昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年08月29日(火) 毎日がサヨウナラ

ベランダのひまわりが枯れた。枯れた、というか、萎んだ、という感じだった。水をやっても、日に当てても、日陰にかくまっても、一旦萎み始めた黄色の花びらはもう復活しなかった。葉は茶色く、煎餅みたいにパリパリになった。
昨日、ゴミの回収日だったので、ガサガサに朽ちてしまったひまわりをビニール袋にまとめて捨てた。まだ早朝なのに、ゴミ置き場にはいっぱいゴミ袋が溜まってて、ハエがブンブン飛び、嫌な匂いがしていた。そこに、ひまわりを捨てた。
苗から成長していく植物を眺めるのは楽しかったかもしれない。しかし、季節の花はやがて枯れる。夏が終わっていくのだ、という気がした。

今年の夏休みは3日間だけだった。一瞬で過ぎた。一日は実家に帰り、もう一日は神戸に『ジャコメッティ展』を観に出かけたが、休館だった。月曜日でも、盆は開館していると勝手に解釈していた。入り口のところに鎖がしてあって、でっかく「本日休館日」と書いてあった。暑さと自分の間抜けさに頭がボウっとした。ボウっとしたまま、電車に乗って神戸に行き、古本屋でツルゲーネフ『貴族の巣』とドストエフスキー『白夜』をそれぞれ50円で買って帰ってきた。『白夜』はすでに所有しているが、装丁が違っていたので買うことにした。50円だったし。もう一日は、家で料理をしたり、掃除をしたり、近所を散歩したり、アリス・マンローの『木星の月』を読んだり、昼寝したりして過ごした。休みの3日などすぐだ。永遠のように感じる3日もあるというのに。

『ジャコメッティ展』は、先週の日曜にもう一度チャレンジしてみた。今度はちゃんと開館していた。ジャコメッティのヒヨロヒョロした人物彫刻を見ていると、ああ確かに人がこのように見える時がある、と思う。例えば、ずっと会いたかった人と会って、何時間か過ごして、別れる時などに。バイバイ、を言って、遠ざかっていくその人の後姿を見ている時などに。その姿は細く細くなって、いつまでも残像のように目の中から消えない。きっと消えてほしくないからだろう。今度はいつ会えるんだろう。本当にまた会えるんだろうか。そんなふうに思う時、あの人はジャコメッティの彫刻になる。
ジャコメッティが矢内原に宛てて書いた手紙を読んで、視界がユラユラした。展覧会で泣いたのは初めてだった。

夏休みが終わった後は、何ということもなく日常が戻ってきて、相変わらず、本を読んだり、音楽を聴いたり、時々映画を見たりしている。『パリ、テキサス』のDVDを買ったので、最近はそればかり観ている。何度観てもいいものはいい。
スサンナ・アンド・マジカル・オーケストラの新譜の中に、ボブ・ディランの『don't think twice,it's all right』のカバーがあって、これが誠に秀逸だった。良すぎて、くよくよしそう。
3週間ほどかかって、『未成年』を読了した。一仕事だった。面白いのに読みにくいとはどういうことだろう。でも褒めてもらえたから、わたしはそれだけでいい。『異邦人』も再読した。やっぱりいい小説だった。続けて『幸福な死』も読んだ。昨日はカズオ・イシグロ『遠い山なみの光』を読了し、今日これからは、図書館で借りた『新潮』の柴崎友香『その街の今は』を読もう、と思っている。
今の会社に転職した一番の理由は、本を読んだり映画を観たりする時間と資金をある程度潤沢に確保するためであったが、それはいまのところ、まあまあうまく行っているように思える。相変わらず、時間は足りないことに変わりはないが、これ以上贅沢は言えない。

また、何か植物を育ててみようかなあ。今度は、枯らさないように。
何でもいいから何かに夢中になりたい。意識を分散させたい。その道をどんなに探しても、いつも同じところに行き当たり、袋小路に迷いこんで、さみしい気持ちになってしまうのだ。


2006年08月19日(土) 8月4日から10日までについて、とりあえず

8月4日(金)
昨日、読みきれなかったフランシス・キング『家畜』を、帰りに寄ったドトールで読了した。なかなか興味深かった。とにかく、アントニオへの想いに苦しむ主人公の懊悩ぶりが、理解できすぎて心がヒリヒリする。例えば、

『一方、アントニオに対する情愛を隠しきれず、また飽くことなくそれを表現する方途を探っていた私は、結局要らぬお節介を焼いて、彼をうんざりさせたり立腹させることになった。いかんせん、私という人間は自分の激情の炎を相手の心に移す際、こちらの炎の勢いをよくするために多少の不正を働くことには長けていたが、風向きを見て、一時その炎を抑えるといった芸当はできない性質だった。相手に嫉妬心を起こさせるためにわざと自分の気持ちが別のところにあるように装ったり、その人間が自分を追ってくることを見越して逃げ出したり、彼がそれを十分気にかけることを承知で無視したりと、そうした手段に訴えることは愚劣きわまりないものに思えて、私にはできかねた。』

とかね。わかるわー。そして自分の気持ちに振り回されることになるのだよ。

『たとえそうすることがどれほど相手に迷惑になろうと、また、その愛を勝ち取るという点でいくら自分が不利になろうと、アントニオを愛しているという気持ちを素直に相手にぶつけないではいられなかった。』

身につまされる。

『アントニオにまつわるこの苦悩を文字にすれば、心が浄化され、その治療にもなると期待して、私はこの物語を書き始めた。が、結果的にはそのどちらの効果もなかった。魔物は未だ祓われてはいない。悪霊に取り付かれたまま、その呪詛を私はなお負いつづけているのである。
いまの私はただ、己の信じることのなかった神に祈るばかりである。「おお神よ、どうぞお教え下さい、愛しつつ、愛さずにいられる術を!」と。』

他人事と思えぬ。

5日(土)
会社帰りに、近くの公園で、ラジオで『世界の快適音楽セレクション』を聴きながらブラウマイスターをたくさ飲んだ。居酒屋に行くより安上がりでいい、と思ったが、ビール代が思ったより高くついた。それに、たくさん蚊にかまれた。しかし、夜の公園で、黒い木々を見ながら飲むビールは、殊のほか美味しかった。
帰宅したら群像社より、『群』第28号が届いていた。

6日(日)
シネ・ヌーヴォで清水宏『簪』を観る。長年、ずっと見たかった映画。ビデオもさんざん探したが、どこのレンタル屋にも置いてなかった。念願叶ってうれしい。期待に違わず、とても良かった。夏の温泉宿で出会う人々の人間模様が淡々と描かれており、簪がもとで笠智衆と田中絹代が恋(のようなもの)におちるのだが、タイトルにもなっているキーワードの簪が一度も画面に出てこないのがいい。余計な説明が一切ないのもスマートだ。
人って、出会った時にもう別れているのかな、と思う。どんなに楽しいことにも必ず終わりがあり、輝きはやがて失せる。でもまた、何度でも出会えるのかな。終わってもまた始まるのかな。終わりの中に始まりがあるのかな。

7日(月)
7月の初めにうけた試験に合格する。すっかり忘れてたけど、急に合格通知が送られてきたのだ。ふうん、という感じ。
残業。へろへろと帰途につき、ジュンク堂その他で『波』『ちくま』をもらう。
夜、「9月の文庫新刊案内」を眺める。来月はとうとうあれが出る。古典新訳。嬉しい?もちろん嬉しいけれど、ちょっと複雑だ。

8日(火)
桃を食べようと、ぺティナイフを洗っていたら、何でか知らんけど、桃を切らずに、右手人差し指先をザクッと切ってしまい、血がジュルジュルと出た。絆創膏をグルグル巻きにする。不自由なり。

9日(水)
『理想の教室』シリーズの新刊を買いに、ジュンク堂へ。野崎歓『カミュ「よそもの」きみの友だち』(みすず書房)を買う。ふと、詩の棚を見ると、パステルナークの詩集の新刊『第二誕生』が出ていて、驚愕した。いつ出たの?無知とは実に恐ろしいものだ。『チェーホフ・ユモレスカ』とあわせて、3冊お買い上げ。
夜は、家でとろろそばとビール。

10日(木)。
ゴーヤの塩いためを作る。
『カミュ「よそもの」きみの友だち』を読了。世界の優しい無関心、について考える。なるほど、また数十年ぶりに『異邦人』を読み返してみよう。
夜、DVDで『鬼火』を見る。陰気くさくて物語性もなく、気だるくただただ鬱陶しい映画なのだが、私はなんでこういうものが好きなんだろう。面白くて仕方ないのだ。ジッと夢中で観てしまう。

淡々と過ごすことに、懸命になってみようとしている8月。


2006年08月03日(木) あんなに近づいたのに遠くなっていく

8月になってすぐ、ベランダのヒマワリが咲いた。まだ直径15cmくらいで小ぶりだけれど、ちゃんと太陽の方を向いている。夏になってしまった。

日記をどこまで書いたか忘れた。『再会女ともだち』を読んだこと書いたっけ?土用の丑の日に、難波でうなぎを食べたことは?ラジオ深夜便で荒川洋治の読書案内を聞いたことは?久しぶりに文楽を観に行ったことや、『イサム・ノグチ展』に行こうとして、途中でなんとなく気が向かなくなって帰ってきてしまったのはいつのことだっただろう。
何もかも、ずっと昔のことのように思える。

天神祭に行こうと誘われて、断った日に、Tが友達から借りてきたくるりのベストを聴いた。天神祭を断ったのは、人ごみが嫌だったのと、花火を無邪気に楽しむ自信がなかったからだ。花火キレイだったよね、と翌日職場の人たちが話していた。花火がキレイなのは当たり前だ。キレイに見えるように作ってあるんだから。そんなわかりきったものを見ても仕方がない。こんな自分はやはり生きにくい。

くるりのベストについてたブックレットの京都の写真の数々に、大昔にわたしが働いていた会社が写っていたのには少々びっくりした。バイトの帰りによく食べたアローンのオムライスとか、通ってたわけでもないのにしょっちゅううろついていた今出川同志社前の交差点とか。京都の風景は故郷というより、青春のアルバムのようだ。甘酸っぱくて苦い。切なくて恥ずかしい。戻りたいと思う?戻りたくはないな。それに、戻ろうにももう、帰り道がない。わたしには退路がない。

ロドリゴ・ガルシアの『美しい人』をテアトルで観た。人間は、平面でなく、立体だ。立体で捉えないと、掴み損ねる。
短編小説のような映画。ワンシーン・ワンカットで、それぞれの人生の輪切りを見せられる。ホリー・ハンターが好きだから観たくなったのだが、最後のグレン・クローズの話に泣かされた。この祝福が本当なら、この先どんな屈辱にも耐えていけると思った。

帰りに、加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書)、ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』(みすず書房)、プーさん特集の『飛ぶ教室』夏号を買った。

それから、他にも買ったものはいろいろある。OKIの『DUB AINU DELUXE』とか。これはいいわ。いいよ、やっぱり、OKIはいいわ。
ルイ・マル『鬼火』とジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』のDVDとか。中南米音楽の通販でイチベレ・オルケストラ・ファミリアのCDとか。エルメート・バスコアールが96年から97年にかけて毎日1曲づつ作った「音のカレンダー」。
古本では、みすずの現代美術シリーズ『デュフイ』とか。それに野見山暁治の『セルフィッシュ』も。文章は田中小実昌。

今日は休日で、朝からシーツを洗濯して、アレサ・フランクリンを聴きながら朝ごはんを食べて、この日記を書いた後は、ちょいちょいと掃除でもして、郵便局に振込みに行って、夕飯にラタトゥユを作るつもりだからその材料の買出しをして、午後からは涼しい近所の喫茶店で、図書館で借りたアリス・マンロー『イラクサ』と、フランシス・キング『家畜』を読了してしまおう、と思っている。そして、日が暮れたら部屋を暗くして『ナイト・オン・ザ・プラネット』の続きを見よう。昨夜は、ロスでのウィノナ・ライダーとジーナ・ローランズの話だけ観たから。
そうやって、また何でもない誰のものでもない、一日が終わるんだな。

どこかへ行ってしまいたい。どこかへ行って、誰かに会いたい?そうだなあ、会いたいな。辛くなるってわかっててても、それでもやっぱり会いたいな。



フクダ |MAIL

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