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というわけで、バイト初日。派遣会社の担当の人と駅で待ち合わせて四方山話をしながら職場へ向かう。昨日依頼されての今日から働くので、とても感謝される。周囲は魚河岸の朝が一段落してまだ昼間の顔になっていない、奇妙な静けさである。オフィスは比較的新しいビルの8階にあり、環境はまあまあ。派遣先の人となんとなく世間話をして仕事につく。 一緒に仕事をする人は気心が知れているので、請け負った仕事をちゃっちゃと分担して進めていくが、肝心の仕事が…ない(笑)。そもそも繁忙期でどうしても人が必要だからといわれて入った仕事だが、確かにやるべきことは山積しているようなのに上流の方で滞っていて下まで降りてこないようなのである。ダムの決壊が怖い。例えば親会社の意思決定の遅さが私のいる子会社の業務を左右するとか、発注先の突き上げを食らうとか、滞る要因はさまざまあるのだが、今日一日見たり聞いたりしていると、どうもそのうちのかなりの部分が上司に当たる人の処理能力に拠っているようである。彼自身が仕事全体のやるべきことやらなくていいことの判断がついていないようで、その都度業務を請け負っている側がとばっちりを受ける、という図式らしい。 長期間いるのならさまざま提案したり改善したりもするが、10日足らずの勤務だし、私が請け負った業務は時限性のある一回限りのものなので、だんまりを決め込むことにする。それにしても無駄の多い仕事である。しかし会社に従業員がいる以上するべき仕事が必要であり、でも、効率があがるということはすなわち仕事を取り上げることにもつながるのだなぁ。なんだかんだいっても所詮親会社のスネは太い、ということか。 明日はもんじゃ焼きを食べに行く。
また働きに出ることになった。いきなり明日からである。 本当は来月の中旬から1週間ほど働く約束になっていたのだが、それがキャンセルになったと今朝電話がかかってきて、そのかわりといっちゃなんですが、というような感じで、病気でダウンした人の代わりをすることになった。ちなみにそのダウンした人は読みがちょっと違うけど私と同姓である。なんとなく後添えのような気分。で、そこですでに働いている人がもう一人いるのだが、それは私が秋にバイトしていた時一緒にやった人で、たまたまあさって夜会う約束をしていたほど気の合う人なのでこれはラッキーである。 早速彼女の携帯にメールを打つと、折り返しすぐ電話がかかってきて、しばし歓談。つもる話はまた職場で…というわけで明日から早起き、非ネット三昧の日が始まるのだわ。お化粧もしなくちゃなんだわ。お弁当を持っていくのでご飯は3合といだわ。場所は築地。気分はお寿司である。
というわけで、検診に行ってきた。 胃カメラに戦々恐々としていったのだが、それは私の勘違いで、単にバリウムを飲んでぐるぐる胃のX線写真を撮るのだった。それでも十分私にはキツカッタ。さて、交通手段はレンタサイクルである。年間2400円を払うとマンションに備え付けのレンタル自転車を好きなだけ使うことができる。駐輪場を借りると月額200円なので、それなら自転車を借りた方がお得な気がする。カードをセンサーにかざして借りたい自転車のかぎを取る。 検診センターはうちの前の幹線道路を北上してちょっと西に入ったJRの駅前にある。行きはとりあえず素直に歩道を幹線道路沿いに進む。空気は冷たいが風が弱いので走っていて気持ちがいい。チャリんこ日和である。途中に図書館の場所などを確認しながらさくさく走っていたら駅の反対側まで行ってしまい、ぐるっと大回りして戻ってくる。建物の前について自転車をどこに置くかで少し手間取ったが、それでも予定到着時間の5分前にチェックインできた。案外ラクなものである。 検診に要した時間は2時間ほど。日が高くなってさらに気温が上がったので気分よく自転車をこぐ。道の高低差はあまりなく帰りは幹線道路の裏道をふらふら適当に流す。この辺は道が曲がりくねっていたり細かったり行き止まりだったり悪名が高い。整った街路を碁盤の目と呼ぶが、このあたりの道はまるであみだクジのようである。さすがに裏通りは幹線道路の騒音も届かず、鳥のさえずる声などが聞こえる。途中で立派なお寺が3軒(軒っていうのか?)も隣り合って並んでいるところを通る。むー、ここは本当に東京なのか?もう少し暖かくなったらこの辺まで遊びに来て見るか。新しい土地に住み始めて行動範囲が広がっていくのは楽しい。できるだけちびちびと広げていくことにしよう。
書類の整理をしていたら健康診断の案内が出てきたので、ふと思い立って申し込むことにした。夫の勤務先の健保で配偶者検診をやってくれるのだ。特定の組織に属していない主婦にはありがたい制度である。そういえば婦人科以外の検診って最近受けたことがない。元同僚達は成人検診を会社で受けているというし、そういうお年頃なんだからせっせと受けなくちゃねぇ、と思う。 案内を見るといくつか候補の医療機関があるが、区内にある総合病院の検診センターにした。申し込みの電話をすると、住所氏名生年月日などを質問され、さらに胃カメラはどうしますか?子宮ガンと乳がんの検査はどうしますか?とオプションを聞いてくるので、全部お願いします。と答えておく。なんかアイスのトッピングのような気軽さである。翌日早速問診票などがとどいた。こういう書類を見るとなんだか気がめいってくるが、問診票に答える限りではどうやら健康体のようである。 注意事項としては、前日夜8時までに食事を済ませ、夜10時まではお茶かお水なら飲んでよいが、翌朝は一切飲み食いはしないで来るように、と書いてある。そう書いてあるのを読んだだけでなんとなくひもじい思いがしてくる。昼食もたっぷり食べた上、おやつも食べた。早めに晩御飯にしようかと、冷蔵庫の余りモノで適当に作り始めるといつもよりボリュームのあるおかずが出来上がってしまった。さらに意地汚く多めにご飯を食べてしまう私。俗物なのだ。 それにしても胃カメラ、憂鬱である。初めてなのだ。絶対おえっとなってしまいそうである。もう想像しただけでダメそうだ。検診センターは、直線距離にすると近いのだが、公共交通機関一本では行かれない。歩いて行くとおそらく30分以上かかるだろう。朝食抜きで30分歩くと検診以前に具合が悪くなりそうなので、マンションのレンタサイクルで行く予定である。こちらも初体験。はぁ〜何かと不安がいっぱいのスリリングな夜が更けていく。
Webで日記をはじめてから10日余りがすぎた。そういえばコレって日記といいつつ全然その日の出来事を書いていない。常日頃じわじわと考えていることをただ毎日書いているだけで、それって日記じゃないじゃん。 うーむ。これは一体どうしたことだろうか。なぜかその日の出来事を記す、という概念がすっぽり抜け落ちているようなのである。私は普段ほとんど引きこもりのように出歩かない生活を送っているので、外を歩いて「おおっ!いっつにゅー」みたいな出来事に遭遇することが少ないということもある。たまに出かけるのは英語教室に行くときと、実家に行くときと、あと近所のスーパーに買い物に行くぐらいだろうか。しかも殆ど寄り道せずにまっすぐ行ってまっすぐ帰ってくる。最近は生協の宅配にも味をしめているし、ますます出かけずに済むようになってしまった。 こういうのを出不精というのだろう。かと思えば誘われて脈絡なく名古屋までコンサートにでかけてしまうとか、石川に住んでいた頃だったが、中国地方に住むとあるWeb日記をかく女性に会いたくてはるばる電車で日帰りで出かけたこともある。つまりちょこちょこと出歩くのが好きじゃないのだな。大きいお出かけなら大丈夫。イベントだからね。小さい出不精。今風に言うと「ぷち出不精」ってとこかしらね。 あー、また今日の出来事を書かずに終わってしまう…。えーと、今日は一日おうちにいました。部屋の片づけを少しと、昼寝もしました。職場に出かけた夫の携帯に電話して、帰り道に近所の洋菓子やさんでイチゴのショートケーキを買ってきて貰いました。素朴な味でおいしかったです。晩御飯は五目ひじきと鶏の照り焼きと、キャベツのお味噌汁にしました。これもおいしかったです。
引っ越してからネットに常時接続になったので、だらだらとネットを徘徊する時間が長くなった。しかもマンション全体での利用はそれほど多くないのか通信速度は非常に快適で、ますますストレスなく利用してしまう。リンクをたどって次々と見に行っても画像の多いページも軽々である。 ダイアルアップ接続だった頃、ネットに接続するといくつもブラウザを立ち上げて(しかも時々立ち上げすぎて落ちたりして)いかに短い時間で多くの情報を得るかに腐心していたのが嘘のような贅沢さである。企業の製品カタログや知らない町の地図もネットで見られるし、いながらにして世界中から情報を必要に応じて取り出せる、というネット本来のメリットは快適な通信速度かつ常時接続ならではの恩恵なんだとつくづく思う。 それにしても世のWebページの豊富さはまさに玉石混交、驚きである。今までだったらとても目に触れるチャンスのなかったようなアングラなモノも、見られちゃうんだよなぁ…。なんかありとあらゆる人間の欲望が一塊の網に引っかかっているという感じがする。ふと気づけば個人のページもすごく裾野が広がっている。無料サイトもたくさん増えたし、HTMLってなんですか?って感じ。レンタルホームページに無料素材画像とレンタルMIDIとレンタルカウンタつけて、コンテンツはレンタル日記、レンタル掲示板、レンタルチャット、デジカメの写真。バナーべったべた。アニメーションぴらぴら。ほのぼのメルヘンチックなデザインのページが子持ち主婦の不倫日記だったり…。んーわかんねー(-"-)。
毎朝NHKの「おじゃる丸」を見ている。 いつもながらコドモに媚びていないストーリー展開だが、今日は、おじゃる丸が居候している家で、息子と父親がそれぞれもう使わないモノを思い出だからとあれこれ取っておきたがるのに対し、それを捨てると主張する母親はといえば、割り箸や空き缶や空きパックをいつか使うかも知れないからと食器棚に溜め込んでいる、というどこの家庭にもありそうな話だった。 ところで、私は末っ子なので住居計画と家族計画が折り合わなかったのか、自室とよぶスペースは論外に狭かった。殆ど納戸である。しかも「捨てるには惜しいから」という不要品がお古として断りなくやってきて、私より下はいないので、結局私のところに吹き溜まっていた。片付けるためにはある程度ワークスペースが必要なのだが、そんな場所もないので私の部屋はいつもゴミの山のような状態だった。初めてちゃんと収納スペースがある一定の広さ以上の部屋を持つ時まで、私は自分が片付けが下手でだらしない、欠陥人間だと本気で思っていた。 両親と兄夫婦は二世帯住宅に住んでいるが、住居スペースも収納スペースも我が家より広く、モノが多く、そしてまんべんなく散らかっている。両親の世代は戦時中を体験しているだけに、物資不足に対する恐怖もあるのかもしれないが、基本的に買いだめが好きである。荷物の量はかばんの大きさに比例するというが、家についても同じだろうと思う。狭い家はモノがあふれていると居場所がなくなるのでせっせと片付けざるを得ないが、そんな思いをしたことがない人々は処分せずにどんどんモノを増やしていくのだろう。 その反動なのか私は使わないものや着なくなった服をせっせとバザーに出したり伝手をたよって寄付したりしているのだが、もちろんそうするには手間も時間も時にはお金(送料など)も必要である。けれども、思い出だから、いつか使うから、と死蔵しているより価値のあるうちにどんどん使ってもらえるところに回した方が、何倍も活用されていいんじゃないかと思う。それでもし将来自分が必要となったときもどこからか回ってくるような気がするんだけど、そういうのは甘いんだろうか。
「ばかっぽく」なんて書くと語弊があるかなぁ。幼いしゃべり方っていうか山□もえみたいなしゃべり方の若い女が蔓延している。私が通っている英語のクラスにもいる。一昔前のぶりっ子というのとも違う。が、しゃべり方からしぐさから持ち物から、すべてにわたって幼いのである。幼いっていうのも違うかなぁ、妙に甘えたようなちょっと酔っ払って目が据わったような、なんともいえない雰囲気なのである。授業中、彼女の動きや発言する様子をついつい注視してしまう。時々「は!いけない」と見るのをやめるが、私にとっては珍獣のようなその彼女からどうにも目がそらせない。 参考までに言うと彼女は全然バカじゃないのだ。授業もまじめに出てくるし、積極的に質問するし、宿題はきちんとやってあるし、単語や文法もかなり知ってるし…なのに、なんか足りない人ぽくしゃべる。しかも発音が殆どカタカナに近いのだ(泣)。なぜだ、なぜだ、なぜだ?? 山□もえがあのしゃべり方とあの間合いが、なんかたよりない感じがいい、とか守ってあげたくなるようで可愛い、とかで若い男性に受けているのは知っている。だから山□もえ風にしゃべる若い女性が急増していることも何かで読んで知っている。確かに私も可愛いとは思う。でもそれは、山□もえの姿形だから可愛いんであって、とてもあの×××…(以下略)。 なんだかなぁ、と思うのだ。そうやって媚びてて本人は得るものがあるんだろうか。あのしゃべり方のおかげでモテモテです、とか仕事で受けがいい、とか。能ある鷹は爪を隠す、とばかりに実はすんげーデキル女なんだろうか。それともそんなメリットは一切なくて、本人がああいう立ち居振舞いにとても満足して暮らしているんだろうか。そばにいる私はどうもあの作られた感じに息苦しさを感じてしまうんだけど。
NEOさんとこで、紀ノ国屋のイギリスパンの話が出ていた。ちょうど今、我が家にこのパンが一斤半ある。「高級」とは銘打ってないが、この前の日曜日、地下鉄の駅二つ先まで散歩に行った時に買ってきたのだ。 というと、ぬ?reikonaさんてば青山の近くに住んでるの?渋谷?赤坂?六本木?てなことになるが、買ったのははるか遠く、行くとお惣菜の他についついゴルフシューズやらブランドの靴やらバッグやらを買ってしまうという、あのCMでおなじみのディスカウント系スーパーである(ヒント「五輪」。分かるって…)。なぜかパン売り場の最前列に通常価格の半額で売っていたのだ。よそのスーパーのパンをわざわざ売るスーパー、プライドはないのか? 二斤買ってさっそく次の日の朝トーストにして食べた。固めできめが粗くてちょっと塩味の勝る味である。耳や皮が固くて独特の香りがある。トーストにすると山形パンの丁度上の丸い部分の皮がバリバリと割れて、食べたとき口の中がちょっと痛い。パン屑も豪快に出る。すごくおいしい、とは思わないが私にとっては郷愁のある、懐かしい味である。幼い頃、つまり自分の家の常識がユニバースだと信じていた頃、うちで買うパンはいつも紀ノ国屋のイギリスパンだった。たまにホットドッグパンとかロールパンの時もあったが、いわゆる四角い「食パン」は食べたことがなかった。そりゃ、給食のパンもお口に合わなくてカビるはずだよな。 別に食通を気取っていたわけではないが、その当時は他においしいパンがあまりにもなかったし、父はいつも車で仕事に行っていたので買いに行きやすかったのだろう。青山の本店ではなく目黒通り沿いにある等々力の店によく行っていたようである。ブルーチーズやセロリ、レバーペーストなど、その当時にしてはちょっと珍しい食材も紀ノ国屋で買ってくる定番だった。そのうち他のスーパーでもそれなりにおいしいパンや食材が簡単に手に入るようになってから紀ノ国屋で買うことは少なくなった。 ところで、紀ノ国屋に限らず普通に山型のパンを「イギリスパン」とか“English Bread”と呼ぶが、あの実体は何なんだろうか。イギリスでは朝食にトーストが出るのだが、これが全然山型じゃなくていわゆるサンドイッチのパンみたいな薄いパンである。たいていカリカリにかなり濃い焦げ目がついていてすでに冷えている。分厚つく切った山型パンにたっぷり塗ったパターが溶けて垂れてくるような熱々のトーストのイメージっていうのは、一体なんなんだろう?それからよく日本の喫茶店で出てくるEnglish Muffin。あれもカリカリに焼いてたっぷりバターを塗って食べると飛び切りおいしいが、私の目が節穴だったのかあれもイギリスでお目にかかったことがない。イギリスで見かけないイギリスパンとイングリッシュマフィン、一体どうなっているんだっ。
行きがかり上、泊まりで実家に帰ることになりこれは母のマシンで書いている。自分の家から実家までは最寄のバス停からバスに乗っておよそ30分。乗ってしまえば楽チンだが本数は1時間に1〜2本しかない。そう書くとまるで田舎のようだが同じ路線でも途中の営業所どまりがほとんどなのである。そんなわけでその貴重な直通を逃すまいと早めにバス停に行くので、ロス時間は結構多い。 今日も例によって早めにバス停についてしばらく待っていたのだが、気温は低いもののもうすっかり春の気配である。大通りの吹きさらしのバス停に立っていてもちっとも辛くない。うらうらと陽光を浴びてのんびりと待つ。梅の香りが漂ってくるような気がするが、もちろんそれは気のせいで漂うは排気ガスばかり。それでもこの日の光、この空気の動き、確かに身体の奥の記憶が覚えている「春のはじまり」である。 実家に行く用事はいくつかあるが、そのひとつは御用園丁である。母の領分として日当たりは今ひとつの小さい花壇といくつかのコンテナやバスケットがあって、母は水やりはするがそれ以外のメンテナンスはせず、結婚して家を出てからも私がやっている。ここ数日の陽気ですっかり庭は春めいていて、門の脇の紅梅もほぼ満開でいい香りがする。花壇のパンジーもずっと発育が悪かったが、急に丈が伸びて花もたくさんついている。このまま暖かくなるだろうか、と気をよくして園芸店に追加の花を買いに行く。 店先には一足早く花をつけたチューリップの鉢植えが何色も並んでいて心が浮き立ってくるが、さすがにチューリップはまだ寒さが心配なので、堅実にパンジーをいくつかとジュリアンと白のアリッサムを購入。家に帰って早速植え付け。土を掘り返していると、冬眠中の蛙を掘り当ててしまった。「ごめんごめん」と言いながら埋め戻すが、眠りは深いようでシャベルで刺激されているのにピクリともしない。まだまだ春は遠いのだろうか。蛙を避けて花苗を追加するが、苗がまだ小さいので地面に隙間が目立つ。日の光をたっぷり浴びて早く所狭しと咲き誇ってほしいものである。
のんびり起きてのんびり朝ごはんを食べて、午後から散歩がてら蕎麦屋にでもいく心積もりにしていたら、非常ベルがなった。この近くで火事が発生したので避難するようにという録音メッセージが繰り返されるので、とりあえず目についた貴重品をバッグにいれてコートを着て外へ出る。廊下にはご近所さんも顔を出しているが、どうも誤報だったらしい。それにしてもさすが休日の昼。皆さんかなりくだけたいでたちである。こちらは外出するつもりでそれなりの格好をしていたので、やや浮く。 出鼻がくじかれたが蕎麦屋に行く。ここはこの辺にしては珍しくこじゃれた内装で、来週ここでとある会合を予定しているのでその下見も兼ねている。夫はカツどんを、私は胡麻汁そばという冷たいつけそばを頼む。ごまドレッシング@油抜き、みたいなつけ汁が出てきて驚く。夫のカツどんも油がよくないのか今ひとつ。そういえば前回てんぷらを頼んだときもがっかりした覚えがあるので、きっとここは揚げ物は頼まないほうがいいんだろう。 それからテクテクてくてく地下鉄2駅分以上歩いて、前から行ってみたかったインテリア雑貨店へ。狭い部屋を広く見せる鉄則、というのがいくつかあって、色を統一する、白や淡色系で圧迫感のない家具を置く、鏡を活用する…etcで、どれも実践しているが、そうするととかくパンチの欠ける内装になりがちであり、我が家ではまさにその通りである。もう少しアクセントになるものはなかろうか、と店内に入ってみると予想外に洒落たものばかりそろっていて、素敵ステキを連発しながらじっくり見て回る。 途中でうちのシステム家具と同じシリーズの食器棚が超破格値で売られているのを発見する。なんとセットで定価の半額以下である。ちょっと古いものらしく表面はきれいとはいえないが、拭けばきれいになる程度の汚れである。幅も奥行きも丁度キッチンのスペースに収まりそうなサイズ。まあいつかはそのシリーズの食器棚をそろえるつもりでいたんだし、渋る夫を尻目に殆ど決断しかけたとき、高さが収まらないことに気がついた。うちのキッチンは配管の関係なのか下がり天井なんでした。ちゃんちゃん。 代わりに、というわけでもなく籐のフレームのついた小さ目の壁掛けの鏡を買う。こちらはにせんはっぴゃくえん。ずいぶん安上がり。ちょいと造りはちゃちだが、雰囲気は悪くない。鏡の中の部屋はいつもと違って新鮮に映る。
世の中「駄洒落=親父ギャグ=下らない」と、とかく忌み嫌われがちなのだが、果たして駄洒落ってそんなに悪いものなんだろうか?私自身はあまり駄洒落をいう方ではないが、駄洒落そのものは好きだと思う。 洒落と駄洒落とがあって小田島雄志のシェイクスピアの訳なんかで出てくるのは高尚な洒落なのだとすると、なるほどそれらはとても周到に仕立て上げられた「言葉遊び」なんだろうけれど、私にとっては飾りたてられた「言葉いじり」のようで、あまり価値がなく思えてしまう。それよりもむしろ「駄」がついていても突飛で荒削りな方が即妙性があって面白く感じる。何よりそこであえて駄洒落を言おうとする心意気、その時その人の中で電球にぱっと明かりがともるような回路のつながりがあるのが好きだ。 他人が言った駄洒落を、ふん下らない、と見下すような人は実際は自分で思いつかないか、その価値が見出せない人じゃなかろうか、と思う。あまた多くの言語から一見なんの関連もないような二つの言葉を「似ている」という観点から拾い出して結びつけるのは人間の思考回路の妙である。「似ている」という判断にはさまざまな切り口があって、例えば文字面が似ている、子音の組み合わせが似ている、母音のつながりが似ている、なんだか似ている、など、これをコンピュータにやらせようとすると、膨大な辞書に登録して規則を入れて、類似度をだして…、大変な手間である。しかもそれが人間の気に入るという保証はない。特に「なんだか似ている」のような直感的なものはお手上げである。 こんなことを考えるのは最近読み耽っている「ほぼ日」の「ガンジーさん。」http://www.1101.com/ganji_san/index.htmlのせいだろうか、と思う。ガンジーさんとはインドのガンジーさんではなく「癌爺さん」で、文字通り癌患者(66歳男性)なのだが医者に宣告された余命を通り過ぎて、今なお快調に連載を続けているなんともはや、の人である。で、この人の駄洒落がすごい。駄洒落を真剣に考えてひねくりだしているところがすごい。気合が入っている。「言葉」に対する好奇心のアンテナがびんびん張り巡らされているんだろうなぁ、という気がする。それは時に言葉あやつりのプロである糸井重里氏を感じ入らせるほどである。 ちなみに今日の「ガンジーさん。」への糸井重里氏のコメント: >『退屈の靴なんか履くなよ』って、 >車寅次郎が言いそうなセリフだねぇ。 >『どうせ履くなら、たまげたって下駄を履きな』と、 >返しておきましょうかね。 なんかすごい。やっぱりこの人は相当な目利きだ。
いきなりトイレの話で恐縮だが、今朝一番にトイレに入って驚いた。バラの香りがするのである。しかもフレッシュ。そう、私がバレンタインデーにげっとしたあのバラである。バラが活けてあるのは玄関で、そこから気持ちばかりの廊下を突き当たったところにトイレがある。どうもバラの香りは活けてあるところから拡散して、廊下をトンネル効果で渡ってトイレに行ってそこでいきどまったようなのである。 初いやつである。 匂いって確かに行き止まる。私の実家は以前東西に長い木造家屋で、廊下の西の突き当たりに玄関と私の小さい小さい部屋があり、その反対側の突き当たりが台所と食堂だった。学校から帰って玄関をあけると台所からの匂いがして、その日の献立がわかった。鍋物などをして散々居間でくつろいだあと、自分の部屋に戻ると鍋の匂いがこもっていたりすることがあった。 当時の家は窓はサッシではなかったし、ぴゅーぴゅー隙間風が吹いていたのだが、それでも匂いはこもるのである。鉄筋コンクリートでアルミサッシの家ならなおさら匂いは抜けないだろう、と思う。さかんにテレビコマーシャルで芳香剤や消臭剤の必要性を説いているのが納得できたのは、自分が密閉度の高い団地に引っ越してからのことだった。それから都心の賃貸マンションに越し、また新築のマンションに移って、住宅設備は格段によくなったけれど、生活それ自体は外気との接触が減っていくような気がする。匂いがこもったらガラガラと窓を開けて換気をする、というのは過去の話なのだ。今の家には部屋用の換気口がついている。外は道路からの騒音で、そうそう長時間窓をあけていられるものではないし、第一窓は一面にしかないので風が吹き渡るということはない。換気の話だけでなく、窓を開け放って寝るなんてことはこの先数十年ないだろう、と思うと人間として何か大きなものを失ったような気がするのは、大げさだろうか。
この日記システムは、画面の右下のバナーについている「WRITE」をクリックすると、IDとPASSWORDと日記を書く日付を入力する画面が出てきて、日付を省略すると本日日付となるお利口さんである。なのに私はそのお利口さんな機能を活用していない、というのもいつも前日付の日記を書いているからなのだ。夜書く時間がないわけでは決してないのだが、これがなかなかできなくて…。ということで今日は朝と夜と2回更新して帳尻を合わせようとする次第。とりあえず、「昨日の分」としてこの日記の由来などを書いてお茶を濁すべし。 日記の名前というのは、本の題名に相当するものであるから、わりと気合が入る。初めに個人のページありきで、その中に「日記」がある場合はあまり意識しないかもしれないが、日記才人やテキスト庵のように所謂日記ばっかり集めているリンク集だと、日記名やハンドル名でそれが自分の好みに合いそうかどうかを判断することになるし、いくらかっこよくてもオフ会などで「○○(日記名)の××さん」などと呼ばれることを考えると、聞いているほうがうつむいてしまうような日記名は避けたいにゃー、などと要らぬことまで考えが及んでしまう。 前置きが二つも入って長くなったが、この日記名の由来である。この日記システムは特に日記名を設定しないと、デフォルトで「××(ハンドル名)の日記」になる。最初は自分のハンドル名をひらがなで入れたのだが、出来上がった日記の画面を見て私はひそかに赤面した。 「れいこなの日記」 かーっ、なんとこっぱずかしい名前なんだ。これはいかん、と慌てて別のを考えはじめる。bbsが「井戸端」だから「井戸」はどうだろう?これじゃ、あんまりベタか。自嘲的な意味もこめていっそ「井の中の蛙」とか?でもいきなり「蛙」って文字が入るのはなぁ…、ヘビ年だし。やっぱかっこつけて英語かなあ、Wishing Wellとか?むー、これもなあ…。辞書でwellをひいてみる。文字を追うことしばし、最後の方に「well・a」の文字が。wellの古英語だって。へぇ、シャンプーやヘアーコンディショナーじゃないのか。「うえら」。うん、いいかも。できれば「うぇッら」と発音してもらいたいものだ。「ら」は舌の先は上あごにつけて。きゃー、かっこいい。 「Wella…Old Englishで『井戸』の意。私の心の中の想いが湧き出して澄んだ井戸水のように皆さんの元へ運ばれるように、という願いを込めて名づけました。」なぁんて能書きをもっともらしくつけちゃおうかな。わはははは。 ついでにハンドル名をreikonaに登録しなおす。そもそも私のハンドル名というのは、たまたまアカウント名が呼び名になったので、ローマ字でもひらがなでもカタカナでもどーでもいいのだ。
バレンタインデーに夫に赤いバラの花束を貰った。 イギリスのバレンタインはちょっとオトナっぽくロマンティックで、男性から女性にもプレゼントや、愛の告白がある。当日は町中の花屋さんに赤いバラがあふれてその前で男性が花を買うのに行列していたり、「匿名」で想いを告げるカードを送ってよかったり、新聞に愛を告げる一行広告特集ページが組まれたりする。 イギリスのその習慣を知ってから、うちでもそれを取り入れることにして、半ば強制的に夫からカードと花束を貰っている。家に帰ってくると、夫の方が早かったらしく、マンションの部屋に煌々と明かりがついている。引っ越して以来はじめての光景である。数日前から私は「バレンタインにはバラね」と書いたような顔をしているので、バラを買ってあるだろうとはわかっているのだが、自然と急ぎ足になるものである。 一回目はイギリスにいたので花屋で買ってきたままぐるぐるとわら半紙のような紙で包んであるものをカードと一緒に、「はい」とテーブルに置かれて愕然とした。二回目の去年は「赤いバラがなかったから」といってオレンジのバラとカードを渡されて少なからず落胆した。そして今年はついに半ダースの赤いバラである。しかも大きな赤いリボンもついている。うしし。ところがカードがついてない。「気に入ったのがなかったから」という夫に「カードがなきゃヤだ」といって、この中から適当なのを選ぶように、と買い置きのカードのセットを渡す。あくまで形式にこだわる妻である。 食事の後早速花を活ける。生き生きとした花弁から芳香が広がる。普段は手入れが大変なのと萎れた花を捨てるのが忍びないのとでついつい造花を飾って済ませているが、生花というのはなんとも心浮き立つものだなぁ、と今更のように思う。
どうにも、「っぱなしの人」なのである。 開けたら開けっぱなし、出したら出しっぱなし、貰ったら貰いっぱなし、お世話になったらお世話になりっぱなし。給食のパンの残りを入れたビニール袋をランドセルに入れっぱなしにして何度カビさせたことか。授業だってお稽古事だって聞きっぱなしで復習とかおさらいとかいうものをしないのでちっとも身につかない。デジカメの写真だって、一眼レフで撮った写真だって、撮りっぱなしのまま放置してある。過去を振り返らないといえば聞こえはいいが、つまりはめんどくさがりやなのである。 Webを徘徊していて、その日あった出来事や感じたことなどをぱきぱきと見事につづっている文章に出会ったりすると、時々無性に「ああぁ!日記が書きてぇえ!」と思うことがある。自分でWebページを持っていて、過去に文章を書き溜めたものもいくつか公開していて、毎日bbsに短からぬコメントを書き綴っていて、じゃあ、書けばいいじゃん、と自分でも思うのだが、文章に限って言うと、書きっぱなしに出来ない性分なのである。そもそも人様に見せる、という前提でしか文を書く気がしない渋ちんの私なので、たたっと書き上げるということができない。一応は書き終えて、その後ちまちまちまちまと修正を入れるので予想外に時間がかかる。その作業をして、アップロードして、インデックスページを手直しして、なんて考えると「あーめんどくさっ」が先に立って、結局書かないっぱなし(変な日本語)に陥ってしまうのである。そしてその状態はもうずいぶん長いこと続いており、依然として書きたいという欲求は満たされていない。 ファイルをいじったりアップロードがめんどくさいなら、最近よく見かけるcgiで簡単に出来るレンタル日記ならいいかもと思って、常時接続になったのを幸い色々さがしてみたところ、この「エンピツ」にたどり着いた。デザインもシンプルでクールだし、有料版なら広告も入らないし、使いやすいし、押し付けがましさが一切ないところが気に入っている。書いてすぐ潔く登録すれば直し続けることもないだろう。 と、思いきやオンラインで手軽に手直しができるのが災いして、相変わらずちまちまと手直しをしてしまい、その度に画面のカウンタは無駄に増えるのであった。
テレビで映画「午後の遺言状」を見た。 たまたま先日読んだ奥様向け家庭雑誌に新藤兼人監督のインタビュー記事が載っていて、妻であり尊敬する女優でもある「乙羽さん」との思い出や、作製時すでに癌の末期だった彼女の遺作となったこの映画について書かれていたので、丁度見てみたいと思っていたのだった。今となってみれば、主役である杉村春子の遺作ともなってしまった。 大女優役の杉村春子の日本語の発声は美しく、ちょっとぞんざいな口の聞き方といい、華やいだ立ち居振舞いといい、いかにもその世界の水の中で生きてきた雰囲気をかもし出し、一方、別荘の管理人役の乙羽信子は、ぶっきらぼうだがなにか秘めた情熱を感じさせる。痴呆症となった昔の女優仲間(朝霧鏡子)の本能的な表情、そしてその彼女を献身的に世話を焼く夫役の、観世流の重鎮でもある観世榮夫が劇中「稽古」として舞う能の美しさ、朗々たる声の響き…、一言でいってしまえばとても美味しい映画だった。 「老い」の中に生きるこの4人と、弾けんばかりの若さ真っ只中の管理人の娘とその婚約者。二つの世代の対比をくっきりと浮かび上がらせながら、ところどころに珍妙なハプニングをはさんで物語は進行する。画面の中で存在感を放っている二人の女優が、今はすでにこの世の人でないことに思いが及ぶ都度、不思議な感覚にとらわれる。 撮影中、乙羽信子が「(新藤)先生、今回はずいぶん急いで撮るんですね。」といったとそのインタビュー記事には書かれていた。それに対し「それは乙羽さんの体調を気遣ってということもあったが、それより乙羽さんと杉村さんとではうまくいかないシーンはなく、撮りなおす必要がなかった」という内容のことを語っている。 役者、監督としての揺るぎのない資質と実力、骨太な情熱、積み重ね、互いの信頼関係、この作品はまさに最良にして最後のチャンスに撮られたのだと思う。
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