| 2002年01月31日(木) |
高校生「ゆっくり休養したい」 |
小学生「パソコンやテレビゲームをしたい」 高校生「ゆっくり休養したい」
上は次の4月から小中高学校が週休2日制になるにあたり、 「休日は何をして過ごしたいか」 というアンケートをとったところ、学生のトップを占めた意見である。 このことは今日(2月1日)の読売新聞に載っている。
休みの2日間、小学生は家で機械的なゲームで遊びたおす。 高校生はまだ十代であるのにゆっくり休養する。 ガラスの十代であるのにもう守りに入っている。変な高校生。
こんな子供達が未来の日本を背負えるのだろうか? 日本のため社会のために働けるのだろうか。はなはだ不安。不安感。保安官。
「『ゆとり教育』で自主性を育てる」 っていうアホみたいな政策をしてきた教育現場で育った子供達の精神は、 もやしのように細いのだろう。
善も悪もこの世の価値観も理解できていない子供達に自主性などあるはずは無い。 強制された枠の中に入れて、自分で色々考えなければならない状況を作ってやらないと、 彼らは何も考えない。私利私欲をのさばるだけで、自分を磨こうとはしない。 上のやつらはこのことを何も解っていない。日本にはアホの政治家しか居ない。
| 2002年01月30日(水) |
「NO GOOD 」 |
町には至るところに落書きがある。
トイレだったり、建物の外壁だったり、道だったり。 最近近所でよく見かけるのは電柱に、 「 NO GOOD 」 と書かれている落書き。
赤のスプレーで誰かが書いているのだろうが、日本語に訳すと 「 良くない 」
落書きするのが「良くない」こととわかっているなら、書かなかったらよいのに。
他に見かけるものとして 「 SO BAD 」 という落書きもある。 日本語に訳すと 「 とても悪い 」 落書きするのがそこまで悪いとは思わないけど書かないほうが賢明だろう。
書いている途中で警官に見つかって、最後の 「 D 」 が書けないまま補導されたら、 「 SO BA 」 になってしまうではないか。 近くに蕎麦屋さんなんて何処にもないのに。
喜怒哀楽とは、「喜びと怒りと悲しみと楽しみ。人間のさまざまな感情」のことである。
その喜びや怒りや悲しみや楽しみを感じる事柄は、各個人によって違う。
ある人はお金を手に入れることが一番の喜びかもしれないが、 別のある人は他人に誉められることが一番の喜びかもしれない。 またある人は、心を傷つけられることが一番の悲しいことなのかもしれないが、 別のある人は、勝負に負けることが一番悲しいことなのかもしれない。
このようにどんな人にも喜怒哀楽は存在するが、 それらを感じる事柄は人それぞれで異なってくる。 そして、その喜怒哀楽を感じる事柄は、 その人が持っている価値観にとても密接に結びついている。 だから、その人の一番の喜怒哀楽を知れば価値観を知れる。
そこであなたが一番喜怒哀楽を感じる事柄はそれぞれ何ですか? これが今日のテーマです。
でも、これはなかなかすぐには答えられないと思いますので、 じっくり時間をかけて考えてください。
こんなこと考えても何もならないと思う人はいるかもしれませんが、 この感情が解らない人は基本的に感情や行動に一貫性が無い人だと思います。 別に非難している訳ではないですが、考えてもよいのではないでしょうか。
「セールスお断り」 と縦書きのプレートがインターホンの横などに張ってある家。
最近僕は毎朝ランニングをしているのだが、そんな家を良く見かける。 白いプレートに、黒字で「セールス」、赤字で「お断り」と書かれている。
どの家も同じ縦長の長方形のプレートである。 あまりに全部が全部同じすぎて面白みがない。 「こんなありふれたものじゃセールマンは諦めないだろう」って思ってしまう。
とにかくあの全部同じサイズのブロック体では全然気持ちが伝わってこない。 語調を強めるために赤字の「お断り」を使用しているつもりなのだろうけど、 わざわざ丁寧語の「お」を使用しては、打ち消しあって意味をなさないでいる。
いっそのこと血染めで書いて欲しい。これはかなり効果があるはずだ。 でも、そうすればセールスマンはもとより近所の人も寄り付かなくなるだろう。 だからほどほどに。
したがって、僕はこのいかんともし難い「お断りプレート」の現状に一石を投じるために、 新たな「セールスマン撃退プレート」を4つ提案することにしよう。
� 屮察璽襯甲任襦廖� ・・・言葉は少ないがかなりの重み。威厳あり。 �◆屮察璽襯垢論造辰討茲掘廖� ・・・セールスマンが2チャンネラーなら撃退確実。
��「セールス?要らん要らん。そんなもん」 ・・・聞く耳持たず。こんなプレートが張ってあったらセールスマンはなすすべ無し。
最後のプレートは少し長め。セールスマンもインターホンの前で熟読するはず。
�ぁ屮察璽襯好泪鵑諒�はこのインターホンに向かって、 『事件は会議室で起こってるんじゃない!現場で起きてんだ!』 と叫んでください。もし、織田ゆうじ似の猿顔なら入るのを許可します。 でも、久保田利神や中西圭三なら残念ですが、ごめんなさい。」
・・・これも闇で効果あり。関係ないですが、KATUMI似では絶対駄目です。
それは「ヒットが打てなくなった現実が来た時」である。 何も考えずにヒットを打ってこれた人は、このスランプを絶対に回避できない。 どこが悪くて、どこが良いか、どれが大事で、どれがいらないか、 ということ全くわからないからだ。
そして、まさに現実にヒットを打てなくなる時が来た時、彼らはどうなるであろうか。
彼らは「如何にヒットを打つか?」が大事だと思い直し努力するだろうか。 僕は絶対に彼らはそんなことをしないと思う。 今までなんの努力もなしにヒットを打ててきた彼らにとっては、 努力なんて絶対できるものではなく、このような事態は全くの異常で、 ただ「この世の終わりだ」と思うだろう。
そういう自分を保てなくなった人間が多数存在すれば、 このアホみたいに平和な日本の社会は機能しなくなり混乱が訪れるだろう。
そんな未来なんて嫌だ。嫌だ。嫌なのだ。 だから僕らは、「如何にヒットを打つか?」「巧くヒットを打つために何が必要なのか?」 ということを考えて、素振りをして、足腰の鍛錬をせねばならないのだ。
危機感、使命感は何にも変え難いモチベーションなのである。
「野球でヒットを打つ」これを「生きる」と置き換えよう。
そう置き換えると、 「自分は何故生きているか?」 は、「自分は何故ヒットを打っているのか?」 「生きているとは、どういうことか?」 は、「ヒットを打つとはどういうことか?」 という質問に転ずる事になる。
この置き換えられた2つの質問は、いつもヒットが打てない人達か、または、 ヒットは打てているが、打つ方法が解っていなくて、スキルを身に付けていない人達、 がする質問である。
スキルで意識的にヒットを打てる人達や、意識的にスキルを磨こうとしている人は、 それらの質問がヒットを打つ事に何も意味をなさない事は解っている。 「自分は何故ヒットを打っているのか?」「ヒットを打つとはどういうことか?」 という事を自問自答するだけで、ヒットが打てるようになるはずはない。 そんなことを考えても絶対にヒットを打つことは出来ないし、スキルは一向に身につかない。
それでも「自分は何故ヒットを打っているのか?」「ヒットを打つとはどういうことか?」 という質問にこだわる人には、 「現実がヒットであるから」、「アウトにならないこと」と言ってやればいい。 でも、それでも納得しない人も多数存在するだろう。 「もっともっと凄い答えがあるはずだ」と抵抗する。 もう、そんな人は死んでしまえ。意味を素直にとりなさい。 「頭の回線が違うふうに繋がってる。もう駄目だ。お手上げ」。そんな感じ。
ヒットを打つために考えねばならないことはそれはまさしく、 「如何にヒットを打つか?」である。 これを考えていないやつは絶対にスキルが身につかないし、うまくならない。 でも、そんなことを考えてなくてもどんどんうまくなってヒットを打てる人もいる。 (日本のけっこう多くの人はそうだと思う。僕の勝手な予想。かなり勝手)
そんな人は言う 「『如何にヒットを打つか?』なんていらないよ。要はヒットが打てればいいんだよ」 確かにそうである。でもそれでは困ることがある。 それは何か?なんであろうか? ・・・続く
<批評> 作・編 柴山健一
「自分は何故生きているか?」を「如何に生きるか?」に転ずるのは巧いと思いました。 そして価値をもたせる論法も良いです。
僕は生きてても価値を求めて生きたい人間だからとても言いたい事が解ります。 しかし、「別に無理に価値なんて求めなくてもいいじゃない。生きてるんだから」 と思っている人達にはあまり理解できないと思います。 この文は価値を求めて生きている人間が共感できる文です。 君が「価値をもって生きようよ」と言う。 僕は「うん。そうだそうだ」と思う。そんな具合に。
しかしながら、価値を求めて生きていない人達に、「価値をもって生きろよ」 と言っても聞かないでしょう。 だって価値なんて求めなくても、努力しなくとも、あれこれ考えなくても、 僕達は生きていけるんですから。 だから、「価値をもって生きなくては、こんな不都合が生じますよ」っていうことを、 価値を求めて生きていない人達に伝えられるような文が必要だと思います。 それを以下に書きます。
でも生きるというテーマでこれを考えていくことは、僕達にはおも過ぎます。 だからもっとわかり易いもので「生きる」を置き換えよう。 ・・・続く
池田晶子の書く文に僕の弟である文哉がはまっているらしい。 それを僕に勧めるべく以下の文をメールで送ってきた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― 自分の将来にとって有益であること (著:柴山文哉 / 編:柴山健一)
将に来るべき未来、僕らは何をしているのだろう。生きている。 そうそれは確実だ。死んでないなら。 では今、またその時に「自分は何故生きているのか?」と自問するとしよう。 自己肯定力の弱い凡人よ。ある人は、わからない。またある人は、 生きていること自体が目標だと答える人もいるだろう。
でも、良く考えて見るとどちらとも似たり依ったりである。 だから、理由より何より、「生きているとは、どういうことか?」が先である。 それなしに理由もくそもないのである。しかしながら、上の質問は屁みたいなもんである。 なぜなら僕らは、その質問の答えすら知らずに、わからずに「生きている」のであり、 その「生きている」のは努力もいらず、無償であり、 その質問の答えを知らなくとも「生きている」は出来るからである。
けれども、その質問の答えすら知らずに本当に「生きている」は出来ているのであろうか? または、それを知っている人と知らない人ではどう違うのだろうか? 区別できないなら同じとしかいいようがない。
だが、彼女は冒頭の問題(「自分は何故生きているのか?」)に、正当に答えることが出来る。
「生きている」ことは価値があるだろうか?
冒頭の問題でない問題を彼女はもつ。 価値とは何か?生きるとは価値ではない。「如何に生きるか?」が価値である。 そうして初めて価値が生じる。僕らは「如何にも生きれない」、単に生きている。 生きるとは何かを、知らないから。
池田は40年間考え続けている。「『善く生きる』とは何か?」「善とは?」 全人類の共通の問題に挑戦しよう。
明日から何回かに渡って僕の弟である文哉とのメールのやりとりを紹介したいと思う。
実は今日の日記の本題は「それが明日からありますよ」というただの連絡です。
しかしながら、このまま終っては批判の電話が引切り無しでかかってきそうなので、 ちょっぴり少し日記らしく最近の僕の朝の生活を紹介しよう。
6時00分 目覚める 僕はローソンのある日以外の時には目覚ましはかけない。 僕の目が覚めた時が朝であって、「8時から朝」や「9時から朝」という決まりは設けない。
6時30分 いまだ布団の中。 最近はあまりにも寒いので、出るのがおっくうで30分ほどゴロゴロする。 でも2度寝はしない。2度寝は余計に眠くなったり自己嫌悪になるからマイナスが多過ぎる。
6時45分 ランニング開始。 最近の日課である。1月12日から始めたので約10日。意外に頑張ってる。自分を誉める。
7時15分 ランニング終了。 30分きっちり走るため携帯電話をもって時間を計りながら走っている。 家を出て15分たてば折り返す。それが横断歩道の途中であっても15分たったら折り返す。
7時30分 ご飯を食べながら英語を聞く。 ゆくゆくのため英語を聞いている。でも全然集中していない。 意味がなさそうだけど、最近徐々に聞けてきたと自負している。
8時00分 英語と朝ご飯終了。大学へ。 そして僕は大学に着いて、メールチェックをした後、こうして日記を書く。
先日、大学の生協で斎藤和義のニューアルバム「35STONES」を買ったのですが、 「2000円以上お買い上げの方はクジが引けます」 というキャンペーンがあったので引くことにしました。
四角い箱の丸い窓に手を突っ込んで、いじって、さわって、 こねくり回して、ころがして、ようやく四角い紙のクジを引きました。 もう汗で手がべとべとです。でも実は汗じゃないかもしれません。
特賞から5等まであったのですが、なんと結果は5等。 「あ〜あ、5等かぁ〜」ってぼやきながらも、 でも5等は5等なりの景品があるのだろうとちょっと期待して受け取ると、 それはポケットテッシュでした。
裏面には武富士放火事件の犯人の似顔絵が書かれた紙は入ってなかったですが、 ポケットティッシュには変わりありません。
あまりにレベルの低い景品にかなり失望しました。 生協の人も「こんなんでごめんね」と言って渡してくれましたけど、 僕はかなり「なんじゃこれは!?5等といえども程がある!プンプン!」 って顔をしてたと思います。
それから暫くして学科の忘年会で梅田に行ったのですが、 梅田の至る所で5等の景品が配られていたのでした。
そんな事情もあるけど、悟空も子供の頃はピラフがついた初歩的な嘘に引っかかるほど、 相手の事を鵜呑みに信じる純粋な心を持っていた。
しかし大人になってからは、まったくそういう手口に引っかからなくなった。 それは悟空が相手を疑うという事を覚えたからで、 そのお陰でキント雲には乗れなくなってしまった。 そういう訳だ。悟空とキント雲にはこんな事情があったのだ。
大人になってからの悟空は、かなり俗っぽく、本当にしたたかで、とても計算高い。 そして、なによりかなりのMである。 そうでもなければ宇宙船の中で、自らが出した気を自分に当てて楽しんだりしない。
「カメハメ波ー!」 (カメハメ波が旋回し「キュイーン」と戻ってくる。悟空はそれを避けられず当たる) ドン!(悟空跳ね飛ばされる) 「うわぁ!!・・・うっうっううう。。。くそっ、負けるものか!!」
おいおい。それはあなたが出した気ですよ。あなたが。 まるでコント。まさに一人漫才。だから彼は面白い。 超人的なパワーを持ちながらも、綿密に計算されたコントと一人漫才。 やはり彼から目が離せない。
真実を隠し、子供達を騙しながらキント雲に笑顔で乗ることは、かなり心が痛んだらしい。 僕がその立場でもやりきれない気持ちだろう。 同じような僕の過去に照らし合わせると、とても良く解る。
悟空がそんな悩みを抱えていた時、僕の行きつけのBarに悟空もよく来ていて、 お互いひとりだった時は2人で色んな話をした。
「TVなどでは”オラ”って言ってるけど普段は絶対言わないよ。 普段は”俺”。でもTV的にもプロデューサー的にも”オラ”の方がいいんだって」 っていう暴露話から全ては始まった。
「あまりに善人ぶり過ぎて、何をやってもお金が受け取れなくなってしまって、 全くお金が無いんだ」と愚痴っていて、飲みのお勘定は6:4で6が僕だった。
「やっぱりかしこいブルマにしとくんだった。チチは本当に何もしないし、何もできない!」 って結婚相手まで否定してた時はビックリしたけど、今ではうまくやってるらしい。
ふぅ、ひと安心。
3日前の日記で「僕は悟空を疑っている」と書いた。 それに対しBBSでぴかそっこさんから、以下の書き込みをされた。
「悟空はキント雲から落ちたためしがないのです。 そんなけがれ無き悟空を疑ったらバチがあたるのです」
ぴかまだまだ甘いな。悟空には君達には計り知れないような真実がある。 悟空は大きくなってからあまりキント雲に乗らなくなった。 それは何故か?どうして?なんでなんでしょうか? 実はここに謎の全てが詰まっているといっていい。
その理由として大半の人は、「武空術で飛べるようになったから」と言うかも知れない。
しかしながら、実の本当のところは、初心がけがれて乗れなくなっていたのだ。 ある日悟空がいつものようにキント雲に乗ろうとしたらすり抜けて落っこちたらしい。 その時のショックときたらもうそれはそれは。筆舌に尽くし難いほどであったろう。
悟空が大人になってからも、たまにキント雲に乗っている時があったかもしれないが、 実際は、武空術を使って乗っているように見せかけていたに過ぎない。
悟空は自分がキント雲に乗れない体になってしまっては、 「日本全国の子供達の期待を裏切ることになる」と思って、そのことはひた隠していたのだ。 悟空とキント雲にはそんな隠された事実があったのだ。
今更ながらも遅いながらも新年会。 本日は学科の友達と梅田で飲みました。 場所はいつものスーパー百番。
ほとんどの同期は学生生活残り3ヶ月。4月から社会人。 ということで、皆々様の新たな門出の新年をみんなで祝おうということです。 久しぶりに馬鹿騒いで楽しかったなぁ。
学部で卒業して社会人3年目を迎える上山と、2年目を迎える備前も参加でした。 上山はあい変わらずナンセンストークしてたし、備前もあい変わらずオドオドしてたので、 「社会人になったからってそんなに変わらないんだろうな」って思いました。
だから、4月から予測不可能な未来が待ち受けているけれども、少し勇気が沸いてきました。 「上山はいいとして、備前ですら社会人が出来るなら、俺が出来ない訳が無い」 っていうか、 「備前が出来るなら誰でも出来る。元気があれば何でも出来る」
| 2002年01月17日(木) |
辛さ×10倍 vol.2 |
さて昨日の続きになるが、辛いというのはかなり曖昧で、あやふやで、主観的である。
それらを「辛い成分」と決めてしまうのはおかしなことであるのだ。 そのおかしさを巧く描写した文献があったので、下に示しておく。 ----- A君は「αという成分だけ辛いと感じる」 B君は「βという成分を辛いと感じるが、αは辛いと感じない。むしろ甘いと感じている」
こういう状態があれば、αとβは「辛い成分」に入れていいものかわからない。 リンゴとハチミツを入れたら本当にカレーが美味しくなるのか!???? というぐらいわからないのだ。 (「辛さについての空騒ぎ」著者:カーリー・バートモン) ----- そんな状況だけど、この×何倍という表示はかなりウケがいいらしく、 今では×100倍というのですら見かけるようになった。 しかしながら、100倍までくると辛さがまったくもって全然イメージできない。 はっきり言って×100倍という表示が意味をなさないでいる。
クイズダービーの最後の問題で、大橋巨泉が 「倍率ドン!さらに倍」 と言って、井森みゆきが30倍になったりもしたが、 あの井森みゆきですら高々30倍であって、100倍にはならなかった。
あれはただの1クイズ番組だったけど、僕達はあれから何かを学ばなければならないと思う。 繰り返すが、かの井森みゆきですら、100倍にはならないのである。 まぁここまで言えば、僕の気持ちが君達においおい伝わっているだろう。
むろん当然ながら今日の晩御飯に「ご飯?パン?麺?」で、迷ったなら、 「三択の女王 竹下景子 に3千点」 で決めてもらいましょう。
| 2002年01月16日(水) |
辛さ×10倍 vol.1 |
カレーの辛さを表す時、甘口・中辛・大辛などがある。
最近では「辛さ×10倍」などといった表示を見掛ける。
しかしながら、この辛さというものは主観であって、数値で測れるはずが無い。 それを無理に測って、×5倍だの、界王拳10倍だの、と言われても説得力は無い。
でもカレーを提供している店や、会社の言い分としては、
「我々は人が辛さを感じる成分が数値的に何g入っているかで辛さを決めているのです。 まず、仮に辛いとされる基準が「辛さ成分5g」である時、 辛さが知りたいカレーの辛さ成分が50gなら×10倍となる訳です。おわかり?」
そんなもの解る。理論もまっとうだ。 しかしだ。やはり「人が辛さを感じる成分」というのが、 あまりにも不確かで、あやふやで、主観的なのだ。
当たり前だが、界王拳に成分というものは無い。 だから、悟空が「界王拳3倍」と言ったところで本当に3倍かどうかすら怪しいものだ。 もしかするとはったりかもしれない。
「界王拳4倍だー!」と叫びながら、実は「3.2倍」くらいかもしれない。 計算高く「0.8倍」分も嘘をついているのだ。 純粋無垢の悟空であっても、真実を見極める時は疑わねばならない。 そんな時代さ。
| 2002年01月15日(火) |
パッチ(別名:ももひき) |
1月2月になると町のパッチ屋は大忙し。 朝も早くから生地からパッチを製造する機械がうなる。ウォ〜ン。
全国のパッチの82%を生産しているその町の入り口には 「パッチの町にようこそ」と書かれた看板がある。 「パッチ」の文字の上には、小学生のいたずらであろう片仮名で「ア」と書かれている。 即ち、「アパッチの町にようこそ」となっている。
「アパッチ」って、ジェロニモの事なのか、ケイジが主演してる洋画の事なのか、 アパッチ野球軍の事なのか、全く解らないけどここはひとまず穏便に。
友人のフクイは一浪のため、僕より1歳年上だ。即ち25歳。彼は言う。 「この歳でバイク通学だとパッチが手放せないね」
ごもっとも。 僕もバイク通学だけど、まだ24歳のため、未だパッチは使用していない。
しかしながら、25歳になってもパッチは使用しないつもりだ。 もし25歳で既にパッチを使用してしまったら、 この先80歳まで生きるとして、55年間パッチを履かねばならない計算となる。
これでは田舎の親戚のパッチ屋のおじさんが「儲かる儲かる」と嬉しがってしまう。 それは口惜しいからまだ我慢する。
だがだがだが、後輩の中面は23歳だというのに、パッチを既に使用している。 「お前23歳でパッチは早いだろ?」と言うと、 「いいえ。僕は21の時から履いてますよ」と居直られた。
話は変わって、フクイに、「実は力道山もパッチやろ?」と言うと、 「あほぅ!あれはレスラーパンツや!」と教え諭された。
「でも、三木道山は"一生一緒に居てくれや"、やろ?」 と言うと、フクイは何も言わなくなった。
何も言わないから自分の世界に入り込む。むむむむむ。 レスラーパンツとパッチの差は解るとしても、タイツとパッチの差は難しいな。 でも、全身タイツはあっても、全身パッチは無い。 その辺に答えがあるのかもしれない。
でも、パンストとタイツの差も難しい。 たぶんだが、「生地の厚さ何ミリからタイツ。厚さ何ミリまでパンスト」 というような規定があるのだろう。
でも実はこれらに規定なんて無くて、生産された時に決まっているのかもしれない。
「これはパッチ」と決めて生産されてしまうと、「パッチ」になってしまうように。 「人間」で産まれたら「人間」で、「超人」で産まれたら「超人」であるように。
ウララララ〜
| 2002年01月14日(月) |
仮定:もしアメリカが敵で日本が戦争状態になったら |
日本人は協力してアメリカに立ち向かえるであろうか?
答えを否。即ち「立ち向かえない」として想像を進めよう。
日本人は近所の人すらも信じあえずに、家に閉じこもってしまう。 常識がイカレタ奴や自分を恨んでいる奴に殺されてしまうんではないかと周囲を疑って、 自分を守ることしかできない。家族ですら信じ合えない家庭も存在するだろう。
ニュースなどもまったく放映されないほど機関が麻痺してしまう。 自分の命をかけてまでやるべき価値ある物など何も無いと信じて、 自分の命を守るばかりで、尽くそうという気持ちなんて誰にも無い。
一部の心有る日本を思う人達が、「今こそ力を合わせる時だ!」 と叫んでも、自分だけの安全が欲しくて自分だけが可愛い日本人の心には響かない。
日本人が一致団結し、アメリカに立ち向かうことなど想像しがたい。
そんな日本内は、内紛状態。 犯罪+強盗+強姦なんでも有りの世界。
アメリカのミサイルで舞い上がった砂埃や粉塵で空は一面黒い闇。 そこには混沌と混乱と狂熱だけが存在する。
そんな日本社会で良いのだろうか?
当然これはかなり偏った想像であるし、ありえないことだろうけれども、 言いたいことは、こんな悲惨な状況を少なからず想像出来たりもするってことかな。
日本なんて、お金だけばらまいて、他国に良い顔だけして、まるでスネオである。 ジャイアン(アメリカや中国)の顔の様子を見て意見を変えてしまうようなスネオである。
けんかに負けてもいいから筋を通すのび太のような気持ちが欲しいものだ。
本気で泣ける時って、
試合で勝ったなど、自分が認められて嬉しい時と、 自分では想像できないくらい口惜しい思いをした時と、 自分にとってとても大切な人が死んでしまった時と、
それぐらいしかないと思う。
映画で泣くことや、恋愛ごとで泣くことは、 所詮は、無理したり、計算したりしてると思う。
| 2002年01月12日(土) |
言いたくも無いし、言わされたくも無い。 |
舞台に用意された綺麗な言葉は存在します。
しかし、現実の社会ではそうはいきません。
みんながみんなドラマチックな最後を期待しても、言葉はそんなに巧く出てこないし、 お互いが考えている事など、現実的で俗っぽくて計算高いものなのですから。
泣き叫んでも、客観的にそれを見てる自分が居るから恥ずかしい。 そんな感情って誰しも持っているものだと思うのだが。
ドラマの最後のような決められたストーリーの最後なんて要らないな。 自分だけのストーリーがあればいい。
感動する言葉を狙って言いたくない。 言いたくも無いし、言わされたくも無い。
そんな創られた言葉は、所詮計算し創られたもの。 ただ素で出てきた、汚く俗な言葉が意外に心を打つものだと思う。 言った本人が全く覚えていないような言葉が。
男が女に言うせこい言葉、
「すげぇおれかっこ悪いかもしれないけど・・・」
「おれとても不器用だから・・・」
こんな言葉を男が言いはじめたら、女の人は身構えましょう。
概して男は自分でかっこ悪いと言っておきながら、素直に気持ちを出している自分を、 「俺ってカッコイイんじゃないの」と思っているのです。
男の言葉など全て計算されたものなのです。 こんな僕の言葉ですら計算されているものなのですから。
女の人は、男の言葉に夢を見ないでおきましょう。 男のやっていることだけで評価して、それを信じましょう。
昨年の2月から書き始めた日記も、もうちょっとで1年になろうとしています。
その間に、同時多発テロ や 同時理髪テロ が起こって、幾度も勝手に髪型を変えられて、 何度もその度に「もう日記は辞めよう」と思ったのですが、なんとか続いてこれました。
これも一重に、皆様の 後方支援 かつ 前方不注意 のおかげであります。
しかしながら最近とてもスランプです。かなりドクタースランプです。 なんとも全然書けません。書きたいのに書けない。 これは修論のせいかも、それとも勢いが無くなった私生活のせいかも。
| 2002年01月09日(水) |
「事故多し 注意!」 |
町で、
「事故多し 注意!」 「歩行者多し 安全運転」
という看板を見かけるたびに、なんで、
「事故多い」や「歩行者多い」にしないんだろう。って思う。
2002年にもなった現代において、「多し」のように「し」を使う人はまず居ない。
「今から夜ご飯食べに行かへん?」 「僕の今あるお金は少なし だから行かんわ。家で自分で作って食べるよ」
なんて言う人はまず居ない。
たとえ居たとしても、僕はたぶんそんな人を夜ご飯に誘わないだろう。 もし誘ったとして食事中に、
「ここのコロッケおいしいだろ?」 「かなりうまし でもちょっと値段が高し」
なんて言う会話を店員に聞かれては、もう恥ずかしくてその店に行けなくなる。 だから絶対誘わない。
こんなネタでかなり引っ張ってしまったが、 なんでダイドードリンクじゃなくて、ダイドードリンコなのだろうと思う。
| 2002年01月08日(火) |
ういっす ウィークリー |
まむまむ マンディ ちょっちゅ チューズディ うえっと ウエンズディ さあさあ サーズディ ふらっと フライディ さてさて サタディ さすれば サンディ
いやはや何の事だか。 しかしながら、弟の誕生日は1月8日でした。
22歳の誕生日おめでとう!
イクスクラメーションマーク(!)をなかなか使用しない僕が、 「おめでとう!」とかなり気持ちを込めていることに、弟は気づくであろうか。 気づいてもどうにもならんけど。
でもやはり僕は、おとう と おかあ の誕生日もわかりません。 さらには、2人の姉の誕生日もわかりません。 こんな息子で、弟で、いいのかな?
とりあえず良しとして、いこうよいこうよ あいかわらずな僕ら。
| 2002年01月07日(月) |
Enter 叩いて、疑問をポケットに詰め込んで。 |
僕は、魯神フッド(ろじんふっど:天使)が使っているのは、リンリン銅鐸だと思ってましたが、 実は、リンリンごう鐸(りんりんごうたく)のようです。間違ってました。すみません。
僕は本当に思い込み易い性格だから、一度入ってしまうと抜けきれないのです。反省。 もしもこの先、僕と直接コミュ二ケーションをとられる可能性の有る方は、 僕が勘違いして物事を覚えていたら、迷わず教え諭してたしなめてやってください。 お願いします。
で、話は変わるが、昨日の主題を引き続き、電卓が2つある理由とはなんだろう?
昨日も言ったように電卓は大きいのと小さいのがあるが、ほとんど大きい方が使用される。 なんと言ってもボタンが大きいほうが押しやすいし、それに表示も見易いからだ。
加えて他の理由として、大きい電卓を使わずに、逆に小さい電卓を使用してしまっては、 自らの心意気まで小さくしてしまう危険性があることも、いなめない。 更に言えば、最後の「イコール(=)」を叩くのは、やはり大きい電卓に限る。
やはりみんな、バシバシ「イコール(=)」を叩きたいのだ。 キーボードで、Enterを叩いて、叩き終わった右手をそのままの流れで、 左肩まで持っていき、キメのポーズをとる、くらい気持ち良く叩きたいのだ。
そんなわけで、みんなは大きい電卓を使っている。 果たして小さい電卓は使用されることはあるのだろうか。
そんな疑問は一生解決しないかもしれないけど、それらを皮ジャンのポケットに詰め込んで、 無駄な努力かもしれないけど、僕は今日も頑張って、白い吐息を吐くのです。 小学の時に引き当てたキラキラの魔性ネロの感動が、全てを動かすんです。
| 2002年01月06日(日) |
2つの電卓。リンリン銅鐸。 |
僕はローソンでバイトをしている。 ローソンの業務は大きく分けると2つあり、レジ打ち と 品整理 である。 商品を売るか、売れた商品を補充するか、2つに1つである。
それに加えてコンビニの重要な業務として、レジ点検というものが存在する。 僕は朝5時〜9時までの時間帯で働いているのだが、 その時間帯でしっかり収支が合っていたかを、点検するのである。
また、レジの中の小銭が尽きてしまわないように、 1,5,10,50,100,500円の棒金が小さい金庫ボックスに保管されているのだが、 レジ点検の際にそれらの棒金群も数える。 そして、その棒金群が正確に在るだけ在るかを計算するために、電卓が引き出しに入っている。
だが、僕の働いているローソンのその引出しには、電卓が2つも入っている。 B5の半分くらいの大きい電卓と、ハガキの半分くらいの小さい電卓である。 なんで2つ必要なのかが解らないから、同じくローソン早朝勤務である東山さんに尋ねると、
「故障したときの代わりでしょう」 だと。確かに。もっともらしい。
しかしながら、電卓ごときに故障の代わりなど用意していては、 中華マンケース や おでん用電気コンロ も代わりが要るであろう。 そう考えると、故障用ではないようだ。
そうなると、電卓が2つある意味は何であろうか。 明日はそれを探っていきたい。
▼シーン1 「君、すごい短気だね」 「そうなの。でもこれ仕方ないのよ。これ遺伝なの。両親が両親とも短気な人なの」 「ふーん。そうなんだ。」
▼シーン2 「君、すごいセンス悪いね。」 「そうなの。でもこれ仕方ないのよ。これ遺伝なの。両親が両親ともセンス無いの」 「ふーん。そうなんだ。」
▼シーン3 「君、すごい遅刻だね。遅れすぎだよ。」 「そうなの。でもこれ仕方ないのよ。これ遺伝なの。両親が両親とも時間にルーズなの」 「ふーん。そうなんだ。」
「 予想だにしない悲劇が起こり、どんなに失意に打ちひしがれても、僕達は、 おなかが減れば食べるし、眠くなれば寝るし、奇麗な裸体があればやるし、 そんな欲高い生き物なんです。」
彼はそう言ってグラスを置いた。 僕は頷きもせず立ち上がり、テラスに出てみた。 夕空には、1羽のカラスが僕の心を見透かすように、羽ばたいていた。
| 2002年01月03日(木) |
高速バスの 高い視線は 別世界 |
実家から高速バスで帰って来ました。
高速バスからの眺めは、原付や歩きと違って、視線が高いです。 だから、いつもと違う景色が見えたりできます。
僕の乗ったバスは、西ノ宮名塩で20kmの渋滞に捕まりました。 原因はUターンラッシュです。
片側3車線の真中を走っていた僕のバスは、渋滞にもまれてトロトロ走り。 僕は社外のトロトロと流れる景色を眺めていたのですが、飽きてしまって、 ある時から隣を走る車の内部を覗くようになっていました。
家族みんなが乗っている車もあれば、ただ一人のお姉さまドライバーもいました。 あるお姉さまドライバーの後部座席は、とても散らかってました。 ちょっとがっかりしました。 身なりが良かっただけにがっかりです。
同じく渋滞にもまれてた、おっさん一人が運転する軽トラの車内も丸見えでした。 運転してたおっさんは助手席にエロ本を置いていたのですが、暫くしてから裏返しました。
渋滞を過ぎ、池田インターを降りると、バスはいつもの中央環状線に入っていきます。 私の大学である大阪大学の豊中キャンパスを過ぎ、モノレールの柴原、少路を超えて、 坂を上がっていくと、明らかに儲かってなさそうなレストラングラーブがあります。
案の状、食事時だというのに一人しか客は居ませんでした。 いつもは視線が低くて見えないのですが、バスの高い視線だと店内が丸見えなのです。 厨房のオッサンがゲームボーイをしてるとこも見えたぐらいです。
高速バスはやはり良い。 安いし、速いし、それになんと言っても、見える世界が違う。
1.懐かしのキャラに会える。 2.お神酒が飲める。 3.おみくじだけで大盛り上がり。 4.新年へのステップ。 5.やっぱりスマップ。
そんな初詣も終りまして色々と語りましたが、やはりやはり社会人は大変そうですね。 僕も4月から社会人。がんばりましょう。
あけおめ。 ことよろ。
それ以外に何を言う事があろうか。
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