。
そしたら火中って感じじゃないですか!
地獄の業火に焼かれる、みたいな。
……ダメ?

そして今の変換で業火は『豪火』でないことを知る。
……こっちの方が火が強そうじゃないかぁ(TT)

時々あるんですよ、こういう妙な間違い。
一、二年前までは『奇跡』を『奇積』だと思ってたし。
奇妙な出来事がいくつも積み重なるから奇積っていうんですよ、と。

……読解力、語彙力、構成力など以前に
こういう良く分らん誤認識をどうにかしないとダメかもしれない。



2004年09月29日(水)


今更ながら、類語辞典が欲しくなる。

英語においては、慣れてくると和英よりも
類語辞典の類の方が良いらしい。
もっとも、私は英語の物が欲しいのではなく日本語の物だけど。

言われてみれば、類語辞典を必要とする機会が少なくない。
大抵ネットで調べるか、知人・両親に聞いて終わるが。
辞書を欲しいと思ったのも久しぶりである。
……もっとも、頻繁にほしくなるものでもないが。

後必要になるのは上手な辞書の活用方法といったところだろう、か。



2004年09月28日(火)

とりあえず原付の鍵が回らないという事で
購入した(中古の)店まで。
時々回るので、5分以上格闘してどうにか回し
エンジンをかけて店にいく。

鍵を外して、店の人が回らない(回りにくい)事を確認。
何所からかスプレー持ってくる。
防腐剤。
注入。
鍵、回る。
「これで暫く大丈夫だと思うから」
ありがたいこってす。
「どもー」
と、一言告げる。
店の人、店内の方に行く。
そのままエンジンをかけて颯爽と去る、私。


ぁ、お金払ってないけどよかったんだろーか……。
店内でお会計するために店の人が戻ったんじゃなかろうかと
今頃になって考えてたりします。
……うーんうーん。



2004年09月27日(月)

雨の中を気にせず原付でゴー。
もちろん雨具は着ています。

でもなぜ、股の辺り浸水してきますか。
敗れてるわけでも(多分)ないでしょうに。
毎度毎度気持悪いですよ、流石に。


水曜日(実質木曜日)から少し、
駄目人間的な生活をしてみようかと画策中。
結果として規則正しい生活に戻れればいいのだけれど。
……なんか矛盾した話なんですけどねー。



2004年09月26日(日)


そういえばノロケ話というのをあまり聞かないなぁ、と。

事ある毎に聞かされるのは
どういうわけか愚痴のような気がします。

愚痴のほうが沢山あるものなんだろうか?
それも寂しいですよね。
いや、ノロケとかそういう話に限らずです。

折角なのに暗い話題しかないのって寂しい。
そういう感覚が薄れるほど
これが当たり前のことになってしまったら
もっと寂しく、悲しいものです。



2004年09月25日(土)


貴方は何次元に生きていますか?

と、人間という物を考えたとき
私達が生きているのは何次元であるか?

恐らくほとんどの人が3次元と答え、
一部の人が4次元と答えるだろう。

3次元は縦、横、高さ(この辺は色々名称あるけど)である。
4次元はこれに時間軸を加える。

……今まで、私の中ではこういう考えであった。

さて、私達が生きている空間は縦、横、高さなので
我々は3次元に生きている。
あるいは、時間も実際に存在しているので
目には見えないが時間軸を加えた4次元に生きている。

まぁ、どちらも分るかな、と。


ここまでは何となく理解できたのですが
4次元というのは時間軸を加えるという事が
本当にあっているのか、という事。

(実は次元の話は一般的にこんな感じで知られている
 程度の話なので、理論的には色々違うとおもうんだけど。
 これはただの話のネタですので。)

例えば2次元について考える。
画面や、絵の中は2次元であるわけだ。

我々は2次元のモノを人と認識したり
動物、植物と認識する事が出来る。

もしも、この2次元の生物が、生きていてらどうなるだろう?
コンピュータで生命体を作り
それが画面の中で生きていたらどうだろう?

彼らにとって、3次元とは見えぬものである。
我々が4次元を見えないのと同じように。

2次元は縦、横で構成されている。
そして、彼らは時間の中で生きている。
ならば、3次元とは
縦、横、高さではなく、縦、横、時間によって
構成されるものになってしまうわけだ。

同じように話を拡張すると
我々にとって縦、横、高さに
時間を加える事が4次元であるというのは
間違いなのではないだろうか。

5次元の世界から見ても、やはり時間は時間であり
それとは別の要素が4軸目を構成するのではないか、と。


ところでさらに話を拡張し、
テレポートや神隠しという話にもっていくと
その見えない4軸目を利用すれば話が通ることに気づく。

2次元で言えば縦横で生きてるモノが
高さを利用し移動するのだから
2次元を生きるほかのモノに見えるはずもない。

と、そんな良く分らない話。


それにしても……
フラクタル関連の話を調べたりしている私が
こんな話をするのは滑稽にも思えるかなぁ。



2004年09月23日(木)


人生にリセットがない以上、過去を振り返り考えるよりも
これからどうするかを考える方が建設的である。

そんな事に気づいたのは会話の中で。

当たり前といえば当たり前なんだけどね。


人生だなんだと書く機会はここにあるけれど
そういう話を人とする機会はほとんどないんだよね。
私も相手も会話の中でそんな事は望んでいないのだけど。


一つ。

そういえば就職したいって考えてるところがあったのでした。
色々悩んだ末ではあるけれど。

少しだけ、道が見えた気がします。
でも私のたてたシナリオって
大体、筋書き通りに行かないんだよね。
それが面白いところでもあるんですが。
(もちろん悩みの種でもね)


一言で言って、恐らく私は悪党になりたい。



2004年09月22日(水)

今日も漫画を買ってしまいました。

色々欲しい物はあったんですが……
結局買ったのは昔読んでた雑誌で
少し印象に残った人の書いてる漫画でした。


つまるところは高河ゆん氏の
『LOVELESS』って漫画を買ってみたんです。
なんかのときに見かけた内容だったような、と。

……私が悪かったです。
ちょっとカルチャーショック。
商業誌でこういう内容があるとは知りませんでした。
私の買ってる本が偏ってるのはありますが。
まぁ気にせず全部読みましたけど。4冊。

しかも今最新刊が何巻かと調べてみたら
アニメになるとの事。
……これってアニメで何所まで放送していいのだろうか?

と、そんな折
『薔薇族』が休刊するというニュースがヤフーに。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/publishing/?1095848808
薔薇族とは男性同性愛者専門誌らしいです。
なんかもう……。


まったくどうでもいい話なのですが
どこぞの心理テストをやってみました。
『電波度チェック』
……この際、タイトルは気にしないで下さい。
友人に日記で電波出してる言われたので否定の意味で。

結果
<不思議系> 75%だか80%だか。
うむ、この手の心理テストがまったくあてにならない事を
身を持って立証できましたな。

他のテストをやっても
『不思議』やら『変』やらという言葉が見えたりしましたから
ますます信用が置けないモノと立証できたといえるでしょう。

私が不思議系だったり変だったりするわけないですから。
はっはっは……。

で、このなんともいえない遣る瀬無さの原因を
誰か説明してくれないでしょうか……。



2004年09月21日(火)

ようやく落ち着いてきました。
気持ちの方ですけどね。


さて、今日久しぶりにたくさん漫画とCD買って来ました。
8冊+3冊+1冊+アルバム1枚。

回った店の数。
12件……かな。
学校終わってからだったから
2、3時間原付乗り回してましたねぇ。

はっはっは……私ダメ人間 _| ̄|○

久しぶりに就職した人とメッセで話したら
ロスに飛んでるという話。
もう2週間になるとかなんとか。
……この落差はどこからくるのだろーか。

そろそろ……再び就職について考え始めました。
何となくSEに対して魅力をあまり感じなくなってきて。
どうしようか今更考え直してるこの頃。



2004年09月20日(月)


幸せってなんだろうなーって。

……なんか最近こんな話ばっかりで
自分でもちょっと呆れてるけど。
何のことはない、考えるきっかけは
新聞の天声人語だったわけです。

余生についての話。

後いくばくかの余生を素朴に過ごすために(だったかな)
テレビもラジオもインターネットも捨てて……とか。
大切な書物は捨てるのをためらって……
夜、犬を傍に置いてお酒を、とか。


んで、私だったらどうしたんだろうかなって考えたわけです。
テレビやインターネットや書物といった物は
あくまでも情報を得る為の手段なわけなんですよ。
それを切り捨てて一人、ゆっくりとお酒を飲める。

私なら、人との会話を至福とするんじゃないだろうか、と。

何となくそう思ったんですけどね。
現在の私は一人を結構好みますが
人生における幸せって友人の多さなんじゃなかろうかと。

そもそも日常を切り離したところに
本当に幸せなんてあるんだろうか?


どーでもいい余談です。
私自身、書籍の方がインターネットより何となく好きです。
でも、そろそろ書籍の存在意義が薄れてきたと
理性は言っています。

結局個人が書いて、情報を発信しているという点について
書籍もインターネットもほとんど変わらないんですよ。
編集とかそういう人はいますが
彼らにしてもその分野について詳しいとは限らないわけです。

ウチの大学の教授が
本を出すときに編集者が何もわかってなくて
漢字の変換とかがなってないとかぼやいてましたし。

大量の情報の整理や検索についても
書籍よりもインターネットの方が有用であると思うのは
コンピュータに依存しすぎている私だからなのでしょうか?

(本の方が多量の文章を読みやすいという利点はありますが
 プリントアウトという物もあるわけですし……)



2004年09月19日(日)


やっぱり考え方が特殊なのだろうか?
私自身の話であるが。

全部が全部そうだとは思わないが……。
一部特殊といわれればそうかもしれない。

でも、多かれ少なかれ……内容はともかく
変わった発想をしてるものだと信じて疑わないのだけど。

あえて、このことに無理やり理由をこじつける。


私自身、変わる事……自分が変わる事が恐い。
環境が変わることが恐い。
今という環境の中でずっと過ごしたいと願う。

一方で変わりたいという欲求も確かにあるのだ。

わがままだけれど
「私の望むように環境が変わり、それがずっと続く事を願う」
恐らく、これが私の望みなのだろう。

現実を見ていない。
……率直に言えばそういう事なのだと思う。
望みに限って言えば、現実を見ていないわけだ。

とはいえ、23年の中で
願えば叶うわけではないことを知っていて
無理なことは無理である事も知っている。
だから、この望みは未来永劫叶わないであろうとも知っている。

だけど、望みが望みである以上……
期待して、『綻び(ほころび)』を探しているのかもしれない。
現実のどこかに在るかもしれない綻び。
それを引っ張ると、私の望んでいない世界が
編み物の用にどんどんほつれていく。
そしてその下から本当の、私の望む世界が出てくるわけだ。

正面から見る世界は編目が見えないのだけど……
少し横から見るとアラがきっとある。
そんなものを探してまっすぐ世界を見ないのではないか、と。


冗談ですよ、上のこと。
今の状態にも満足はしている。
後悔ではなく、足りないものがあると感じる事はあるけど。


フィクションなら
これが本気でも許されるとは思うけど。
私自身の生涯をフィクションで終わらせたい。
フィクションなら許される。

謝りたくなる事が小学生……中学生もかな、あったんですよ。
全てに謝れば楽になれるのかなって。
何に対してでもなく、
純粋に謝る。
……大切なのは誤る事ではなく、
つまりは許してほしかったわけなんですが。

悪い事をしたのではなく、
純粋に楽になりたかったのだろうけれど。
当時が思春期だったから……だと思う。

まぁ、これも本心ではありません。
ただ、そういう考えも出来るな、と思うことはある。


やや、まっすぐでない思考はするけれど
実際に行動するときには
大人として境界線を引いているつもり。
……最近少しこれが怪しいけど。
思想は思想、行動は行動。
両者は密接に関係しているけど
やっぱり違うものだと思う今日この頃。



2004年09月18日(土)

今日は土曜日だったので夕飯を作る。

とりあえずビーフシチュー。
……カレー並みに手抜きです。
ルーだし。

まともなもの作れるようになりたい。


読売新聞社説
[プロ野球]「スト回避への糸口はあるはずだ」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040908ig90.htm
[プロ野球スト]「超高額所得者たちの労働組合」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040909ig91.htm
[プロ野球スト]「安心して週末のゲームを見たい」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040911ig91.htm
[プロ野球]「ファン裏切る“億万長者”のスト」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040917ig90.htm

結構、ストについて批判的な内容で
ファンを敵にまわしてるんじゃないかなぁ。


なんか色々書きたいのだけど
……どうも調子が出ません。
……はて?



2004年09月17日(金)


どういうわけか、気持ちが負の方向に働いています。

昔は良くあったのですが。
理由を何となく考えてみる。
……ここ数日、連続して電車に乗ったからだろうか?

通学が原付になってから、こういう気持ちになることは
少なかったのですが……(皆無じゃないけど)

電車に乗っていると、どういうわけか気持ちが
凄い負の方向に傾く時があるのです。
定期的に。

寝不足とか疲れの所為もあるのでしょうけれど。
どうも電車は鬼門ですね。


さて。

気持というものがあります。
気持って、容器と中身があるんですよ。
気持に余裕があるって言うでしょ?
アレは容器に対して、中身があまり多くないので
『ゆとり』があるんですよ。

だからストレスといったもの等を
もう少し詰め込んでも容器からこぼれる事はないわけです。

気持が重い、というのは容器に対して
中身がたくさん入っている事なのです。
そうすると、些細な事でイライラしたり
怒ったりしたくなるわけです。
もう『ゆとり』がないから。
あるいは溢れてしまっているから。

要するに、一杯だと良くない……とばかりも言い切れません。
ゆとりがありすぎるのは、つまり『無駄』なのです。
会社の在庫の管理みたいなもので
無駄ばかりあるのは有害になってしまうわけです。

容器に結構中身が詰まっていると
私なんかは充実と錯覚する事が良くあります。
気持に余裕がないのは忙しいからだ。
充実した日々だな、と。

でも、やっぱりこれは錯覚なんですよ。
忙しさは気持の中身を得るのじゃなくて
単純に容器が小さくなってしまっているだけだから。

容器が小さいから、中身が小さくても
あたかも、一杯であるかのように感じるわけです。

中身はともかく、容器は大きい方がいいんですよ。
『器が大きい』だって褒め言葉でしょ。
……使われどころが少し違うけれど。


忙しいときには気持に余裕が無い。
それが単純に中身が詰まっての事ならいいのだけれど
大抵の場合は容器が小さくなっている。

それが分っているから、少し悲しい。



2004年09月16日(木)


先日テレビで子供の意見……のようなものを取り上げていた。

先の見えない日本、
散々たまった先代のツケ、
希望が持てない未来。

その全てが、概ね同意のできる内容のものであった。

ただ、思う。
確かに現状の日本は、よろしいとは言えない。
未来に嘆く、大人を批判する子供の気持は良く分る。

……が、戦後の焼け野原に比べてどうだろうか、と。
あの頃よりも辛いといえるだろうか、と。


悩みを持つのは裕福な証拠なのではないだろうか、と。



2004年09月15日(水)


他人のことを分る。
他人のことをわかろうとする。

その必要性と意味がどれほどあるのだろうか。

相手のことをわかろうとするのは
「必要」なのだろうか?
自分がただ
「満足」するための手段でしかない。
そうは考えられないだろうか?

……いや、
理解されたいという欲求が人にある限り
理解するという事は必要なのか……。

理解されたいという欲求そのものが
理解、価値観の相違を生み出し
それがすれ違いにつながる。
そういう事はないのだろうか?

不確定。
それほど厄介なものは無い。

人の心ってのは、他人にとっては不確定なもの。
自分にとっても不確定なものかもしれない。

……やっぱりあれでしょうかね、
不確定性原理といわれるように……
世界そのものが我々にとって不確定で構成されている以上
人もまた、不確定なのかなぁ。

分るって、確定するって事なんだよね。



2004年09月14日(火)

出来た、出来ないやらでちょっと。
子供ですけどね。
……私のことじゃないですよ。

そういう話をしたわけです。
(相談されたというか)

正直、私に一体どーしろと。
聞く相手が間違ってます。


とはいえ、
話……というか相談うけて
いくつかいってやりたい事はあったわけですが
相手を追い詰める事が言えるわけもなく。


私ならこう考えるといっても憶測の域を抜けないわけです。
もちろんそれがヒントとなって
相手がどうにかするきっかけになればいいのだけど
多分そうもなりそうも無いなーという事で。


まったく対応のしようがないわけじゃないというか……
正直なところ、意見述べるだけなら簡単なんですよ。
だけど、考えはあるけど、相手の人生を
私の判断で左右したくないというか。
自分のことは自分で考えるというのが私の信念ですし。

一応意見を求められる形のとき、
私の意見はこういうものだよ、と気づいて欲しいという事を
暗に会話に含めるようにしたんだけど
やっぱり気づかれないだろうなぁ……。
もう少し文案やら練ってから対応考えます。



2004年09月13日(月)

いってきました学会の発表会。
……正装していったんですが
こういう日に限って残暑が厳しい。

南北線。
……何とかメトロ。
ホームになんかガラスの壁みたいのがあって
落下しないようになってました。
ちょっと近代っぽくてなんかビックリ。

しかし会費が高い。
学生員なんで一番やすけどそれでも2000円。
アルバイトしてない身にはつらいです。
時間長いから論文集も買う。
3000円。

……5000円の散財。
その上東大の学食はたかかったです。
アレ学食なのかわからんけど。
アルバイトしてないと痛い。

その上報告義務が出来やがりまして。
予定していた事キャンセルする事に。
……楽しみだったのに。
何より人に迷惑かけてるのがちょっと辛い。



2004年09月12日(日)

秋。

着る物がなかったのでちょっと買出し。
行くときになって友人でも誘えばよかったかなとも思ったけれど。
……ユニクロだし、まぁいいかと結論付ける。

適当に数着みつくろって買ってまいりました。
少し大きかったかなぁ……。


さて明日は学会に聞きに行ってまいります。
天下の東京大学。
そろそろ寝ないとね。



2004年09月11日(土)


在る、という事。
居る、という事。

それが一体どういう事なのか。
人間の存在やら……
例えばデカルトは『我思う故に我在り』といったり
哲学者が色々考えているかもしれません。

そういう難しい話ではなく、
存在するという事がどういう事なのか。
純粋にそのことについて考えてみました。

さて……まず、目の前に人が立っているとしましょう。
『そこに人は居ます。』
何故そこに居ると判断したのかといえば
五感により、感じているからです。

この場合、恐らく視覚で判断しているでしょう。
仮に目を瞑っていても
前に歩くとぶつかります。
そうすれば触覚によりそこに人が居ると気づく事ができるでしょう。
あるいは何か香水の類をつけていれば
嗅覚でも判断できるかもしれませんし、
話し声が聞こえれば聴覚で判断できるでしょう。

逆に言えば、人はただ、五感により
そこに存在していると判断しているだけにすぎないのです。

もっとはっきり言えば、そこに存在していなくても
五感が感じ取れば存在していることになるわけです。

……そんな事はありえないでしょうか?

でも実際に機械の手袋をはめて
画面上の物体に『擬似的』に触れるような装置は
かなり前から存在しています。
これは触覚という感覚……
つまり、この場合で言えば
手に感じる抵抗を機械が表現したにすぎないのです。

では、それは存在しているといえるでしょうか?
恐らく、100人いたら100人が
実際には存在していないというでしょう。

そう、画面の中で視覚として
その物体をとらえていながら、
尚且つ、触覚を感じていながらも
それはあくまでヴァーチャルリアリティなのです。


ここで、一つの境界線がひかれています。


……さて、
仮に、この大気の中になにか小さな物質が
いつの間にか満たされているとするわけです。

目に見えないもの。

それは、錬金術が出来る不思議な物質です。
水素に中性子と電子を付与することで
自由自在な元素を生成するわけです。
それは、大気中の粒子を
自在にあつめてくることのできる不思議な物質でした。

その物質とは実は遠隔で命令を察知し
指定された元素に水素や酸素を変化させます。
それはコンピュータによって制御されているものでした。


そして、ここに一人の人間がいました。
彼は、突然人にぶつかったと感じました。
肩と肩がぶつかる。
彼はその接触した感覚からそう判断するに至ったわけです。
ところが、そこを見ても誰も居ない。

例えば、肩の部分に擬似的な抵抗を加えてやれば
このように錯覚するわけです。

錯覚といいましたが……
つまりのところ、五感全てを錯覚させる事が出来たとき
この世界の何を実際のものとして信用したらいいのか、という事です。

もう少し違う言い方をすれば……
ヴァーチャルリアルと現実の境界線を何所に設定すればよくなるか、
という事です。

あくまで未来予想図でしかありませんが。
まぁ可能性の問題なんですけどね。



2004年09月10日(金)

まったくもって心外ではありますが
時々、『変』とか
極稀に、『悪』とか言われる事があります。

まぁ私が冗談で言って
それに対しての反応である事が多いのですが……
問題があるとするとならば
冗談めかして言ってるけど
実は本気なんですって事が少なくない事でしょうか。

そういう事があると
ホントに変なところがあるんじゃないかと心配になります。
……そういう面がまったく無いとは言いませんが。
概ね平凡だと自負してるので、ちょっとだけ。


さて。
テスト勉強が進んでません。
明日テストです。

泣きたいときに泣けばすっきりするというけれど
当面、泣いてすっきりしても勉強は進まないので
あくび噛み殺して進めるしかないんでしょうね。
……単位落としたら泣くことにします。



2004年09月09日(木)


学校に向かうため、今日も原付にのって
颯爽(?)と向かうわけです。

信号が赤だったので、ゆっくりとブレーキをかけます。
何気なく横の歩道をみる。
なんで鶏が歩いてますか?

いや、歩いてたんですよ、鶏がトコトコと。
あと少しも歩けば交通量の多い大通りなのに。
危ないのに。

とはいえ、無力な私でした。


鶏といえば小学校飼育小屋で買われていた鶏が
凶暴でこわかったんですよね。
通称ホワイト。

掃除で飼育小屋とかあるんですが
この鶏とのやり取りは皆必死でした。
懐かしい思い出です。


―――ちなみに
今日の夕食、鶏肉でした。
美味しかったなぁ。
……ぁ、恐い想像しないで下さいよ?
他意はありませんので。
えぇ、ホントに。


いぇ、ホントに買ってきたやつです。
路上の鶏は流石に食べません。



2004年09月08日(水)


「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」

……さて、ここで答えが白雪姫になったおかげで
元ナンバー1の美しさを持っていた継母(王妃)は
白雪姫を殺そうとするわけです。

詳細は違うかもしれないけど
たしか概ね、こういう話だったと思う。


さて……
物語だから、といえばそれまでなのですが
鏡の解について考えていたら色々と。

一番美しい。
これは難しいのです。
ミスコンテスト……などというものがあります。
(もう死語かも知れないけれど)
一番美しい者を選ぶコンテストですが
審査員は一人ではありません。

何故か?

簡単です。価値観……というか
誰を、どのようなものを美しいと思うかは
その人それぞれで違うからです。

多くの人が綺麗だと認めるような人は居るでしょうか
絶対的に、この人が一番だ、ということはあり得ません。

民族、種族の違いという事もあります。
世界で一番の美少女といわれる外国人の人が居たとしても
日本人であれば日本人のほうが
美しいと思う人もいることでしょう。

では、ここで『鏡』が答えた世界で一番の美女が
何故、白雪姫だったのか、と。
継母がまったく知らない美女でもなく
白雪姫だったのか、と。


鏡。
―――自分を映し出す。
漫画などでは真実を映す鏡やら……
自分を映すという事を色々な捕らえ方しています。


鏡が映し出すものは
継母の心だったのではないか、と。

美女だと認めたのは鏡でも他でもない
継母自身だったのではないか……などと考えました。
紛れも無い、嫉妬を映し出したわけです。

あるいは、鏡に映った醜くなった自分に対する憎悪、か。
そんなところです。



しかし……
数々ある鏡のなかで
まともなものを映したものってないんじゃないだろうか?
っていうか事実を映すものですね。

普通の鏡は左右が逆になってるわけだし。
事実を映すもの、かぁ……。



2004年09月07日(火)

ふと、匂いの記憶と味の記憶、音の記憶について考えた。

どれも実体がないわけだ。
しかしこの中で、匂いに関する記憶が薄いのは私だけなのだろうか?


触覚、視覚については実体が存在し
よく接する事があるため記憶としてとらえやすい。
特に視覚は、我々の生活の大半を占め、
記憶のおおくは映像の形をとることが多いのだ。

音の記憶もいいだろう。
音楽を口ずさむこと、
頭でメロディーを思い起こすなど。

味はどうだろうか?
これも問題ないとおもう。
食感という感覚が含まれるために
関連付けが出来ているせいかもしれないが。

ところが匂いの記憶となると……
いや、記憶としては存在するのだが
思い返すことがあまりないのだ。

私がにおいに無頓着なだけなのかもしれないが。
少なくとも『〜の匂いを思い出して』といわれて
素直に思い出せる自信はない。

いい香りは好きなのだが
嫌いな匂いと紙一重ということもある。

素晴らしい香りは強すぎれば気分が悪くなる。
弱い香りはなれてしまうと何も感じなくなる。

これほど扱いにくい感覚が他にあろうか?



2004年09月06日(月)

コンタクトレンズにして困ったことといえば
目のクマがはっきり見えることだろうか。

メガネのフチ(私のメガネはフチありです)が
上手い具合に……でもないかも知れないが
クマをごまかしていたのは事実である。

が、コンタクトにしたとたん、目の周りの肌荒れ……とでもいうのか
あまりよろしくないことに気づく。
困ったもんです。


ロシアではどうも犠牲者は500人(死者だけで)を越えそうである。

狂っている、と言うのは簡単だ。
どこかが間違っているというのも簡単だ。
そしてそれが事実なら、まだ救いがあると思うのは私だけなのだろうか?

正常な精神にして起きる悲劇であることこそ
憂いるべきなのかもしれない。


<追記>
この日記書いた直後に
http://www.nhk.or.jp/kdns/_wakaran/04/0904.html
というのを見ました。

NHKの『週刊こどもニュース』という番組の
『今週のわからん』というコーナーでの解説です。

今回の北オセチアについての
事の発端……なぜ、テロが起きるのかということの
時代背景について子供がわかるように説明しています。

物事を難しく捉えがち、説明しがちなまま
それが当たり前のこととして良くわからないで話を聞く
我々大人が読んでも分かりやすく
非常にためになります。

それを読んだ上で感じた事と言えば
やはり憎悪が憎悪を生んでいるだけなんですよね。

なんといいますか―――
この事件を痛む人間は多いが
その歴史背景を知しらないで云々(うんぬん)言ってる
私みたいな人間も多いのかなぁ……。
なんというか、自分が間抜けに思えてきた。



2004年09月05日(日)

夕食を食べに居間に行ったら妹が泣いている。
何事かな?と思ったら
どうもロシアの人質事件での
とある話を聞いて泣いているようだ。

実に330人、死傷者は人質の8割に上る。
死者の内半分は子供という話もある。

さて、親は知識としてではなく、
本能として子を守る。
馬であってもイルカであっても
生まれた子供の扱いは分っているわけだ。

人種・種族は別として
子供を守るという本能があるわけだ。

ところが今回は『神』の名の下に
子供に対して銃口を向ける。
そこに居る神とはなんであるのだろうか?


宗教の価値観は時として理解の範疇を超える。
私は漠然と、神というものは信じていないが
厚い信仰を持つ人間からしてみれば
私は奇妙極まりないかもしれない。

宗教による価値観がもたらすものは
戦争や争いであり、
それは昔もいまも変わらない。

精神的なものであっても
彼らは神の為に死ねるし
それにより幸福であると感じるわけだ。

人は、無駄な殺しをする。
生きるため、以外のことで多くのモノを殺している。
それが子供であるか、大人であるかなどという事は別にして。

そういう残虐な面を持っていながらも
やはり子供を保護するべきだと考えるのは
必然なのであろう。

とりあえずのところ
神の名の下に子供に銃を向ける事がゆるされるのであれば
私はその神を信用しない。



2004年09月04日(土)

最近気づいたのだけれど、結構怒りっぽいのかもしれない。


基本的には、怒らない人間だと思っていたのですが
最近は些細な事で結構イラついてしまいます。
それが『最近』のことなのかどうか良く分りませんが。

もっとも、中学くらいまではよくキレて居ました。
高校では落ち着いていましたけれど。
年とともに落ち着いた……と言えなくもない気もするし
卒業するときに記念にクラスで発行した
クラスメイト一人一人に送る手紙集みたいなものに
「恐い印象がありました」
と書かれたことが起因しているかもしれませんが。
アレ以来おとなしくなったような。

と、原因は不明瞭ですが
高校じゃほとんど怒ってませんね。

そういうことがありまして
怒りっぽいのは心に余裕がないからかなとも思うわけです。
……っていうかカルシウムが足りないだけでしょうか?
うぁ、それが一番心当たりがある。



2004年09月03日(金)


なんか頭を使っていない。
考えるべき事はあるのだろうけど。


以下、適当に書きます。

太古の記憶が細胞に刻まれているならそれは振動である。
万物は振動からなり、始まりから終わりまで
記憶、歴史、ありとあらゆる事が振動により発生するのだ。

フーリエ、という人がいた。
あらゆる関数は三角関数で表現できる、と説いたのだ。
いわゆる、フーリエ解析である。

我々が使っているパソコンは2進法により成っている。
画像、音楽、文字からOS、プログラムまで。
パソコンは0か1であり
その組み合わせにより自由度の高いものを実現している。

さて、このふたつを組み合わせるとどうなるか。
細胞……いや、遺伝子、さらにはもっと小さなものの
一つ一つが固有の振動を持ち、その組み合わせにより
記憶や行動が制御されているとしたら、である。

事象は遺伝子一つ一つに振動の変化、
あるいは振動の根源となるものの組み合わせに変化を与えるのだ。

我々は遺伝子を受け継いでいる。
その中に、太古の記憶と同じ振動を持つモノが存在しているのだ。
それが太古の記憶が体に刻み込まれている可能性である。



2004年09月01日(水)

考えるから弱いのか
弱いから考えるのか

考えたから弱くなったのか
弱かったから考えるようになったのか


人について考えてみた。

そして一つ、気づいた事がある。
「強い」という言葉が一切出てこないのだ。

人は、強いでしょうか?


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