昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2005年11月30日(水) 壁と剣に挟まれたら、わたしは剣に向かっていく

毎日毎日ろくなことがないから、そうだ「動くボブ・ディラン」でも拝んで景気をよくしようと、ガーデンシネマに『ボブ・ディランの頭のなか』を観に行った。

面白かったかどうかと聞かれたら、まあ特に面白くはない、と答えると思うけれど、冒頭、真心ブラザーズの『マイ・バック・ペイジズ』が流れるシーンには、掛け値なしで感動した。真心ブラザーズのCDは全て売ってしまったが、惜しいことをしたかもしれん。
ジェフ・ブリッジスとかジョン・グッドマンとか、好きな役者が出演してたので、話がわけわからなくても、まあいいことにする。何といっても動き歌うボブ・ディランが観られたし。音楽には、映画自体の難をラクラク越える偉大さがある。

予告編でみた、『ジョージ・マイケル〜素顔の告白〜』という映画を、なんかしらんけどすごく観たい。フレディ・マーキュリーの追悼コンサートでジョージ・マイケルが『somebody to love』を歌っている姿をみて、涙がこぼれた。予告編で泣くのは、そう滅多にないことだ。このステージ上のジョージ・マイケルには、確かに「愛」というものがあった。だから、泣いてしまった。

『博士の愛した数式』を読了した。
これが、1992年の話だと知らなかった。わおー、と思った。映画では1985年の設定になっていた。1985年と1992年では、意味が全然違う。
6月の巨人戦で亀山がサヨナラヒットを打ったゲームと、9月に八木が幻のホームランを打ったゲームを、甲子園の外野席で観ていた。中込が好投したゲームは、車の中でラジオの実況を聞いていた。湯舟がノーヒット・ノーランを達成した翌日の日刊スポーツ新聞を、わたしはまだ持っている。
それらの時をまざまざと、文字どおり「昨日のことのように」思い出して、ウルウルと泣いてしまった。よく泣くなあ。
記憶が揺すぶられる小説であった。満足した。
10年以上も前のことを、なぜこれほど鮮明に覚えているのかわからないが、たぶんもう一生忘れないと思う。

今は、レジーナ・エシェヴェヒア『台風エリス』を読んでいる。
「壁と剣に挟まれたら、わたしは剣に向かっていく」、というのはエリスの言葉。エリス・レジーナとは、つまりそういう人なのだ。たいへんな人だ。

暗黒の11月がようやく終った。12月はいったいどうなんの?予測不可能。
でも、よくここまでこぎつけたなあ、とは思う。アンタよくやったよ、と自分で自分を労う。


2005年11月28日(月) duty

朝、目が覚めたら8時をすぎていた。出かけるまであと30分もない。
わお、と思いつつ、ヨーグルトにバナナをまぜて、台所で立ったまま食べる。お湯をわかして珈琲も淹れた。少々寝坊したくらい、何だって言うんだ、という気分。
自転車を飛ばした甲斐あって、始業には間に合った。修理したばかりの自転車は、ブレーキがききすぎて逆に怖い。
お昼には、ミックスサンドイッチを買って食べた。245円也。それと蜜柑1個。

午後から、打ち合わせのため神戸に行った。転勤してきて新しく担当になったUさんはおじさんで、カツラだった。髪の毛でできた帽子をかぶっているようだった。別にそれが悪いわけじゃない。ただ、思いっきりカツラやなあ、とひとり心で思うだけ。そして、事あるごとに頭部に目がいってしまうだけ。

終業後、天満橋のジュンク堂で本を買った。
待っていた山田宏一の新刊が並んでいたのに、迷った末結局買わなかった。なぜだ、なぜなんだ。3,800円に怖気づいたのかもしれない。
買った雑誌。
野坂昭如特集の『ユリイカ』を。『行き暮れて雪』について、野崎歓が書いていたので。
小島信夫特集の『水声通信』を。小島信夫がチェーホフについて語り下ろしてくれているらしいので。
買った文庫本。
小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫)。小説を読む前に、映画を先日試写会で鑑賞済。文部科学省も喜んで推薦しそうな、ノッペリした凹凸のない映画だった。別にそれが悪いわけじゃない。まあ、こういう具合にしか撮れなかったんやろうなあ、と思うだけ。映画のことは早く忘れて、これから小説を読んで、自分の頭で創りあげた世界で味わいなおそうと思う。

「青い麦」で「大豆ファイバーブレッド」というパンを買って帰る。280円也。フワフワの食感が、最近のお気に入り。

夕食。鶏肉と玉ねぎの煮こみ、赤玉ねぎとツナのサラダ、小松菜と揚げの煮物、白菜の漬物、ごはん、ビール大瓶1本。
宅配の野菜屋から玉ねぎが2週連続2キロも送られてきたから、今日は玉ねぎ料理。

友人に電話をかける用事があったのだが、口を動かすのが邪魔くさいから止めにした。


2005年11月27日(日) 仏の慈悲などあるものか

11月27日、日曜日の午前2時すぎに、目の前の日々をただ淡々と過ごす、と、わたしは決めた。何があっても、ただ淡々と。
だから、もう一切の泣き言はいわない。

午前8時起床。朝ごはんは、ごはん、鮭、玉ねぎのみそ汁、水菜のサラダ。それから、24日に賞味期限が切れている牛乳でカフェオレを作って飲んだ。体調には何の変化もなかった。賞味期限など気にするにあたらない。
昨日買った村上春樹の音楽本を読むのを楽しみにしていたが、Tが先に読んでもいいかと言うので、快く譲る。何事にも拘泥しない。だってわたしは淡々と生きるから。

昼から『Jの悲劇』という映画を観ようと梅田に出かけるが、上映時間を間違えていて果たせず。11時からと13時からの2回しか上映しないらしい。なんだそれは。やる気あんのか、ナビオTOHOプレックス。
暇になったので、街をうろついて帰る。ブックファーストで2006年のMOLESKINEの手帖を買った。この手帖には半券とかレシートとかメモとかいろんなものを挟んだり貼ったりするから、一年使うとインディ・ジョーンズのお父さんの手帖みたいに分厚くなる。
昼ご飯はぬき。

夕方帰宅し、おでんを作る。夕食は、おでんとぬる燗。
お酒を飲む前に、一日すっかり忘れていた、わけのわからん市長選の投票に行く。その後、自転車を修理に持っていく。ブレーキがきかなくなってきた上、前輪がぐらついているので。自転車屋に、うわーこの自転車は危険や、このまま乗ってたら確実に死んでいるところや、と驚かれる。ふーん。わたしは驚かない。だって、淡々としてるから。

夜は、ビュートル『心変わり』を読む。集中力に欠けるせいか、カタカナが頭に入ってこない。


2005年11月25日(金) 誰か伝えてくれないか

完全にお手あげ状態。途方に暮れる。この気持ちの空漠をいったいどうしたらいいもんだか、もうホンマにわからん。つらいわ。

まあいいや。とりあえず、週間ダイジェスト。

19日(土)。
文楽11月公演、通し狂言『本朝廿四孝』を鑑賞。休憩を入れて10時間、みっちりと。
ガタガタの精神状態で、この長丁場と複雑な人間関係の筋立てについていけるのか不安だったが、幕が上がればちゃんと心は室町時代へ。浄瑠璃はどこか、時空間を忘れさせてくれるところがある。
有名な『十種香の段』と『奥庭狐火の段』を初めて観た。蓑助さんが元気に舞台を飛び回っているのがうれしい。
それにしても八重垣姫は、会ったことも話したこともない男のことを、なぜああもジッと信じて想いつづけることができるのだろう。狐に身を変えるほどに。可憐で一途で、適度に嫉妬深くて、適度にバカ。女はこんなふうでないといけないのかな。わたしも練習しよう。今頃から練習したって無駄か。

20日(日)。
岩屋の美術館に『鴨居怜展』を観に行った。常設展にコーナーを設けて開催している小規模なもので、展示数は19点。この日は「関西文化の日」とかいうのにあたっていたらしく、無料で入場できた。
鴨居怜の絵で好きなのは、舞台装置みたいな背景の色。それから、グテングテンに酔っぱらっている男を描いたもの。酔っても酔っても救われない感じがいい。酒で孤独が減るわけではない、って、キリンジも歌ってる。
ひとりでお酒を飲んで、へこたれてるわたしのことを、鴨居怜のような目線で見てくれている人がどこかにいるとしたら、ずいぶん助かるだろうと思う。

絵を観たあとは、美術館の裏にまわって、海を見ながらドストエフスキー『永遠の夫』を読んだ。
この日は、風が肌をチクチク刺すみたいに冷たくてまるで冬で、凍えるようだった。ふと思い立って、海の見えるベンチに座り寒さに耐えて約1時間、ここで本を読んだら、そしたらきっと「いいこと」がある、と自分に賭けてみた。そして、午後遅くから日暮れまで、海を眺めつつ読書にいそしんだ。前々からうすうす知ってはいたけれど、わたしはちょっと頭がおかしい。
『永遠の夫』が面白かったこともあって、1時間なんてけっこうすぐだった。手がかじかんで、ページをめくるのが難しかったけど。
でも結局、「いいこと」はなかった。ハハハ。笑う。何をやってみても、ダメなものはダメ。

月曜からは、きちんきちんと働いた。祝日の水曜日も出勤した。仕事が煩雑だったことは、余計なことを考えなくてすむから助かった。働いていてよかったと思った。
ドストエフスキーのほかにも、読書はいろいろした。今さらながら『対岸の彼女』を読んだ。今まで読んだ角田光代の中でこれが一番良かった。それから小川洋子の『アンネ・フランクの記憶』とカフカの『城』を再読した。シュルツはチビチビ読んで、今は放置している。
今週はテオ・マセロの『TEO』をよく聴いた。ジョニ・ミッチェルやボブ・ディランも。それから、ABCラジオも。
Ricolaのハーブキャンディが手放せず、お弁当には五目豆と鮭フレークをつめるのが定番で、昼休みに蜜柑をひとつ食べるのもちいさな楽しみだった。週の真ん中で作ったカボチャのカレーは絶品で、でも作り方をもう忘れた。こんなことは、すぐ忘れられるのに。今日はファミリーマートで、新パッケージで少し小粒の「カンロ飴」を買った。さっき、Iちゃんとひとつづつ食べた。

たいしたことではない、たいしたことではない、と自分に言い聞かせるが、わたしはわたしの言葉をなかなか理解してくれない。
いつかここから抜け出せる日がくるかなあ。今度日記を書くときには、脱出できてるといいのにな。


2005年11月16日(水) クロス・シャッセ

ジョン・カサヴェテスの映画『こわれゆく女』の好きなシーンに、ジーナ・ローランズが精神のバランスを崩していくのにともなって、どんどん家庭の雰囲気が悪くなっていくのをなんとか食い止めようとがんばるピーター・フォークが、子ども達を海岸に連れ出して、「さあ、楽しめ!ふつうにしろ!、ふつうに楽しめ!」と言って遊ばせる、というのがあって、最近それをよく思い出す。
夜が明けてカーテンをあける時などに、自分にそう言ってみる。さあふつうにしろ、ふつうに明るくしろ、ふつうに楽しめ、ふつうに、ふつうに。
そうしたら、ちゃんとふつうに、当たり前みたいに、何でもなく簡単に、振舞えるのだ。

夕刻、天牛堺に寄り道。今日の天牛の500円均一、すごかった。欲しい本がいっぱいあって、目移りした。ずいぶん我慢したけれど、たくさん買ってしまった。
石原吉郎『禮節』(サンリオ出版)。石原吉郎の詩が好きなので。
吉増剛造『王國』(河出書房新社)。吉増剛造の詩が好きなので。それに、時折挿しこまれている写真が、高梨豊だったので。
『原民喜のガリバー旅行記』(晶文社)。子供向けに書かれたもの。解説が長田弘で、絵が佐々木マキだったので。
小堀杏奴『日々の思ひ』(みすず書房)。昭和29年刊。本の佇まいがよかったのと、題名が好きなので。
金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』(岩波書店)。講演をまとめたもの。金井美恵子だったので。
長谷川集平『絵本宣言序走』(すばる書房)。何となく。

晩ごはんにカレーライスを作った。ジャガイモと人参をゴロゴロ入れたカレー。朝日放送ラジオを聞きつつ、玉ねぎを長いこと炒めた。
ナイターがなくなった今、関西ローカルのラジオに頼るよりほかに、心を和ませる方法がみつからない。

今日はビールも焼酎も、酒の類はなんにも飲まなかった。熱いほうじ茶と、珈琲をすすったのみ。

田辺聖子の『あかん男』を読んだ。おもしろい。まずタイトルがすばらしい。『あかん男』。
文字どおり「あかん」男の話。20回以上見合いをしても話がまとまらず、35歳なのにはげてきて、親戚中に馬鹿にされ、会社の女子社員に呼び出されて期待してでかけていったら金の相談で、あげくにすっぽかされ、ひとりトボトボ帰る。
『怒ることもできない自分を、あかん男やなあ、と思いました。』というのが最後の文章で、ここを読むと、ああわたしも「あかん女」やなあ、としみじみ思ってしまうのだ。


2005年11月15日(火) いつかは想像をこえる日が待っているのだろう、か?

金曜日の夜に、友人が車で自宅にやってきた。借りていたビデオデッキを積み、そのまま一緒にスーパー銭湯に行った。
週末なのに、週末だからか、銭湯はとても空いていた。露天風呂をしばしの間占領し、プカプカ湯につかって遊んだあと、車で友人宅まで戻り、酒を飲んだ。
ふたりでキリンのラガーを3リットルほど、焼酎ボトル1本、ワインを半分ほど空けた。お互い、ままならない人生を抱えて鬱屈しているので、いくらだって飲めるのだ。頭は朦朧とし、会話は反れて、まわりの風景は歪んでゆくのに、いつまでも自意識が消えてくれないのが、辛いといえば辛い。
そんなわけで、頭痛と吐き気に悩まされながら、土曜の朝に電車で家に戻り、昼すぎまで寝ていた。

週末から昨日にかけ、新刊古本とりまぜて、またまたアホみたいに本を買った。買いすぎて、もう書名を挙げ連ねるのもはばかられるほどだ。
なぜか急に小川国夫に目覚めて、『アポロンの島』とか文芸文庫の短編集などを、フムフムと読んでいた。それから、平凡社ライブラリーから出た『シュルツ全小説』を、もったいないから毎日ちょっとづつ読んでいる。
しかし、なんといっても小山清の『落穂拾い』に、わたしは深く感動した。
えーん、と声をあげて泣きたい。

『その人のためになにかの役に立つということを抜きにして、僕達がお互いに必要とし合う間柄になれたなら、どんなにいいことだろう。』

昨日は、仕事のあと試写会に行き、帰ってきたのは22時を過ぎていた。
玄関前に放置してあった宅配野菜を整理して、ほうれん草を茹でたり、人参とゴボウのキンピラを作ったり、カボチャを煮たり、夜中まで台所で働いた。働き者である。
深夜の台所で、灯りをひとつだけ点け、テーブルでゴボウを刻みながら『ローズマリーの赤ちゃん』のサントラを聴いた。コワイ。水道の蛇口をひねると血がでてくるかも、と思ってしまう。出てこないけど。

気をとり直して、ぼちぼちまたやっていこうかなあ、という気持ちになってきた。だって、そうするより仕方がないから。
この先、何があっても、何がなくても、日々はただ続いていくんだし。


2005年11月10日(木) 真と偽の埒外で

最近のこと。

火曜日に、梅田で『アワーミュージック』を観た。
ゴダールの映画はどうもついていけないことが多いのであまり期待していなかったのであるが、たいへん面白かったのでほとんど意外であった。面白かったし、勉強になった。
書物と赤の映画だ、と思った。ゴダールは本と本を読む人を撮らせたら、実に上手い。
それから街の風景がよい。路面電車、露店の野菜、花、アスファルト、空と木。その間を行ったり来たりする人々。
「煉獄編」で、ゴイティソーロが画面に出てきた時はびっくりした。この人の『パレスチナ日記』を読んだばかりだったからだ。今度は『サラエヴォノート』をぜひ読んでみたい。
それから、映画中に出演する「ゴダール」がサラエヴォの学生の前で講義をするシーンで、ハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』のスチールを出してくるのだが、この映画も図書館でビデオを借りてみたばかりだった。こういう偶然は時々あって、驚かされる。どこかで何かがつながっているのだと思う。
『カラマーゾフ』からの引用があったことも嬉しかったし、加えて、パンフレットに収録されている野崎歓の文章もよかった。
全体的にとても満足した。機会があれば、再度ぜひ観てみたい。

タワーで、クシシュトフ・コメダによる『水の中のナイフ・袋小路』と『ローズマリーの赤ちゃん』のサントラを買ったり、旭屋でたった一冊残っていた『未来』をもらったりして、このあたりまでは気楽に過ごしていたが、吉朝さんが亡くなったことを知ったあとはすべてが飛んでしまった。

次から次へと、なぜこんなことになるのかほんとうにわからない。なんでなの?
残念だと片づけられないし、かといって気持ちを言語化することもできない。
「あの世」ってあるのかな。死んだらスイッチオフ、真っ暗闇がすとんと落ちて世界が終わるのだと思ってたし、いまもそう思ってる。
でも、「あの世」というものがあるならあったでそれもいいかな。ゆっくり休めるところだといいな、と少し思う。

今日は、旭屋で『みすず』の11月号を買った。「キアロスタミ讃」というのが読めるので。明日は、文芸文庫の小山清を買うだろう。

どんなことが起ころうとも、こうしてなんということもなく毎日が続いていくことが信じられない。


2005年11月08日(火) 不在の人

相も変わらず、どうしようもない寂寥感と二人連れの日々。
いったいなんなんだ。このままどこまでいくんだろう。

仕事で難波まで行き、歩いて梅田方面に戻る途中、天牛堺書店に寄った。330円均一台で、日野啓三『都市という新しい自然』(読売新聞社)を見つけた。
大学生の時、この本を図書館で借りた。中ほどの「タルコフスキーの世界感覚」という章を読んでたいへん感動し、『ノスタルジア』をビデオで初めて観た。衝撃だった。

日野啓三を読まなかったら、タルコフスキーを観ることもなかったかもしれない。タルコフスキーを観なかったら、今のわたしはなかった。絶対になかった。十数年ぶりに、テラテラ光るシルバーの(装幀は菊池信義で、坪内祐三の『別れる理由が気になって』とほとんどおんなじ)見た目は趣味のあんまり良くない本を、今この時に、再び手にとることができ、めぐり合わせは不思議だと思った。奇蹟は、毎日おこっている。

以下、「タルコフスキーの世界感覚」より。

『かつて詩は世界を最もわかり易く表現するものとして尊敬されていたが、いまや詩は最もわかりにくいものとされている。タルコフスキーが我慢がならないのはそのことだ。彼の映画の登場人物たちは、ドストエフスキーの小説の登場人物たちのように、長々と苛立って興奮してしゃべりたてるが、それはロシア人の癖であるとともにタルコフスキーの深い苛立ちを代弁するものである。きみたちは詩を失い、世界感覚を失い、世界そのものを失っている、と。』

『あれこれの感情を、美しく崇高に、悲壮に重々しくあるいは戦慄的に表現した映画はたくさんある。世界の一部、世界についての特定の解釈を鮮明に描いた映画もある。だがタルコフスキーは解釈ではなく世界そのものを、名づけられる感情ではなく言い難い感覚そのものを描きあげたのだ。』

きょうはもう一冊、阿部昭の『言葉ありき』(河出書房新社)も買った。

今までは日野啓三を読んでいたけれど、この後は、土曜日に図書館で借りた、渡辺聡子『チェーホフの世界 自由と共苦』を読もうと思う。

寝るつもりはないのか。


2005年11月04日(金) まぶたの銀幕に

日記を毎日書けなくなってしまった。何が何でも毎日書く、ということだけが、取り柄だったのに。

昨日(11月3日)は、休日だった。
午前中は、部屋で本を読んでいた。宇野浩二の『苦の世界』を久々に読んでみたり、一昨日通読した短編集『ニート』を、もう一度ひもといたりしていた。

午後は、『Let's get lost』をダビングするため、自転車をこいで友人宅までビデオデッキを借りに行った。
友人は徹夜明けで寝ていたらしく、よれよれトレーナーにボサボサ頭で出てきて、デッキの配線を外してくれた。仕事場になっている彼女の部屋は散らかり放題で、座る場所はおろか、足を置く場所もなかった。
部屋に入らんほうがええで、と友人は言う。全然掃除してへんから変な虫とか湧いてるかもしれん、と。虫なんか平気やで、と言うと、そやろな、と笑っていた。
友人のお母さんが出てきて、いやアンタ何しに来たん、と聞くから、ビデオデッキ借りに来た、と言うと、へえーなんかもっと色気のある用事はないのんかいな、と嘆かれた。色気のある用事とは、はたしてどのようなものなのか。

夜に、ダビングしながら『Let's get lost』を観た。チェット・ベイカーを撮ったドキュメンタリー。カッコ良かった。いつまでも観ていられる。

今日は、いくぶん暖かかった。
ジュンク堂で、『ちくま』をもらい、無印で靴下を6足買った。
早めに帰宅して、昨日の「きょうの料理」での高山なおみさんの真似をして、じゃがいもを茹でながら、桂南光のラジオを聞いて心が和んだ。朝日放送ラジオは素晴らしい。

今から『ちくま』を熟読して、その後レムでも読んで、寝られるようなら寝ようと思う。


2005年11月01日(火) 呼びかわしあった名前など

午前4時すぎ、10万円の『近松秋江全集』全巻を古本屋で、月々1万円のローンを組んで買い、激しく後悔の念にかられるという夢をみて、ガバッと起床。えらい夢もあったもんだ。悪夢に近い。とにかく夢でよかった。

今朝はずいぶん寒い。早起きしすぎてやることもないので、リビングにホットカーペットを敷いて、夜も明けきらぬというのに、ガーガ―と掃除機をかけ、クッションカバーを冬用のものにかえた。

朝ごはん。昨日心斎橋そごうの『ビゴの店』で買ったプレーンなベーグルにキャベツのカレーソテーをサンドして食べた。ヨーグルトと珈琲、柿半分。
二日酔いには柿がいいというので常備してあるのだが、食べてみても頭痛がおさまらないのには納得がいかない。

弁当。ジャコ入り卵焼き、小芋の煮物、人参のキンピラ、鮭フレーク、ごはん。

昼休みに旭屋にて、『波』『図書』『一冊の本』を、帰りがけには、自宅近所の本屋で『本の旅人』を入手した。『本の旅人』は紙面をリニューアルしたらしく、珍しく読むべきところがある。

半額レンタルクーポンを利用して、ツタヤで『フェスティバル・エクスプレス』のDVDを借りる。移動中のライブシーンをもう一度見直すため。こういうことには非常に熱心である。それから、ビデオで『Let's get lost』も。

晩ごはん。寄せ鍋。手を抜きたい時は、鍋をかこむに限る。ビールと焼酎を呑む。

10月は、とうとう映画を一本も観なかった。今日は、ゴダールの『アワーミュージック』を観に行く予定であったが、諸般の事情で逃してしまった。
ドストエフスキーを、毎月一作品づつ読んでいくと決めていたのに、10月は果たせずに終わった。今にはじまったことではないけれど、どうも読書傾向が散漫すぎるようだ。
制限するつもりだったのに本も買いすぎたし、酒量も減らせなかったし、日記も毎日書けなかったし、出来ないことばかりであった。

今年の残り2ヶ月はどうなるのだろう。
とても想像できないし、たとえできたとしてもそれを、軽く越えていくようなことがあればいいのにな、と思う。


フクダ |MAIL

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