無常 - 2001年04月29日(日) 爽やかな青空が広がるGWの日曜日。 お爺さんはラグビー見物に、お婆さんは牡丹見物に、それぞれ出払った後の遅い朝。 びーち親子は、残りご飯にカブの葉っぱの煮付けと塩鮭を乗せてお茶漬け、というおしゃれなブランチを楽しんでいた。 この連休は、娘が学校の遠足で鎌倉に行く他に、外出の予定はない。 親子で背中あわせに座って、ブラウン管と液晶モニターに向かい、ときどきマウスとコントローラーを交換して、向きが逆になるだけの休日になるのだろう。 いきおい、ブランチの話題はパソの話になる。 最近、macromedia社の高機能なソフトを搭載した娘のFMVで、HPを移転、リニューアルしたのだが、驚くほど色々なことが簡単にできる。 自分のオンボロマックでの苦労は何だったのだろうと思う今日この頃である。 「しかし、あのパソでよくやってたよねぇ。おかあさんは、割り箸で石を彫っていたような気がしてきたぞ」 「まだ水の方が効き目があるよね」 「うむ、千年もすれば、見事に削れるからな」 「『無常感』だよ、おかーさん」 「・・カッ・・コォ〜〜〜ン! てか?」 「ゆく川の流れは絶えずして」 「ん? カモか?」 「しかも、もとの水にあらず」 「カモだな。・・・なんだか正岡子規のときみたいだねぇ」 「古典の先生がうるさいんだよ『無常感』『無常感』ってさ」 「ふぅ〜ん」 「年々薄くなるアンタの髪が『無常』だよ、って感じ?」 「ち! ちげえねぇ」(鬼平風) 「ひゅるる〜〜〜」 「ちげえねぇ、が、な、そいつぁ言っちゃあなんねぇ、ってもんだぜ、びー坊」(鬼平風) 「だぁってぇ〜、古典の先生、語るんだもん、ザ・語り過ぎ、だよ」 ・・・・・・・ その後、これを書くにあたって、古典の教科書を娘に持ってこさせた。 もちろん『方丈記』からの引用部分を確認するためである。 句点を含めてたった18文字の引用部分だが、あまりにも有名な一文に間違いがあったら、親子で赤っ恥だ。(それ以前の問題のような気もするが) 「ねぇ、びー子、見てごらん」 「どれ?」 「鴨長明って、(かものちゃうめい)ってルビふってあるよ」 「ふんふん」←(ゲーム中なのでナマ返事である) 「なんか、『ちゃうめい』って、食べ物みたいじゃない?」 「うまそ〜」 「けっこうイケるかもね」 「うん、しょうゆ味がいいな」 ・・・・・・・ 我が家の無常、かくのごとし。 濃い味で、焦げ目もつけた方がうまいカモ。 ... 隣りの犬 - 2001年04月25日(水) 娘もそれなりにお年頃・・・の、はずである。 そして、娘は犬が大好きである。 したがって、 「あ〜〜! 誰か、犬を連れて、俺をデートに誘ってくれ〜〜!」 と、叫ぶのである。 うむ、おかあさんは、ちょっぴり心配だ。 という日曜日の夜、サザエさんを見ていたら、カツオが、上級生の女の子の気をひこうと、隣りのイササカさんちのハチを借りて出かけていく、というくだりがあった。 「うわ、カツオ、ちょ〜最低!」 「きゃあ〜、かわいい♪ と、思ったら、隣りの犬だった、って、最低だよねぇ、おかーさん」 「イササカさんちのハチ借りちゃうんだよ〜〜、もう、もう、さいて〜〜!」 「チクショウ、こんな手もあるんだよなぁ」 と、怒るやら、納得するやら・・・。 最後のジャンケンに勝って、少し機嫌をよくした娘は、総括をした。 「うむ、今日のサザエさんは教訓になったということだな」 うぅむ・・・おかあさんは、かなり心配になってきたぞ。 ... 点滴喫茶 - 2001年04月17日(火) 風邪が直らない母が、点滴をしたいというので、歩いても5分とかからない距離のかかりつけの医院まで、母を乗せて運転して行った。 実際、一方通行があるので、車で行くより歩いた方が時間的には早い。 お腹に来る風邪なので、罹患して以来、食べられない、食べられないと大騒ぎ。 それで点滴なのだろうが、医者に行く午後4時の段階で、私より確実に食べている。 朝も昼も食べられなかった私に対して、朝は雑炊、昼は蜂蜜トーストにポテトスープ、と、母は既に2食を完食しているのだ。 ルームミラーに映る私の顔色は、助手席の病人よりかなり青かった。 枕を並べて、点滴したほうがいいのかもしれない。 そういえば、娘が小さい時にお世話になっていたS医院は、先生がすぐに「点滴〜〜!」と叫ぶので、風邪の流行るシーズンには、狭い処置室で、老若男女が枕を並べて点滴をすることになる。 一時、我が家に居候していた病弱な友人も、S医院の常連だった。 そして、彼女が命名したS医院の別名が「点滴喫茶」である。 点滴喫茶S医院で、癒しの時間を共有するひとときの語らいを♪ たしかに、団地の1階にある小さな医院は、アットホームな雰囲気で良かった。 先生は常に大声で怒鳴っていて、悪態つき放題だったが、本当は面倒見の良い優しい人だったし、看護婦さんたちは、みんな明るくて親切だった。 ただ、先生の大声は待合室まで響くので、尿の色から体重の増減まで、全部筒抜けだし、気さくな看護婦さんは、ご近所の噂話を惜しみなく漏らしてくれるので、思わぬ情報まで耳に入ってしまう。 守秘義務もプライバシーもあったもんじゃないのは、ちょっと問題かもしれないけれど、医者も患者も看護婦も、みんなでわいわいしてて楽しかった。 もう何年もお世話になっていないが、先生はお元気だろうか。 久しぶりに、行ってみようかな、「点滴喫茶」 ... IF類 - 2001年04月11日(水) 日記を読み返して愕然とした。 「もし○○○○たら、××××かもしれない」 情けないこの言いまわしが、てんこ盛り! できることなら絶滅してほしい「IF類」が横行している。 まことに遺憾である。 ・・・・・・・ ●モシ‐タラ mosi-tara 【IF類ウシロムキ目グチ科】 比較的浅薄な水域に広く分布する魚で、年間漁獲量も豊富。 個体の大きさ、形は、それぞれの棲息域により多種多様である。 色はブルーが入っているものがほとんどだが、若い個体では桃色の斑も認められる。 主に、ゴ貝、コウ貝、アレ藻、コレ藻などを餌に成長することが確認されている。 また、ゲンジツプランクトンの大発生によるハンセイヒト潮で、大量死する例が各地で報告されている。 身にはやや苦味があり、特に、裏身(ウラミ)や面身(ツラミ)の部分には、習慣性を有する毒素ボンノーアルデヒドが含まれているので、生食を続けるのは有害である。 やや味は落ちるが、食用には、天日干しなどの加工処理を施したものが望ましい。 ●モシ‐タラ‐カモ mosi-tara-kamo 【IF類コウカイ目サキニタタズ科】 その名の通り、モシ‐タラを食べる鳥で、モシ‐タラの魚群とともに移動する。 飛ぶ前に待つ習性があるので、首が長くなるのが特徴。主に夜行性。 その繁殖には謎が多いが、脆弱な個体の場合自家中毒を発生しやすく、託卵する例も認められている。 体内のミレン酸がモシ‐タラの持つ毒素ボンノーアルデヒドと結合することによって、その肝臓は肥大し、独特の甘味を有するようになる。 これが、俗にウツツヌカス肝と呼ばれる珍味だが、脳の神経を麻痺させる物質が含まれているので、常食は避けるべきである。 ・・・・・・・ というわけで、遺憾図鑑IF類の項より抜粋して、本日の補足とさせていただきます。 なお、日記の編集上、『青い瞳』は昨日付に変更しましたが、書いたのは、4月11日の未明です。 ... 青い瞳 - 2001年04月10日(火) 細かいパーツに分解して、その部品を、いろんな所に撒いちゃった。 もしもロボットだとしたら、そんな感じなのかもしれない。 近鉄線、京阪電車、叡山電車、大阪環状線、阪急電車、東海道新幹線。 師団街道、四条通、川端通、塩小路、堀河通、竹田街道、東名高速。 ここ数年に移動した鉄道や道路に、点々と、私のかけらが落ちているんじゃないだろうか。 道路脇の草むらや、線路端の敷石の隙間で、破片に埋まったダイオードが、思い出したように発光したり、ちぎれたケーブルの先が、ジジジ・・とショートしたりしているんじゃないだろうか。 とにかく、すっかりバラバラだ。 ・・・・・・・ ぼんやりと眺めていたTVで、メル・ギブソンを見たら、いきなり京阪電車にワープした。 土手になびくススキの穂、競馬場のシルエット、昇ったばかりの巨大な満月、そして、メル・ギブソンみたいな青い瞳。 その日、同行した講師が、青い瞳のイギリス人だったのだ。 当時、私は京都に住んでいて、英会話スクールの仕事をしていた。 本業は絵描きさんだというその講師と、淀の教室の仕事を終えた帰り道、安いスーパーに寄って買い物をした。 彼がいっぱい梨を買っていたから、きっと秋のはじめのことだったのだろう。 余所者だという点において、異邦人の講師たちと、関東人の私の立場が似ていたからかもしれない。 物腰は柔らかいのだが、つかみどころのない京都人と話すより、たどたどしい英語で彼らと話す方が、なんとなく気安い感じがしたものだ。 京阪電車の緑色のシートに座り、半分開けた窓から吹き込む風に吹かれながら、食べ物の話や京都の家賃のこと、かなり短くなった私の髪型のことなんかを話していた。 そして、私が降りる駅のホームが見えてきたとき、青い瞳の彼が尋ねた。 「いつまで京都にいるの?」 「わからない」 と、私は答えて電車を降りた。 See you ! たぶんその頃だ。 自分のダメージが、かなり深刻な状況にあることに、薄々気がついていながら、何食わぬ顔をして働きつづけようとしていたのは。 もし、もう少し傷が浅かったら、今頃、メル・ギブソンみたいな青い瞳のボーイフレンドと、鴨川べりを散策していたかもしれない。 まったく、惜しいことをしたものである。 ・・・・・・・ 多少の無理はしかたない。 でも、無茶はするもんじゃない。 あ、あと、法螺話も、ほどほどにした方が身のためだろうな。 ... シナプス - 2001年04月08日(日) 固有名詞が出てこない。 他のことは全部思い出せるのに、名前だけが出てこない。 夏目雅子や、モーツァルトや、中原中也や、アンディ・フグや、星野道夫より長生きしてしまうと、ままあることなのだろうが、とにかく接続が悪い。 そんな時、シナプスはベストを尽くそうとして頑張る。 どうにかして目的のニューロンに触手を届かせようと伸びるのだ。 (NHKで放映した脳の番組のCGを思い出す) しかし無念にも届かず、近辺の似たようなポイントにペタっとくっつくことがある。 その結果、脳内には、もっとややこしい状況が展開される。 (注:上の2行は、まったく科学的根拠のない私の想像である) 「アンディ・ウォーホール」が「ウィリアム・ホールデン」になったり、「ペットボトル」が「ポストスクリプト」になったりすると、近い(?)だけに、回路の修正は余計に難しくなるのだ。 その点、コンピューターは繋がるか、切れるか、二つにひとつ。 「そうね、だいたいね〜」というのがない。 いいかげんな間違いをすることもないかわり、察してくれることもない。 と、ここまでは長い前置。 そして、本題に繋がるかどうかは・・・わからない。 本日のトピックスは、ネット以外で久々に電話を使ったことだった。 今月はIT講習会の生徒で、来月はIT講習会の先生になるという彼女と、パソコンの話しになった。 「“念転送”モードのあるFTP・・・いいよね」 「“以心伝心 ver.1.0.2”な〜んちゃって?」 静岡に住む彼女に、地震見舞いの一報を入れたはずだったのだが、なぜか、画期的なFTPソフトの企画と、その製品名が決まってしまった。 本当に開発できれば、シナプスの劣化に悩む多くの人々にとって、朗報になることだろう。 ドクター中松も、貞子もびっくりの大発明だ。 ・・・・・・・ 夜、娘と二人で『スピード』を見ていた。 これでもか、これでもかと、ノンストップで展開していく画面を眺めながら、滞りがちな時間と、切れぎれの記憶の虚空に、ゆるゆると、しかし懸命に触手を伸ばしているシナプスのことを思った。 がんばれ。 ... フェイドアウト - 2001年04月02日(月) 顔を洗って、休む。 シャンプーをして、休む。 身体を半分洗って、休む。 もう半分を洗って、休む。 いつから入浴が重労働のようになってしまったんだろう。 ぜいぜい・・・バスタブに入ろう。 “お風呂で食った食った”のシャケのヒモを引っ張って遊ぶのにも、がんばりが必要だ。 ガチョガチョガチョガチョ・・・ぱくり。 あは、こりゃ楽しい。 やっぱり引っ張ってよかった。 でも、なんだか息苦しい。窓を開けよう。 青空だ。 窓際に置いてあるピンク色のパナソニック防滴ラヂオ、 スウィッチを入れてみた。 ガァ〜〜〜・・ぶぉい・・ピィ〜〜〜・・うわぅ・・ザァ〜〜〜 810を目指して、チューニングダイアルをまわす。 なんだか懐かしいロックが流れてきた。 誰の何という曲だったかな? 思い出せない。 チュ―ニング、合ってないな。 ああ、この曲も知ってる。 誰の何という曲だったかな? 思い出せない。 FENと青空って、似合うよね。 今日は外もあったかそうだ。 思い出せない。 思い出せない。 お・も・い・だ・せ・な・・・い・・・ って、こりゃ貧血だよ! ・・・・・・・ 入浴時の事故に注意しましょう。 ... 流れ者の遺伝子 - 2001年04月01日(日) 大正十一年の正月 ――略―― 極南、鵞鑾鼻の地にて旭日を拝す 太平洋金波銀波の初日出 大洋に瑞雲たなびく初日出 祖父の俳句日記の冒頭である。 先日、母が伯父の家から思わぬものを持ち帰った。 母方の祖父の遺品で、「翰墨緑 九華堂寶記」という銘がある二冊の帳面である。 たぶん当時販売されていた日記帳のようなものであろう、同じ形のを二冊を買い求め、俳句は緑、短歌は赤、と、罫線の刷り色で使い分けている。 印刷された罫線は、たぶん木版刷りだと思う。顔料の発色が柔らかい。 薄い和紙は、かなり黄ばんではいるが、頁を繰るのに何の不安もないほどの強度を保っており、毛筆で細かに記された文字の墨の色は褪せることなく瑞々しい。 そして、和綴に使われた絹糸は、いまだしなやかさを失っていない。 素晴らしきかな、東洋のテクノロジー。 私が生まれる前に他界した祖父に、こんな形で出遇えたのはしあわせである。 句の巧拙はさておき、台湾の最南端の岬に立つ若き日の祖父は、私にとっては顔も知らない人なのに、無性に懐かしい。 今はダムの底に沈む、月山の麓の寒村に生まれた祖父は、貧しさに追われるようにして、幼い頃に一家で台湾に渡ったので、山形出身なのに雪を知らなかったそうだ。 自分が定住型じゃないDNAを受け継いでいるのは、なんとなく感じていたが、また一つ根拠が発見された気分である。 先年、私はふるさとと思える風景を夢に見、それが現実にこの国に存在する土地であることに魂を揺さぶられた。 そして、その山野に帰属したいと切望したのだが、どうやら山野の方が、流れ者のDNAを受け入れてくれなかったようである。 夢に見た山がなくなってしまったのだ。 三度目にその地を訪れた夏の日、宅地開発のために山は崩されつつあり、風景そのものが変わりかけていた。 拒絶するのは人の心だとばかり思っていたが、山や野も、それが人の手によるものとはいえ、こんな形で拒絶するものなのか・・・。 ついに、最後に訪れた冬の日には、不自然なかたちに切り取られた山を車窓に見て、打ちのめされる思いで目を伏せたのだった。 流れ者の遺伝子は、車窓に、船上に、機上に、そして路上に運ばれて、望むと望まざるとに関わらず、とどまることができないのかもしれない。 曽祖父(私の母の母の父、前述の祖父にとっては義父にあたる)は、明治時代にアメリカを目指して小笠原に渡り、何かの船に乗り込んだものの、嵐に遭ってトラック諸島のポナペに漂着し、彼の地で宣教師になった。 その後、どういう経緯かハワイに渡り、ついには当初の目的地のアメリカ本土で奨学金を得、ちゃっかり大学にまで行ってから帰国しているのである。 この話は、ある基督教系の大学の先生が、曽祖父の研究論文を書くために、祖母のところに聞き取り調査に訪れて明らかになった。 何も知らなかった末裔の親族一同はびっくり仰天したのだが、私にとっては、どこかで「なるほどね」と合点がいく話でもあったのだった。 ついでに言えば、今は隠居ぐらしの父は、外国航路の船乗りだったし、現在アトランタ駐在の弟は、通算で8年もアメリカで暮らしていたりする。 とまれ、今は祖父の話だ。 山形から台湾、内地に戻ってまた満州へ。 働きながら独学で得た知識と人脈で、満州に渡った頃には、かなり豊かな生活をしていたらしい。 しかし、敗戦。 着の身着のままで引き揚げた直後に病に倒れ、品川の六畳一間の仮住まいで亡くなった。 華やかな満州時代と赤貧の品川暮らしについては、母から耳にタコができるほど聞かされていたが、この二冊にはそれ以前の祖父の姿がある。 ぱらぱらと頁をめくっていくと、恒春、高雄、大阪、奈良、京都、さまざまな土地のこと、移動中の車窓や船中のこと、四季それぞれに感じたことを言葉にした句が、歌がある。 一冊の厚さが5mmほどの小冊子、本当にささやかだけれど、初めて触れる祖父の香りである。 ゆっくり味わってみよう。 ・・・・・・・ ちなみに今、娘が春休みの宿題で、ハワイ州を紹介するプリントの英文和訳をしている。 たかが田舎の市立高校のくせに、この秋、修学旅行でハワイに行くのだ。 ハワイの州の魚は“フムフムヌクヌクアプア”、州の鳥は“ネイネイ”、州の樹は“ろうそくの樹”だそうだ。 もし玄孫(やしゃご)にあたる娘が、修学旅行でハワイに行くことを知ったら、曽祖父は笑うだろうか。 ...
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