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2001年04月30日(月) 雨読

昨日の日記はつい先ほどアップしましたので左上のpastをクリックしてお読みください。

連休だというのにワーカホリックの夫はいそいそと出張に行ってしまったので(←85%皮肉)、朝5時起きで夫を見送ったあとベッドにもぐりこんでシアワセの二度寝。外はしとしと雨が降っていて、朝日が差し込むことも騒音に邪魔されることもなく眠りを貪る。朝食を済ませてあったので、目が醒めてそのまま枕もとの本に手を伸ばした。この前地元の公共図書館で借りてきた厚さ4.5センチの文庫本である。実は借りたのは2週間以上前なのだが、期限が来た日にまだ全然手をつけてなかったのでもう一度借り直したのだ。
驚くなかれここの区の図書館は貸出延長という手続きが存在しない。もう一度借り直すか、後ろめたく延滞するしかないのである。善良な図書館利用者である私は、つい2〜3日前にチャリンコを飛ばして図書館のカウンターに行って「これもう一度借りたいんですが」といってぴっぴとバーコードを読んでもらい、そのまま取って返してきたのだった。図書館のメリットは読み終わったら返せることだが、デメリットは期限が来たら未読でも返さなくてはならないところだ。メリットデメリットのどちらに重きに置くかで、図書館を利用するか否かは変わってくる。
ちなみに以前住んでいた区の最寄の公共図書館は電話で延長の申し込みができたが、実際電話すると「できるだけ早く返してください」とか「いつ頃返せますか」とかくどくどいわれてもう二度と延長などするかという気になった。ケンブリッジの図書館は、ついでがあったので図書館に出向いてカウンターで延長を申し込むと「電話してくださればいいんですよ」と親切に教えてくれたものだ(遠い目)。

で、それはともかく、この連休は残りを丸まる自由に使えるのを幸い、朝からきりもなく文庫本を読み続け、お昼にトーストと果物を食べ、さらに読みつづけ、小腹が空いたのでコンビニで冷凍食品のそばめしとアイスクリームを調達し、アイスクリームを食べながらその小説の一番血なまぐさい部分を読み、日が暮れるまでに読みきった。はぁ、面白かった。普段はとても読書家とはいえない私だが、いったん読み始めるとそれこそ寝食を忘れて読みふけってしまう。どうも気持ちの切り替えができないようなのだ。だからこそ普段は読まないようにしている、といったらこじつけだろうか。


2001年04月29日(日) 慰労会

父がここ15年ほどほそぼそとやっていた非常勤の仕事が今年の3月で終わったので、新宿の高層ビル群の一角にあるしゃぶしゃぶ店で兄と共同で慰労会を企画した。顔ぶれは私たち夫婦と両親、兄夫婦と姪である。オフィスビルの地下にあるその店は連休中とあってガラガラで、しかもこの期間中に限って格安の特別メニューが組んである。

掘りごたつ形式の座敷に案内されて、飲み物が揃ったところでややおどけて兄が格式ばった挨拶。父も感極まった様子で返礼をし、自分の来し方を語り始めたのにはいささか驚いたが、まあそれだけ喜んでもらえたということである。いつも思うのだが、昭和一桁世代である両親は戦争がなかったらこうは生きてこなかっただろう、ということばかりである。将来を夢描く年頃と実際に成人として生活の糧を得る年頃の間にきっちりと戦争による分断が横たわっている。
戦争によって生き方が変わり、そして生き方が変わったことにより、両親は出会うことになった。そういう意味で言うと、兄や私は戦争がなかったら生まれてこなかった人間であるともいえる。戦争は過去に終わったものではなく、後々の世に様々な形で影響を与えている。

出される料理は全ておいしく、ビールも熱燗もおいしい。姪ははしゃいで両手を上げて座敷を走り回って挙句に障子に手を突っ込んでしまう。自分でも失敗したと思っている上に大人たちに咎められたのが口惜しいらしく、しばらく駄々をこねて泣きわめいていたが、一番利害関係が少なそうな私と夫の方に擦り寄ってきておとなしくなった。「れいこおばさま」と言わせようとしているが、それはさすがに難しいのか舌足らずに「れこしゃま」と呼ぶ。彼女が泣き止むのを潮にお開きにすると、「れこしゃま、行こう」といって私の指を握ってさっさと歩き出す。あくまで自分のペースで行動する誇り高き2歳児である。

3世帯が持参したカメラでそれぞれ仲居さんに集合写真をとってもらい、われわれ子供たちは両親にケーキを買ってもらって帰路についた。ささやかで幸福な、連休の一日である。


2001年04月28日(土) 質問は忘れた頃にやってくる

自分のページに旅行先や滞在先の土地に関する文章を載せていると、検索エンジンで引っかかるのか、時たまメールや掲示板で質問を受けることがある。これから未知の土地へ行こうとする人が様子を知ろうとして、藁をもすがる思いで私なんかに聞いてくるのか、と思うと不確かなことや古くなった情報を答えるわけにはいかないと思って、情報源を参照したりしながらせっせと答える。情報源といってもガイドブックやネット上で間単に手に入る程度のことだけれど、回答を書くにはそれなりに時間を割いている。

当然無報酬である。別に見返りを期待するわけではないのだが、しかし、回答した相手からそのあとどうしたという報告があることは殆ど無い。一言なにかメールや掲示板への書き込みをする気持ちがないのだろうか。私が提供した情報では不満足だったのか、不正解だったのか、それならそれでそのフィードバックが欲しいと思う。

それほど頻繁にあることではないので、いちいち目くじらを立てるほどのことではないのだが、彼らはは一体どういうつもりで質問しているのだろうか、とその都度疑問に思う。こちらは別に公共図書館のレファレンスサービスでも子ども電話相談室でもないのだ。人から何か情報を引き出そうとするとき、郵便ならば返信用はがきを入れるなり、切手を同封するなりするだろうに、と思う。電話で問い合わせをしたって、何がしかの情報を得ればお礼を言って電話を切るだろう。

こういう人たちは手軽にしかも無料で使えるネットというメディアを生かして、あっちこっちに手当たり次第質問をして、自分に適した情報を効率よく仕入れているつもりなのだろうか。他人の時間を使って、他人のリソースを引き出していながら、それを当然の権利のように上手なネットの利用法とでも心得ているのだろうか。
この手の質問に答える度に少しばかり失望を覚える。そしてそう思いつつも、質問のメールや書き込みは失望を忘れた頃にやってくるのである。


2001年04月27日(金) どよ〜ん

えーと、昨日の日記はさっき書いたので、左上のpastをクリックして読んで下さい。

で、今日の出来事を一言で総括するなら「どよ〜ん」である。今日ある事実を知ってしまったのだ。それはあまり芳しくないことで、その事実が明らかになったということで、この先に待ち構える岐路のどちらかを選ばなくてはならないのだ。まあそれ以前にその岐路を選ぶかどうかを選ぶという岐路も存在しているのだけれども。
こんな書き方をしていては、読んでいる人にはなんのことやらさっぱり分からないだろうとはいうことは分かっている。だからといって具体的にああだこうだと書くことは私の意に染まないことだ。だったら書くなよ、という気もするのだが書かずにいられないというのもまた厄介な衝動であるわけだ。
自分の備忘録として、今日そういうことがあったのだと思い出すトリガーにはなることは確実なので、とりあえずこう書いておく。どよ〜ん。


2001年04月26日(木) 大木フェチ

どうも大木フェチであるらしい。
それも針葉樹ではなく、広葉樹。新緑の時期は特にケヤキがいい。あの空に向かって広げた手のようにすらりと伸びた枝に、さわさわと茂った若葉。風が梢を揺らしたりすると、こちらの心まで震えるような気がする。うぅむ、ケヤキらぶ。まだ淡い色の透き通るような葉の一枚一枚に日の光が当たって、きらきらと反射しているのを見ると、こちらの心も輝くような気がする。うぅむ、ケヤキ萌え。

石川で住んでいた団地は、花粉症に悩む一部の住人から「伐採してしまえ」などといわれるほど近くに杉林があって、ひんやりした夕方などに針葉樹特有の芳香が漂っていたものだったが、それほど心が揺れるということはなかったような気がする。どうも針葉樹というのは、まっすぐ伸びるし、おとなしく円錐形を保とうとするし、葉を落とすこともせず紅葉するわけでもわけでもなく、何しろ地味なのだ。杉などは春になるとばさばさと黄色い花粉を撒き散らしてなんとなく存在を主張しているが、モミの木の類に至っては地味さのあまり、てっぺんに星などつけられて全身に金モールやら電飾などを巻き付けられたりもする。そこへ行くと広葉樹はあたりかまわず枝葉を広げるし、葉を一杯広げて日当たりを悪くするし、かと思えば季節の変わり目には葉をばさばさ落してそこいら中を散らかすし、かなり身勝手である。でも好きなんだよなぁ。

今住んでいる部屋は、窓から木を見下ろす高さにある。その分見晴らしがいいといえばいいのだけど、次はケヤキの大木を見上げるような家に住みたいなぁ。


2001年04月25日(水) 不公平

なんともやりきれないのは28歳の主婦が18歳の少年に刺殺されたという事件で、残された家族はどうなるのっていうか、なんで被害者の夫の住所・氏名や家族の最近の生活まで明らかにされてしまうのか、納得がいかない。加害者である少年の方は、高校を卒業した出身地と事件のあった県内に越してきたぐらいが報じられただけで、本人の名前はもちろん家族に関する報道もほとんどない。この刃傷沙汰だけを取り上げてみても少年がすべて悪いのではないだろうし、別に少年の素性を暴き立てろというわけではないけれど、被害者の夫の立場がここまで明らかにされてしまうのは、あまりに被害者側の心情や生活を考慮しない所業ではないか、と思うのだ。


2001年04月24日(火) 路上観察者れいこな

朝一番で四谷へ。電車の乗り継ぎが順調で予定よりずっと早く着いたので、セルフサービスコーヒーのチェーン店へ。都会に出るとこの手の店って本当に重宝するなぁ。待ち合わせによし、現実逃避によし、20分空き時間があったら入るね、あたしゃ。窓際のカウンターに座って街路樹が風にゆさゆさゆれるのを眺めたり、風に飛ばされそうになりながら携帯で話している目の前のサラリーマンを観察したり。

用事はさっさと済んで天気もいいので、そのまま新宿通りを歩いて新宿三丁目まで。ちょうど丸の内線の上を3駅分歩いたことになる。途中から新宿御苑の外苑に入り込んで木漏れ日の下をしばらく歩く。路上生活者の姿がちらほら。彼らが寝そべらないようにか、ベンチの上に下駄を逆さにしたような仕切りがついている。ここら辺は飲食店も多いので集まるだろうな、と思う。

新宿三丁目周辺で文房具やら雑貨やらをいくつか購入。パンをきらしていたのでデパート系食品店で1斤だけ買う。まだふかふかであたたかい。午前中はどこも空いていて買い物もスムーズ。こじゃれた店と風俗店とが入り組んだ猥雑な界隈。通りの角にある「白衣・ユニフォーム」と看板の出ている店は、土地柄さまざまなニーズを取り入れた結果なのか「胸元ふわふわソフトボンテージ」とか「バニーちゃん」とか、店頭の品揃えはコスプレ系の占める割合が圧倒的に多くなっている。黒蝶ネクタイの店員に付き添われてタクシーに乗り込む、風俗店帰りらしき車イスの男性。キャップを目深にかぶった後姿。
人の営みはきれいごとだけじゃない。

ケーキを買って昼過ぎ帰宅。今日は夫の誕生日である。おめでとう、ぱふぱふ。


2001年04月23日(月) なんとなくダウナー

結局バーベナの一つは復活しないみたいだ(泣)。
今日はいろいろ朝からやることがあったけど、気ばかりあせってあまり進んでない。朝から電話をかけたり作業をしたりしてるけど、どれも明日に持ち越しとかしきりなおしとかで達成感がない。内職はもうすぐ一段落するので終わらせたいんだけどなぁ。
昨日の夜からなんとなく頭痛がする。普段頭痛もちでないだけにどうやって対処していいのかよく分からない。アニメの一休さんのポーズでこめかみをぐりぐりっとやってみてるんだけど、これって2〜3日前に夫がやってたなぁ。さては同じ風邪なのか?それにしてもなんでこう月日が流れるのが早いんだろ。あっという間にもう初夏の雰囲気。東京地方、月初に雪が降ってたなんて信じられませんわ。


2001年04月22日(日) 油断大敵

がーん。夕方昨日植えたコンテナに水を遣ろうとしたら、バーベナが萎れてた。昨日は雨だったし寒かったのでちゃっちゃと植えて、出かける間際だったので水遣りもテキトーだったのが敗因かなあ。今日は朝からいいお天気で風も強かったのでやられたみたい。慌ててたっぷり水を遣って1時間ぐらい置いたら二株あるうち大き目のはなんとか復活したけれど、もう一つはどうも回復の兆しが薄いような気が…。えーん。しまったなぁ、ごめんにょ〜。やっぱり小さいのは弱いんだなぁ。なんとか持ち直して欲しいものである。ていうかお願い、助かって。ぺこぺこ。

おかげさまで日記のカウンターが予想以上の伸び。早くもトップページのカウンターの半分近くになりました。ってトップページ通らないで来る人が多いのね(笑)。


2001年04月21日(土) 「いろいろ」から「とほほ」まで

夕方から夫の両親と弟夫婦と食事をする予定になっていたので、午前中はうちでごろごろ。っていうか何やってたんだか記憶に無し。あ、「知ってるつもり」の再放送ででフジ子・ヘミングの壮絶半生をやっていた。純粋というか不器用というか、うまく立ち回れない母と娘であったのだなぁ。さらに運命のめぐり合わせにに翻弄され、そして引き換えに彼女のあのピアノが生まれたのだ。「間違えたっていいじゃない、機械じゃないんだもの」という彼女の言葉通り、情熱的なほとばしるようなタッチには時として妙な和音が混ざる。しかし彼女の奥深くまで染み込みんだ音楽は、時を得た春の雪解け水のように全身から溢れ出すのだ。

テレビを見ながら内職をするつもりが、番組に引き込まれたり途中クリーニングの御用聞きが来たりではかどらず。番組が終わってさて、と思ったら今度は日○谷花壇の通販が届く。毎月一回の頒布品である。一応終の棲家に越したということで大きなコンテナに挑戦。今月はカンパニュラ、バーベナ、レースラベンダーと深いコンテナで花はいずれも青系。これから毎月、季節の変わり目に花だけを植え替えたりして12回で4つのコンテナが完成する。早速コンテナつくりに取りかかったので内職は出来ず。

少し早めに家を出てJRで秋葉原へ。改札口を入るとき間違えて地下鉄用のプリペードカード(パスネット)を入れてしまったので出られない。窓口へいって「パスネット/イオカード」なんとか連絡票という紙を発行してもらい、電車賃は精算。「パスネット誤投入」という欄にチェックがしてある。日常茶飯事なんだろうなぁ。
雨の土曜日なのに相変わらずの人出。夫は出張用に便利だからと新しいノートパソコンを買う。それにしても最近のモバイル環境というか持ち歩き用の電子機器(どうちがうんだ?)の充実ってば楽しすぎ。若者の心をがっちりつかんでるよな、と思う。もう片時も手放せないんだろうな。おばさんとしては持ち歩くのがめんどくさいんだけど。

夜は中華料理。スポンサーつきなので普段食べられないものを大いに食べる。帰りは地下鉄。改札窓口で昼間のパスネット誤投入の処理をしてもらっていると、後ろで「すみません、風でカード飛ばしちゃったので取っていいですか?」という声。振り返ると夫が改札の内側に入り込んでカードを拾っていた。カードを間違えて突っ込んでしまう妻、カードを風にさらわれる夫。とほほほほ。


2001年04月20日(金) センセィショナルにっけー

「そんなバカな…」。都内のある中堅メーカーの課長代理、島工作(38才・仮名)は取引先との電話を切るなりそうつぶやいた。

みたいな始まり方する記事ってにっけー新聞に多いと思いません?新聞だけじゃなくてにっけーコンピュータとかにっけーエレクトロニクスとか、にっけー系の記事ってやたらとこの「 (独白か衝撃的な一言) 」が冒頭にくるパターンが多いのだ。多分、他のにっけー系雑誌も似たようなものだろう。取材した臨場感を出しているつもりなんだろうけど、その割に書いてあることは机上で対処可能な内容だったりする。あのセンセィショナルな書き出しはどこへいったんだい?って感じ。

にっけーといえば、最近の広告の「こうみえてもにっけーは読んでいる」に出てくるおネーちゃん、いかにもにっけー読んでそうに見えるんですけど。この場合全然センセィショナルじゃないよね。「あたし脱いでもすごいんです」路線を狙ったのか?完全にはずしていると思う。インパクトを与えるどころか、若いねーちゃんはにっけーの購読層じゃありませんって自ら決め付けてるようなもんだと思うけどなぁ。これが生後間もない赤ちゃんや水槽の熱帯魚が「こうみえてもにっけーは読んでいる」とか言ってるなら意外だけどさ(でも信じないけど)。そもそも外見で人を判断するだなんて、ジャーナリズムの風上にも置けないねっ!(←根拠不明)

とりあえずステレオタイプにあぐらをかくのは怠慢であろう。ひかえおろう。


2001年04月19日(木) 犬も歩けば

昨日今日と、予定が空振りになって代わりに新たな発見をするということが続いた。と書いてもなんのことやらさっぱりわからないが。
具体的には、昨日某大学の図書館のとある貴重書の撮影を見学しに行く予定だったのだが、指定の時間に部屋に行ったにも関わらず一向に始まる様子がなかった。なんのことはない、そこには新旧2つの図書館があって行き違ったのだ。しばらく手持ち無沙汰に待っているうちに、書架に並んでいる本をざっと眺めたりして、面白そうな本を数冊見つけた。そうか、ここにくればいろいろあるんだ、という新しく当然な発見。
今日は今日とて、某大学の演劇博物館主催の展示が面白いですよ、と教えられて行ったら、その展示は他の特設会場でやっているらしく、全然違う企画展を見ることになった。「キャラメルボックス」という劇団の15周年記念の展示である。私は現代演劇に疎いので劇団名など数えるぐらいしか知らない。この劇団も当然知らなかったが、上川隆也の属しているところだそうだ。展示のほかにビデオも流していてモニターの前に置いてあるサイコロ状の椅子に腰掛けて、女子大生らしい他の見学者たちと声を立てて笑ったり。よくできた芝居で面白かった。
出不精なせいか予定外の行動をすることが少ないので、こんな時はなんだか得したような気分になる。犬も歩けば棒にあたるというか、迷子になったおかげでその辺の地理に詳しくなるようなものか。


2001年04月18日(水) 王様の耳はロバの耳

今日から英語学校は新学期。今度のクラスは前回の持ち上がりだが人数はぐっと減って5人。今日はそのうち私とバカっぽくしゃべる彼女と新しく入ってきた女性の3人。バカっぽくしゃべる彼女は今日は仕事を休んだそうで、遠出帰りのカジュアルな出で立ちでメイクもナチュラル。なんだかとても可愛く思えて初めて仲良くおしゃべりしながら駅まで帰った。

…なんてことを書いたら、もしたまたま彼女がここを読んだら絶対自分のことだってわかっちゃうよな〜と突然心配になった。現に別のクラスで一緒になって友達になった人でここのサイトの存在を知っている人は何人かいるし…。

ネット上の人間関係は、遠く離れた未知の人たちと出会うチャンスばかり強調されているが、案外近くにいる他人に個人情報を流していることには、私も含めて気が回らないようである。ネットの匿名性を利用して、王様の耳はロバの耳とばかりに詳細にいいたい放題のページをたまに見かけるが、まるで近くにはネットにつないでいる人がいないかのように錯覚するのだろうか。見ず知らずの他人でも、近くにいてその行動パターンが符合すれば、個人の特定はたやすいことである。

以前私は、ホンの偶然に見ず知らずのネット上の人物の実物を知ってしまったことがある。あれは私が石川から引っ越してくる直前の夏のことでござった(←日本昔話風)。私は日頃の運動不足を解消すべく、自宅近くにある温水プールに通って水中ウォーキングを日課にしたのだった。同時に、その当時はまだ日記猿人と呼ばれていたリンクサイトから辿って、いくつか日記を拾い読みするのも日課にしていた。

そのプールでは水中ウォーキング用のレーンがある。毎日似たような時間帯に行くので自然と他の歩いている人たちを認識するようになった頃、たまたま読んだ日記に、ダイエットのために水中ウォーキングをしている、と書いてあった。ちょっと親近感を覚えてさらに読み進んでいくと、どうもそのプールの情景が私が知っているそれと酷似している気がしてきた。地名はイニシャルにしてあるが、とりあえず一致する。次の日の日記も、その日行った時間帯やその時のプールの様子などが詳細に書かれていて、それはまさに私が体験したものだった。間違いない。同じプールに通っているのだ。

プールに来ている人の誰がその彼女か、日記の内容から同定するのに難しいことはなかった。自然に「ああ、この人が」と分かってしまったのである。彼女は自分の日記でダイエットを宣言して、毎日体脂肪と体重とその日プールで歩いた距離を表にして載せていた。図らずも私は目の前でせっせと歩いているその彼女のフィジカルデータ、配偶者とのいさかい、娘のできちゃった結婚、彼女の心の葛藤などについて詳細に知ることになってしまった。

これにはさすがに凹んだ。いくら地名や名前を匿しても、読む人が読めば分かってしまう。別に悪意をもったページではないし、こちらも本人を同定できたからといって実際に彼女の本名や住所を知ったわけでもない。結果「見て見ぬふり」を決め込んだのだが、彼女が自分を知る人のない(と信じている)広い世界に向けて心情を吐露しているのに、思いがけずその近くで私がそれを覗き見しているような罪悪感を覚えた。彼女のダイエットがその後どうなったかは私は知らない。



2001年04月17日(火) 商店街の三要素

うちの近所は社宅が多いせいなのか、八百屋さんなどの小売業が健在である。実際八百屋専売で勝負しているところは少なく、小規模スーパーとなっていたり兼業していたりはするのだが、いずれにしてもまだ競争原理が働くので全体として品は安くて新鮮なような気がする。実家のあたりは相次いで店じまいしてしまっているので店を選ぶということはあまりできないし、いきなり大型スーパーに車で乗り付けてしまったりするので、ますます商店街の過疎化に拍車がかかる。

商店街というか日々の食材関係の小売店が成り立つための三要素法則というのがあるらしい。「肉屋、魚屋、八百屋」である。これにプラスしてケーキ屋、花屋、電気屋など急を要さない小売店がくっついて商店街が成り立つ。
つまり、この三つが軒を並べていると買い物が一度に済むので消費者の足は向くのだが、このうち一つでも欠けてしまうとその一つのものを買うために他に足を伸ばさなくてはならなくなるので自然と遠のいてしまうのだという。

現に実家の近くにこの3要素がセットになった一角があったのだが、肉屋が店じまいしたのをきっかけに魚屋が店をたたみ、ついで八百屋が大家さんに賃料値上げか立ち退きかを迫られ、結局そこに残ったのは付随的なガラス屋と飲み屋だけになってしまった。

話はそれるがダイエーとそごうが閉鎖した木更津は、商店街自体にぱったり客足が途絶えて深刻な状態なのだという。同情もするが消費者側も生活がかかっていることであるし、難しい問題ではある。


2001年04月16日(月) 新緑の候

例によって朝から実家へ。
朝一番で母と一緒に美容院に行くことになっていたので、とりあえず間に合うようにワイドショーで聖子の娘のCMデビューを見てから家を出る。出ようとすると宅配便が届く。ようこさんから。こうやって五月雨式に用事がやってくるので、家に居る主婦というのは案外忙しいものだなぁと改めて思ったり。

車で美容院に行く途中にケヤキの街路樹があってその新緑に圧倒される。植え込みには白やピンクや赤のツツジ。にょぉ〜美しすぎる。よそ見して事故を起こさないようにハンドルを握りなおして気を引き締める。
カットはさくさくと終わり、母のパーマが仕上がるのを待ちつつ雑誌を読み倒す。0GGIの専属モデル「長○川理恵@片割れ%不倫は文化だ」は確かにきれいだしかわいいいしかっこいいと思うけれど、ページをめくってもめくっても出てくるので食傷気味。

京樽で3人前買って戻る。昼食後、庭仕事。実家の花壇は未だパンジーと白妙菊などの冬仕様のままでただ大きく育っている。葉牡丹などしゅるしゅると茎を伸ばして菜の花に似た黄色い花をつけている始末である。花苗を仕入れに近くの安売り園芸店に行く。初夏の花が勢ぞろいしていて目もくらむばかりの豪華さ。

赤、オレンジ、黄のナスタチウムをそれぞれ1つずつ(@\100)とマーガレットを2つ(@\150)、特売品の紫のアリッサム(@\80)、ブルーデイジー(@\100)をそれぞれ2つで、消費税込みで\1008。うーむ、安い。アリッサムはまさに売れ残りと言う感じで、茎はだらしなく伸び、みすぼらしい花がついている。母は「あたし自分が年取ってるから、盛りが過ぎた花って好きじゃないのよねー。」と嫌がるのだが、私はそういう状態のよくないものが世話をしているうちに回復していくのが嬉しいのでこっそり混ぜておく。

冬仕様のプランターを初夏仕様に衣替え。行き場を失った冬仕様の花は別のハンギングバスケットに仕立てて分散させる。どうも私はダメになった花を捨てるということができない。庭の片隅に象の墓場というか盛りの過ぎた花を「ほかす」場所を設定してあるのだが、今日そこに「ほかした」はずのキンギョソウがいつのまにか復活して花をたくさんつけているのを発見。やっぱり自然の時計ってすごいやね、と感心する。

冬の間に消滅したと思っていたミント類がわしわしとのびて葉を茂らせているので、ざくざく刈り取って生のままハーブティーに。そういえばこのミント類は、前のマンションに住んでいたときに買い集めたものを差し芽して実家に移植したのだった。オリジナルは旅行で長期に家を空けたときに枯らしてしまったが、子孫はこうやってまた葉を茂らせて美味しいミントティを飲ませてくれるのだなぁ、としみじみ。



2001年04月15日(日) 山芋入りでさくさく

新宿でお好み焼きを食べた。
最近のお好み焼き屋はもんじゃ焼きもやっているところが増えたようだ。私は死んだひいおばあちゃんの遺言を守っているので、月島以外ではもんじゃ焼きを食べない(嘘)。

ちなみに今日行ったところは自分で焼くところで、自分でお好み焼きを焼くのは久しぶりである。お好み焼きは焼いたのを持ってくるところも多いが、もんじゃ焼きはその外見から、自分で目の前で焼いたのでなければ食べる気がしないだろうと思う。
私はお好み焼きはいつも「豚天」と決めている。そのほかにあえてもう一枚というのならシーフードミックスである。で、今日はもちろん豚天にするつもりでいたら、メニューに「宝塚風」というのがある。タカラヅカといっても男装の麗人が入っているわけではない。「山芋いりでさくさく♪」と書いてある。おおっ!さくさくのお好み焼き!昔一度だけ食べたことがあるさくさくのお好み焼き。私はそれにして、夫はモダン焼きにする。

ほどなくタネの入った小さなボールが運ばれてきた。もんじゃ焼きほどではないにしろ、お好み焼きが上手く焼けないのはちょっと野暮ったい。思わず隣のテーブルを覗き見たりする。宝塚風はさすがに山芋入りだけあって、混ぜるとかなり粘りがある。具は豚こまが3切れ、よしよし。ぐるぐるかき混ぜて鉄板へ。田辺聖子の短編小説などを思い出しながら丁寧に焼く。

山芋入りのお好み焼きを初めて食べたのは、10年以上昔のことで、下町出身の男友達に連れられて浅草の汚いお好み焼きやに行ったときだった。そこの親父さんはヤな奴(友人談)だったのだが、親父さんの焼くお好み焼きはさくさくで本当に美味しかった。男友達は「ちくしょー、うめえよなぁ、くそ親父のくせによぉ」と本気で悔しがりながらお好み焼きにかぶりついていた。

私のお好み焼きは当然そんなに上手くは出来なかったが、あの時食べたさくさく感をほんの一部分に再現できたのでうれしかった。夫のモダン焼きは…(ブツッ!…ツーツーツー…)


2001年04月14日(土) 不幸と幸福の多寡

夜、昨日図書館で借りきた本を1冊読んで、眠くなったので寝てしまった。

図書館で借りてきた本は、文庫と新書が一冊ずつ。文庫は花村萬月の「二進法の犬」。これは彼の芥川賞受賞直後の作品らしい。長編小説と銘打ってあり文庫のくせに厚さ45mm、本体価格1238円、図書館で借りるととってもおトクな気分である。新書は「不幸になりたがる人々」という精神科医・春日武彦の書いたものでサブタイトルは『自虐指向と破滅願望』。内容はタイトルほどにはセンセーショナルでなく、いわゆる変人とか奇人とか言われる人たちや自ら不幸に向かっていくような人々についての考察である。

世の中には運の悪い人とそうでない人がいるとか、いやいやそうはいっても人間の不幸のたかと幸福のたかは結局は等しくなるものであるとか、その場の状況に応じていろいろと言われているが、日ごろさまざまな人物や症例を見ている彼からすると、どうも不幸の「だめ押し」のように次から次へと込み入った不幸な状況に陥っていく人が多いようなのである。

逆にあまりに物事順風満帆に過ぎても、「空が落ちてくるのではないか」とか「幸せすぎて怖い」とか「自分がこんなに幸せでいいはずがない」とか、いわれのない不安にとりつかれたりすることは多い。で、あたかも予防接種のようにあらかじめ不幸の先取りをしてしまう人たちもいるそうである。

で、著者が冗談半分にいうには、確かに長い目で見れば不幸と幸福とが等しくなるようなある周期で曲線を描いているとして、その周期の上に人の人生が乗っているのではないか。よって細かい周期の人は人生の内に不幸と幸福とがちゃんと同じように来るし、周期が長い人は不幸へ向かう曲線のうちに一生を終えてしまったり、その逆に幸福なままな人もいるのではないか、ということである。

そういわれてみればそうかな、と思う。何より人生のうち不幸と幸福のたかが等しいならば、不幸なときはいつか幸福になれることを信じてなんとなく救われたような気になれるかもしれないが、幸福な半生を送ってきた人は晩年に向けて不幸がやってくるのを今かいまかと恐れ待たなくてはならないではないか。宝くじが当たるような幸運が舞い込む人には宝くじに当たるようなすごい不幸が舞い込んでしまうというのなら、宝くじなんか当たりたくない(でも買っちゃう)。

はたからどう見えるかはともかく、自分が不幸か幸福かに頓着しないのが一番幸せということだろうか。


2001年04月13日(金) なんちゃってなくせに…

午前中銀行の窓口に用事があって自転車で最寄のJR駅前に行った。

銀行に行くといつも店内をきょろきょろと観察してしまう。行員の対応、ロビーの雰囲気、処理の早さなど。かつて自分が勤めていた銀行ならなおさらだ。といっても所属はシステム部だったので、就職してしばらくの営業店研修ぐらいしか支店で働いた経験はない。つまり「なんちゃって銀行員」であり、何かを意見する分際ではない。

銀行の用事は簡単に終わり、ついでにメインバンクである他行で通帳記入をして帰ることにする。駅前を少しうろうろするが見当たらないのであきらめかけていると、案内の看板を見つけた。こちらは駅から少し離れたところにある。まだ行ったことがないエリアなのでいい機会と思ってそのまま出かけていった。窓口係の年齢層が高くて少々驚く。

それから帰り道にここに越してきて初めて公共図書館で貸出カードを作ることにする。

図書館にいくといつも館内をきょろきょろと観察してしまう。職員の対応、書架や閲覧室の雰囲気、蔵書の種類など。図書館司書の資格をもっているとはいえ、新卒で就職したのは銀行なので、実際の図書館で働いた経験はない。つまり「なんちゃって図書館司書」であり、何かを意見する分際ではない。

うーん。意識して宗旨変えをしたつもりもないのだが、なんと「なんちゃって」な経歴が多いのだ。その他にも「なんちゃってパソコンインストラクター」とか「なんちゃって化粧品アドバイザー」とか「なんちゃって」なものは実は多い。
この上は私の存在そのものが「なんちゃって」にならないように願うばかりである。


2001年04月12日(木) なにがあるあるあるあるだったか。

昨日の森博嗣の続き。
「水柿助教授」のなにが「あるあるあるある」だったかについて舌足らずだった。
それは新婚当時の主人公が太平洋沿いの地方都市の国立大学に勤めていた頃の章にある。私はほぼその反対側の日本海沿いの地方都市の小さな町で、とある国立大学院に勤める夫とともに暮らしていたのだが、その小さな町での日常があまりに私の場合とオーバーラップするので図書館の固い椅子の上でヒクヒク笑いをこらえながら読んでいたのであった。

地方の小さな町に住んでいると、どこへ行っても知り合いに会う。
これはケンブリッジでも同じことを体験したが、町に駅が一つしかない、銀行も郵便局も目抜き通りもスーパーマーケットも一つかせいぜい二つぐらい、となると、みんな似たような時間帯に似たような目的で行動するので、それはもうかなりの確率で知り合いに会うのである。
東京に住んでいるといくら友人知人が多くても、よほど近所でない限りばったり知り合いに会うということはない。100万人都市に100人知り合いがいる場合と、10万人都市に10人知り合いがいる場合とを比べれば一目瞭然である、と作者は述べていて、よくわからないのだがそういうことである。

夫が教員だったりすると、教員対学生という1:nのような関係で一方的に面が割れている。敵は何十、何百である。しかも「先生の奥さん」でありながら学生をやっていたりすると、一緒に学食に行ったり学内を連れ立って歩いたりすることもあるので、かなり目立つ。
そうすると例えば、隣町に新しく出来たファーストフードに行って夫とともにハンバーガーにかぶりついていると、遠くの席からにこやかに挨拶をしてくる見覚えのない若者がいたりする。
私がちょっと実家に帰っているときに夫が新規開店のスーパーを冷やかしていると、翌週私に会った学生の一人が「この前の水曜日先生が○○スーパーにいましたよ」とわざわざ知らせてくれたりする。
そうかと思えば休日に夫婦揃ってスーパーに買出しに出かけて、両手一杯の食料品やら日用品をぶら下げて店を出たとたんに同じく買出しに来た同僚夫妻に会う、という気まずいものもある。

学生の時分、夫の留守に研究室の仲間と夜ビリヤード場に行ったとする(仮定)。
さんざ遊んだあとビリヤード場の受付の兄ちゃんに「あそこの学生さんですよねぇ」などと話し掛けられる。なんのことはない、そこらじゅうでバイトしている若者もみんなそこの学生だったりするのだ。
女子学生は少ないので覚えていたのだろう。他研究科だったので、幸い私が「先生の奥さん」であることまでは知らなかったようだった(仮説)。

知り合いに会って声をかけられないまでも、どこかで目撃されてるんじゃないか、というこの閉塞感。
悪いことがいったいどんなことであるかはよくわからないのだが「悪いことはできないですねぇ」などと思わず言ってしまう、と作者は述べているが、まったくその通りなのである。あるある。


2001年04月11日(水) 森さん、見直したよ。

新年度、新学期、なんとも気分が高揚してくる時期である。

朝から外出。この前買ったばかりのスーツを着ているので余計に気分がいい。日中は汗ばむような陽気。桜の花はほとんど散ってしまったが、その分新緑が芽生え始めていてなんともすがすがしい。

すがすがしいついでに本でも借りてみるかと、途中にある図書館に入って新刊本の棚を眺めていると、森博嗣氏の「工学部水柿助教授の日常」があった。本人をモデルにした私小説のようなエッセイのようなもので、ところどころミステリーのからくりやエッセンスが含まれているようだ。現役の国立大学工学部の助教授である作者が描く「日常」であるから、かなりリアルに違いない。面白そうなので借りることにして、それから初心に返るかと彼の第一作(実は4作目らしい)「すべてがFになる」も手にとってカウンタに向かったところで、貸出カードを忘れてきたことが発覚した。うーむ。「すべてがFになる」は棚に戻したが、そのまま手ぶらで帰るのは悔しいので新作の方を少し読んでいくことにした。春になって日が長くなってくると、太っ腹である。図書館の固い椅子の上で姿勢よく読むこと1時間あまり。文章も軽妙で(というかくどくもあるが)、これは面白い。

だいたい森ミステリーはトリックそのもののアイディアはすばらしいと思うのだが、登場人物の描き方(特に女性)がいかにもステレオタイプ的でいかん、と常々思っていた。この本に出てくる登場人物はもっと現実味を帯びていて、主な女性の登場人物は、2章まで読んだ今のところ主人公の妻と研究室の秘書なのだが、この二人ともいい。夫を「君よばわり」してしまう妻にわが身を重ねてしまったりもする。主人公が新婚時代に助手を勤めていた三重県津市での生活の様子なども、私自身の体験と重なるところがあり、思わず「あるあるあるある」と心の中でつぶやきつづけてしまうのであった。


2001年04月10日(火) そこにいた形跡

昨日、北陸のとあるところで小さな集まりがあった。参加者は三人。いずれも私のサイトにある掲示板の常連さんである。桜の開花の話題から、そのうちに北陸に住む三人が「じゃあ是非地元でお花見をしましょう」ということになったのだ。あれよあれよと話はまとまり、以前私が住んでいた辺りでランチ&お花見としゃれ込んだそうだ。ほとんど初対面にも関わらず相当楽しかったらしく、その様子がそれぞれ掲示板にフィードバックされて、こちらもとても楽しい気分になった。

こういう時、ネットというのはつくづくフラットなものなのだと思う。一口に北陸に住む三人といっても、一人は夫同士が友達という関係で仲良くなった元のご近所さんでもある人、一人は以前たまたま私のページを検索エンジンで引っ掛けてそれ以来のお付き合いの人、そしてもう一人はネットで知り合って仲良くしている人の元からの知り合い、と私自身との関係もまちまちである。普段の生活ではなかなか知り合う機会がないだろうそれぞれの立場も年齢も違う人たちが、ある掲示板に書き込んでいるという共通点でいとも簡単に結びついてしまう面白さがある。

それはとてもネット的な集まりでもあると同時に、生身の私が間違いなくかつてその場所にいた、という証でもある。私そこに住んだから出来た友人、私がそこに住んでいたという事実でぐっと親しみが湧いた友人、その地方共通の話題で盛り上がれる友人。実際に私がそこの場所にいたことがなければ、たとえネット上であれ知り合うことのなかったかも知れない人々である。彼女たちの交流は、そのまま「私がそこにいた形跡」を浮かび上がらせてくれる。


2001年04月09日(月) その20分が難しいのよ

日ペンの美子ちゃんは今も健在だろうか。
こどもの頃読んだ少年雑誌の裏表紙などによく広告が出ていた。毎日たった20分の練習で字が上手くなりますという触れ込みで、美子ちゃんがどんなに易々と字が上達して、そのおかげでどんなにいいことがあるか、というマンガが載っていた。その同類としては、軟弱な青年が浜辺で女性達にやせっぽちの坊やと呼ばれたことに発奮して、なぜか日焼けまでしたマッチョマンになるブルー○ーカーのマンガもあった。あと通信販売で不思議なクルミ、「ミラク○ミー」とか、どんどん記憶ができるヘッドフォン「キ○ークマン」とか、妖しげなものもあったな〜。

なんでそんなことを急に思い出したかというと、今日もお習字をやったからである。「墨を磨っていると心が落ち着きます。」とか「紙に向かっていると無心になります。」とかそういう効能を述べる人は多いけれど、私はプレッシャーとともに書いているので(笑)、なかなかそういう境地にはならない。
とはいえ、やり始めるまではぐずぐずと道具を出すのも億劫がっているくせに、書き始めて少しすると今度はだらだらだらだらだらずっと書きつづけてしまう。ある意味無心になっているのかも知れないが、その分あとでぐったりと疲れてしまってなおさら次回筆をとるのが億劫になってしまうのだ。

毎日こつこつどころではない。これでは日ペンの美子ちゃんの教えに反してしまう。でも毎日かならず20分何かを練習したら、なんだって上達すると思うよ。20分って結構長い。


2001年04月08日(日) 花祭り

昨日に引き続き今日も散歩。昨日お寺の本堂で高さ1mほどの白い象の置物を見た。デジタルカメラで撮影した画像を夫に見せたところ、自分も見たいと言い出したのでお昼前に外出。彼は牛とか象とか神仏のお使いの動物が好きである。

新たな裏ルート(聞こえが悪いな)を開拓しつつお寺へ。門前で小規模なフリーマーケットが開かれている。洋服が多い。あとはフィギュアとか。売れ筋はかなり若めで所帯じみた丁丁発止がない。若い男の客がTシャツを身体にあててみて「うぉっこれカッコイイっすねぇ」などと盛り上がる。売り手も買い手もお互い敬語なのがほほえましい。
一歩境内に入ると平均年齢は倍以上に跳ね上がる。ここのお寺は高齢者の参拝客が多い。巣鴨のとげ抜き地蔵よりも年齢層は高いのではないか。杖にすがってヨロヨロと熱心に参拝しているご老人をよく見かける。そのせいかこのお寺は、お堂に上がるためのスロープなど車椅子用の参拝路が充実している。階段も段差を少なくして手すりの数を多くした新しい階段が、旧の階段にかぶせるように作られている。回廊でつながった各お堂も車椅子のまま参拝できるようだ。

相変わらずしずごころなく花の散る中を本堂を目指す。昨日は本堂に向かって右側に左向きにあった象が、今日は左側で右向きに安置されている。よく見ると台車に乗っていて、足は欄干に縛り付けてある。象の逃走防止か。
昨日象があったところでは若い僧侶が二人でお茶と花のサービス。やっとこの辺りで納得した。今日は花祭りなのだ。白い象は天蓋がついていてその部分一杯に花が飾られている。麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説があるそうだ。本堂に上がる人たちはそこで甘茶を振舞われて帰りに花を一輪受け取って帰るようである。参拝帰りの人とすれ違うとプンと甘いフリージアの香りがした。

陽気がいいのでお寺を後にして住宅街や商店街を抜けてさらにJR駅まで足を伸ばす。にぎやな街の様子に「この辺に住んでもよかったなぁ」と夫。あんたぁ、それはいいっこなしだよぉ…ていうか高くてムリ。途中でお茶を飲んだりお昼を食べたりして、帰りも新たな裏ルート(やっぱり聞こえが悪いな)を開拓しつつ帰宅。計4時間。疲れた。


2001年04月07日(土) 散歩

両親がバスに乗って遊びに来たので、うちでお茶を飲んで少し歓談した後、昼食がてら散歩に。風もなく穏やかな散歩日和である。父は花粉症気味だそうだが、マスクをして機嫌よく歩く。私が住んでいる区は道路が細く曲がりくねっていることで悪名が高い。この辺は区境に近いこともあってさらに行政の目が届かなかったのか、そこら中に五叉路や六叉路があるのを母がいちいち珍しがる。

が、実はその母の育った家はこの区内にある。父と結婚してからも数年その家で過ごした。私が生まれたときはもう引っ越していたが、里帰り出産(その頃もう祖母はなく、母にとっての義姉が面倒をみてくれた)したので、私の出生届はここの区で出されている。そのことに気付いたのはここに引っ越してから住民票を移したときで、なんとなく生まれた川に戻ってきた鮭のような気分になった。

といっても両親が住んでいたのはもっと西北の方で、交通機関で色分けするとこことはまったく土地柄が違う。というわけで彼らにとっては、知っているような知らないような、日常生活から途中下車したような、そんな感じの散歩になったようだ。地名や地理から連想するのか、若い頃の思い出話がそれぞれふっと飛び出したりして、現在と過去とが入り混じった脈絡のない会話になる。

のんびり歩いて近くのお寺へ。お堂から読経が聞こえる。ここは日蓮宗なので鳴り物入りでかなり派手。大きな境内にはソメイヨシノがはらはらと絶え間なく散っていて、お掃除の人がきりもなく溝を掃いたり花びらをかき集めたり。山桜が咲き始めている。裏手の墓地まで行くと大きなケヤキが何本もあり、空いた土地にはラッパ水仙が幾種類も咲いている。都内であることを忘れるほど空は広くのどかだ。

曲がりくねった細い道をジグザグと通り抜けて帰宅。マンションの前の通りが見えてきたとたんに、ンゴゴゴゴーーーー!と車の騒音。うーん、現実。


2001年04月06日(金) ひねもす書など

引き続き出不精な一日。今日は明日の目玉焼きにする卵が底をついてきたので夕方ちょろっと買い物。うちの裏にある大手メーカーの社宅の敷地内にある私道を抜けていく。ゆったりとした敷地なので大きな桜の木があったり菜の花が咲いていたり、のどかのどか。社宅自体は空室が目立っているので、意図的に立ち退きをさせているのかもしれない。ここもいずれマンションになるだろう。

それ以外はほぼ一日中だらだらと書道など。母が書道の先生をしているので、仕方なくというか幸いというか、去年のはじめ頃からまじめにやっている。

どうもこの母というのが曲者で、趣味として始めたことをいつのまにか飯のタネにしてしまう、という癖がある。もともとはPTAのサークルに入ったのが高じて熱心にやるようになり、その影響で私も幼稚園の年長の頃から書道を始めた。が、その流派で書く大人っぽい字と小学校で習う字とがずいぶん違っていたのを、同級生にからかわれたのが嫌でやめてしまった。それから数年して母は自宅で子供たち相手に書道教室を始めたりして、ますます深みにはまって現在にいたるのだ。

落伍者である私は途中でやめてしまったのを負い目に感じ、どうも書道に対してはアイタタタな気持ちがぬぐえなかった。大きくなってから何度か母に言いよられてしばらく他の先生についたり母についたりし、またそれを途中でやめたりしてさらにアイタタタタな状況に自分を追い込んでしまった。というわけで、私の書く字はどうも筆圧が弱いへなへなした字で、ずっと劣等感を持ちつづけている。

ところで兄嫁は子供の頃からずっと書道を習っていて相当上手いので、兄が結婚したとき母の後継者ができたようで内心ほっとした。結婚してから彼女も母と同じ流派で習っているのだが、その様子を見るにつけ実の娘にもやらせたいと切に願うようになったらしい。また言い寄られて再開することになった。実に三度目の正直である。半分親孝行でもあるが、ただで教えてもらっている上に道具も母のものを譲ってもらっているので、その分感謝してやるしかない。

明日は夫が一日留守だというので実家に行く予定。実家に帰るのにお習字を書いて持ってかなきゃ肩身が狭いっていうのもどうもねぇ。


2001年04月05日(木) 会わない贅沢

贅沢三部作(笑)。

昨日「いつでも会える安心感」云々と書いたら、久方ぶりの人に「いや、たしかにそうではあるが、しかし!」と発奮したメールと掲示板へ書き込みをもらった。ありがたいことである。というか不思議なことでもある。彼女はもともと同級生なのだが、長いこと音信不通だったのがネットにつなぐようになってからネットを通して交流が始まったので、どうもネット友達のような感覚がある。いわゆるメル友とは違うのは、普段メールのやり取りを殆どしていないところで、お互いのページを見に行っているのかも定かでないのだけれど、なんとなくネット上にいるようなけはいがするような気がするのだ。

でもそういえば例外もあることに気付いた。大体私は細々とネット活動を展開しているので(笑)、掲示板にちょくちょく書き込んで下さるような方々は、ごくわずかの例外を除いて面識があるのだが、その中でs..さんとは今までもお会いしたことないし、これからもよほどのことがない限りお会いしないような気がしている。帯広にお住まいなので距離的な問題が大きいのだが、なんとなくこのままずっと行くような気がする。
s..さんのことは私が自分のページを作る準備をしていた頃知って、その後私が自分のページを作ったときに無断リンク(笑)をしていたのをアクセス解析で逆探知されて、お互いに認識するようになった、といういきさつがある。ずいぶん長い。以前もう日記を閉じてしまったとある女性と初めて電話で話した時、彼女が私のことを「私にとってはとてもネット的な方だったから…」と言っていたが、s..さんはまさに私にとって「ネット的な方」である。メールのやりとりはその時の「初めまして」の一度きりで、その後はずっとお互いのページを読んだり掲示板に書き込んだりするだけ、というカンケイ(笑)が続いている。

で、これが妙に私にとっては居心地がいい。日記の更新もほぼ毎日なので、ネットならではのつかず離れずというか、ネットの中にいつでもいてくれるというか、純粋にお互いが書いた文章だけでの付き合いで、そこにいてくれて私を知ってくれている人がいる安心感。
これはあえて会わない贅沢なのだと思う。

あ、でも会いたくないっていってるわけじゃないんですよ、機会があればそりゃ是非お会いしたいです(私信)。


2001年04月04日(水) 出不精の贅沢

今日も一日家にいてしまった。しかも夫以外誰ともしゃべらなかった。
普段でも一日中一歩も家から出ないということはあるのだが、電話がかかってくるとか御用聞き(古いね)が来るとか、なにかしら声を出す機会はある。

一人でいるのは別に嫌じゃない。そろそろ冷蔵庫の中が空になってきたので、食料(特に野菜類)を買いに行かなければ、と思いつつずっと家にいる。少し念入りにトイレ掃除など。そういえば食パンも少ししかない。近所のコンビニで買ってもいいけれど、明日の朝はご飯にしよう。あ、今日も銀行の振込みをしなかった。

ずっと家にいても、ネットは常時接続なので果てしなくWebを徘徊するとか、積んだままの本をなんとかするとか、することはたくさんある。退屈はしない。人と口をきかないからといってまったく言葉を交わさないわけではない。毎日誰かしらメールが来るしこちらも出すし、掲示板の書き込みもある。チャットはしないけれど、よその掲示板をROMするだけでも人の話を立ち聞きしているような感覚で面白い。

これらはまさにネット社会の恩恵で、ネットがなかったらもっと外へ出るのかもしれない。ただそれで不足を感じないのは、ひとたび人を求めて外へ出れば容易に家族や友人に会ったりできる裏返しなんだろうと思う。ケンブリッジにいたときもネット環境は決して悪くなかったけれど、それでも外に出ようとしていたのは、あまりにも生身の私という人間の存在が知られていないという恐怖からだったし、結婚して北陸に越して程なく学校に入ったのは「人に会いたい」という理由が大きかった。
親兄弟や友人がたくさん住んでいる土地で、こうやって一人気ままに過ごすのは「いつでも会える」という安心感に他ならない。


2001年04月03日(火) 外気の贅沢

今住んでいるところは都内の幹線道路に面しているので騒音がひどい。窓は二重サッシなので音はかなり遮断されるのだが、それでも地鳴りのようなエンジン音は聞こえてくる。夜は交通量が少ない分スピードを出すし、近くに消防署があるのでその出動の音もある。換気口からも案外音は入り込んでくるものである。日中も快晴の日はうるささが増すような気がする。

我が家に初めて遊びに来た人はみな一様に「静かですね。」という。が、いかんせん人工的な防音なので、鳥の声や風が葉を揺らす音など聞こえて欲しい音も遮断してしまう。外界から遮断された感じは否めない。かといって窓を開けると騒音とビル風とで、ものの数分も持たずに閉めてしまう。幹線道路から一本入った住宅街は嘘のような静けさである。鳥のさえずりも結構聴こえる。幹線道路沿いに私たちが住んでいるようなマンション群が立ち並んでいて遮音壁になっている効果もある。その分我が家は日当たりは抜群にいいのだが、これから先も窓を開け放って暮らすことはないのか、と思うと寂しく感じる。

北陸で住んでいた部屋は目の前が開けていて覗かれる心配がなかったので、天気のいい日などはガラス戸を全て開け放ったりしていた。普段は割と天候が荒い分、気候がよくなってたまに穏やかな日差しの元そよそよと風が入ってくる時は、本当に気持ちがよかった。夏の夕方など、セミが鳴いて、杉木立からぷぅんといい香りがして、それから涼しくなると秋の虫の音が聞こえて、住んでいる時も贅沢と思っていたが、今になっては当分手の届かない贅沢になってしまった。


2001年04月02日(月) 桜と雪の中で

歌舞伎の女形、歌右衛門丈が亡くなったのは満開の桜に氷雨が降る夜だった。評論家の渡辺保氏が4月2日付けの日経新聞に、「桜と雪 矛盾の美」と題した追悼文を寄せている。歌右衛門の内面の古風さと芸の近代性という矛盾を桜の時期の雪にかけたものである。桜も雪も歌舞伎には欠かせない風情であるし、なるほど、うまいことをいうものだと感心した。

私が歌舞伎を見始めたのは小学校の高学年の頃で、若手の坂東玉三郎がそれはそれは美しく、市川海老蔵(現・団十郎)や片岡孝夫(現・仁佐衛門)とのコンビがそれぞれ「海老玉」「孝玉」などと人気を呼んでいた。といってもその頃はもっぱらテレビの劇場中継をみるばかりで、実際の舞台を見たのは高校入学のお祝いに伯母に歌舞伎座に連れて行ってもらったのが初めてである。それからは、たまに一人で歌舞伎座に行って一幕見という安い席で観劇したりもした。

あの頃はちょうど役者の端境期のようなときで、歌舞伎座はいついってもガラガラで今のようにチケットがとり難いという話は聞いたことがなかった。今の中堅クラスがまだ若手で、梅幸、勘三郎、松禄、白鴎といった世代が主な配役を占めていた。歌右衛門もその頃すでに「お婆さん」で、赤姫といわれる赤いおべべのお姫様の役から年増の役までやっていたが、若くて美しい玉三郎とは違って一目見て「ああ、きれい」とは思えなかった。むしろ歌右衛門は素顔がきれいで、扮装をしないでインタビュー番組などで話している姿は、たおやかで柔らかでこれが真の女形だと思わせた。

既に歌右衛門の「芸の力」というのは広く言及されていたが、いくら芸があってもしわしわのお婆さんよりも若手の女形の方が私には美しく思えた。そしてあまり興味がわかないままに歌右衛門はそのうち体調を崩し、舞台にのることはなくなってしまった。歌右衛門の舞台は確かに見ていて、それはもちろん極上であったとは思うのだが、歌右衛門の何(の役)が印象に残っている、といえるような記憶が私にはない。ついに歌右衛門の芸の深さは理解できないまま終わってしまった気がする。


2001年04月01日(日) リン某先生

午後から新宿へ。義母からデパートのお買い物カードを貰ったので夫のズボンとシャツを購入。夫は実家に帰るたびに「新しい服でも買いなさい」といわれつづけているのだ。家に帰るんだから気楽なカッコで、という息子の思いと、たまに会うんだから息子の立派な姿を見たい、という母の思いの切ないすれ違いである。ちなみに私の分は既に購入済みである。わはははは。

ズボンの裾上げをしてもらっている間に大手書店へ。夫、当然のようにコンピュータ関係の売り場にまっしぐら。私もそこらへんの本をぶらぶら。パソコンの初心者向けの本の中に場違いな文○新書。
リン某先生
の書いた「パンコソ徹底指南」なる本である。一時私はリン某先生にはまったことがあってその後あっという間に飽きてしまったのだが、どんなことが書いてあるかいな、と思って手にとってみた。リン某先生が自称「マック教徒」であることは割と知られていることなのだが、こんな本まで出すようになったのかぁ。

ぱらぱらとめくってみると、「然るに」とか「ゆめゆめ」とか「いかにせむ」とか「すこぶる」とか、いかにもリン某先生の文体である。その調子で、文字のサイズは印刷する場合は10ポイントがいいが画面表示にすると小さ過ぎるので画面は12ポイントがよろしい(うろ覚え)、とか文章を書くときは最初のドラフトはそのまま保存しておいて別名保存した文書を修正していくのがよろしい(ほとんど意訳)、とか得々と書いてある。しかも長い。うーむ。こういう本を本気で買って本気で実践する人がいるんだろうか。
謎である。


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