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その男は,ギターを弾きながら英語の歌を歌っていた。 アメリカ人だろうか、がっちりとした体躯の白人である。朗々と、のびやかな声でカントリー風に歌いあげている。男の前には、ギターのケース。ここに小銭をいれておくれ、と蓋をあけている。 男の声は拡声機を通してあたり一面を包み、少し離れたベンチには旅行客とおぼしき、これも白人のカップルが歌に合わせて体を揺らしている。休日の昼下がり、のどかな公園風景である。 やめて欲しい、と心底思った。 これが日比谷公園なら文句はいわない。渋谷のハチ公前だったら、小銭のひとつも投げ込んだかもしれない。しかしここは、公園といっても古都京都の観光地、八坂神社に隣接した公園なのである。その場にいたのは観光客ばかり。京都の一角にかろうじて残った古都の雰囲気を楽しんでいるのである。 そこへ白人のカントリーミュージック。 場違いである。 ええ、ええ、確かに表現の自由はあるでしょう。音楽に国境はないというかも知れません。だけど表現する自由があるならば、表現されない自由っていうのもあるわけです。 祇園の町並みを楽しみ、たまさかに見かけた芸妓さんの姿に「やっぱり京都ねぇ」などと、したり顔でうなずくささやかな京都の旅なのである。それが、なんの因果であんなアメリカンな、しかも拡声機を通した人工的な声に塗りつぶされなければいけないのか。 あえてガイジンさんと呼ばせていただこう。 あんたねぇ、メイワクだよ。
何度も言うようですが、北陸の夏は暑ぅおます。朝日が昇ると同時にジリジリと暑くなってきます。こうなると『暑い』を通りこして『熱い』ですが、空が白みはじめて2時間ぐらいは の一言につきます。 去年の今頃、私はその時間帯に自宅から程近い林道を歩いていました。『ろーかるサマータイム』と称して、散歩と洒落こんでいたのです。 針葉樹独特のかおり。草いきれ。小鳥のさえずり。蝉がじーじーと鳴き始めます。砂利道をざっざっと踏みしめながら、歩いて行きます。 気分良く歩くうちに、道はカーブにさしかかります。そこを曲がり切ったとたん、ガサガサっと薮の中で音が… 。 心の中を不安がよぎります。 この辺りは、確かに「 熊に注意 」の看板を目にしますが、クマさんと出会うのは、歌の世界だけにして欲しいものです。 目が合いました。動物です。しかも蹄足動物。鹿のようにみえます。 つぶらな瞳でこちらを見ています。 『ハッ…しまった…』と、なんともバツの悪そうな顔をしていますが、私は虚をつかれて身動きができません。 やがて鹿のような動物は、さっと踵を返すと、固まっている私を残してタッタカタッタカ、蹄の音も高らかに去って行ったのでした。 …鹿…森の中に鹿…。牧場から逃げ出したのか?いや、牧場に鹿はいないし…いや、でも蹄足動物だったよね… いや、いくらなんでも家から歩いて数分で鹿…。 悶々としたまま、やがて秋になり、冬になりました。 春になって、地元の人達と同じ場所に山菜とりに出かけました。意を決して地元のお兄さんに聞いてみることにしました。 『あのぉ、去年この辺で鹿、見たんですけどぉ…』 『あー。おるおる。うちのばあちゃん、こないだ頭殴られたわ』 …やっぱ、いたんだ、鹿。 いや、殴られんでよかったわ。
「手をあげて 横断歩道を 渡りましょう。」という標語がある。子供の頃、いつも見ていた番組で「手をあげて 横断歩道を 渡りましょう、松崎まことでございます」と言い続けた座布団運びが表彰されるほど、ポピュラーな標語だった。 子供は小さいので、せめて手をあげて目立たせようということだったのか、「手をあげる」ことは「渡りたい」意志表示としてちゃんと認められていて、信号のない横断歩道でもそれなりに効果があった。 そのうち交通量が増えて、青信号で渡っていても左折の車が突っ込んで来るようになった。ヘタに手などあげたら空車のタクシーに期待させるだけである。もちろん信号のない横断歩道は、目的のない単なるシマシマと化してしまった。 今住んでいるところは交通量は決して多くないが、やはり横断歩道は単なるシマシマである。まず人も車も少ない。(それなのになぜ、交通事故が多いのだ、石川県人よ。) 車は「どうせ人はいないだろう」と思い、 人は「どうせ車は来ないだろう」と思っている。 お互いの思惑が一致した結果、車は横断歩道をすっとばし、人は渡りたいと思ったところで渡るのである。 一方、地元の小学生は横断歩道でじっと待つ。車が止まるのを待つわけではない。車が通り過ぎるのを、待つ。これも生活の知恵なのか、それとも学校でそう習ったのか、横断歩道の手前で車が止まっても渡ろうとしない。 頑なである。 この辺りで、「手をあげる」行為は「横断歩道を渡る」という行為と結びつかない。 もちろん「手をあげる」行為は「タクシーを止める」という行為とも結びつかない。この辺りでは、タクシーとは電話で呼ぶものだからである。
《文体実験…日記》 日記をつけるのが流行っているらしい。ついつい知合いのページをはしごしてしまう。日記をつけるとアクセス数が増えるようだ。いつも学校で顔を合わせている人の日記を見ても仕方ないような気もするが、同じ体験をしてもとらえ方が違って来るのがまた面白い。 アクセス数といえば、自分のホームページにつけたアクセスカウンタがもうすぐ 1000件に達しそうだ。そのうち200件位は「うっかり」と「うかれて」自分でアクセスした分だとしても、一体誰が読んでいるだろう…。 自分の研究のために図書館・情報学の資料が欲しくなる。といっても、この辺では簡単に手に入りそうもないので、例のへなりこ の面々にメールを投げてみる。やはり持つべきものは友人と電子メールである。 西村知美はすごいと思う。 コマーシャルで殺虫剤を撒きちらしているだけの人かと思っていたが、なかなか大したものである。夏休みにミュージカル「オズの魔法つかい」を手話を交えてやるという。この間たまたまテレビで一部分をやっていたが、そのうまさにぶっ飛んでしまった。政府広告「協力して下さい」の手話は真剣さのあまり顔が恐いが、こちらはうって変わって流れるような表情豊かな手話である。 手話を始めて4年だということは、私とほぼ同じか。早速、なんちゃんに「こんなに上手だった!」と再現しようとしたが無理だった。さすが表現を生業としている人は違う。 植物をベランダにおいといたら、真上から陽が差さないためか、よわよわになってきてしまった。ブルーサルビアもなんとなく白いし、マリーゴールドも一重(ひとえ)になってしまった。室内でも陽があたる窓辺に置いてみる。
《文体実験…天声人語風》 つくづく人の感性とは千差万別であると思う。ページの内容に対する反応である。自分が気に入っているページのリンクサイトへ行ってみると、はて全く興味がわかない、ということがよくある。▼ もっともホームページの場合、面白くないページはよっぽどのことがない限り素通りしてしまう。勢い手元に届くのは大概よい反応となる。しかしながら、筆者の周囲には佃煮にするほどクリック小僧がいるので、電子メールなど使わずに口頭で「つまらん」といってくる向きも多い。▼ 特に顕著だったのは「チョコレート」である。作るやいなや「くだらない」「すごく面白い」の2つの反応にきっぱりと分かれた。「くだらない」派である同年代の友人ぱらぐちなどは「何が面白いのか、教えてくれ」と説明を求める始末である。その割に ペプシマンキーホルダー をムキになって手に入れ、悦に入っているらしい。 人の好みとはわからないものである。▼ ところで、くだんの「チョコレート」であるが、日本アルプスの彼方、遠く太平洋側で密かに闘志を燃やしている 御仁がいることが明らかになった。彼のページは本来学術的なものであるに関わらず、「チョコレート」が世に出るや、そのページで絶賛していただいたが、ついに自分でも作ったという。しかもかなり入れ込んでいる様子である。ユーモラスな 作品 が既に数点公開されていた。続作もあるという。楽しみである▼ 実は「チョコレート」の作成には筆者のアイディアを具現化した影のブレーンがいる。影の存在に飽きたらなくなったのか、 彼の日記 を紐とくと、「テーブルを使ってなにやら作った」という記述が見られる。昔とった杵づかを生かした、色鮮やかな逸品である。▼ 同じページに刺激を受けたものが、かたやギャグ系にかたやゲージツ系に分かれていく。実に個人の感性はまちまちである。
《文体実験…ちょっと所帯染みたオネーサン風》 ついに買っちゃったわ、花。 ブルーサルビアとマリーゴールドとシロタエギクとペチュニア。 これを寄せ植えにして、もともとあったツタも足してコンテナガーデンを作ったの。この北陸の暴力的な日差しに負けない色合いよ。 気づいてると思うけど、私って花が好きなの。花を活けたりアレンジメントを作るのも好きだし、父が植木や土いじりをよくするせいか育てるのも好きね。 ただし、種から育てるのは苦手だわ。売っている種は相当発芽率がいいから、ひと袋蒔くと、そりゃ〜たくさん芽が出るんだけど、なんか感情移入しすぎるっていうか、単にもったいながりの貧乏症なのか、「間引き」ができないのよね。心を鬼にして間引いたものの、結局他に植え替えたりしてね。意味ないのよ。 だから、もっぱら黒いポットに入ってる苗を買ってるの。まあ、これだって他の兄弟との間引き争いに勝った末の姿なんだけど、自分で手を下さなければいいのよ。細かいことはいわないでちょうだい。 その割に花が咲いた後の花ガラ摘みは平気。花ガラって摘まないと種を作っちゃうのよね。そうすると栄養分をとられてきれいな花が咲かないの。 しばらくさぼってるとすぐに種が出来るんだけど、それもバンバンとっちゃう。 「あ、あたしの子を返して〜!あたしの子〜っ!」 って花が叫んでる気もするけど、美しさのためには多少の犠牲は仕方ないわ。 こっちに引っ越してきて思ったのは園芸用品が安いことね。苗から植木鉢からとにかく安いのよ。だけど、なにせこっちは団地住まいでしょ、周りに自然があっても自分でいじれるわけじゃないのよ。一掴みの土だって自分のじゃないんだから。ベランダでやるったって突発的に暴風雨も来るし。だからこっちではじっと我慢して、東京の実家に帰ると土いじりっていう、なんだか不毛なことをやってたわけなの。 だけど、そんなのは長続きするわけないわ。あっという間に禁断症状よ。 あるとき、スーパーで買った根ミツバが余ったから、残りを植木鉢に植えたのよ。これなら葉っぱが次々に出て役に立つでしょ。そしたら後は止まらないわよ。今ベランダにあるのは、そのミツバの他に、ハーブ数種類、シソ…。食べられるものばっかりね。あ、食べられないけど、キッチンの隅で発芽してたサトイモもあるわ。あんまりきれいな葉を出すから、ナスターシャって名前をつけて可愛がってるのよ。この間ハーブの延長でラベンダーも買ったらもう我慢はできないわ。やっぱり花はいいわよねぇ。どこにあんなきれいな色の素が入ってるのかしらねぇ。 ところで、研究室には野菜ばっかり育てている人がいて、花には興味がないっていうのよ。でも、 栽培日記 によるといつの間にか私も園芸同好会の仲間になっているらしいわ。これって同好の士なのかしらね、方向性違うんだけど。
小学校だかの国語の時間に「ですます体」「である体」というのを習った記憶がある。つまり、語尾が「です」「ます」で終るのが「ですます体」、「である」で終るのが「である体」ということである。だからどーしたという区別ではあるが、文章を書く時「ですます体」と「である体」は混在させてはいけない、といった規則も習ったように思う。 ここに載せる文章を書こうと思い立って、書き始めてから約一カ月、しみじみ分かったことがある。私は「である体」で文が書けないのである。 のである。 である。 「である体」だけでなく、「なのだ体」でも書けないのだ。 いのだ。 のだ。 何だ、今書いてるじゃないかといわれそうだが、そういうことではなくて、筆が進まないということである。何かについて書き始めようと思うと、始めの書き出しは確かに「である体」で思いつくのだが、その先が続かない。結論も「である体」ですでに用意されているというのに、そこまで行きつかない。これは、いったいどうしたことか。どうも、断定するのが苦手らしい、ということらしい。(ほらね) そこで試みに「ですます体」に変えてみた。 するとなんとなく、書ける気がしてきます。なんとも不思議。で、つらつらと書き続けていくうちになんとなく書き終ります。なんとなく書き終るというのは、大げさか。ゴールにたどり着いてもそれなりに推敲したりはするんですが、「である体」に比べると、ずいぶんと手がさくさく動く気がします。とはいえ、書き始めた時にふりかざしていた結論にくらべると、なんとも気の抜けた結末になっていることが多いのは事実です。 ということは、その日のファッションによって気分や立居振舞いが変わるように、文体によって文章の内容が変わるということでしょうか。ならば、私が「である体」で押し通したら、逆に引っ込みがつかなくなってどんどん断定的な方向にいってしまったりもするのでしょうな。う〜ん。今度はちょっと変えてみるか。 こんな気の抜けた文章を書くにも、いろいろと苦労が(どんな苦労だ)あるものです。
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