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巷はバザーの季節らしいです。 大学時代の友人間で作るMLに、泣き言のメールが入りました。泣き言の内容はというと、自分の娘の通っている幼稚園でバザーがある、ついては何かバザーで売るものを作っていかなければならない、しかも2品以上である、自慢じゃないけど私はお裁縫は大の苦手、一体どうしたらよいものだろうか…というものです。 この年齢になると子持の友人の方が多く、しかも子供が幼稚園やら小学校に上がる年頃なので、おかげさまで、私も子育てに関して耳年増状態になりつつあります。年増は耳だけじゃないですけど…いやいや、それはさておき。 しっかし、この少子時代にバザーで手作りのものを供出せよという幼稚園が、いまどき存在するのか!と驚いていたら、保育園に子供を通わせている別の友人からも、手作り品の供出の話が寄せられました。その保育園ではクラス毎に作る物が決まっていて、毎年きんちゃく袋だのポプリだのの作り方が配られるそうです。 それってさ〜おかしくない? 大体保育園っていうのは、働いてて子供の面倒をなかなか見られない親が子供を預けるところでしょ?そんなものを作る暇がどこにあるんでしょう。しかもなんで「いかにもお母さんが作りそうなもの」を作らせるんでしょう。作る物が一律で決まっているのが、保育園らしいといえばらしいんですけど。 幼稚園の彼女の場合、作るものの上限が決まってないだけに、余計に気を使っていろいろ考えなくてはなりませんからね。保育園の彼女は「幼稚園よりは負担が軽いし皆でワイワイ集まって作るのも楽しいから、ま、いいんだけどね」と書いてましたが、さはさりながらどうも解せません。 そんな滅多に針も持たないような人が作ったものを、喜んで買って使うだろうか? 甚だギモンですね、あたしゃ。 いや、別にバザーがいけないとか、手作りがいけないとか、そういうことを言っているつもりは毛頭なく、人には向き不向きがあるんだから、得意な人がやるのがいいんじゃないってことです。 これはある事情でバザーまみれの一年半を送った経験から申し上げますが、 もちろん、手芸が得意な人はバンバンよい作品を生み出してくれればよろしい。お菓子作りが得意な人はお菓子を作って供出すればよいし、絵が得意な人はポスターやチラシを、金勘定が得意な人は会計を、人あしらいがうまい人は売子を、声の大きい人は呼び込みを、お芝居のうまい人はサクラを…、というように自分にあったものをやればいいんです。 何にも取り柄が無いわァという人は、せっせと供出品を買うとか、留守番をするとか、買い出しに行くとか、なんとでもできるではありませんか。 娘の為にお針子に徹している彼女の嘆きを聞くにつけ思いますね。その「バザー=きれいなお金=ほのぼの」という幻想はやめてですね、最小の投資で最大の効果。みんなで楽して楽しくやりましょうやぁ。
「遠くへ行きたい」という言葉は、多分にロマンティックで甘い響きを持っています。 日常生活からの逃避というか、ストレスの解消の手段というか、それだけで救われるような、山のあなたの空遠くになにか待っているような気がします。 ところで、本来「甘い」という味覚に関する形容詞を「響き」という聴覚に関するものに使うのも不思議なものですが、 ま、それはともかく。 それでは、ただ遠くに行きさえすれば、そうした日々のうざうざとした呪縛から逃れられるのでしょうか。 ふと遠くへ行きたくなる人は、賑やかな都会に住んでる人だろうと推察されます。「遠くへ行きたい」という言葉から連想されるものとしては、「うらぶれた」とか「北」とか「波止場」とか「しみじみ」とかいうキーワードがありますからね。ただ遠くったってねぇ…。 さて、遠くに行くにあたっては移動手段も重要です。飛行機でピュンっと行ってしまったら、感慨も薄れようというものです。例えば香港2泊3日のお買いものツアー。海の向うで「思えば遠くへ来たもんだ」など感傷に浸れるでしょうか。仮に「どこでもドア」を使ったとしたら、たとえ火星から青い地球を見たとしても、ケッ…てなもんでしょう。 じゃあ、自動車や列車ならいいのかというと、それもギモンです。「休みをふるさとで過そうとする人たちの帰省ラッシュ」の人たちが新幹線のホームにどっと吐き出される様子を見ると、皆うんざりしたような疲れ切った表情をしていますな。サービスエリアで休息しているお父さん達もそうです。これからの道のりとそれにかかる時間を考えて、休息もそこそこに車の列に戻って行きます。せっかく遠くへ行くというのにです。 ところで、人が自主的に電車から歩いて降りているのに、「吐き出される」というのはすごい表現ですね。後ろの人から押されて出る、「押し出される」ことは往々にして多々ありますが。 ま、それはともかく。 となると、私のようにもう遠くに住んじゃってる人はどうすればいいのでしょうか。この場合の「遠く」っていうのは首都圏から遠い、とか生まれ育った場所から遠いってことなんですけど。 「遠く」に住んで数年経つと最初の旅行気分もずいぶん薄れてくるので、少し遠出をしようかという気になるのですが、これがどうも。 やっぱり国土の九割が山岳地帯である島国だけあって、日本の田舎ってどこも似てるんですよね。ま、目的地につけばそれなりに違いを楽しむことができるんすけど。そこに行きつくまでの風景がなんか自分の住んでるところと似てて、遠くへ行く過程があんまり非日常じゃなくなってきたんです。ええ。 うちを出発して、高速に乗ってわくわくわく…、で、高速降りてしばらく走って、あれぇ?なんかうちの近所と似てる…。「ねぇねぇ、そこ曲がったらうちの裏だったりしてね、ははは」なんてことになるわけです。 だったら近場でも遠回りをすれば、時間がかかってそれなりなのでは…?というわけで、この夏は全然遠出をしませんでした。遠くて片道1時間ですね。もぉ、十分湛能致しましたわ。近場の「遠出気分」。 中でも白眉だったのは、町内ですね。山一つ越えたところに山魚料理のお店があるというので、行ってまいりました。 ここはいくつかの村が合併して出来た町なので、かなり広く集落はそれぞれ離れています。行ったのは山に囲まれた、町内でも1、2を争う開けていないところ(笑)なんですが、それでも家から車だと5分もかからないところです。 そう、美化センターの向うです。本学関係者は行かれるとよろしい。 通りから案内板に従って細い道をうにゃうにゃっと行った、小さな普通の民家なのですが、中にはいってびっくり。「日本びいきの外国人」が好きそうな内装で、オリエンタルゥ〜です。「人里離れてひっそりと山魚料理をいただく」とか「自然の恵みに抱かれて」とか「趣のある一軒家で楽しむ昼膳」とかいう女性誌風のキャッチコピーを彷彿とさせます。 岩魚を自分たちで焼いて、果実酒をや薬草茶を飲んで、珍味を楽しんでおよそ2時間。すっかり「遠出気分」でした。 さてさて十分楽しんだのでおいとまです。 「遠くへ行きたい」我々は、お店の人のどこから来たのかという問いにきっぱりと「町内です」と答え、自宅とは反対方向へと、車を走らせたのでした。 次なる目的地は同じく町内のスーパーです。 食料品を買い出さねばなりません。 鳴呼、日常。
朝は決まって「あぐり」を見る。 連ドラをこんなにきちんと見るのは十数年振りである。原作「梅桃(ゆすらうめ)が実るとき」(ISBN4-89336-025-6 ) も買ったし、サントラ盤も買った。 とはいうものの、それほどハマっているわけでもない。たまたま時計代わりに見始めたものがそのまま続いている。 実際に子供を育てつつ社会で働いている友人達からは、あんな甘いものじゃないという声もあったが、いつまでも年をとらないヒロインのクサい演技も、能天気ぶりも害がなくて楽しい。 ところで、本当の朝の愉しみは「あぐり」ではない。むしろ「あぐり」が終わった時から始まるといっていい。ここからの15分間が勝負である。 「あぐり」が終わると8時半のニュースが始まる。画面が切り替わる瞬間のアナウンサーの表情に注目する。 まずはこの瞬間がお愉しみである。 おそらく彼の右斜め下にはモニターがあり、それまで「あぐり」が流れている。次の瞬間、彼はモニターから目を上げて正面に挨拶をし、ニュースを始めるのだ。 だから「あぐり」が楽しかった時は口もとがやや緩み、不安な雲行きのときは不安げな、悲しい終わり方をしたときは悲しそうな顔をしている。 いい人である。 これが往年の名作「おしん」ならば、この人はいつも暗い表情でニュースを始めなくてはならないところだ。よかったね、「あぐり」で。 アナウンサーの表情を確認したあとは、教育テレビである。ニュースの内容を気にしつつ「英語であそぼ!」のオープニングを見る。「歌のおねえさん」であるところの羽仁未来が、表情も硬く踊り歌うのを緊張感をもって見る。 今でこそ自由自在に楽しんでいる彼女も、番組が始まった頃はこうだったのかと改めて感慨深いものがある。
以前、生活感のない女についてのエッセイを読んだことがある。 知合いに生活感のない女がいて、どの位生活感がないかというと、毎日会社帰りにフィットネスクラブに通っている。つまり自宅でお風呂に入る必要がない。そこで自宅マンションの浴室を温室にしてしまった。なるほど生活感がない、アッパレであるという話である。 それはさておき、台風が接近しつつあるというので、我が家でもベランダの植物たちを取り込む必要が出てきた。 前回の台風の時は、畳にピクニック用のシートを敷いて、その上に鉢をのせたのだが、やはりあまり気持ちのいいものではない。第一、水やりの度に底から水が洩れてくるのでは厄介である。 ふと思い立って今回は、浴槽に蓋をして、その上に鉢物を載せることにした。 ずばり「生活感のない主婦」である。 そんなことをして困らないのか。あんたんとこはフィットネスクラブなんて洒落たものはないだろう、との心配はご無用である。 ご承知の通りこの辺にはフィットネスクラブこそないものの、温泉ならば町にひとつはある。総湯ってんですか?共同浴場みたいなの。自治体がやってるのだと、いわゆる複合施設で図書館や公民館と一緒になってて、入浴料は高くても300円。ちなみにうちの町の場合は町民用回数券があって、一回150円である。 さらに言うと、我が家の浴槽は小さい。座棺のように小さい。 湯舟に浸かっていると死体の気持ちがしみじみわかる気がする。だから家ではもっぱらシャワーばかり。あとは温泉通いである。浴槽が使えなくても困らない。 お、そのあたりから既に生活感がないな。 浴槽の上に植物が密集しているところは、なかなか壮観である。しかも、置いてみて初めてわかったのだが、大きなメリットがあった。 水やりが格段にラクである。 今までは水を入れた容器を持って、流しとベランダを何往復もしていたのだが、浴室なら上からシャワーで水をかけておしまいである。なんとよくしたものであるか。 陽こそ当らないものの、湿気は十分にあるので2〜3日留守する時も便利だろう。 ふふふ。こうして書いていても笑いがこみ上げて来るわい。 ところで、これを書いている時点で台風は金沢の北東部を通っているはずなのだが、一向にそれらしい雰囲気がない。 気象条件の違いだろうか、台風にも相手にされてないみたいでちょっと寂しい。
名古屋の婚礼は派手なことで有名ですが、加賀の国も昔前田の殿様が尾張の商人を連れて移り住んだことから、こちらもなかなかの派手っぷりと聞いています。 金沢市内のホテルなどでは結婚式帰りのご夫婦が重そうな引出物を両手にぶら下げてタクシーに乗り込む姿をみかけます。引出物は一家に一つだと思っていたのですが、二人それぞれに引出物を持っています。 なんでも引出物は「片手で持ててはいけない」とか「重ければ重い程よい」「かさばるものがよい」といわれているそうで、お重、果物かご、食器セットの類にずっしりと二人の愛と両家の意地がこめられているのであります。私の友人は、学生時代に東京から日帰りで金沢の結婚式に出席して、あまりの引出物の多さに「すっかり具合が悪くなっちゃったわ」とこぼしていました。彼女は忍耐の人なのでよっぽどだったと推察されます。 そんな訳で。物が豊かな現在では大安吉日ともなると、持ち切れなかった果物かごが小松空港に大量に捨てられている、という話を聞いたことがあります。 そんなの学校にもってきてくれたら、いくらでも食べる人がいるのにね。 結婚式が派手なら、それに付随する行事も派手になるのが自然の理というものです。 酒屋さんに行くと「友白髪」とか「鶴亀」という、いかにもいかにもな名前の一升瓶が並んでいます。それからずばり「結納屋」という看板をよく見ます。結納関係を一切取り仕切るんでしょうか。それと連動して「水引屋」というのも見かけます。水引というのは、のし袋についている細い紐ですね。水引だけで商売が成り立つなんて、すごい土地柄です。水引細工の鶴や亀があるのかな〜などと思いながら一度も入ったことはありません。 それだけで商売がなりたつといえば「欄間(らんま)屋」というのもありますが、これは直接関係がなさそうなので置いといて、あとは家具屋ですね。 この辺の家具屋さんに置いてある婚礼家具はハンパじゃありません。 一度、買う気もないのに友達(しかも妊婦)と冷やかしで入ったのですが、これまた「大きい、重い、かさばる」の三拍子です。よくもこんな大きいものが入る家に住めるものです。 しかも高い。婚礼家具を買う為の「積み立て」というのがあって、式の予定まだ…などと言ってごまかす私達に、お店の人は「お式は決まってなくても積み立てを…」と強く勧めてくれました。三年位積み立てをするのはザラなようです。ホントかな。 それから家具屋には必ず「透明なトラック」というのがあります。これは荷台の部分にガラスがはまっていて、中の荷物が見えるようになっています。そこに大枚はたいて買った家具を詰め込み、音楽を流しながら賑々しくお届けするという次第です。 これは婚礼に限ったことではないらしく、一度、知合いが家具を買った時に「頼むから普通のトラックで来てくれ」と言ったところ、思いもよらぬ注文に家具屋さんは「そんな話聞いたことがない」と、とりあってくれなかったそうです。 あとは車社会なので、お嫁入りの必須アイテムといえば自動車です。新車に大きなリボンをかけて、家具屋のトラックの行列に晴れがましく加わります。 車社会といえば「板金(ばんきん)屋」という商売があります。これは車をぶつけたりこすったりするときにお世話になるところで、ちょっとの傷ですごく料金がかかるそうです。町はずれには必ず板金屋があります。よくまあこんなに密集していて商売がなりたつなと思うのですが、なりたつんですな、不思議と。 …いや、だから、所変われば商売もいろいろだってこと言いたかったんですってば…。
次号はバーベキューといいつつ、朝顔の件火急にお伝えしたき儀ありて、ここに筆をとり上げ候。 というわけで、過日お楽しみ土袋 に潜み、いきなりベゴニアの鉢を乗っ取らんとした朝顔であるが、結局のところ、その後は伸び悩んでいるようであった。かろうじて本葉が3〜4枚出ているものの、ベゴニアに絡み付くわけでもなく、所在なげにつるの先をふらふらさせている。 なんといっても不法占拠であり、このまま見逃すわけにはいかない。かといって、どうやらつぼみも育ちつつあり、間引いてしまうのも不憐であるので、空いた鉢に植え替えることにした。 一回り大きな鉢にたっぷり土を入れ、中央に植えてやる。思いのほか根が長く伸びている。鉢の大きさにやや負けている感もあるが、まんざらでもない様子である。陽があたるようにベランダに出しておいた。 早速、植え替え効果が出たらしい。様子を見に行くとつるが伸びている。支柱を立ててやらねば。あたりを物色して、トマトの鉢に差してある支柱を無断で借用する。長過ぎる気もするが、他にないので仕方がない。ところでつる本体は、今まで勝手きままに育ってきたので、支柱を立てたからといって、そう簡単に巻きつくものではない。2箇所を簡単にピンクのリボンでとめてやる。 翌朝になると、早くもつるが支柱に巻きついていた。なんと初い奴であるか。ひしっと支柱にしがみつくその姿はいじらしく、支柱が男であれば、まさに男冥利に尽きるといえよう。 「つるは、つるは、もう離れませぬぞえ」 といった二回巻きである。 一途な乙女心にほだされつつ、ふと気がつくと、つるはさらに四回五回と巻きつく回数を増やしていた。しかも一巻きごとに着実に距離を伸ばしている。それにともない葉の数は倍増し、大きさ、色艶とも見事なものである。仮止めのピンクのリボンなど、遥か下方で無用の長物と化している。 「あれぇ巻きつかない、ちょっと押えてくださいまし」 などといった当初の可憐さは瞬く間になりを潜め、とどまるところを知らぬ躍進ぶりである。 「朝顔め、たばかりおったな」 一瞬でも可憐である、不憫である、と思った己が恥ずかしい。もともとは不法侵入者ではなかったか。もはや支柱の長さに達するのは時間の問題となった。支柱を長くすれば、その分図に乗ってつるを伸ばしていくのだろう。どうせそんな奴なのだ。もう何もいうまい。 一言いわせて貰うなら、つるを伸ばすのも良い加減にして、早く花を咲かせておくれ。 時期はずれである。
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