あふりかくじらノート
あふりかくじら



 Now Playing...

仕事も早々に切り上げて、日が沈む6時前には
サンリッジのカルテックスに向かう。ひたすら、西へ西へと。

モザンビークにハリケーンが来ていて
とても被害がひどい様子。
ジンバブエの隣の国。
ひとが40人は亡くなっているらしい。
家々も壊れ、流されて。
大きな緊急国際援助が動くだろう。


西のカルテックスはとても込んでいて、
ディーゼル車のカローラのわたしは
巨大なトラックにはさまれてディーゼル待ちの列に並ぶ。

たくさんの大きな雲が、日が沈む直前の藍色を浮かべ、
あちらからこちらへと信じられない速さで流れていく。
地球では、何かが乱れている。


途中で停電があり(停電・断水はこのところいつもよりひどい)
給油がストップするも、しばらく待てば電気も戻り再開。
結局待ち時間は一時間程度だったかな。


すっかり夜になり、今度は現在休暇中の同僚のフラットへ。
一ヶ月以上不在なので、フラットの鍵を預かっているのだが、
今日は用事があって、彼の部屋を訪ねた。
すっかり日が暮れてしまっていた。

そこは、古いが高級マンションで、とてもすてきな雰囲気。
わたしは彼のフラットがとても気に入っている。
(まぁ、自分の家も好きだけど)
何せ、6階(日本でいう7階)だけれど、眺めが良いのだ。

鍵を三つくらい開け、見慣れたそのフラットへ入った。
キッチンの電灯が壊れているのは知っていたので、
そこにある小さな電気スタンドにスイッチを入れる。

キッチンの大きな窓から見える、ハラレの夜景。
ビル街が見えて、わたしたちのオフィスもみえる。
マンションがいくつか見えて、明かりが灯っている。
金曜の夜、ハラレ。

わたしはいつも、ここへ遊びにくるときはこのキッチンが
お気に入りだった。夜景がとてもきれいなのだ。

不意に、同僚がキッチンに立つ姿を思い出す。
お料理が上手な彼が、立っていたキッチン。
いつも戦争の後みたいに散らかしていたけど、味は一流だった。
わたしたちはよく、ごちそうになったあとの大量の洗い物を、
おしゃべりをしながら片付けていたっけ。

暗い夜、うつくしいハラレの輝きを見ながら、
わたしはこのフラットでひとり立っている。
主のいない誰かの家は、いつも淋しかったことを思い出した。
ほんとうに、しんとして淋しいのである。

とても静かで、でも彼の存在が微かに残っているようで。
彼がここでひとりで過ごす時間が残っているようで。
その不在が、心に沁みた。

もっとも、彼に会えないのもたった一ヵ月半くらいのものだし、
恋人でもあるまいしとは思うのだけれど、
毎日そばにいたひとがいないというのは、
それはそれで不思議な感覚である。


そしてわたしは、その不在の中にひとりで立っている。


その空気がわたしをすっかり取り込んでしまわないうちに、
逃げるようにして電気を消し、ドアをしっかり施錠し、
今度は今日旅から帰ってきたばかりの職場の人の家へ。
彼女とたくさんおしゃべりをしてから帰宅。
お届けものついで。


わたしは、わたしの存在感のある家の中で
かたかたとPCのキーボードをたたいている。

いま、かかっている曲は、村治佳織のギター。

ほんとうに静かで満ち足りた、ギターの音。
この夜に、しっくりくる。


風が強い。
ハリケーンがやってくる。

2007年02月23日(金)



 け、毛が生えちょる?

ぴぴぴぴーんっと…?
まじ?剛毛、白髪、逆毛だし…?ちくちく。

やっぱり、これは非常にまずいと思う。
わたしのカローラの左後ろのタイヤ。
今週はじめに、へにょりとしていたからガソリンスタンドで空気を入れてもらったのに、もうへにょりとしていた。
それでやっといつもの車修理の方(やっとつかまった!つかまらないんだもの!)にお願いし、ニュー・タイヤをセット。
しゃきーん。

あのね、タイヤに毛が生えるって相当なことよね。
といいますか、削れてワイヤ(毛?)がみえているということ。
いつでもバーストしておかしくないそうな。命の危険。あらら。
ほんと、安全性にだけはきっちりお金をかけないと。しかし、こういうものはとても高い。ジンバブエは、ほんとうに何にも生産できていないし、輸入するのも高いのだな。経済が崩壊するってこういうことだ。

わたしのカローラの酷使のしかたったらないとおもう。
ブラワヨ行ったしね。
ずいぶん遠出をしたし、四駆並にオフロードを失踪…疾走する。そりゃあタイヤも傷むよね。ごめんね。
で、新しいタイヤに交換したので、いちおうもっと新しいタイヤを買ってストックしておこうかと思う。

というわけで、また遠出をします。
そりゃあ、いま、某NGOの翻訳の仕事に忙殺されているわけだけれどもね、でも、行きますよ。三月後半には!
待ってろ、『ジンさんとゆかいな仲間たち〜トヨタ・カローラで行くムタレ・ブンバ、チョコレート・ケーキとコーヒーの旅二日間〜』!(勝手に命名)
道祖神も真っ青だね。

じゃ、みぞみぞしい車ではりきって通勤。
(ミゾがはっきりしているということか?)

2007年02月22日(木)



 積み重ねる時間と関係性。

このところの誰かとの会話の中で、自分が何度か話したことを思い出す。恋人との関係のあり方について。

ちいさな喧嘩を日々繰り返すのか、まったく衝突をすることもなくあるとき突然大きな衝突をするのか。

わたしのなかでは、きっとちいさな喧嘩を日々繰り返しているほうが良いのではないかなと思う。なんとなく。心の中にストレスをためていないというか、なんというか。


いまの恋人とは、喧嘩することはまずない。
きっと彼の寛容さのせいであろう。短気な自分が怒ることがない。それはそれでいいことなのかもしれないが。


何が良いことで、よくないことなのか。
それはわからない。

もう7ヶ月も会っていない。

2007年02月20日(火)



 他人の心を傷つけるとき。

無意識に他人の心を傷つけているというのは辛いことであるといったような趣旨の文章を、村上春樹の『ノルウェイの森』で見たように思う。
村上春樹の文章はいままでわたしの心のどこかを刺激してとても落ち着かなくさせたけれど、このところ、逆になんだかあのディテールの表現が、わたしをきちっとさせるのである。自分の人生に対して。


最近、誰かと心が行き違ってしまった。
それは、二週間ほどまえのことである。

約束をしていたけれど、それを反故にされてしまった。というより、ずっと前から言っていたのに、相手に答えをずるずると引き伸ばされ、結果として当日キャンセルにされてしまったのである。
わたしはこのことで、ひどく虚しい気持ちになってしまった。

不器用なのである。こういうとき、正面から打撃を受けてしまうわたしは、ときに愚直に誰かを信じて、それを待ってしまうから。だから、不必要に振り回される。傷つく。
それでも、相手から「イエス」が返ってきたときのために、相手を傷つけないようにと、わたしは予定を空いたままにしてしまうのである。


彼は、わたしがすっかり怒ってしまったものと思い込んでいるようす。人づてに聞いた。

でも、わたしは怒っていない。
ぽっかり空いた土曜日の予定には、虚しさや哀しさが入り込んでしまったけれど、そしてそのことでわたしはかなりふさぎこんでしまったけれど、それでも大切なことがある。わたしは彼を嫌いにはなれないのだ。

わたしは他人の心にずんずんと入り込んでしまうような人間である。
そして、特定の色んなひとと、深くお付き合いをしたいと考えている。ときにそれは、他人に対してある種の壁を作ったり、心をなかなかひらけないタイプの人間にしてみれば、余計なお世話というか、心に土足で入り込まれたような印象を受けてしまうのだろう。

そしてその彼は、その種のタイプの人間であるのかもしれないと、わたしは思う。心を開いてくれない、それでも表面的にはとても明るく面白いタイプのひと。でもほんとうはとても真面目。

反省すべきはむしろわたしで、その行為を謝るべきなのかもしれない。

ひとは、あんないい加減なヤツに振り回されるなんて馬鹿ね、と言う。
たしかに、いい加減である。
でもわたしは、このようなことで誰かを嫌いになったりはできないのだ。もっともっと、本質を知りたいと思ってしまうのだ。


丁寧に、ことばを選んで手紙を書いてみた。
ほんとうに、時間をかけて慎重に。

エゴかもしれない。押し付けがましいのかもしれない。
でも、人づてに彼が「もう、(怒らせちゃったから)彼女(わたし)とは二度と会えないでしょうね」と茶化していたということを聞くと、やっぱりそれではだめだと思ってしまった。
人間関係は、やはり努力して修繕したいと思うのだ。わたしが怒っていなくて、こういうことを考えているということを伝えたいと、あなたを嫌いになったり見限ったわけではないと、言ってあげたいのだ。

いままでは、情熱のままに突っ走って生きてきたわたしだけれど、最近では少しずつ落ち着いて物事が考えられるようになってきた。まえより孤独になってきたけれど、自分のために生きることができるようになったし、物事に少し丁寧に向き合えるようになってきた。
だからもちろん、電話もかけないし、この「サイレンス」を壊さない。
できるだけ静かに、気持ちを伝えたい。


わたしは彼から何も求めない。

返事もリアクションもいらない。それは自己中心的で一方的なのかもしれないけれど、関係はひとりではなく二人でつくるものなのだから、わたしはそれを手付かずにおいておく。何も求めない。それはある意味、ずるいのかもしれないけれど。


残りの任期をがんばってください、真面目なあなたのことだからしっかりやるでしょう。良い雨が降りますように。
そう締めくくった。

郵便事情が悪いので、たぶんわたしははるばる片道一時間半もドライブしてこの手紙を届けるんじゃないかと思う。こっそり、会わずに。次の週末に。


やっぱりわたしは、ときにすこしおせっかいなくらい、誰かとの関係を真剣に築きたいのだ。受け止めてもらえないのならば仕方がないのだけれど、それがわたしの付き合い方だ。


ときに、『ノルウェイの森』の「僕」は、何となくわたしの弟に似ているんじゃないかと思う。ねじを巻く生活をしているところ、テーブルや何かを作るところ、ぬかるみのなかに生きているところ。
「僕」をもう少しギターの上手い音楽青年にすれば、かなりわたしの弟に近くなるんじゃないかと思う。


今日わたしが丁寧に手紙を書いた相手の彼は、その弟と同じ歳である。

2007年02月18日(日)



 生活、自分のための時間。

金曜日の夜は、職場のお客様のご接待ディナーということで、某中華料理レストランへ。食事中ずっと「お仕事」の顔をしながら、お話をうかがいながら。こういうのも気がついたらずいぶん慣れてきたんだなとぼんやり思う。まあ、良くも悪くも。
興味深い話が聴けたのでよしとしつつ。

美味しいワインを頂戴した。
まぁまぁ、と。何杯呑んだかしら?
ということで、車は職場に置きっぱなし。

土曜日の朝、気持ちよく朝ミルク風呂を楽しんだあと、お天気も良いので、タウン行きのコンビ(ミニバス)を待つ。コンビに乗るのはひさしぶり。しかも、考えたら自分の家からコンビに乗ってタウンに行くのは初めてかも。
車があるのだし、コンビを使うのはたとえばハイデンシティの友だちの家へいくときくらいだったからだ。

(おんぼろ)バス好きのわたしとしてはとてもいい気分。
そして夕べのディナーとはえらい違い。「あの方たち」はきっと、「コンビに乗る」なんて想像もつかないだろう。このギャップ。
でも、コンビは庶民の足。最近はとても運賃が高くなっている。1,500ジンバブエドル。ロードポートと呼ばれる大きなバスターミナルへ降り立ったら、協力隊の方と遭遇。「どうも」「こんにちは」「何してるんですか」「バスに乗ってきたのです」云々。

バスターミナルからハラレ街歩き。
そう。普段車に乗っているわたしはさっさと目的地にいくだけで、ぶらりと歩くことがなかなかないのだ。夜はもちろん危険なのでダメだし、昼休みは短い。ほとんど店は土曜の午前中しかあいていない。で、土曜の午前中は街歩き。この街は案外大きくて、しらないところがいくらでもある。たくさんお店もある。飽きることがない。

歩きつかれたので車を取りに行き、今度はアボンデールのコーク・ロードにあるエスプレッソ・カフェでミルクシェークを注文。のどを潤し、疲れを癒す。
カフェのオープンテラスは静かで雰囲気がいい。その店は家具などの調度品が落ち着いていてわたしはとても気に入っている。テラスのまぶしさも良い。
ゆっくり座って、さいきん日本からまたこちらに舞い戻った研究者のお友だちに頼んで持ってきてもらった本を開く。『レンタルお姉さん』(これについては改めて書く)

お昼ごはんを食べ、本を読み終わった。
おもむろにお買い物をして帰宅。

仕事がたくさんあってほんとうに焦っていたけれど、あのカフェでの少しの時間はほんとうに大切だったように思う。
こうしてわたしは自分の人生の時間を、生活の中でうまくコントロールするようにしてみる。そうすると、仕事もうまくいく。

リズムが大切。

というわけで、今日はおうちでずっとパソコン。
変な焦りは消えた。


2007年02月17日(土)



 クール・ヴァレンタイン。

今日の気温は低め。
そして、わたしの気分もどんより。

職場でいつも一緒に働いている仲間に、突然思い立って「元気付けにチョコレートを」と考え、とくべつちょっと遠いお店へ。ココアツリーがジンバブエにもあるのである。プラリネ系等。高級。

職場のその人はいつもいつも一緒にお仕事をしているのだけれど、いろいろと苦労が重なってかなり深刻にお疲れ気味のご様子だったから。でも彼ももうすぐ休暇。リフレッシュしてほしい。
チョコレートは喜んでくれた。

肝心の恋人は、これまでなしのつぶてだったけれどもお電話でお話ができた。ハッピー・ヴァレンタインズ・デー。
彼は甘いものを食べないので特にチョコレートは贈らない。(まぁ、ジンバブエから日本に送るのもばかげているというものだ)だけれども、ヴァレンタインのeカードくらいは送る。小さなパンダの出てくるアニメーションカード。あまりに気に入ってしまって、つい。


でも、帰宅後気分は最悪。
ガードマンにぶちきれてしまった。
そんなことしたって、仕方がないのに。でも、ときにわたしの怒りは自分でもびっくりするほどすさまじいのである。

夜遅くなって帰宅すると毎日ゲートが閉まっていて、住人ですら名前とフラット番号を言わなくてはならないのだが、「外国人」のわたしの名前を一発で聞き取れるジンバブエ人はまれである。どれだけはっきりゆっくりと発音してもだ。
でも、毎晩毎晩自分の名前を三回も四回も、ときには五回も繰り返すと、イライラが募る。
第三者は、あなたの発音が悪いという。それをいうと、一気に頭にくる。

わたしの発音は、確かに日本人離れしたアメリカ英語に近い。しかし、英語ネイティブスピーカーだとじつに良く通じるが、それ以外の外国人だと通じにくいのはもう何万回と経験しているから(これはアメリカ人も同じである。米語は通じにくい)、そんなことは百も二百も承知で、いつも必ずはっきりと発音するようにしているのだ。そして多くのジンバブエ人の友人や同僚とはまともに何の不自由もなく会話をしている。

それでも聞き取れない人間がなんと多いことか。しかも、これは一度しか会わないひととかお店の店員などに、ものすごく多いのである。

ここまでくると、あきらかに問題はわたしではないのである。
聞く人間の理解力のなさ、聴く意思の欠如。
それから「外国人に対する不慣れ」「偏見」、つまり東洋人の顔をしている=話が通じないに決まっている、という無意識の先入観が邪魔しているのである。
だから、あなたのことばが悪い、などといってくる。
でも、自分の名前をはっきりスペルアウトして(それも三回も四回も毎日毎日)、そこになんの「ことばの悪さ」があろうか。
こじ付けであり、偏見である。

つまり、まずそこに、外国人だということで相手を「コミュニケーションができる相手」と捉えることができない人間が多いということである。友達になる、会話をきちんとする、というところまでくればきちんと成り立つが、そこまでいかないつきあい、つまり街中でのお店のやりとりやガードマンなどは、相手を「会話ができる意思を持った人間」であると捉えることができないという問題からはじまる。英語云々ではないのである。

外国人慣れした人以外は、まず、「顔」の違いに注目してしまうからである。相手が男とか女とか、美人とか年寄りとか、金持ちそうとか学生風だとか、そういうことはまったく見えない。ただの「トウヨウジン」。それだけなのである。容姿や表情も何にもない、「トウヨウジン」でしかありえないのである。だから「会話をできる」とは想像できないのである。

あれだけ訛りをもったジンバブエ人に、あなたの英語が悪いなどといわれる筋合いはない。自慢ではないが(あるが)、当然わたしは普通のジンバブエ人などよりずっと発音がいい。

わたしがこのレベルの英語力を獲得するまでにどれだけの苦労を経てきたと思っているのか。
どうして「顔」でその英語力を疑われなければならないのか。
(ときに、すでに英語をしゃべっていても、お前は英語をしゃべれるのか?と聞かれることがある。じゃあなんで、会話ができてるんだ?)

ここまで毎日名前のスペルを何度も言わされる夜が続くと、ほんとうに哀しくなってくる。
しかも、わたしが怒れば怒るほど、珍しいのか、へらへらと笑う輩のなんと多いことか。頭の悪さをちゃんと物語っている。そして、わたしを「コミュニケーションができる人間」と思っていないことがよくわかる。
わたしはここに暮らして、もう一年と四ヶ月以上経っているのである。それでも、毎晩名前を繰り返させられる。文句を言うと、ガードが入れ替わっているからだ、などという。それくらい引継ぎするのがプロの仕事だろうが、たわけもの!それはこちらの問題ではないのだ。
(しかも今夜は、フラット番号を四回もきかれた。ちゃんとガードは自分で復唱したくせに、馬鹿なのか何なのか書き留めていないのである。そして、まるでわたしが悪かったかのようにまたたずねる。これはどういう意味か)


言ってもいいかな。
救いようもなく頭の悪い人間は嫌いだ。
ひとの顔を見ただけで金をせびる人間は、いかなる理由があれ、嫌いだ。


でも、自分の尋常じゃない怒り方に驚いたのは自分であり、救いようもなく落ち込んだのは自分であった。
帰ってから、部屋の床にへたり込んで大声上げて泣いてしまった。

理由。
どうしてわたしはひとりなのか。
どうしてわたしは、この仕事をしているのか。
どうして、わたしはこんなくだらないことで切れてしまうような、そんな精神状態なのか。
どうしてわたしの恋人は…、云々。

仕事がたくさんたまりすぎ。
でももう、とても仕事ができる気分ではなくなっている。

いろんなことが、今夜は少し重たい。

2007年02月14日(水)



 ムビラの音が響く夜に。

ラジオをつけることにしている。
どこに暮らしても、比較的わたしはラジオ生活である。

ジンバブエのFMも、まぁ、ときに政府のプロパガンダ的ニュースは流れるけれども(メディアは統制されている)、音楽となれば悪くはない。

ラジオの良いところは、どんな曲が流れるかわからないところだ。
そして、とつぜん昔のことを思い出したり、胸がきゅんっとなるような曲だったりする。
CDや何かと違って、外界から入ってくる電波は、自分が世界と常につながっている感覚をもたらしてくれる。ときに、ことばも届く。


今日は、ムビラ。
いろんなことを思い出した。
すこし哀しくなった。
でも、懐かしくなった。わたしはやっぱり、ジンバブエに住んでいるのである。あのとき、エディンバラでスコットランドのバグパイプにきゅんっとしたように。


週末にブラワヨに行ってきた。
マトポスと呼ばれる国立公園にも行き、ブッシュマンの壁画を見て、セシル・ローズの墓と、岩山と、360度眺められる世界の眺めと、虹色のとかげと、それからサイとキリンを見た。

わたしの中で日々、何かが損なわれ、何かが積み重なっていく。
世界の中で、日々、何かが損なわれ、何かが積み重なっていくのだ。


そしてわたしは、小鹿の心臓を指に感じる。
事故で深手を負った、この左手に。




2007年02月13日(火)



 くじら、ビルトンな気分。

疲れが取れない。

こういうと何だかとても歳を取ってしまったみたいだ。
でも今朝はほんとうにくたびれていた。夕べ、ミルク風呂にしてお湯につかったわけだけれども、そんなもので疲れなど取れなかった。

(乳臭いといわれた。むろん、ほんとうに乳臭いわけじゃないよ)

肩こりがひどいのは、一日中パソコンの画面をにらめっこしキーボードをたたいているからだ。そして、あまりにひどい肩こりはやがて頭痛に発展する。
適宜、体操などしている。オフィスが(広い)ひとり部屋なのをいいことに。でもダメ。仕事が仕事だから。しかも、頭を使う仕事を一時間すると、どうしてもしばらく休憩が必要。休まないと、いつのまにかパソコンの画面をじっと見つめてぼんやりしていることになる。
(これは大学院生のときの果てしないリーディングに似ているが)

ダンスを習いたいのだけれど、なかなか上手くいかない。いいクラスがないのだ、なんていいわけなのかもしれないけれど。

ああ。
しかし、マッサージに行きたくても、夜は開いていないし…。

わたし、ジンバブエまで来て何をしているのだろう。
なんて考えはなかったことにして、ひたすら書く。嗚呼。
でも、この作業もほんとうはとても好きなのだけれど。何せ、忍耐はないがしぶとくはあるのが、わたくしなのだからね。


でも、いちばんの疲れの原因は知ってる。
某NGOの大量の日英翻訳を引き受けてしまったからだ。こんなときに。
あは。


負けないよ?

待ってろブラワヨ!


ちなみにビルトンは、南アフリカの田舎くさいごっついビーフジャーキーみたいなもんだヨ。

2007年02月07日(水)



 指先の卵の感触。

すごく薄い殻がぱりっていってしまいました。
ほんと、もろい殻。
某SPARでのことです。ごめんなさい。
卵を手にとって確かめていたとき。
ひとつだけほんとうにもろいのが、わたしの指先で。


そう、人生は卵の殻。


ということで割れたやつは隠して割れていないパックを手に取り購入。SPARで滑らかに光る鶏肉を見ていたら親子丼が食べたくなり。

親子丼、すごい分量作ったのにぺろりと平らげ。
美味でした。


仕事がピーク。やばい。やばい。
こんなときに限って、某NGOの仕事を請けてしまいました!
ました!した!


どうにもこうにも、今夜は寝るしかない。
週末はブラワヨまで旅に出る。


親子丼のことなど忘れよう。
おやすみ。



しばらくぶりに、アクセス解析を分析。
見事にいろんなことがわかる。


月曜日。

2007年02月05日(月)



 あふりかくじら、7年目。

『あふりかくじらの自由時間』というメールマガジンをはじめて、この2月で7年目に入った。

最初、エディンバラ大学大学院で修士課程に入り、アフリカ研究センターというところにいたが、このとき日本の友人等にいちいち近況報告のメールを書くのが面倒くさく、いっそのことメールマガジンにして一般公開してしまえ、というのがそもそものきっかけであった。

だからこれは、ささやかながら「手紙形式」ということを重視しており、さらに情報提供という意味もまったくない。わたしが感じたこと、思ったこと、日常のこと、そういうことをつれづれに書きとめ、そして誰かに語りかける。
手紙だから「読者」と呼びかけることはしないし、むろん「次号お楽しみに」などとエゴのかたまりのような表現はぜったいにしない。そして、読んでくれたことを感謝する。
読みたいひとが読んでくれ、そしてどこかわたしと共感したり何かを考えるきっかけになったり、わたしの様子を想像してくれたら、それでいいのである。そして、わたしの意識のフィルターを通した「アフリカ」や世界を感じてくれたらと願っている。

アフリカは54ヶ国で成り立っている大陸であり、わたしが見ているのはほんとうにほんとうに小さな一部。そして今、しばらくの間だけではあるが、ジンバブエという国に暮らすことができた。これからもずっとアフリカに関わっていくし、わたしは書き続けるであろう。

日本から遠いアフリカのことを、わたしの意識と日本語の文章を通して誰かが感じるきっかけとなってくれれば、そこにわたしのメールマガジンの意味が生きてくる。
わたしはアフリカ研究者だけれど、「あふりかくじらの自由時間」は個人としての感性や人生観、アフリカ観を盛り込み、個人として、あるときふっとそういうものを感じ取ってもらうことを期待している。一般の、ごく普通の日本の人々に、ごく普通の人々が暮らすアフリカというものを知ってもらいたい、あるいはそのきっかけにしてもらいたいのだと。

アフリカ研究者の、「自由時間」なのである。

野生動物や大自然、紛争や食糧難、政治的混乱やエキゾチシズムなどではない、普通の家で暮らす、サザを食べて暮らすささやかな生活のこと。ステレオタイプを助長するようなものは避けたいと思っている。こういう風景すべてが「アフリカ」なのだから、という思いが伝わってくれるといい。そして、何かを考えるきっかけとなってくれればいい。



さらに、もっと小さな「個人的なこと」やささやかな日常に切り込むために、「アフリカ」と必ずしも直接は結びつかないメールマガジンも過去何年間か続けており、これは250号を数える発行回数になっている。
この【あふりかくじら★カフェ】は、もっともっとちいさなことばで成り立っている。メッセージ性も、少し軽い目か、ときに重くてもさらりと書けるように心がけている。わたしも好んでこういうタイプのメールマガジンや誰かのウェブ日記などを読んでいる。あるときふっと、こころの底のほうにことばが染み入るように届くからだ。
すべてのことば、なんてのは無理だけれど、ふっと無防備なときに届くことばは胸を締め付けたり、あるいは懐かしい気持ちにさせたり、元気を与えたり、痛みがふっと解きほぐされたり。こういう瞬間が好きなのだ。

そしてそれは、深夜のラジオにも似ている。
しずかにDJが語ることばが、ふっと心に届く瞬間があるからだ。たったひとり、耳を傾けるラジオのこと。
【あふりかくじら★カフェ】は、そういうことを願っている。


これがわたしのメルマガ哲学、である。


*とりとめもなく。日曜日の昼下がりにこんなことを思ってみた。
メルマガ発行スタンド「めろんぱん」さんから「メルマガお誕生日メール」が来たからかもしれない。【あふりかくじら★カフェ】は4年目を迎える。



『あふりかくじらの自由時間』(月3回程度発行)

【あふりかくじら★カフェ】(週3回程度発行)

2007年02月04日(日)



 夕方に落ちていくもの。

ピアノを弾くということを忘れていた。

このところしばらく触っていなくて、もともと古いレンタルのBELLというピアノの蓋をそっと開けると、微かにかびのにおいがした。
調律はできていないけれど、わたしはこのピアノが好きだ。ハラレにレンタルをしてくれるところがあって良かったと思いながら、ピアノを弾くしかない精神状態のわたしは指を鍵盤にすべらせる。

古き良きローデシアの音なのだろうか。


逃げ場所のない、夕方の精神状態が自分のピアノの旋律のなかに放出され、わたしは遠くへ行く。音の世界。
これはわたしの精神から出てきた、わたしの波長なのである。だから、増幅され無限に高まっていく。
文字通り、肩で、頭で、激しく丸く、わたしは夢中でピアノを弾く。何にもとらわれない、自由な音で、ショパンとドビュッシーと黒人霊歌を。


夕方というのはとてもトリッキーな時間だと思う。
つまり、4時ごろとか5時ごろとか。
仕事をしているときとか、何かの予定をいれ、夢中になっているときは良いのだけれど、いちばん孤独を感じるのって、この時間帯だ。
とくに、今日のように入れていた予定が何となくキャンセルされてしまい、出かける気力もなくしてしまい、頭がぼんやりとして仕事の疲れがもろにのこっているときなど。
そして、泥のようにくたびれているのに、ベッドでも眠りが訪れなかったりする夕方の時間帯。
やるべきことはいつでもいくらでもあるけれど、もちろん呆然とこの夕方に放り込まれた自分には何もすることができない。

自分でもおかしいと思うくらい、今日の夕方の落ちていく精神状態はひどかった。わたしは、自分で自分をコントロールすることができるようになってきたのかもしれないけれど、不意をつかれて混乱する夕方がある。
なんだか辛くて、色んな感情が交じり合って、泣いたりもしてみた。


これは夜になって、部屋に灯りを入れるころになると、すうっと消えていく孤独なのであるが、今日はそんなことよりもその混乱振りに動揺している。
だから、夢中でピアノを弾くしかなかった。


けっこうひとりで生きていくのって大変で、わたしは色んなものを抱えすぎているのかもしれない。周囲の人に迷惑をかけ、感情を撒き散らしてしまうけれど、きっとほんとうの意味でわたしは彼らに何とかしてもらおうとはまったく思っていないし、そういう意味ではきちんと誰かに「話せていない」のだと思う。

ひとは、「キミの抱えているものは辛すぎる」とも言うし、「そういうものは誰でも抱えている」とも言う。
でも、ごく当たり前のことだがすべては「自分」次第なのだ。向き合い、解決するのも、夕方にほうりだされて混乱するのも、何故かこんなことで泣いてしまうのも。


バスタブに湯を張り、ラベンダーの香りをいれる。
夜になり、精神状態は闇の濃さに溶けていく。


好きなひとに、きれいだよ、と言ってもらえることは幸せだ。
彼がメールに書いてくれたそのひとことだけで、わたしはもうぜいたくを言わないと思えるような幸せが分け与えられる。
遠くにいても、あえなくても。


そして、夕方に落ちていく。

夜が満ちていくと、ことばがたくさん降ってきた。



だから、まとめてメールマガジンを書いている。


2007年02月03日(土)



 停電を楽しく。

最近、ZESA(電力公社)がひどく危機的な状況にあるというのはたまに書くのだけれど、こう毎日のように停電だとほんとうにそれが身にしみてわかる。
外貨が不足して電力が買いきれず、また国内だけでは自給しきれないのである。

そして、夕べは持ち帰り仕事をして気合を入れていたものだから、この真っ暗加減はかなり痛手だった。

でも、そういうときほど何となく仕事が進むものである。つまり、できないとわかると無理やりやるのである。

つまらないロウソクを買うのはやめて、好きなものを使うことにしている。
わたしの好きな、渦巻き模様。
わたしはなぜか、渦巻きに弱い。
きっと、家中の渦巻きグッズを集めたらかなりのものになるんじゃないかと思う。目が回りそうなのでやらないが。


好きなものを見ていると、少しいい気分になれる。

小さなパワー。






2007年02月02日(金)
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