昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年06月30日(金) NOTRE

雨が降る、と朝からラジオの天気予報で散々聞かされたから、長い雨傘を持って出かけたのに、一向に降らず。それどころか、けっこういい天気だった。おかげで、ぶらぶら提げている傘は役立たずなステッキみたいになった。

帰り道、御堂筋を北に向けてテロテロ歩いていたら、淀屋橋の手前のところで、Mさんにばったり会った。Mさんは、前の会社の取引先の担当者で、たいへんお世話になった人。毎度毎度わたしに無理難題を持ちかけられ、何度も頭を抱えて悩んでくれた。
元気そうだったが、聞くと、「特に元気でもない」とのこと。先日、酔っ払って夜中に日本橋の路上で寝てたら、その隙に財布を盗られて、「嫁から罵詈雑言を浴びた」そうで、落ち込んでいるらしい。お金なんかまた稼げばいいじゃないですか、と言っておく。
立ち話の後、別れてひとり歩きながら、3月に退職の挨拶に行った時、お餞別としてMさんに図書カードをもらって、それを使って、『巨匠とマルガリータ』の上下巻を買ったことを思い出した。そのことを報告すべきだったかな、と思ったけれど、お餞別を渡したことなど、Mさんはもう忘れているかもしれない。

ジュンク堂に寄って、『一冊の本』をもらう。今度出る、木村伊兵衛の『パリ』は、わたしが3万円も出して古本屋で買った、のら社の『パリ』と、どこがどう違うんだろうか。装丁はどんな感じなの?、ソフトカバーなんだろうか、紙質とかはどうなのよ、とか、ゴチャゴチャ考える。それから、連載再開した金井美恵子の『目白雑録』を読む。

晩ごはんは、阪神百貨店で買った鰻。それから煮豆と枝豆と冷奴。なんか豆ばっかり。鳩か。茄子の胡麻和えも作った。ビールと、食後に晩柑を半分。

サッカーが始まるまで、『アフリカの印象』を読み、ドイツ・アルゼンチン戦を見て、お風呂に入り、ヒンギス・杉山戦を途中まで見て、歯を磨いて寝た。プーンと、蚊の羽音がしていたけれど、蚊取り線香のおかげでいつの間にかいなくなった。

2006年上半期も今日で終了。激動だった。泣いたり笑ったり実に忙しかったし、自分の中に隠されてた熱いひたむきさに、けっこう感動もした。
これからは?これからは…、迷い彷徨うことがあっても、やっぱり行けるとこまでは行ってみようと思う。突き進んでたどり着く場所がどこか見届けよう。そのために、わたしにできることは何だ。これだけは、誰も教えてくれないし、どんなに本を読んでも、どこにも書いてないんだなあ。これが孤独というものなのか。


2006年06月29日(木) Let me forget about today

地面が発熱したような一日。暑かった。生きとし生けるもの、片っ端からみんな腐ってしまいそうな感じだった。

クソ暑い昼休み、同僚たちと連れ立って、本町の照明のクラーイお洒落なパスタ屋でランチを食べた。本町などで制服姿の女子たちに混じって、お菓子の話やテレビドラマの話なんかしながらお昼を食べていると、なんだか自分が通常通りの人間になったような気分になる。上辺だけなら、そこそこやっていけるじゃないか。通じ合おうとするほうが間違っているのだ。

帰り道、GAPのバーゲンで、Tシャツを3枚買った。黒と白を選んだところで店員が、3枚買うと1枚1300円だと言うので。オレンジなんかどうですか、スッゴイ似合いはると思うんですう、などと勧められ、まあ誰にでも言ってるんだろうけど、と思いつつ、言われるがままに3枚目はオレンジを買った。胸に当てて鏡に映すと、いつまでも熟しきれないミカンが立っているみたいに見えた。

ジュンクに寄って、カポーティ『冷血』の新訳文庫と、ジム・トンプスン『失われた男』(扶桑社文庫)を買った。ジム・トンプスンは文庫オリジナルなんだとか。

帰宅したら、大きくなった『en-taxi』があった。Tが買ってきたのだろう。まあ、いろいろとやってみたいんでしょうな、とパラパラとめくる。わたしは今、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』に夢中なので、雑誌を読んでいる余裕はないのだ、残念ながら。

晩ごはんには、グリーンボールとツナの蒸し焼き、オクラ冷奴、イカときゅうりの酢の物を作って食べた。
夜は、KILAを聴いた。アイリッシュ。『ルナパーク』というアルバムが物悲しくてすごく良くて、最近はこればっかり聴いている。

恬淡とした日々を過ごしたい。


2006年06月28日(水) トランキライザー

今朝、久しぶりに祖父の夢を見た。夏の夕方、縁側に並んで腰掛け、スイカを食べる祖父とわたし。傍にはムクがいた。ムクは、祖父が大切にしてた犬。雑種で真っ黒であんまり頭が良くなくて、祖父にとびきりなついてた。祖父はまだずいぶん若く、幼いわたしが一番親しんでいた頃の、お酒をたくさん飲んでいた頃の、元気で冴えてた頃の、おじいちゃんだった。わたしはたぶん、小学4年くらいで、オカッパ頭で、日焼けしてて、でも意識は今現在のままで、おじいちゃんもムクも死んで、もういないことを、すでに知っていた。
「もっと、スイカ食え」とおじいちゃんは言った。わたしはもう十分食べていたし、お腹もタプタプだったので、「もういい」と言って断った。「もっと食え」おじいちゃんは、また言った。「明日からはもう食べられへんねんから」と、スイカを差し出した。「これが最後やぞ」。
そこで目が覚めた。朝6時だった。その時、ムクはどうしていたんだろう。思い出せない。とびきり寂しい夢だった。これから働くことなんかできるんだろうかと思った。できたけど。

蒸し暑い一日だった。晴れてくれて、洗濯物が乾いて助かった。ほぼ、定時に引き上げてきた。飲みに行こうと誘われたけれど、断った。タイムカードを押すのと一緒に、社会に向かって開かれた自分の幕は下りるのだ。誰とも関わりたくない気分だった。一人を除いては。

帰り、天牛でドナルド・バーセルミ『口に出せない習慣、奇妙な行為』を買った。600円。八百屋でオクラとトマト、バナナを一房買った。

いいことないわ。なんにもいいことない。手をこまねいているだけ。さっきも友人からメールで、『今月は収入が9万なのに、カードの請求が10万きた。いよいよ首がまわりません』というのが来てた。冴えないわ〜、どこもかしこも。

でも、おじいちゃんの夢を見て、ちょっと日記でも書いてみる気になった。この先、どうなんのだろう。
6月28日。また、もうすぐ一日が終わる。


2006年06月25日(日) When you got nothing,you got nothing to lose

また、雨が降りはじめた。さっきまでは止んでいて、少し空も明るくなっていたんだけれど。今は、ベランダのヒマワリの葉にトツトツと、雨があたる音がしている。
ヒマワリは、ずいぶん背が高くなってきた。わたしに存在を忘れられて萎れかけても、水をやるとみるみるうちに復活する。すぐに元気になる。葉がフサフサしてて、厚みがあって、伸びやかだ。もうすぐ花も咲くかもしれない。そしたら、夏になるんだな。

最近買ったものの羅列。
スタニワフ・レム『砂漠の惑星』(ハヤカワ文庫)、ゴーゴリ『死せる魂・上』(岩波文庫)、『栄養と料理』の7月号、SOUL FLOWER MONONOKE SUMMIT『DERACINE CHINGDONG』、プチバトーのTシャツ、レーモン・ルーセル『アフリカの印象』(白水社)、『みすず』の6月号、『nobody』の22号(吉田喜重のインタビュー掲載のため)、『野菜のおかず』夏号、プール・ミューのベージュのパンツ。

そして、明日は、ボブ・ディランの例のDVDを、たぶんおそらくきっと、買うと思う。

最近読んだものの羅列。
岩坂恵子『掘るひと』、北杜夫『楡家の人びと 上・下』(これ、良かったわ。人間って、やっぱり出来損ないが面白い。)、庄野潤三『自分の羽根』、ロジェ・グルニエ『編集室』、『渡辺一夫評論選・狂気について』、セネカ『人生の短さについて』。それと、あともう一冊。
なんで、読む本読む本、こんなに面白いんだろう、とつくづく思う。わたしは素晴らしい本を見つける才能がある。

最近観た映画の羅列、というほどでもない、2本だけ。
いつの間にか「名画座」とかいう名前に変わってたOS劇場で『ククーシュカ』を、シネ・ヌーヴォでソクーロフの『日陽は静かに発酵す・・』を観た。
秋に、ロシアソビエト映画祭というのをやるらしい。万障繰り合わせて行かねばならない。今から有休を取る計画を練ろう。

3ヶ月ぶりくらいに、Nさんと飲んだ。アンタがいないと変な映画の情報が入ってけえへんから寂しいわ、と言っていた。Nさんは、わたしが勧める映画など観たこともないはずなのだが。でも寂しいというのは、きっと本当なのだと思う。
夜中まで飲んで、梅田から自転車で帰った。梅田から京橋に至るまでの道は、ここ1年ばかりの思い出が沁みついている。どの風景の中にもあの人がいる。酔いも手伝って、涙があふれて困った。いつか、ここから解放されるんだろうか。何にもなくなった時に?何にもなくなったら、なくすものもなくなるから、もう怖くないだろうか。

雨は、また止んだみたいだ。日がだんだん翳ってきた。これから、鯵を焼いて、茄子でも煮て、オクラを茹でて豆腐にのせて食べよう、それからビールを飲もう。
ビールを飲んで勢いがついたら、イチかバチかもう一度チャレンジしてみよう。それしかもう道はない。


2006年06月07日(水) too drink to live

一週間前くらいに、たぶん日曜日だったと思うけど、パソコンが起動しなくなった。画面がいつまでも真っ白で、ポンポンと叩いてみたけどウンともスンとも言わなくて、でもそのことについて真っ正面から取り組むのがイヤで、とりあえず放っておいた。
翌日かその次の日に、もう一度試してみたが、やっぱり同じ状態だった。日をおけばそのうちどこかで何かが変わって、自然治癒されるかと思ったが、ダメみたいだった。考え方がデジタルじゃない。
壊れたのかもしれない。
壊れればいい、と願っていたから、罰が当たったのかもしれない。扉は閉ざされた。
今日、ついさっき、どんなもんかしら、とやってみたら、ヨロヨロと動き出した。病み上がりの日記。動作がいちいち鈍くて小康状態という感じだが、こうして文字が打ててるんだからまあいいや。
根本的な解決になっていないが、それはわたしの(わたしたちの?)人生と同じだ。

最近のこと。
ボタニカル・ライフ。知人に、ヒマワリの苗をもらった。ベランダで育てるといいらしい。花を育てたことなどないので、どうしていいかわからないまま、近くのホームセンターへ出かけ、プランターと土を買ってきて植え替え、毎朝水をやっている。みるみるうちに背が高くなってきて、緑の葉が伸びてきた。でもまだ蕾はつけない。
ヒマワリが咲いたら、嬉しい、とか、感じるだろうか。わあ可愛い!、とか、思えるだろうか。枯れたらがっかりするんだろうか。花を育てる歓びって、何だろう。

本とその周辺について。
こないだ、本屋で、スタニスワフ・レム『捜査』(ハヤカワ文庫)を見つけて、買った。これ、前からありましたか?復刊したのかな。
武満徹『Vision in Time』も買った。タルコフスキーにふれているページがあったので。1ページだけだけど。
古本ではレールモントフ『ムツイリ・悪魔』(岩波文庫)を買って読んだ。レールモントフにはパステルナークほどはまらなかった。感傷的でないからかもしれない。
今は、熊野純彦『西洋哲学史』(岩波新書)とダイベック『僕はマゼランと旅した』を読んでいる。

映画。
ソクーロフの『マザー、サン』と『ファザー、サン』を、シネ・ヌーヴォで観た。
『マザー、サン』は母、死、静、自然、『ファザー、サン』は父、生、動、街、がイメージされて全く対称的なんだけれど、わたしは前者のほうが、圧倒的に好きだと思った。ベージュの画面に母も息子も溶けていくみたいな撮り方が、暗くて終末的なのに、救いがあった。遅かれ早かれ、どんなこともいずれ終わるのだ。全て土に還るのだ。だからジタバタすることは何もない。母と息子が夢の話をするのも好きだった。あと、相手の痛みを自分のことのように感じるところも。愛ってそういうもの?
『ファザー、サン』は、活き活きしすぎてて、さらにちょっと饒舌すぎるかな、と。

米原万里さんが亡くなったは、ショックだった。
あの日は、気ばかり使ったわりにはたいして面白くない飲み会があって、終わってからも飲み足らず、家で残り少ない焼酎を、一滴も飲みもらすまいとボトルを逆さにしてグラスに注いでいるときに、訃報をTに教えてもらったのだった。がっくりした。がっくりしたまま、飲んだせいか、翌日はひどい二日酔いだった。

とにかく今日は、曲がりなりにもコイツが動いたので、そして次にいつ正常に働くかわからないので、今できることはできる限りちゃんとやっておこうと思う。
扉はノックしないと開かないって、わかってるんだけど、応答がないのが怖くて、叩けないのだ。意気地なしでイヤんなる。愛は何かを奪いさるのか?例えば、勇気とか。
何でもいいけど、自然の力になど頼らずに、パソコンをちゃんと修理しよう。



フクダ |MAIL

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