於徒楽的日記(OFF生活編)
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2006年02月27日(月) ちょいとリフレッシュを提供

 この日、於徒楽の大学時代からの友人が日帰りで京都に遊びに来てくれた。仕事に追われてしかも風邪気味と言っていたが、来月なんて言ってたら生まれてしまうで、と半分脅して呼び出したような感じになってしまった。
 当初は夕食を共にして、家で泊まってゆっくり休んで貰って、午後から臥龍氏の職場見学等々を計画しておったのだが、どうしても泊まりは無理とのこと、日帰りでの京都案内となった。もちろん、臥龍氏の愛車が大活躍なり。
 昼食は伏見稲荷で臥龍氏の友人が切り盛りしている店へ。三人三様の注文で、鰻丼と鯖寿司と稲荷寿司なりよ。だども、現地へ行って気がついた。おっと、うちら夫婦はまだ喪中やないの・・・ま、鳥居は極力くぐらないってことで。その後は職場見学ですこしゆっくりして、あとはドライヴで想い出話に夢中になり、京都駅前で夕食を軽く済ませ、京都らしいグッズを見て廻る。
 「来てヨカッタ」と友人。赤ちゃん用品と食器をプレゼントに頂戴した。ありがとね。お蔭でプレママ於徒楽は「赤ちゃんがえり」してしまいましたとさ。


2006年02月06日(月) 義祖母の葬儀

 喪主は長男だが、同居していたのは末娘の所。内孫に看取られて、親族の止め焼香は同居の娘婿。戦前満州に渡り、命からがら内地へ引き上げてきたというエピソードあり、また孫の勤務先からの弔電披露が流れて、関係者からの花が所狭しと並ぶ厳かな葬儀だった。斎場までマイクロバスで行ったが、お骨をあげるのは翌朝になるとのこと。翌日は流石に職場へ行かねばなるまい。
 昨夜もそうだったが、セレモニーの後の食事は宴会モードに。於徒楽としては挙式以来の再会が多かったものの、義妹の場合、はからずもコレがフィアンセの親戚との初対面だったり。「こんな時やけどオメデトウ」との挨拶を頂戴していた。
 ひ孫を抱いて貰いたいという夢は叶えられなかったけれど、絶対に見守ってくれているという確信はある。幸い、義弟夫妻の挙式披露宴は四十九日の後。きっと、立ち会わせてくださることだろう。


2006年02月05日(日) 義祖母の本通夜

 享年94歳だった義祖母は、我々の結婚式・披露宴に杖歩行で出席してくれて、たまに遊びに行くと帰り際にぽち袋を握らせて送ってくださった。於徒楽にとってはそれ位の想い出しかないのだが、遠方からも親戚が集まってくるのを目の当たりにすると、大往生と共に故人の遺徳がどんなものであったかを少なからず受けることができるわけで。
 今回は近所の葬祭会館にて通夜・葬儀を執り行うこととなり、自宅から納棺・搬送されるところを見届ける。昨日購入の上着で参列し、待ち時間はゆっくり、何もしなくてよい状態。それはそれで有難かったものの、じっとしているのも結構しんどかったりするのねん。


2006年02月04日(土) 覚悟はしていたが・・・

 この日休日扱いで、実質自宅待機状態となり、身重な現状としてはつかの間の休養を得られて少しばかりほっこり。昼間には臥龍氏両親から「洋服のサイズなんぼや?」との相談。いざというときに備えて喪服の代わりになる上着を購入してくださると。妊婦体型に合うものということで、普段より大きめサイズを知らせておく。
 その日の夕方「落ち着いて聞けよ」との前置きがあり、訃報を耳にすることとなる。臥龍氏と臥龍氏の弟夫妻に連絡をとるよう指示をもらって、孫4人で義祖母の元へ向かう。御遺体は自宅に戻っている。亡くなった彼女の息子と婿たちが集まり、これからの法事の進め方について家族会議。孫達はそれぞれに近況や亡くなる時の状況、想い出話などを語り合っていた。


2006年02月03日(金) 急な連絡で

 夕方職場に入ったのは、臥龍氏の母方の祖母が危篤、との連絡。2ヶ月ほど入院していて、できれば暖かくなる頃まで凌いでもらえたら、と思っていたのだが、この寒さが余程にくるのであろう。
 残務が溜まっており、しかも翌日に持ち越すことの出来ない作業である。同僚に相談して翌日の勤務を休みにさせていただくこととなり、その代わり仕事を仕上げてからの退勤。
 車で1時間ほど、入院先の病院に到着するとすでに親戚が集まっていた。尿閉に全身への浮腫。肩呼吸は荒く、呼びかけに反応は乏しい状態である。4〜5分ほどの面会で病室を後にした。
 この日は節分ということで、遅くなった夕食は臥龍氏母が用意してくれていた太巻と鰯の塩焼き。当然恵方を向いて丸かぶりをしたわけだが心中はかなり複雑。


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