駅は嫌いだ。 行きと帰り、わたしは毎回同じようなことを思う。 朝は今から待つ仕事にため息をつき 夜はくたびれた服に背筋が曲がる。 大抵、駅を行きかう人々は同じような顔をしている。 みんな大抵表情がない。そしてわたしもその一部だ。
仕事帰り、わたしはぼんやりとした頭でホームを歩いていた。 今日の仕事のこと、明日も待っている仕事のこと。 家に帰っても癒しなんてこれっぽっちもない。 ふぅとため息をついたとき、前を歩いていたサラリーマンが何かを落としたのが目に入った。
「あ、落ちましたよ。」
と、慌てて拾おうとするとそれは小さな人形だった。 いや、間違い。それは小さな小さな人だった。 前にいるサラリーマンを、親指姫サイズにしたような。 わたしはびっくりして、小さな人をまじまじと見つめた。
「あなた、何?」 「…おれは心。あれはおれの体。」 「…心?あなた、置いていかれちゃってるわよ。」 「いいんだ。もう。」
見ると、サラリーマンは落としたことすら気づかないように ふらりふらりとした足取りで、あっという間に行ってしまった。 わたしはもう一度小さい人を見つめる。 そして小さい人を、潰してしまわないよう用心して手のひらに乗せた。
「なんだ?お前。どうしておれにかまう。」 「だって行くところないんでしょう?家においで。どうせひとりなの。」
そう言ってしまうと、小さい人が何か言う前に ポケットの中に小さい人をこっそりとしまいこんだ。
家に帰ると、小さいころ集めていた人形の家をひっぱりだして その家に小さい人を招待した。 ベッドも椅子も小さい人にぴったりのサイズで、わたしは思わず笑った。
「とっておいてよかったわ。ねぇ、気に入ってくれた?」
小さい人は黙ったままだった。 まぁ心を落とすくらいだし、何か嫌なことでもあったのだろう。 わたしはそう思い、気にしなかった。 夕飯にご飯粒を2粒と、ハンバーグをほんのひとかけら、それからキャベツの千切りを一本小さなお皿に載せて小さな人に差し出した。 小さな人は何も言わず、全部食べきった。
「ねぇ、なんで心を落としたの?」
わたしが聞くと、小さな人はむっとした表情でわたしを見つめた。 が、大きなため息をひとつついて話し始めた。
「何もかも嫌になったんだよ。小さな世界に閉じ込められてるようで。」 「あ、それ分かる。わたしも同じ。」 「へぇ。能天気そうな顔してるのにな。」 「失礼ね。」
そういうと、初めて小さい人は笑った。 ほんの小さく、笑った。 わたしがそれに驚いたのに気づいたのか、小さい人はまた不機嫌そうな顔になり無言のままベッドにもぐりこんだ。
「もう寝るの?おやすみ。」
返事はなかった。
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それからわたしと小さい人は、一緒に暮らし始めた。 小さい人は何週間たっても、相変わらず無口で不機嫌だった。 けれどわたしは嬉しかった。 なぜだか分からないけれど、小さな人との小さな生活が楽しかった。
小さな人は、時々わたしに「自分の体のこと」を聞いた。
「駅でおれ見たか?」 「…小さな人の本体のこと?見てないわ。」 「…そうか、ならいい。」
わたしは気づかなかった。 気づきたくなかったのかもしれない。 小さな人は、ある日突然言った。
「おれ、帰るよ。」 「え?どこへ?」 「自分の体に。」 「え?なぜ?狭い世界が嫌だといっていたのに?」
小さな人は椅子にすわり、ゆっくりわたしを見上げて言った。 とても低い声で。とても冷たい瞳で。
「…ここでも同じってことに、気づいた。結局どこに逃げたって一緒なんだ。小さな世界に閉じ込められてるのは体じゃなく心だって、ようやく分かった。」 「…。」 「おれは自分の殻の中で、閉じこもっていたんだな。きっとお前も。」 「ここから、いなくなってしまうの?」
わたしは震える声でそう言った。 小さな人は、少しだけ、ほんの少しだけ微笑んで言った。
「お前には感謝してる。」 「そんなこと、」 「ありがとう。」 「わたしは、そういう言葉が欲しいわけじゃ、ないの。」 「でも一緒にはいれない。ここにはいれない。俺の居場所はここじゃないんだ。」 「……。」 「さよなら、元気でな。」
そういって、小さな人はいってしまった。 わたしは再びひとりになってしまった部屋で うずくまって、泣いた。思っていたよりもずっと、寂しくて泣いた。 小さな小さなこの部屋ですら、わたしには広くて。
小さな人との生活に寄り添っていたのはわたしだった。 誰かにいて欲しかったのはわたしだった。 慰めて欲しかったのはわたしだった。 先に歩き出してしまった小さな人に置いていかれて、初めてそのことに気づいて。 バカみたいだと、泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて。 泣きつかれてその夜は眠った。
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相変わらず、駅は嫌いだった。 今からまたため息しか出ない職場に行って。 部屋に帰っても、わたしは一人。 なんて孤独な、小さな世界だろう。
心を、落としてしまいたいと思った。 そのときだった。
「そんな歩きかたしてると、落し物しますよ。」
聞き覚えのある声。 わたしが驚いて振り向くと、すれ違う人影の中に もう小さくはない、あの小さな人の顔が わたしに柔らかく、微笑むような笑顔が、見えた気がした。
「あ…ちいさなひ…」
呼び止めようとしたわたしの声は 通り過ぎる人たちにさえぎられ、小さな人の姿は消えてしまっていた。 わたしは、小さな人の笑顔をそっと思い出す。 小さな人の言葉ひとつずつを必死で思い出す。
小さな人も、歩いている。 なにかを背負いながらも、歩いている。 みんなきっと同じようになにかを背負って歩いている。
わたしは背筋をぐっと伸ばした。 わたしのことを知っていてくれる人がいる。 そのひとも精一杯歩いている。
「ありがとう小さな人。さようなら、元気で。」
小さな人のしゃんとした背中を思い浮かべてそっとつぶやいた。 もう心は、落とさない。
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