最近の日記が理論的過ぎたせいかあまり評判がよろしくなかった。らしい。 どんなことでもバランスは必要なので、今日は「気軽に散歩」みたいな感覚で書こうと思う。
ちょいと前のシャワー+歯磨きという日記を見てくれたお友達の鉄さんが、 それをちょっとパロディって、シャワー+あんぱんという日記を書いていたが、結構おもろかった。
なかなか人は色々な事を考えるものだなぁって思った。
僕はそれをもう少し発展させようと考えた。
「ごはん×ふりかけ」 これは絶対に「+(たす)」では駄目だ。「×(かける)」で、かけなければならぬ。
「腹÷知人」 これは知人から友達に昇格できるか否かの瀬戸際。 これも絶対に「÷(わる)」で、わらねばならない。
でも、こんなことを考えても本当に何にもならない。 まったくもってどうしようもない。 僕はラジオを聞きながら、料理をしながら、思った。でも、
「おっ、これって『ラジオ+料理』やん。これはかなりいいね。爽快」
って悦に入って、鼻歌交じり。
カラオケ、ボーリング、TVゲーム、四六時中友達とのお気に入りの芸能人の話。
これらは楽しいですよね。結構ね。僕も昔とてもTVゲームをやったしね。 でもこれらが楽しみの本質だろうか?やはり違う気がする。いや違う。
楽しいと思ってこのようなものばかりで楽しみを得ていたら、 とても空虚感・虚無感が募らないだろうか? これらの楽しみは得やすく、楽しみとしても薄く軽い楽しみである。
本来僕らはそんな薄く軽い楽しみを求めている訳ではない。 僕らはもっともっと厚く重い楽しみを求めているはずである。 それは何か?それはなんであろうか? 僕はそれは「成長」だと思う。 僕が一番楽しいと思えるときは、「成長を実感できる時」であるからだ。
しかし、「その成長を実感できる時」とはどんな時だろうか? それは、今まで立ち向かえなかったものに、立ち向かえるようになった時であり、 そのことはまさに「善」を意味している。
自分がその時に「善」だと認識していることをできるのが、一番楽しいのだと思う。 そうすることで、自分は成長していると実感できるからでもある。 でも、その「善」を繰り返していけば、それは慣れて、「当たり前」になる。 そうすればまた考えて、別の「善」を求めていかねばならない。 それまでの「善」は「当たり前」になり、自分とっての「善」ではなくなるからだ。
また、労力やお金や時間に縛られて、いやいやながらしているあたかも「善」である事は、 それは本当の「善」ではない。 そのような価値観を越えて、自分の心からできる「善」が本当の「善」である。 いやいやながらしている時点で、それは甘えがあり、力の余地があり、「悪」なのである。
当然、自分の甘えは「悪」であり、それに立ち向かうのは「善」である。 ここでいう「善・悪」は絶対的なものではない。 そのときの時代・状況・自分自身で常に変化する。 常に変化する「善」というもの、それを実行できることが一番楽しいことであると思う。
単純に考えると、甘えでもなく、強制でもなく、色んなことを考えて、自分が、 「これをすべきだ」と心底思えたことを、その時にやれることが「善」である。 「善」は常に変化するので、常に自問自答し、それを追い求めねばならない。 そうしないと人間的に成長できない。
人は何故哀しくなるのか?
それは自分ではどうにでもならなくて、そして納得できないことを、 受け入れなければならないからである。 具体的にそれはどういうものであろうか。 ある人は言う、哀しい本質は「裏切られること」だと。
確かにそれは頷ける。裏切られること自体は、自分でどうにでもならなくて、 納得できないことであり、ただ受け入れなければならないからである。
でもそれが本質であろうか。僕は違う気がする。 その「裏切られる」という中には原因があり、 その原因は自分がもっている可能性があるからである。 「自分があのようにやってしまったことが、実はあいつを裏切らせた原因なのかもしれない」 と自分を省みる余地がある。
だから、「裏切られる」ということは、なってしまえば確かに自分ではどうしようもないが、 「裏切られる」前にどうにか出来たかもしれないし、だから、納得できなくて、 受け入れられないことではない。 だから哀しみを感じる物事の中には、自分を省みる余地がないほうがより本質的だと思える。 それは何か?それはどのようなものであろうか?
僕はそれは「死」だと思う。自分にとって大切な人の「死」だと思う。 これはどう考えても、原因に自分が入り込む余地が無いし、それに自分を納得させられない。
僕達は、ただその「死」を受け入れるだけである。そして、ただ哀しむ。 哀しい本質は「死」にある。
人はなぜ怒るか?
思い通りにならないからである。
自分で納得できないような事がなされているからである。
でもあることが納得できなくてなされていても、 それが自分に被害が無いことが解っていれば、怒らないはずである。 (宇宙が広がっていることは納得できないが僕達は怒りません)
そうすると、自分で納得できなくて、さらに被害をこうむる場合は怒るのである。
この、自分で納得できなくて被害をこうむるとは何であろうか?
それはもっとも単純な事であるはずだ。 なぜなら、そのようなものには僕達は立ち向かうはずであるからだ。
そうである。僕達が立ち向かうものは「悪」である。
僕達は「悪」に怒るのである。
ほんしつ[本質]:物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。
前の日記では「一番」という言葉を使用していたが、あまりしっくりこないので、 これ以降は本質という言葉を使用する。 単に自分自身の中で「本質」という言葉がブームであるということも原因としてあるけど。
僕達はどんな時に「一番の喜び」即ち「喜びの本質」に触れることができるだろうか。 それは「この世界に存在する事を実感できた時である」と僕は思う。
この「この世界に存在する事を実感する」とは、「他者に認められること」だと僕は考える。 自分以外の他者から、「君が必要なのです。僕にとって君は不可欠なんです」 という気持ちを感じられれば、「自分はこの世界にいる事に意味はある」と思えるからです。 逆に、そのような気持ちを少しも感じる事ができなければ、 自分が存在する意味が解らなくなります。 即ち、そのような気持ちを感じないという事は、みんなは自分を必要としてなくて、 自分が居ても居なくても他人にはそんなに影響せずに首尾よく世界は回るからです。
だから「喜びの本質」は、「他者から認められることに」あるようです。
しかしながら、この他者は誰でもいいのかというとそうではありません。 日本中の1億という人々に認められようと、 自分の周りにいて自分が認めて欲しい人が認めてくれなければ、全く意味を成さないのです。 でも他人の考えは他人の考えなので、自分が努力していても認めてくれないことも多々です。 だから、もしその自分の認めて欲しい他者が自分を認めてくれるなら、 そこには必然と思いたい偶然があり、「喜び」が生まれるのです。
まとめると「喜びの本質」は、「一番に認めて欲しい人々に認められる事」であります。 言い換えれば「相思相愛」。むろんですが、異性同姓含めてです。
「相思相愛」これが一番の「喜びの本質」です。
2002年02月23日(土) |
「喜怒哀楽」自分としてはクイズのような感覚 |
1月29日の「喜怒哀楽」という日記に、 「あなたが一番喜怒哀楽を感じる事柄はそれぞれ何ですか?」 と書いた。
読者のみなさんはそれを考えてくれたでしょうか。 それを明日から伝えていこうと思う。 まず明日は、「一番の喜」即ち「一番喜ぶこと」である。
書く内容は僕1人の考えであるが、実は誰でもそう考えるのではないかと思っている。 だから、 「あなたが一番喜怒哀楽を感じる事柄はそれぞれ何ですか?」 と書いたが、自分としてはクイズのような感覚なのである。
さぁみなさん考えよう。
2002年02月22日(金) |
そんな現代で僕は生きてる。だから不安。 |
既存の格闘技からK−1、そして、プライドへ。
なんだか最近の人は過激であればあるほど、その格闘技を好むようだ。
僕はそこにローマ時代のコロセウムを見る。 僕らは奴隷が命がけで戦うのを傍観するローマ市民である。
また僕はそこに味が粗く濃いジャンクフードを見る。 僕らは味の繊細さや栄養を考えないで手軽で安価な食物を喰らう現代の若者である。
僕らが求めるものは、熟練されたハイレベルな技術の応酬より派手で過激なノックアウト。 繊細で深い味より解りやすい濃い味。
なんだかみんなの精神やモラルが逆戻りしているような気がした。 科学技術が進歩したとしても逆に精神やモラルは衰退している。
僕達人間は、戦争などの大きな失敗で得られたものを教訓にして、 精神やモラルを向上していかねばならない。
だが、そのことがされていない現代。 逆に精神やモラルの腐敗が進行している現代。
そんな現代で僕は生きてる。だから不安。
若い人達はなぜライブに行くのだろう?
家でCDを聞いたら済む話なのに、わざわざ高いお金を払ってライブに行く。なぜだろう?
その理由として、1つ目は、そのミュージシャンを見たいから。 2つ目は、そのミュージシャンが発するエネルギーに触れたり、吸収したいから。 確かに、それらがまっとうな大きな2つの理由だろう。 (それ以外にも理由は沢山ある。だが、これが主要な理由である事に変わりは無い)
でも僕が先日行ったロックのライブには、それらの2つのことを目的に来ている人は、 あまり居ないように感じられた。
そのライブはオールスタンディングライブであったが、そこに居たみんなは、 ミュージシャンのエネルギーを触るとか吸収するとかではなく、 ただ自分のエネルギーを発散しているように感じられた。 また、ダイブを何度も敢行し、自分を誇示する場所であるとさえ思っている人もいるようだ。 僕は後方からの何者かのダイブのせいで、その何者かの足によって、 目の上を蹴られて赤く腫れてしまった。 それにメガネを落としてしまい、雑踏に踏まれて危うく再起不能になるところであった。 危ない危ない。
そして、そのライブが終った時に、飛んで踊って手を突き上げていた若者達は、 「楽しかった」「スッキリした」「気持ちいい」 という感想を残して去っていくのである。
この感想は上の2つの理由を持って聞きに来ていた人から発せられる感想ではない。
やはり彼らはそれをライブとは捉えていないようであった。 それはまさにロック・アトラクションであったと思う。 そうであるなら「楽しかった」「スッキリした」「気持ちいい」という感想は充分頷ける。
今日は神戸商船大学で学生最後の発表でした。まぁまぁそこそこです。 最近気づいた事ですが、ちょっと前まで自分はプレゼンはとても苦手だと思っていたが、 「意外に結構できるやん」って思えてきました。
これは慣れなのか?それとも、成長なのか?それとも、自信なのか? そのあたりは完全に詳しくは究明できないでしょうが、 「自分への自信」「研究への自信」「プレゼンへの慣れ」 という要素がプレゼンを巧く運んでいるように感じる。たぶんそれであっていると思う。
でも、プレゼンが巧い人と比べると僕なんてまだまだ全然足元以下です。 彼らのプレゼンは聞き手の立場に立てれていて、とても解りやすいです。 だから僕も次からは少しづつ相手の立場に立ち、解りやすいものに努めていくつもりです。 でももう学会での発表も終わりなんだけどね。これが最後で。
物事全てにいえる事だが、ある程度に達するまでは、自分のことだけを頑張ればよいが、 頑張ってある程度のレベルに達したならば、 それからは他者の存在を考えて、改善・改良してかねばならないだろう。
当然ながらある程度のレベルに達したからといって、慢心して、向上するのを止めて、 名誉や利益をのさばるようになったら終わりである。 でもほとんどの日本人はそのようになるのは当然かのように教育されているから、 そのようになっても仕方は無いですがね。
でも、それでは駄目なんですよ。それでは価値が薄い。薄っぺらい。
昨日なんとか2年間の総まとめである発表を終えた。
発表自体はほとんど問題なく過ぎ、質疑応答で別の研究室の教授から、 根本を否定するような事を言われたが、それでも無事終ったのでよしとする。
これで何も心配することなく残された余暇を楽しめそうである。 とりあえず、大阪に居れる間にしか出来ないような場所に行ったり、 学生の自由な間にしか出来ないような事をやっておこうと思う。
ちょっと昔の自分なら自由の身であっても「何をしたいのか?」がはっきり解らなかったが、 今の自分は少しは解ってきているようで嬉しい。 これを成長というのかは解らないが、僕はこういうことは成長だと思う。
「自分の意志で行動できなかった事」が「自分の意志で行動できるようになった」 そうであるなら、それは成長だと思う。
でも明日にはまだ神戸で最後の発表が残っている。 実はそれが総締め。頑張ります。とても日記らしい日記でした。
生きてる証を 時代に打ち付けろ 貧弱な魂で 悪あがきしながら 何度へましたっていいさ 起死回生で毎日がレボリューション 人生はフリースタイル 孤独でも忍耐
いつも心にしてたアイマスクを外してやればいい 不安な迷いと無二の親友になれればいい 旅立とう 明日は無いぞってな具合に
腑甲斐ない自分に 銃口を突きつけろ 当り障り無い 道を選ぶくらいなら 全部放り出して コンプレックスさえもいわばモチベーション 人生はいつもQ&Aだ
駆け引きの世界で 僕が得たものを ダスターシュートに投げ込むよ 白地図を広げて 明日を待っていたい
Mr.Children 「I'll be」 より抜粋
あまり時間がございませんので多くは書きません。 なんてったって明日は修士論文の発表があるものですから。
へこんだり、いきったりしながら人間は成長するものだと思っています。
へこむことは僕にはいい薬というか、とても大事なエネルギーです。 何にも変え難いモチベーションです。そう思うようにします。
そうなった原因を探り、状況を分析し、それからどうやって立ち直るか、 と考え行動することはとても大切なことだと思います。
それに、自分の言っている事をそのまま 「そうだそうだ」 と連呼されるだけでも嫌ですから。
だから、君みたいな友人が必要なのです。 僕にとってはかけがえの無い存在です。
でもやはり認められる事は一番嬉しいです。 それに少しも認められないと自信が持てないので前にも進めませんし。
誉められたり、非難されたり、そのバランスを巧く保って、 適度な刺激を受けていきたいものです。なんだかそう思いました。
2002年02月16日(土) |
毎日負けずにその日のボーダーラインを越える |
思い通りにならない時や、批判・否定をされた時は誰だってへこみます。
そうなれば、調子が良くて自信を持っていた少し前の自分は、 全く虚像かのように感じられます。 そしてそのギャップを感じ、自分の浅はかさを軽率さを感じて、へこむのです。
それは意外にも予期せぬところから急に襲ってきて、 一気に自分をへこみの溝に突き落とすのです。
そうなればなかなか前のように戻るのは困難です。 マイナスがマイナスを呼び、何もやっても巧くいかないことが多くなります。 それは当然です。自分に自信が持てないんですもの。 自分の意見や行動ですら、「これでいいのかな?」って疑ったりしてしまいます。
僕は今そんな状態にいます。あまり自分に自信が持てない状態です。 そんな時、他人にアドバイスを求めます。 「このような状態を脱出するには、どうしたらいいのですか?」と。
大抵の人は言います。 「時間が解決してくれます。時間が経てばそのうち自信を失っている自分を忘れます。 それから徐々に自信を取り戻していけばいいのです。要は時間です」
確かに納得です。「アドバイスをありがとう」と言います。 でも僕は「そんな受身でいいのだろうか?」と思います。 こういうときだからこそ、気丈に頑張るべきなのではないかと思うのです。
自信を持っている時は、誰だって何でも出来ます。 だから調子の悪い時でも、毎日負けずにその日のボーダーラインを越えていくことは、 とても大切だと思うのです。 僕はそれが本当の力だと思うのです。そしてそこから本物の自信がつくのだと思うのです。
2002年02月15日(金) |
いい人間とげすな人間の取り扱い説明書 2 |
実のところ、バランスとモラルは直結しています。だから、
バランスを厳しく設定できる「いい男」は、モラルが高い人間です。 バランスを曖昧に甘く設定している「普通の男」は、モラルがそんなに高くない人間です。
バランスを考えない「やばい男」は、モラルというものが何かを知らない人間です。 バランスを考えずに欲を求める「げすな男」は、モラルが全く欠如している人間です。
人間的な義理・秩序・恩などをしっかり考え、行動できる人が「いい男」であり、 それらを考えようとしなくて、見てみぬ振りをするのが、「げすな男」なのです。
さて6日間に渡って書いてまいりました「いい人間 げすな人間」如何だったでしょうか。 こんな事を我が物顔でかける私は何者でもなく、「げすな男」であるかもしれませんが、
「いい女や普通な女」は「げす」に騙される事なく、「もっといい女」を目指してください。 「いい男や普通な男」は「げす」に憧れることなく、「もっといい男」になってください。 「げすな男やげすな女」は自分を「げす」だと認めて、少しづつまっとうに生きてください。
これが僕が一番言いたいことです。 これもすべて自分をここまで育ててくれた日本のために言いたいのです。
追伸:ちょっと自分は調子に乗りすぎていた感があります。 意外に自分が一番「げす」かも知れません。ちょっと疑ってみます。
2002年02月14日(木) |
いい人間とげすな人間の取り扱い説明書 1 |
前4回に渡り「いい男(女) げすな男(女)」を紹介しました。
人間にはこの他に「やばい男 普通の男 もっといい男」がいます。
「やばい男」は、両親に甘やかされて育って、この世にある欲しいものは勝ち取るものではなく、 与えられるものだと教えられて心底信じていて、コミュニケーションすらもできなくて、 自分の殻から出れないとか出たくない男のことをいいます。
最近かなり増えてきています。自分の子供がこのようにならないように注意が必要です。
どんな人も自分に嘘をつくことは嫌です。できるなら自分に嘘はつきたくはないです。 でもずっと自分に嘘をつかないというのは大変なので、誰だって自分に嘘はつきます。 このように人々は、自分に嘘をついたり、つかなかったりするので、 そのバランス(比率・割合)はそれぞれ個人によって決まります。
「いい男」はそのバランスが厳しく設定できている人です。 「普通の男」はそのバランスが曖昧で、甘く設定している人です。 「普通の男」は、やはりその名の通り「普通」なのです。
ちなみに、「やばい男」はこのようなバランスというものを考えない人達です。 考えないだけなのかもしれませんが、考える事が出来ないのかもしれません。 しかし、そんな細かい状況なんて考えなくても、とりあえず彼らは「やばい」のです。
そして、「げすな男」はその自分に対するバランスがどうのこうのというより、 「その物事が自分の欲を満たすかどうか」 ということでだけで自分に嘘をついたりつかなかったりする人間なのです。(続く・・・)
2002年02月13日(水) |
げすな女の条件(下種) |
げすな女ほど
自分に嘘をつくのがうまく
相手や他人に対して不誠実だから
相手や他人を騙すような自信をねつ造することができ
とにかく横柄で
相手に対し自分を過度に押し付ける
しかし根底では自分に自信がないからみんなに嫌われるのが恐いので
世間的に価値あるお金や地位や過去の栄光やブランドを使って
現在の貧弱な自分自身を武装して創って
周囲の人間を囲って群れる
そして自分の私利私欲のためにしか動けないから
相手や他人に対して多くを要求し
くだらない女だと相手に悟られて捨てられるのが恐いから
相手をきつく縛るのです
それからやはり品がない
いい女ほど
自分に嘘がつけずに
自分に正直だから
自信をうまくみせることができず
謙虚であり
自分をわきまえているから
相手に多くを求めず
相手をきつく縛らないのです
それからやはり品がある
2002年02月11日(月) |
げすな男の条件(下種) |
げすな男ほど
自分に嘘をつくのがうまく
相手や他人に対して不誠実だから
相手や他人を騙すような自信をねつ造することができ
とにかく横柄で
相手に対し自分を過度に押し付ける
しかし根底では自分に自信がないからみんなに嫌われるのが恐いので
世間的に価値あるお金や地位や過去の栄光を使って
現在の貧弱な自分自身を武装して創って
周囲の人間を囲って群れる
そして自分の私利私欲のためにしか動けないから
相手や他人に対して多くを要求し
くだらない男だと相手に悟られて捨てられるのが恐いから
相手をきつく縛るのです
いい男ほど
自分に嘘がつけずに
自分に正直だから
自信をうまくみせることができず
謙虚であり
自分をわきまえているから
相手に多くを求めず
相手をきつく縛らないのです
BBSで「学歴論」を書きすぎたため精も根も尽きたって感じです。疲労。
前の日記で「求めるものが変わる」と書きましたが、好きな物事も変わりますね。
最近1人の時間で1番好きなことは「シャワー+歯磨き」です。まじで好きです。 シャワーを背中に向けて、少し熱めのお湯を首筋に浴びながら、口を閉めずに歯磨き。 歯磨粉が口から垂れようがお構い無し。ユニットバスの中なので何も問題は無い。
立ちこもる白い湯気 シャワーの適度な強さの圧力 一定のリズムで体を打つ水滴群 血行が全く順調に促進する少し熱めの温度 パタパタと浴槽を打つ跳ね返ったしずく
あぁ、考えただけでもやばいやばい。気持ちいいだろうな。よだれがでそう。
しかしながらこんな僕でも、昔はとっても歯磨きが嫌いでお風呂が嫌いだった。 だってめんどくさかったんだもの。 「歯を磨かなくたって、風呂に入らなかったって、死ぬわけないしいいじゃん」 って真剣に思っていた。
でも、人の目を気にして格好を気にする年頃になってからは、 「それらをしなければ嫌われる」と思って、義務的にするようになった。
しかし、今は義務ではない。それが好きなのだ。ほんとうに好きなのだ。 「時間さえあれば1時間でも熱いシャワーに当たって歯を磨いても良い」 とさえ思っているのだ。真剣に思っているのだ。
「求めるものが変わってきたから」 ということが原因なのかもしれませんが、本当の原因は全く見えません。 湯気がこもり過ぎて視界が覆われて全く前が見えない状態なのです。 シャワワワワー パタパタ
2002年02月08日(金) |
今の自分が求めるもの |
ある物事をやるにあたり、その中で人が求めるものは永遠ではない。
子供の頃の自分と現在の自分とでは、その求めるものが全く変わったと思う。
僕は、昔からどんなことをするにしても一番効率のやり方というもの念頭において、 その方法を模索しながら、その物事に従事する気質だった。 けれども、「とりあえずやればいいんだ」と思っていて、やり方がとても荒かった。 「いい加減でも別にいいや」と思っていた。 どんな状態でもいいから「やり終える」という状態だけ求めていたのだ。
しかし最近は「きっちりやる」という事にとてもこだわっている節がある。 どんな事でも「きっちりやりたい」とさえ思って、非常にそれを求めてる。 でも、気分が乗らないときや体が動かない時は、昔の自分の気質が鼻から忍び込んで、 僕の心に告げ口する。
「そんな1円にもならない事など、いい加減でいいじゃんかよ。 やるにしてもテキトーにやっちまいな。それか、もうやらなくていいよ。 っていうか、やるな。やらんでよし。やらなくて大丈夫。誰も見てないよ」
と素晴らしく甘い息を吹きかけてくる。
昔の僕なら完全にその甘い息に眠らされていただろう。 しかし、今の僕は違う。全くもって違う。そんな甘い息は効かぬ、効かぬのだ、トキ。
「消費税を15%にします」と政府が言った。
各地で「デモ」が起こった。
この「デモ」というものは、本来ならば
「消費税を15%にしなければ、予算的にこの国がやっていけないし、 そうしなければ、僕達が受けられている国からの保護も薄くなる。 ということはとても理解できます。でも、消費税15%は困るんです。 とても困るのです。それを回避する事は本当にどうにかならないのでしょうか?」
の「でも」のことなんです。 「・・・理解できます。でも、消費税15%・・・」の「でも」のことなんです。 それらを名詞として使うためにカタカナにして「デモ」としただけです。
相手の考えも寛容に受け入れ、自分自身の立場をわきまえ、自分で考えることもして。 それら全部をやった後にでてくる「でも」のことなんです。
しかしながら、今の日本でにおける「デモ」の多くは、 寛容さとか、自分をわきまえるとか、自分で考えるとかを、 何もせずにただ盲信して「反対!」としてるだけである。
自分で何も考えなくとも、ただそれをする事でアイデンティティを確立できると信じている。 そんなアイデンティティなど虚像だ。 そんな虚像のアイデンティティの価値など消費税にも絶対満たない。永遠にそう思う。
リクルートの内定者であり同じ茨木在住の玲子殿が、さいきん不眠症らしい。
そのことで彼女は悩んでいるらしい。 「ぐっすり眠るための良い方法があれば教えてください!」 と彼女は内定者が150人ほど入っているメーリングリストで、息も絶え絶え訴えた。
僕は3秒で寝れるほどの達人なので、 眠れない人のためにぐっすり眠るためにすべき2つの方法を考えてみた。
「1つ目に、運動をしなさい!」 即ち、肉体的に疲れなさい。ということです。 少しの時間を割いて運動を根気よく毎日しましょう。 そうすれば、ぐっすり眠れると思います。
理論的に言うと「ON・OFFをきっちり使い分けろ!」ということです。 ONの状態の時に充分に体を使ってやらないと、OFFも充分に取れないのです。
これは不完全なスイッチを想像してくれたら良いでしょう。 いつもONかOFFかも解らないような中立的な状態で過ごしていては、 OFFもきっちり得れないのである。
「2つ目に、最も眠たい時を逃すな!」 なかなか眠れない人は、この最も眠たい時を逃してはイケマセン。絶対イケマセン。 これはスーパーの特売品を逃さないようにすることと同じ要領です。
昨日は特売品で600円で売っていた大瓶のエスカフェのコーヒーが、 今日になったら倍の1200円でした。
とてもじゃないけど買えません。 まぁ押し並べていうとこんなところです。
みなさん。以上の事を頭に入れて実行し、明日からぐっすり寝ましょう。ぐぅぐぅぐぅ。
2002年02月05日(火) |
3時だけは「おやつどき」 |
正午を過ぎた3時は昼?夕方?どっちだろう?
たぶん3時はどちらにも属さない。僕は3時だけは「おやつどき」だと思っている。 僕が認識している時間帯は、
早朝:4〜6(3時間) 朝:7〜10(4時間) 昼:11〜14(4時間) おやつどき:15(1時間) 夕方:16〜18(3時間) 夜:19〜22(4時間) 深夜:23〜3(5時間)
である。このように考えると「おやつどき」だけが1時間で異様に光っている。 これはどんなも時間よりもビップ待遇なのかもしれない。
この世に神様は7人居るとされているが、 それは上記の7つの時間帯に下界を監視する人を決めて、シフトを組んでいるからである。
いつも月の初めに神様はその月における時間帯のシフトを決める。もちろんジャンケンで。 そのジャンケンはかなり盛り上がる。その月の労働の全てを決めてしまうからである。 負けて深夜勤になったらどんなにブルーなことであろうか。形容仕切れない。
勝った神様から勤務時間帯を選べるのだが、もちろん1番人気は「おやつどき」である。 これはたった1時間の業務で終るからだ。
業務内容はとても簡単で、下界監視部屋に入ってモニターを眺めて、 たまにコントローラーを使って、制裁を下したり、賞や名誉を上げたりするのだ。 その部屋には基本的に絶対1人で入らなければならない。 他の神様がいてあれこれ口出しをしたり、文句を言ってもめたりして、 適切な時に適切処置がされないのを避けるためである。
「他人がやっているTVゲームを横から見てたら、色々言いたいのに似てるよね」 と夕方勤務の神様9号は言っていた。 「ですよね。ほんとにイライラしますよね。アクションゲームなんて特にですね」 と僕は同調した。9号はかなり「うんうんそうだそうだ」と勢いよく頷いていた。
そんな話を聞いたその日の夕方、家に帰る途中で100円玉を拾った。 「ありがとう9号」 空に向かって言ってみたけど、ちょっと照れくさかった。
僕と君とじゃ明らかにポテンシャルが違う。 僕は努力しても秀才どまりだけど、君はもともと天才だ。 今の君は努力をしていないだけだ。
君は「僕の方が上」だと、現在の僕と君とを客観的に見て言う。 でももし君が少しの努力したら、僕などすぐに越えてしまうはず。
君は「僕の言葉がためになる」と感謝して言う。 でももし君が僕を超えてしまったら、僕の言葉なんて要らなくなるはず。
そうなると君の中で僕の存在価値が無くなるんだ。 正しい事やすべき事はもう解ってるから僕の言葉は要らなくなる。 だから僕はもう必要なくなるんだ。
でも僕はそうなってもいいから君にもっと頑張って欲しいと思う。 もし君が僕を超えてしまって、君の中での僕の存在価値が無くなろうとも、 自信が溢れて輝いていた以前の君のようになって欲しいと思う。
そうなった時の君は誰よりも素敵だろう。 20代の間にそんな君に会いたい。 今の君には心揺さぶられるほどの魅力を僕は感じない。
2002年02月03日(日) |
レベル(Lv.)について。 |
僕のselfのページのプロフィールにレベル(Lv.)を記した。 現在の僕のレベルは15だ。これは以下のように決められた。
研究室で席が隣の福井に、 「俺のレベルってどれくらい?」 って僕は聞いた。 「う〜ん。そうやなぁ。15くらいちゃあう。学生だし」 「そんなもんかなぁ」 ちょっとがっかりして僕は言った。
「学生はそんなもんやで。働いてからはめっちゃ経験値たまるけどね」 「う〜ん。まぁそうやな。働いたら経験値がドンドン溜まって、かなりレベル上がるやろな」 「うん、そやで。今からやで」 「うん。そやな。今からやな。でも、また俺のレベルが上がったら教えてな」 「う、うん」
いつ上がるか解らないけど上がる時は嬉しいだろうな。 なんだかワクワクしてきた。ワクワクワクワク。 ドキドキもしてきた。ドキドキドキドキおさつドキ。縄文式ドキ。弥生ドキ。
みなさんも自分のレベルが知りたい方は福井まで。
BBSが白熱しすぎて、こっちまでなかなか手が回りませんが、頑張っていく次第です。
これといって書くことは無いのですが、いちおう日記というものを立ち上げた以上、 毎日書かなくてはいけないらしい。2日間でも書いてなかったら、 「どうかしたの?」 ってきれいなおねえさんが、長い髪を手で抑えながら僕の顔を覗き込んだりする。
または、ソファーにどかっと座って目の前に新聞を立てて読んでいると、 新聞越しに誰かが僕の前に立っている気配がする。 誰だ?と思って新聞をどけると、またもや綺麗なおねえさんが、 「こんなところで何してるの?」 って言ったりする。
何者なんだ。こいつは。 まぁいいや。とりあえずジュースでも買って来よう。と思って外に飛び出して、 自販の前で小銭を出そうとしたら手元が狂い、辺り一面に落としてしまった。
「あ〜あ」 って言いながら小銭を拾っていると、 「はいこれ」 と、ハゲたおやじが10円玉を拾ってくれた。
「ありがとうございます」とは言ったものの、なんでハゲたおやじなんだろう。 良いことが続くと「次も良いはず」と勝手に勘違いして、普通のことでも失望したりする。 変な感じ。やな感じ。
「そんなに甘くないわよ」 彼女が耳元で囁いた。
2002年02月01日(金) |
矛盾に染まった空気を切り裂いて |
2月1日かぁ。もうそんな時期になってしまったんだな。 修士論文の提出日が迫るが体が動かない。何故だろう?なんで動かないのだろう? 理由を教えて欲しい。自分のことであるのに君達に問い掛ける。 でも教えて欲しい。なんで動かないのだろう。
わかった。先送りだ。問題先送りだ。どうにかなるさと思っているんだ。
あとで絶対しなくちゃいけないのに、今は理由をつけて避けているだけだ。 でももしこの問題を先に送って送って、どこかの誰かが代わりに尻拭いしてくれるのなら、 それで良いかなって思っちゃう。
でもそんな人は絶対居ないのでしなくちゃならない。 っていうかたとえ居たとしても責任逃れはしたくない。そんな大人になりたくない。
責任も痛みも喜びも楽しみも悲しみも怒りも、そんなことを完全に背負って生きてたい。 そしたら今の何十倍も生きていることを実感できる。それが一番大切なんだ。 人生はリスクがあって当然。もし駄目でも完全に善なることをしてなった結果なら仕方ない。
自分の甘さを戒めて、矛盾に染まった空気を切り裂いて、自分を磨く事を止めないでおこう。
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