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2001年03月31日(土) 花凍え

寒い〜。花冷えを通り越して花凍えですわ。
昨日四谷の土手を歩きながら、お花見の人々や場所とりをする人々を観察しておったんでございますが、あの方たちは昨夜からの寒さにやられなかったでしょうかねぇ。ていうか途中から雨?お花見は中止でしょうか。

昨日は夫が飲み会で遅くなる、というので父が出張で不在の実家に泊ったんですが、一戸建てというのは寒いもので、もう居間の石油ファンヒーターの前に座りっぱなしでしたわ。これがまた臭くなるんだわね。すすけたような灯油の匂い。

自分の部屋(まだあるのね、半分以上母の部屋と化してますが)でネットにつないだり(そもそも母のマシンがここにあるというのがねぇ)してたんですが、燃料費倹約のため母の部屋に移動。実家は無線LANにしてあって、発信元は二世帯住宅の子世帯(つまり兄のところ)にあるのですが、電波の状態は私の部屋が一番よくて母の部屋が一番厳しい。で、そこでちまちまと昨日の分の日記を更新したりネットを徘徊してたりしたら兄と姪が入ってきて、やがて兄嫁もきて珍しく三人(+1)で歓談など。姪は発音がしっかりしてきて、カタコトながら話すようになってきたのでまたまたかまうのが面白くなってきました。時たま「イヤぁ〜ん」と悩ましげな声を出すのは、やはり兄嫁の影響でしょうか。
いったんお昼を食べるので解散したあと今度は私が兄世帯に遊びにいって散々姪で遊んだあと、戻って母と話をしていたらそこへまたちびっこギャング登場。バナナを立て続けに2本平らげて、もっと欲しい!と泣き喚いておりました。食欲大魔人。身内としてはちょっと将来が心配。

帰りは大渋滞でバスがなかなかこず、すっかり凍えてしまいました。桜の花が長持ちするのはいいけど、このまま黒ずんじゃったりしないんでしょうかねぇ。


2001年03月30日(金) 四谷くわいだん

月に1〜2度ほど四谷周辺にいくことがある。
家から行って用事を済ませてからまた直接帰ってくる分には問題ないのだが、四谷からさらにどこかへ寄ろうとすると、うまくいかないことが多い。四谷はJRと営団地下鉄が通っており、それぞれ総武線と中央線、丸の内線と南北線が利用できる便利な駅である。にもかかわらず、何かしら失敗する。

私はもともと東京でも南東京の人間というか、大体中央線より南、山手線周辺より西側(山手線というのは環状線だが、実は赤羽線部分と京浜東北線部分と山手線部分からなりたっているらしい。その山手線部分)が安心して動けるテリトリーらしい。そのテリトリーを外れると間違いがないよう下調べもするが、なまじ四谷というのはグレイゾーンというか、本人は概念的にわかっているつもりなので始末が悪い。

丸の内線に乗るつもりが南北線の改札を通ってしまう、南北線に乗ろうとして思いのほか長い待ち時間を食らってしまう、中央線に乗れば早いのに総武線に乗ってしまう、飯田橋に行くつもりなのに千葉方面の電車を見送って中野方面行きに乗ろうとしてしまう、などなど。自分で書いていて情けなくなってきた。まあ南北線の待ち時間は運が悪いという理由もつけられるが、事前に時刻表を調べておけば済む話ではある。

今日も四谷に行き、新宿の伊勢丹に寄るつもりで「帰りは丸の内線で新宿三丁目駅だな」などと算段していたにもかかわらず、乗る段になって「新宿なら中央線が近い」などと思い返し、ふと気づけば総武線のホームで「新宿・中野方面行き」を確認して乗ろうとしているところだった。あれ?と思った時にはもう隣のホームに中央線が滑り込んでいてあっという間に視界から消えていった。時間をかけて新宿駅まで行き、地下鉄一駅分歩いてデパートに行き、気に入ったものがなくてまた高島屋まで歩いて行き、買い物を済ませてひとつ手前の駅だった代々木駅から電車に乗った。よく歩いたことである。

むー。なぜ四谷はこんなに難しいのだ。
強いて言い訳するなら駅の地理的な問題もあると思う。四谷ではお堀に沿う形で地上からはるか低いところをJRと丸の内線が平行して通っている。丸の内線は地下鉄の分際でありながらJRより高いところに位置している。それがそもそもややこしい。しかもJRの駅は丸の内線と土手にはさまれた切通しのようになっているので、とっさに景色から進行方向を判断するのは難しい。地上からは駅に近づくまで線路やホームが見えないというのもあるだろうか。自分はこっちの方面に進むんだ、という心の準備ができないような気がする。

ホームへの階段を降りるときからすでに方向感覚を失っている。げに奇怪なる四谷階段なのである。


2001年03月29日(木) へなちょこな文章

こう見えても私はへなちょこなので、ばりばりに気合が入ってたりぱつんぱつんに頑張っているモノが苦手だ。ちょっと空気が抜けた風船みたいにへにょへにょしているのが性に合っている。ファッションもそう。隙のない着こなしは疲れるし、第一気恥ずかしい。

声高なものは苦手だ。文章でもしゃべり方でも。あと大げさな表現や強い語調も勘弁して欲しい、と思う。なんとなくエネルギーの無駄遣いのような気がするのだ。淡々と過不足なく言いたいことを順々と書いてあり、時々くすっと笑ってしまうような遊び心のある文章が好きだ。へにょへにょに力の抜けた文章でありながら鋭い真実をさりげなく書いてあったりすると、読んでいてクラクラッと来る。あとはリズムが感じられればなおよし。

自分でもそういう文章を書きたいと常々思ってはいるものの、放っておくと私も案外固い文章を書いてしまうほうだ。そのため実は力が抜けたようにするために校正を割と念入りにやったりしている。それこそエネルギーの無駄遣いというなかれ。これは私の美意識というか見栄の問題なのだ(笑)。


2001年03月28日(水) お外ランチ・怒る女

今日は午後から打ち合わせがあって、丁度夫もその頃恵比寿方面に行くというので、一緒に出て外でお昼を食べることにした。
JRで恵比寿へ。銀行をはしごして2〜3用事を済ませてから代官山方面へ歩き出す。この辺は「昔」よく行っていたので土地勘はあるが、なにしろバブリーな時代だったので、ずいぶん町並みも違うだろうと思いつつぶらぶら。
ちょっと路地を入ったところにある、こぎれいな庭付きのフランス料理店を借景にした「ビストロ」と書いたオープンエアの「イタリア料理店」に入る。席につくと店員が「昼のメニューはカレーだけになります。」という。んが?ビストロでイタリアンでカレー?ふーむ。カレーは苦手である。が、夫はカレーが好きなのでたまには付き合うか、と覚悟を決める。一番マイルドだというナスとひき肉のカレーを頼む。夫は「大辛にしてください」などと私に差をつけて、「うーん毛が立っちゃうなぁ」などといいながら「小恵比・寿カレー」という小海老入りのカレーを食べて満足げ。
お勘定の時に「ご一緒でいいですか」と聞かれたのが新鮮な感じ。そっか。私もスーツだったので、お仕事モードと思われたのか。なるほど。

腹ごなしにさらにぶらぶら。喫茶店を探しながら歩くが、どこもランチタイムでお茶だけのお店はない。ちょっと洒落た家具や雑貨を売っているお店があったので、かねてより懸案のセンターテーブルを物色したり。ついに代官山駅まで行ってしまうが、そこで時間切れ。結局また恵比寿まで戻ってスターバックスでずずず。解散。

やっぱり楽しいなぁ、と思う。うちの近所とは「オシャレさ」が違う。ふらっと家から散歩に出られたらこんなところは最高である。住みたい、と思うけれどやっぱり子供がいたらもう少し野暮ったいところで子育てしたいなぁとか、この辺に住んでいたら何かと外食してエンゲル係数がべらぼうに高くなりそうだなぁとか、住宅ローンの返済が始まったばかりで寝ぼけたことを考えたり。
打ち合わせのあとデパートで洋服を見たりして、帰りは夕方。最近めっきり物欲が衰えているので、故意に自分を刺激してみる。

帰りの電車の中で突然「あぶない!」という声。座っている二人づれのご婦人にかばんが当たりかけたらしい。「びっくりしたわねぇ」と聞こえよがしにひそひそ。かばんの持ち主はまじめそうな若い女性。あやまるでもなく憮然とした表情でご婦人の前に立つ。なんだか全身から「怒」というオーラが立ち上っている。それからばつが悪くなったのか足元も荒々しく扉付近へ行き、落ち着く間もなくまたご婦人方の前を通り抜けて一つ隣のブロックへ。何が彼女をそんなに不機嫌にさせてるんだろうなぁ。そしてさらに乗客をかき分けながら奥の方へ消えていった。彼女がつかまっていたであろうつり革が勢いよく跳ね上がっていた。


2001年03月27日(火) 銀行へ行こう!

振込に行った。振込先制定の振込用紙を使わなくてはならないが、その代わり振込手数料が無料になる。しかし、その代わり窓口で振りこまなければならない。振込先口座は三○銀行。

最寄駅近くの交差点にあるビルに三○銀行の看板があるのは知っていたので、出かけるついでに行けば楽勝かと思っていたら、なんとそこはカードコーナーだけ。やられた。慌てて乗り換え駅で再度三○銀行を探す。駅の案内板をみると駅ビル内にあるらしい。らっきー。地図のとおりに行くと看板発見。…が、ここもカードコーナーだけである。おいおい、カードコーナーだけならあんなに立派な看板だすなよな(泣)。結局時間切れ。むー、この銀行はいち早くカードコーナーだけの無人店舗をゲリラ的に展開していたのだが、普段利用していないのですっかりだまされた気分である。面倒なのでもっと近にある他の銀行から振り込もうかとも思うが、それもバカバカしいしなぁ…。しかたないので翌日再度出直すことに。

というわけで、Webで有人店舗の場所を調べてみると、最寄は少し離れたJR駅前というので自転車でちゃりちゃり出かけることにした。今日で二回目の利用となるレンタル自転車に乗って、青天の中ゆらゆらと出かける。風はほとんどなく、自転車をこいでいると少し汗ばむぐらいあたたかい。桜がまたさらに咲いていて、途中で気になるスポットを見つけると立ち止まって眺めてみたり、わき道にそれてみたり。

地図は一応持っているがうろ覚えの地理と太陽の位置だけをたよりに進むので一体いつになったらつくことやら。それでも30分ほど経った頃駅前の繁華街が見えてきた。立ち並ぶ銀行の看板から目当ての三○銀行を見つける。近づいていってみると間口が狭い(汗)。もしやまた無人店舗かい?自転車を押しつつ中を覗き込むと、奥に行員の姿が…。ほっ。とんとんと二階に上がって番号札をとると待ち人数は少なく2名。少ない人数の割に一人にかかる処理がかかって予想以上に待つがあっさりと振込みは終わり、またちゃりちゃりと家路を辿る。

今度は少し知恵を使って近道を探そうとするが、角を曲がると行き止まりだったり、思わぬ方向に迂回したりしてやっぱり同じぐらい時間がかかる。何箇所か桜のきれいな場所を見つけたのでまあよし。
帰りに小さな和菓子屋さんを見つけたので、みたらし団子と草もちを買って帰った。


2001年03月26日(月) 春光

春が動き出している。
宇都宮では菜の花がところどころ咲き誇っていたが、桜はあまり意識せず。一夜明けて今日の東京は桜がもう七分咲きぐらいまでになっている。例年より一週間ほ開花が早いとは聞いていたが、お彼岸が過ぎたばかりというのにあまりにも突然の咲き始めに、少々たじろぐ。

とはいえ、やはり桜の花はいきなり咲くのがいい。普段何気なく見過ごしがちな木が、この季節になると俄然目立つ存在になる、というのが面白い。一年のうちたった1週間やそこら注目を浴びる。みごとな枝振りが一面の花にうずもれるような大木もいいが、まだ細い枝ながら、いっぱしに花をつけているつやつやとしたひ若い木もいい。

桜の時期は、刻一刻と移り変わる桜から目が離せない。天気がよければ花が早くおわってしまうのではないかと心配し、雨が降れば花が落ちてしまわないかと気が気でない。風が吹けば贅沢な桜吹雪に、凪が続けばひらひらと舞う花びらに、心はやりながらとどまることのないあやうさに酔う。


2001年03月25日(日) 宇都宮参り(2)

宇都宮2日目はうす曇り。ホテルで朝食とチェックアウト後、そのまま駅から美術館行きのバスに乗る。開館時刻を10分ほど回った頃美術館着。まだ人もまばらな中をゆっくりと見て回る。いつも思うのだが、ぱぴちゃんと一緒にデュフィを観るのはとてもお得な気分である。色々と教えてもらえるし、何より彼女から伝わってくる熱が気持ちいい。個人的には昨夜図録を確認して見落としていた作品や印象深かった作品を重点的に見る。

会場は大きく二つの展示室に分かれていて、画家としての生涯をなぞる形で初期の作品から順に展示されている。絵を学んでいた頃の自画像の気の強そうな顔、かっちりとした構成の重厚な色使いの風景画、あの飛びぬけて明るい配色の軽く明るい作風はどこにもない。やがて印象派、フォーヴィスムに傾倒し、途中おそらく絵の具すら満足に買えなかったであろう時期、商業デザインに携わっていた時期などを経て、その片鱗をうかがわせながらいわゆる「デュフィのあの感じ」が出てくるのは、展示の中盤以降ということになる。繰返し作品の中に出現するモティーフを検証しながら、かつばかげた冗談を言い合いながら3/4ほど進んだところでいったん切り上げる。

午後は昨日ぱぴちゃんのほっぺにチュッチュした、ポンピドーセンター学芸員ディディエ・シュルマン氏が「連作の画家−ラウル・デュフィ」と題しての講演を行うので、その前に少し早めにお昼にする。ここのレストランのランチを逃すわけに行かないのだ。美術館はそれ自体が林に囲まれているのだが、特にレストランは開口部が大きく、開放感にあふれている。料理はイタリアンといっても素材を生かしたあっさりしたつくりで、このロケーションとの組み合わせは至福。三人ともパスタの定食からそれぞれ選んでデザートにケーキ。美味。レストランの先客には、昨日内覧会に招かれかつ今日の講演を目当てに来ている人たちもあったらしく、私たちがテーブルに案内され歩いているときに、「ほら、昨日の人よ」とかいう会話がぱぴちゃんの耳に入ったそう。そりゃぁ、レセプションでゲストと長々とフランス語でお話してたら目立つわな。しかも三人とも荷物を少なくするためほぼ着たきりすずめ状態。内覧会の出席者は美術館のボランティアの奥様がたも多いそうで、よそ者は一目瞭然である。

食事の後アートショップで絵葉書などを見ていると、シュルマン氏とばったり。ぱぴちゃん昨日解読できなかった単語を教えてもらう。彼曰くぱぴちゃんは「やさしくて近代的なデュフィの戦士」だそうで、彼らは日当りがイマイチの稀有な画家の地位向上のために日夜奮闘する同志なのだ。講演会の前に再度常設展のデュフィに「会いに」行き、ボランティアが説明するギャラリートークに聞き耳を立てる。

講演会は早めにいって比較的よい席を確保。逐次通訳の女性も聞き取りやすく分かりやすい。講演はスライドで画家のいくつかのモティーフごとの連作を対比しながら、画家が表現したいものをより忠実に表現するために常に行っていたさまざまな試みを、順々に解き明かしていく。画家本人は規則正しいまじめな日常生活を送っていたそうで、時に常識や作法を外れたり矛盾したり、一見何にも考えていないような画風は実は表層的な印象に過ぎず、緻密に計算しつくされたものである、というのは興味深い。とはいうものの、内面ではさまざまな葛藤がありながら「な〜んか楽しい♪」と感じさせる奔放さもまた、見る側にとっての得がたい喜びである。
耳にここちよいフランス語とお腹に詰まったイタリア料理のまったり具合がいい按配で、哀しいかな途中でうつらうつらしてしまう。かたやスライドが上映される中、暗闇でせっせとメモをとる手を動かしつづけるぱぴちゃん。通訳の分だけ時間が余計にかかって、質疑応答も含めて講演会が終了したのは約2時間半後。

17時の閉館時間までさらに残りの作品を精力的に鑑賞。開館時間中ほとんどの時間を美術館内で過ごしていたにも関わらず、まだ足りない。展示作品の中から一つ選んで詩(あるいはメッセージ)を書いて提出すると絵葉書をくれる、という企画があり、なんとかでっちあげで絵葉書2枚組を手にする。ちなみに私が選んだのは「メキシコの楽団」という1951年の作品で、書いたのは「乾いた風/照りつける太陽/舞い上がる砂埃/通り過ぎる音楽/身体に刻まれるリズム/メキシコの午さがり」という文字の羅列。
閉館時刻ぴったりに出てバスに乗って駅へ。車中tenkoさんが時刻表を調べてくれて、18時9分発の快速で帰ることにする。私とtenkoさんは駅構内で餃子のお土産を買い、ぱぴちゃんはデュフィ展主催である読売新聞と、地元の地方紙を買う。地方紙はカラー写真と関係者のインタビュー入り。ぱぴちゃん大いに喜ぶ。

交通機関は順調で20時半には帰宅。湯当たりならぬデュフィ当たりでボーっと浮かされたような夜。



2001年03月24日(土) 宇都宮参り(1)

土日一泊で宇都宮に小旅行である。目的は餃子めぐりではなく、宇都宮美術館で開かれるデュフィ展である。会期は25日からだが、ライフワークとして趣味の域を越えたデュフィ研究を繰り広げている自称「デュフィばか」のぱぴちゃんが、前日に行われる内覧会とレセプションのご招待を受けていたので、tenkoさんとともにお相伴にあずかることになったのだ。

朝9時に新宿駅で待ち合わせて上野に向かう。レセプション出席なので、ぱぴちゃんtenkoさんともフェミニンな装いをしているのが新鮮である。上野から「ラビット号」に乗り、一路宇都宮へ。車内でデュフィ展のつり広告を見てはしゃぐぱぴちゃん。宇都宮駅につき、とりあえず腹ごしらえに餃子を…と駅ビル内を歩くと「築地銀だこ」発見。思わず昼食が餃子がたこ焼きにすり替わるが、美味し。ホテルにチェックインしてから美術館に向かう。目的地が近づくにつれぱぴちゃんの挙動が怪しくなってくる。かなりご機嫌である。舞い上がっている。暴れないようにねとだけ言って好きにさせておくが、その様子を眺めている側もかなり幸せ。

宇都宮美術館に行くのはこれで2回目だが、相変わらず気持ちのいい美術館である。先に常設展のデュフィ12点を見てからセレモニー出席、内覧会へと進む。ぱぴちゃん入り口で「あ、あたし、もう※△□○◎%$÷…」と口走りながら姿を消す。再び彼女に会うのは30分後、内覧会終了時であった。私にとってデュフィはもともと「割と好き」な画風だったが、ぱぴちゃんの影響でじわじわと啓蒙され、いまや「かなり親しい感じ」の画家である。出展数は138点、早足に見て回るがまあ明日も来るんだし、またのお楽しみである。

レセプションは館内のイタリアンレストランで。ここは公共施設内にあるとは思えない質の高さで、今回も期待通り。ゲストであるポンピドーセンターの学芸員氏とフランス語でおしゃべりをするぱぴちゃん、ずいぶん盛り上がっている。おぉ、ほっぺたにチューまでされている。友人として鼻高々な思いをしつつ、出てくる料理をぱくつく私とtenkoさん。おーほっほっほっほ。夜ご飯は今度こそ餃子。宿に帰り興奮冷めやらぬまま図録をめくり、辞書を片手に学芸員氏にもらったサインのコメントの解読に励むぱぴちゃんなのであった。ぐー。



2001年03月23日(金) 3ヶ月

とりあえず、英語のクラスは今期終了。何が上達したのか定かでないまま、ただはっきりしているのは3ヶ月経ったということと、学費を使い切ったということだ。
また来期も同じクラスを継続するのが確定しているのは、とりあえず私と、孫のいるご婦人と、ばかっぽくしゃべる彼女(いいかげん失礼な呼び方である)の3人。ちょっとワタシ的には引くメンツである。あとの人々は多忙で継続しなかったり、他のクラスに移ったり。私のクラスはとある英語の検定試験を受けるクラスなんだけど、普段一緒に授業を受けていてそれほど実力があるとは思っていなかった子が、実は前回の試験で合格していたことが発覚。彼女は大学生で就職活動のために来期はどのクラスもとらないそうだけど、出なくても受かったんだからよかったわね。彼女が言うには試験の成績でよかったのは読解だけであとは全部ぎりぎりだったそう。私は読解と文法が苦手あと語彙も弱いなぁ。つまり自分でも勉強できるような分野が弱いわけだ。それを克服すべく学校に通っているにも関わらず相変わらず先生からは「ユーはスピーキングのほうがストロングなのね〜」なんていわれているのである。はぁ〜。やっぱりちゃっちゃと自習して試験受かってケリをつけたいなぁ。まーもともとどうしても検定に受からなくてはいけないという理由はないんだけど。ただ趣味としてのんびりやるには学費が高すぎるのである(検定料もね)。


2001年03月22日(木) It's New!

というわけで、新しい冷蔵庫が来た。
9時から11時までの間に配送と引き取り、というので今まで使っていた冷蔵庫の中身を8時半ぐらいから箱に移し替える。冷凍室に入っていた分は、氷と一緒にアイスボックスに入れて我が家で一番涼しそうなところに置く。もともとぎっしり入っているわけでもないので、あっさりと中のものは出し終わるが、こうして見ると思ったより不要なものが数多く入っている。お刺身のパックについてきたわさびやお寿司のおしょうゆなど、こまめに処分しているつもりなのに知らない間に溜まるものだ。

空になった冷蔵庫の中を掃除機できれいにして、目に付いた汚れを布巾でぬぐう。それから普段は目のとどかない上部も洗剤をつけた雑巾で拭く。きれいになるものだなぁ。ドアの右側にある凹みは、石川に住んでいた頃あける度に調理台の角にあたって出来たもの。真中あたりにあるべたべたは昔シールを貼っていた跡。新婚の頃の思い出も詰まっている。故障して買い換えるわけではないので、誰かに使ってもらえればいいのに、と思ったりする。ごそごそと取扱説明書の束から冷蔵庫の説明書などを出して、もしリサイクルに回すようだったらこれもつけてもらおうか、などと考えているうちにチャイムが鳴った。

今までの冷蔵庫をまず部屋の外へ出す。「これって捨てちゃうんですか?」と聞いてみると「そうですねぇ(苦笑)」という答え。そっか、捨てちゃうんだ。じゃあもうコレ(取扱説明書)も要らないね。やっぱり後ろめたい気持ちはぬぐえない。今さっきまで現役で働いてたんだもんね。
配送のお兄ちゃんは見習クンを一人従えて来ていて、声だけ聞いてると堂本剛そっくり。冷蔵庫の運び方を見習クンに親切に教え込んでいる。聞いていてなかなかいい感じ。冷蔵庫はモノが大きいし、引越しの時と違って壁や床を保護する(養生っていうんだそうですね)訳ではないので、ずいぶん気を使って作業をしている。

テキパキとした作業のおかげで程なく新しい冷蔵庫がすえつけられた。容量は1.5倍なのでやはり大きい。幅は今までのとほぼ同じだが、高さと奥行きがある。ちょっと見ると「おっ?」という圧迫感。しばらく放置した後電源を入れ、さらに2〜3時間経ってから食品を入れるように、と説明書に書いてあるのでその通りにする。
そうすると全部で半日がかりの作業になる。新しい冷蔵庫は完全に冷えるまでは少し音が大きいので余計に存在感があるが、やはり新しいだけのことはある。高機能だし、省電力だし、いろいろ便利にできてるし。

こうやってだんだん新しいものに慣れていくのかな。結婚して以来毎日のように開け閉めしていた冷蔵庫、今までありがとうね。ばいばい。


2001年03月21日(水) 当て字

おとといの日記で「マンネリ化」という言葉を使った。(え?そんな言葉出てきたっけ?と思う方はきっとおとといの分を読んでいないんでしょう。だって昨日の分とまとめて書いたんだもんね。えっへん。)
同時にモチベーションという言葉を使ったのだが、後から読み返してみて、日本語でも通じる言葉をわざわざ外来語というかカタカナ表記の英語にする必要はなかんべ、と思い「気力」に置き換えた。おいおい、モチベーション(motivation)の和訳は「気力」じゃないだろう、という突っ込みはおいといて、文脈からするとこっちのほうがしっくり来る。
で、「マンネリ化」にも疑惑の目は向けられた。おかしい。マンネリってなに?化ってつくぐらいだから日本語?そういえばずっとまえ「万練り」という字を見たことがある。じゃあ、「マンネリズム」っていわゆる和製英語?え?え?え?辞書を引く、パシャパシャパシャ…。昔は辞書を引くっていうとぱらぱらぱらだたんだけど、今はキーボードたたいて調べるんだもんねぇ。時代は変わったねぇ、おい。ぇーと、…!。

マンネリというのは英語だったのか!

mannerizmだって。
へーへーへー。そうなんだ。じゃあ、「万練り」ってすごくセンスのいい当て字じゃないの。何を練るのかはともかく。中国語には可口可楽(Coca-Cola)のように意味も音もぴしっと伝わる当て字があるが、日本の先人の知恵もなかなかである。他にも「冗句」なんていうのもある。これは本来は冗長な句のことらしいが、jokeとしても意味が通る。もっと古くは「合羽」とポルトガル語のcapaか。同じく水遣りのジョーロ(jarro)の漢字「如雨露」も、音も意味をずばりと表しかつ文字の並びも美しい。
以前から気になっているのは空き缶や缶詰の「缶=can」である。缶という漢字がcan以外のものに使われているのを見たことがない。英語ではtinと言ったりもするが、カンが缶っていうのは当て字なんだろうか?それとも偶然なんだろうか?もっとも「茶」のように中国から東西に派生したために似た言葉になっているのもあるし、日本にも古くから缶詰というものがあったのだろうか(←まさか)。で、またパシャパシャと辞書を引くと、これはオランダ語のkanだという。もとは「罐」の字を当てていて、その文字自体の意味は水を入れる器、金属製の円筒状の入れ物、とある。
うーむ。それってまさに缶(can/kan)のことじゃないの。ありゃー、やっぱり「カン」という言葉も中国から東西に伝わった同じモノなんだろうか。



2001年03月20日(火) 予知夢

私ははっきりした夢を見るほうだと思う。朝起きて夢のあらすじを覚えていることが多い。気にかかっていることがあると必ずそれを夢に見るし、振られた相手が登場して何やらうまくいっていることもあるし、その逆もある。いわゆるコンプレックスというか、痛いところをつかれる夢なのである。

今朝見た夢はそういうワタシ的コンプレックスがてんこ盛りになった夢で、目が醒めた後しばらく布団のなかで思わず反芻してしまった。今のところコンプレックスNo1のおめでた関係の話も出てくるし、昔ずっと好きでうまくいかなかった人(苦笑)も出てくるし、私は私で自分が苦手だと思っていることをよりによってその人の前でやる羽目になり、どんくさいことやってその人も回りも呆れるというトホホな夢だった。

なんでこんな夢を見てしまったのかと思う。疲れているとか、ストレスが溜まっているとか、そういうことはないはずだが、こうもくっきりと痛いところをつかれるとなんだか眠って夢を見るだけで疲れたりストレスが溜まりそうである。


2001年03月19日(月) こんなときでもないと。

我が家は改まった来客があるわけではないが、月に1〜2回ぐらいは親しい友人を招いてお茶を飲んだりご飯を食べたりするので、部屋の中が人様の目に触れることは多い。で、当然お客人の到来前にはここぞとばかりに部屋を片付けたり、汚れをふいたりするので、「きれいにしてますね。」とか「よく片付いて…。」などというお褒めの言葉を頂戴することもある。が、それはただ「きれいにした」のであり、「よく片付けた」だけなのである。あなたが来る直前に…。

普段はなかなか掃除が行き届かないのだが、実際は狭い家なので片付けるのに気が遠くなるほど時間がかかるわけではない。つまりはものぐさなのだ。ものぐさな上に見栄っ張りなので、誰か来るなら片付けもするがそうでなければついつい片付けも掃除も手を抜きがちになり、はてしなく雑然と暮らしてしまう。

あまりにも掃除をする気力がないときは、わざと食事にお客人を招いたりするときもある。で、緊急事態とばかりにせっせと働き、片付いた部屋を見て「だったらいつもやっとけよっ!」と一人突っ込みを入れる。
ついでにお客人を呼ぶと、マンネリ化した粗食の食卓も、普段と違ったものになる。「今日は食べるもの、たくさんあるね。」と夫が喜ぶ。


2001年03月18日(日) やっぱ食べ過ぎ?

今日は朋あり遠方より来るのお方を囲んで新宿でお茶。
集合は午後2時なので、昼ご飯は自宅でたらこスパ。近い割に乗り継ぎがうまくいかず待ち合わせ遅刻。他の方々はとっくに集まっていてさっそくお店へ。2時間ほど腰を据えるつもりなので、とりあえずケーキセット。4時にいったん解散して流れで再度お茶。軽くドトール辺りに入るつもりがなぜか甘味処へ(私が主張した、ということになっている)。しゃべって喉が渇いたので冷たいものをと、クリームあんみつを頼む。
今週末行く宇都宮の話から餃子の話になり、そのうち「そういえばれいこなさん、最近日記読むと食べる量増えてますよね」と指摘される。「いや、普段は粗食だから」と反論するも他からも「日記を読むとそうは思えないなぁ」とぽつり。うーむ。そうかなぁ。ていうより、食べ物の話しか日記のネタがないのか?

そうこうしているうちに一足先にお暇する時間がやってきた。夫と待ち合わせて外食する約束なのだ。それなのにケーキセットとクリームあんみつを食べてしまった私…。待ち合わせ場所に行くと既に夫は来ていて、お目当ての店の場所も見つけてきたという。こじんまりとした洋食屋。夫はカレーの中にオムライスが浮かんだようなオムライスカレー、私はハヤシライスの上にオムレツが乗ったオムハヤシライス。さすがに最後の方は食べきれずに夫に片付けてもらう。うー、満腹。駅一つ半の道のりを腹ごなしに歩いて帰る。が、依然満腹。

しかしながらこの後、帰りに見つけたケーキ屋さんで買ったシュークリームを食べる予定である。消化するまで今夜は寝かさないよ、べいびー。


2001年03月17日(土) 目玉焼き

朝食の目玉焼きを作りながらこう考えた。(←草枕風)
得意料理は何と聞かれたら「目玉焼き!」と答えるだろうな。いや、マジで。これを料理というかは別として、目玉焼きならほぼ失敗なくいつも同じに仕上がるので、やっぱり「得意」なんだろう。

私が作るのは母から習った、黄身の部分が半熟のサニーサイドアップ。フライパンを熱して一センチ幅に切ったベーコンをぱらぱらと敷いて、程よく脂が出たら卵をポンポンと割り入れ、さらにフライパンが熱くなったところで、さっき割った卵の殻をスプーン代わりに鍋肌からじゅじゅっと水を差す。軽く回して蒸気がもうもうとたったところで蓋をしてしばし蒸し焼きにして出来上がり。白身はしっかり火が通り、黄身はうっすら白い膜が張ってふっくらピンクがかった半熟状態に仕上がる。黄身がどうしてピンクに見えるのか謎。このタイミングをはずすと黄身がぼってりと全熟になって色も黄色くなる。

人前で目玉焼きを食べるときはいつも躊躇する。伊丹十三のエッセイの中にも「目玉焼きの食べ方っていろいろあるよね、黄身と白身をぐちゃぐちゃに混ぜて食べる人とか、ほら、こんな風にさ…」とかなんとか説明する振りをしてちゃっかり目玉焼きを食べてしまうという話が出てくるが、正式な食べ方ってあるんだろうか?
魚を食べるときはひっくり返しちゃいけないとか、にぎりはネタの方にちょいとしょうゆ(ええぃ!通ぶってムラサキなんていうんじゃねぃやぃ!)をつけて一口で放り込むとか、バナナがまだ貴重だった頃の百科事典のテーブルマナー欄に載ってた「ナイフとフォークでのバナナのいただき方」とか、その手の「目玉焼きの正式ないただき方」なんていうのはあるんだろうか?百歩譲ってフォークとナイフで食べるマナーはあるとして、お箸で食べるときはどうすればいいのだ。うーむ。

じぶんちで食べるときは、まず白身の部分を先に片付けて残った黄身をお箸ですくい上げてパクっと食べておりますな。うまい具合にベーコンが黄身の部分を支えるように貼り付いていると尚よろしい。何しろ黄身の部分は半熟なので、下手をすると黄身がどろっとこぼれてかなり悔しい思いが。パンが残っていればまだそれでふき取ることもできますが、それも出来ないときの悔しさったら!
首尾よくすくい上げたら歯を立てながら中身をちゅるりっと吸い取ってしまい、あとはなんとなく二つ折りにしてバクリっといって終わり。あー満足。ちなみに子供の頃の食べ方はもっと本能に忠実で、初めに黄身の部分をお箸の先でちょいとつついて穴をあけ、おもむろにそこに口をつけてちゅるちゅるっとすすりこみ、残りを安心して落ちついて残りを食べる、という方法をとっておりました。
今でも実家に帰るとそうやって食べているかもしれない。一応配偶者の前では気を遣っているということでしょうかね。ええ。


2001年03月16日(金) 冷蔵庫供養

冷蔵庫を買い換えることにした。
といっても別に故障したり不具合があるわけではない。今使っているのは、夫が結婚前に一人暮らしをしていた時に買ったやや小さ目のファミリータイプで二人暮しには十分なのだが、4月からの家電リサイクル法施行をにらんでのことである。

今までも何回か買い換える話はあった。石川に住んで買出しが週1ペースで買いだめが基本だった頃、なぜか内部の棚に体重をかけて棚を割ってしまった時、ここに引越して来た時、などである。が、補助的に使う小さい冷蔵庫を貰ったり、面倒くさくなったり、お金がなかったり…で、その都度お流れになってきた。そうはいっても同じだけ場所を食うのなら少しでも庫内が広いほうがいいな、とか音が静かなほうがいいな、とか最近のは電気代も節約らしいな、とか潜在的に欲しい気持ちはあったので、まあ勢いって言うんですか?買っちゃえコールが頭の中で鳴り響いてGO!である。

ここ1〜2ヶ月の家電販売店キャンペーンの後押しもある。内容はさまざまで、配送料はもちろん古い冷蔵庫の引き取りも無料というところもあるのだが、我々がいつも利用している店は引き取り料が4000円弱かかる。リサイクル法施行後は今より余計に手数料等がかかるといっても、何万円も変わるわけではない。だからといって一度火がついた買い替えたい熱がもう引くわけもなく、引き取り料の分だけ予算オーバーしてニコニコ現金払いである。(<よっ!太っ腹!<現金払いだとポイントがたまるのよ…)


配達の日時も決まり、あとは冷蔵庫の中身をどうにかするだけである。さぁ、この冷蔵庫ともお別れだ、と思ったとたんに急に不憫になってきた。思えばこの冷蔵庫、とても丈夫で故障知らず、時にチルド室の豆腐が高野豆腐になるほど働き者@さすが◎立製だったのだ。まだ使えるのにそれを処分しちゃうなんてなぁ、なんだかとても罪深い感じ。手放す時はきれいにしてちゃんと供養してあげるからね。お疲れ様。


2001年03月15日(木) 「一所懸命」

自宅から最寄駅までの道のりは幹線道路沿いをただひたすらに歩くのだが、その大型車が轟々と走り抜ける脇にひっそりとたたずむようにいくつか店が並んでいる。店といっても普通に日常品を売る店はごく駅の近くにしかなく、後はバイク屋、美容院、板金屋、畳屋など、職人というか家内制手工業的の作業場があるような店がいくつか並ぶ。

ここに越してきたばかりの頃、そういった店を物珍しさで通りすがりに何気なく覗いたりしていたのだが、そのうちの一つに看板もなく人の気配も希薄な店があった。何屋というのかは知らないが、ガラスを切ったり鉄板を曲げたりする雰囲気である。それは木造の古びた二階家で、通りに面してガラス戸があり、大きな作業台をしつらえた土間になっている。その奥は一段高いところに曇りガラスのはまった引き戸で仕切られており、多分その向こうはちゃぶ台とテレビがあるのだ。

ある日の午後、出先から戻る途中に習慣のようにその店を覗くと、びっくりするほど小柄なおじいさんがガラス戸の中にいた。作業エプロンをつけ、襟元にタオルを巻き、腰は少し曲がっている。例の作業台に向かって立ち、インスタントコーヒーをいれるところだった。手に持った徳用サイズのコーヒーの瓶が、そのおじいさんには不釣合いなほど大きく見える。同じインスタントコーヒーの銘柄でも安い部類に入るものである。テーブルの上におかれた同じ徳用サイズの空き瓶には白砂糖が詰まっている。その脇にこれもまた徳用サイズの粉末クリームの瓶が置いてある。
はっと思って時計を見ると午後3時ちょうど、一瞬にしてその人の日常生活が浮き上がってくる光景だった。

ああ、きっとこの人は毎日朝から一人で働き、お昼を食べ、また一人で働き、こうやって決まった時間にささやかな楽しみとして自分のためにコーヒーをいれるのだ。そして一服してまた夕方暗くなるまで寡黙に働くのだ。轟々と騒音のする脇で、十何年、何十年と同じ営みを繰り返してきたのだろう。この人にとっては人生とはまさに日々の積み重ねなのだろうと思う。「一所懸命」という言葉がしっくりくる、そんな一コマを垣間見た。



2001年03月14日(水) たわごと

独身の頃、ボランティア活動などで年上の既婚女性と一緒に行動すると「あれやって、これやって」と命令口調で使われることが多く、なぜおばさんというものは年をとっているだけで自分のことをエライと思い込むんだろうか、と常々思っていた。長じて自分が年下の人たちと何かの折で一緒になると、相手をあごで使わないまでも、なんとなく上からの物言いになっている自分にハッとしたりする。

話は変わるが、今行っている英語のクラスは(この年になってまで英語を習う人は少ないので)大体年下が多いのだが、一番下はなんと高校卒業を間近に控えた18歳の女の子である。ちなみに一番上は孫娘がいるというご婦人で都内某高級住宅街にお住まいらしい。高校生の女の子も都心の一等地に住み、進学先は推薦で医学部、チェロとピアノを習い、家にはヨークシャーテリアが2匹。身に付けているものは決して派手でなくシンプルで質がよさそう、立ち居振舞いは穏やかだが芯が強い、と、絵に描いたようないいとこのお嬢さんである。推薦で大学が決まったので暇な時間を英語の勉強に充てるらしく、このクラスのほかにもあと2つ、計3クラスを受講しているという。週2回のクラスを3回、暇な時間を遊びに費やさないところもすごいが、受講費だけでもかなりの額だろうと、ついつい下世話なことを考えしまう。それにしても「こんな人がいるんだなぁ(タメ息)」というのが正直な感想である。

彼女は来期から一つ上のクラスに移るらしい。彼女みたいに今すでにいろいろな面でかなりのレベルに達していて、しかも若さと可能性がある人は、これからどんどんのびていくんだろうなぁ、と馬齢を重ねている身としてはまぶしく感じる。実際彼女は、クラスではもちろん電車の中で英字新聞を読んでいたり、よく勉強しているのでそれも当然と思う。とはいえ年をとってるだけで出来るというものではない、ということは重々承知していながらも、彼女の倍ほどの年齢の自分を情けなくも思う。


2001年03月13日(火) ママのエネルギーの使い方

ネット徘徊中に、子役モデル(チャイドルっていうの?)を持つ母親が作るページに迷い込んだ。なんかすんげーんである。根性というか気合の入り方が。文字通りオムツの取れないうちから赤ちゃんモデルとしていろんなポスターや育児雑誌に出ていて、妹が生まれたら妹にも同じ道を歩ませており、ページには日々の様子やメディアに載せるための工夫、掲載ポスターや記事の画像などが詳細に載っている。一家は都内高級住宅街に住んでいて裕福らしい。生活の為に子供に仕事をさせるのではなく、手間と暇をかけて子供を磨きたて、それでモデル業に反映させているようだ。ここまでくると天晴れというしかない。

もともとは自分の子供をみんなに見せたい、子供にとって記念にしたいという動機らしく、ページのそこここに「3歳の記念になったかな?」とか「大人になっても覚えていてくれるかな?」とかいう記述が出てくる。うーむ、やたらと記念が多いような気もするのだが、チャンスの尻尾は全て掴む、という感じである。育児雑誌の読者モデル以外にも「おかあさんといっしょ」などの子供番組やちょっとした写真投稿コーナーにも積極的に応募、ついでに当のお母さんもはなまるマーケット(朝の奥様向け情報番組)のクイズコーナーに出演したりして、その他にも懸賞によく応募しているようだし、徹底的に出たがり&マメな人なのだ。赤ちゃんのモデルだとお母さんも一緒に抱っこして映ることが多いようなので、そういう点でもこの人の出たがり欲は満たされているのだろう。自分がモデルを夢見てかなわなかった場合、こうやって子供をダシにモデル疑似体験するのもまた一つ方法かも知れない。

それにしてもそれを逐一Webページに載せてしまうところがすごいと思う。モデルとして顔と名前が世間に出ているので、個人情報を今更伏せても仕方ないのだが、ページでも実名、写真、生年月日などのプロフィール、プレイゾーンとして実在の公園名が出てくるので、大丈夫かなと思ってしまう。いずれにしても彼女のページは同じチャイドルママを目指す仲間うちでは燦然と輝く存在であるらしく、掲示板には相談事がバンバン寄せられていて、またそれにいちいち詳しく答えている彼女であった。彼女に触発されて子供のページを開設する人も多く、中にはモデルとしての実績も殆どないのに、華々しく掲載雑誌のコーナーや掲示板、日記などを取り揃えている人がいたりして笑える。しかもデジカメもスキャナも未調達らしく画像はない。ちなみにその人のプロフィールによると「2歳上の旦那さん」は私より一回り下。若さゆえのエネルギーかね…。


2001年03月12日(月) ツキジとツキシマ

ここ数日来、「築地」と「月島」という言葉を散々口にしていたら、つい頭の中で「築島」に変換されてハタと気がついた。そういえば「築山」という言葉もあるし、人工的に築いた島=「築島」=埋立地ってことか。じゃあ築地も「築いた地」で、これも埋立地だ。ふ〜ん、ふ〜ん、ふ〜ん。

それにしても築地本願寺、埋立地にある寺というのも珍しい。普通あれだけ大きな寺院ならば周囲に末寺がいくつかあってもよさそうなのに忽然とあそこに建っている。しかもあのインド様式の石造り、あきらかに周囲から浮いている。建物をじっくり見てみると国会議事堂を彷彿とさせる石の色である。そして窓にはまっているガラスは質が均一ではなく、窓に反射する光が歪んで見える。おそらく関東大震災後の建造物であろうと思われるが、それにしてもなぜ築地にあるのか。

とりあえずgooで「築地本願寺」で検索すると、本願寺がつくっているページがヒットした。本願寺は「ほんぐわんじ」というらしい。http://www.hongwanji.or.jp/tsukiji/ 最近はWebで調べられるのでつくづく便利だと思う。正式名称は「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」。いわゆる西本願寺の別院で、もとは浅草横山町にあったのが明暦の大火(振袖火事)で焼失し、区画整理の為に幕府に追い出されたらしい。それで代わりにここに建てろ、と下付されたのが八丁堀の海上なのだという。そりゃアンタ、むちゃくちゃですがな。後からページをいろいろ読んだところによると、本願寺は勢力が強かったので、時の政府は何かにつけその勢力を弱めようとしていたらしい(東西本願寺分離など)。これもその一環の嫌がらせだったのではないか。
それで佃島の信徒が中心になってせっせと海を埋め立てて地を築いたという。つまり本願寺が築地に引っ越してきたわけではなく、本願寺を建てるために築地が出来たというわけだ。なるほど。

あの石造りの建物はやはり関東大震災の本堂焼失後に建てられている。燃えない建物を、ということだろう。昭和6年起工、昭和9年落成となっている。国会議事堂が出来たのが昭和11年だから、やはり同時代の建造物である。
ちなみに外見はインド様式でありながら中は桃山様式だという。うーん、ちょっとシュールかも。


2001年03月11日(日) 幼馴染のおじさんおばさん

実家のお向かいのご主人ががここ数日高熱で寝込んでいるのだという。食欲もまったくないらしい。高齢なのでとても心配している。元小学校の校長先生なので、近所の人たちは「先生」と呼んでいて、私や兄が小さいときもずいぶん可愛がっていただいた。
昔は近所づきあいが密だったし、隣近所の子供が年が近かったこともあって、向こう三軒両隣の家はどこも遊び場だった。道で遊んでいればどこかの家から「遊びにいらっしゃい」と声をかけられて、ちゃっかりあがりこんではおやつを貰ったり家中を探検したりしていた。通りに面したそれ以外の家々も大抵一度は入ったことががあり、いまだに間取りが分かる家がいくつかある。大人になるにつれ、そうした家が一つ、また一つと櫛の歯が抜けるように消えていく。
両親が老いて行くのも辛いが、小さい頃から馴染んだ近所のおじさんおばさん達が年をとっていくのも、また寂しい。


2001年03月10日(土) 春よ来い

梅の花はどこも満開。ほのかな梅の香にまぎれて時々沈丁花の強い香りが。
春の気配はすぐそこまで来ているのに、いきなりぶり返したような風と寒さ。実家の日当たりの悪い花壇も、日照時間が増えてようやく育ってきた。白の葉牡丹と薄紫のパンジーとワインレッドのパンジーを寄せ植えにしてあったところに、さらにピンクのデイジーを足す。ハンギングバスケットにしてあった黄色い小花(名前失念)は寒さにやられたのか水遣りが足りなかったのか、少し状態が悪い。水遣り係りの母に尋ねてみると「寒さにやられた」と主張する。
姪はさらに身体を活発に動かすようになり、自在に体が動かせるのが嬉しくてたまらない様子。単語数もかなり増えてきた。不明瞭な発音が一晩でずいぶん明瞭になっていたりして驚かされる。つかの間の陽だまりのなか、大人たちが庭で作業している間をちょこまかと走り回る。まるで「春よ来い、はやく来い、歩き始めたみいちゃんが…♪」の歌詞そのまま。
そして庭の花壇を掘り返しているとまたも冬眠中の蛙が…。もう啓蟄は過ぎているけど、起きるにはまだちょっと寒いのだろうか。


2001年03月09日(金) 築地界隈

築地はほとんど未知の世界である。
月島でもんじゃ食べたり、東銀座で歌舞伎見たりするものの、その中間の築地はただ通り過ぎるだけだったのが、今回のバイトで築地周辺に少し親近感が芽生えた。
活気のある面白い街である。銀座からこんなに近くてこんなに安く食事ができるんなら、もっと利用しなければもったいないと思ったりする。

今日は昼休みに牡蠣フライ定食が名物のお店に行った。こぶし半分ほどもある俵おむすびのような牡蠣フライが5つと、付け合せの千切りキャベツ、ポテトサラダ、おしんこ、ご飯、お味噌汁で1100円。そんなに大きな牡蠣フライならさぞ衣が厚いのだろうと思いきや、そんなことはなくて、要は3〜4個の牡蛎をまとめてフライにしているのである。なるほど〜、コロンブスの卵である。牡蛎は中までじっくり火が通って熱々。上あごをやけどしながら、はふはふと5つ平らげた。4つめにかかった頃、急に満腹になるが、意地になって食べる。最後の一個はあまり味がわからなかった。夜になっても牡蠣フライが残っている気がする。

そのお店が入っているビルは他にも漬物屋、総菜屋、輸入食品屋、などが入っていてどれも安い。パッケージにちょっと傷のある商品などが格安で売られていたりして、こういうところを覚えておいて買出しにくるのもいいかなぁ、などと思う。
難を言えば築地は朝早いので、夕方になると商店などが軒並み閉店してしまうことである。もう少し暖かくなったらぜひとも昼間築地に来て、市場や辺りをぶらぶら歩いてみようと思う。


2001年03月08日(木) 消耗

はー。激しく消耗している。体力的に、というよりは精神的にだ。

今のバイトは臨時の助っ人として入っているのだが、そもそも助っ人するだけの仕事量がない。一応、Excelでのデータ処理に強い人が必要である、ということで雇われているのだが、仕事の指示を与える男性社員は、Excelを使って何が処理できるのかよく分かっていないらしい。単に罫線の入ったワープロと思っているようなふしもある。彼の立場もわからないでもないが、下で仕事をしている人はそんな調子でだまって言うことを聞いていると突拍子もない無理難題を吹っかけられて、散々苦労させられたらしい。ところが今一緒に働いている人はとても強く出られる人なので、できるだけ仕事を受けないように、その男性と仕事をめぐる攻防を毎日繰り広げている。まあ、彼女の言い分もそれはそれでわかるのだが、正直いって、仕事場にいっているのに仕事がないのはつらい。上司に当たる人は彼女に仕事を頼むと露骨に嫌な顔をされるので私に頼んでくる。それはとてもお茶の子さいさいな作業だったりするので、彼女の手前は一応大変そうな顔をして引き受けるのだが、それでも彼女は不満らしい。私はあくまでピンチヒッターなので責任はないが、残される彼女の立場になる非常に困る、というのである。今日などは今まで積み上げてきたものが崩れるからそんな簡単にハイハイと仕事を受けないでくれ、と言われる始末である。
そんなこんなでほとんど仕事らしい仕事をせずに、それなりの時給を貰い、さらにそれなりに疲れて帰ってくる。なんかバカみたいだなぁ、と思ってさらに疲労感が増す。


2001年03月07日(水) 「いわせてもらお」風 2題

朝日新聞の日曜版に「いわせてもらお」という、思わず笑ってしまうような家族の言動や身近な出来事を投稿するコーナーがある。バイト先で立て続けに聞いた、「いわせてもらお」風の話、2題。

その1:隣の席のOさんの家にファックスが導入された。出勤前のOさんに使い方を教えてもらったお母さんは、日中ひとりで知り合いにファックスを送ってみた。ところが、送っても紙がそのまま出てきてしまう。3回ぐらい試した後、お母さんはついにその知り合いのところに直接電話して「さっきから何度もお宅にファックス送ってるんですけど、うまくいかないんです。そちらのファックスの壊れてませんか?」とたずねてみた。相手は「いいえ、ちゃんと届いてますよ、もう3通も。」お母さんはそこでハタとファックス送っても紙がそのまま送られるわけじゃないことに気づいたらしい。
その顛末を「あんたに言うとまた怒られるけどさぁ」といいつつも打ち明けたOさんのお母さん、うーんいい人だ。


その2:お向かいの席のシングルマザーのSさんは、一人息子と二人で仲良く暮らしている。にんじんやピーマンなど好き嫌いなく育てているが、Sさん自身があまり好きではないので、常々「おいしいからあげる」といってSさんの分のにんじんやピーマンを息子のお皿によけていた。ところでケーキやアイスクリームなどSさんも大好きで、一つしかない場合は「たった二人きりの家族なんだからね!」といってきっちり2等分するので、最近息子はどうもあやしいと思っているらしい。
先日、一緒にお風呂に入ったあと、たまたまSさんが先に出てキッチンにいたところ、後から追いかけてきて、しばらくもじもじした挙句、言いにくそうに「ねえ、もしかしてアイスクリームかケーキか、すごくおいしくてたった一つしかないもの、一人で食べようとしてる?」と聞かれたそうだ。


2001年03月06日(火) 築地のどんぶり

築地の顔は、なんといっても魚河岸と、石造りの独特の本堂が異彩を放っている築地本願寺である。築地駅のすぐ上に位置する築地本願寺の境内は、車が100台ぐらい停められる大きな駐車スペースであると同時に、駅から晴海どおりのオフィスビルや魚河岸までのショートカットコースにもなっている。朝の時間帯は通勤人と魚河岸に買い付けにくるジャンパーに長靴、仕入れた魚を入れる籠(渡る世間は鬼ばかりで、よく出てくる四角い竹網の籠)を肩から下げた人々が行き交う、ちょっと面白い空間である。

魚河岸が近いのですし屋も多い。すし屋が多いので業務用の和食器や割り箸などを扱う店も多い。
ラーメンにもうどんにも使えるような大き目のどんぶりが欲しいと常々思っていたのだが、先日たまたま入った和食器店でイメージにぴったりのを見つけた。業務用なので値段も手ごろで扱いやすそうである。白地に藍色の細かい模様が入っていて、おそろいの柄のコーヒーカップや小皿、小鉢などもある。一晩考えて2つだけ買うことにした。以前は「そのうち家族が増えるから…」と5客ずつそろえていたのだが、なかなか家族が増えないので家族増加分は考慮しないことにする。お店で見たときはそれほどと思わなかったが、うちに帰って棚にしまってみるとずいぶん大きい。でも和風にも洋風にも使える柄なのでサラダボウルにしてもよさそうだ。まずはめでたし。あとは最近流行りの「ラップいらず(瀬戸物の小鉢にポリ蓋のついた密封容器)」をさらに買うかどうかが目下の懸案事項である。


2001年03月05日(月) 糖分取りすぎな日。

胃が重い。
普段はおむすび2ケを持って職場に行っているのだが、今日は夫がいないのでお弁当は省略(くーーーっ!そう書くとまるで夫主体で動いている妻のようだわ♪)。一緒に働いている人たちと昼は外に出ることにした。築地からほど近いイタリアンレストラン。この界隈は古い建物が点在しているのだが、中でもそのビルは大正から昭和初期の建築のようで、その一角だけどこが外国のようなたたずまいである。日替わりのパスタランチが3つ。そのうち「新じゃがとベーコンのトマトソース」というのを選び、デザートにズコッタとミルクティを頼む。外でのランチはひさしぶり。
職場の人のお子さんの話や家族の話などマシンガントークを繰り広げて仕事に戻る。仕事自体は一緒に仕事をしている人との呼吸がぴったり合って小気味いいほど作業がはかどる。途中で上司にあたる人から「あとの仕事まで間が空いちゃうから、あまり急がないでいいよ。」といわれるが、2人ともペースを配分できない性分なので、ちゃっちゃとやって休憩をたっぷりとることにする。

今いる職場は3時にお茶の時間があってお茶が出るのだが、今日はおやつに上司にあたる人の北海道土産がでた。六花亭の「十勝日記」という豪華詰め合わせセットでA4版の和綴じ本(笑)を模した箱の中に、ホワイトチョコレートやマルセイバタサンド、最中など数種類入って、それぞれいわれを記した小冊子がついている。たくさんとっていいといわれたので、最中とタルト風の焼き菓子とマルセイバタサンドを半分食べる。合間の休憩時間に、ハーシーズのチョコボールなどをつまみ、朝買っておいたジュースをちびちびと飲む。

今日は一緒に働いている人と夕ごはんを食べて帰る約束になっていて、せっかくだからお寿司でも行きましょう、などと話していたのだが、そんなわけで終業時になっても空腹感がなく、お寿司という気分ではなくなってきた。かといって何も食べないで帰るほど満腹でもなく、とりあえずお茶でもするかと銀座方面へ歩く。そういえば以前行ったことのあるティーハウスを東銀座で思い出して入ることにする。ケーキは食べたくないし…などといっていたが、入り口の看板にクロックムッシュかビーフシチューパイに好みの紅茶がつく、というハイティーセットを発見。軽い夕食にはよさそうなので、それぞれ頼むことにする、とそこでさらに200円プラスで「オリジナルやわらかプリン」がつくことを再発見。甘いものは十分なはずなのに、思わずそれも頼む。

食事は滞りなく、7時前にお勘定を済ませて銀座まで出て、それぞれ帰宅の途に。私の乗る地下鉄は時間が早いこともあり余裕で座り、電車の中で読もうと最近持ち歩いている「くまのプーさん」の原書を読む。糖分の取りすぎが今になって効いてきたのか、だんだん気分が悪くなってきた。ちょっと酸欠気味、妙に暑い。早く娑婆の冷たい空気を吸いてぇ、と願う。
家にたどり着くと生協の宅配が玄関前に積まれているのを、とりあえず中にいれ、ざっと収めるべきところに収めたあと布団にもぐりこむ。何しろ胃が重い。うとうとして夢も見るが、一生懸命考えながら見ているような夢であまり休まらなかった。うううう、いったんおきてコレを書いているが、もう歯を磨いて早々に寝よう。喉の辺りが「あまーい」と訴えているような気がする。


2001年03月04日(日) 街探検

これといってぱーっと気晴らしをする手段をもたない我々夫婦は、今日のように冷めたい雨がそぼ降る日曜日などは散歩にも買い物にも出る気がせず、それぞれPCに向かったり本を読んだりしていたのだが、夕方からついに重い腰をあげて食事を兼ねて出かけることにした。といってもあまり遠出をする気分ではなく、せいぜい新宿に出るか、バス一本でいける辺りである。少し迷った後、駅のそばに○I○IがあるJR中央線のとある駅付近にバスで行くことにした。

この駅は電車では何度も通っているが、実際に降りて町を歩いたことはほとんどない。ターミナル駅だけあってさすがに大きい。雨が降り始めたこともあって、目的地である終点についたときにはすっかり暗くなっていた。傘を持たずに出たので、とりあえずアーケードのある商店街を小走りに目指す。まだ会社を興す前の「ぴあ」の社長が、この商店街の案内マップを作ったのがタウン情報誌の始まりだという話をどこかで聞いたことがある。それほどここの商店街は充実していて、それを核にして縦横に飲食店が軒を連ねている。「ビラ配り、客引き禁止」と書かれた看板が散見され、風俗店の数の多さが知れる。

この沿線は早くから駅前が街として開けていたので、空襲で燃え残ったか否かで街の様子はがらりと変わる。ここも例に漏れず道を挟んで反対側は大きなビルが立ち並ぶ整然とした区画となっているが、こっちは木造の家屋が残る込み入った路地になっている。土地勘のないままにぶらぶらと歩き回ると、突然袋小路のような路地裏に出た。まるで「場末」のイメージで作って下さい、といわれて組み立てたスタジオセットのような空間である。

肝心の夕食はお好み焼きにしようかパスタにしようかはたまた南欧風のこじゃれた店に入ろうか、迷いつつうろうろして、結局「場末」を少し離れたところにある、牛タンの専門店に腰を落ち着けた。あれこれ頼んでビールを飲んで1時間ほど。再びバスに乗って20分ほどでするすると帰る。なかなか面白そうな街だった。今度は昼間行って見ようと思う。


2001年03月03日(土) 「やってみたいボランティア」

日経新聞は土曜日に一般紙の日曜版のようなおまけの紙面があって、「なんでもランキング」というコーナーがある。
「買い物したい惣菜店」とか「主婦に聞いたランチに行きたい店」とか、あるテーマに沿って全国のモニターにアンケートをしたBest10が掲載される。今朝の特集は「やってみたいボランティア」で、第1位は図書館ボランティアということだった。記事によると「実際の活動は館内で本を朗読して録音したり点字にしたりすることが多い。」そうで、司書の業務をボランティアでやるというのではないが、図書館業界(笑)では利用者の活字離れ、図書館離れが深刻な問題となっている今の状況で、ボランティアとして図書館が人気だという結果にちょっと戸惑う。

ちなみに第2位は美術館博物館動物園のボランティア、第3位使用済み切手などの収集、ついで献血、点訳、パソコンボランティア、社会教育施設・公民館への協力、中古医療の再生、音訳・朗読、ホストファミリーとなっている。自ら身体を張って…というのは献血ぐらいか、あとはちょっと知的で手が汚れない、きれいな仕事が多いように思う。若年層のボランティアとして象徴的な「車椅子を押す」「老人ホームの慰問」「清掃」など肉体的労働的なものがない。点訳はあるのに手話通訳がないのも意外である。

使用済み切手の収集というのも、E-mailや料金別納のDMなどが蔓延している現在の風潮では、あまりはかばかしくないのでは、という気がするが、文通が趣味の人などは集まりやすいだろう。そういえば他にも趣味の延長であるようなものが多い。読書が好きだから図書館や音読のボランティア、芸術が好きだから美術館博物館、パソコンが得意だから点訳やパソコン、英語が得意だから(勉強したいから)ホストファミリー。もちろん実際にやるわけでも、常日頃からボランティアをやりたいと思っているわけでもない人たちが、「自分がやるなら」という仮定の上で答えているので、まあ、こんなものかとも思う。

それらを批判したりごたくを並べる気は毛頭ないのだが、とはいうものの、数ある中で泥臭いボランティアのアイディアが一つも出てこないことに、なんとなく割り切れないものを感じる。


2001年03月02日(金) 局所的天候

今朝の東京地方は雪が降ったらしい。
らしい、というのは私が実際にこの目で見ていないからだ。別に東京を離れていたわけでも、午前中一杯引きこもっていたわけでもなく、ちゃんと朝から都心の職場に行っていたのだが、私は単なる雨降りの寒い朝だと思っていた。
職場での世間話で「ほら、今朝の雪で…」とか「すごいボタン雪で…」とか「雪が積もってて…」とか、千葉の人も埼玉の人も都下の人も口々に雪の話にするので、広範囲にかなり降っていたと察せられるが、都心に程近いわたしの家のある辺りはその時間帯スポット的に雪が降っていなかったようだ。

職場のある築地までは地下鉄で行っている。途中で一度地上に出る駅があるが、それ以外は当然ずっと地下にいる。
ちなみに私が知る限り都内の地下鉄の駅(あるいは駅付近で)地上に出るのは、丸の内線の四谷駅、同じく丸の内線の茗荷谷駅、そして銀座線の渋谷駅である。この3駅の共通点は地名にいずれも「谷」がついていることで、おそらくある一定の深さ(海抜何メートルとか)で進んでいると、低いところでは地下に潜りきれなくて外にでちゃうんだろうなぁ、と私は一人合点している。
それはさておき1時間弱の通勤時間のうち地上にいて天候が認識できるのは合わせて10分ぐらい、「点と線」でいうと「点」の時に雪が降っていなければ、地下にいる残りの「線」の部分も雪が降っていないことになる。家に帰って夕刊を見ると、小雪やみぞれ交じりの雨が降った今朝の丸の内の写真入りの記事が出ていた。ふーん、私がぬくぬくと地下に潜伏している間に、悪天候に難儀した人たちがいたんですなぁ。


2001年03月01日(木) もんじゃ焼き

仕事帰りにもんじゃ焼を食べにいった。
5時過ぎに築地を出て隅田川を渡って月島に行く。20分も歩けばいわゆる月島「もんじゃストリート」である。目的の店に入ったのが5時半。一番のりである。

もんじゃ焼きをつつきながら、いつの間にかこんなにメジャーな食べ物になったのかねぇ、などと感慨にふける。今でこそ羽田空港でも「東京の味・もんじゃ焼きセット」などという東京土産が売られるほど知名度が高くなったが、昔は下町のローカルな食べ物で、もんじゃ焼と聞いても「なにそれ?」という反応が多かった。
かくいう私がはじめてもんじゃ焼を食べたのはもう十数年前、下町出身のゼミの先生に他のゼミ生達と一緒に連れられて行ったのが初体験だ。あの頃は月島を通る地下鉄はまだ開通していなくて、東銀座の東急ホテルで待ち合わせてタクシーに乗って月島に乗り付けた記憶がある。

あの頃から人気のあるもんじゃ焼き屋は行列が出来ていたのだが、「もんじゃは月島に限る!」と熱くもんじゃについて語る先生に、厳しくもんじゃ焼の作り方から食べ方のお作法まで仕込まれたものである。というか、振舞い方を知らないと野暮天に見られるような雰囲気が、あの頃のもんじゃ焼屋にはあったような気がする。

地下鉄の開通とともにもんじゃ焼が雑誌などに取り上げられてブームとなり、雨後の筍のようにもんじゃ焼店が増えた。人気の店は席数も多く、支店もあり、予約すら受け付けるようになったが、あの当時はもんじゃを食べにわざわざ月島に行くというのはなんとなく「通(つう)」のような晴れがましい気分でもあったのだ。


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