WELLA
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1999年09月27日(月) 「もし」そして「なぜ」

最近一人で家にいる時間が長いので、よくCDをかけている。BGMなのでマイケル・ナイマン(Michael Nyman)などを聞き流していることが多い。

ナイマンは映画「ピアノ・レッスン(The Piano)」の音楽が有名だが、家にはこれのオリジナル・サウンドトラック盤の他ベストアルバムなど何枚かのCDがある。流れるような単純な旋律をこれまた単純なリズムを刻む和音に乗せる彼の曲は、はっきりいって「ああ、またか」と思うほどよく似ていると思うのだが、映画「アンネの日記」のサウンドトラックだけは何度も繰り返し聴きいってしまう。中に収録されている二つの歌曲がお目当てである。ナイマンは映画音楽の他に前衛的な作品も多く手がけているが、元は英王立音楽院でバロックを徹底的に研究した人らしく、讃美歌を思わせるこの静かな二曲、『If 』と『Why』はとても心に染み入ってくる。

聴いているうちに涙がとめど無くあふれてきたので、歌詞カードを読んでみた。

If
If ...at the sound of wish
The summer sun would shine
And if ...just a smile would do
To brush all the clouds from the sky
If ...at the blink of an eye
The autumn leaves would whirl
And if...you could sigh a deep sigh
To scatter them over the earth

*I'd blink my eyes
And wave my arms
I'd wish a wish
To stop all harm
(*Repeat)

If...at the wave of a hand
The winter snows would start
And if ...you could just light a candle
To change people's feelngs and hearts

**I'd whisper love
In every land
To every child
Woman and man


***That's what I'd do
If my wishes would come true
That's what I'd do
If my wishes could come true

(**Repeat)
(***Repeat)


Why
We ask our father why
Why people can not love
Why people hate all day and night
Spoiling children's dreams
We ask our mother why
Why people can not live
Why they won't let the children be
Crushing their belief


Tell us why, Papa
Your children want to know
"Someday you'll find out"
Leaves us lonely and cold

Tell us why, Mama
Your children want to know
"You shouldn't ask such things"
Leaves no rooms to grow

We ask our parents, Why
Why children can not grow
Don't look away from us
Don't lie...please don't lie
Your children need to know

Tell me why, somebody
We children need an answer
Why adults fight over God
Why adults fight over colour
Why adults go to war

Lyrics written by Roger Pulvers & Hachiro Konno
(c)1995 TOKYO FM Music Entertainment Inc./Michael Nyman Ltd.

「アンネの日記」は私たちの年代なら少女の頃に一度は読んでいる。私も10代の初めの頃、文春文庫を買って読んだ。表紙にユダヤ人独特の鼻筋の通った利発そうなアンネの顔写真が載っていた。遠い異国に生きた、勝ち気で多感な同年代の女の子。キスへの憧れ、大人の女性への第一歩。

今にして思えば、背景としての戦争・迫害という事実は知っていたものの、その年代の少女が抱く思いに共感しながら、そこに描かれた屋根裏部屋での隠れ家生活を多分にロマンティックな読み物ととして捉えていた気がする。

世間から隔絶された生活、同じように弱い大人達との確執、やり場のない怒り、閉塞感。それらを日記に綴ることで、精神の均衡をかろうじて保っていたであろうことに思い至るには幼すぎたのだろう。連行されてからの生活などは伝え聞かれた事実が父親の筆によって添えられてはいたが、当然のことながら死に至るまでの収容所での生活、絶望、孤独などは未だ想像の域を出ない。

大人になるまで生きてはいられない宿命に対する疑問、平和を願う心、抗う術もない現実。CDを繰り返し回しながら、大人になれなかった何千、何万というアンネ・フランクたちの無念を考える。


1999年09月17日(金) 万事盛大に消費すべし

北陸で暮らしていた時は、生活必需品は週1回車で近郊の大型スーパーマーケットにいって大量に買い込んできていたので、ここへ来て買い物事情は大きく変わった。なんといっても歩いて買い物にいけるのである。
車での大量の買い出しというのは、戻ってきて最後団地の階段をよれよれと4階まで上ることを除けば、なかなか快適なものだった。ドカンと買ってドカンと運べるのである。引越し直前、そういえば東京では車で買い物をしないんだ、と思ったとたんに、よく実家の母が両手にレジ袋を食い込ませながら家族の食料を買い込んで帰ってきた姿が浮かんできて、慌てて車を駆って、米、サラダ油、オリーブオイル、味噌、醤油、トイレットペーパー、ビール、トマトの水煮缶など「重い、または嵩張る、あるいはその両方」なものを買い込んできた。これで当分よたよたとは無縁である、そう思って安心した。

ところが、引っ越してきた部屋は前述した通り、収納スペースが絶対的に不足している。玄関の下駄箱からつっぱり棚で無理矢理作り出した空間からソファの下まで、すべてを使っても収まりきらないものというのはある。10kg用の米びつはついにどこにも収まらず、居間から洗面所に抜ける通路の脇になんとなく置いてある。
雪が降って出かけられないわけじゃなし、買い物に行くまとまった時間がないわけじゃなし、貯蔵品の収納に四苦八苦している自分が愚かしく思えてきた。なにしろ隣の建物は小規模ながらスーパーマーケットである。品物はあまり良くないが、それでも一応のものは揃う。そこは比較的遅くまで開いているし、コンビニエンスストアもある。昼間なら少し歩けば個人商店もいくつかあるし、その気になれば目の前のバス停からターミナル駅近くのデパートに行くことも可能である。

とはいうものの、単価はそれなりに高めである。手にとって「これなら…」と、一瞬考え込んでしまう。値段的には大量に買い込んだほうが割安な場合も多い。しかし家賃と居住スペースを勘案すると、やはり「外部貯蔵」に限るのである。適応しない部分は切り捨てていかざるを得ない。だから、いざという時のためにとっておいた類をどんどん消費する方向に一転してしまった。取っておくスペースはないのだ。買い置きのお砂糖はお菓子を作って使ってしまった。夏の間、麦茶の代わりに中国土産の烏龍茶をせっせと炒れては冷やしておいた。フリーズドライもレトルトのパックもあと僅かである。そんなに遣ってしまって大丈夫か、という声も聞こえるが、これらを取っておいたからといって救われるというものでもないだろう。災害用品はそれなりにそろえる必要があるだろうけれど。

その日必要なものを必要なだけ買えるというのはある意味、贅沢である。


1999年09月09日(木) 杜の見える窓から

北陸の山の中から東京に引っ越してきた。夫の仕事の都合である。
東京は私たちが生まれ育った街である。そういう意味では「戻ってきた」というべきであろうか、実際知合いの中には「帰ってこられてうれしいでしょう」といってくれる人達も多い。しかしそうそう喜んでもいない自分が居る。それほど北陸での暮らしに馴染んでいたわけでもないだろうに、何か置いてけぼりを食ったような、魂の一部が残ってしまったような中途半端な気持ちがある。

新居は都心部にある小さな賃貸マンションである。二人暮らしなので1LDKという間取りは十分だとしても、収納スペースの小ささには笑ってしまう。パーツとしては玄関の下駄箱にしろ、ウォークインクロゼットにしろ、キッチンにしろ収納箇所は備え付けてあるのだが、ことごとく小ぶりなのである。今までが3LDKにドカンとした押し入れタイプの収納だっただけに、はみ出した収納具の行き場がなく、しばらく収拾がつかなかった。立体パズルを組み立てるようにあれをこっちに移動し、これをそっちに片付けしていくうちになんとか布団を2枚敷くスペースを確保し、翌日また散らかしてはしかるべき場所に収めて行く、という繰り返しである。何はなくとも布団を敷くスペースの確保が再優先事項である。

マンションは大きな通りに面していて、二重サッシのおかげでひどい騒音ではないものの、昼夜を分かつことなく車の低い唸り声が聞こえる。窓を開けると眼下にはバスが走り、人々がせわしなく歩いているのが見て取れる。鼻孔を満たす生ぬるいくぐもった匂いが、街中に居ることを感じさせる。北陸に居た頃は朝夕の涼しい時間帯に漂ってくる針葉樹林の香りが、得も言われぬ贅沢な楽しみであったことを考えると雲泥の差である。それでも少し遠くに目をやると、小高くこんもりと杜があるのが見渡せる。杜があるので有名なホテルと、その周辺の公園が織り成す緑地帯である。目にする度にちょっと意外な驚きを感じた後で、そもそも間取りよりも何よりもこれが気に入ってこの部屋に決めたのだっけ、と思い直してみたりする。

北陸に居た時は当然として、ケンブリッジでも寝室の窓から見えるポプラ並木が気に入って家を借りたのだし、結婚するまで住んでいた家もそれなりに植わっている庭木が窓から見えたものだった。音楽が鳴ってなくても生きていける。空がなくても生きていける。でも例え人工的な植栽であっても、視界の端に木々の緑がない生活は私にとって考えられない。大袈裟でなく、そう思う。だったらもっと郊外に住めばいいのにとも思うが、そういう発想が欠落しているところが都会育ちということだろうか。

杜の見える窓から、我が想いを運べ。


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