メモを取ろうとして、インクが出ないことに気がついた。 透明なホルダーの中に黒いインクはまだまだ溜まっているはずなのに 紙の上に何度もペン先を走らせようとも、0.28mmのボールに回転せよと 念じようとも正確な黒い線が、紙に道筋を作ることはなく かすれた模様と、紙に小さな跡を残すだけだった。
わたしは小さくため息をついて、近くに置いていたティッシュペーパーを手に取る。 丁寧に2枚の薄い紙を分離させ、引っ付いていた面にペンを走らせる。
「こうするとね、出るんだよ。」
と、あのひとは教えてくれた。 丁寧に字を書くひとで、大学ノートに細いペン先で刻まれていく字を 隣で眺めているのがわたしはすきだった。
ふと、なんでもないことのように彼のことを思い出すことにちいさくわたしは驚いた。 驚いて。それから、なんでもないことのようにちいさく微笑んだ。
こうやっていつの間にか過去になっていって。 過ぎていくうちに少しずつ記憶からこぼれおちていって。 けれどなにもなかったかのようには、きっとならない。
何度かティッシュの表面を往復させたあと、 再び紙の上を走らせるけれど、インクが黒い線を形作ることはなかった。 丁寧にはぐくんでも枯れてしまったり、直そうともがいても直らないものもあるように。 壊れて、しまったのだ。
わたしは小さく苦笑して。 引き出しの隅っこに、ボールペンをしまう。 直ることはないけれど。 急いで捨てることもない。
もう少し。
死んでしまった恋が、静かに眠ってしまうまで。
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