ひとりびっち・R...びーち

 

 

いつかスズメになる日 - 2001年05月23日(水)

 未明に目が覚めてぼんやりしていると、まだ薄暗いうちからスズメたちの鳴き声が聞こえてくる。
 隣家の屋根やTVのアンテナ、コテツ(実家の犬)の餌入れのあるガレージなどを、忙しく移動しているのがわかる。

 今、近隣にいるスズメの群れには、子スズメがいる。
 親たちより少し小さく細身な彼らは、飛び方もまだ心もとなくて、よく親に遅れてちゅんちゅん鳴いている。
 きっと、子スズメが迷子にならないように、ひっきりなしに鳴きかわしているのだろう。
 
 一昨日はスズメたちの群れに、姿も鳴き声も違う鳥が2羽混じっていた。
 10倍の双眼鏡を使って見てみると、大きさはスズメとほぼ同じだが、かなり細身でオリーブ色に黄色のまだら模様だった。
 昨年の暮れに衝動買いしそうになった“ローランド・カナリア”によく似ている。
 小さな銀の鈴を振った時のような、高音で澄んだ鳴き声もよく似ている。
 鳥を見る目はまったくないので断言はできないが、たぶん迷子になって野生化したカナリアだろう。
 空を自由に飛びながら歌うその鳥の声は、ペットショップの小さな竹籠の中から聞こえた声より、数倍のびやかに響いていたように思う。

 そんなこんなで、心身のレベルゲージが低めで推移していると、じーっと窓から見える鳥たちをウォッチングして一日を終える日が続く。

 ここはひとつ、デジカメで小鳥たちを撮影しようと試みたのだが、3倍ズーム&オートフォーカスのマイカメラでは、一番近い隣家のアンテナに止まっているスズメですら、小さな影にしか写らない。

 せめてもう少し手前の、隣家の雨どいまで近づいてくれないかと思い、食パンをちぎって撒いてみた(お隣りさんごめんなさい)。
 しかし、餌付け(?)を始めて今日で3日目だが、私が待っているうちは近寄らず、次に見るとパン屑がきれいさっぱりなくなっているという状態が続いている。
 魚に餌だけ持って行かれる時のむなしさに近いものがあるが、早朝、3Fの窓から隣家の屋根めがけて、パン屑を全力投球している強肩の中年女性の姿は、ボウズで家路を辿る黄昏の釣り人に、勝るとも劣らない悲哀に満ちているかもしれない。

 ・・・・・・・

 「おかーさん、何してんのー?」

 「餌付け」

 「だぁぁーーっ」

 彼女は今、中間テストの真っ最中。
 登校前の慌しい時間、スズメたちの動向にも、夢見がちの母親の動向にも、そうそうつきあってはいられない。
 
 その後、昼に帰ってきた娘と、窓越しに雨の中の子スズメを眺めながら、ハムとチーズときゅうりのサンドウィッチをほおばっていた。

 ・・・・・・・

 「あのさー、朝起きたらおかーさんがスズメになってたりしてさー」

 「パソコンの縁に止まってちゅんちゅん・・・ちょっと怖いねー」

 「スズメになると、やっぱりカナ入力かなぁ」

 「なんで?二本足タイプだったら、ローマ字のほうが楽かもよ」

 「スズメだとさー、キーボードはけっこう重いのに、ローマ字だとふたつずつ押さなきゃなんないよー」

  ・・・・・・・

 スズメになった母親の入力方法まで心配してくれるなんて、なんて親孝行な娘なんだろう。

  ・・・・・・・

 「ところでスズメになっちゃうと、保険はおりるのかなー」

 「どうだろう、スズメになっても生きてるワケだから、おりないんじゃないかなぁ」

 「じゃ、スズメで死んだ場合はどうなんだろう」

 「契約したのは人間のおかあさんだからね、スズメになったおかあさんだと難癖つけて保険金払わないんじゃない?」

 「そうかー、ダメかー」

  ・・・・・・・

 「なんか、今日一日、ずーっとスズメになったおかーさんのことを考えそうだな、困ったなー」

 そう言い残すと、娘は夜のテスト勉強に備えるという名目で、昼寝の床に直行した。
 うなされなければいいが・・・。



...

カーテンコール - 2001年05月17日(木)

 高層ビルのシルエットが浮かび上がる夕暮れの新宿、朝のうち降っていた雨も上がって、ばら色の雲がガラスの壁面に反射して万華鏡のようだ。

 新宿の南口にタカシマヤと東急ハンズが開店して話題を集めたのは何年前だったか。
 開店当初、30分もあれば行けるところに暮らしていたのに、一度も足を運ぶことはなかった。
 松本行きの特急「あずさ」や、埼京線が行き交うホームと平行して南に伸びているデッキ風の歩道に、「タイムズスクウェア」という名がついていることも、今日初めて知った。

 まあ、1年京都にいても、観光地にはほとんど行っていないから、暮らしてしまえば案外そんなものなのだろう。
 当時は物見遊山で新しいデパートに出かけるほどヒマじゃなかったのだ。きっと。 

 さて、今日の行き先は、そのタカシマヤと東急ハンズの先にあるはずの「紀伊国屋サザンシアター」である。
 突然舞い込んできた2名様ご招待のチケット、通常なら母が出かけるところだが都合がつかず、娘と私で行くことになったのだ。
 体調に不安はあったが、娘と一緒なら何とかなるだろう。
 娘にとっては、お子ちゃまミュージカルの『オズの魔法使い』以来のお芝居、初めてのオトナの演劇だ。

 小劇場系の芝居と聞いて、私は理由もなく1階もしくは地下の小屋と決めつけていた。
 ビルの上階に劇場があるとは思わず、ふらふらと空の写真を撮っているうちに、うっかり紀伊国屋書店ビルを通り越してしまった。
 しかし、娘がめざとくエレベーターの前に掲示してあったポスターをチェックしていたので、無事開演前にたどりつくことができたのだった。

 入り口でいろいろな芝居のチラシが挟まったパンフレットを受け取る。
 そのずっしり重い紙の束に、劇場は新しく清潔だが、この世界はあいかわらずなのかなぁ、と思う。
 昔は、芝居を見に行くと、入り口付近に各劇団のチラシ配り隊がいて、あっというまにファイル一冊分ぐらいのチラシを持たされたものだ。

 好きで、ただ好きで、寝食を忘れて芝居に打ち込む若い人たち。
 TVやCMで稼いだ金を、自分の劇団の舞台につぎ込む俳優さんたち。
 贔屓の劇団の公演のためなら、会社を休むぐらい何とも思わない熱狂的なファン。
 本当に特殊な世界だ。

 特殊といえば、宝塚や歌舞伎はもっと凄いらしいが、ちょっと魔界の森が深そうなので、この際、触れないでおこう。

 アナウンスが流れる。

 劇団M.O.P.第36回公演 『黒いハンカチーフ』 の開演だ。
 
 作・演出をしているマキノ・ノゾミ氏は、NHKのドラマの脚本も手がけている人だし、公演回数からして、小劇場系でも中堅どころなのかもしれない。
 私が演劇を見なくなり、劇評も読まなくなってから長い月日が流れているので、劇団のカラーも何も知らない。
 見覚えのある役者も一人もいない。
 まったく白紙の状態というのも初めての経験で、席についた時点で疲れていたものの、少し楽しみだった。

 で、ここまで前置きが長くて、1行で済ませるのは心苦しいが、要約するとこういう芝居。

 軽妙洒脱な詐欺師のお話。

 ・・・・・・・

   ※万が一、劇団関係者、及びファンの方がいらっしゃったらごめんなさい。

    脚本、巧かったです。どんでん返しもそれなりにやられました。
    役者さんたち、上手でした。
    美術さん、シンプルだけど効果的な演出のできるセットでした。

 ・・・・・・・

 最後のどんでん返しに笑いつつ暗転。
 
 拍手。
 
 役者さんたちの挨拶。
 
 拍手。
 
 幕が降りる。

 拍手止む。

 え? 止んじゃうの?
 
 カーテンコールもなし。はい、おしまい。

 ・・・・・・・

 はぁ。

 軽いとは思っていたけど、ここまであっさり??

 面白かったね〜、と、コミックス一冊読んだ後のように、連れと談笑する若者。
 さくさくと劇場から出て、スペースシップのブリッジのような空調の効いた渡り廊下を駅に向かう観客。
 芝居を見た後で、ここまで軽く乾いた感じなのは初めてだった。
 この世界も様変わりしたということなのか、それとも、この劇団のカラーなのかを考えあぐねて、ふと、隣りを見ると、娘が目をキラキラさせている。

 「おかーさん、私、あーゆーの、作ってみたい」
 
 「面白かったの?」

 「うん」

 そうか、もしかしたら、変わったのは私なのかもしれない。
 あちこちガタがきても、モノを感じる力だけは衰えていないつもりでいたのが、このザマである。
 
 さわやかな夜風が高層ビルの谷間を吹き抜けていく。
 今までに観たいろいろな芝居の、いろいろな場面が、ビルのてっぺんの赤いランプのように点滅している。
 
 ・・・・・・・

 時は70年代、終劇の予兆に、役者も観客も一体となって臨界点に達したとき、紅いテントが舞台の裏で翻る。
 紅テントが “向こう側” に抜けるのだ。
 冷たい外気と、テントにこもった凄まじい熱気が渦を巻く。
 異空間への扉が開き、彼岸への道標のように、新宿花園神社の灯篭が揺れている。

 それはそれは形容しがたいほど濃密な空間で、紅テントを観た後は、なかなか此岸に戻れない感覚に陥ったものだ。
 きっと、私の目玉は、今の娘以上にキラキラ(もしくは虚ろ)になっていたのだろう。

 ・・・・・・・

 そして幾星霜。
 当時、魔術師のように思っていた唐十郎は、今やどこかのドラ息子の再教育を請け負う親父になっているし、美術学校の学園祭で、一緒に芝居をした仲間の何人かは本当に彼の岸へ渡ってしまっている。

 ・・・・・・・

 「でもなー、お芝居って、お絵描きよりお金にならなそうだよね」

 「まぁね」

 「うん、ちゃんとわかってるんだー。だから、ちょっと面白そうでも、手は出さない」

 「そっか、でも芝居って、やるのはまぢで楽しいぞ、チームプレイとしては、最高の一体感だしね」

 「いい仲間と好きなことやるのは楽しそうだけど、ビンボーはイヤ」

 ・・・・・・・

 リアリストの娘は、夢見がちな私の錨みたいなもんだな。
 もうしばらくの間は、漂流しなくて済みそうだ。
 私も、夢とうつつの隙間で、カーテンコールまでもう少し頑張ってみるか。




...

マシュマロマンの思い出 - 2001年05月14日(月)

※りんぜさん、大変お待たせいたしました。

 ・・・・・・・

 ず、ずぅ〜〜〜ん、どっし〜ん、どっし〜〜ん・・・

 東京タワーにはゴジラ、京都駅にはガメラ、エンパイアステートにはキングコング・・・。
 大怪獣が現れて都市を破壊するシーンは特撮モノのハイライト、一種のカタルシスである。

 前回、のりきっちゃんちのトップページにあった“デブ猫型大地震発生?”の、街並みと巨大(?)グーちゃんの合成画像は、そんな数々の名画の1シーンを彷彿させた。

 そして、現れるモノ数々あれど、一番インパクトが強かったのはマシュマロマンであろう。
 ご存知のように映画『ゴーストバスターズ』に登場する、巨大化したらぶり〜な商標である。

 かわいい猫のグーちゃんが巨大化した図は、どうしたってマシュマロマンを思い出さずにはいられない。

 ・・・・・・・

 『ゴーストバスターズ』は、私が唯一プレミア試写で観た映画である。

 当時、デヴュー作がバカ売れしたマンガ家の男の子がいた。
 そのN君とは、若い頃、某マンガ家さん宅でアシスタント仲間だったのだが、それぞれ別の事をするようになってもつきあいが続いていた。

 売れ始めたマンガ家というのは、編集から下にも置かぬ扱いを受ける。
 今考えれば、まったく無責任だと思うのだが、バブルの真っ最中ということもあって、飲み食いタダは当たり前、この映画が見たいといえば、白いカバーのプレミア席に、ご一行様でご招待となる。
 数ヶ月前には4畳半の下宿でカップ焼きソバをすすり、夢は中古車を手に入れて、かわいい彼女とドライブすることだった貧乏学生が、新車付きで白亜のマンションの住人になっていたりするのだった。

 その後、彼はお金の感覚が麻痺して人が変わったようになり、少し売れなくなった時にはずいぶん可哀想な境遇になった。
 手のひらを返すような編集のやり方に憤りを感じるとともに、お金の持つ魔力を知ったような出来事だった。

 おっと、話が横道にそれてしまった。
 マシュマロマンに戻ろう。

 そんな旧友のおこぼれに預かって、中華料理の豪華フルコース付き『ゴーストバスターズ』に招待されたのだが、その時私は臨月の妊婦、お腹の中にいたのが、今は屈強な女子高生のびー子である。

 軽いコメディだから妊婦でもOKだし、栄養もつくからおいでよ〜、というわけで、亭主もほったらかして(まだその頃は配偶者がいたんだっけ)、のこのこ新宿まで出かけて観た『ゴーストバスターズ』、マシュマロマンの出現で大爆笑したとき、お腹の中でびー子がじたばた、ぐるぐるぐるっ! と動いたのだった。

 普通、臨月に入ると位置も安定して、向きを変えることはほとんどないのだそうだ。

 次の検診で医者に行ったとき、先生がびっくりである。

 「あれぇ? この子、こっち向きだっけ??」

 「はぁ?」

 「この前は確か右向いてたのに、まるっきり逆になってる…何かあった?」

 むみゅう…マシュマロマンで大笑いとも言えない。
 
 「いや、ちょこっと笑ったら動いたんですよぅ」

 「ふーん、ちょこっと、ねぇ…」

 他に異常がなかったので、先生もにやにやしながら、一見落着となった。

 ・・・・・・・

 その後、何度かTVで放映されている『ゴーストバスターズ』だが、初めて娘と一緒に見たとき、彼女がマシュマロマンで大ウケ、ひっくり返って爆笑している姿を見て、妙に納得した気分になった私だった。




...

“つばめ” で飛んだ日 - 2001年05月10日(木)

 ※今回は少々腹が立っているので、一部実名報道です。

 ・・・・・・・

  「おかーさーん、クルマにはねられたーー」

 脳味噌瞬間沸騰。心臓爆裂。

 本人がのんきな声で電話しているのだから死んではいない、落ち着け!

  「で、怪我は?!」

  「なんともなーい」

  「で、相手は?!」

  「行っちゃったー」

  「何ぃ? 逃げたのかっ!!」

 脳味噌メルトダウン。アドレナリン全開。

  「何か覚えてないの?」

  「つばめタクシーだった」

  「わかった、すぐ行く、そこで待ってろ」

 私は、タクシー会社に電話を入れておくように母に言い残すと、娘の待つ現場へ車を飛ばした。

 小雨の中、不安げに立っている娘の姿を確認してようやく一安心。
 大きな怪我はしていないようだ。
 問いただしても、どこも痛くないと言う。
 しかし、事故の後の興奮状態を考えると、本人の言う事を鵜呑みにはできない。
 私自身、交通事故で膝の骨が剥き出しになるほどの大怪我をしたのだが、その時は痛みも感じず、自力で立ちあがった経験がある。
 そもそも医者嫌いの上に、小さい頃から、血が出ていても「だいじょうぶっ!」と言い張る娘の言葉を信じるつもりはないのだ。

 こういう時に彼女を真剣にさせる手はこれしかない。

  「びー坊、ちゃんと点検して! 擦り傷ひとつでも、これはお金の問題なんだ」

 悲しいかな、目先の小金に一喜一憂する貧乏な母子家庭に育った彼女は、お金のことになると、とたんにシビアになる。
 やおら、両手をピグモンのようにぶらぶらしたり、赤ベコのように首を振ったり、シコを踏んだりし始めた。

 おいおい、それじゃ、円谷プロの準備運動だ。

 まあ、その姿を腰に手を当てて見守っている私も、寝起きでパジャマ同然のいでたちなのだから、その場を通りかかった人々はさぞかし可笑しかったに違いない。

  「えーん、どこも痛くないよぅ、お金取れないかもぉー」

 おいおい、それじゃ、アタリ屋だ。

 しかし、どういう風にぶつかったのかを聞くと、相手のドライバーの前方不注意に間違いないし、自転車の壊れ方からして、彼女が無傷というのは考えられない。

 “つばめタクシー” 断固許すまじ、である。

 とりあえずは、彼女の興奮がおさまって、痛みを感じる状態になるまで様子を見るしかないと判断、走行不能になった自転車をその場に残し、娘を乗せて学校へ報告に向かう。
 一応皆勤賞もかかっているので、担任の先生と相談したのだが、やはり病院に行って検査を受け、一日休んで安静にしていた方が良いということになった。
 そして、時間の経過とともに、彼女の左脚にくっきりと大きな青痣が現れてきた。
 予想通りである。

 また、幸いなことに、我々には強い味方がいた。親切な目撃者の方である。
 私が到着した時には、すでに仕事先に向かわれた後だったが、「何かあったら協力します」と、娘が名刺を頂戴していた。

 いったん実家に戻り、タクシー会社に電話を入れると、第一報では、「女子学生がぶつかってきたらしい」とトボケていた事故係も、病院の手配をはじめ、一転して低姿勢の対応である。
 むろん、これには私の留守中に電話の応対をした母の強硬姿勢も功を奏している。

 あたりまえだ。
 2種免で自転車の未成年を「ひき逃げ」となったら、ドライバー人生に終止符という事態にもなりかねない。
 我々が、その場で警察を呼ばなかったことに感謝するべきなのだ。
 何がどうであれ、ぶつかって、名前も名乗らずにその場を立ち去るのは言語道断である。

 その後、病院でレントゲンを撮り、骨に異常が無いことを確認、全治10日の打撲と診断された。
 あなどれない相手だと判断したのか、病院にドライバーと事故係もやってきて平謝りだが、今更遅い。
 私を怒らせた後に何をやっても無駄というものだ。
 そして、事故現場での実況検分、警察署での調書作成と続き、朝ののんきな一報から数時間後には、業務上過失障害が一件、送検されることとあいなった。

 ・・・・・・・

 実は、四半世紀前の私の交通事故だが、やはり加害者は “つばめタクシー” だったのだ。
 DAX HONDAで、優先道路を(珍しく)制限速度で直進していた私を、右折で出てきて7mもはね飛ばしたのである。
 受験まであと一ヶ月というときに、一ヶ月の入院。
 おまけに、20数センチの裂傷が膝に残った。

 娘の口から、相手が “つばめ” と聞いた瞬間に、遺恨試合のゴングは鳴り響いていたのだ。
 
 ・・・・・・・

 まったくもって、親子揃って “つばめ” に飛ばされるなんて、語り草だ。

 「ともあれ無事で良かった」
 「不幸中の幸いだった」

 これまでの人生、私は幾度となくこの言葉を贈られてきた。
 確かに、今息をしている事を不思議に思うことも度々である。
 しかし、こんなことを受け継いでもらいたくはない。

 娘には、「不幸中の幸い」ではなく、「幸い」に生きてほしいと切に願う、デンジャラスな母親である。

 意気揚揚と迎えのタクシーに乗り込む娘を、寝不足に霞む目で見送った朝だった。



...

午後のラッパ - 2001年05月07日(月)

 ふと窓の外に目をやると、隣家の屋根とステンレス製の物干し竿に区切られた狭い空を、消えかかった飛行機雲が一筋、うっすらと横切っていく。

 この窓からは見えないが、6m道路を隔てたお向かいの敷地では、新築工事の重機の音が響き、裏手のお宅の庭先からは、重機の音に負けじと鳴いている、スズメやクロツグミ、キジバトの声が聞こえてくる。

 風も吹いている。

 昨日まで、傍らでごろごろしていた娘も学校に行った。

 平日が戻ってきたんだ。

 久しぶりに日記でも書こう。

 ・・・・・・・

 話しは少し長くなる。

 ・・・・・・・

 今は昔、私が高校生だった頃、Fさんという未亡人がいた。
 息子さんしかいなかったので、女の子を連れてお出かけするのが珍しかったのかもしれない。
 銀座のロードショウ、デパートのショッピングなどに、よく誘っていただいた。
 亡くなったご主人の事業を引き継いで、社長さんでもあったFさんのお供をすると、千疋屋パーラーのフルーツパフェや、帝国ホテルのサンドウィッチと銀のポットに入ったコーヒー、隠れた名店の仏蘭西料理など、当時の高校生の口にはそうそう入らない、贅沢なものをごちそうになって、他愛ないおしゃべりができる。
 楽しくておいしいお出かけだった。

 そんなFさんで、忘れられないエピソードがある。

 映画の話だった。

 「Nちゃん、Nちゃん、すっごい映画が来るんだって、これ、絶対Nちゃん好みよ」
 「えっと、何て言ったかな・・・えーっと、えーっと・・・」
 「そうそう、『午後のラッパ』!」

 ―― しばしの間あり ――

 「おばさん・・それって『ブリキの太鼓』じゃない?」

 「そうそう、『ブリキの太鼓』!」
 「Nちゃんが読みそうな翻訳モノの原作でさ、面白そうなのよね」

 ―― 何事もなかったように、会話はつづく ――

 まあ、言う方もラッパなら、それで分かる方も太鼓な話である。

 ・・・・・・・

 ぷっぷくぷー♪
 
 ・・・・・・・

 以下本題に入るのだが、事の発端は、連休の始まりとともにやってきた歯痛だった。

 昨年、治療中に歯どころじゃない事態に見舞われて、放置したままになっている欠けた奥歯が、猛烈に痛くなってきたのだ。
 歯医者嫌いの私も、さすがにこれは、と思い、ずいぶん前になるが、お世話になったことのある歯医者さんに予約を取ろうと決心した。

 「どこの歯医者さんに行くの?」 と、母。
 「うん、△△町の 『下村さん』 」 と、私。

 ここ2回の引越しで、住所録も診察券入れも、すべて棄ててしまったので、電話番号がわからない。
 タウンページで調べるべく、歯科のページを繰っていた。

 ・・・ない。

 △△町の該当する所番地に、『下村歯科』 はなかった。
 閉めてしまったのだろうか。

 1万5千分の1の地図をべろべろっと広げて、もう一度住所を確認する。

 「おい、何を調べてるんだ?」 と、父まで登場。
 「いや、ちょっと、その、歯医者さんを、ね・・」

 そのときになって、やっと私は自分の記憶装置の故障に思い至ったのである。
 
 もしかしたら、『下村さん』 じゃなかったかもしれない。
 さっきまで確信をもっていた名前が、あっという間に靄につつまれていく。

 そうだ、『西村さん』 だったかも・・・

 再びタウンページを探す。

 ・・・ない。

 いや、『西原歯科』だったかな・・・

 ・・・ない。

 先生の顔も、入り口のドアも、窓にかかったブラインドの色も、歯磨き指導をしてくれる大柄な女性の腕の形まで思い出せるのに、名前だけが空白。

 ・・・まただ!

 もはや、頭の中は靄どころではない。
 イエローページでホワイトアウトである。

 翌日、もう直接行くしかない、と、鎮痛剤で朦朧とする頭を抱えて、隣町まで運転していった。
 幸いなことに、運転と道順をつかさどる回路は無事のようで、オートパイロットが作動しているかのように、10分で歯医者さんに着いた。

 恐る恐る看板を見上げる。
 イヤ〜な予感。

 『神田歯科』

 う、やっぱり・・・。
 
 ぜ・ん・ぜ・ん・ち・が・う。

 ・・・・・・・

 ぷっぷくぷー♪

 ・・・・・・・

 雨上がりの青空に、高らかに午後のラッパが鳴り響く。

 ドアに掛けられた “本日休診” のプレートに、底無しの脱力感が漂う。

 思えば、私はあの頃のFさんの年齢を通り越している。
 病気じゃなくても、結構こんなものなのかもしれないな、と、一人、車の中で笑いながら、どこかで、『ブリキの太鼓』の少年のように、悲鳴を上げている私もいるのだった。
 
 ※文中に使用した歯医者さんの名称は仮名です。


...




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