WELLA DiaryINDEX|past|will
98.05.26から99.03.13までの分がケンブリッジ滞在時の日記になっています。 98.05.26分から順に未来へたどって一気読みできます。 98.05.26 はるかなる大英帝国 98.05.27 そしてケンブリッジの夜は更ける 98.05.28 美しき五月に 98.05.29 Emperor AKIHITOの謝罪 98.05.30 ケンブリッジという街98.06.01 英国のバラ 98.06.02 緑と申しましても 98.06.03 家を探そう 98.06.07 家、いえ、イエ(1) 98.06.07 家、いえ、イエ(2) 98.06.09 家、いえ、イエ(3) 98.06.10 家、いえ、イエ(4) 98.06.11 テリー 98.06.16 フットボールとユニオンジャック 追記あり(98.07.12) 98.06.17 May Week 98.06.27 Graduation Day 98.06.30 イギリスはおいしいか? 98.07.01 Meet People(1) 98.07.04 Meet People(2) 98.07.12 Meet People(3) 98.07.16 Meet People(4) 98.07.23 Sweet Home(1) 98.07.30 Sweet Home(2) 98.08.01 Sweet Home(3) 98.08.19 Sweet Home(4) 98.08.30 お伽の国 98.09.02 野次馬 98.09.24 学問の秋 98.09.26 Conversation Exchange(1) 98.09.27 Conversation Exchange(2) 98.10.13 Strasbourg 98.10.23 フランスの食卓 98.10.29 Apple Day 98.11.05 路線バスで行こう 98.11.11 Remember me 98.12.03 The bunch of wives 98.12.24 British Christmas 98.12.30 田舎のねずみ、都会のねずみ 98.12.31 English Breakfast 99.01.03 お正月 99.01.13 Made in UKを求めて 99.01.15 暇なのをいいことに 99.01.17 WIMPYとの再会 99.01.30 友あり(1) 99.01.31 友あり(2) 99.02.01 友あり(3) 99.02.14 St.Valentine's Day 99.02.15 それじゃ、また来週 99.02.22 英国の流儀? 99.02.25 Town & Gown 99.03.03 「連れてこられた人々」 99.03.06 小さな奇跡 99.03.13 そして…
泣いても笑ってももう帰国である。 数週間前はあとわずかだと焦り、数日前は砂時計の最後の粒が滑り落ちるような感覚だったが、今となってはもはや淡々と時を過ごすだけである。 始めがあって終わりがあるように、まるでフィルムの逆回しを見ているように、ここで知合ったさまざまな人たちに順々にさようならといい、握手を交わし、ハグをする。 「日本に帰るのは幸せ?」と聞かれる度に「まあね。」と曖昧に答える。「でも家族や友人に会えるのはうれしいでしょ?」といわれる。懐かしい家族や友人達の笑顔が目に浮かぶ。温泉やお寿司も恋しい。ふるさとに帰るのがうれしくないわけがない。しかもすべて日本語で事足りる毎日が待っている。ちょっとしたおしゃべりに全神経を傾け、常に自分が何か間違った事を言ったり聞いたりしているのではないかとビクビクする必要はない。ストレス一杯の毎日から解放される。 私はただ「さようなら」を言いたくないだけなのだ。チャンドラーの言うように「さよならを言うたびに少し死ぬ」ならば、今の私はほとんど死にっぱなし、かなり危険な状態である。 一番仲良くしていた同じ訪問研究員のアメリカ人夫妻と、いつも行っていた中華料理店でお昼を一緒に食べた。彼らは私たちより少し早くケンブリッジを離れていった。離別の挨拶を交わすのがいやで、私たちはいつまでもぐずぐずと席に座って、知っている限りの外国語で「さようなら」をなんというか披露しあっていた。そうして時間切れ。何度もハグをする。おなじみの中華料理店のマネージャーにも今までどうもありがとう、と挨拶をする。 戻ってきたら私のところに泊まってちょうだい、といってくれる人がいる。すぐに電子メールを始めるからあなたと連絡が取り易くなるわ、といってくれる人がいる。運びきれない荷物を、快く預かってくれたり引き受けてくれる人がいる。困ったことがあったら何でも言ってくれ、と再三申し出てくれる人がいる。これを書きながら「からたちの花」の一節が頭に浮かぶ、「みんなみんな優しかったよ」。お世話になった日本人の人達とも挨拶を交わす。「またお会いしましょう」。 若い人達との別れはまだ辛くない。ほとんどの友人は電子メールを使うので、どこにいても簡単に連絡を取り合える。。今生の別れではないことはわかっている。彼らが日本に来るかもしれないし、私たちが彼らの住む土地を訪ねることもあるかもしれない。これがきっかけになるのだと思える。 病院のピアノ弾きでは、結局最後にお年寄り一人一人に声をかけて回った。スタッフの人達からは「さびしくなるわ」と記念品と寄せ書きのカードをもらった。バス停でもらったばかりのカードの文字を追う。色んな文字がにじんで見える。バスにごとごと揺られながら、私は今死んでいるなとぼんやり思った。 当初の目的通り英国人の友人がたくさんできた。語学学校や訪問研究員の集まりを通じて、英国だけでなく世界中にも友人ができたというおまけもついた。ただでさえ荷物が多いところにお餞別をもらったり、忙しい中お別れにお茶や食事に招いてもらったり、うれしい誤算もある。住所を交換しながらお互いに言う。 Do keep in touch(忘れずに便りをちょうだい) この言葉が社交辞令に終わるか終わらないかは、これからにかかっている。せめてクリスマスの時期にはカードを出そう、と気弱な決心をする。 とにかく私のここでの生活はこれで終わった。いろいろやり残した気もするし、充分やった気もする。終わりのような気もするし、始まりのような気もする。胸に去来するさまざまな想いを抱えて、私は日本に帰る。
外出の時は帽子を愛用している。日本にいた頃と比べて屋外にいる時間が格段に多いので、おしゃれというよりは実用である。帽子を被っていればちょっとした雨ならそのまま歩ける。 冬の帽子は二種類持っていて、一つは茶色いヒツジの毛で編んだ分厚い帽子、もう一つは黒いベルベットの帽子である。寒さがきびしい時にはもっぱらヒツジの帽子、ちょっとしたお出かけや長いコートの時は黒い帽子、というように一応使い分けていたのだが、ある朝、黒い帽子を被ろうとして、どこにも見当たらないことに気づいた。ありそうなところからなさそうなところまで、家中隈なく探したが見つからない。 最後の記憶があるのはロンドンから元同僚達が遊びに来た日曜日で、家に帰るまで被っていたのは間違いない。もうあれから1週間経っている。その後は雪が降ったりして寒い日が続いたので、ずっとヒツジの帽子にお世話になっていた。火曜日にはすでにヒツジの帽子を被っていた記憶があるので、とすると、空白は月曜日である。さて、記憶の糸を手繰る、手繰る。 月曜日は、朝英会話のクラスがあって、大学会館でお昼を食べながら手話クラスの友人達とおさらいをして、そのまま他の訪問研究員の妻たちと落ち合って、ケンブリッジから車で1時間半ほどのところにある野鳥観測所に水鳥を観にいったのだった。英会話のクラスはたまたま大学会館であったので、可能性としては大学会館、乗り合わせていった車の中、野鳥観測所ということになる。これはそのままそうあって欲しい順でもある。 大学会館にのこのこと出かけていって、受付で帽子ありませんか〜と尋ねる。どこで落としたか聞かれるが、1階〜4階まで全ての階に立ち入っているので分からない。「ここには落とし物がすべて集まりますけど、先週の落とし物の中にはありませんねぇ」との答え。 次の可能性は車の中だが、運転してくれた女性の連絡先がわからない。翌日は訪問研究員のコーヒーモーニングだったので会えると思ったが、来ていない。旅行中だという。野鳥観測ツアーを企画した女性に、帽子をなくしてしまったのだというと、観測所に聞いてみたか、という。 うーん、それはちょっとぉ、などとぐずってみる。やはり電話は自信がない。 電話をかけるのは先延ばしにして、運転してくれた彼女の帰りを待つことにしたが、案外早く彼女に会うことができた。偶然街を歩いているのを見掛けたのである。ケンブリッジの街は小さいので、こういうことが往々にして多々ある。昨日帰って来たばかりだという彼女に、車の後部座席に帽子が落ちていなかったか尋ねたが、見てないという。家族の乗り降りの都度、後部座席は見ていたから間違いないそうだ。「お役に立てなくてごめんなさいね」という彼女にいやいやと手を振りつつ、心は別のことを考える。 ああ〜、電話しなくっちゃ〜 はぁ。どうにも億劫である。あきらめてしまおうか。でも帽子が呼んでいるような気もする。ふむ。 結局一日おいた翌日の夕方、一度言うことを練習してから電話をした。 「あの、先週の月曜日、そちらに帽子を忘れたと思うんですが、保管してありますか。」伝える情報に洩れはない。電話の向こうはやさしそうな女性の声である。 「どんな帽子でしょう?バッジか何かついてますか?」 さすが野鳥観測所だけに野外指向の帽子が多いらしい。バッジがついていて当たり前なのだろう。そこへベルベットの帽子は場違いである。しばらくお待ちくださいといって出てきた答えは、 「はい、保管してあります。いつ取りにいらっしゃいますか。」 あった!。思わず胸がトクンとなる。あったはいいがさて、どうやって手に入れたものか。車を持っていないので、取りに行くのは大変である。誰か車を持っている人に連れていってもらおうか…。 「えーと。送っていただけるなんてことはできるんでしょうか。」と聞いてみる。またもお待ちくださいといって出てきた答えは、 「はい、できますよ。では住所をどうぞ。」 Good Heavens! すばらしい。浮き足立って送付先を伝える。 「それで、送料はどうやってお払いすればいいのでしょう。」というと 「それは結構です。ではお送りしますので。バ、バーイ」 なんと無償で送ってくれるというのだ。信じられない思いで電話を切った。夢のような話である。そんな親切にしてもらっていいのだろうか。ああ、それにしても電話してよかった。神様ありがとう。 あとは帽子が届くのを待つばかりである。通常郵便で送るだろうから、早くても週明けになるだろう。周囲の友人達に事の顛末を話す。皆口々に、すごい、すばらしい、と言ってくれる。英国人すら驚いている。 ところが週半ばになっても来る気配がない。とうとう10日も過ぎてしまった。やっぱり世の中そんなにうまくはかないのだろうか。電話したのは金曜日の終業時刻間際だったし、担当者は送るのを忘れてしまったのか。それとも私の発音がまずくて正しい住所が伝わらなかったのか。こんなことなら夫の職場に送ってもらうことにすればよかった。あっちは幹線の有名な通りだし、私たちが引っ越したあとも転送してくれる可能性がある。 宛先に該当がなければそろそろ戻っている頃だろう。乗りかかった舟なのでもう一度電話してみようと決心した。伝えるべき事柄はさらに複雑になっている。送付先も変えてもらわなくてはならない。落ち着いて文章を組み立てなければ。明日こそ電話しよう。 そして翌朝、朝食が済んだところで、ドアをノックする音。郵便の配達である。 ポストに入りきらない郵便物を持ってきたのだ。ということは帽子か。ドアを開けると、すでに顔なじみの配達夫が「小包ですよ」とにっこり差し出す。思わず「帽子!」と小さく叫ぶ。「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返す。配達夫も満足そうに笑顔で帰っていった。 嬉しい、本当に届いた。正直なところ、再度電話しなくて済んだのもよかった。こういう事ってあるんだぁ、としばし呆然。 夫に小切手を書いてもらって送ることにした。些少ながら野鳥保護運動に役立ててもらえば、と思う。
訪問研究員のコーヒーモーニングの後は、大学会館の食堂で大挙してお昼を食べる。20〜30人のオバサマ方が揃って食事をするのだから壮観である。コーヒーモーニングの時はいろいろな話の輪がくっついたり離れたりの立ち話だが、食事の時はカフェテリアの支払いが済んだ順に来た順に席に座っていくので、思いがけない組み合わせになることもある。 先日は地元の世話役のイギリス人の老婦人と隣あわせに座った。簡単に名前を紹介しあった後、"What has brought you here?"と聞かれた。え、何が運んだって?思わず聞き返すと、どうしてここに来たのかと言う意味だと教えてくれた。直訳すると「何があなたをここに連れて来たの?」。面白い言い回しだなと思いつつ「私をここに連れてきたのは夫の仕事。」と答えると、「ここにいる女性はみんなそうよね。」と笑った。 実際、訪問研究員の妻たちは夫の異動に伴って自分の仕事を辞めてきている人も多いのだが、受け入れ側のイギリス人にしろ、初めからケンブリッジに住んでいた人は少ない。結婚した、あるいは夫がケンブリッジ大学で職を取った、さまざまな理由でここに移り住んだのだ。そして新たな仕事を見つけたり、ボランティアとして訪問研究員の世話を焼いている、というわけだ。 そういう意味で私たちは「連れてこられた人々」である。一方、自分の意志でここに来ている人もいる。会社を辞めて語学研修に来た25歳前後の女性達などもそのなかに入る。 新しい年度が始まった9月、あい前後して「連れてこられた人々」と「自分の意志で来た人々」である日本人女性達に知合ったのだが、およそ半年経ったつい最近、しばらく御無沙汰していたその人達と再会する機会があった。世間話などをしながら聞くともなしに彼女たちの英語を聞いていたところ、「あれ?」と思った。「自分の意志で来た」人達が半年経ってもしどろもどろしていたりするかと思えば、初めて会った時は「全然しゃべれないので…」とか「英語は昔から苦手で…」などとといっていた小さい子を持つお母さんが、英語で意志の疎通をしている。発音や難しい文法はともかく、「連れてこられた人々」の方が「通じる英語」を話したりしているのだ。 確かに語学学校は周囲も英語を学びに来ている外国人だし、教師とホストファミリー以外にネイティブスピーカーに接する機会はあまりないのが現実である。ホストファミリーの受け入れ態勢によっては、単なる間借り人と化す場合も多いらしく、必ずしも英語を話す機会があるとは限らない。本人達もなんとなく語学の上達を待っている節もある。 一方、小さい子どものいる人達はいやでも地域と関わらざるを得ない。ケンブリッジには日本人学校はないし、学校の送り迎えは保護者がしなくてはならないので、勢い子どもを通して現地の人々と接する機会が増える。初めの頃こそ夫を頼りにしているかもしれないが、そうそうあてにするわけにも行かない。好むと好まざるとに関わらず英語を話さなくてはならないのは、実はこうした女性達なのだろうと思う。英語の上達など待っていられないのだ。 子どもが熱を出したら病院に行かなければならない。病院にいっても勝手にいろいろな検査や注射などされないように主張しなければならない。ケンブリッジの人々は外国人の英語に慣れていて、たどたどしくても聞き取ってくれるせいもあるのだろう、「話すこと」に対して果敢なのである。「我が子を守らなくては」という強い意志が働いているのだ、とある人は言っていた。 もちろんこうした集まりに出てくるということすら、すでに果敢なのだろうとは思う。奥に引き篭もって決して表に出ない人がいることも想像に難くない。言葉の不自由のないはずのアメリカ人ですら、家に孤独にしているという話を聞くし、それは人によるのだと思う。 しかしそれにしてもせっぱ詰まった目的がある、ということは何物にも代え難い原動力なのだと感心する。母は強しである。
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