昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年07月22日(土) キミとうまく話せるかな

今日は一週間ぶりに晴れた。久しぶりに、太陽に照らされて地面に落ちた自分の影を見た。御堂筋の信号を東から西へ渡る時、しかめた顔の前で手をかざして日を遮る。ああ、夏ってこんな感じだったかも。雨続きでこの感覚を忘れてた。ギラギラの太陽を憎らしく思う気持ち。

日記を書くために、この一週間のことを思い起こしてみたけれど、見事にどの風景にも雨が降っている。シトシト、ザブザブ、ザアザアと。いつも手に傘をぶら下げていた。そしていつも足元がぬれていた。

祇園祭の日、誘われて京都の寺に落語を聞きに行った。吉朝さんの弟子だけあって、なかなか端正な高座だった。やっぱり、死んでも死なない何かがある、と思う。その人が生きた時間は、残る誰かの中に息づいて、姿を現すことがある。それがたとえ記憶の中であっても。だから、死ぬことは終わりではない。

出張で、静岡に行った。ここでも霧みたいな雨が降っていた。富士山も雨に霞んでよくわからなかった。茶畑をたくさん見た。茶畑を見たら、おじいちゃんを思い出す。おじいちゃんは、宇治の山奥に茶畑を持っていて、段々になった緑のカタマリの間を、しょっちゅうタバコを加えて歩いていた。その姿を思い出す。ほうじ茶とタバコのにおい。茶畑を見るたび、おじいちゃんをこの先ずっと何度も思い出すだろう。

ジュンクで『海鳴り』の最新号をもらって読んでいたら、また山田稔熱が高まってきて、図書館で何冊か予約した。そのうち、さっき『再会女ともだち』を読了した。それから、ちくま文庫の『短編礼賛』と長田弘『一人称で語る権利』を読んだ。『未成年』もちゃんと読んでいる。でも感想を書くところまでには、まだ至っていない。
photographers'gallery pressも買った。北島敬三の「ソビエト社会主義共和国連邦最期の年」という写真に惹かれて。

終わりかけのバーゲンで、2,3着服を買った。こだま和文の『more』をよく聴いていた。秋になったら、キーラのライブに行こうと決めた。文楽のチケットも取ったし。そういえば、夕食にフレンチなんか食べて、ワインなんかも飲んだりしたな、柄にもなく。

文字にしてみると楽しそうな毎日だ。でも鏡に映ったわたしはなんで、こんな悲しそうな顔をしているんでしょう。





2006年07月14日(金) ハックルベリーに会いにいく

7月6日(木)
休日明け。休みの翌日、特に朝は、体と心が正常に動きにくく、我が身を奮い立たせるのに苦労する。地下鉄に乗ってしまって、本を目の前に広げたら、少しは精神が落ち着くのだが。
昼休みに、社員食堂で鶏のクリームソースを食べ、夜は自宅近くの定食屋で親子丼を食べる。ニワトリ大活躍の日。
近所の本屋で、『スタジオボイス』のアートブック特集号を。

7日(金)
曇り空の七夕。
帰りに、クリスタ長堀のブックファーストで、ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』(新潮文庫)。この本、文庫化を楽しみにしていたのだ。それから、文芸誌を一冊購入。文芸誌を買うのに、いつもはああでもない、こうでもないと理屈をこねまくるのだが、今月は特に躊躇もなく買ったなあ。今のわたしにできることは、こんなことしかないのだ。
本屋の向かいにジュピターという、輸入雑貨店が開店したようで、ちょいと覗いてみる。パスタ類が豊富。でも明治屋ほど購買意欲が掻き立てられず、とりあえずペンネとリコラのレモンハーブキャンディーを買った。クリスタ長堀には、終焉の匂いがプンプンとする。

8日(土)
蒸し暑さと業務煩雑で疲労困憊。終業後、梅田に赴き、阪神百貨店で抹茶と濃厚牛乳のソフトクリームをなめて帰る。ストレスにはソフトクリームを。帰宅後はオクラと冷奴とブラウマイスターを。

9日(日)
朝から試験。ろくすっぽ出来ず。勉強していないから出来ないのは当たり前で、特に悲しむことでもない。30分で試験会場を出てくる。
昼ごろ、バスに乗って家に帰り、冷麺を作って食べてから、図書館へ。明治の文学『島崎藤村・北村透谷』と絲山秋子『沖で待つ』を借りる。『勤労感謝の日』に心が和む。

10日(月)
最近、夜にぽつぽつと、『映像のポエジア』を読み返している。
『問題のすべてはわれわれが想像の世界に生きており、われわれ自身がこの世界を創造しているということなのだ。それゆえに、われわれ自身、世界の欠陥にかかわっているが、その利点にかかわることもできたはずなのである。』
わたしにとって、タルコフスキーには一生ついて行きたいと思わせる強烈な魅力があるが、ソクーロフにはそういうのはない。

11日(火)
健康診断の結果が返ってきた。なんかしらんけど、白血球の数が多い。検査当日、風邪でもひいてたんだろうか。
飲み会があり、ジンをたくさん飲んで、夜更けに心斎橋から玉造まで歩く。肝臓の値はものすごく正常だった。このペースでまだまだいけるな。

12日(水)
休日。モーニングショウでゴダールの『アルファヴィル』を観る。ビデオも持っているのだが、スクリーンで観たかったのと、なにより家にいたくなかったから。ボウとしていると、ひとつのことに考えが集約されていって、自分で自分をどうしていいか、わからなくなってしまうのだ。
映画はSF仕立てによって、単純な話を複雑に撮ってみせただけで、話はえらくシンプルなもので、他愛ない映画だったけど、それなりにけっこう楽しんだ。
旭屋で『みすず』の7月号を買い、ジュンク堂で『すべては映画のために!アルノー・デプレシャン発言集』とドストエススキー『未成年』の上巻を買う。

13日(木)
残業。
トマトととうもろこしのカレーを作る。

14日(金)
灼熱地獄。もう梅雨はやめたんですかね。
ベランダのヒマワリが、そろそろ咲かんとしている。葉が広がって、正面を向いてきた。わたしの緩慢、怠惰な育て方でも、ちゃんと咲いてくれるんだな。自然ってすごい。でも、咲いてしまったらあとは枯れるだけだ。今が一番いい時なのかもしれない。14番目の月だ。
さあ今日から、意を決して『未成年』を読みますよ。と宣言してみたら、『未成年』は面白いけど辛いですよ、と言われた。面白くて辛いことは実人生で経験済みなので、たぶん大丈夫だと思います。


2006年07月04日(火) Requiem

時間だけがどんどん過ぎて、もう7月も5日めだ。為す術なく、ため息の数が増えていく。
昨日、帰りに寄ったスーパーに、七夕の笹飾りがあった。短冊の願い事を順番に読んでいく。『家内安全』『商売繁盛』『○○高校に合格しますように』など、神社の絵馬みたいなのとか、『手術が成功しますように』と切実なのとか、『あと半年、世界が平和でありますように』って、壮大だけど期限つきのお願いだとか、お決まりの『マッキーと両思いになれますように』(マッキーって誰や?)とか、いろいろあった。
わたしの願いはひとつだけで、ほんの些細な、取るに足らないものだけれど、叶う見込みは全然なくて、この日記にはもちろん、七夕の短冊に書けるようなものではない。言葉にできないし、そもそも本当の願いが何なのかわからない。救われないなあ、と思う。

7月1日(土)
掃除して、料理して、クリーニング出しに行って、急に思い立って髪を切りに行って、梅田で『図書』と『本の旅人』をもらって、テレビで野球を見て、ウルフガング・ティルマンズの写真集をめくって、来週末に受験する試験のテキストをパラパラ見て、つまらないからすぐやめた。

7月2日(日)
早起きして、フランス×ブラジル戦を見た。昨夜はテレビでT×G戦を観たけれど、サッカーに比べると、野球はなんて退屈なスポーツだろうか。でもそのどうしようもない緩慢さが、好きなんだなあ、と思う。
ガーデンシネマで『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』というドキュメンタリーを観た。保坂和志の小説に『死んでからが人生だ』だったか『死んでからも人生だ』だったか、そんな言葉があったけれど、映画を観ている間中、そのことについて考えていた。
ブックファーストをうろついていたら、『みすず』の2005年6月号を見つけて、『サイードとともに読む「異邦人」』と『モンテーニュを考える』というのが面白そうだったので買って、ドトールで熟読した。
帰り、閉店間近のOMMビルの古本市に飛び込んで、入って3分で吉田喜重『見ることのアナーキズム』を見つけた。2500円もしたけど、この際値段のことなどゴチャゴチャ並べ立てていても仕方がない。これを逃したらもう次はないかもしれないんだから。すばやく買って、すぐ出てきた。

7月3日(月)
仕事、仕事、仕事。まぼろしみたいに終わった。
日常業務をこなしている自分を、空の上から俯瞰で見れば、生き生きと、楽しそうにしている自信がある。内情はどうあれ、それで十分じゃないか。それ以上、何を望むことがあるのか。
夜、ジョバンニ・ミラバッシを聴く。

昨日、4日(火)は、帰りに『考える人』の夏号を買った。レムの『捜査』を読み始める。

目の端のほうでいいから、せめて姿だけでも、とらえられたらなあ。でも、わたしは絶対にあきらめたりしない。




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