無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月28日(水) せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)

 早いなあ、2月ももう終わりだ。
 来月は三日も早く給料が出るぞ。嬉しいなったら嬉しいな。……もうすぐ四十郎が何を浮かれてんだ。

 洗濯物が溜まりに溜まっているので(私のではない。女房のだ)、自分のもまとめて洗濯をする。
 ところが女房、私が洗濯を終えたあとになって1週間着続けのシャツやら、数日はき続けの靴下を何足も持ってくる。
 で、そんな調子なのに、「体が臭い、なんで?」なんて、どまぐれたことを言い腐るのだ、このバカは。
 「……さっさと風呂に入れ!」
 私ゃクリーニング代がもったいないので、上着を着続けることはよくあるが、下着は二日と同じものは着てられん。特に靴下なんか、一日で臭くなるではないか。
 なぜ毎日洗うということが出来ないのか、と聞くと、「もったいないから」と答える。きちんと洗いもせず履き続ければ、靴下がボロになるのも早かろう。かえってそっちの方がもったいないはずだ。
 洗濯して干すのが面倒臭いだけじゃないか、このウソツキめ(~_~メ)。
 私が女房の分まで洗濯をしたりすると、このバカは「次、着ようと思ってたのに!」と文句を言うのである。
 「だからその下着、何日着てるんだよ!」
 「まだ三日(^^)」
 「……洗え!(>_<)」
 もう何百回と繰り返した会話だ。
 それにしても、洗濯をしてやって文句を言われる夫ってのも滅多になかろうな。

 AIQのエロの冒険者さんから、『サウスパーク』中、恐らくは一、二を争う問題作であろう『チンポコモン』上映会のお誘いメールが来る。
 『公式版サウスパーク・コンプリート・ガイド』(こいつも私がまだ殆ど読んでもいないのに女房が片付けてしまったので、1時間かかって探し出した)を見る限り、テレビ放映の順序から言えば、4日の『流星物語 カイルとケニーのユダヤスカウト』の次に『チンポコモン』が来るはずなのだが、しっかりすっ飛ばして11日の放送は『宇宙戦士! 腹ぺこマーヴィン』。
 まあ、日本企業の陰謀で『チンポコモン』を見ていた子供たちが「て○か○」を起こす、なんて内容の話、逆立ちしたって日本じゃ放送できんわな。
 この分じゃ、日本版DVD発売の際もカットされかねない。この機会を逃してなるものか、と、慌てて「行きます行きます」と返事のメールを送る。
 このページを読んでる劇団のメンバーで、「あちきも行きたいでありんす」(意味なし花魁言葉)、という方がいらっしゃったら、明日までに連絡ください。

 ちょっと今日はバタバタしちゃったので、読んだ本や見た映画の感想は明日書く。書けるヒマあるのか?



 京極夏彦・多田克己ほか『妖怪馬鹿』読む。
 対談の間に挿絵代わりに挿入されている京極さんのマンガが楽しい。有名マンガ家の模写なのだが、赤塚不二夫、永井豪、山上たつひこを初め、吉田戦車、しりあがり寿といったオタクなマンガ家まで、ものによってはホントに本人に描かせてるんじゃねえか、と言いたくなるほど似ているのである。
 「豆腐小僧」のイラストなど、日野日出志や唐沢なをきまであったぞ。京極さんが相当なマンガフリークであることがよく分る。これが読めるだけでもこの文庫、買って損はしない。
 口裂け女やトイレの花子さんを例に出すまでもなく、「妖怪」はフォークロアとして現代でも生き残っている。たとえどんなに科学が発達しようと「妖怪」はその概念を変容させつつ、「得体の知れないもの」を我々が認識するひとつの方法として語り継がれていくのだろう。
 ただ、20世紀が映像の世紀であったことは妖怪たちにとってはやはり不運だったのではないか。京極さんが「妖怪が妖怪たるためにはキャラクター化されることが必要」というのには賛成だが、現代はあまりに絵師が多過ぎ、「決定版」たるキャラクターがかえって存在しにくくなっている。水木しげる御大の絵にして、「口裂け女」などはとても魅力的とは言えないキャラクターであった。
 『鬼太郎』は偉大なマンガであるが、水木さんは徹底的に孤高の作家であって、後続する作家がいない。諸星大二郎がそうなるかと思ったけれど、「稗田礼二郎」シリーズは妖怪ものと言うには違和感があるし……。『ぬ〜べ〜』なんか特にひどかったしなあ。そろそろ新しい妖怪伝説を生み出すような作家が生まれないものかな。

 マンガ、細野不二彦『S.O.S』2巻、第一部完とあるが、こう銘打たれて第二部が再開した例は滅多にない。打ちきりにあったのかなあ。女刑事を陰ながら救うタキシード仮面さまは実はただのストーカーだったってネタ、結構笑えて好きだったんだが。これはあれだな、主人公がいざってときに駆けつけるパターン(『仮面ライダー』の1号2号とか、『変身忍者嵐』の嵐と月ノ輪とか……我ながら例が古いな)を見てて、「どうしてこいつは主人公の危機がわかるんだ?」って疑念から生まれた設定なんだろうな。

 マンガ、浦沢直樹『MONSTER』16巻、こないだ手塚治虫文化賞取ったと思ったら、今度は小学館漫画賞。でも現在もっとも面白いマンガのひとつだから、それも当然か。
 今回ヨハンは、ただある人物の名前を砂場に書いただけで、それを見た人物にその名の人物を殺させる、という、「暗示の殺人」を数件行っている。
 これにはミステリにいくつも先行例があって、例えばアガサ・クリスティーの『カーテン』の中に、暗示だけで人を死に至らしめ、本人は一切罪に問われない、という犯罪者が登場したことがあった。
 「暗示」の効果が絶対的だと証明されない限り、仕掛け人が誰か特定出来たとしても、その人物はいわゆる「不能犯」になるのだろう。ミステリでは実に人気があるネタで、江戸川乱歩も『赤い部屋』などの短編でそう言った犯罪の例をいくつか紹介している。
 しかし、浦沢さんの非凡なところは先行作の稚拙なパクリにはなっていないところだ。浦沢さんには、それが単なる個人の犯罪レベルで留まるものではなく、社会そのものが一種の洗脳装置として機能しているからだという視点が間違いなくある(岡田斗司夫さんの『ぼくたちの洗脳社会』でも読んだかな?)。我々は常に誰かを洗脳し、あるいは洗脳させられているのだ。
 『MASTERキートン』などの先行作品で世界情勢に触れて行くうちに、浦沢さんはそう言った「洗脳」のシステムに興味を持って行ったのではないか。『MONSTER』の設定がハードなのは、いかに天馬がヨハンを殺人者として追いかけようと、ヨハンはあくまで世間的には「善意の人」に過ぎず、社会的に罪があるのはどうしても天馬本人になってしまうという点にある。
 「ヨハンの存在自体、天馬の妄想なのではないか」と考えるルンゲ警部の疑念も、今巻でどうやらヨハンの背後にも何らかの「洗脳システム」が存在していることを匂わせていて、にわかに説得力を持ってきた。いや、ヨハンが「実在しない」ということではなく、天馬たちが追っているヨハンが必ずしも殺人者としてのヨハンの実態とは限らない、というニュアンスが漂ってきていることを言いたいのである。評価は完結を待たねばならないが、次巻への期待はたかまるばかりだ。

 CSチャンネルNECO『ふろたき大将』を見る。
 石橋蓮司の子役デビュー作だということは知っていたが、開巻早々、伊福部マーチが流れてきたのにはぶっ飛んだ。
 伊福部昭さんは同じメロディーラインの曲を複数の映画に付けることがよくあって、怪獣映画に慣れてる身にしてみれば、文芸大作、例えば『サンダカン八番娼館・望郷』のオープニングで「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」(ちょっと微妙にテンポが違ってるのがご愛嬌)なんて流れ出すと調子が狂っちゃうのだが、この映画もオープニングは『わんぱく王子の大蛇退治』のスサノオ船出のシーンのマーチである。勇壮だなあ。
 話は広島の原爆で戦災孤児となった石橋蓮司が、小学校の園長先生(『大魔神』『妖怪大戦争』の神田隆が「いい人」を演じている!)に拾われて、学校のふろたき係をしているうちに、実は生きていたお母さんと再会するというお涙頂戴もの。……なのにBGMが伊福部マーチなのよ(^_^;)。
 蓮司が空腹から盗みを働いてるときに「どどん、どどん」と低音のコントラバスが鳴り響きゃあ、こいつ絶対将来ど悪党になるに違いないとしか思えないし、ブタの群れを蓮司が追いかける時に『怪獣総進撃』がかかれば、ブタがなんだか逃げ惑う群衆に見えてしまう。
 これはどう楽しんだらよいのかねえ。やっぱりある意味トンデモかも。
 伊福部さんも昔は仕事選んでなかったんだなあ、ということがわかって面白かった。

 女房がこの日記に文句をつけてきたので一部訂正。
 女房が一週間、服を着続けだというのは、「時間に換算していない」ので不当だというのだ。つまりちょっと手を通しただけの下着とかはもう一度着てもいいのだそうだ。……そうかなあ?


2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)

 女房が部屋を片付けてくれたのはいいのだが、未読の(それも買ったばかりの)本まで山積にしてくれたものだから、何がどこへいったやら分らない。私は本のカバーを付けたまま整理するので、背表紙にタイトルと作者を書いておくのだが、まだまっ更の状態で積み上げられてしまったのである。
 おかげで昨日読んだ手塚治虫の『ブラック・ジャック』ガイドブックもどこに埋もれたか見当もつかず、正確なタイトルが分らないので感想を書くことが出来ない。
 『ブラック・ジャック』に登場した手塚キャラをほぼ全て網羅したとおぼしきこのガイド、それなりに労作なのだが、惜しむらくは映画やアニメのブラックジャックには触れていない。触れたくなかったのかも。
 何しろ実写版は私たちの世代だと宍戸錠と加山雄三でトドメ刺されてるしな。まさか隆大介やモックン版まで作られるたあ予想もしなかった。こないだの本木雅弘版ではヒゲオヤジをいかりや長介がやってたみたいなんで録画しようと思ってたんだが見逃しちまった。
 アニメは伊武雅刀、野沢那智、大塚明夫の三人だけかな? 個人的には野沢さんが一番。あとの二人は声が低すぎる。
 アセチレン・ランプやハム・エッグなんかを取り上げて悪役の魅力みたいなものも書きたかったんだが、やはりそういうのは資料をきちんと見ないと書けないのだな。

 唐沢よしこ・唐沢なをき『オトナでよかった!』読む。
 このお二人には、世代もほぼ同じオタク夫婦として一方ならぬ親近感を抱いているのであるが(同じように太っているからではないぞ)、やはり微妙な感性の違いはある。
 私もバカ特撮、バカマンガ、バカSFは好きである。というより、どんなにハードでシリアスなものにだってどこか「バカ」なところはあるわけで、バカを認めずしてフィクションはおろか人間についてすら語れぬというのが持論なのである。
 でも、「狙ったバカは向こうから外れる」(今作ったことわざ)。
 『ウルトラマンタロウ』はやっぱり唐沢夫妻ほどのファンに私はなれなかったなあ。未だに主題歌フルコーラス歌えはするが、そんなのは基礎教養なのでとてもファンとは言えない。「モットクレロン」や「モチロン」って、ギャグが一人よがりに過ぎると思うんだがな。いや、『帰りマン』の時の「ヤメタランス」でウルトラシリーズはもう終わりだと思ってはいたが。
 『ズバット』も『キカイダー01』も『渡り鳥シリーズ』を見たあとだと、長坂秀佳、こんな見え透いたパクリしやがって、という印象の方が強くなる。一回二回ならともかく、長坂ドラマって全て『渡り鳥』のパクリなんだものなあ。江戸川乱歩賞だって、審査員が『渡り鳥』を見ていたら絶対受賞させなかったはずだし。同じバカやるなら浦沢義雄さんみたいにオリジナルで勝負してほしいもんだ。
 それはさておき。
 我々の世代の子供のころのネタ話というのは、他の世代にはちょっと理解不能なところがある、とずっと思っていたのだ。
 例えば『ウルトラシリーズ』の最高傑作は何と言おうと『ウルトラQ』であるのだが、高畑勲なんかはジブリにいる私の先輩が『ウルトラQ』の話なんかすると、「なんでそんなもんにハマるのか分らない」とやや軽蔑したようなもの言いで批判しちゃうらしいのである(あれはSFオンチだからね、オタクたるもの「たかはたふぁん」だなんて言っちゃいかんのですよ)。
 しかしウチの女房など、唐沢さんとトシがひと回りも違うのに、分らないネタがあっても全然平気である。要はどんなに極私的なネタであっても、その語り口によってはちゃんと各世代に訴えるものになるということなのだ。一人よがりとオリジナルの差はそこにある。
 あと「明智小五郎は病的なやつがやったほうがいい」、というのは絶対賛成である。

 さて、唐沢ご夫妻もカミングアウトしていたから、書いちゃおうと決めたのだが、実は我が家でも女房のムダ毛のお手入れを亭主の私が手伝っているのである。……別にやらしいこっちゃないよねえ?(ビクビク)
 昔、床屋だった母から聞いた話なんだが、毛根から毛を抜くというのは皮膚にとってはよいことではないらしい。
 一旦毛穴が閉じるので、次に毛が生えてくるとき皮膚の表面をどうしても毛が突き破ってしまうのである。ワキなどは確実に肌荒れをする。だから、あとで軟膏を塗ることを忘れてはならない。
 しかし女性というものはどうしても「毛を剃ったあとの黒い毛の断面」が許せぬものらしい。というわけで私は数日置きにちまちまちまちま女房の毛をプチプチ抜いているのだ。その間、ただ抜いてるだけでは退屈なので、まあ何ということもない(つまりはしょーもない)無駄話をしたりするのだが、これがわれわれ夫婦の一番のコミュニケーションになっている。
 一番ってとこが情けないかな。
 それにしても毛を抜きながらのコミュニケーションって、ロマンのカケラもないよな。必然的にこういうときの会話は、ひたすらはてしなくバカばなしになってしまうのだ。
 まだやったことのないご夫婦は一度ぜひお試しを。その体験談をメールででもお寄せいただきたければ嬉しい限りである。……誰もくれんか(^_^;)。

 携帯電話にまたまた間違いメール。
 しかも今度はメッセージがひとこと「かあ」だけ。
 『鴉』のファンか……?



 トイレの電球が切れていたので新しいのと取りかえる。カバーをするのを忘れていたら、女房がトイレに入った途端、「ま、まぶしい! こんなに明るいのトイレじゃない!」と言い出す。
 トイレじゃなければなんなんだ。 

 トリ肉と鍋野菜セット、それに先月塩浦さんからもらったアスパラガスを鍋にぶちこんで得体の知れない水炊きを作る。
 このアスパラガス、缶詰でざっと二十個は頂いたのだが、いったいどこからどうやって調達したものなのだろうか。ダーリンの秘密ルートが気になるところだ。食い尽くすのは1年先かもな(^_^;)。
 女房はやっぱり好き嫌いをして食べない。鶏肉がダメなら明日は牛肉を入れてやろうかな。

 CSチャンネルNECO『あんみつ姫・甘辛城の巻』、先日見た『妖術競べ』は、パート2だったのだな。
 あっ、前回は気がつかなかったが、私のフェバリット・ビザール、天津敏が出演しているではないか。し、し、しかもテロップには「(新人)」とある。もしかしたらこれがデビュー作? ネットで検索しても天津敏の出演作としては全く取り上げられていないのになあ。
 天津さんの役は新参侍の塩野餡内。鍾馗様のようなヒゲを生やし、実直な大兵漢を演じているが、それにしても若い。痩せていて好青年と言ってもいいくらいだが、ドスの効いたあの声は天津さんに間違いない。善人役はちょっと似合わないか(^_^;)。出番は結構多く、主演の雪村いづみのあんみつ姫と相撲を取り、ちょこまか走りまわる姫に振りまわされて足を取られて負けてしまう、という見せ場もある。新人だからちゃんと売り出してやろう、ということだったのかもしれないが、この作品の後はほんの端役ばかりが続いたのではないか。
 天津さんのブレイクはテレビ『隠密剣士』、天津の前に天津なく、天津の後に天津なしの当たり役、「風魔小太郎」を待たねばならぬのである。


2001年02月26日(月) しみじみ草枕/『エクセル▽サーガ』(六道神士)7巻ほか

 今日は宴会があるのだが、私は酒も食事も制限されているので、挨拶だけしに行くことにする。人間関係を避けてるわけではないので、私にしてみればこれくらいはしないといけないかな、と思ってしていることなのだが、これを快く取ってくださる方もあれば、悪く取られる方もあるのである。
 漱石ではないが「とかくに人の世には住みにくい」。
 かと言って人でなしの国に行くつもりもないので、漱石の言に倣って、「詩歌や絵画」の世界に遊ぶことになる。……今で言やあ、小説とマンガだな(^o^)。

 今日こそは、買い損ねていた本を何としても探し出そうと意気込むが、電チャリを充電し忘れていたことに気づいて焦る。スイッチ入れずに走るとやたら重たいのだ、この自転車は。
 仕方なく、スイッチを切ったままで、博多駅では紀伊國屋、金文堂、メトロ書店を回る。更にキャナルまで足を伸ばし、福家書店も回る。
 メトロ書店のカバー、うっすらピンク色のものにリニューアルしている。以前のどっちが上下かわからんデザインのものより断然いい。
 世間には、書店のブックカバーというものを環境破壊の象徴のように忌み嫌う方もいらっしゃる。文庫本に今のようなイラスト付きカバーを付けたのは角川の発想で、それ以前の岩波文庫なんかは薄いハトロン紙しか付けていなかった。そんなもの、すぐに破れる。だから角川のアイデアは実に画期的だったと言えるのだ。表紙が丈夫になったのみならず、文庫本ではカットされがちな、連載時のイラストが、表紙一枚とは言え、復活したも同じだからだ。
 絵がそこにあれば、人情として、その絵が日光で色褪せたりしないように、なんて気遣うのも当然であろう。ゆえに私は「本屋に必ず『カバー付けてください』と頼む派」なのである。「カバーが既にあるのに更にカバーを付けるとは何ごとか!」とまじめな方はおっしゃるだろうが、私は各書店のブックカバーを集めるのも趣味なので、どうかおかまいなく。
 それなのに福家書店、「カバー付けてくれ」と頼んだのに付けてくれなかった。人の話はよく聞けよ。

 帰りにスーパーで昼の弁当が100円引きになっているのを確認して買う。幕の内が280円ってのは実に安い。今日は女房、仕事が休みらしいので、土産に買って行ってやる。私用にはミニ弁当、茶碗一杯程度のめしにカレイのフライ、コンニャク、筍、かまぼこなんかが乗っている。これくらいの量が本当は丁度いいのだ。



 女房が何をきまぐれを起こしたのか、部屋を片付けている。公演が終わったときに運びこんだテーブルや椅子、そのまま置きっぱなしだからもう1ヶ月近くも放置していたのである。もうてっきり片づけする気などないと思っていたのに、どうしちゃったのか。
 しかも、殆ど穴倉と化していた自分の寝室まで整理していたのだ。ときたま女房はこんなふうに突発的に模様替えをし始めるが、どう考えても毎日こまめに片付けてた方が、労力は少なくてすむはずなのである。それを思い立った時に「うりゃっ」と一気にやっちゃうのは、やはり性格が男だからなのだろう。

 六道神士『エクセル・サーガ』7巻、アニメが終わったあと、原作マンガの方はどう進展するのだろうと思っていたが、まるでなし。というかアニメの影響、原作の方が受けちゃってるぞ。いきなり意味なく「エ○○ルダ○」とか出て来るしな。
 花見の話はやっぱり舞台は西公園かなあ。考えてみたら花見なんてもう20年以上行ってないよなあ。今年の春は弁当でも作って、スケッチもかねてのんびりピクニックでもしてみようか。近所の公園でいいから。
 しかし去年福岡で「鳥人間コンテスト」なんてやってたのだろうか。福岡タワーが描かれているところを見ると、百道浜あたりなんだろうけど。「Q州大学バードマン研究会」っていかにもありそうだよな。
 ……なんだか全くマンガ自体の感想書いてないな。地元ネタを探す方が楽しくなってるけど、ま、いっか。

 うわあああ、しまったああああ! BSマンガ夜話、『カスミ伝S』、見損なってしまったああああ!
 あんまり悲しいので今日はここまで。


2001年02月25日(日) 誰もいない海/『シイナのファブリオ▽』(がぁさん)ほか

 二週間ぶりの練習の日であったが、ほぼ全員、都合がつかぬというので急遽お休みとなってしまった。
 ある者はバイト、ある者は風邪といった具合で、これじゃ話し合いになろうはずがない。女房は来る予定だった鈴邑夫妻に中止の連絡を入れ、私もロデムさんに同様の連絡を入れる。ロデムさん、そういうこともあるのかと笑う。
 練習部屋を早めに確保せねばならないので、メンバーのスケジュール調整が不可能なのが痛いところである。まあ、しゃあないわな。
 朝の時間を使ってシノプシスを書き上げようと思っていたのだが、余裕が出来てしまった。二、三日かけて二つ三つ書ければいいかな、と、もう少し頭の中で練り上げることにする。

 『仮面ライダーアギト』、今回はコブラ男の登場(なんか面倒臭い名前があるらしいが「コブラ男」でいいじゃん)。嬉しいことに相方のヘビ女は頭髪が蛇の、ゴーゴン姉妹タイプ。つまり、原作版『仮面ライダー』の「よみがえるコブラ男&蛇姫メドゥーサ」のコンビが、初めて映像化されたわけである。こりゃもう、最終的に黒幕は日本政府、ということにしてくれないと困るな(原作を読んでない人にはネタバレになるけど、「ショッカー」と日本政府って実はつるんでたって設定なのよ。これ、『スカルマン』の頃から共通してる設定なので、実のところ『仮面ライダー』が原作通りに映像化されたことはない、ということにもなるのです)。
 『仮面ライダー』シリーズはこれまでにもちょくちょく「原点がえり」をしようとホラーでシリアスな要素を加味してきたが、たいていそれは失敗し、路線変更を余儀なくされたものだった。一番かわいそうだったのは『真・仮面ライダー 序章』で、ホントに序章だけで終わってしまった。……巨大化したやつもいたな。そんなのに比べたら、今回の『アギト』は、石森テイストを残しつつ、かつ新しい観客層にも訴えかける要素を持った正統派ではないのか。これを単に「異色作」と位置付けるのには私自身は不満に思う点があるのである。
 ただ手放しで誉めてばかりもいられない。シリアスな展開の合間に、美杉家でのユーモラスなシーンを差し挟んで緩急をつけようという意図はわかるのだが、これがうまく効いていない。特撮面でもビデオ画像が怪人の造形をより作り物めいた印象にしてしまっているのが結構イタイ。
 何より、も少し演技の出来る役者使ってくれよう(T_T)。見てて恥ずかしいんだよう。



 マンガ、がぁさん『シィナのファブリオ▽』読む。
 以前「まんだらけ」でやっと見つけた、がぁさんの第一作品集。「ファブリオ」ってのは中世のエロ小説のことである。もちろんこのマンガ自体、エロなんであるが、ファンタジーやSFがエロと不可分なく交じり合い、絶妙のコンビネーションを形成しているのがこの人の作品のすごいトコロなのである。
 丸っこいかわいらしい線のキャラクターが持ち味で、別にエロ描かなくても充分やっていけると思う。実際に最近はエロなしの『だいらんど』なんかも描いてるし。でもこの人、どうも生活の手段として仕方なくエロを描いた、というわけでもなさそうなのだ。
 たいてい、がぁさんのマンガに登場する女の子は、最初は処女である。いや、処女ものは確かにエロマンガには多いが、決してがぁさんの主人公の女の子は不幸になったりしない。好きな相手に好きだと言えず、会えば喧嘩をしてしまう。だけど心の中ではいつか彼と結ばれたいと願っていて……そしてあるトラブルをきっかけに、二人はお互いの本当の気持ちに気づく。そして最後には心の底から結ばれ、愛を交し合うのである。
 こんな気恥ずかしいまでのハッピーエンドもの、今どき『りぼん』にだって載っちゃいねーぞ。これは構造的には完全に「ひと昔前の少女マンガ」なのだ。
 私も女房もはまってしまったのは、その辺にも理由がある。
 がぁさんをよく知らない人は、眠田直さんのホームページからリンクでがぁさんのホームページに行けますので、一度覗いて見てくださいな。

 昼寝中の女房の頭から白髪を抜く。
 実はこの白髪抜き、私の一番の趣味だったりする。昔、母の白髪を一本10円で抜かされていのがきっかけで、白髪抜きの楽しさに目覚めてしまったのだ。
 残念なことに、世の中に「白髪抜き屋」という商売がないために、その道に進むことはかなわなかったが、いつか女房を娶ったら、そいつの白髪を存分に抜いてやろうと心に決めていたのである。……変態だなんて言うなよ。しいねちゃんの耳かき好きよりはマシだ。
 しかし、結婚当初の女房はまだ若く、ただの一本も白髪がなかった。内心私は臍を噛んでいたのである(……今改めて気がついたが、女房って「幼な妻」だったんだなあ。全然、麻田ルミみたいな可憐な雰囲気ないけど)。それからひたすら待つこと十年、さすがに三十路が近いと少しは白髪も増えて来ようというもの。ついに私の悲願が成就する日が来たのだ。
 とは言え、私に比べたらまるで目立たず、たまに黒髪の間からチラッと数本見える程度のものなのだが。
 それでも髪を掻き分け探し出していくと、短い白髪が二、三十本は見つかる。
 「もう私、年寄りなんだよう。ほっといてよう」と駄々をこねるのを無視して、一本一本抜いて行くと、「痛い、痛い」と悲鳴を上げる。白髪のクセに根深くって、見ると肉も一緒に取れている。そりゃ痛いよな。
 「もう、あんた、わざと痛くしよろう?!」
 ついにガマンしきれず、女房は布団を頭からかぶってしまった。
 ……しかし、あきらめることはない。なぜなら私は知っているからである。目の前にハラリと白髪が見えた時には、「抜いて!」と向こうから頼んでくるに違いないことを。

 タコめしを炊いて作ったのだが、女房がまるで食べてくれない。女房の味ご飯嫌いも困ったものである。
 仕方なく外に食事に誘う。
 相談の末、以前から行こうと思っていた、先日オープンしたばかりの「インターネットカフェ」に行くことにする。
 店は博多駅のバスセンターの8階、つまり紀伊國屋書店の上の、シネリーブルの更に上の階にあるのだが、インターネットつなぎ放題の、マンガ読み放題の、DVD見放題の、CD聞き放題の、ソフトドリンク飲み放題の、という夢のような喫茶店なのである。
 基本料金が30分230円、15分延長ごとに90円追加、リクライニングシート席でも300円という、ワリに良心的な値段。食事もカレーやスパゲティが各480円、そう高くはない。結局ふたりで2時間半いて、2600円だった。
 まだ開店したばかりなのでお世辞にもソフトが充実しているとは言い難いが、うまくするとこの店、結構繁盛するのではないか。
 フリー席は安いだけあってやや狭い。ちょっと椅子によっかかると向かいの椅子にぷつかったり、横にどくと隣の人から敷居を立てられたり。見てみるとボックス席の方がゆったりできそうだったし、途中で席を代わってもいいと店員さんから言われはしたが、今日はイチゲンさんなので安いとこにしておいたのだ。……って、気取るほどのものでもないが。
 入ってしばらくは『仮面ライダーアギト』のホームページを覗いたりする。
 スパゲティと今川焼きを注文し、女房に分けてやるが、女房は「時間制なんだから、食べてたら時間がもったいないよ」と言って、なかなか食べない。でもどうにも腹が空いたらしく。結局私のスパゲティを半分食べる。
 以下は、読んだマンガ。

 ささやななえ『魂返の島』、この人の『ミノタウルス』はギャグとホラーがほどよく混じりあって好きなんだが、純粋な怪談ものだと、ちょっと落ちが弱くなるものが多い。
 しかもこの話、諸星大二郎の稗田礼二郎シリーズの一編と、「死者の復活」という設定がよく似ているために(盗作ってことじゃなく、同じ伝承をモチーフにしてるせいなのだが)、どうしても諸星作品と比較してしまう。そうなると、出来の差は歴然としてしまうわけで、ささやさんのほうが見劣りしてしまうのは仕方がない。特に、ラストをハッピーエンドにしたのは無理があった。
 えんどコイチ『アノアノとんがらし』1巻、いまやもう手に入らないえんどコイチの初連載(『少年チャンピオン』!)作。とり・みきが昔「私が面白いと思った作品はみな受けない」と言ってた中に入ってた(^_^;)。実際3巻で終わっちゃって、えんどさんはジャンプに移るわけだが、ギャグだけで押し通した『とんちんかん』も好きだが、純ラブコメの『とんがらし』も実は好きだった。買い損なってたんで、秋田文庫で再販してくれんかなあ。
 永井豪『凄ノ王伝説』6巻、角川版の完結編。現行の集英社版とはエピソードが異なり、須佐が自分の内面世界では女子高生になっていたり(おいおい)、地上に出た瓜生が魔獣に変身したり(さっきまで罪を償うとか言ってたのはどうなったんだ)、身堂竜馬がゲリラになっていたり(これは「元通り」か?)、暴走しまくっている。……こりゃ完結できんわな。
 あろひろし『ソリャナイゼみるきぃライフ▽』……こんな爆乳あってたまるか。「巨乳カウンターアタック」の解説は笑えたが。

 女房、結構この店が気に入った様子。
 「また来ようね。今度はリクライニングのボックスの方で」
 来てもいいけど、眠るなよ。


2001年02月24日(土) それはせんせい/アニメDVD『エクセルサーガ』への13巻(完結)ほか

 朝起きると腹を下している。8時には家を出る予定だったが、トイレから離れられず、風呂とトイレを往復して10時を過ぎる。
 父から電話があり、病院の方に連絡を入れたとのこと。つくづく細かい性格だ。私が物事を大雑把に考えがちなのは、父に対する反動だろう。
 新しい病院は昔住んでた町にある。今住んでるところからもそう遠くはなく、自転車で十分ほどである。
 もともと父も私も同じ病院に同じ糖尿の治療で通っていたのだが、父の方が担当医とソリが合わず、転院してしまったのだ。いいトシして全く人間が丸くならないところが博多の人間らしいが、笑ってばかりもいられない。糖尿は遺伝性の病気なので親子で同じ医者にかかっていた方がいいだろう、という判断で仕事を休んでまで通院していたのに、これじゃ今の病院に通う意味がない。
 今度の病院は土曜日に行けるので、仕事を休まずにすむ。早いとこそうしておけばよかった。
 でも転院すると「櫃まぶし」を食う機会が減るな。

 風邪も長引いているので、担当医についでにそちらも見てもらう。扁桃腺が相当赤くなっていたらしい。クスリが四種類も出る。父から「前の医者は薬をなかなか出してくれないが、新しいとこはちゃんと出してくれるからいいぞ」と言われていたが、ホントにそうとは(^_^;)。……どっちの方がいいのかは判断に苦しむけど。
 医者が言うには、「私も長いこと医者をしてきましたけど、あなたのお父さんみたいに自分から『入院させてください』と言い出された方は初めてです」とのこと。よっぽど前の病院の治療に対して鬱憤が溜まっていたのかな。
 何だか居心地が悪い気がして、早々に退散。つい、次にいつ来ればいいのか聞き忘れた。まあ来月くらいでいいかな。

 病院に行ったその足で、天神まで回る。DVD、マンガを買いこむが、今月は少し控えめに買う。家庭争議のネタを増やすのは極力抑えねば。
 帰りに「ザ・めし屋」で「だご汁」。昔から疑問に思ってたのだが、「だご」って要するに団子のことなんだろうが、ならどうして丸い形をしてないのか。どう見ても「太くて短いうどん」なんだものな。味が濃過ぎないのはいいのだが、肝心の「だご」の腰が今いち。こういう品は、居酒屋のほうがうまいものなのだろう。

 帰宅してからは早速DVD三昧。
 でも感想はまたあとで書く。昨日も女房につきあって夜更かししたので、寝不足なのよ。



 今市子『百鬼夜行抄』8巻、よくネタが尽きないなあと感心するくらい、毎回手を変え品を変え現代の怪談を語り続けているこのシリーズ、今のホラーブームに合わせて映像化されないのが不思議なくらいだ。
 でも本当に映像化されたら、またぞろ配役のイメージが違う! みたいな騒動が起こるんだろうから、マンガのままにしておいた方がいいのかもしれない。特に実写版だと誰がいいかなんて全然思いつかないしなあ。
 今回は冒頭の『雲間の月』の話が一番好きだったので、あとの話の印象が薄い。幽霊や死後の世界を信じるかどうかっていうこととは別にして、死んだ人が生前の約束通りに帰って来るというパターンは、洋邦の怪談に共通して見られるものである。よっぽど人の心の琴線に触れるものがあるようだ。『雨月物語』の『菊花の契り』(『御法度』の中にも引用されてたけど、あれのおかげで今や元祖やおい小説のように言われているのが微苦笑もの)や『浅茅が宿』にも共通してるのは、「死ぬ前に一度しか会えない」という点だろう。『シックスセンス』が今イチ感動を呼ばないのは○○○○○○○○○が結局ただのストーカーだからなのだな。

 橋口高志『ウィンドミル』9巻、はい、すみません。キャラクターが『エヴァ』に似てるってだけで買ってます。あと1巻で終わりだし、いいじゃないの。
 一応中身はまともな女子ソフトボール根性ものなんだけどね。でも作者は多分女の子が汗を流してハアハア息を切らしてる顔を描きたいだけであろう(^_^;)。

 手塚治虫『アトム今昔物語』再読。
 『鉄腕アトム』は掲載雑誌である『少年』の廃刊のために完結していないように思われているけれど、実はこれが完結編。アトムは20世紀にタイムスリップし、エネルギーが供給されないために野ざらしになってしまい、21世紀になって改めてアトムが製造される時代になると、タイムパラドックスを解消するために宇宙人の手で破壊されてしまう。テレビ版も原型になった『メトロポリス』もそうだけど、手塚さんはともかく主人公をよく殺す。多分それは手塚さんの「人はそう簡単に幸せになれるものじゃない」という人間不信に根ざした運命観がそうさせているのであり、やはり戦争体験によって培われたものだと思うのである。
 
 DVD『空の大怪獣ラドン』を見る。
 もう何度見たか分らない本作だが、それでも忘れてるシーンは結構ある。メガヌロンが登場するまでの人間ドラマの部分なんかケロリと忘れている。そう言えば二谷友里恵のか〜ちゃん、出てたっけ、ってなもんである。
 その反面、ラドンが福岡を襲うあたりは、このシーンの次はあのシーン、と結構細かく覚えているのだ。
 でも他の地方の人にはよく分らんだろうが、大濠公園を通過して中洲に北から飛来し、天神の岩田屋に北から舞い降りるってコース、非常に不自然なのである。もっとも飛んでるんだから空をぐるぐる旋回してたんだって考えれば、どうにでも辻褄があっちゃうんだけど。
 ああ、でも昔は本当に天神コアもイムズもなかったんだよなあ。ましてや岩田屋が西鉄と喧嘩して、西鉄が新たに三越と提携することになろうとは、昭和31年当時の誰が想像し得たであろう。もしかしてラドンにぶち壊されたのがキッカケか?
 福岡もゴジラもキングギドラもガメラもついでにスペースゴジラだって来てるんだし、オタク向けに「怪獣破壊ツアー」みたいなのを計画したっていいと思うんだがな。
 知ってる人は知ってると思うが、ラストの阿蘇山でのラドン炎上シーン、『ウルトラQ』のあるエピソードのラストシーンに流用されている。白黒画面なので分りにくいが、よく見るとラドンがハネをパタパタさせてる様子が見えるのだ。さて、いったい何というタイトルの(また、何という怪獣が出る)話でしょう?
 阿蘇山にもしばらく行ってないなあ。というか、生まれてこのかた、二度しか行ったことないんだが。まだ火口は覗けるんだろうか? 煙がホントにあちこちから吹き出てたし、考えてみると結構、命懸けな観光だったわけだ。
 「え、あちらに見えますのががラドン終焉の地、こちらに見えますのがスペクター基地の跡地でございまーす」なんて観光してくれるバスガイドさん、いないかな。

 DVD『エクセルサーガ』への13巻、ついに完結。しかもテレビ未放映の最終回、26話も「無修正」で収録だ。
 そうかあ、いくら深夜アニメでも血を吐くのは御法度だったわけね。オープニングからハッちゃん、吐く吐く。
 22話で廃墟となったはずのF県F市、なぜか26話ではキッチリ復興している。アクロスも25話で崩壊したはずなのにしっかり全員復活、新たに市街征服狙ってるし、更には最終回だってえのに新レギュラーは登場するは、アニメではなかなか描写されることの少ないラブホテルの内部シーンはあるは(『パトレイバー・ふたりの軽井沢』に『エヴァ』の例のアレという先例はあるけどね)、もうやりたい放題。しかもラストは原作者対監督の対決ってなんじゃそりゃ。
 でも福岡を舞台にした映画ってのはあっても、アニメってのはなかなかなかったから(あとは『県立地球防衛軍』くらいかな)、ホントに楽しかった。
 こうたろうくん、面白いアニメ紹介してくれてありがとうね。


2001年02月23日(金) 哀愁列車/『ちょびっツ』1巻(CLAMP)ほか

 ……えいくそ、日記開くのに苦労しちまったい。
 どういうわけだか、パスワードが消えていたのだ。
 でも安心、こういうときのために女房がメモを残しておいてくれている。えーっと、英数半角で、ふんふんふんと……。さあ、これで日記の画面が……出ない(・・;)
 「エラーです。IDかパスワードが違っています」
 いったいどういうわけ?
 パスワードは英数半角。打ちこみミスがないか何度も試した。しかし何度打ち込み直してみても、画面には無常に「エラー」。の文字が出るばかり……。
 もしかして、メモが間違っているのかも……? そう思ってバスワードの再発行を頼んだ。数分でメールが届く。
 原因はわかった。
 確かに女房のメモが間違っていたのだ。
 ……小文字の“l”と大文字の“I”を間違えるんじゃねえ!

 ……帰宅した女房に聞くと、他にもこやつは“O”と“6”、“v”と“r”の区別をつけられずに困っているそうである。日ペンの美子ちゃんに字を教わって来い……(-_-;)。

 というわけでやっと今日の日記が書ける。日記書く前に疲れちまったぞ(-_-;)。

 どこでもいつでも眠れるというのは私の特技の一つで、布団に入るとものの数秒で眠ってしまう。女房からしょっちゅう「一緒に寝ても楽しくない」と言われる所以だ。ところが最近は連日、寝ついたかと思ったら自分の咳で起こされている。今朝も二度ほど咳で目覚めた。
 女房は夜通しパソコンを弄くっている様子。
 「カラーチャートで、画面上で色が分るようにしたよ」
 「……画面で見れたって、俺、色わかんねーよ」
 何度言ったら私が色弱だということを覚えてくれるのかなあ。

 用事があって、ある山の上に登る。
 時間の余裕があったので、少し散歩をする。
 広場があって、そこには昔の蒸気機関車、「Cのちょんちょん」が置いてある。昭和50年まで、筑豊を走っていたそうだが、子供の頃筑豊に出かける用事などなかったので、走っている姿を見たことなどない。確かにその頃、「消え行く蒸気機関車」ということで、世間ではちょっとしたブームになっていたが(「きかんしゃやえもん」なんて阿川弘之原作のアニメまであった)、消えてなくなる段になって騒ぎ立てるのが何だかみっともない気がして、私は乗れなかった。
 少し離れたところに、これも昭和54年に廃止になった路面電車が雨ざらしのまま置いてある。
 こちらは中に入れるようになっているので、ちょっと昔を懐かしみたい気になって、足を踏み入れてみたものの……。
 汚い。
 雨ざらしだものなあ。計器だの電灯だのシートだのは当然外されていて、板敷きは底が抜けそうな感じで怖い。壁の塗装は薄いベージュのような、あまり温かみのある感じではない。運転のハンドルは路面だから簡単なもので、右左に回る程度のものだ。
 でもこんなチープな感じが好きだったのだ。
 博多どんたくの何が好きだったかって、この電車にいろんな飾り付けやペイントをして電飾で光らせ、夜の博多の街を走るのを見るのが、子供の頃の一番の楽しみだった。名を「花電車」と言う。……今や中洲の路地裏でしか聞かなくなった名称だ。
 いかにも子供だましのアニメ電車もあって、山笠の見返しのアニメキャラと並んで、評判は散々だったが、それでもあの頃のどんたくはいかにも「祭り」っぽかった。
 今はただの「イベント」である。
 まだ走ってるのかな、「花自動車」。……そげなもん見とうもなかばい。

 夕方からまた雨がぱらついてくる。
 連休はずっと雨かもな。
 道端の電柱に結ばれていたとおぼしき映画『ONE PIECE』のポスターの紐が切れて下に落ちていた。元通りにしようと思って見てみたが、紐がもう途中で切れていて、どうにもならない。
 『ねじまき島の冒険』というサブタイトルが、今イチ尾田栄一郎らしくないように感じるが、予告編を見たかぎりではよく動いてはいる。
 よしひとさんは北九州でご覧になるのでしょうか。こちらに来られた時にご覧になるならご一緒してもいいですよ。こないだみたいに女房が寝過ごさない限りは(^_^;)。
 もっとも、3月3日公開とありますが、福岡のキャナルシティでは、多分、公開1週間で午前中のみの上映に切り換えられちゃうでしょうけど。

 帰宅すると珍しく女房が起きている。
 てっきり寝ていて、仕事に出かける直前に起きてくると思ったのに。
 自分とこのホームページを変更したので見てほしいという。なるほど、上のほうにバーを作って、すぐに別のコンテンツに移動できるようにしている。劇団のホームページと同じような形式にしているわけだな。
 実は私も自分のホームページをそのようにしたいと考えていたので、夫婦揃って似たようなデザインを好むものだなあと苦笑。
 でも他のホームページ覗いてみても、このバー形式、一番便利なように思うんだけどな。

 『テアトロ』3月号、如月小春の追悼記事。
 実を言うと、この人の脚本の舞台、まともに見たことがない。お恥ずかしい限りだが、私の「面白いもの探し」アンテナに引っかかってこなかったのだから仕方がないのだ。でもこのアンテナ、昔からちっとも当てにならず、「寺山修司は面白い」と気づき始めたのがやはりその死の直後からだったから、何をか言わんやである。
 特集では「都会の孤独」を描くことが彼女の戯曲の本質だったとある。私より10歳くらい年上の方であったが、多分、共感できるものは多くあったと思う。テレビで旧作が放映されれば見てみたいのだが、劇作家が死んでも映画監督や俳優のように追悼特集って殆どしないものなあ。劇作家の社会的認知度の低さを痛感してしまう。
 今号収録の坂手洋二の戯曲、『ピカドン、キジムナー』、広島と沖縄の戦争観の差異を通して、日本人が戦後培ってきた反戦意識の脆弱さを痛烈に批判していて面白いのだが、これは戯曲としての面白さなのか、題材の面白さなのか区別がつきにくいのが批評しにくい点である。
 「日本人は広島で被爆したのが日本人だけだと思っている」
 その錯覚はなかなか消えまい。なぜなら、そう思いこまないことには、今の日本人は「反戦日本」としての精神的基盤を形成することができなくなっているからだ。実際は「ノー・モア・ヒロシマ」ってスローガンも「リメンバー・パールハーバー」と全く同質の国粋主義的精神の産物に過ぎないってこと、いい加減みんな気がついてもいいように思うんだがな。
 そういった日本人の欺瞞を突いている点が面白いのだが、舞台でこのセリフをどう生の声として演出できるか。これはなかなかに難しいことなのである。

 『キネマ旬報』3月上旬号、漫然と読む。
 気になる記事もいくつかあるが、特筆するほどのことでもない。三谷幸喜、はしゃぎすぎ。『みんなのいえ』いかにも新作のように装っているが、『アパッチ砦の攻防』の初校の改訂版だってこと、わかってんだぞ。
 興行記録で、『ゴジラ×メガギラス』、興行収入が13億円、去年の『ミレニアム』が16億5千万円だから、ゴジラシリーズの最低記録をまた塗り替えちゃったわけである。よく「十億超えたらヒット」という言葉を聞くが、あれは「配給収入」のことであって、興行収入のほぼ半額である。
 ということは今回の配給収入は6億5千万、とてもヒットとは言えない。
 『ゴジメガ』を擁護する意見は結構見られたが、作品自体に力がなかったことを東宝スタッフは認めるべきではないか。
 次作の監督は金子修介という噂もあるが、あまり期待しすぎない方がいいように思うのである。頭が固くプライドだけが高い東宝スタッフが、外様大名の金子さんを優遇するようには思えぬからだ。
 『ゴジミレ』や『ゴジメガ』がなんぼかマシな出来になったのは『ガメラ』スタッフも多く参加してくれたおかげだと思うんだけどねえ。 

 CLAMP『ちょびっツ』1巻、ついにクランプもエロマンガに参入(^o^)。
 しかしロリコン男のツボを見事に突いてるよなあ。私ゃ女性の一群がこれを描いてる、描けてるって事実が結構怖い。自分たちの「武器」がなんであるかしっかり知ってて、男たちを弄ぶ術がわかってるってことだもんなあ。
 すべからく男はロリコンである(もともとの意味ではなく、美少女が好き、程度の意味ね)。これを否定する男はかえって精神的に去勢されていると見ていい。女性の「かわいさ」は一種の記号なのであるから、それに反応しないというのは「男でない」ということと同義なのである。
 実際、本作に登場する美女、美少女たちは、みな「同じ顔」をしており、しかもみな「巨乳」である。……あまりに記号的過ぎて、これにハマってしまう男どもが哀れでならない……って私もそうか(-_-;)。
 ま、そういう絵柄的な面を別にして、本作が突出してヘンタイ的なのは、「パソコンが女性型をしている」というその一点に尽きるであろう。
 ……作者たちが男をどれだけコケにしてるかがよくわかる。そして男はその通り、みんな大バカなのである。
 でもこの『ちょびっツ』って名前、どういうとこから思いついたのかな。鳥山明というよりはトールキンの「ホビット」に「C」を付けたんじゃないかって気もするが。

 



 先日から、少しは部屋を片付けようと思って、積み重ねている本の山に分け入っているのだが、読みかけたまま積ん読状態になっている本を見つけてはつい読み耽ってしまうので、一向に片付く気配がない。よくある話である。
 思わぬところから十年前の日記を発見し、自分の善人ぶりっ子の発言に苦笑したりもする。やたらあちこちに「反省」の言葉が出てくるのね。今の日記とは大違いである(^_^;)。
 人間は結局ウソしかつけない。日記と言ったところで、そこにはやはり対外的な相手を想定した「ポーズ」が生じてしまう。20代の私は傲慢な人間を嫌うあまり、自分を謙虚に見せかけようとしていたのだ。
 今や私は自分が最も嫌っていたはずの傲慢野郎と成り果てた。しかし、結局世間には権威を欲し他人を支配したがる類の人間の方が多いのだ。傲慢には傲慢で対抗せざるを得ない。
 ま、そう言いながら別に周囲と喧嘩ばかりしてるわけじゃないけどね。

 更に小学校の頃始めて描いたマンガなんてのも出て来たぞ。
 『怪人20そーめん』。
 そーめんを二十杯食うと元気が出る怪人である。……バカだなあ。

 よしひと嬢が三年前に描いた『ジャスティス学園』のパロ本も見つけた。
 いやあ、顔より腕の筋肉の方が太い(^o^)。あ、これは悪口ではなくて、よしひと嬢の好みが自然とその絵に現れているということなのである。最近見せてもらったマンガは『ワンピース』の影響が健著であったが、未だに進化し続けているというのは自信に思っていいことだと思うんである。
 要は、なんか最近引退するようなこと言ってたので、そんなこと言わずにもっと描いてよって言いたいのでした。

 のどの治りが遅いので、女房がここしばらく毎日のように「鼻のど爽快のむゼリー」と言うのを買って来てくれる。
 「緑茶ポリフェノールとミントで鼻、のどすっきり」と書いてあるが、飲んだ味は全く「モンダミン」。……これはあれだな、モンダミンをクチュクチュやってたやつが、「ああ、こいつをこのまま飲み込めたらなあ」なんて思って開発したに違いないな(^o^)。でもミントってノドに効くもんだったのかね。
 でも実際に少しはのどが潤った気になるから不思議なものである。、

 女房がダン・エイクロイドの超激烈熱狂的大ファンであることは周知の事実であるが、ホームページに載っけるから、ダンのイラストを描いてくれと頼まれる。
 女房個人のホームページなのだから、自分で描けばいいのだが、いかんせん、女房は幼稚園児にも劣る画力の持ち主である。
 私だってそう絵がうまいわけでもないのだが、女房よりははるかにマシなので、命じられるままに何点か描く。やっぱり後になって描くほうが最初のよりもうまい。こういうのはヘタにダンに似せようとすると味がなくなるから、自分の絵柄で描いた方がいいのですね。
 出来の方は女房のホームページの掲示板を見てください。ご不満がありましたらまた描きなおします。
 ……なんだかんだ言って、絵を描くの好きなんだな、私。そのうちまたスケッチ旅行にも行こう。やっぱり私は「濡れ鼠さん」か。


2001年02月22日(木) 霧の摩周湖(行ったことない)/『スレイヤーズすぺしゃる』2巻(神坂一・トミイ大塚)ほか

 福岡市全域を霧が覆う。
 先月の大雪といい、滅多にないことが起こるもんだ。一昨年だったら世紀末の到来かと騒げるところだが(騒がなくったって世紀末なんだが)、タイミングを外した感じである。次は地震か?
 玄関のドアを開けた途端、部屋の中にまでうっすらと霧が入りこんでくる。女房は喜び駆け回る犬のように飛び出してきて、「霧、霧!」と興奮している。珍しいものを見ると騒がなければ気がすまないのだなあ。
 しかし現実にほんの数メートル先の地面が全く見えないのである。ここまで霧が深いと、車の横を通りぬけて行かねばならぬ山道は危険である。今日で風邪ひき1週間、少しも治る気配が無いこともあり、職場にはタクシーで行く。……また無駄な金を使ってしまった(T_T)。
 天気予報だと明日も雨。休日の雨は窓越しにのんびり外を眺めながら雨粒の数を数えていると楽しいのだが(そんなフレーズの歌謡曲があったような気がするが忘れた)、平日はいやでも濡れ鼠になる。……港町の洋食屋さんにでも行こうかな(←『愚者の代弁者、西へ』参照)。

 仕事帰りに某駅を通りかかると、学生が待合で堂々とタバコをふかしている。
 私は別にモラリストでもなければ正義感でもないが、あまり堂々としていたので、つい「君、学生?」と声をかけてしまった。学生服を着てるんだから学生なのは一目瞭然なのだが、こういう場合、どう声をかければいいのか私も要領がわからなかったのである。
 「からだに悪いから煙草は止めなさい」
 我ながらマヌケな声かけである。これでハイと素直に聞くようなら、警察も更生施設もふんどし先生もいりゃしない。案の定、
 「余計なお世話だ」
 と睨まれる。
 「誰にも迷惑かけてるわけじゃない」
 そう言って煙を私に吐きつける。
 「お父さんやお母さんは何も言わないのかね」
 「言わない」
 何も叱らないってことはあるまい、言い逃れだろう、と思いはしたが、反論する根拠はない。
 「でも、君を心配してる人はどこかにいると思うよ」
 いないから平気で煙草を吸えるんだろうが、それも言わずもがなである。
 ちょうどそのとき、背後の道路に車が停まった。
 学生は煙草を灰皿で消して立ち上がり、車に乗りこんで行く。運転席を見ると母親らしき姿。
 呆気に取られた。親が煙草を黙認してるというのは本当だったのだ。そしてこの親子、多分仲はよくない。子供が乗り込んで行ったのが後部座席だったからだ。
 世の中が真面目人間ばかりだと窮屈だ。親や教師の目を盗んで煙草を吸う「わるそう」がいても別に構わない。
 私が寂しくなったのは、彼が多分、自分自身が孤独であることを知らないからである。

 神坂一・トミイ大塚『スレイヤーズすぺしゃる』2巻、原作小説をまんまマンガ化したものだが、意外に拾い物。原作が短編だとは言え、それを1話14〜24ページの制限の中に収めることは結構大変なはずだ。それがダイジェストされた印象もなく、凝縮されたテンポの、畳み掛けるようなギャグの連続で、読む者を飽きさせない。
 原作の方も好きだったが、リナのニセモノが出る話、マンガは更にナーガのニセモノまで用意してパワー三倍アップ(^_^;)。いやあ、これが実に凶悪なデザインでしてねえ。あのナーガが涙を流したのもわかろうというもの。『スレイヤーズ』ファンなら抱腹絶倒間違いなしのマンガ版でありました。

 




 山上正月『ルパン三世Y』9巻、新シリーズも9巻目、人気も衰えていないようだし、この分だと原作旧シリーズの巻数を追い越すことも可能かもしれない。
 原作の設定よりアニメの設定に近い分、ルパンと不二子以外のキャラが弱いのを気にしてか、今巻は冒頭から銭形警部にスポットを当てている。もうお馴染みのキャラだから、ということで描写に手を抜けばたちまち面白さは半減するので、サブキャラを主役に据えることは悪くはないのだが、銭形をアニメ同様の「善人」にしたてているのはやはり気になる。
 原作旧シリーズの銭形は、ルパンという「悪」に対抗する関係上、それなりに「悪」の要素を持っていたのである。ルパン逮捕のためには味方をも見殺しにする冷酷さや、敵の弱みにつけこむ卑怯さもあった。原作ルパンはやはりピカレスク・ロマンとしての魅力が強かったのである。
 それを骨抜きの「よいこのおいかけっこ」にしてしまったのはやはりエコじじい宮崎(^_^;)の罪である。マンガ版はあくまで原作の続編として描かれるべきではなかったか。アニメも毎年やってるんだから。

 吉田秋生コレクション『悪魔と姫ぎみ』、これが昔アニメ化されたことがあって、しかも主役の姫ぎみの声を木の葉のこがアテていて、しかもそれが抜群に面白かったなんてこと知ってる人、もう少ないんだろうなあ。表紙に『BANANA FISH』の吉田秋生、と紹介してあるのはある意味サギである(^_^;)。だって収録作が殆どギャグ。私なんぞはこの人の本領はギャグにあると思っているので、『BANANA』も『YASHA』も今イチ乗れないのである。
 だいたいお城の名前が「あしたの城(ジョー)」で、そこの王様が「王貞治」なんてどーしょーもないセンス、『吉祥天女』以降の吉田秋生しか知らない方々、信じられますか? みなさんの好きなスタイリッシュでハードな吉田秋生はバカマンガも数多く描いているのですよ。
 残念ながらアニメでは「王貞治」は肖像権の関係なのか、フツーの王様になっちゃってたけど。うーん、惜しい。
 ちなみにそのときの併映は竹宮恵子の『夏への扉』。いやもう、思いきり耽美。今だったらヤオイ少女が殺到してるとこだな(^_^;)。脚本が辻真先ってのがまたギャップが激しくってすごかった。上映会にはご本人も来られてて、「ここんとこアニメの仕事が少なかったので嬉しいです」と言ってたのが笑えた。実際、これ以降、辻真先は、殆どアニメの脚本を書かなくなるのである。
 
 女房は今日も午後6時半にバイトへ。バイトの契約自体は9時からのはずだが、講習があるので毎日早出なのである。
 「いらっしゃいませえ」とか「ありがとうございましたあ」とか、接客マニュアルを覚えるのなんて、大した手間がかからないように見えて、やはり一日二日では終わらぬものらしい。
 出がけに少しは栄養つけておけばと思い、イチゴを牛乳につけて渡すが、一口食べただけで「酸っぱい」と言って食べない。
 「コンデンスミルクじゃ甘すぎるから牛乳がいいって言ってたじゃないか」
 「でも酸っぱいもん」
 コンデンスミルクを渡すと、
 「練乳の味だ!」
 と言ってペロリと食べる。最近、少しは大人の舌になって来たかと思っていたが、やはり女房は甘党である。
 ……そう言えばC‐1藤田くんのために取っておいたバレンタインのチョコも、全然遊びに来ないので食べてたな(藤田君、義理チョコ1個損したぞ)。

 夜、父から電話。
 今度、病院を替わる件での連絡である。明後日の土曜、早速新しい病院に予約の連絡を入れておいたとのこと。こっちの都合を何も聞かずに勝手にどんどん進めてくれることだ。私のカラダが空いてなかったらどうするつもりだったんだろうか。
 丁度そのとき、玄関のインタフォンが鳴ったので、詳しいことは明後日話すことにして、電話を切る。
 客は郵便配達であった。残念ながら二度ベルを鳴らす前に受話器を取ってしまった(^o^)。でもいちいち二度ベルを鳴らすのを待つのもバカだし。
 郵便物は女房宛ての書留で、○○銀行のカードである。今度のバイト先はそこでなければ給料を振り込まないものらしい。
 帰宅して女房、封筒を開けると新品のカードの反射をニコニコしながら楽しんでいる。やっぱり、ヒカリモノには弱いのだなあ。


2001年02月21日(水) 買い物ブギ/『ブギーポップは笑わない』第1巻(緒方剛志)ほか

 朝から雲行きが怪しい。天気予報では昼から雨。
 体調も一向によくなる気配もなく、咳もクシャミも一度出始めると止まらない。この状態で雨に濡れるのは自殺行為だと思って職場へはタクシーで行こうと思い、サイフの中を見る。
 するとどうしたことでしょう。まほうにでもかかってしまったのか、おさいふには「せんえんさつ」がいちまいしかありません。これはいったいどうしたことでしょう。きっと、いやらしいことにおかねをつかいこんでしまったのにちがいありません。よいこのみんなは、こんなだらしないおとなになってはいけませんよ。
 「おーい、女房(こんなふうに呼んだりゃしないが)、せんえん貸しちくれい」
 「なんで」
 「具合が悪いんでたくしーに乗って行きたい」
 「つまり、私はアンタのたくしー代のために、昼飯を何も食わずにガマンしてなきゃいけないってわけだね?」
 「そんなこと言ったって、とても自転車漕ぐエネルギーはないよ」
 「いつ返すん」
 「今晩には銀行に行くよ」
 女房はしぶしぶ、ムスメを女郎屋に売る時の親父のようにせつない顔で、せんえんを私に差し出すのであった。札の一枚一枚に名前をつけていたとしても、こいつなら有り得ると納得しちゃいそうだ。

 帰りはバスと地下鉄を乗り継ぎ。昼飯を食い損なっていたので、「ローソン」でかきあげニギリを買って食う。コンビニの三角ニギリも種類が増えたが、かきあげなんていかにも食いにくそうなものまで海苔に巻いて食べさせようってのは、お握り会社(ってそんなもんあるのか)の商魂を感じさせることではある。

 帰宅すると間もなく女房起きてくる。今までも昼寝ばかりしてるやつだったが、今や私が出かけるころに寝入って、帰宅する頃に目覚めるのが日常になってしまった。完全に私と生活が逆だなあ。

 女房がバイトに出かけるまで時間があるので、銀行を回って買い物。
 のどはまだ痛いが、しばらく外に出ていなかったので、いろいろと買いたいものが溜まっているのだ。まずは馴染みの某本屋に寄る。
 女房、今市子の『百鬼夜行抄』の新刊を探すがない。多分売りきれたのだ。東京での発売日が20日だから、九州くんだりじゃあ、まだ入荷すらされてないんじゃないかと思われる向きもあるかもしれないが、この本屋は、博多駅や天神の大手本屋ですら一日二日遅れて入荷なのが当たり前なのに、キッチリ発売日、時には発売日より早く本が出ているのである。
 なにしろ福岡じゃ少年ジャンプはどこでも火曜日発売なのに、この店だけは月曜から店頭に並んでいる。昔から何か特別なルートでもあるんじゃないかと疑っているのだが、未だにちゃんと聞いたことがない。でも聞かない方がいいかなという気もしている。こういう秘密めいたことには触れないでいた方がいい、というのも一つの知恵だと思うからである。
 『百鬼』は休日になったら博多駅や天神を回って探してみよう。『サイボーグじいちゃんG』の2巻もまだ手に入れてないし。

 通り道に新しく出来た、来週オープンする予定のカラオケ店、外観がレンガのお城風で、ちょっと見た感じがラブホテル。オープン記念で1時間タダだそうだが、何となく入るのが気恥ずかしい気がするのは私の自意識過剰だろうか。
 でも以前何かの工場だったような場所なので面積は広い。近所にセガカラ入れてるカラオケ屋がないので、あるといいなあ。

 文房具屋を回って、カシオのネームランドのラベルテープを買う。ビデオテープのラベルが作れるというものだが、凝り性(別名偏執狂)の私はラベルの背に題名だけでなく映画のスタッフ・キャスト、製作年からあらすじに至るまで書きこむので、一本作るのにえらく手間がかかるのである。私は自分のことをさして濃いオタクだとは思っていないのだが(面倒臭がりだし)、ちまちまラベルを作ったりしていると、ああ、やっぱりもしかして……と思ったりもするのである。

 そのあとダイエーで食料を買いこんで帰宅。時間は六時半で、女房はもう仕事に行かねばならない時間。
 「帰りは何時?」と聞くと、
 「いつもとおんなじ」と答える。
 いつもも何も、私ゃまだ何時から何時まで働くのかすら聞いてないぞ。隠して何か意味があるのか。こういう無意味な秘密主義のある女は、ミステリではたいてい真っ先に殺されるのである。つまり「殺しても痛痒を感じぬやつ」と一般的にみなされているということだ。
 世の女性諸君にも、ご自戒頂きたい。女房はもう手遅れだけど。

 緒方剛志『ブギーポップは笑わない』1巻。
 上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ第一作の、小説のイラストレーター自身による、ほぼ忠実なマンガ化である。「ほぼ」と言ったのは、表現媒体が違うゆえの簡略化、構成の変更を差すので、設定そのものに変更が加えられたわけではない。ただ、丹念に見ていくと、既にエコーズと出会ったばかりのブギーポップのマントの中に宇宙が見えていたり(^_^;)、緒方さんの趣味の設定は随所に出てくる。
 緒方さんのイラストの雰囲気は好きなんだが、マンガが本職というわけでもなさそうなので、どうもコマ割りがぎこちない。小説のセリフをマンガに移し替える作業が困難なのは解るが、コマごとのセリフの配分がうまくないので読みづらいのである。しかもキャラクターの描き分けがヘタ……(-_-;)。
 でもまあ、今回マンガ版を読んだことで、ブギーポップのキャラクターの中で一番好きなのが末真和子だと言うことに気づいたのは収穫だったか(^o^)。
 「『八つ墓村』のモデルになった事件は?」
 「津山三十人殺し」
 ……これをサッと答えられる女の子っていいよな。よく解らん人は松本清張の『ミステリーの系譜』を読もう。日本の土俗を知る上でもこれは貴重な事件なのであります。
 小説の新刊第十作も既に出ている由。題して『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』。こりゃなんとしても休日までにカラダ治して買いにいかにゃあ。

 で、他の買って読んだ本の感想は明日書くよん。




 椎名高志『MISTER ジパング』3巻。
 椎名さんのマンガ自体は嫌いではないのだが、キャラクターの作りこみ方が前作の『GS美神』の延長線上にあるものでしかなく、これじゃ戦国ものにした意味があまりないなあ、と思っていたが、どうやら今巻あたりからタイムパラドックスものに仕立て直すようで、少し面白くなってきた。
 でもこの人は基本的に短編作家だと思うので、『椎名百貨店』のような形式のものも月刊あたりで描いていってほしいと思うのである。

 天樹征丸・さとうふみや『金田一少年の事件簿Case7 金田一少年の決死行(上・下)』。
 第一期完結か。二期は要らんが。完結編のワリにストーリー、プロット、トリック全て陳腐。
 一応礼儀としてトリックその他は明かさんが、乱歩の少年ものの拙劣なパクリである。読んでて「まさか……で、……で、こんな展開になって、……が真犯人で、更に……するんじゃあるまいな」と思っていたら全て的中。で、これは良心的なミステリ作家なら、まず恥ずかしくてやれないネタである。
 この作品が現在のミステリブームの一翼を担ったことは事実なので、あまり悪口を言いたくはないのだが、マガジン編集部に、あるいは講談社内に。まともなミステリファンはいなかったのか。せめて「良心的な作品を作る」くらいの配慮を促す人間がいてくれたらここまでひどい作品にならずにすんだと思うんだが。

 女房が突然殺虫剤を天井に向かって吹きつけ始める。
 「なんだ、ゴキブリか?」
 虫らしきものは見えるが、目が悪いのでゴキブリかどうかはわからない。虫嫌いの女房は鬼のように殺虫剤を散布している。たちまち部屋が甘い匂いで満たされる。……人間の方が死ぬぞ(-_-;)。
 虫はしばらく天井の隅をカサカサ這っていたが、やがてポトッと落ちた。ちょうどパソコンの裏あたりだ。女房、虫がどこにいるか覗き込もうとするが暗くてよく見えないらしい。
 「そのうちどこかから出てくるだろ」
 そう言い放って私はのんびりパソコンに向かう。
 その途端、
 「ひいいいいいいいいい!!」
 思わず私も悲鳴をあげる。もちろん、女房の悲鳴に驚いてである。
 ……だから、その「楳図かずお悲鳴」は止めてくれってば。
 ちょうど女房が座った椅子の足元で小さなゴキブリ(間近でよく見ると2センチもない)が足をピクピクさせて死にかけていたのだ。私がティッシュでつぶして捨てたが、こんなもんの何が怖いのだ。
 こういう女房の弱虫ぷりっこはどうにも虫が好かない。……あ、シャレちゃった。


2001年02月20日(火) 女房の家出/『× ―ペケ―』1〜3巻(新井理恵)ほか

 風邪引き五日目。鼻水もダダ漏れ状態。
 夜中、眠りながら咳を連発(我ながら器用)。心配したのか女房がノド飴を投げつけるがそのせいで目が覚める。……感謝すべきなのかな。
 ゆっくり休んでも風邪が治らんと言うのはウィルスの方に根性があるのだろう。世間でもずいぶん風邪ばやりの模様。具合が悪い時は無理せず養生した方がいいと思うんだがこの国はワーカホリックな人で成り立ってるからなあ。
 と言いつつ私もこれ以上仕事を休めんのだ。やれやれ。

 女房が劇団のHPの日記に「夫婦ゲンカして別居」と書きこみ。昨日の口げんかで負けたのがよっぽど癪に障ってるらしい。読んだ人は、別居なんて女房得意の冗談だろう、と笑ってご覧になってるかもしれないが、女房はこういうことで冗談を言う人間ではない。これは<本気>である。
 帰宅すると玄関の鍵が開けっ放しである。当然部屋の中にいるものだと思って覗いてみるが、家の中のどこにも女房の姿が見えない。鍵は棚の上に置いてあった。
 パソコンの前のテーブルに、ぽつんと一つ、ラーメンが乗っている。まだ温かいので外に出て行って時間は経っていないようだ。
 私への晩飯のつもりだろうか。でも私の帰りをラーメンだけが待っていたというのはなかなかシュールな光景だ。
 醤油の薄味で私の好みである。
 今まで私の好みの味を出してくれたことなんてなかったのになあ。

 誤解する人がいるといけないので、念のために書いておくが、女房は家出したのではなく仕事に出かけて行ったのである。こちらも女房の演技に合わせて女房に見捨てられた夫を演じてみてもいいのだが、結果として女房が帰って来ることが解ってる以上、ノロケにしかならんので早々にネタバレさせておこう。
 「冗談じゃない」と書いたではないか、と文句をつける方もいようが、ウソではない。女房はいつでも本気である。ただ実行が伴わないだけだ。
 どうもお粗末さまでした。

 新井理恵『× ―ペケ―』1〜3巻読む。
 ウサギにしか見えない転校生ってネタ、なんか別のマンガでも見たような気がするなあ。玖保キリコの『ちょべりぶ』はブタだったけど、他にもあったような気がするのに思い出せん。それはそれとして、このマンガのアオリは「シュールマンガ」ってことらしいけど、なんだかキクニやアイハラがやってたツッコミギャグをそのまんま少女マンガでやってるって感じがするだけで、特にシュールだとは思えんのだがなあ。つきあってる男にやたらつれなくする女のネタは面白かったけど。
 女房がいつの間にか買ってたものだが、本当にどこでどうこんな本を探してくるんだか。作者と女房、誕生日が1日違いなので親近感持ってるのかも。
 
 『仮面ライダーアギト』3・4話見る。
 初めて主人公が「変身!」と叫ぶが、記憶喪失のクセにどうやったら変身できるのかは知ってるのだな(^o^)。
 役者が全員どヘタクソ揃い(升毅さんは好きだけど)というのは『クウガ』からの引継ぎだから仕方ないとしても(本当は仕方なかねーけどな)、大学の自主製作映画なみの編集しか出来んのはなんとかならんか。場面と場面がスムーズにうまくつながらないのである。
 ヒロインの真魚役の秋山莉奈って子、17歳という設定なのに実年齢は15歳でまだ中学生なのだな。……とてもそうは見えんぞ。最近の子供は成長が早いな。

 女房、0:00に帰宅。服がタバコ臭い。お店仕事をしているのだなあ。
 「ラーメン、汁吸ってなかった?」
 「そうでもなかったよ、麺は延びてたけど」
 「じゃあ、結構早く帰ってきたんだ」
 ……私の帰りの時間を気にするようでは、まだまだ女房に別居は無理だな。


2001年02月19日(月) 語源の楽しみ/ミステリチャンネル『ポワロと私』ほか

 風邪引いて四日目だってのに咳がやっぱり止まらない。
 パソコンにばっかり向かってるからだという天の声は無視して病気を押して仕事。咳どころかクシャミ、鼻水、目眩が怒涛のごとく押し寄せてくる。よく「気の病じゃないか」と言われるが気の病でクシャミが出るかい。

 雑誌『言語』3月号、語源特集である。
 思わぬ語源が紹介されるものも面白いが、「まことしやかな語源」、つまりは後世の人が適当にこじつけた語源の紹介などもあって、これが特に面白い。
 大槻文彦は『言海』で「猫」の語源を「寝高麗」とし韓国渡来のものだからだと言う。じゃあ上の「寝」ってのは何なんだ。他にも「寝子」とか「如虎(にょこ)」とかの説も紹介されてるが、「にょこ」なんてどう考えたって無理があるよなあ。
 最高なのはあの『養生訓』で有名な福岡の誇り、貝原益軒の『日本釈名』。
 「夏」……「暑(あつ)」がなまったもの。夏は暑いから。
 「水」……「出(いず)」がなまったもの。水は土の中から出てくるから。
 「柿」……「赤き(あかき)」がなまったもの。柿は実も葉も赤いから。
 「猫」……「ね」はネズミ、「こ」は好む(このむ)。鼠を好むから。
 最後のなんかただのクイズだ。益軒ってバカだったのだな(^o^)。未だに『養生訓』を参考にして「何回ヤルのが……」なんて言ってるやつ、頭冷やしたほうがいいぞ。
 地名の語源で笑ったのは、岐阜県武儀郡武儀町にある「平成」という地名。
 これ、その土地では「へなり」と呼び、「お墓」のことだそうな。道理でこの平成の世は……なんて言ったら不謹慎か。この辺の知識は唐沢俊一さんの一行知識に書きこんだらおもしろそうだが、もう既に誰かが書いてるかな。
 オタク向けで嬉しい語源紹介があったのは「オッハー」。
 ちゃんと、「慎吾ママがテレビで広めたが、山寺宏一が『おはスタ』で言ってたのを香取慎吾が借用した」としっかり書いてくれている。言語学の専門雑誌のお墨付きだあ! たとえ千年後、「オッハー」の語源が世間から忘れられても、資料としてしっかり残ったのである。ううむ、まさか言語学史に「山寺宏一」の名が残ることになろうとは……。感無量。
 他にも面白い話がゴマンとあるがとても紹介しきれぬのでカット。興味ある人は890円なので買ってみよう。

 仕事から帰宅するなり、女房と口論。
 今月、家計に足が出たので責任のなすりあいになったのである。出ちゃったものはしようがないのでなんとかやりくりするしかないのだが、二人とも頭に血が上っているので、なかなか「じゃあどうしようか」という建設的な話にならない。
 たいてい夫婦ゲンカというものは元々の原因から離れて関係ない話に派生してしまうものであるが、気がついたら女房は私を「芸なし」と罵倒するし、私は私で女房を「寄生虫」呼ばわりする。何だかお互いに相手のイタイところばかりついてるよなあ。遠慮がないというか、ホントによく夫婦やってられるなあという感じだが、ベタなギャグマンガじゃないが、気がつくとこの二人、数時間後には「もう、アナタったら」「君こそ、ウフフ」なんてことになってるのである。って私たち自身のことだが(^_^;)。
 犬をも食わないなんとやらでした。

 女房が「デビッド・スーシェが素顔で出てるよ!」と教えてくれたので、CSミステリチャンネルで『ヒッコリー・ロードの殺人』に続いて『ポワロと私』見る。
 スーシェがポワロの役作りについてインタビューに答えたもの。なるほど、ヒゲなしの彼はポワロの時のユーモラスな感じがなく、毅然とした名優、という雰囲気。どちらかと言うと素顔のイメージは以前演じていたジャップ警部のほうが似合っている。
 インタビューの内容自体は、概ね『名探偵ポワロ』のムックに書かれていた話題。それでも役者が原作を相当読みこみ、ヒゲの形から歩き方、喋り方に至るまで研究に研究を尽くしているプロフェッショナルぶりには再度感嘆。ベルギー語とフランス語の中間のアクセント、なんて日本人には解らんものなあ。吹替え名優、熊倉一雄にだってこれは無理だ。
 吹替えもものによっては好きなのだが、やはり私はどちらかと言えば字幕スーパー派なのだ。

 晩飯はレトルトの野菜かぼちゃカレー。いくら甘いよと言っても、女房信用せずに一口も味見をしない。レトルトのわりにこれはカボチャの自然な甘さがとろりと口の中で広がって、結構イケてたのになあ。


2001年02月18日(日) HPの原稿はまだ1/10程度です/ドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』第1話ほか

 朝起きてテレビをつけたら『ガオレンジャー』が始まっている。戦隊ものを熱心に見たことはないのだが(というか、戦隊もののせいで特撮番組から一時離れた)、ちょうど第1回だったので見てみる。
 で、20年前『ゴレンジャー』を初めて見たときと感想が全く同じ(^_^;)。特撮版の『ガッチャマン』というか、ルーツをたどれば『忍者部隊月光』あたりか、いや、近年の戦隊キャラクターは明確な描きわけが出来てないことが多いので、『ゴレンジャー』ほどにも楽しめない。
 一人だけ遅れて入ってきた新参者が、初めこそ疎外されるけれど、最後にはみんなで力を合わせなければ敵は倒せないんだって気づくパターン、戦後民主主義というより社会主義革命思想の残り香がぷんぷんしてて、子供向け番組とはいえ鼻につくんだよな。『太陽の王子ホルスの大冒険』も今見るとその辺だけ浮いて見える。
 この戦隊もののファン層ってのが私にはよく分らないのだ。予定調和だけで成り立ったテキトーな脚本、爆発だけの特撮演出、カット割りの斬新さは一応評価出来るものの、それも二番煎じ三番煎じとなれば飽きが来る。子供の頃から『ウルトラシリーズ』ほか、数ある特撮番組の洗礼を受けてきた身からすれば、戦隊シリーズって決して特撮ものの中心じゃない。なのに若い人と話すと、特撮と言えば戦隊もの、といったような認識に出会うことが多いのだ。ウチの劇団でどんな芝居やりたいかって聞いたときに、「戦隊もの」って答えたやついたんだよな。いったい、どこにどんな魅力を感じているのかなあ。
 戦隊ものに比べれば『仮面ライダーアギト』、旧ライダーシリーズとは二色も三色も毛色が違うが、石森章太郎テイストを新しい時代に引き継ごう、という意思が見られてまだ好感度が高い。
 ビデオ画像になってしまったことは大きなマイナス要因だが、ビスタサイズで映像としての「広さ」を出そうという試みは、万事に保守的な今のテレビ界では充分野心的だろう。……と言いながらまだビデオ録画した1・2話しか見てないんだが。
 どうやら『クウガ』のストレートな続編らしいのだが、前作をあまり丹念に見てなかったので、世界観が今イチ掴めない。敵はどの程度の規模を持っているのか、古代文明の復活を目論んでいるのか。秘密を握ってる人間を殺していくのはいいんだが、いちいち木の中に埋めるのに何の意味があるのか。証拠を残しちゃ秘密を隠したことにはならんのじゃないのか。
 戦隊もののように敵味方がハッキリし過ぎてるのもつまらないが、謎また謎で引いて行くのにも限度があるように思う。
 『も〜っとおジャ魔女どれみ』、カルチャーギャップ編は今週で終わり。何だか「ここはニッポンなのよ」というセリフがやたらと頻出していて耳障りだったが、ももこっちもピアスを付けることを許可されてよかったよかった。つまらん規則は閉鎖的な空間を作りだし、いじめを助長するだけだと思うんだが。日本の学校では教師が楽することしか考えてないから管理的な規則が減らないんだよな。

 今日もホームページの原稿をパコパコ作る。
 女房、夕べのうちに原稿を手伝ってくれてた模様。自分の視点だけではうまくいかないところがあって、一部ちょっと依頼してたんだが、早速やってくれたのだ。感謝。
 おかげでそれなりに捗ったのだが、やればやるほどやりたいことがどんどこ出てきて、果たして収拾がつくのやら見当もつかない。三月までにはと思っていたが、ことによると四月くらいまでかかるかもしれない。

 気分転換にCSで1982年製作の『二人の武蔵』見る。江守徹と藤岡弘が二人の武蔵役。うーん、ほんのちょっと前のような気がしていたがやっぱり若いなあ。ヒロインの秋野陽子も喋らなきゃ美人だ。佐々木小次郎がなんと東千代之介! 若侍をイメージしている人には悪いが、史実の小次郎は老人だったらしいしこれはこれで貫禄があってよし。
 五味康祐の短編が原作だが、中身を忘れているので原作との異同がよく分らない。でも佐々木小次郎の出番はあんなに多くなかったと思う。
 何しろ、二人の武蔵が対決しようとするたびにどこからともなく現れて、「死ぬには惜しい、二人とも引けい」と邪魔をするのである。そりゃ、二人を簡単に戦わせられないというのはわかるが、かえってドラマの腰を折る、というよりバカバカしくって笑われるような脚本、誰が書いたかというと『弟切草』の長坂秀佳。私はこの人の作品で出来のいいものに当たったことがないんだが、逆にそのおかげで生き残ってるのかも知れんな。次にどんなバカやってくれるかという興味で。

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 女房がCSの『御家人斬九郎』にハマって、夕方からテレビにかじりついている。7:50から1:20までの一挙放送だから、おかげで他の番組が全く見られない。せめてニュースくらいは見たいんだけどな。
 CMが全くないので、「トイレにも行けん」と女房、腰をもじもじ捻っている。行けよバカタレ(-_-;)。
 「食事は作んないの?」
 「斬九郎見てるからダメ」
 ……これで家事やらない言い訳が成り立つと思ってるあたり、いい度胸してるよな。
 「あ、この話は見てるやつだ」
 「じゃあ、その間に食事……」
 「この間におフロはいろっと」
 だから俺病人なんだよう、少しは世話してくれよう(T_T)。

 夕方、ロデムさんから電話。芝居のシノプシスの検討がどうなったか、という問い合わせ。結局、相談が来週に持ち越されたことを話す。ウチのメンバーはともかくオタク揃いだから、生半可な脚本ではなかなかゴーサインを出してくれないのである。もし出来るなら、相談の場にご参加願えないかとロデムさんに持ちかける。メンバーをやる気にさせるには、本人が思いの丈を語るのが一番いいからだ。でもバイトで忙しそうだしちょっと予定が立たないかも。
 次は私も(体調がよければ)参加しようかな。シノプシス書く時間があまり取れないし、ある程度口で補足説明したほうがいいかもしれない。

 久しぶりにプレステでゲームをしながら寝る。だから病人は大人しく寝てろってば。
 『いただきストリート』、なんの拍子か今までセーブしていたデータが全てすっ飛んでまっサラになってしまったのだ。ううう、復活の呪文が効けばいいのに(T_T)。 


2001年02月17日(土) ゴミ箱はティッシュの山……鼻水で/『2001年映画の旅』(小林信彦)

 ホームページのための原稿をシコシコと書く。
 自己紹介みたいなものを書いているのだが、何分商売を明かせないので、どうしても隔靴掻痒の文章になってしまう。
 でもどこの日記を覗いても、プロの作家さん以外には名前明かしてる人いないしなあ。やはりイタズラやイヤガラセを怖がっているのだろうな。
 仕方なく好きな映画や本のベストテンなんかを作ったりして、少しは私の人となりが解るようにしてみる。
 このあたりはまだ楽な方なのだ。好きな映画や本について資料を集め始めたら、多分この程度ではすまない。土日は殆ど原稿書きでつぶれることになるであろう。
……自殺行為だな。

 ほかの人たちがどんな日記を書いているのか参考に、といくつかのホームページなどを適当に覗いてみる。音楽の流れてくる日記あり、タグ使いまくって色鮮やかなページあり、バラエティーに富んでることよ。まだまだ「見せ所」の少ない日記だなあ、と反省。

 小林信彦『2001年映画の旅』読む。
 どうせ文庫になると分っていてなぜ単行本で買うか。昔ほど熱心に小林信彦を追いかけているわけではないが、映画についてのエッセイと聞くとつい手元に置きたくなっちゃうのよ。
 作者の選ぶ洋邦画ベスト100、十年前ならいざ知らず、今ではたいていのものがレンタルか衛星放送で見られるのだ。映画ファンたるもの「あ、その映画見てなくて」は即、勉強不足の烙印を押されてしまいかねない。いい時代になったのか悪い時代になったのか。……で、数えてみたら洋画で20本と少し、邦画は40本ほどしか見ていない。勉強不足だなあ。
 でも『マダムと女房』(日本最初のトーキー映画)なんて、レンタル屋にだって置いちゃいねえぞ。どうやったら見られるんだよう。

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 女房、今日から仕事で、夕方から出かける。何かドジをしないかとヒヤヒヤものだが既に小娘ではないのだから、妙な口出しはすまいと、とっとこ送り出す。
 「帰って来る時、ポストに新聞溜まってるだろうから、取ってきて」
 「うん、わかった」
 と言って出て行ったのに、ものの数分もたたぬうちに女房、帰って来る。
 「どうした?」
 「自転車の鍵忘れた」
 「ついでに新聞取ってきてくれりゃいいのに」
 「あ、忘れた」
 再び出かけるが、仕事から帰って来たときにはもう忘れているだろうなあ、と考えていたら、今度は携帯から電話。
 「またどうした」
 「メニューとハンガー持って行くの忘れた。取りに帰るから」
 仕方なく、ブツを用意して玄関先で待つ。玄関は寒いぞ。風邪引いてるっちゅうのに病人をこき使うなよ。
 「ただいまっ」
 「……新聞は?」
 「あっ、忘れたっ。か、帰ってきたときに持ってあがるから」
 さすがに二度忘れたら、三度目はちゃんと憶えているに違いないと思われるでしょう。いえいえ、ウチの女房を甘く見てはいけません。
 やがて玄関のインタフォンがピンポンとなる。
 「はい?」
 「……新聞、取ってこなくちゃダメ?」
 「だめ」
 ああ、ホントに退屈しねえやつ。

 休日前の夜は結構夜更かししてしまうものだが、疲れて寝る。ここしばらく何かに憑かれたように書き込んできたが、これくらいの分量の方が読みにくくなくていいかな。ご意見ある方、お待ちしています。


2001年02月16日(金) なりたくて病気になってるわけじゃないやい/舞台『トランス'98』ほか

 喉をすっかりやられてしまって、咳が止まらない。なんでこんなにからだが弱いのだ、酒もタバコもやらんのに。体の丈夫なヤツはすぐ「根性が足りんのだ」と冷ややかな目で見るが、だったらテメエも根性で不老不死になって見せろと言いたい。
 ……いかんいかん、また心がすさんでいる。こういうとき女房の愛があればなあ。
 ああ、人間って、本気で辛いときには一番手に入らないものを求めるものなのだなあ(T_T)。

 栄養がつくものがほしいと思って、女房に買い物を頼むが、買って来たのはインスタントラーメンの山。だからわしゃ風邪引いてるんだってば。
 しかし女房はいつだって私が病気であることを信じないのである。熱を出そうがふらついていようがあふあふ言っていようが、演技だと思っているのである。
 「喉アメどこ?」と聞いても「知らん』の一言。
 ……まあねえ、そりゃ確かに具合が悪いと言いつつこうやってパソコンに向かってんだから仮病じゃねえかと疑われても仕方ないことではあるんだけどねえ、もう病気の時にはココロの方もちょびっとトチ狂ってるんだと思っていただきたい。
 実際、大人しくしてればいいのに、なぜ動いてしまうのか、私自身にも分らないのだ。ともかく心が全く落ち着かず、何かをしていないと気がすまない。アタマの中が言葉で溢れかえり、それをどこかに書きつけたくなる。……栗本薫のことを嗤えんなあ。
 じっとしているためには仕方ないからビデオを見たり本を読んだりするしかないのだ。

 そう言うわけで今日は黙々と一日中未見のビデオや本の整理をする。そんなホコリまみれの仕事してどうするんだ。それこそ体に悪いぞ。でも今日はハナから狂っているのでどうしようもない。咳き込みながら本の山を積み上げていく。
 その間女房はと言えば、家事もしようとせず、一人でわき目もふらずにテレビゲームをしている。夫が夫なら妻も妻だ。まともな神経なんか持っちゃいない。

 片付けの真っ最中に火災報知気の点検が回ってくる。とっ散らかってる部屋を見られるのは恥ずかしいが、私が偶然居合わせてよかった。女房一人だと、居留守を使っていたに違いないからだ。
 女房は人に見せられない格好をしていたので(どんなだ)、布団にくるまって隠れる。日頃から格好は家の中でも気にしろと言うのに聞かないのだ。そんな格好をしているおかげて、すぐに体を壊してしまうのだが(だからどんな格好なのだ)、自業自得というものであろう。

 『雨柳堂夢咄』6、7巻(波津彬子)、前巻はちょっと誉めすぎたかなあ、今巻でまた少し「作りもの」めいた作品が続いて、レベルダウン。ようやく青二郎と釉月が出会うが名乗りあうことはない。まあはっきり出会わせちゃうとこのシリーズ終わってしまうから当然の演出ではあるのだが、そこに多少のあざとさが見えるのである。
 人物を増やしすぎたのもマイナスになりつつある。何しろ人物の書き分けが非常に下手な人なので、アイデアが一つすべるととても読みにくいのである。もう先は見えちゃったし、この辺でケリをつけた方がいいかも。

 以前買ってまだ見ていなかったビデオ、鴻上尚史作『トランス'98』を見る。やはりビデオでオリジナルの『トランス』、生で最新の『トランス』と一応全ての『トランス』を見たことになるが、本作が一番つまらない。
 一見、精神病院を舞台にしているように見えるが、この脚本は実のところどこにもない世界を舞台にしている。主人公三人がそれぞれに心を病んでいるとすれば、そこに医者はいない。医者のいない精神病院はあり得ない。これはやはり『朝日のような夕日をつれて』以来、鴻上尚史が描き続けている現代人の心のユートピアを追い求めた作品と見るのが一番わかりやすい解釈だろう。
 だからこそ、逆に医者に扮した時の三者の演技は細心の注意を払って医者になりきらなければ説得力がない。内野聖陽、奥山佳恵、三宅弘城の三人は誰一人として医者に見えない。特に初めのうちは奥山佳恵こそが本物の医者、と客に思わせねばならないのに、全く医者に見えないのは致命的である。新作にともさかりえが起用されたのはもしかしたら精神科医の香山リカに顔立ちが似てたからかな、とふと思ったりもした(^o^)。実際、ともさかが医者らしく見えたのにはビックリしたものである。
 何がよくないと言って、叫んでばかりいるのがダメなのである。みなさんが患者なら「それはお前の妄想だ!」と叫ぶ医者の言うことが聞けるだろうか?
 もちろん三人は実は医者でもなんでもないから叫んでもいい、と解釈することも可能だが、もしそうなら彼らに救いの道はない。彼らの狂気はいずれ破綻する。「狂ってたっていいじゃないか」という「狂人のユートピア」(『ドグラ・マグラ』だな)を描くのが脚本の基本にあるのは明らかだから、崩壊を予感させる演出を行うのは演出家や俳優には悪いが誤読に過ぎる。

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 某氏より『夏の秘密』に関するメールが届く。
 基本的に個人メールの中身についてこの日記にアップすることはしないでいるのだが、映画の話題についてのことだしプライバシーを暴露するものではないので書かせて頂こう。「日記にアップしますよ」なんて相手の許可取ったわけではないので、念のためお名前は書かずに置きますが(某事件からこっち、えらく神経質になってるなあ)。
 前回、「北原佐和子主演」みたいなことを書いたが、厳密に言えば彼女も所属していたアイドルユニット三人組、「パンジー」主演で企画された1982年の映画である。残りの二人は真鍋ちえみと三井比佐子。もともとこの三人、それぞれソロのグラビアアイドルとして活躍していたのだが、イマイチぱっとしてなかった。いや、北原佐和子だけは絶大な人気を誇っていたのだが、歌を出した途端、人気が急降下した(^_^;)。
 「歌の下手な歌手」というのは70年代アイドルの乱立以来、ごく当たり前のことになってしまったが、これは実に群を抜いていた。個人的には、能勢慶子・安田成美と合わせて音痴アイドル三人娘と呼んでやりたいくらいである。この三人に比べりゃ、今時のアイドルは華原朋美もモーニング娘。も、天才的にうまい。当時カラオケが普及してて点数表示機能があったなら、自分の持ち歌ですら5点とか8点しか出せねえんじゃなかろうかというほどのヒドさだったのだ。
 覚えてる人いるかな? 北原佐和子の『マイ・ボーイフレンド』。もともと声域が広くないのに甲高い声で「まい、まい、まい、ぼ〜いふれ〜んど」と尻上がりに音を上げさせられて声が届かず上ずってた、あの聞くに堪えない珍曲であります。あの曲出した途端、各週刊誌のグラビアから水を引くように北原佐和子の記事が消えていったのを昨日のように覚えていますよ(実はファンだったのか……?)。
 多分、本人も歌手になる気はなかったのではないかと思う。自分の音痴も熟知していたのではないか。テレビに出た時の彼女はグラビアと違って、まるで自信なさそうで暗かった。暗いアイドルが受けていたのは藤圭子までである(^o^)。
 「パンジー」の結成は起死回生の意味合いが強い。明るいアイドル路線が無理なら、謎めいた美少女路線で行こう、とプロダクションが考えたかどうかは知らんが、原作執筆を依頼したのが『皇帝のいない八月』の小林久三(どっしぇー!)。更に脚本が『わんぱく王子の大蛇退治』の池田一朗(と言うか、作家の隆慶一郎ね)。こんな陰陰滅滅コンビで何が出来るかというと、横溝張りの因縁話だったりする。学園内で起こる連続殺人、失踪した美少女転校生、東京オリンピックの年に起こった過去の犯罪にまつわる秘密……。完全に方向性間違えたな(^_^;)。
 もちろん映画は大コケ。だいたいユニット組んでいながら、所属プロダクションがそれぞれ違うために主題歌を真鍋ちえみのソロでしか出せなかったのだ。戦略を初めから勘違いしていたとしか言い様がない。
 以来、この三人娘の名はほぼ完全に芸能界から消えた。
 と思っていたら、北原佐和子、生き残っていたのですねえ。80年代、その噂を殆ど聞かなかったのに、90年代に入って、サスペンスドラマや舞台に脇役ながら重要な役で数々出演。実は私も去年『必殺仕事人』の舞台でナマの北原佐和子を見ている。四十も近いってのにまだ町娘の役だぜ。でもそれが違和感ない(・・;)。好きな男との仲を引き裂かれ、殺されて死の間際に主水に殺しを依頼するという薄幸の美少女の役……って、『夏の秘密』とつながってるなあ。路線変更がやっと実を結んだか。
 私は特別アイドルオタクではなかったので、昔のマイナーアイドル映画をそんなにたくさんは見てはいないのだが、今になって、見ておけば話のタネになったのにな、とちょびっと後悔している(見てたらもっと後悔してたろうが)。
 いつの日か、大槻ケンヂも感涙したというセイント・フォーの『ザ・オーディション』だけは見て死にたいと思ってはいるのだが。「不思議、東京、しんで〜れら〜」。

 スーパーチャンネルで『アウターリミッツ完全版・二階にいる生物』見る。この『アウター』、『ミステリーゾーン』の後発なんでどうにも二番煎じの感が強かったのだが、こうして年月が経ってみると、どれも古典的で味わいが出てくるものである。今回の話、要は隠れ里の仙人は宇宙人でありましたって設定で、それ自体は陳腐なんだが、途中、屋敷の中を迷ううちに主人公がドアだけが立ってるようなシュールな世界に入りこんでいくシークエンスが面白い。
 この「ドアだけの世界」って、よく使われるけど(『ルパン三世Part掘戮芭詭收興腓發笋辰討燭福法∈能蕕忙廚い弔い燭里話なんだろうなあ。サルバドール・ダリの絵あたりか?

 カートゥーンネットワークで先々週から始まった『逮捕しちゃうぞ』、前回まではOVA版を放送してたが、今日からテレビオリジナル。福岡の民放では未放映なので初見である。
 でもテレビシリーズになった途端、作画レベルがガタ落ちなのには幻滅。脚本自体は短い原作を横手美智子さんがメリハリある展開に構成し直して、うまく出来ていたのになあ。OVAと映画版を見て、これならテレビシリーズもDVDで買ってもいいかなと傾きかけていたのだが、これは買わなくて正解。
 女房は藤島康介の「中途半端に面白い」(つまり設定とかよく練られてはいるけれど、予定調和の展開しかしないし、オタク向けの受け狙いがミエミエであざとい、と言いたいらしい)点が嫌い、と言っているので、もし買っていたら大変な家庭争議になっていたであろう。以前『ああっ女神さまっ』のLD買った時も「そうよね、あんたは自分の稼いできた金なんだからどんな下らないことに使っても自由なんだもんね」とネチネチ言われたし。
 でも『逮捕』のOVAや『女神』の初期シリーズはなかなかの秀作だったんだがなあ。どっちも映画版でコケたのがよく似ている(^_^;)。もともとこの作者、あまり大風呂敷を広げられる人ではないのよ。だから『小っちゃいってことは便利だねっ』くらいの短編シリーズが一番面白かったりするのだ。

 漫然とテレビをつけていたら、『地球防衛放送パンドラ』の再放送とやらを偶然目にする。アイドル予備軍みたいなコスプレねーちゃんたちがオタク情報を紹介する、という番組なんだが、ガイナックスとコンプティークのサバゲー大会なんて放送して見てたヤツいるのか。
 私が「おっ」と思ったのは、字幕に「とり・みき、大平透」と出たからだ。洋画の吹替は字幕ファンから叩かれることが多いが、名声優による吹替えは決して字幕に劣るものではない、と主張し、本まで作っちゃったのがとりさんである。これは結構、大平さんのコアな話が聞けるのではないか、と思ってみてみると、さすがに声優創世記から活躍しているだけの人ではある。汲めども尽きぬ井戸のように面白いエピソードが、次から次へ出てくること出てくること。
 スーパーマンの番宣のために大平さん自身、あの格好をされた話とか(当時はスリムで、実に似合っている)『刑事コジャック』のテリー・サヴァラスはもともと大平さんが演じる予定だったのが、「番宣のため頭を剃れ」と言われて断った話とか。
 『もののけ姫』について真っ向から批判していたのにも驚いた。「声優には声優としての演技があり、そのキャラクターの声になりきる技術を身につけている。なぜ有名俳優にばかり声をアテさせるか」という意見である。……言葉を選んじゃいるが、何であんなヘタクソどもにやらせるかってことだろうな。
 確かに大平さんがこう言うとそれなりの説得力はあるんだけどなあ。基本的に私もこの意見には賛成である。ただし、問題点がいくつかあることも事実だ。
 例えば、黒澤明や大島渚が、映画で素人や芸人を使いたがったのはなぜか、考えてみるがいい。既成の俳優の手垢のついたクサイ演技を嫌ったせいではないのか。黒澤明にしてみれば、名優松村康雄であっても「内田百量鬚肪がいいかって考えた時、松村しかいなかったんだよな」程度の俳優なのである。
 大平さんは「ハクション大魔王をやった時も喪黒福造をやった時も大平透が演じているとは気づかせない演技をした」と言っているが、そりゃ大して洋画もアニメも見ない人ならだませもしようが、ちょっとコアな人なら、大平さんの声に気づかない人はいないぞ。宮崎駿が俳優を使ったのは、あくまで演技プランのうちだと思う。少なくとも、箔づけや人気取りのためではない。実際、森繁久彌や美輪明宏は声優としての実績もあるのだ。それを十把ひとからげに「俳優を使うな」と言うのは天に唾する行為であろう。
 『もののけ姫』についての私の意見は、「田中裕子は使うべきでなかった」、これだけである。彼女の「撃て!」と言うセリフと、同じような役柄である『ナウシカ』の榊原良子演じる「なぎ払え!」のセリフを比較してみると一目(一聞?)瞭然だろう。気品、気迫、声量、どれを取っても榊原良子のほうが上であった。これは宮崎さんの目がね違いであろう。
 しかし他のキャストで言えば、モロの声など、私にはもう美輪さん以外の人がアテて、あれに勝てるとは思えない。勝てるという声優がいたら、それは相当の自信家か、でなければただのバカだと思う。声優界だって、そうそう名優ぞろいというわけではないのだ。だから今はちょっと「芸」の必要な役柄になると全て山寺宏一に回ってきちゃうのである。
 今度の『千と千尋の神隠し』の声優はどうなるのかなあ。夏公開ならそろそろ決まってないとスケジュール的にキツイと思うんだが。

 女房が夜中になってようやくお籠もり部屋から出てくる。「なんかメシつくってくれ」と頼んでも無視して風呂に入る。気分はもう辻仁成。……そこまで落ちたかないのになあ。


2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか

 朝の「めざましテレビ」で、宇多田ヒカルの新曲披露。
 わはは、また同じ曲だ。
 こういうハスキーヴォイスの持ち主は、従来シャウト型の歌い方をさせることが多かったが、切なげに抑え目に歌わせたことがヒットの理由の一つだろう。これだけ売れてるとハッキリ言うやつがあまりいないが、彼女の歌い方、あの短く切った間の取り方も含めて、実はヨガリ声の発声と同じなのである。
 私同様、なんだ毎回同じ曲じゃねえか、と悪口言ってるやつは多いが、同じ声を出してくれるからいいのですね、ああいやらしい。
 プロモーターは親父のほうかお袋の方か、まだくっついてんだか別れてるんだか知らんが、自分の娘の「魅力」と「売り方」が何か、よく知っていることではある。親としての人格を多少疑いますけど。
 だから実を言うと、宇多田の曲もちょっと集めてみたいのだが、家庭争議のタネになりそうなので諦めます(^_^;)。
 世の女性諸君、あなたがたの彼氏が宇多田を熱心に聞いていたら、それは浮気願望の表れなので注意しましょうね(^o^)。

 舞台公演の連絡用に携帯電話を買いはしたが、もともとそんなにほしかったわけでもないので、充電器に差し込みっぱなしで仕事に出かけることも多かった。
 すると女房が怒るのである。いざというときに連絡が出来ないじゃないかと。
 いざってどんなときだよ、と突っ込んでやりたくもなるが何か縁起でもないことを言い返されそうなので言わない。あまりうるさいので、二、三日前から仕方なく胸ポケットに入れて持ち歩くようにしていたのであるが。
 今日突然、仕事中に携帯が鳴り出した。
 うわあ、冗談じゃないぞ。具体的には書けないが無茶苦茶ヤバイときに鳴り出したのだ。慌ててスイッチを切るが、いったいどこのどいつがかけてきたのだとディスプレイを見てみるが、買ったばかりで操作の仕方がよくわからず、どうやら留守電を入れているようなのだが、メッセージを聞き取ることも出来ない。
 女房か親父がかけてきたのかと一瞬思ったが、こちらが仕事中なのは当然知っているはずである。緊急の用事なら職場にかけてくるはずだ。
 どうにも腑に落ちないまま帰宅して、女房に、「今日、電話かけたか?」と聞くが返事はNO。
 女房にメッセージを聞いてもらうが、口元が妙ににやついている。
 「……どうした?」
 「……ねえ、コンドーってヒト、誰?(^^)」
 「コンドー? 知らんなあ」
 「あんたを待ってるって」
 ひ、ひええええ、こ、これは私が一番恐れていたたぐいの間違い電話?
 慌ててどんなことが吹きこまれていたか聞き返す。
 うげげ、若い女の声だ。
 「……コンドーです。今、××まで来てます。電話に出られるようになったら、教えてください」
 えらく気さくな口調だ。名字で名乗ってはいるが、本来の電話の相手とはかなり親しいと見た。相手も恐らく仕事か何かで手が離せないのだろう、事情はちゃんと分ってます、と言いたげな雰囲気だ。もしかしたらアフターファイブでは愛称で呼びあってる間柄なのかも。××ってどこだ? どうも女は車で移動しているらしいが、こんな昼日中から何の目的で会おうというのか。
 いや、今は謎の女の正体を推理したってしようがにない。きっと女房は誤解をしている。ああ、これだから携帯なんて持ちたくなかったんだ。
 と、やや混乱しつつ女房を見ると、意外にも平然としている。
 「間違い電話でしょ?」
 「う、うん、間違い電話だな」
 「……携帯、充電しておくね」
 そう言って、何事も無かったかのように充電器に差しこむ。どうやら私はちと神経質になっていたようだ。考えてみりゃ、平日の昼間に浮気する時間なんか取れるわきゃないし。
 ホッと胸をなでおろすが、ああ、でももし今度、休日の昼間にでも、「まだですか? ずっと、ずっと待っているのに」なんて間違い電話がかかってきたらどうしよう……(・・;)。
 それにしても昨日の桜雅嬢の間違い電話といい、携帯族はやはり相手のことを考えて電話してほしいと切実に思うぞ。今の携帯の普及状況、便利さに甘えてるようにしか私には思えぬのだ。

 波津彬子『雨柳堂夢咄』5巻、おお、ついに波津さん「化けた」な。これまでの四巻、無理矢理作ったような不自然さの目立つ話も多かったが、今巻には一切ない。珠玉の名編ばかりである。
 骨董不思議話、という程度の認識しかなかった初期作品に比べ、シリーズが軌道に乗ってきて、作者が「これはものを通じて人と人の縁(えにし)を描いていくのだ」という明確な意識を持ち始めたのが成功の理由だろう。
 釉月(ゆつき)という少女を登場させたことで、煮詰まりかけていた贋作師・青二郎のキャラクターに一気に広がりが生まれてきた。いいなあ、釉月ちゃん。「もの」の心を読み取る不思議な手の持ち主、という設定もいいのだけれど、陶芸家の修行のために男の子の格好をしている、というのもタカラヅカの変形ではあるがたおやげでよい。
 実はこの少女、青二郎の義理の姪にあたるのだが、さて、この因縁深き二人、今巻では未だに出会っていないが、いつの日か出会う日はあるのか。そのときの雨柳堂の役割は……と興味は尽きないなあ。うまいこと話が転がり始めたら後は勢いに乗るばかりである。
 そして、今巻中の『籠の中の鳥』と『花野』の二作は、波津さんの作品としても最高傑作であるのみならず、少女マンガの歴史においても最も完成度の高い幻想譚である。そこにいない鳥かごの鳥を見ることのできる少女の「思い」は、少女が運命に翻弄されるたびに揺れ動いていく。一度は見えなくなった鳥の姿が再び見えるようになった時、その「思い」はどう変わっていったのか、それとも変わらなかったのか。ああ、駄目だなあ、こういう切ない話読んでると文章まで少女趣味になってきちまうぜ。
 いや、好きなんだけどね。
 ……次巻も期待して読もう。

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 NHK教育の『天才テレビくんワイド』、ちょっと前から『魔界探偵』というのを放送している(再放送らしいが)。下手な大人ものより、子供向けに作られたものの方が良質な番組が多い昨今(私は『名探偵コナン』など結構けなしていたりするが、もちろんある程度以上の水準作であることを認めた上で「今回はちょっと……」と言っているのだ)、意外といい出来かも知れない、と思って本格的に見てみた。
 ただ、今回が第2回、残念ながら第1話を見逃しているので、設定がどうもよく分らない。主役の子供たちの周りにいる修験者風の男女は誰なんだ。妙な格好でうろついていても誰も疑念を持たないから、女房などは「あの人たち、主人公たちにしか姿が見えないの?」と首を傾げていた(どうやら式神らしいな)。世間的にはこの二人が人気で大人のファンもついているようだ。でも役名が玄武(伊達直斗……マスクはかぶらない)と朱雀(谷口絵梨……おお、なかなかの美人)って、モロだな(^o^)。
 「魔界(?)」にいるらしい王朝風の狩衣を着た子供たちはいったい何者なのか。過去の人間にしては喋り方が現代っ子である。単に昔言葉だと視聴者のお子さんに分らんということでそうしたのか、それとも魔界にいながら現代語の勉強でもしていたのか。ううむ、せめてオープニングで設定を語ってくれる『コナン』程度の演出はほしいぞ。
 でも話自体は決して手抜きをしていない。今回の事件は機械的なトリックであったが、私は別に機械的トリックよりも心理トリックの方が上という立場はとらないので文句はない。ただ、犯罪は人間の心に取りついた悪霊が起こさせるもので、そのモンスターを封じて終わり、というのにはいささか苦笑。……そんな力持ってるんだったら、ミステリ仕立てにせんでも犯人が誰か透視できる力くらい持ってないのかと言いたくなるが。
 なにしろ、この物語の真の探偵役はCGで作られた安倍晴明なのであるから(^o^)。そりゃ、万能だわな。この辺の設定をアザトイと見るか、盛り沢山と見るかで、評価のし方は変わるだろう。
 でも充分、制作に力を入れている番組だと言っていいのではないかと思う。今回もゲストに北原佐和子・片桐はいり・渡辺哲・中島陽典など、結構豪華な人を呼んでいる。北原佐和子など、アイドルの頃は「グラビアはともかく、喋らせると個性も魅力もない」と酷評されていたのに(『夏の秘密』なんて、ミステリって言うより主役の女の子の水着を見せるだけの目的で作られた映画にも出てたな。いやもう、このときの演技が超ダイコン。誰か知ってるやついるか?)、中年になって、確かに多少くたびれてきちゃいるが、その中に女の芯の強さと言うか、細やかな情を表現できるようになってきた。……人間、変われば変わるものだねえ。

 森総理の退陣、どうやら避けられないような雰囲気になりつつあるようである。日本の政治家は政策の失敗の責任を取る形でなく、たいていは人気取りの失敗で引き摺り下ろされるのが常だから、これまでは失言こそ多々あるものの、味方も多かったために何とか持っていた感じであったが、そろそろ「愛想が尽きた」という仲間も増えてきたのだな。まさに沈む船から我先に逃げ出すネズミである。
 それにしても日本人を誘導するのは簡単なものなのだなあと思う。若者の政治離れを嘆き、「選挙に行こう」なんて言ってるオトナたちだって、結局は情実で動いているのだ。要は大衆の情を動かすことができれば、事実の解釈も自由自在に操作できるのである。「神の国」では辞任に追い込めなかったのに、「事故時にゴルフしてた」ということで辞任させられるとしたら、それはそれで大衆の危機管理意識の方がもともと低いと言えるんだが、今回の件ではそれを大衆に感じさせずにうまいこと森総理の問題としてスライドさせている。
 だから「トカゲの尻尾切り」は、日本の場合、下っ端だけが被るものではないのである。私ゃマスコミのインタビューに「森さんにはすぐ駆けつけてほしかった」と答える被害者のほうが怖いよ。マスコミがそう誘導して答えさせたのは分るが、事故にあってる最中に当の被害者が総理のことなんて考えてる余裕あるわけないじゃん。被害者もよく自分が誘導されて言ってるってことに気づいてないんだろう。怖い怖い。
 第一、森総理が辞任して別の総理に代わったって、日本人の平和ボケが治るわけでもないのに、なぜそのことに言及する識者がいないのか?(でもだからって森でいいと言いたいわけでもないが) はてさて、自らの責任を一人に押しつけてノウノウとしている本当の卑劣漢は奈辺にいるのやら。

 ホームページを立ち上げると決めてから、日がな一日パソコンの前に座りっぱなしじゃないかと女房が文句を言う。日記を書くだけで何時間もかけてどうするかと。そりゃまあ、一気に書くんだったら、小1時間で書けちゃう分量ではあるが、テレビやビデオを見、考え事をしながら書いているので、別に無駄な時間を過ごしているつもりはないんだけどな。
 それに今は小説やマンガを読んだ感想も映画の感想も全てこの日記にアップしているが、ホームページを立ち上げたらそれぞれコーナーを作って分戴するつもりである。そうすりゃ今日の日記などは半分に……ならんな(^_^;)。
 何とか時間を有効に使うしかないかな。

 晩飯はコンビニで買ってきた麻婆豆腐にねぎま。給料前なのでささやかである(^_^;)。また風邪引いちゃったし、誰か差し入れ持って見舞いにきてくれ(^o^)。


2001年02月14日(水) だから初心者なんだってば/『わが師はサタン』(天藤真)

 夕べ風呂に入り損ねて、ヒゲが伸び放題だったので、朝から風呂に入って顔を当たる。
 「ヒゲを剃る」「顔を当たる」とは言っても「顔を剃る」とは言わないと思っている人が多いと思う。でも実は床屋用語ではあれは「顔剃り」と言うのである。子供のころ「顔剃ったら血が出るやろ」と友達にからかわれたが、顔の表面を剃ってるのだから別に間違いでもなんでもない。突っ込んだつもりが突っ込み返されて、その友達は腹を立てていたが、そういう切り返しも覚悟しなければ一人前の芸人とは言えない。……って小学生に何要求してたんだろうな。

 宇和島水産高校の実習船が、浮上したアメリカの潜水艦に沈没させられた事件、体よく利用されて首相退陣のための口実にまで使われようとしているが、今日になって、同乗していた民間人が操縦に関与していたと報道。
 マスコミはいかにもその民間人の操縦ミスで事故が起こったかのごとく意識誘導をしようとしているが、そりゃ乗組員が操縦してたら事故が起こらなかったと言いたいわけかね。結局は「民間人に操縦させたことが悪い」で話を収めて、潜水艦の構造的欠陥から目を背けさせようってハラじゃないのか。
 潜望鏡は、ソナーはどうだったのかと言われてもいるようだが、私ゃ潜水艦に詳しいわけでもなんでもないが、映画なんかじゃたいてい水面の船や浮遊物を全く無視して浮上してるものな。
 単純な疑問なのだが、魚の群れと船の区別って、ソナーできちんと区別できるものなのか? 乗組員が仮に船影を確認出来ていたとしても、「どうせ魚だ」と見過ごしちまったんじゃないかという気がしてならん。
 しかし実を言うと、ニュースを聞いたとき私が真っ先に思ったのは「なんでそんなハワイくんだりまで行って実習せにゃならんのだ」ってことだったのだ。水産高校ったって全員が遠洋漁業に携わるわけじゃあるまいに、いったいそこでなければならない積極的な理由ってのはあったのだろうか。いや、別にそんなとこに行った学校の方が悪いと言いたいわけではないが、潜水艦が民間の水域に間違って浮上した、という報道は未だになされていないのだ。とすればそこはもともと危険区域だったのではなかったか。
 その辺の学校側の情報もアメリカ軍側の情報も全然伝わってこないのはなぜだ。情報が隠されてる状態で正確な判断なんぞ出来るわけがない。にもかかわらず「軍のせいで」とか「若い命が」とか、訳知り顔にコメントしてる連中が多いのがどうにもきな臭いのである。

 水産高校のホームページの掲示板、誹謗中傷の書き込みが増えて、閉鎖せざるを得なかったとか。そりゃ書きこんだヤツの方が人間的にどうのってのは確かにあるけれど、こういう公共機関ってのは掲示板を開くもんじゃないと思うんだがな。こういう事件がなくても、日頃からどんな「荒らし」をされるか分らんわけだし。メールだけを受けつけて、取捨選択して掲載すればいいのである。掲示板を開くのなら、何を書かれるかわからんということを覚悟をしておくのが前提だよな。

 天藤真『わが師はサタン』を読む。
 いやあ、書店でこのタイトルと作者名を見た瞬間、マジで飛びあがっちまったぜ。
 ミステリファンなら周知であろう、謎の女流作家、「鷹見緋紗子」の正体がついに判明したのである。『わが師はサタン』『闇からの狙撃者』ほか、昭和50年代に長編を矢継ぎ早に執筆し、一旦休筆したものの徳間書店のわずか4冊で廃刊になったミステリ専門雑誌『瑠珀(ルパン)』(未だに捨てられん)で復活するがその後すぐにまた沈黙した、あの鷹見緋紗子である。
 既成作家の覆面ペンネームであろうとは噂されていた。私は高木彬光氏かなあ、とちょっと疑い、それにしては文章がうまいと、首を捻っていたのである。高木氏が死んだ時、ああ、鷹見緋紗子の秘密は永遠に謎なのかと思っていたのだが、それ以前に鷹見嬢は亡くなっていたのか。
 正確に言えば「鷹見緋紗子」は天藤真・大谷羊太郎・草野唯雄三人の合同ペンネーム。天藤氏が担当したのは『わが師はサタン』『覆面レクイエム』の二編のみ。正体が分らなかったのも当然だろう、本作は天藤氏が得意としたユーモアミステリの要素が極力抑えられているのである。
 で、出来映えはどうだったかと言うと……。

 てとこで、続きはまた明日。パソコン奮戦記と桜雅嬢のネタも追加の予定(こう書いとかんと忘れる)。

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 昭和50年代、赤川次郎、栗本薫がデビューして以来、学園ミステリーやユーモアミステリーの書き手は吐いて捨てるほどに登場したが、それ以前は実にお寒い状況であった。松本清張の社会派ミステリが一世を風靡していたがために、ミステリ界はその亜流が目白押し、ミステリに「ユーモア」を絡めること自体、まるで罪悪のように思われていたのじゃないか、と言いたくなるほどであった。
 何しろ乱歩の少年小説からワンランク上のミステリを読もうと思ったら、いきなり高木彬光の『人蟻』に行かねばならぬのである。……小学生にいきなり株の世界が分ってたまるか(^_^;)。
 そんな中、唯一小中学生にも読めるミステリを書いてくれていたのが今は亡き小峰元と天藤真のお二人である。特に天藤氏は、多分にアクロバティックな設定で、近年の十把ひとからげ的なユーモアミステリとは一線を画したハイレベルなミステリを発表し続けていた。岡本喜八監督、北林谷栄・緒形拳主演による映画、『大誘拐』をご覧になった方も多かろう。あの誘拐されたおばあちゃんが誘拐犯のリーダーになってしまうという逆転劇、アレが天藤作品の真骨頂なのである。
 『わが師はサタン』で使われていたメイントリックに驚いたのは、それと全く同じトリックが泡坂妻夫の『11枚のトランプ』にも使用されている点であった。更に口幅ったいことではあるが、私もその昔『函』という戯曲を書いたときにその変形・応用を試みた(^_^;)。……言っちゃあなんだが、誰でも思いつくトリックなのである。
 従って、そのトリックを隠蔽するためには語り口に細心の配慮が必要となる。もし本作が変名で書かれることなく、初めから天藤作品として書かれていたなら、軽妙でユーモラスな筆致でうまく真相をうまく誤魔化すことが出来ていたかもしれない。
 しかし徹頭徹尾シリアスとして書かれた本作はあまりに無防備であった。恐らく、特にミステリファンでない人でも、ある人物が登場した途端、全てのトリックを見抜いてしまうであろう。それが本作を読み通すにあたって興味を半減させることになることは火を見るより明らかである。
 しかしながら、そういう欠点はあるものの、某大学の講師でもあった天藤氏が、ある意味バックステージものとも言える学園内の殺人事件を書いたということは実に面白い。天藤氏自身を彷彿とさせる人物も現れ、これはやはり「鷹見緋紗子」作品としてより、「天藤真」作品として読んだほうが、その真価を堪能出来る作りになっているのである。
 創元文庫の天藤真シリーズ、間を置きながら果たして完結するのかどうか危うい状況で刊行され続けているが、そんな作家知らなかったという方にはぜひオススメである。少なくとも昨今の新本格作家の10倍は面白いよ。

 仕事に間が出来たので早引け。
 ホームページのための原稿をひたすら書きまくる。しかし単純に少なく見積もっても、今考えているコンテンツをアップするためには、最低でも50枚以上の原稿を仕上げねばならぬのである。
 一週間やそこらで出来るのか?
 とりあえずいくつか書き上げた原稿をホームページにリンクさせるように、女房に教わりながら作業に取り掛かったはいいのだが……。
 「タグはつけたの?」
 「タグってなんだ?」
 「こないだ教えたばっかりだろ!」
 「もの覚え悪いんだよ!」
 「ホラ、そこ、<あ・ふれふ>。」
 「……なんだそりゃ」
 「<あ・ふれふ>だよ! ほら、入門書に載ってる!」
 「<a href>(えい・えっち・あーる・いー・えふ)って言ってくれよ! わかんねーよう!」
 ……教える方の日本語が不自由だと苦労するよな。

 夜、福岡シンフォニック合唱団のUさんから電話。実は職探しをされていたのだが、どうやらめどがついたとのこと。よかったよかった。
 突然、メンバーの桜雅嬢のことについて「最近どんな様子ですか?」と聞かれる。
 何のことやら分らぬので詳しく聞いてみると、Uさんの携帯電話に何度も留守電が入っていたそうだが、誰からだか分らない。頻繁な時には一分置きくらいに入っていたりする。たまたま電源を入れている時にかかって来たときに出てみると、無言のままプツッと切れる。
 アタマに来たUさんが、かかってきた相手の番号に書け直してみると、出たのがなんと桜雅さん。
 「桜雅さんだったの? いったい何の用?」
 「あ、間違い電話です」
 Uさん、呆れたそうだ。そら、「間違い電話」とちゃうで、「イタズラ電話」やがな……と突っ込んでみたところで相手がラブちゃんだものなあ。
 Uさんが私のところに電話をかけてきたのは、桜雅さんがまさかオカシクなってしまったのでは、と心配して、もし私が事情を知っているならば聞いてみたい、と考えられた次第であったのである。
 「……桜雅さん、何かおかしくないですか?」
 もちろん、私は即答した。
 「おかしいです。あの娘は絶対におかしいです」
 「は、ハア……そうなんですか」
 いや、私だってそれ以外にどうにも言いようがない(^_^;)。
 ……そりゃな、人間、誰だって無知なとこ、世間知らずなところはあるぞ。けど、間違い電話をかけたら、一言謝るってこと、20年近く生きてて誰にも教わらなかったのか。……多分教わっていないな。仮に今から教えても覚えぬであろうことも想像に固くない。無知は決して罪悪ではないが迷惑ではあるのだなあ。……なんとかならんのか(-_-;)。
 もう、私は彼女が実はアンドロイドだと言われても信じるぞ。と言うか、既にメンバーの間で彼女は三年前に製造されたロボットだと言うことになっているらしい。……メーカーに返品しちまえ。

 女房が夜食に食い残しの肉丼をくれる。嬉しくて涙が出るわ(~_~メ)。


2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか

 気温は低いが日差しはまあまあ、このくらいの気候が私には一番しのぎやすい。睡眠も充分取っているので、朝も何とか起きられる。このまま雨が降らずにいてくれりゃあ万々歳なんだが。

 明日はバレンタインデイであるが、若者は起源たる殉教者バレンタインのことも知らず、「なんで女の方から男の方にコクらないかんと?」みたいな他愛無い文句を垂れていたりする。
 私なんぞはワケシリ顔で「あんなもん日本のチョコレート会社の策略だよ」なんてヒネたことを言うもんだから、若者から「夢がない」などと叩かれてしまうのである。もちろん、その仕立てられた「夢」とやらに乗っかってくれる連中がいないことには製菓会社の屋台骨は崩れてしまうし、ひいては景気の不振にもつながりかねないわけだから、世の女性が「うふ〜ん、あの人、私のこと振り向いてくれるかしら? ドキドキ」なんて腐れた頭を悩ませていることについて、いささかの文句をつけるつもりもない。押井守じゃないが「人間は虚構にのみ生きる価値を見出す」ものであるから。
 何にせよ、この程度の虚構にうかうか乗せられるってこたあ、誰ぞの言い草じゃないが平和な証拠である。もちろん、頭の中が平和なだけであって、こういう連中ほど、悪辣な為政者の手にかかれば自由自在に洗脳されて醜(しこ)の御楯と化し、「大君の辺にこそ死なめ」と死んでいくのである。……生まれた時代によっては私もその一員だったかな。
 でもハタチになろうってのに未だにサンタをマジで信じてるやつがいるのが日本人の現状だと言ったら(ウソではないぞ)、日本の為政者は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。多分その「事実」から目を背けるんだろうな。

 女房から一日早くバレンタインチョコをもらう。ビニールカップにチョコを流しこんで、その中にフルタのチョコエッグのペット動物コレクションを仕込んでいる。芸が細かいんだか雑なんだか分らんな(^_^;)。
 先日よしひと嬢からもチョコをもらったので今年の収穫は多分この二個で打ち止めである。まあ妻帯者なんだからこれで満足せねばな……ってこのトシになってまだ何か期待しているのか。

 『國文学』の3月号、四方田犬彦が川端康成と映画の関係について紹介している。文学者と映画の関係、今やその間はいびつに乖離していて、活字と映像は別物、と解釈するのはごく当たり前、という感じの論評も多く目にするようになったが、かつての日本において、この二者は極めて近しい関係にあった。と言うか、文芸活動の一手法として映画が捉えられていた時代が結構長かったのである。
 四方田氏も指摘しているとおり、谷崎潤一郎がハリウッド喜劇の翻案的な『アマチュア倶楽部』を脚本執筆、制作したのを皮切りに(主演女優に手をつける第1号ともなったが)、大正から昭和初期に映画に関わった文学者を挙げていけば相当な数に上ることは間違いない。
 川端康成が五所平之助と組んだ『狂った一頁』、もう二十年来見たいと思いつつ未だに機会を得られないが、『カリガリ博士』などドイツ表現主義の影響下にある相当シュールな代物だと言うことは耳にしていた。実際、川端康成は、映画化された『伊豆の踊子』などのイメージから、純愛ロマンの作家と勘違いされている向きがあるが、立派な変態小説家である。……だから『伊豆の踊子』の原作じっくり読んでみなさいってば。教科書なんかじゃヤバイ表現相当カットしてるけど、明らかにあの学生、十四歳の踊子に肉欲感じてんだから。
 四方田氏、数ある『踊子』映画化の中で西河克己監督、山口百恵主演版が唯一、賎業としての踊子を描いている、と評価している。慧眼だなあ。昭和49年、私があの映画を始めて見たとき(11歳だよ……)、鮮明に記憶に残ったのは、ラストシーン、学生と別れた踊子がお座敷で酔客に抱きつかれ、顔を顰めるストップモーションであった。無論、その後踊子は、体を売る生活に入っていくのである。当時、ウチの親は「『伊豆の踊子』ならいいよ」、とおそらく田中絹代版を連想したのであろう、私が見に行くことをいとも簡単に許可したが、そんなインモラルな映画だったとは夢にも思ってなかったに違いない。つくづく親の無教養に感謝する次第である。
 いや、川端康成がヘンタイであるという話だ。それは作家としては全然悪いこっちゃない。変態と言うよりはっきり既知外と言った方が当たっている。『雪国』だって『古都』だって『山の音』だって、作者が幻聴幻視を起こしながらそのまんまのイメージで書いてんのよ。だからこそこの人の作品は小説も映画も海外の評価が高いのである。だって既知外の表現って、国の文化にとらわれない分、普遍性があるんだもの。

 『コロンブスの航海』(ピエロ・ベントゥーラ絵 ジァン・パオロ・チェゼラーニ文 吉田悟郎訳)読む。みんなアメリカ風に「コロンブス」と発音してるが、当時のスペイン語の発音で本人が実際に喋っていたのは「コロン」、生まれ故郷のジェノバの発音なら「コロンボ」、この本の原題でも「コロンボ」と表記されている。まあこの辺の知識は有名か。
 大型絵本の体裁なので、サンタ・マリア号の断面図なんかが描かれていて、本文よりそちらのほうに目が行く。船室は食料その他の荷物で手一杯で、船長のコロンブスの個室はあっても、船員部屋は全くない。90人からの船員はどうやって暮らしてたんだって、当然荷物の隙間を探して寝るのである。食料は長い航海の間で腐るものも多く、そうなると船の中は常に異臭が漂う状態になる。航海中何度も暴動が起こりそうになったということだが、そりゃそうだよな。
 一行がアメリカに着いて、現地人の「ハンモック」を見て、「これなら船の上でも寝られる!」ということでコロンブス以降の航海には船の上にハンモックが吊られることになったそうである。タバコがインディアンの文化だったってのは知ってたけどハンモックもだったのね。
 コロンブスは現地人に歓待されるが、その30年後にこのときの現地人は全て虐殺されることになる。恩を仇で返す、という感覚すらない。この時代の常識は「弱い者からは奪え」であるからだ。……今でも変わってないか(^_^;)。
 世界各地の侵略と虐殺の歴史を紐解いていけば、侵略を行ったことのない民族など存在しないことに気づく。それらは結局、「別に当時は悪いことでもなかったんだから仕方ないじゃん」という「未必の故意」と判断すべきものであって、それを責めだしたらキリがないのだ。なのに、どこぞのお国は他国の侵略についてはギャーギャー非難するくせに、自分達の過去の侵略行為については目をつぶってやがるんだよな。

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 仕事が長引いて帰宅が遅れる。しまった、『アルジュナ』録り損ねた。一時期沈滞気味だった「オタアミ会議室」が、このアニメのおかげで再び盛りあがってきているだけに見逃すまいと思っていたのになあ。エコロジーにかぶれた河森正治監督のコワレぶりが、往年の『マクロス』ファンにはイタくて仕方がないようだが、何を今更。ラブソングが宇宙人にカルチャーショックを起こさせるなんてアイデアを思いついた時点で既にイタイ人だったと思うがな。当時私は既に大学生だったが、『巨人の星』に突っ込み入れながら見るのと同じように、『マクロス』も笑って見てたぞ。高千穂遙が「ガキの恋愛描いてないでもっと大人になれよ」と言わずもがなの批評してたな。
 しかし意外なことに、河森監督、これがテレビシリーズ初監督なのだそうな。そう言われれば、『マクロス』も『エスカフローネ』も原作・脚本で監督は別の人に任せていた。『KENJIの春』は監督だけれど単発である(あれもどこか頭のネジが一つ飛んじゃってるようなアニメだったなあ。猫じゃなくて人間でやれよ、『銀河鉄道の夜』と違って実録なんだからさ。妹のトシが妙に色っぽいのがかえって不自然だぞ)。
 ……だとしたら河森さんもまだまだ新人、あまり突っ込んだって仕方ない気もするがなあ。
 『地球防衛家族』の方だけでも見ようかと思ったが、女房が『ついでにとんちんかん』の再放送のほうを見ていたので断念。無理して見ねばならぬほどの出来でもないし。『とんちんかん』、久しぶりに見るので声優などほぼ忘れている。そうか、アンディは島津冴子さんだったか。『アニメトピア』好きだったなあ。しかし漫画のギャグをアニメに移行するのはつくづく難しいと思う。間がまるで違うので笑えぬこと夥しい。特にジャンプ系列のギャグものは『Dr.スランプ』以降、『ONE PIECE』に至るまで、ほぼ全滅状態である。下手に原作ファンがついているので、アニメ的にいじれぬのがネックなのだろうな。絵柄もすっかり変えたかつての『ど根性ガエル』のようなことはもはやできないのだろう。……湯浅政明が作画した『ONE PIECE』なんか見てみたい気はするが。

 仕事帰りにコンビニで買ったハンバーグシチューとサイコロステーキで晩飯。女房、昼はインスタントラーメンで済ました模様。先日5個入りパックを買っておいたのだが、「醤油とんこつはうまいね」と言うので見てみるともう2個も減っている。非常食用のつもりだったんだが、そう言われると私も食べたくなる。
 女房が寝た後(別に寝静まるのを待ってたわけでもないが)一つ作って、目玉焼きと一緒にラーメンにぶっ掛け、ラーメンライスにしたところ、食べようとした瞬間、寝床から女房の「何食べよると〜」の声。……日頃一回寝入ったら、押しても引いても絶対起きないクセに、どうしてこいつは食い物の匂いにだけは反応するかな。結局、女房に半分以上平らげられる。まあ、カロリー高いし、半分くらいで丁度いいんだけれど。

 DVD『バスター・キートンボックス』五枚組、一部だけ見る。
 『キートンの文化生活一週間(マイホーム)』、あの台風で家が大回転する有名なギャグ・シークエンスのある本作、ロスコー“デブくん”アーパックルとのコンビを解消した直後の主演作なのである。しかも既に監督。初手から過激なギャグ作ってた人なんだなあ。当時の短編、設定があるだけで後はギャグでつなぎ、ストーリーの整合性は無視、というのが定番だったことがよく分る。何しろせっかく建てたマイホーム、壊れた途端にキートン夫妻は「まいっか」とそのままほったらかして去っていきジ・エンドなんだものな。
 『強盗騒動(悪太郎)』も脱獄犯に間違えられたキートン、警官から逃げ回るのはいいけれど、最後は濡れ衣を晴らすのかと思えば、結婚して終わりってどういう終わり方だ。もちろん、面白いからいいんだけど。
 チャップリンよりスラップスティックに徹しているのに日本での人気にえらく差があるのはチャップリンに作曲の才能があったことも大いに関連していると思う。NHKで放送される時もそうだが、伴奏が全く映像に寄与していないのである。アメリカも自国の文化に自信持ってるなら、もう少しまともな音楽つけたらどうだ。
 一編に見てしまうのはもったいないので、今日はこれだけ。続きは明日である。


2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号

 一昨日買った『アニメージュ』『ニュータイプ』をやっと読む。
 テレビの新番組でこれは、と思えるものは殆どない。相変わらずやおいかロリコン向け要素満載の、まあ、私が燃えるにゃちょっと二の足を踏む類のものばかりだ。かと思うと、『サラリーマン金太郎』アニメ化って、誰が見るんだそんなもん、という企画もあり。でもこんなのがマニアックなやつよりかえって視聴率稼いだりするんだよな。制作会社も手抜きして作ったってそれなりの日銭が稼げるとなりゃ、こんなクソみたいな企画でも立ち上げたくなるんだろう。……しかもスタッフ表に監督名が書いてない。多分制作はしてるけど未だに責任者が決まってないということだな。『真ゲッターロボ』より酷い状況だな。
 『コメットさん』アニメ化。おいおいマジか? 今時の若い連中は九重佑三子版はおろか、大場久美子版すら知るまい。ましてや原作があの横山光輝御大であることすら。実は私も原作をまともに読んだことがない。出来れば横山さんの絵柄できちんとアニメ化して欲しいもんだが、『魔法使いサリー』みたいに妙に淡いピンクの色ばかりが強調された、無表情なものになりゃせんかと心配である。旧作もオープニングだけはアニメだったけど、それより落ちる出来にはして欲しくないなあ。
 『逮捕しちゃうぞ』新シリーズもどうせ福岡じゃやるまい。以前テレビ局に勤めてたウチのメンバーの話によると、たとえ系列局であっても、東京で放映しているものを地方で放映しないこともあり(たいていは地方の番組がブッキングされるため)、特にアニメ関係は編成会議で落とされることが多いそうである。その点を考えてみてもまだまだ世間のアニメに対する偏見は強く、逆に「テレビQ」(テレビ東京系列)の偉大さは際立つのである。何しろ福岡のテレビQの社屋の壁面、どでかくポケモンだものな。少しは見習え「F○S」(T○S系列)。
 『ARMS』は原作読んだことないのでどんなのか分らん。でも原作者は『スプリガン』の人だよなあ。あれは漫画も大したことなかったし、アニメも今時インチキがバレバレの「ノアの箱舟」出すなよ、なにトチ狂ってんだ大友克洋、という感じのバカ映画だったし、期待は出来んな。

 結局、期待したくなるのはもっぱら劇場あるいはオリジナルものばかり。というか、今年の豊作ぶりはどうしたことだろう。2001年に合わせて、各社が総力を結集して来たかのようだ。
 サンライズの『カウポーイビバッブ 天国の扉』、ジブリの『千と千尋の神隠し』、マッドハウスの『メトロポリス』、もうこれだけで『ナウシカ』と『マクロス』と『うる星2』が出揃った1982年に匹敵するのではないか。
 しかも今年は既に押井守の『アヴァロン』(実写だけど)公開、シリーズ継続中の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』や『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』はおそらく水準以上、となれば「アニメ新世紀」を本気で謳ってもあながち的外れではあるまい。
 更に『ポケモン』『デジモン』『ドラえもん』の「3モン」(^o^)もあるんだよな。これは時間の余裕があれば見に行くかも。
 『少女革命ウテナ』『エクセル・サーガ』のJ.C.STAFFは、OVAで富沢ひとしの『エイリアン9』をアニメ化。これも作画レベル次第で「買い」だ。
 こうなると庵野秀明の新作アニメがまだ企画進行中のままなのがじれったい。早いとこ『蒼きウル』完成させろよう。

 『アニメージュ』、新作情報以外の記事では、脚本家の浦沢義雄のインタビューが圧巻。デビューが『カリキュラマシーン』と『なんでそうなるの?』だとはなあ。もういいおトシなのに、未だにその頃の先鋭的な感覚を持ちつづけているのがすばらしい。
 浦沢さんのテレビシリーズはヒットすることが解りきっているので(1クールなんてことはまずなく、最低一年、2、3年の作品もザラ)、とてもビデオ録画してられないのだが、それでも気がつく限り見るようにはしている。去年の『ごぞんじ月光仮面くん』が局側のテコ入れで失速しちゃったのは惜しまれるが、自由に書かせれば、傑作しか書かないという稀有の人なのだ。
 『バビロンの黄金伝説』だって、公開当初は旧作なんかとやたら比較されてまともに評価されなかったが、今、虚心坦懐に見れば実に面白い。宇宙人の千年の思いも屁とも思わぬルパンの自由人ぶりがよく出ているのである。……言っちゃなんだが『カリオストロの城』はルパンとして考えるとやはり駄作だよな。ルパンが小娘に拘る理由が分らない(描写が不充分である)ので、「ただのロリコンはルパン、テメエの方だろう」とどうしても突っ込みたくなるのである。
 宮崎駿と浦沢義雄の一番大きな違いは、ハッタリのあるなしであろう。もちろん浦沢さんのほうが「ない」のである。
 インタビューでも浦沢さんは「人間を描くことに興味はない、芝居がかった芝居は嫌い」とはっきり言っている。実際、舞台で「芝居がかった芝居」をやると覿面に客は確実に「引く」。それが役者の自己満足に過ぎないことを客は一発で見ぬくからだ。
 平田オリザの提唱する「現代口語演劇」は「芝居」を極力殺ぎ落とすことで舞台を成立させているが、ドラマらしいドラマが一切起こらず、二時間見続けることが退屈であるにもかかわらず、目が離せないという、極めて不思議な空間を作り上げている。恐らく浦沢さんはこの平田氏の「静かな演劇」も見ているに違いない。演劇に実は「ドラマ」は必要なく、「アイデア」の連続さえあれば、映画も舞台も成立する。そのことは、既に初期のチャップリン、キートンが証明してくれていたことではなかったのか。「泣き」の要素、即ち「人情」はこのアイデアの連続をともすれば中断させてしまうのである。
 本格探偵小説などは、実はドラマを一番作りにくい欠点を持っている。何しろ「謎とき」というのは基本的に「盛りあがらない」ものだからだ。だからミステリ作家は無理矢理「名探偵みんな集めてさてと言い」という状況を作り出し、長々と衒学的な長広舌で場を持たすことをよくするのである。
 浦沢さんがミステリーのパロディものをやってくれると面白くなるだろうなあ。『ルパン』でそれをちょっとやって見せてはくれてたけど。

 今日は女房は朝から仕事の打ち合わせ。
 私は父に呼び出されて、背広を仕立てに店屋町までお出掛けである。今年は母の七回忌であるが、父はわざわざ礼服を仕立てるというのが嫌いなので、普段も使える背広を新着したらどうか、と持ちかけてきたのである。普段着でいいなら殊更作る必要はない、と断ろうと思ったのだが、さすがに親父はその辺の私の気持ちは見抜いている。
 「もう予約したから来い」
 有無をも言わせぬというのはこのことか(^_^;)。誕生日のプレゼント代わりということなので(とうに過ぎとるがな)、仕方なく承諾。
 約束では「呉服町の寿屋の前」で待ち合わせ、ということにしていたのに、念のため直前に電話すると父は「博多駅の前」と勘違いしている。
 「二回も確認したろうが? 寿屋の前って」
 「違おうが。博多駅の前て言うたやないか」
 「お父さんは何も言うとらんやないね」
 「お前とギロンしようとは思わん」
 私が博多弁を使うのはもう父との間だけなので遠慮がない。人によっては私と父はとても仲が悪く見えるかもしれんが、この会話には実は翻訳が必要なのである。
 「お父さん、寿屋の前で待ち合わせにしてよかったの?」
 「いや、博多駅の前にしてくれてた方が覚えやすかったなあ」
 「そうすればよかったね、駅から歩けば話もできたし」
 「まあ、積もる話はそのうちゆっくりしよう」
 ……全然そんな会話になってないじゃないか、と思う向きには博多の文化は永遠に分らないであろう。博多弁はストレートなもの言いが特徴的でありながら、言葉と心の乖離がとてつもなく大きい言語なのである。
 で、もちろん待ち合わせは「寿屋の前」。
 自転車をすっ飛ばして10時に父と会うと、父は手提げ袋に以前プレゼントした藤田まことのサイン入り『必殺!』巾着を使っている。父は、会うたびに必ず私が贈った時計だの帽子だの、そういうアイテムを使っているところをさりげなく見せる。なかなか奥ゆかしいことではあるが、しばらく経つとどこへやったか忘れて別のものを買ってたりするので、苦笑することもしばしばである。
 色弱で私には色がわからぬので、生地の見立てはすべて父に任せる。ごくごく地味なものを選んでくれたようでありがたいことである。
 女房からバレンタインのチョコを預かってきたので、父に渡すと苦笑される。これももちろん喜んでいるのである。
 私も父も嬉しさというのはあまり表面に出さない方なので、女房などはかえって嫌われてるのではないかと誤解するようだが、本気で嫌ってるのなら私も女房と別れているだろうし、父も無理矢理にでも別れさせているだろう。
 「いい嫁さんもらったなあ」というのを「お前が選んだんなら仕方がない」としか言わないのが博多人なのである。……こんなん確かに女房にゃ分らんのも分るんだがなあ。かと言って、今更親父に「素直に言え」なんて言うのも無理な話だし。

 帰りに切手と封筒を買おうと思っていたのに、財布を忘れていたことに気づいて慌てる。で、父におごってもらう。不思議だなあ、ン万円の服を親父に仕立ててもらったのは恥ずかしくないのに、三百円おごってもらったのは恥ずかしいぞ。金額の多寡ではないとするとこれはいったいどういう心理なのかな。

 切手と封筒は『シティボーイズ・ライブ』と『地球防衛企業ダイ・ガード』のDVDの全巻購入予約特典のプレゼント応募用のものである。『シティボーイズ』の方の特典は、未公開のライブビデオだとか。2月末までの応募なので、シティボーイズファンなら『ウルトラシオトシオハイミナール』『夏への無意識』『真空報告官大運動会』の3枚のDVDを慌てて揃えるがよろしい。今年のゴールデンウィークのライブはぜひ東京まで見に行きたいものだなあ。メンバーの中で、お金貯めてぜひ東京に行くって人、いますか? チケットは毎年即日完売なんで、ご連絡は今月末までにお願いします。

 帰宅した直後に女房も帰宅。なにやらいろいろとパンフレットをもらってきているが、いわゆる接客マニュアルというものであろう。客の中には店に絡むのが趣味のようなやつもいるので、小心者の女房に仕事が勤まるかどうか心配ではあるが、店長さんがしっかりしていれば、そう大層なことにはなるまい。
 不景気ではあっても、人手が足りないのはどこでも同じで、下働きをうまく使いこなせない店長もやはりダメの烙印を押されるのが今の風潮である。記憶力がなくドジではあっても基本的に真面目な女房を使いこなせないとすれば、その店も大したことはない。
 無理ならやめればいいとは簡単には言えぬが、ガマンのしすぎはよくない。女房には、自分がどこまでやれるかを考えてくれればそれで十分である。

 ホームページに載せるためのイラストなどを描いているうちに眠くなり、昼寝。女房は「せっかくの休みなのに一緒におしゃべりもできない」と不満げだが、急激に眠気が来たのだ。
 昼寝の時に見た夢というのは結構覚えているものである。
 何と今日は私に『ゴジラ』の新作の脚本が依頼される夢。マニアからは「大層な夢見てんじゃない」と叱られそうだが、見たものは仕方がないのである。
 ゴジラが出現したということで、政府はその対応に追われるのだが、その無策ぶりに責任を追及された首相が、事態の真っ只中であるにもかかわらず悲痛のあまり自殺してしまうのである。……夢から覚めて思ったが、これまでのゴジラ映画、そういったゴジラの脅威に対抗する人間側の悲壮感を描いた作品というのが第一作を除けば皆無だったのではないか。
 第一作に散見する「死」のイメージ、実況中継をしながら死んでいくアナウンサー、戦争未亡人が幼子を抱えて「もうすぐおとうちゃんのとこへ行くのよ」と呟くシーン、何より、芹沢博士の「さよなら」のセリフ、彼らは本来「死ななくていい」人々であった。
 実はゴジラに対抗する人々が、善玉であろうが悪玉であろうが、死んでいくのは、ドラマとしては予定調和の域を出ないのである。ゴジラに向かって「ゴージラー」と叫びながらツブされるバカを描いてなにが面白い。作り手の自己満足しかそこにはない。
 ゴジラに神だか自然の脅威だか核の恐怖だか帝国主義だか、何の象徴を見出すも自由だが、そこに映像としてのインパクトを持たせようと思うなら、「無作為に」、「無辜の人」が死ぬ様子をきちんと描かなければ効果はない。それができないのは所詮ゴジラ映画が子供だましに堕していることを証明することにしかならないのである。
 『ゴジラ×メガギラス』中の秀逸な描写は、メガギラスが町の人々を襲うシーンに、恐怖のイメージが復活しているところである。それだけに惜しく思うのは、ゴジラ自体でそれがやれていない点だ。だから結局「ゴジラ」は、メガギラスという「悪」を倒す、「正義の味方」的な位置から遠く離れられない。『ゴジメガ』が構造的に平成ガメラシリーズのマネになっていることを否定することができないのである。
 それにしてもゴジラの脚本、私家版でいいから書いてみたくなったな。で、「東京ゴジラ団」もしっかり出すと(^o^)。

 夜、知り合いのUくんから電話。
 何でも今朝方、竹下(ウチの近所だ)で事故があって友達が死んだとか。その友達の方はもう顔を覚えてはいないのだが、ハタチは過ぎていたはずである。車を盗んで、パトカーに追いかけられて、踏み切りに突っ込んだ末、同乗者の若い子二人も巻き添えにしての死だったという話であるが、いい大人が何を考えていたのか。
 今晩が通夜だと知らされたが、いくら昔の知り合いだからといって、そんなアホウのところに香典持って行きたくはない(特に私に連絡があったわけじゃなし)。遺族はおそらくこれから補償で大変になるだろうが、そういうバカを育てた責任をとるのは当然のことであろう。
 Uくんには、昔、言葉の行き違いで随分迷惑をかけたことがある。そのうちヒマな時にでも遊びにおいで、ただし赤ん坊を連れてきたら命の保証はない(本が上から落ちてくるので)と話をする(^_^;)。

 女房、私が相手をしてやらなかったので、ふてくされて寝ている。腹を減らしているだろうと肉を焼いてやるがあまり食べない。父と会って、知り合いと電話して、楽しそうなのに自分と一緒にいても楽しそうじゃない、とふてくされているのである。
 最近その手のストレスがたまっているようだが、私は女房のそばで無表情で何のリアクションもしないのが心をゆだねている証拠なのだが。おかげで女房の顔を見るたびに眠たくなってホントに寝てしまうのである。会話がしたけりゃ、そっちから話しかけてくれ。


2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか

 今日の練習に間に合うように、ほぼ徹夜して次の芝居用のシノプシスを書き上げる。原稿用紙にすればせいぜい数枚のものだが、それでもポイントをしぼってドラマとしての盛りあがりが分るように書かねばならぬので、これは結構しんどい。
 やっと書き上げたのは朝の7時で、さすがに練習にそのまま顔を出すのは体力が持ちそうになかったので、原稿だけ女房に渡して、泥のように眠る。
 目覚めたのは昼の2時。さて、打ち合わせはどうなったかとパピオに向かう。
 今日は久しぶりにほぼ全員が揃った由。
 ふなちゃんはもう何か意味不明な言葉を喋り始めている。「ずっと見てても全然飽きないんですよ」と愛上嬢、幸せそうである。鈴邑君はふなちゃん抱きながら全く無表情だが、娘さんをポーカーフェイスに育てるのは考えものだと思うぞ。
 残念ながら鴉丸嬢と其ノ他君は所要で早引けしたそうですれ違ってしまったが、女房からの超巨大バレンタインチョコを手にして、その重量感に圧倒されていたとか。
 牛乳パックを型に、ただぶっといだけのチョコの塊をもらっても、あまり嬉しかないと思うんだが。塩浦嬢のダーリンにも同じようなのをプレゼントしたそうだが、本当にどうやって食べるのだろう。
 で、肝心のシノプシスであるが。
 「どうだった?」
 「あ、あれ? ボツ」
 ……半年間、トリックを練って、実際に脚本を2稿まで書き上げてこれである。みんな厳しいなあ(T_T)。でもやりたいものをやらなければ劇団としての独自性は生まれないので、適当なところで妥協しないその姿勢は立派である。
 二週間後に会うときまでに、メンバーがそれぞれアイデアを持ち寄ることで次回作は保留と言うことに。まあ、アイデアはまだまだあるので、みんなが「これやりたい!」と言いたくなるようなものを出さねばな。
 鴉丸嬢は小林泰三の『玩具修理者』のようなものがやりたいとか。「今度は明るいものを」という意見はあるが、そう言いながらやはりどこかダークなものを志向する傾向がウチのメンバーにはなぜかあるようである。
 実は私の出したシノプシスも、純愛ミステリーをやろうとしてやはり暗くなってしまったもの。どうせボツなので、ここに披露して供養するとしよう。ただし、これを読んだ人がトリックを勝手に流用したりせんように。

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 『水の中の失楽』(仮題)

 ある水族館で、少女が紳士に語り始める。 

 茉莉が恭介と知りあったのは、その寂れた水族館だった。
 彼女は不登校の女子高生で、彼はそこの警備員だった。
 ひょうきんだがどこか寂しげな恭介に、茉莉は少しずつ惹かれていく。

 ある日、恭介のもとを一人の女が訪れる。しかしその時恭介は席を外しており、茉莉が留守番をしていた。女は唖らしく、身振り手振りで恭介の知り合いであることを茉莉に知らせる。恭介の過去を知っているらしい女の存在に狼狽する茉莉だが、ふと自分が恭介のことを何も知らないことに気づく。茉莉はこの謎の女から、恭介が戻るまでに何とか彼の秘密を聞き出そうとする。
 かろうじて知り得たのは、女がかつて恭介と深い関係にあったらしいということだけだった。しかしそれだけで十分だった。茉莉は呆然とする。
 渡したいものがある、と女は重いボストンバッグを持ってきている。しかしその中身を決して茉莉に見せようとはしない。茉莉は何とかしてその中を見たいと思い、女の注意をそらそうとするが、どうしてもそのバッグを手放そうとはしない。

 何も知らない恭介が戻ってきて、女を見て驚く。女の名前が葉子であることがそこでわかる。恭介は葉子のバッグを引ったくるように奪うと、どこかへ去っていく。後を追いかけようとするが、心臓が弱いらしく、その場にうずくまってしまう。恭介を追いかけて茉莉も出て行く。
 一人残された葉子は、ふと、何かに誘われるように水族館の奥へと入って行く。

 一週間後。
 心臓発作で死んだ葉子の再調査に、探偵の環がやってくる。葉子は実は大会社の社長令嬢であった。恭介は以前その会社に勤めていたことがあったのである。
 環は、恭介が何らかの手段で葉子をショック死させたのではないかと疑っていたが、決め手がなく、当たって砕けろとばかりこの水族館にやってきたのだった。
 恭介と茉莉は、その時現場におらず、外で言い争っていたと証言する。それは他の人間にも目撃されており、二人のアリバイは立証できたかのように思える。
 しかし、疑問は残っていた。
 あのバッグが、あの時以来、行方不明になっていたからである。また、葉子がなぜあの時外に出ずに水族館の奥へ行ってしまったのか、その謎も解けないでいた。
 環は、バッグの中身が恭介と葉子との間にできた赤ん坊ではないかと推理する。葉子は携帯の振動で水族館の奥に誘い出される。そして裏口から回った恭介と茉莉が、赤ん坊の死体を水槽の中に投げこむ。それをガラスごしに見た葉子はショック死したのではないかと。携帯は後で茉莉がそっと抜き取り、あたかも自分のものであるかのように偽装したのだ。唖の葉子が携帯を持っているとは思わないから(実際は画面を見ることはできるので、メールのやりとりをしていた)、警察も携帯が紛失していたことに気づかなかった……。
 しかし、恭介はその推理を一笑に伏す。
 なぜなら、恭介は男装した女だったからだ。精神的には男であるために、男の格好をしているのだと恭介は言う。女に女を妊娠させることはできない(茉莉はもちろん、恭介を女と知って愛していた)。更に、心臓が悪くペースメーカーを胸に入れている葉子が携帯を持っていないのは当たり前であった。
 恭介(実は恭子)は隠していたバッグを環に見せる。中身はただのガラクタだった。何でこんなものを葉子が持っていたか分らないが、自分は係わり合いになりたくなかったので、葉子は初めからバッグなんか持っていなかったかのように嘘をついたのだと。
 結局、葉子の死はただの心臓発作だったのかと落胆して環は去っていく。

 環が去った後、恭子と茉莉は熱いキスをかわす。茉莉は葉子を殺したのがやはり恭子ではないのかと責める。
 ずっと一緒にいたのに、どうやったら葉子を殺せるのかと反駁する恭子。茉莉は、恭子が持っていたバッグの中身がただのガラクタだったことが気になっていた。バッグの中身を葉子自身も知らなかったのではないかと茉莉は推理する。バッグを恭子のもとに運んでくるように頼まれただけではないのかと。
 もちろん、恭子に頼まれて。
 別に葉子を殺すつもりはなかった。ただ意味もなく重い荷物を運ばせ、葉子を苦しめたかった。自分一人が不幸であるかのように振る舞い、哀れんでもらおうと恭子にすがりついてくる葉子が憎らしかった。
 なぜなら、恭子もまた、身を業病に侵された身であったから。
 これは未必の故意による殺人ではないのか。
 恭子は答えない。

 しかし、もし、ほんの少しでも恭子に葉子への殺意があったとしたら……。
 恭子が愛していたのはやはり葉子だったのだと茉莉は気づく。

 少女=茉莉は紳士=恭子の父に語り終わる。
 恭子の父は恭子の死因が手術の失敗によるものだと知っている。助かるか死ぬかは五分五分であった。手術しなくても数年は生きられた。それを手術するように勧めたのは茉莉だった。
 数年の命を縮めることが復讐だったのかと恭子の父は問いかける。
 しかし茉莉は静かに寂しげな微笑を浮かべただけで、何も答えなかった……。 

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 題名はあくまで仮題なんで、竹本健治の『匣の中の失楽』をもじっただけ。でも展開そのものはそう悪くもないと思うんだがなあ。
 女房はトリッキーなもの自体、あまり好みではないようだし、ほかのメンバーも殺人にこだわる芝居はどうもねえ、と言ったような感触であった。
 するってえと、ミステリーやるなら北村薫や加藤朋子、はたまたはやみねかおるの線を狙わねばならんかなあ。
 よしひと嬢をミス・マープルみたいなおばあさん探偵にするのはどうか、といアイデアを出すと、女房が少し乗り気になる。その線で一本設定を考えてみようかな。

 ホームページに載せるダーリンの似顔絵を塩浦嬢から頼まれるが、どうせならそれも女房に描かせて夫婦ペアで載せたらどうか。あれ以上のインパクトはそうそうあるまいと思うが。

 さて、一部読者に人気の、今日の「桜雅嬢」情報。
 発生訓練のテキストに「寅さん」の口上を使っていたそうだが、「意味の分らない言葉とかなあい?」と聞いた途端、桜雅嬢、
「巨根って何ですか?」
 ……確かにあるんだよね、「巨根で有名は道鏡」ってセリフが。
 みんな一瞬詰まって、「パパに聞きなさい」と答えたそうだが、ホントに聞いたらどうするんだ(^_^;)。
 まあ「パパに見せてもらいなさい」と言うよりゃマシかな。それにしても、いい加減、桜雅嬢専任のオトナ教育係を誰かつけたらどうだ。

 帰りに久しぶりに「ビッグポーイ」に寄る。新メニューのハンバーグハヤシが美味い。看板通り「手ごね」しているのかどうか知らないが、肉汁が口の中でぱあっと広がるほどにジューシーなのは事実である。
 女房はと言うと、肉は食うが、野菜は食べない。「ここのはまずいから」と言うが、どこの店でも野菜は食わないのだ。多少味が悪くても、肉食ったときは余計に野菜を食わねばならぬので、サラダバーを三杯おかわり。

 帰宅して女房に特訓され、個人ホームページの表紙だけ作る。記事はまだまだ後。公開するのはもう少し先になりそうなので具体的な内容はまだこの日記には書かない。

 ようやくビデオに録っておいた『も〜っとおじゃ魔女どれみ』の第1・2話を見る。前作の『#』の展開に興味をなくしかけていたが、再びどれみ達を魔女見習いに戻したのは、確かにアザトいことではあるけれど、原点に帰ったのだと考えればそう悪いことでもない。『#』じゃ、赤ん坊の存在がドラマ上どうにも邪魔だったからなあ。どれみがあまりお姉さん、お母さん的になるのは「らしくない」印象をどうしても与えてしまっていたからなあ。
 でももうこれ以上、キャラクターを増やさないようにしないと、またセーラームーンの二の舞になっちゃうぞ。変身のバンクシーンだけ毎回長くなるだけの手抜きアニメにちょっとなりかけてるので、注意して欲しいものである。
 それはそれとして、新登場の帰国子女役の声優、英語が断然うまいが、ホントの帰国子女だったりするんじゃなかろうか。

 波津彬子『雨柳堂夢咄』4巻、案の定、ネタに詰まったのだろう、贋作師のライバルは登場しなくなる。代わりに準レギュラーになった「橋姫」のキャラクターがなかなかの出来。ようやく雨柳堂のうわ手を行くキャラクターが登場してきた印象。夢幻紳士に対する猫夫人みたいなものかな。まああの「冒険編」シリーズも後半どんどんつまんなくなって行ったけど、『雨柳堂』がそうなる心配はあるまい。ようやく次巻への興味が湧いてきたところで今日はもう寝るのであった。


2001年02月10日(土) 「html」って、はいぱあ・てくのろじい・まきしまむ・ろぽ……じゃないよな/映画『狗神』ほか

 連休初日の朝ともなると、布団から頭を出すのも億劫なものである。
 ウダウダとしつつ、波津彬子『雨柳堂夢咄』3巻を読む。前巻から登場した贋作師・篁青二郎、準レギュラー化した途端、実質上の主役となっている。役柄は思ったとおり、コンドルのジョー。というか、ニヒルな山岡士郎ってとこか。で、やっぱり女たらし(^_^;)。こういう過去にトラウマがあって、やや自暴自棄なところもあるキャラって、少女漫画の定番みたいなものだけど、それだけに新味を出すのは却って難しい。もう一つプラスアルファがほしいところだな。

 シネ・リーブルで『顔』のリバイバル上映を1000円で興行しているので女房を誘うが、あまり興味がない模様。以前はちょっと見たいようなことを口にしていたのに、賞を取ったので逆に興味が失せたのだろうか。確かに、カンヌやベネチアでグランプリを取るような作品でも、一つ宣伝の仕方を間違えば、全くヒットしないのが日本の興行の恐ろしさである。大阪では大ヒットと伝えられる『顔』だが、福岡じゃ単館上映だったしなあ。
 仕方なく『顔』は諦めて、前売券を買っておいた『狗神』を夕方から見にいくことにする。

 朝っぱらから女房に電話。何事かと思ったら、「リンガーハット」から、バイトの面接に合格したとの連絡である。いつの間にかそんなことしとったのか。
 「ウチから5分のとこだから、遅刻してもすぐ行けるし」
 「夜9時からの勤務でどうやって遅刻するんだよ」
 「でもホントはコンビニに行きたかったんだ。食べ物屋って嫌いだし」
 「だったら面接受けなきゃいいじゃないかよ」
 「だって夜の方が時給がいいんだもん!」
 ……金の亡者が。
 でも却ってその時間帯のほうが夫婦のすれ違いもなくていいかもしれんな。

 『トッポ・ジージョ』『サイボーグクロちゃん』の再放送をのんびり見たあと、いよいよ女房からホームページの作り方を教わる。
 個人ホームページを立ち上げたい、と考えていたのは、P.P.Produceのホームページを開設して以来のことだったが、どうせ作るなら『都筑道夫ひとり雑誌』くらいの規模のものを作らねば意味はない、と思いつつ、そんなこと言ってたら、いつまで経ったって完成するわけないじゃないか、と、半ば諦めていたのだ。
 しかしよんどころない事情でもとのホームページから日記をこうやって独立させた以上、これだけを読んでいただくというのも何だか申し訳ない。コンテンツはおいおい増やすとして、できるだけ早いうちにホームページを立ち上げねば、という気になってきたのだ。
 女房の使っていた『HTML入門』をパラパラとめくる。
 既にこの「えいち・てぃー・えむ・える」という言葉が、私に挑戦状を叩きつけているようなものだ。「えいち」なんて「はいぱあ」の頭文字だぞ。私の頭では「はいぱあ」などという単語が使われるのはSFの世界以外には有り得ない。何が「HEAD」だ「BODY」だ。お前は『嵐を呼ぶ男』か。……もちろん、こんなアホなツッコミを入れたところで、私の理解が深まるわけでもなんでもないのである。
 「イラストは載っけられんの?」
 「できるけど重くなるよ」
 「それは開きにくくなるってこと? 何で?」
 「色が多いと遅くなるんだよ」
 「単色ならいいわけ? 例えば白黒とか」
 「白黒は二色」
 「グラデーションは? 薄墨は黒って認識しないの?」
 「黒と白の間には灰色があるでしょ。全部違う色なの」
 「じゃあ赤とか青とか使えないんだ」
 「使えるよ。赤・青・黒なんか簡単。色の種類が決まってるのは早いの」
 パソコン名人(そんな称号あるのか)が聞いたら何てアホな会話、と思うんだろうなあ。果たして本当に開設できるのであろうか。
 それにしても、いつもはうるさがりの女房が、今回に限って私の繰り出すアホな質問に対して、全く嫌がりもせず受け答えしている。むしろ喜んでいるくらいだ。日頃、私が無愛想で、女房に向かって積極的に語りかけたりしないために、私のほうから「ねえねえ」と声をかけてくるのが嬉しくてたまらないらしい。他愛無いもんだなあ。
 数時間かけて何とか基本概念らしきものは把握したつもりだが、実際に作成する段階になったら、女房に助けを求めることになるんだろうな。ともかくこの休日の間に、タイトルやら記事やら、思いつけるだけ考えないとなあ。

 昼過ぎ、自転車で天神東宝まで『弟切草』『狗神』の二本立てを見に行く。
 途中、a.m.p.m.に寄って、お握りとから揚げを買って行く。本当はマクドナルドに寄ろうかと思っていたのだが、女房が「そっちの道は人が込むから」とわざわざ遠回りさせたのだ。……天神で込まない道なんてねーよ。どこも変わらんのに遠回りするほどのことがあるかい。
 もともと女房は天神が嫌いである。ともかく人が多いというのが嫌いな原因らしい。私も新天町や警固付近の雑然とした雰囲気はどうにも好きになれんのだが、博多に比べてそれだけ天神が繁盛してるということである。やっかみと受け取られかねないので文句はあまり言わんほうがいいかな。
 しかし天神自体は繁盛していても、天神東宝はどうなんだろう。ここでしか『狗神』はやってないから仕方ないのだが、いつ来ても客はあまり多くない。ともかく椅子と音響が悪いのである。スピーカーなんか真正面に1個しか置いてないんじゃないかという気がしてくるし(よく聞くとかろうじてサラウンドらしいのだが)、AMCやユナイトとは雲泥の差である。もっとも、博多にはそれ以下の福岡東映というのがあるが。
 天神東宝にしろ福岡東映にしろ、改装して大した年月が経っているわけではない。それどころか天神東宝に至ってはAMCより後発なのである。にもかかわらず、この環境の悪さはどうしたわけだ。オープン当時、テレビの取材を受けたことがあるが、悪口言いまくって、当然一切画面には映らなかった。でも、そういう欠点に会場側もようやく気がついたのだろう、今度ようやく椅子を全面リニューアルするそうである。
 次に見にくるのは『回路』か『クレヨンしんちゃん』か。その時にはゆったりした椅子に身をゆだね、心地よいまどろみを味わいたいものだ……って寝ちゃ映画が見られんてば。

 さて、肝心の『弟切草』と『狗神』なんだが、これ、両方とも感想言うにはネタバラシせにゃならんのだよなあ。本格モノではないにしろ、ミステリーとしてのどんでん返しがないわけではないので、そこに触れるわけにはいかない。
 だから結論だけ言えば、『弟切草』は無理があるし、ちょっとおフザケが過ぎた感じ。『狗神』は結構感心した、というところか。最近話題になった某映画のネタと同様のトリックなんだが、『狗神』の方が遥かにうまい演出。もともとこのネタ、よくあるパターンなんで、そのパターンの話だと気づかせない工夫が必要なのだ。今回、その迷彩のし方、映像ならではのもので、なかなかうまい。
 ……何のこと書いてるんだかまるでわからんよなあ(^_^;)。しょうがない、ストーリー以外の感想だけ書いておこう。
 『弟切草』、女性陣が意外な熱演(と言ったら失礼か)。奥菜恵も松尾れい子も、表情がちゃんと作れている。minoruって、昔『犬神家の一族』に出てたころは内田稔って言ってたよなあ。何でわざわざ芸名をローマ字にしたかなあ。しかし今回も変な芝居してたなあ。この人はセリフを喋らせると全くダメな人なので、一言も言わない役だったのは正解。
 『狗神』、前作『死国』よりも遥かに映画としての完成度は高い。人間の情念がリアルに活写されているのである。部分的にやりすぎの演出もないではないが、森や山を単なる背景としてではなく、人間を包みこむ風土として映像にしている点がすばらしい。天海祐希、渡部篤郎の演技も堂に入ったもので、安心して見ていられる。脇役で『カネゴンの繭』の浜田寅彦さんが出ていたのが懐かしかった。もうこんなおじいちゃんになっちゃったんだなあ。

 帰りに「ベスト電器」の「LIMB」に寄って、DVD『シティボーイズライブ・ウルトラシオシオハイミナール」を求める。以前に買っていたのだが、友達にプレゼントしたので、買い直しなのである。でも実はカードのポイントが溜まっていたので値段はタダ。店員さんとはもうすっかり顔馴染、目が合った途端に挨拶されてしまう。
 「これ、初回発売分ですか? 多分、初回分にはビデオプレゼントの応募券が入ってると思うんですけど」
 「あ、大丈夫ですよ、こういうのはそうそう再販されませんから」
 ……そりゃそうかもしれんが、ファンの前でそんなこと言うなよう。

 食料その他を買い物して帰宅。女房は睡魔に勝てずたちまち布団で高いびき。
 一人で録画しておいた『幻のペンフレンド2001』第6回を見、続けてWOWOW『バットマン』『バットマンリターンズ』見る。
 やはりバットマンシリーズはこの1、2作に尽きる。ティム・バートンとマイケル・キートンが組んだときに醸し出すこのダークなムードが、原人顔ヴァル・キルマーと、ナンパ男ジョージ・クルーニーには逆立ちしたって出せない。

 さて、明日は久々にP.P.Produceの練習に顔を出す予定である。台本の打ち合わせ等もあるので、考えておいたもののシノプシスくらいは作らないといけない。半徹夜になりそうだが、休日はそれもまたよし。……日記ばかり書いてないで、それを先にしないとねえ。


2001年02月09日(金) お姫様を探せ!/アニメ『タッチ・CROSS ROAD 風のゆくえ』ほか

 ここ二、三日、パソコンに某所から何10通ものメールが届くという変な事態が発生していた。どうやらイタズラモノがウチのメールアドレスを某所に勝手に送りつけていたらしいのだが、そういう被害が何千件もあったらしいのである。メールチェックした途端に「22件です」と表示が出て、「なんじゃこりゃあ!」と思わず叫んでしまったが、女房も何をトチ狂ったか「私じゃないもん!」と言い出す始末。当たり前だ。自分ちのパソコンにメール送りつけて喜ぶバカがどこにいる。……ホントにいたら寂しいぞ。
 昨日でどうやら事態は片付いたらしいのだが、ネットやってるとこういう被害に遭うこともあるのか。まあイタ電みたいなものかと今んとこのんびり構えちゃいる。徒らにネットそのものを犯罪の温床みたいに言うやからも多い今、慌てふためいてそういうアホな連中を喜ばせるようなまねをする必要もあるまい。

 朝6時、早めに起きると、女房がパソコンの前で恍惚としている。歓喜と疲労が同時に入り混じって固まっちゃったような……要するにイッちゃってる顔である。
 ひと月かかってようやく『花嫁はエイリアン』のデータをUPできたのが嬉しいのはわかるが、それにしても何て表情してんだ。気が抜けたときの女房の顔というのはアブナイ度75%なので、慣れない人が見たらちょっと怖いであろう。
 成果のほうは見ての通りである。しかもアレでまだ満足していない。鬼だな(^_^;)。
 しかしこれをすべてのダン作品についてやるつもりか。いったい何年かけるつもりだ。下手をするとライフ・ワーク……そのつもりなんだろうな(^o^)。

 ある本を読んでいると、ヤマトタケルについて気になる記述があったので、『風土記』『日本書紀』をあたる。
 『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と表記される、三船敏郎と高嶋政宏が演じたことで有名な(^o^)人物だが、歴史的にはほぼ伝説上の存在、ということになっている。日本で最初に女装した男だったりもする(^_^;)。
 いや、気になって調べたのは別に女装の歴史ではない。ヤマトタケルの妃、オトタチバナヒメ(弟橘比売)についてである。荒海にその身を投じ、海神の怒りを鎮めたとされる日本神話上最も悲劇的なヒロインであるが、実はそれ以外の事蹟については殆ど知られていない。
 ところが『常陸国風土記』にあるというんだねえ、この夫婦の仲睦まじい御幸の描写が。その本の作者は、海に沈んだはずのオトタチバナがなぜかその後もタケルと行動を共にしている、と書いていたのだが、ちょっとビックリして調べてみたところ、ホントにあった。でも名前がちょっと違う。「大橘比売」。
 さて、これを弟橘と同一人物としてみていいものかどうか。伝説上の人物の整合性を考えるのはあまり意味がないようにも思うが、あえてどちらの記述も事実とすれば、これは素直に別人と見たほうが自然ではないのか。「オトタチバナ」を失ったタケルが、名前のよく似た「オオタチバナ」に惚れた、と考えることだって出来るわけだし。『古事記』や『日本書紀』に「オオタチバナ」の名が見えないから同一人物だろう、と考えるのは実は根拠がない。女一人の名前が記録から消えることくらい、当時はザラだからだ。
 この手の我田引水は梅原猛あたりが最も得意とするところで、例えばタケルの双子の兄、オオウスノミコト(大碓命)の妻だったエヒメ(兄比売)・オトヒメ(弟比売)のうち、オトヒメが即ちオトタチバナヒメであったとし、更に海に身を投じた後は竜宮のオトヒメ(乙姫)になったという……。
 これはアレですな、為朝が琉球に渡ってキングシーサーになったとか、義経が大陸に渡ってジョン・ローンになったとか(ちょっと違うか?)いう意識が働いてそうですな。残念ながら、『日本書紀」をあたれば、オオウスの二人の妻の名がエトオコ(兄遠子)・オトトオコ(弟遠子)で、オトタチバナとは別人であることがハッキリ分るのである。自分に都合のいいデータだけ集めればどんな結論だって出せるよなあ。
 ついでに『筑前国風土記』を見てみる。福岡の「糸島」の地名、神功皇后が三韓征伐の時にこの地の人々のことを「いそし(よく働いて仕えている)」と呼んだのが「イソ」の地名となり、更になまって「イト」となった、と説明してある。
 でも変だなあ、『魏志倭人伝』には既に「怡土国」という地名が出てきてるんだがなあ。
 これ、「『博多』は『羽のかたち』をしているから『羽形』」というのと同じようなもので、あとから来歴をでっち上げた可能性が高いな。神功皇后ゆかりの地ということでハクも着くし。
 第一、三韓征伐はおろか、神功皇后の実在自体眉唾なのである。日本の天皇でほぼ実在が確実視されているのは、「倭の五王」、おそらくは神功皇后よりも6代ほどあと、雄略天皇のころにまで下らないといけない。あまり「万世一系」と威張らないほうがよいのである。

 昨日から映画に行きたい、たけしの『BROTHER』見たいと言ってたくせに、帰宅してみるとやっぱり女房はグーグー寝ている。
 「映画行かんのか〜?」
 「(布団の中から)うん」
 「『浜かつ』行かんのか〜?」
 「うん」
 ……こいつ、さては一人で昼、「浜かつ」でメシ食ってきてやがるな。ともかく寝惚けたやつの相手をしても仕方がないので、近所の商店で醤油ラーメンを買って来て、作って食べる。具は納豆フリカケのみ。質素な食事だがまあこれが普通だ。トンカツなんて贅沢モノ、しょっちゅう食うもんじゃないよ。

 CSで手塚治虫特集、『ユニコ』を放送。ああ、この映画にはいろいろ昔の切ない思い出があるなあ。まあ、それは置いといて(^o^)。
 手塚アニメに杉野昭夫キャラはやはり合わんよなあ、と苦笑しつつ見る。だって敵の男爵ってどう見ても宗方コーチ。……だから矢吹ジョーといいコブラといいブラック・ジャックといい、なんでみんな伏目になって、「フッ」と笑うんだよう。背筋にサブイボが走るぜ。アニメで宝塚を見たいわけじゃねーぞ……と悪態をつきかけてふと気づいた。手塚さん、宝塚市の出身で、宝塚の大ファンだったんじゃん。……意外と合ってるのかもなあ。
 映画としては第2作の『魔法の島へ』の方が上だと思うが、この第一作も決して悪くはない。ただ、2作目に比べるとどうしても細かいアラが目立つのである。脚本の辻真先、悪魔くんを再登場させたはいいが、さして活躍もさせないあたり、詰めが甘い。イルカの歌とナレーションは正直に言って邪魔。映画の世界に溶けこんでないし、基本的に歌が下手だと言うことを歌手本人が自覚してないのが辛い。単体で聴くとその下手さが却って味わいになっていいんだけどなあ。映画音楽にはならないんだよなあ。

 続けてこちらは新作、金曜特別ロードショーTVスペシャル『タッチ・クロスロード 風のゆくえ』見る。
 終わった作品の続編を無理矢理作るのはどんなものか、という考えは製作者のアタマの中にはカケラもないらしい。で、脚本が金春智子だもんなあ。何を期待せよというのか。
 文句言うなら見るなよと言われそうだが、見ないと批判もできんしな。初めからどうせ、という気持ちで見たら却って面白いかとも思ったんだが、甘かった(^_^;)。
 だいたいあだち充のマンガは熱血になりそうなところでサラリと外すところがよかったのである。『タッチ・背番号のないエース』(映画版第一作)で達也は和也の代わりにマウンドに立つべきではなかったのだが、映画としての完結性を求めるあまり、原作とは違う展開にしてしまった。既にあだち充の世界はそこで壊れてしまっていたのだ。
 今回の新作も既に『タッチ』ではない。達也がアメリカでマイナーリーグの選手になっていたり、南が新体操をやめてカメラマンのアシスタントになっていたり、という変化は別に構わない。問題なのは達也も南も最初から最後まで「頑張り」通しで、気が抜けるところが1ヶ所もないということだ。何でこうも余裕のないドラマを見せられにゃならんのか。脚本家自身が余裕のない生活してんじゃねえかと疑いたくなってくる。
 しかしなあ。日高のり子は南を演じるとどうしてこんなに下手かなあ。いや、日高さん自身は役者として随分うまくなったと思う。でも昔からそうだったが、南を演じるときだけ、達也を「愛する」気持ちを全く表現できていないのだ。この十年の日高さんの精進は何だったのだろう。タカヤノリコも天道あかねもしいねちゃんも大好きなのになあ。なぜ南だけ……。

 女房、今日も11時になって起きてくる。ラーメンがあると教えると、踊りながら狂喜して作って食べる。しかも「うまかっちゃん」のこくとんこつと「細打名人」の鶏がら醤油をブレンドするという、出来あがった途端、部屋中に鼻につく臭みが充満するほどの超濃い味である。……よくそんなの食えるな。私が食ったのはあっさり醤油味だと言うのに。しかも食い残してこっちに回してきやがる。……食えないくらいなら最初から作るな阿呆。
 しかもせっかく買ってきてやったザボンはひと房しか食わない。これだから栄養が偏るのだ。ビタミン取れよ。で、日光にあたれ。今でこそブクブクに太っているが、そのうち体壊して激痩せするぞ。……と言ったら「痩せれるんなら嬉しい!」とか言ったりして、却って喜んじゃうんだろうなあ、このアホンダラは。


2001年02月08日(木) ザッツ・エンタテインメント!/2000年度キネマ旬報ベスト・テン

 目覚ましを7時にしかけて置いたのに、いきなり6時ごろ女房に起こされる。ずっと一人で夜通し起きていたので、さびしくなったものらしい。
 「起きてる〜?」日頃は無愛想なのに、こういうときに限って女房は猫なで声になる。起きてるもなにも、今お前が起こしたんじゃ。テメエの都合で人の睡眠時間削るな。せっかく早寝してもこれでは何の意味もない。
 風邪はどうした、もう治ったのか……って、夜通しパソコンやってたんならもう健康じゃねーのか。女房、しきりと「腹が痛い腹が痛い」と繰り返すが、かと言って、私にどうにかできるわけじゃなし、甘えてこられても「寝てろマヌケ」としか言えん。

 で、やっぱり寝るのである。いかに女房が否定しようと、一日の半分、女房が寝て過ごしていることは紛れもない事実である。

 『キネマ旬報』2月下旬号、恒例のベストテン発表。
 もともとベストテン的なものは流行やムードに左右されるもので、大した価値があるとも思っちゃいないが、それにしてもベストテン上位に見てない映画が並んでいると、ああ、これも見逃してたかと何となく悔しい気分になってしまう。

 日本映画ベストテン
 1『顔』
 2『ナビィの恋』
 3『御法度』※
 4『十五才 学校検
 5『バトル・ロワイアル』※
 6『三文役者』
 7『スリ』
 8『独立少年合唱団』※
 9『雨あがる』※
 10『はつ恋』

 外国映画ベストテン
 1『スペースカウボーイ』
 2『オール・アバウト・マイ・マザー』
 3『あの子を探して』
 4『初恋のきた道』
 5『ストレイト・ストーリー』
 6『アメリカン・ビューティー』
 7『マルコヴィッチの穴』※
 8『グラディエーター』
 9『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
 10『ペパーミント・キャンディー』
 
 『三文役者』のように、やっと今月になって福岡公開という作品もあるにはあるが、※印の映画しか見てないというのはいくらなんでも少なすぎる。これで映画ファンだなんてとても口幅ったくて言えやしない。
 しかし女房が興味を持った映画を優先的に見に行っているので、ベストテン作品が少なくなるのも仕方ないのである。何しろ女房ときたら、映画に関しては思い切りマニアックな趣味をしている。数えてみたら、去年は洋邦合わせて50本は映画を見ているのに(邦画28本、洋画27本)、それでなぜこうまでベストテンを外すか(^_^;)。
 ついでだから、私も勝手に2000年ベストテンを、見た範囲の中から選んでしまおう。

 日本映画
 1『博多ムービー ちんちろまい』
 2『ジュブナイル』
 3『人狼 JIN-ROH』
 4『雨あがる』
 5『御法度』
 6『バトル・ロワイアル』
 7『BLOOD THE LAST VAMPIRE』
 8『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』
 9『ブギーポップは笑わない』
 10『さくや 妖怪伝』
 次点『クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶジャングル』

 完成度は二の次というのは、1位を見ていただければ分るであろう(^o^)。実際、こんな局所的なウケをねらった(しかも博多人にはウケても福岡人にはウケないであろう)映画が、全国のベストテンに入るわけがないのだが、こんな「作ったもん勝ち」の映画が存在し得たこと自体、前代未聞の大事件なのである。
 大阪や名古屋や札幌が映画を作った場合、それはその地域を拠点としてはいても、他の地方、ひいては世界に通じる映画を作ることができるであろう。しかしハカタにはできない。ハカタにグローバルな映画を作ることは金輪際できない。なぜならハカタは既に世界の中心だからである。……こんなバカな意識で作った映画なんて、恐らくはヒトラーの(とあえて言うが)『民族の祭典』以来だ(^_^;)。
 これに対抗できる映画を作れる国といえば、今や世界ではたった一つ、おとなりの……。ああ、むにゃむにゃ(-_-)zzz。
 2位以下は、欠点はあっても、「ここがいい!」と言える映像があるものを選んでいる。『さくや』などは松坂慶子が出ていなければ、そして私が安藤希ちゃんに握手してもらわなかったら、ベストテンにすら入らなかったであろう(^_^;)。

 外国映画

 1『サウスパーク 無修正映画版』
 2『マルコヴィッチの穴』
 3『マン・オン・ザ・ムーン』
 4『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
 5『スリーピー・ホロウ』
 6『リプリー』
 7『チャーリーズエンジェル』
 8『トイ・ストーリー2』
 9『ゴージャス』
 10『アイアンジャイアント』
 次点『アンドリューNDR114』でも『M:I-2』でも『インビジブル』でも『X-メン』でも『ファンタジア2000』でもどれでもいいや。

 『13デイズ』や『サイダーハウスルール』、『クッキーフォーチュン』なんかは迷った末落とした。
 しかし芸術映画や感動大作とやらに見事に無縁なベストテンである。『スペースカウポーイ』や『ダン・イン・ザ・ダーク』くらいは見に行きたかったんだが、女房が食指をピクリとも動かさなかったものなあ。まあ、それもよし。「映画は娯楽」というのは先祖代々の我が家の家訓であるし(いやホント)。
 でも私がいくら「バカ映画」が好きでも、『最終絶叫計画』や『ブレアウィッチ・プロジェクト』などはゴメンなのである。小学校の学芸会以下のレベルのギャグセンスやアイデアで映画を作られても、わしゃ笑いもせんしウケもせんよ。
 しかし『キネ旬』のベストテン、ジャッキー・チェン映画を全く無視してるってのは許せんな。『ラッシュ・アワー』も『シャンハイ・ヌーン』も一票も入ってないぞ。これって、映画をエンタテインメントとして評価しようって連中が殆どいないってことじゃないのか。恥だとは思わんのかなあ。

 ついでに、昨年物故した映画関係者のベストテン(^_^;)。
 もちろん、これも独断(好み)によるもので、あえて外した人も多々ある。チャールズ・シュルツ氏のようにアニメの脚本書いてても本業はマンガ家、という人も外した。

 1/30 御園京平(80)チラシ、ポスターその他、あの膨大なコレクション、どうなっちゃったかなあ。
 2/26 高原駿雄(76)クシャミ3回ルル3錠のおまわりさん。顔見ればすぐ分る、名バイプレイヤーの一人でした。
 3/24 小松原一男(56)『ナウシカ』に参加したことで才能をつぶされた気がする……。
 5/10 塩沢兼人(46)『ついでにとんちんかん』の再放送、今やってるんだよなあ。辛くて見られん。
 8/5 アレック・ギネス(86)「リタって呼んで(はあと)」誰もかの名優をコメディアンとは呼ぶまいが、コメディ演技を含めて、「どんな役でも演じられる」ホンモノの俳優はこの人くらいのものだったと思う。
 8/6 谷村昌彦(73)この人の顔と「訛り」を知らない人は日本にはいない。けれど名前を知っている人はとても少ない。でもそれが役者の誇りになることもあるのだ。
 9/20 徳間康快(78)『アニメージュ』はなんで徳間社長の追悼特集をしなかったのかな。社内的には嫌われてたのかもしれんが、その功績は正統に評価すべきではないのか。
 9/23 工藤栄一(71)時代劇を撮れる監督がまた一人行っちゃった……。昨年は時代劇作品が多かったように見えるが、実は生え抜きの監督は一人もいなかったのである。
 11/9 東千代之介(74)この人が晩年、映画やドラマに出なかったのはあまりにもったいないことだった。『バトルフィーバー』鉄山将軍役すら今の若い人は知らない。『紅孔雀』の浮寝丸の気品など、今の俳優には逆立ちしたってマネできんぞ。
 12/3 福田純(77)本多猪四郎の名声の陰に隠れて、あまりに評価が低すぎるように思う。音楽でも伊福部さんとあまり組めなかったのが不運だったように思う。

 帰宅すると珍しく女房が起きている。どう言うわけかと聞いてみると、いきなり目の前の棚に、20センチほどの高さの箱をポンと置く。
 「何それ」
 「いらんならやらん」
 「何だかわからんがもらおう」
 「……バレンタインの付録」
 箱をよく見ると、例のフルタの「百鬼夜行」シリーズの特別版、「赤鬼」「青鬼」セットである。
 ……こりゃ驚いた。ホントに驚いて声も出ない。あれだけ私のコレクションに文句をつけていたというのに、いったいどういう風の吹きまわしだ。
 マジで「ありがとう」のヒトコトも言えず、私が硬直したままなので、女房は不満顔である。かと言って「わぁい。嬉しいなったら嬉しいな」なんて踊り狂うわけにもいかんが。
 「……開けないの?」
 「ああ、あとで見る」
 そう言うのが精一杯で、箱を脇にどけた途端、女房、
 「ちぇっ、つまんない」
 そう言ってまた布団の中に潜りこんで行った。ホントにそれだけのために起きて来たのか。

 女房、一瞬の後にはもうイビキをかき始めている。改めて箱を開け、中身を確かめる。うわあ、赤鬼と青鬼、お釈迦様を金棒で踏み敷いてやがる。要するに天邪鬼を踏み敷く毘沙門天の逆ポーズなわけだな。相変わらず芸が細かいなあ。
 人形の造形もさることながら、付録がまたすごい。
 オフィシャルブックは第1、第2弾両方の妖怪全作の写真に加え、解説も充実、田島昭宇ほかゲストマンガ家のイラストまで付いている。解説(「妖怪ポスト」というタイトルが心憎い)によれば、フィギュアのパッケージにあった「お払い済み」というのは本当で、「門真神社」と「安倍晴明神社」で本当にお払いしたあと出荷しているそうで……気が入ってるなあ(^_^;)。
 京極夏彦謹製の「妖魔退散」お札に、各種絵はがきもブラックジョークが効いている。「泥田坊」に「ハッピーバレンタイン(はあと)」なんて言われたって嬉しかないぞ。
 ああ、しかも更にスペシャル版として「妖怪船」の発売だと?! ……誰が買うんだこんなもん、と実は内心では思っていたのだが、確かにヒットしているのだなあ。
 愛想のない夫で悪いが、本当に嬉しかったのだ。ポーカーフェイスの夫と結婚したのが身の不運と諦めてくれい。

 女房は今日、本当にどうかしている。冷蔵庫にビーフシチューパイや、キーマカレー(ナン付き)まで用意している。たまに親切にされると、不幸の前兆のようで怖いなあ(^_^;)。 

 阿部ゆたか・丸伝次郎『名探偵コナン特別編』12巻読む。多分学年誌か何かに連載されてるんだろう。現物にあたったことがないので何とも言えんけど。でも明らかに小学生向けで、まともにミステリーとして評価するのは酷というものだろう。小学生へのミステリ入門編としてはまあ、そこそこの出来である。

 CSで録画しておいたニュー東映、近衛十四郎版『柳生武芸帳』見る。今時の若い奴らあ、柳生十兵衛といえば千葉真一くらいしか知らんのじゃないかと思うが、鞍馬天狗がアラカンであり、旗本退屈男が市川右太衛門にトドメをさすがごとく、十兵衛といえば近衛十四郎であったのだ……って、知識では知っていても見たことなかったのよ。だからこそ見たい見たい見たいと何十年も思い続けてやっと見られたと言うのに……。なんだこのトリミングは。最悪なんてもんじゃない、シネスコサイズをぶった切ってテレビサイズに合わせたのは仕方ないとしても、誰もいない画面を映してどうする。昔のテレビにはよくあったが、今時こんな酷いトリミングしてたら放送局は苦情と抗議が殺到するのではないか。パンするくらいの芸当はできんかったのか。
 肝心の中身はというと、五味康佑原作による正編であるにもかかわらず、十兵衛の両目が明いていたり(史実ではそうだったらしいが)、違和感が相当にある。と言うか、十兵衛シリーズが本当に面白くなったのは原作無視の展開になってかららしいし(映画って大抵そうだよな)、あと何作か見てみないと、評価は下しにくそうだ。史上最強の殺陣、と言われた動きも狭いテレビ画面じゃとても堪能できない。……でも十兵衛のライバル、霞の多四郎が品川隆二というのは、後年の『素浪人月影兵庫』を髣髴とさせて嬉しいキャスティングだった。

 気がつくと12時過ぎ。ああ、早寝し損ねた。女房ショックのせいだな(^o^)。


2001年02月07日(水) ♪それ行け、不倫不倫不倫、どこまでも♪/『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』ほか

 脚本家、松原敏春氏死去。まだ53歳だ。若いなあ。
 名前だけはよく見かけるものの、この人の作品だから見る、という意識を持ったことはなかった。にもかかわらず、そのフィルモグラフィーを見てみると、結構好きな作品が多い。『ゲバゲバ90分』がデビュー作だったとは、トシの割りに結構古い。1969年だぞ。当時慶大在学中だったということだが、アレだけ先鋭的なギャグを(スタッフの一人だったとしても)21歳で考え出していたというのか。最終回、セットが掃けたあと、ぽつんと残った電話が鳴り出し、スタッフが受話器を取り、「はい、『ゲバゲバ90分』は今日で終わりです」と言ってそのまま去るという、余韻を全く残さない演出、アレはショックだった。いったい誰が考えたのだろう、松原さんだったのだろうか。
 『カリキュラマシーン』と並べると、私と同世代のコメディーファンなら絶対に忘れてはならない両作品に関わっていたのだ。そういう人を認識していなかったとは不明なことである。
 奇しくも遺作は『菊次郎とさき』。コメディアンのルーツを探ることを始めていた矢先だったのだろうか。

 この日記を借りて以来、ほかのホームページの個人日記も時々覗くようになっている。人気投票のシステムもあるので、さて、どんなモノに人気があるのやらと1位を見てみると、毎回決まって『secret LOVE日記』というところ。
 うわあ、これはいわゆる不倫日記ではないか。まあ別段私はモラリストでもなんでもないので、誰が誰と不倫しようが構わないのだが(あ、私が浮気したいという意味ではありませんよ、念のため)、その「不倫」という点を除いてしまえば、そこに書かれてあるのはただの切ない「恋愛日記」である。逆に言えば「不倫」という付加価値がついただけで世の人々はかくも好奇心をそそられ、スキャンダラスな匂いを嗅ぎ取り、鼻息荒く目をぎらつかせてコトの推移を追いかけ、恐らくは「破滅」を期待しつつ、投票を続けているのだ。
 下らん、と切って捨てるのは簡単だが、実のところ我々は「愛」というモノに何の価値もなく、その付加価値たる「スキャンダル」のほうにこそ真の価値があることに気づいている。しかしその付加価値は本体たる価値がなくば存在し得ないものであり、ゆえに形骸的な価値に過ぎない「愛」が未だに「スキャンダル」の母体として珍重されているという実にややこしい情況を呈しているのだ。
 つまり「破局する愛」こそが現代の愛の<客観的な>理想形なのである。で、それを忠実になぞったのが数年前の「失楽園」ブームであるわけだが、正直な話、レシピに忠実過ぎるメニューには食傷気味である。そろそろまた別のムーブメントが出てきてもいいのではないか。
 いや、日記についてここまで突っ込む必要はないんだけど。

 女房、ようやく『花嫁はエイリアン』のデータ収集を終えたらしい。字幕を全部ノートに書き写し、シーンごとに見えるアイテムをいちいち確認して、そこから映画の「作り」そのものを浮かび上がらせようという試みだが、今時大学生でもやらないような作業をよくやれるものだと感心する。この方法に更に分析能力が加われば、立派な評論家になれるんだが、そこで女房はいつも言葉を失ってしまっているのである。
 女房はいつも口喧嘩で私に負けるとベソをかくが、要は対象を批評することで何を表出させられるのかという分析ができないから負けるのである。あともう一歩ってとこなのに惜しいなあ、と我が妻ながら思うのである。

 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』読む。……と言うより、見る。
 これが実に面白い。
 題名どおり、大正から昭和初期にかけて、詩人の朔太郎が撮った写真を集めたものだが、ただ有名詩人が撮った、という点で面白いのではなく、その殆どが「ステレオスコープ」なのである。つまりは立体写真。……いや、大正だよ。ちょっと一瞬目を疑ってしまった。
 マンドリン、手品ほか、当時としては斬新な趣味を数々もっていた朔太郎だったが、「普通の写真には全く興味がない」と言い、「立体写真は光学的に郷愁を写す」とまで言いきった朔太郎のそれは、徹底的に「奥行き」のみを追求した写真集であった。
 そこに写される風景の中心になっているのは大抵が消失点を持つ「道」である。その道の先にあるもの、詩人がその奥行きの果てにあるものを見続ける時、この世のどこにもない世界、それは例えば『猫町』のような、現実のはざまに見え隠れする夢幻境が、もしかしたらどこかに本当に存在しているかもしれない、という気にさせてくれるのだ。
 解説は朔太郎の娘、葉子と、その息子、朔美。
 実は萩原朔太郎と朔美が祖父と孫の間柄だということをずっと知らなかった。名前が似ているのでそうかもしれないと思ってはいたが、それを確認する文章に長いこと出会わなかったし、何となく朔太郎マニアでつけた芸名ではないかと疑ってもいた。『毛皮のマリー』の美少年が耽美派詩人の孫というのはいかにも出来過ぎで、にわかには信じがたかったせいでろう。

 仕事から帰宅、何とか『パワーパフガールズ』の時間に間に合う。
 ようやく悪役が出揃った感じだが、どうも今一つキャラクターが立っていない。作りこみ過ぎとでも言えばいいのだろうか、主役陣がシンプルなのに対して、「彼」にしろ「ギャング・イン・ギャング」の面々にしろ、ゴテゴテしていてまるで『ウルトラマンA』の超獣である(譬えがオタク世代にしか分らんな)。『バットマン』シリーズの悪役のシンプルかつ強烈なイメージを望むのは酷かもしれないが、ヒットシリーズは、大抵、敵役の方が主役を凌駕するほどのキャラクターを持ってこそ生まれ得るのである。……って、今後どうにかなるのかなあ。
 『ワンピース』、やっとオープニングから見た。で、ドラマがオープニングで完結してしまっている(^_^;)。オリジナル編に入っているが、ストーリーの骨組は恐らく次にやるだろう「アラバスタ王国編」と同趣向。そんなのやるくらいなら、原作追い越していいから、とっとと「ワンピース」の謎解いちまえ、と思ってるのは私だけだろうか。このままだと視聴率が落ちて、尻切れトンボのまま打ち切りってことにもなりかねないと思うが。

 ダラダラとテレビを見ているうちに睡魔に襲われ寝る。今日も女房はそのころになって起きてくる。困ったなあ、こうもすれ違いの毎日だと、女房のドジネタを日記にアップできないじゃないか(^o^)。


2001年02月06日(火) 文化はやはり相対的なもの/『NOVEL21 少年の時間』ほか

 朝、4時に目が覚める。
 早寝したら早寝したで、熟睡できずに目覚めちゃうというのは、私のカラダ、どうなっちゃってるんだ。
 居間を覗くと、女房がまたぞろパソコンの前でパコパコやっている。ホームページの改装、新企画を練っているもののよう。私もいろいろ企画協力したいのだが、ホトボリが覚めるまでは無理だしなあ。で、そのホトボリがいつごろ覚めるかは皆目見当がつかないのである。
 女房、自分の文章がぶっきらぼうではないかと気にしている。もともとの性格がぶっきらぼうなんだから仕方ないと思うんだが。

 日航機のニアミス事故も有明海のノリ不足も、我関せずでのほほんと毎日を過ごしているが、「ホーカ」シリーズをポール・アンダースンと共著していたSF作家、ゴードン・R・ディクスンの死亡記事が朝日新聞だけ異常に遅れて報道されたのには憤りを感じている(オタクだなあ)。今朝の新聞でやっと報道ってなんなんだ。読売は3日の夕刊で報道してたぞ。
 (ついでに言えば、朝日の『ののちゃん』、町内会長のナベツネが「ワンマンマンはワシがアレに似てるのではなく、アレがワシに似とるんじゃ」と言い訳してたが、つまりホンモノのナベツネとも他人の空似と言いたいわけだな(^o^)。あのヒトもそれで納得して訴えないでくれりゃいいがなあ)

 『地球人のお荷物』を読んだのはもう20年以上前、高校の文芸部の読書会で先輩が課題に出したのが初見だった。もうひと昔前だと、『共産党宣言』あたり読まされていたかも知れず、更に時代が下ると「あかほりさとる」ばかり読まされていたかも知れず、つくづくSFの時代に生まれついたことを神に感謝したい。
 何しろ「課題」で無理矢理読まされた本がメチャクチャ面白い、なんて稀有のことだったのだ。テディペアそっくりの宇宙人、ホーカたち(『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の「イウォーク」あたりを想像してみて下さい)は、大の地球マニア。地球人のマネをすることが最高の文化、と信じて疑わない。しかしかわいいくまちゃんたちに星をあげてB級西部劇ゴッコされてもねえ……地球人たちは自らの恥部をマネされているようで、頭を抱えてしまうのであるが、ホーカたちの趣味は次から次へと移っていき……。
 気づいた人は気づくだろうが、竹本泉の『ねこめ〜わく』、完璧にこの「ホーカ」のマネである。いや、そればかりでなく、この宇宙人が地球人のマネをする(ことで地球の文化そのものをからかう)やり方、小説・ドラマ・映画に多大な影響を与えている。
 女房愛するところのダン・エイクロイドの『花嫁はエイリアン』には、地球人の映画のマネをして、キム・ベイシンガー扮する宇宙人が、ダンに、軽いキスからディープなキスまで、ありとあらゆるキスをするシーンがあるし、果ては地球最高の文化はジミー・デュランテという(この人の映画、クリップでしか見たことないんだよなあ)……(^_^;)。
 「スター・トレック」オリジナルシリーズにも宇宙人がシカゴギャングになるエピソードがあるとか(情報元・エロの冒険者様。多謝)。カーク船長も眉根をあげて困ったことであろう。
 他にも似たようなネタはたくさんあったような気はするがパッと思い出せん。すごく有名なやつを忘れてる気もするけどな。この日記読んでる人で、「アレがあるじゃん!」と思った人、メールでもホームページの掲示板でもいいから教えてくださいな。

 デュアル文庫『NOVEL21 少年の時間』、最初の二編だけ読む。
 上遠野浩平『鉄仮面をめぐる論議』、これも「虚空牙」シリーズの一編、というよりついに……。いや、これを書くとネタバラシになるな。別の角度から書くことにしよう。
 この「虚空牙」シリーズ、宇宙戦争や地球上の内戦を描いているが、登場人物の戦争に参加している感覚が、異常に希薄なのである。死にゆく者すら、それが戦争であることを自覚せずに死んでいくように見える。それは、書き手が戦争を知らない世代であるからというよりは(それを言えば今の作家は大抵そうだ)、結局ヒトはたとえ戦争のさなかにあろうと、自分が感じることのできる範囲内の世界しか理解し得ない、ということを作者が直観しているからであるように思う。……でなければ戦争の中での恋なんて有り得ないではないか。もっとはっきり言えば、どんな時代、どんな国、どんな文化の中にあろうとヒトは孤独であり、ゆえに未来は閉じていて開かれている(禅問答か)ことをこの作家は常に語りつづけているように思う。
 しかし講談社に書いたり徳間に書いたり、上遠野さんはもう「ブギーポップ」シリーズは書かないのかなあ。映画のできがアレだったし、メゲたのかもなあ。
 菅浩江『夜を駆けるドギー』、パソコン内のサイト及び<実現した>ロボットペットを題材にしたSFというのは初の試みだろう。「パソコンの中は匿名性が高く、日常から切り離された本当の自分が棲息できる気がする」という主人公、もちろん「本当の自分」なんてものがどこかにあるように思っているのは少年らしい甘さだろうが、この設定が作品のアイデアに密接に絡んでいるから、モラリスティックにこれを非難することは、批評としては不当だろう。
 「逝ってよし」「オマエモナー」など、どこぞの掲示板でやたらと目にするタームが作中に散見するあたり、作者も相当ハマっているらしく、見ていて微笑ましい。パソコンネットの世界は確かに悪意に満ちた世界ではあるが、人間の悪意から目を逸らし、キレイなものだけ見ていたって、人や世界は見えてこない。作者の悪意を優しく見つめる視点はかえって清々しいのである。
 ……って、菅さんってガイナックスの人だったのか。なるほど納得(^o^)。

 ちょっと気になることがあって、『聖書』を調べる。
 何でも今度の『仮面ライダーアギト』、「アギト」って、てっきり「顎」の意味かと思ったら、「αにしてΩ」という意味だそうな。どこをどうひねくったらそんな意味になるのかよく分らんが、これ、確か「神」のことだよなあ、と思って見てみたら、『ヨハネの黙示録』の冒頭と最後にその記述があった。やはり神の自称、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」……あはは、『鴉』だ『鴉』だ。もちろんこれは同時に「ウロボロスの蛇」でもある。誰でもこのネタ、使いたくなるんだよなあ。ハンパに使っちゃつまんないから、私ゃ自分の芝居では全編このテーマで押したんだが、『仮面ライダー』でこのネタやるか? どうせやるなら「009」の方だろうに。
 1・2話録画しただけで見返してないけど、続けて録画しようかどうしようか。

 帰宅するとまた女房は寝ている。飯は一応カレーの作り置きがまだ残っていたのでなんとかなったが、さすがに明日あたりは酸っぱくなるのではないか。簡単なものでいいから作っておいてよ。

 CSで『あんみつ姫 妖術競べの巻』見る。
 あんみつ姫は雪村いづみ。当然歌もたっぷり、日本のミュージカルはやっぱり時代劇でやるのが一番華やかでいい。敵の妖術使いに益田喜頓、おお、しかも殺陣まで見せる! こりゃプログラムピクチャーとは言え、結構拾いものだった。
 三人娘って、今見るとかわいくはあるけれど、まるで美人とは言えない。やはり庶民的なところが受けてたんだろうなと思う。よく、「昔のスターは憧れの対象で、まさしく手の届かない『星』だった」、なんて言うヤツがいるが、高峰秀子だって、庶民的で親しみやすいところが人気の元だったのだ。高嶺の花じゃ人気は出ないよ。
 『あんみつ姫』の原作もそろそろ復刻してくれないかなあ。もちろん竹本泉じゃなくて倉金章介の方ね。昔、講談社マンガ文庫で出た時、『てんてん娘』は買ったんだが、『あんみつ姫』は買い損ねていたのだ。

 女房、こちらがそろそろ寝ようか、というころになってやっと起きてくる。で、いきなり「トンカツ食いたい」。……さては『浜かつ』の「990円シリーズ」のCMに惹かれたな。
 「そんな贅沢をする金はねえ」とつっぱねる。自分の食費は自分で賄えと言うとるのにこいつはしょっちゅう私にタカってくるのだ。
 「ワリカンなら考えてやってもいい」
 「ワリカンだとお互い少しでも余計に食おうとするから、かえって損するからいやだ」
 ……それはお前だけだ。自分のイジマシイ基準で人を判断するんじゃねーや。
 結局外食はなし。第一カレーがまだ残っているのだ。それを先に片付けんかい。

 寝がけに風呂に入って、波津彬子『雨柳堂夢咄』2巻読む。一編一編が短くて、寝ながら読むのに丁度好い。長期連載になると、どうしてもキャラクターを増やして次の展開を図らねばならないが、いかにもライバルっぽいニセ骨董作りを登場させたのはどうか。この手の悪漢キャラは魅力的なだけに下手をすると物語世界自体を壊しかねないくらいに動いちゃうものなのだ。作者はストーリーテリングがうまいとは言えないだけに、今後が大変そうだ。

 就寝は12時過ぎ。できればもう1時間は早寝したいものだ。


2001年02月05日(月) 恐怖のブラック・メール/『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』(吉岡平)

 元来、記憶力はないほうなので、その日あった出来事をその日のうちに書いておかないと、翌日に持ちこした日にゃあ、昨日のことなどスッパリ忘れていて、何を書いたらいいのやら解らなくなってしまう。
 勢い、日記を書き始めるのが11時、12時なってしまうわけで、翌日が早出の仕事だと、睡眠時間が4、5時間ということにもなりかねない。しかも寝惚け眼で書くものだから、あとで読み返すと文章がヘロヘロ、ということも多々あるのである。
 体調崩すもとにもなるので、今日から早めに日記を書くことにしようと思う。書き終えたあとで起こったことは、覚えていれば翌日付け足して書こう。この日記を毎日ROMしてる人は(数は少ないでしょうが)、前日の日記も読み返すようにしてみてくださいね。

 私の風邪が移ったらしく、今日は女房が熱を出してダウン。腹も壊している模様だが、まさか昨日の味の薄いカレーのせいではあるまいな。鈴邑夫妻は無事であろうか。

 吉岡平『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』読む。自分の書いた小説をりメイクするというのは珍しい行為だが、アニメ化され、登場キャラクターのイメージが膨らんだ今では、かつての原作があっさりしすぎていて、新たな顧客を呼べない、と判断したのではなかろうか。しかしキャラ設定がガラリと変わったものもあって、ハルミなどは旧作ではお色気で売るキャラだったのに、今回はロリコンキャラ……(^_^;)。これを時代の趨勢というのだろうか?

 『日本国語大辞典・第2版』第二巻をめくっているとついついハマって時間を忘れてしまう。辞書は魔窟だ。
 恵比寿様の正体、昔から気になっていたのだが、あのイザナギ・イザナミが海に流した蛭子だったとは。知らないことって多いよな(私だけかもしれんが)。おお、そうか! それで蛭子能収を「えびすよしかず」と読んでいたのだな! ……そう考えながら見てみると、あの人の顔、エビスにもヒルコにも見える……ってヒデエなあ。同じ海からの渡来神、ということで混同されていったものらしいが、そうなると、海から来て大国主を助けたコビト神、「少名彦名」もまた蛭子の後の姿、と解釈した安彦良和の説も信憑性があるような気がしてくる。
 ふと気づいたが、恵比寿様が常に座像で描かれているのは、あれが足萎えだからである。よくパレードなんかで着ぐるみの恵比寿さんが歩いている姿を見るが、あれはやはり神輿に乗せて担いでいかねばならんものだろう。差別的かもしれんが、柳田國男も指摘していたとおり、「欠損」は神の一条件であったとおぼしい。妖怪と神はもともと同一のモノであったのだ。
 もっとも私ゃ、ヒルコと聞くと、どうしても諸星大二郎の『妖怪ハンター』を思い出しちゃうんだけどね(^_^;)。ヱビスビールをヒルコビールだと思って飲むと、より味わい深いことであろう(^o^)。

 第一版との違いもいろいろと目立つ。
 「おきうと」は初版では「エゴノリの寒天」としか書いてなかったのが、「福岡の名産」と記述が付け加えられていたし、「おばいけ(尾羽毛)」も「鯨の尾肉」とあっただけなのが、「さらしくじら」と注がついている。全体的に方言の記述が充実したような印象である。
 もちろん新たに加わった記述も多く、「O-157」は当然旧版にはない。でも読み方が「おおいちごなな」ってのはどんなものだろう。大抵の人がこれは「おおいちごーなな」と長音で読むのではないか。同様に「H」の読みを全て「えっち」に統一しているが、例えば「HIV」などは「えいちあいぶい」と正確に発音している人も多いのではないか。熟考して欲しい表記もいくつか散見された。

 携帯電話に間違いメールらしいものが入る。メールの見方が解らんので、パソコンのポスペを開くと、
「携帯のメルアドは番号じゃないよ。またメールします。」とだけ。
 記名はkaoruさんとあるがいったい誰だ。困ったなあ、こういう時、どう対処したらいいか解らんから携帯はあまり持ちたくなかったんだが。
 これくらいなら何ということもないが、「今夜いつものところで待ってるわ、ウッフン」なんて間違いメールが入ったらどうしてくれるのだ。いくら間違いだと言っても、疑いの目を向けるのがウチの女房の性癖なのだぞ。家庭争議は必至である。
 メンバーの諸君に予めお願いしておくが、私の携帯にこの手のイタズラは絶対にしないように。シャレになんないから(結局間違いメールはそのままほったらかしときました。さして重要なメールでもなさそうだったし)。

 一昨日あたりから女房がチョコレートを懸命になって作っている。と言っても市販のチョコを溶かして混ぜ合わせ型に嵌めるだけなんだが、その量が半端ではない。糖尿で大量には食えんので、私用でないことは確かなのだが、そうなるとターゲットは誰だ。
 いや、別にヤキモチを焼いているわけではなく、ただ「被害者」の身を案じているだけなのであるが。

 横になって寝ながら、マンガ、波津彬子『雨柳堂夢咄』1巻を読む。
 怪談・奇談には「骨董屋もの」と言っていいような設定のものが多い。つまりは、骨董屋に預けられた品物に、かつてそれを持っていた人の思いが宿っていて……と言うアレである。
 もちろんその最も代表的な例は小泉八雲の『怪談』や『骨董』であるわけだが、文芸として完成される以前から、民間に「付喪神(つくもがみ)」の伝承は多々伝えられていた。「もの」に宿る、人の「思い」を日本人が大切にしてきた証拠だろう。それを称して「もののけ」と言う。
 ストーリー的には荒削りの感が強く、八雲や岡本綺堂の怪談にあるような闇の深淵が静かに広がる感覚はない。都筑道夫のモダニズムともほど遠い。話によっては「雑」という印象すら受ける。
 しかし逆にそれが原初的な、切なげでいて強い情熱を感じさせている。主人公の美少年があくまで狂言回しに徹しているのもいい。

 読みながらウトウトして、変な夢を見たような気もしたが忘れた。今日は10時には就寝。ひさびさの早寝である。


2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)

 二日続けて女房の夢を見る。
 いったいどうした、私に何があったんだ。
 幸いなことに内容はもう覚えてはいないが、間違っても「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ」というものではあるまい。どちらかというと、女房から「アンタはなんで私の夢を見ないんだ〜」とネチネチ絡まれ続けたせいであるように思う。

 体調がまあまあ元に戻ったので、これなら映画に行ってもよかったかな、という気にもなるが、大事を取ったほうが無難である。
 日記を読み返していても思ったが、こうしょっちゅう体を壊していては社会人として落第の烙印を押されたって仕方ないなあ、という気もしてくる。実際そういう扱いを受けること多いしな。でも烙印押す方には立派な人がお揃いなのかというと、そうでもないことは歴史が証明している(大げさな)。
 昔、アイアコッカだったか誰かが「太ったやつは自己管理がなってない証拠だから、企業のトップにはなれない」なんてトボケたこと言ってたが、これを真に受けて(というか利用して)デブ差別やってた企業人は多かったように思う。でもアメリカ人やヨーロッパ人の社長にそんなにスリムなやつが多かったかというとそんなことはないのは見ての通りだ。食わなくっても太る体質のやつはいる、ということすらわからんバカがトップに立ってた時代があのバブル期だったわけである。
 要するに人間というものは、お偉いさんは特にそうだが、下の者を縛る口実が常に欲しいのである。つまらんイデオロギーの強制は社会を崩壊させる要因に過ぎないということが解らんのかなあ。
 私は最近はソドムとゴモラの町ですら、神の勝手なきまぐれで滅ぼされたに過ぎず、ホントはそんなに退廃的じゃなかったんじゃないかという気がしてきている。

 ネットを覗きながら、BGMに『懐かしのTV番組テーマ大全集』をかけたりしていると、何とも懐かしい気分になる。大半は昭和30年代のもので、私が記憶しているはずのないものなのだが、そう感じてしまうのは、創世記のテレビが持っていた「大らかな若さ」とでも言えばいいような雰囲気のためであるように思う。
 中学校の頃、担任の先生から「『ブーフーウー』って知ってるか?」と聞かれてハイと答えたのが私を含めて二、三人しかいなかった。年譜を見ると放映終了が昭和42年である。前年に『ウルトラマン』が放映されていたことを思えば覚えていてもおかしくないんだが。人によっては思い出せる最初の記憶が七、八歳のころ、というやつもいて、いくらなんでも人生無駄に生き過ぎてるんじゃないかと思うんだが、逆にあまりに恥晒しな毎日を送っていたのでキレイサッパリ忘れてしまっているのかもしれない。
 子どもの育児日記を付けたり、ビデオカメラで撮りまくる親をバカと呼ぶのは簡単だが、子どもが大人になったときに、「おまえは昔ねえ」と言って苛める材料としては有効である。私もそれでどれだけやられたことか。自己反省の機会を与えるためにも「記録」は必要である。

 女房のアルバムをふと覗いてみる。幼稚園か小学生のころだろうか、どの写真の女房もみな笑顔だ。こまっしゃくれていて、いかにも生意気な顔だが、それでも子どもらしい屈託のない笑顔である。
 こんな笑顔、結婚して一度も見てないな。
 気がついたら泣いていた。
 夢に女房が二日も続けて出てきたのは、やはり私自身の思いのせいかもしれない。

 押井守『犬の気持ちは、わからない』、昔、実家で犬を飼っていたときのことを思い出しながら読む。
 実際、犬や猫って、何も考えてないよなあ。『パト』や『攻殻』でハードなイメージのある押井さんだが、もちろん私生活の顔もあるのであり、犬好きゆえの横暴な頑固親父、という感じはそばにいたらヤなやつだろうが、人としては共感できる。『101匹バセット大行進』はもし作られたなら、絶対見にいくんだがなあ。絶対スポンサーつかないだろうなあ。

 昼過ぎて、鈴邑、愛上夫妻+ふなちゃん、塩浦嬢来る。
 ふなちゃん、昨日節分用に買った豆の付録の鬼の面(赤塚不二夫作画)に見入っている。はや、オタクの片鱗が芽生えたか?
 みんなで公演のビデオ(編集前)を見るが、何か言いたげでズバッと言いきれない感じが強い。と言うか、どのように批評するのがベストなのか、その方法がまだ身についていないのだ。

 「演技が下手」と言葉にするのは簡単なのだが、どこがどう下手なのか、どうすればよくなるのか、それを指摘しなければ、意味はない。
 例えば、人形役の桜雅嬢、ラストで本を読む時は仕方がないとしても、人形でいる間はメガネを外させるべきだった。本人の目が見えようが見えなかろうが、「おすましリカちゃん」じゃあるまいし、メガネかけたアンティーク人形があるものか。それを指摘しないということは、メンバーが桜雅嬢を「見捨てている」のと同義である。本人がそれをイヤだと言っても、それを説得するのが周囲の役割である。……私ゃまさか本番までメガネかけるとは思いもしなかったのよ。
 桜雅嬢だけをまな板に乗せてしまって申し訳ないが、役者に限らず、スタッフがそれぞれに、何をするのが自分の役目なのかを考えることは、明らかに今後の課題である。
 私は簡単に「あいつ、言うこと聞かないなら切っちゃえ」みたいなことを言ってしまって、それはそれであまりよくないのだが、仲間のフリしてお互いに妙な遠慮をして、言いたいことも言わないのは芝居を作る上では逆効果だろう。
 たしえば私が「『ロミオとジュリエット』のロミオをやるぞ!」と言ったら誰も反対しないのか。「鏡で自分の顔を見ろ」とハッキリ言わんでどうする。私の心を傷つけたくないと思ったとしても、せめて「体重を三ヶ月以内で30キロ落としたら配役することを考えてやってもいい」くらいのことは言わないといかんだろう。もちろんそれを私が実行できたとしても「やっぱアンタじゃミスキャストだからダメ」と言うだけの冷静な判断が必要になるのである。
 今回の脚本、ウチのメンバーにアテ書きしたものでないために苦労をかけてしまったことは私の反省点である。しかしアテ書きしたらアテ書きしたで、「なぜ私がこんな役?」的な不満が出る可能性は常に有り得る。
 ロデムさんのシノプシス、プロットのみでドラマはまだない。次回作に使うとしたら、ウチのキャストに合うように相当改変せねばならない。かと言って、「やりやすい」ように改変されると思ってもらっても困るのである。ドラマがあくまで虚構の物語である以上、そこに登場する人物はどんなにリアルに見えてもやはり「理想」を体現したキャラクターであることは紛れもない事実であるのだ。
 簡単に演じられる役なんてない、ということを肝に命じてもらいたい。

 ビデオを見たあと、塩浦嬢の似顔絵を描く。ホームページに今度メンバーの顔を載せるのだが、写真がイヤな人は似顔絵を載せることにしたのだそうな。
 二点ほど描いたが、塩浦嬢、どうも今イチ気に入らない様子。そこで女房に、「おまえ描け」と命令する。……念のために言っておくが、女房に絵心はない。完璧にない。彼女のデッサン能力は幼稚園でストップしたままである。
 案の定、出来あがったイラストを見て、一同大爆笑。ピカソやダリも裸足で逃げ出すほどの傑作である。そのうちホームページに載るだろうが、その出来映えを堪能していただきたい。
 私も諸事情で顔写真は載せられないので、美形バージョンと毛虫バージョンを描いたら、みなが毛虫バージョンを選ぶ。くそ。

 塩浦嬢は一足先に帰り、残りのメンツで夕食。今日は女房手製のカレーである。
 女房には何度も注意しているのだが、具はたっぷり入れるくせに、カレー粉をやたらケチるので、毎回コクもなく薄いスープのようなカレーにしかならない。
 鈴邑君、やはり「醤油貸して下さい」と言い出す。見るに見かねて私がカレー粉と隠し味にソース等を注ぎ足して、何とかカレーらしくなる。毎回こうだからなあ。少しは料理も上達して欲しいもんだが。

 鈴邑夫妻、夕方には帰る。次会う時にふなちゃんはどれだけ大きくなっていることか。
 CSで『ダロス』を見ているうちにウトウト。今日は早寝だ。


2001年02月03日(土) 笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか

 今日も女房はずっと寝ている。昼夜逆転してるだけでなく、確実に一日12時間は寝ている。
 いいなあ。
 でも私も実は具合が悪くて仕事を休んで寝ていたのだ。すると、珍しくも久しぶりに夢に女房が出てきた。私はめったに女房の夢なんか見ないのだが、何を急にトチ狂ってしまったのだろうか。
 ところがこの夢、夢のクセに何の飛躍もないのである。ただただ女房とのごく普通の日常が続くばかり。退屈した私が冒険でもしようと思い立つのだが、どう冒険していいのかも分らない。「夢の中でもおまえとだとロマンの一つも思いつかんのだなあ」とタメイキをついた途端、目が覚めた。
 ……うーん、以前から女房との二人芝居がやれたらなあと思ってたんだが、深層意識は既に「それは無理」と答えを出しているのだろうか(^_^;)。

 パソコンにしがみついて、劇団のホームページの方の日記を懸命にこちらにコピーする作業。
 12月から11月と遡っていきながら、自分の過去の文章を読み返していくが、昔のことってホントに忘れているものである。備忘録のつもりもあって書いてきたが、こりゃマジで役に立つわ。
 単にこういう事実があった、ということだけではない、当時の感情が、多少の誇張があるとはいえ、文章からにじみ出ているのである。しかし、俺って、ウケねらいとは言え、ここまでぐーたらに自分のこと書かなくてもいいんじゃないかという気がしてくるなあ。でも真実を書くと、はっきり言ってシャレにならんのだ。
 感動させる文章、泣かせる文章、そういうものは実は意外と簡単に書ける。ただ、笑わせることはやはり至難のワザだ。これは意外と気づかれていないことだが、「泣き」のためのマニュアルは日本人は共通して持っているが、「笑い」については、そのフォーマット自体、実はまだ確立していないからだ。
 こう言いかえればわかりやすい。ある対象に対して「泣く」ことについてはタブーが殆ど存在しないが、「笑う」ことについてはそれが存在しているのだ。
 事故現場や葬式の最中に「笑う」ことはタブーだが、お笑い番組を見ながら泣いたって、そりゃ感覚が違うだけだろう、泣く人もいるさ、で済まされる問題である。タブーがないだけに、人は泣かそうと思えば泣かせやすいのである。
 なぜ「笑い」についてだけタブーがあるのか? 「泣き」と「笑い」がなぜ対照語として対置されているのか?
 「泣き」が基本的に対象とのシンパシーを築こうとする感覚であるのに対し、「笑い」は対象を拒絶し差別化することで成り立つ感覚である。当然、対象からの「反逆」が有り得るのは後者だけだ。「笑い」が人々の間に共通感覚として受け入れられるためには、その笑われる対象が明確に「差別されている」にもかかわらず、「これくらい別にいいじゃん」と考える人間の方が多いことが大切なのである。
 政治家が「笑われる」対象として選ばれやすいのは、世間のみんなが彼らが「権力者」であることを知っており、その権威を引き摺り下ろしたい衝動を我々が共通して持っているからにほかならない。
 だから、「弱者」に向けられる「笑い」はしばしばタブーとなる。それは多数の人々の共感を得られないからだ。
 「日記」を読み返して自分でもビックリしたのは、私のからかいの対象が見事なくらい「強者」にしか向けられていない点だ。これはかえって、嫌味ですらある。実のところ世の中の出来事や人々は簡単に「強者」と「弱者」に分別できるものでもない。複雑な状況を解き明かすわけでもなく、世間一般の常識に基いて「強弱」を規定した上に行われる「笑い」は実は大した批評性を持っていない。
 ……なんかそんなコムズカシイことまで、自分の日記を読み返しながら私は思っていたのである。大げさなこっちゃ。

 本棚をあさってみると、女房が読んだあと適当に突っ込んだままで、私がまだ読んでなかったマンガの類がゴッソリ出て来る。(その感想は明日書こう。今日はもう眠い)

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 で、続き。つい200番をゲットしてしまった。何人かにしか存在を教えてないのにカウント数がこれだけあるということは、少しは面白がってもらえてるのだろうか。反応を聞いてみたいが、読者の感想を書きこめるようなコンテンツは作れないのかな。

 北野勇作『かめくん』、デュアル文庫も次から次へと毛色の変わったモノを出してくれるなあ。私はハヤカワSFのJAシリーズ、角川文庫ジュブナイルシリーズ、あるいはソノラマ文庫に一番ハマった世代なので(ハヤカワの銀背には間に合わず、富士見ファンタジア文庫には今イチ燃えきれない)、このシリーズにはその頃の古きよきSFの雰囲気があるので、できるだけ買って行こうと考えているのである。
 この物語、設定はあるがメリハリのあるストーリーは特にない。と言うよりストーリーを必要としない。「木星戦争」に投入するために開発されたカメ型ヒューマノイド・レプリカメ。その一人(?)、「かめくん」の、地上での日常と思惟を坦々と語っていくというものだ。
 カメは結局カメだから、何か深い思索ができるわけでもない。ただのんびりとカメでいるだけである。しかし、ただのんびりと暮らしたことのある人なら気がつくことだと思うが、世の中はあまりにも苦しみ悩み、切なくなっている人たちで溢れかえっているのである。
 宇宙での戦いから帰還し、再び宇宙に旅立って行く。今度は無事帰還できるか分らない。つかの間の休憩の間の出来事。
 普通の日常が描かれているのに読後の印象がどうにもやるせないのは、この、人の好い、りんごが好きで、司書のミワコさんが好きで、平凡な日常が大好きなかめくんに、多分もう二度と会うことがないからだ。
 こういう「何となくSF」(今私が名づけた)、大好きなんだなあ。こういうのも書いてみたいなあ。

 マンガ、『ワンピース』17巻(尾田栄一郎)、ドラム島編、やっと終り。アラバスタ編もできたら3巻以上かけずにまとめてほしいなあ。でないといつまで経っても「ワンピース」の謎にたどり着けないぞ。でもこのままだと、最後の仲間、「音楽家」が登場するのは20巻以降か……? 既にポスト・鳥山明が尾田栄一郎であることはハッキリしてるのだから、リタイアさせるような仕打ちを編集部がしないことを望むまでである。
 『Q.E.D.』6巻(加藤元浩)、これも買っておいて女房が勝手にどこかにしまい込んでいたもの。主人公の燈馬想の妹が登場。エピソードごとに出来不出来が激しいが、今巻も多少、これは無理があるなあ、という感じが強い。偶然に頼り過ぎるトリック、底の浅い人間関係、プロットやストーリーの弱さももちろんだが、画力がミステリーに向いていないのもネックかも。……でも何話かに一つ、傑作書くこともあるんで、やめられないんだよなあ。
 『ダーリンは生モノにつき』5巻(吉原由起)、女房が思いきりハマって読んでるエロマンガ。もう5巻か。人気あるんだろうなあ。愛上さんも好きって言ってたし。二人ともこれはエロマンガではないと言い張っているが、「ちんこの曲がりぐあいも好きだよねーねー」なんてセリフが出てくるマンガがエロマンガでないとどうして言えよう。でも不思議だよな―。女の子って、「ちんちん」とか「ちんこ」とは口に出せても「ちんぽこ」は言えんのだ。世代によっても違うのかな。
 『ネコじゃないもん!』9巻(矢野健太郎)、惰性で買ってる第9巻、80年代前半の風俗、時代感覚を思い返すのには役立つか。主人公たちがデートが「名画座」に行くってのがいかにも時代。そうかあ、この頃の東京にはまだ名画座があったんだなあ。レンタルビデオでも下火になった今、もうちょっと持たしておいてくれれば、かえって今の方が名画座に行こうって若者も増えたかもしれないのになあ。
 『こち亀』123巻(秋本治)、25年前、ジャンプの新人賞を受賞した第一作の頃に、「『こち亀』は21世紀まで続くだろう」と予言していたら、バカ扱いされてたろうな。しかし未だに記号的な女しか書けない人だなあ。纏ちゃんみたいに活動的なキャラはまだ生きてるんだが。でも酔っ払った左近寺が「ときメモはギャルゲーじゃなくて純粋RPGだ〜」と叫ぶあたりは笑った。そうだったのか(^o^)。
 『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』7巻、シリーズなんでカットされるかと思っていた『夢カメラ』シリーズ、ちゃんと収録されていてよかったよかった。『スーパーマン左江内氏』は収録されるのかなあ? 巻末の藤本さんのご長女の解説で、藤本さんが「『ドラえもん』を止めさせてくれないんだ」と述懐していた、というのは、ああ、やっぱりなあ、という印象である。「手塚さんの『火の鳥』のような大長編を描きたい」と口にした時、ファンから「『ドラえもん』は大長編じゃないですか」と言われて苦笑いされていたというエピソードもどこかで見たか聞いたかした気がするが、藤本さんの心の葛藤を思わせる。

 夕方になって起きてきた女房に頼んで買い出しに行ってもらう。2500円しか渡してないのに、ほか弁を四人前も買ってきて、しかも頼んでおいた飲み物の類を買い忘れている。なぜもう少し慎ましやかに食えんかなあ。金がいくらあっても足りんぞ。
 喉あめを舐めながら、DVDで『ヤン・シュワンクマイエル短編集』を途中まで見る。

 夜、電話があって、鈴邑・愛上夫妻来る。ふなちゃんまた大きくなって既に10キロ。抱き上げると重い重い。
 「よだれ垂れますよ」と心配するお母さん。
 「赤ちゃんなら当たり前じゃん」
 愛上さんの話によれば、「汚いから赤ちゃん嫌い」という若い人も多いのだそうな。そんなのが子ども作ったりする世の中なんだよなあ。愛上さん、母親として世間の親子の絆の不在に関する憤懣を怒涛のごとく語る。でもあまりつっぱりすぎて無理はしないでほしいものである。
 ゆっくりとパソコンでホームページを見てもらったり、公演のアンケートの感想などを見てもらう。更に一緒に前回の公演のビデオを見る予定だったが、突然鈴邑君の携帯に電話がかかって、用事が出来て帰宅することに。
 というわけで明日もまたお二人(と赤ちゃん)は、ウチに来ることになったのであった。

 で、今日はこれで打ち止め。……今までで一番長く書いたかな。


2001年02月02日(金) ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか

 朝から喉が痛い。
 声がマトモに出ないし、部屋の中が乾燥していて咳が止まらなくなりそうなので、風呂に入り、女房のイソジンを借りて何度もうがいする。
 昔から風邪を引いたら風呂に入るなとよく言われていたものだったが、湯冷めさえしなければ、血行がよくなってかえって体によいそうだ。昔からの生活の知恵なんてのも意外とあてにならないもんだよなあ。
 ふと、排水溝を流れていく赤茶けた液体を見ていて気がつく。今まで、この溝のところに赤くこびりついていた垢の正体は流れきれなかったイソジンだったか! 私はあまりこの手のうがい薬を使ったことがないので何のヨゴレか分らなかったのだ。してみると女房のやつ、口を漱いだ後、お湯できちんと流しておかなかったな。汚ねえやつめ。

 その女房はよくここまで眠れるなあ、というほどに寝ている。結婚して足かけ十年、いくら言ったところでもうこの性格は変わりようがないので、起こしはしない。起こしたところでどうせ悪態ついてこっちの世話しようとしないのは目に見えている。具合が悪い時に無理矢理体力使って、癇癪を起こして、ますます疲れるのはご免被りたい。
 ああ、奥さんがもう一人欲しいなあ(いや、浮気がしたいという意味でなく)。
 てなわけで、熱っぽい体を布団に横たえて、一日過ごす。ゆっくり休んでなきゃいかんと言うことは分っていながら、ついビデオなんかを見たりする。私は既に本中毒、映画中毒なので仕方がないのだ(冗談ではなく、二日も本を読まないでいると禁断症状が出る。眩暈がして指先が痺れてくるのだ)。

 昨日届いたばかりのビデオ『人間風車』、舞台を見に行ったときはオペラグラスを忘れて行ったので、私の拙い視力では表情はほとんど分らなかったし、二役、三役をどのようにこなしていたかもサッパリだった。役者さん、みんないい表情しとるわ。
 売れない童話作家、生瀬勝久、いつもはふざけたギャグみたいな童話しか作らない彼が、斉藤由貴と恋に落ちたことから、一世一代の感動的な童話を書き上げる。しかし、その童話が賞の選考に残った頃から、逆に彼の運命を翻弄し始めて……。「運命の歯車が狂い始める」というのは演劇のパターンであると同時に人生の醍醐味でもある。何だか最近の自分自身の事情とも重ね合わせて、身につまされながら再見。
 阿部サダヲの知恵遅れの演技、やっぱりいいなあ。女性ファンが圧倒的についたというのもよく分る。
 ナマの迫力はないものの、ビデオは細部を見直すことができるので、聞き損ねていたギャグも確認できてよい。特に劇中劇の童話のタイトルが全て確認できたのは収穫であった。『鉄の爪兄弟』『狼酋長』『人間発電所』……タイガーマスク世代には感涙ものであるが、やっぱり童話のタイトルじゃないよな、これ(^_^;)。
 ビデオで見返しても楽しめるようなら、その舞台は充分成功作である。女房の反応が今イチだったので、ビデオで見たらつまらんかなとも思っていたのだが、そんなことはなかったのでひと安心である。女房が乗れなかったのは、劇中劇を多用した二重構造の仕掛けが見えすぎたせいだろう。特に童話であるはずの劇中劇が「ギャグでつないで最後に泣かせて」といった、80年代小劇場演劇っぽいのには違和感を感じてしまったのではないか。
 舞台で、俳優がセリフ自体は相手の俳優に向かって語られているはずなのに、カラダはしっかり観客の方を向いていることが多々ある。これを芝居における約束事と受け取れるか、不自然と受け取ってしまうかで、演劇に対する興味を喚起されるかそうでないか分れてしまうことがある。もちろん、観客へのアピールという点から、大抵の演出家は不自然さはさておいて大抵前を向かせたがる。
 昨日の『菜の花の沖』なんか、カムチャッカのロシア人たちと、高田屋嘉兵衛が船に乗って別れるシーンなのに、両方が同じ船の甲板にいて、嘉兵衛だけが後ろに下がり、同じ観客の方を向いて手を振っている、という不自然極まりない演出をしていた。でも客にケツ見せるより、不自然でもそっちの方が正解だったりするのだ。
 『人間風車』でも、クライマックスでは主役三人が前を向いている。しかし、それが不自然に見えないのは、彼ら三人が、その同じ視線の先に、劇中劇の主人公である「ダニー」のイリュージョンを見ているからである。
 ああ、この手があった。というか、この程度の演出、思いつかないとなあ。ウチの芝居の欠点の一つに、この辺の「観客不在」があるのだ。やはり芝居は数をこなして見に行かないとなあ。金はかかるけど。

 鴻上さんの『恋愛戯曲』も、中島らもの『虎をつれた女』も、見たいけど月に何本も行けんので、今んとこ諦めてるのだ。……でも、行きたいという人がいたらメールで連絡下さい。ホームページの掲示板にはもう書きこまないので、演劇情報もこれからはこっちの日記に書きます。

 DVD『サウスパーク』6・7巻、ようやく日本の放映分に追いつく。でも例のポケモンのパロディ、『チンポコモン』が収録されている気配はない。アメリカ発売のDVDには収録されてるというから、カットされたんだろうが、日本でのバッシングを気にしたというより、どうせあのカントクたちのことだから、無許可で勝手にパロったに違いなく、訴えられるのがイヤだったんだろう(^_^;)。
 しかし見られないとなると見てみたいものだなあ。AIQのどなたか、購入してないものだろうか。
 7巻から、恒例だった監督たちのイントロダクションがなくなっている。これも何か抗議があったのではないかとうがった見方をしたくなる。ある程度の「悪意」を許容できない社会は一種の全体主義社会と言ってよい。差別の錦の御旗の下に言論統制を行う風潮、アチラもコチラも変わらないのだろうか。

 一端昼寝をした後、熱は引いたようなので、昼間ずっとメンバーのある女性から頼まれた秘密の仕事にとりかかる。
 今度失敗したら私の命はない。嘘だけど。

 女房、5時過ぎてようやく起きてくる。案の定、買い物を頼むとしぶるので、「ならいい!」と怒ると、悪いと思ったのか牛丼を買ってくる。
 ……意外と優しいじゃん、と女房のことを見直してはいけない。女房は更に何人前も弁当やサラダを買いこみ、冷蔵庫の中に隠していることを私は知っているのだ。

 女房とDVD『六番目の小夜子』を4話まで一気に見る。テレビ放送の時は何話か見逃しているので初見のシーンも多い。しかしワンシーン、ワンカットに「少年ドラマ」のエッセンスが凝縮されていることに驚嘆。これは『愛の詩』シリーズなのにメイキングでスタッフ・キャストの誰もが『少年ドラマシリーズ』と言っているのがご愛嬌である。
 果たしてこれはミステリーなのかホラーなのかSFなのか、栗山千明扮する謎の転校生、佐世子の正体も亡霊のように思わせながら普通の女の子のようにも見え、更にエスパー?という展開すら見せつつ、二転三転するストーリーが秀逸。
 民放でキムタクのトレンディドラマ見てるひまがあったら、ちゃんと受信料払ってNHKを見よう(^o^)。

 夜になっても喉のいがらっぽいのは収まらない。でも明日は仕事も半日だけだし、何とかなるかな。でも女房は『鴉』のビデオの編集、どうするんだとせっついてくる。休日もゆっくりは出来ないかもなあ。


2001年02月01日(木) だ〜れだ?/舞台『菜の花の沖』

 午前0時、突然、女房が惰眠を貪る私を揺さぶる。
 「起きて……私じゃ、もう分らないの」
 何のことだ?
 寝惚け眼で上半身を起こす私に、女房は電話の子機を押し付けてきた。どうやら今し方まで、誰かと電話をしていたらしい。
 「……もしもし?」
 電話の向こうの声の主は女だった。そう、ウチの劇団のある女性である。しかし差し障りがあって、ここに名前を書くわけにはいかない。
 私は彼女からある依頼を受けていた。
 確かその依頼はもうずいぶん前に果たしたはずだ。……今ごろまさか、なにか支障が?
 「……ダメだったの」
 か細く、切ない声。女は果たして泣いているのか。
 「そんなはずはない。何度も確かめたんだ」
 「でも、どうにもならないの!」
 女は明らかにパニックに陥っていた。
 私は更に細かく、指示を出した。
 「そう、そこを開いてみて。どうなってる……? おかしいな、キズ一つないなんて……。もう一度試してみて。……え? 前より酷くなってるって?」
 ともかく、私が彼女の依頼に答えられなかったことは事実のようだった。
 「どうしたらいいのか分らない!」
 「わかった、ともかくもう一度チャレンジしてみる。……いつまでならいい?」
 私は期日を確かめ、早速依頼の件にとりかかった。
 失敗の原因は分らない。しかし、手はいくつかある。かつては何度でも成功していたのだ。慌てず、時間をかけさえすれば、再び幸運は私の星の下に宿るだろう。

 ……え? もったいぶってないで、何の話か教えろ?
 ……フッフッフ、手品のタネは見せないものなんだよ。小林くん(だれやそれ)。

 先日、佐川急便の不在者連絡票が届いていたが、心当たりが思い出せず、しばらく放置していた。
 ふと、申しこんだ芝居のチケットかもしれないと気づいて、昨日慌てて連絡を入れたのだが、今日になって届いたブツを見ると、さにあらず、舞台『人間風車』のビデオであった。
 実はこれ、正月早々に申しこんではいたのだが、あとで申し込み用紙をよくよく見てみると、申し込み〆切が去年の12月半ば。
 しまった、無駄に送金しちゃった、と思って諦めていたのだが、どうやら在庫があったらしい。
 舞台のビデオはナマに比べで半分以下、もしくは限りなくゼロに近いくらいその魅力を伝えてはくれないのだが、それでもこの芝居は見る価値があろう。女房にはイマイチだったらしいが、感じ方は人それぞれ、私としては、今まで見てきた芝居の中でもベスト3に入れていいと思っているほどである。
 塩浦さん、ダーリン連れてそのうち見においでね。 

 今日は月に一度の観劇の日である(いや、ホントに月一本は生の芝居が見たいなあ)。
 夕方から出かけて博多駅ウラの八仙閣で食事。ここの「エビのマヨネーズ風味」が女房のお気に入りである。担々麺に酢豚を頼み、更に棒々鶏をウマイウマイと食べてなお、「エビマヨは食わねば〜」と皿を舐める女房を見ていてふと気づいたこと。
 こいつ、妖怪「垢舐め」に似ている! ホラ、あの舌をびろーんって伸ばして風呂桶にこびりついた垢を舐めとるというおかっぱ頭の妖怪ですよ! ……うそだと思ったら水木しげるの妖怪図鑑の類を紐解いてみてください。
 そこにいるのは女房です。

 今日の芝居は司馬遼太郎原作、ジェームズ三木脚本演出、妹尾河童美術によるわらび座公演『菜の花の沖』。
 なんとこれ、時代劇ミュージカルであった。
 いくら世界の河童さんの舞台美術とは言え、地方巡業で作りこみは到底不可能だし、大したものはできまいと思っていたが、そこそこには工夫が凝らしてあったのが立派。牢屋の格子を、中黒幕にあてた照明だけで表現してみせた手際なんかは実に見事。
 でも「ラストで舞台いっぱいに菜の花を咲かせたい」とパンフの河童さんのインタビューには書いてあったが、感動できるほどの量でもなかった。最後はやはり、空から降ってくるほどの菜の花を見てみたかったと思う。
 脚本演出は所詮ジェームス三木で、なんの期待もしてなかったし、実際その通りになっちゃってた。話によると「演出」と言ってるわりにはたまにしか顔を見せなかったみたいだから、実質的な演出家は出演者一人一人であるのだろう。
 広いものだったのは前半ラストのパーティーのシーンで演じられたロシア民謡+日本民謡のアンサンブル。いやあ、こんなにぴったりハマるとはねえ。
 振付師は苦労したかもしれないけれど、要所要所で味のある演じ方をしていた。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)