あふりかくじらノート
あふりかくじら



 研究者ってなんだろう。

某日本人外交官が言った。
どうして君はゴルフをしないのか、と。

とても気候のいいジンバブエでは、
お金を持っている外国人の多くは
毎週末のようにゴルフをする。
よっぽどはまっているひとは、
平日の早朝や昼休みでも、ゴルフクラブを握る。


アフリカでは、することがないから。
娯楽がないから。

ぜったいにゴルフをしようとしないわたしに、
彼は言った。


ジンバブエでゴルフをしないなんて、
目の前に大金が落ちているのを拾わないようなものだ。



わたしは言った。

いわば、通貨が違うんですよ。

2005年11月29日(火)



 中華料理はいけるかい。

山崎まさよしはCDの調子が悪いから車の中で聴けないのだけれども、ともかくそんな歌のフレーズを思い出しながら同僚たちと中華料理屋へ。

ともかく、くたびれることがたくさんあるのは、ジンバブエへ赴任して丸三ヶ月経ったころだからか。
中華料理屋で、ビールを呑んで、ガラの悪いお姐さんになってみた。しらねぇよ、ぼけ。ふざけんな、ミジンコめ。(?)がたがた抜かすんじゃねぇよ、さっさと会議終わらせやがれタコが。

ずいぶん素に近い。わたしはガラの悪いお姐さんだから。

そういう夜を三つくらい重ねたら、まぁ、なんとかなるだろう。
それから、明日あたり、彼には甘えた声で電話する。そうするとバランスが取れてちょうどよくなるのである。

国際電話とは、そのように利用するものなのだ。


2005年11月28日(月)



 ムバレ、マブク、タファラ。

ハラレのハイデンシティ・エリアだ。
今日は、例によってムガベの独裁政権を強めるだけの盛り上がりに欠ける上院選挙の日であり、チトゥンギザをはじめ、ムバレ、マブク、タファラといったエリアをぐるぐると回った。

ムバレは、すでに書いたとおり政府の「クリーンアップ作戦」で「違法とされる」住居と店舗が一掃された地域。建築資材が散らばっていて痛々しい。
衛生状態は非常に悪く、子どもたちが駆けずり回っている。

タファラというエリアは、ムビラ奏者兼ダンサーのレジナルドの住むエリアだ。もともとは、マラウィやモザンビークから移住してきた労働者が住むために作られた地域で、とても人口密度が高くごちゃごちゃとしている。
しかし、豊かな地域ではけっしてなくとも、そこはとても懐かしい感じがした。だが、家々がかなりの範囲で壊されている。

チトゥンギザは、ハラレから25キロほど行ったところ。
先日の滝のような雨のときは、三メートル先すら見えず車は最徐行をしたくらい重々しかった空気が、今日はとても軽く明るかった。
しかしながら、下水の問題はある。道端には下水があふれて悪臭を放っている。


メールマガジンに書いたので、詳細はご参照ください。


それから、写真を何枚かメインサイトにアップしました。



2005年11月26日(土)



 じっと考え込む。

このオフィスが静かすぎるだけなのだ。
そう思う。

だからじっと考え込む。
でも、少し心が落ち着くのは、綴るべき文字がたくさん降ってきているから。

朝のあわただしい時間、彼に電話するもうまく気持ちを伝えられない。何を伝えたかったのかわからない。それでも電話することに意味があると思い、この距離を恨みながら、電話で声を聴く。すこしほっとする。


ネガティブモードをコントロールできる状態にある。
だから、今日は口をきかないことにした。
いくつかのお誘いをなんとなく断り、家に帰ってPCに向かってビールを空けようと思う。

それがわたしの生活だから。

2005年11月25日(金)



 貧困を語るひと。

昨日は、日本人としては勤労者を感謝する日だったわけなのだけれども、こちらでは一日中ワークショップ。
某英国開発省DFIDのある大きなプログラムの発表会みたいなもので、農業・食料分野で活動する12団体ほどのNGOがプレゼンをする日だった。

ハラレの街から少し離れたところの美しいロッジに場所を取り、一日中だった。いつもいつも思うのだけれど、ワークショップとはお昼ご飯付きで、おいしいお茶とお菓子が出て、夜にはお酒も少し出る。
貧困を語るエキスパート達が集うのは、こういうとても贅沢なところ。
だからといって、村まで行って木の下でやれというのはナンセンスなのだけれども、どこかしら別世界の話をしているように聞こえてしまう。

ワークショップの終了が若干遅れ(そんなのは当然ありうるのだが)、オフィス戻りが30分遅れたことで、上はなんだか怒って電話をいれてきた。
役所ってのはこうだ。本質じゃない、理屈だけの世界なのだ。わたしは英国大使の長話のお陰で悪者になったわけだ。
お陰様で、わたしはワークショップの招待者にも知り合ったひとにもお礼や挨拶すら述べる暇もなかった。訳のわからない内部の恥ずかしい理由で、わたしは礼を欠いたわけだ。

こんなことは今までの社会人経験でたーんとあったわけだけれども、心がくたびれている昨今、わたしは意味もなくへこんだ自分に猛烈に嫌気がさした。
こんなとき、時差がなくて彼に電話できればいいのに。遠くにいるのは、すこしつらい。


チトゥンギザの話、書き途中。明日以降配信。


2005年11月23日(水)



 チトゥンギザの雨。

写真は撮っていない。
それでも、その風景は脳と精神とまぶたの奥に焼き付いて、わたしの生き方と深く結びついたような、確かな感覚を残した。

チトゥンギザはハラレから25キロほど行ったところの街。
今年5月から7月にかけて実施された政府の「クリーンアップ作戦」により、違法とされる住居と小規模店舗(インフォーマルセクター)が強制撤去され、何十万人というひとびとが家と職を失い、多くは半年経った今でも屋根のないところで生活している。

それは人為的なもの。

人々は残った建築資材で掘っ立て小屋をつくり、政府がやってきてそれを壊す。みすぼらしいから。それだけで。その繰り返し。
緊急支援も、あまりに政治化しすぎて行き届かない。政府にしてみれば、「人道支援の必要な状況などない」からだ。

わたしははじめてそれを目の当たりにした。
ひとびとはそうして暮らしていた。
ひと区画がすっぽり抜け落ちたようなタウンシップ。壊れて雨ざらしになった家具。

バケツをひっくり返したような雨が降り、水はけの悪い道路は河のようになった。



ここには簡単に記す。

残りはメルマガで書くので。



2005年11月22日(火)



 めくるめくベートーベン。

今日の午後は、部屋いっぱいに満ちる圧倒されんばかりのベートーベンのピアノ曲に飾られた。月光ソナタの第四楽章(だったのか?違う楽章だっけ?なんだかすごく激しくなるあれ)を生演奏で聞かせてもらうのは初めてだ。

いままで、ベートーベンという作曲家には圧倒されてしまい、なかなか恐れおおくて手を出せずにいたけれども、ピアノの音の重さはやはりこの作曲家しかできないあまりにも重厚なもの。わたしの指には到底重すぎて耐えられない。(というより譜面をたどる技術自体がない)

ほんとうは別の目的でそのお宅にうかがったのだけれども、ジンバブエにしてはかなりありえないくらいにリッチなそのお宅の、シュタインウェイとカワイのグランドピアノの黒光りするボディにくらくらし、満ちていく音楽の重さに息がつまった。

ピアノは血だ。音楽とは、魂と精神世界のはるか向こうのほうから、意思とは関係なくやってくる力強き重さのあるものだ。気が狂うくらい。そしてそれはどこからやってきて、どこに行くのかわからない。でも、あまりにも魅惑的で、そして苦悩も重たさもあり、無限のものだ。ベートーベンが聴こえぬ耳で聴いたその音のように。


そういう、音楽の本質のようなことをときどき思い出さないと、精神のパワーが保てない。そうに違いないと思う。そして、その一線を超えなければ、ほんとうにひとの心を動かす音楽は生まれない。

わたしは、まだまだだな。

(技術ももちろん…)

2005年11月19日(土)



 派手な雷とアフリカの夜。

営業のときに比べたらたいしたことでないけれども、残業をしていた。
夕方からざんざん派手な雨が降り、分厚い雲がもくもくと空をうめつくし、ひんやりとした風がブラインドをじゃかじゃかと揺らす。

肩にひやりとして、そして雨のにおい。
今日の昼とても暑かった分、地面がじゅうじゅうと水を吸い込む。

どどーん。

雷がすごく派手。ものすごく大きな音。ずっと鳴っている。


なんだろう。子どもみたいにわくわくする。
そして、このアフリカらしい光景にうれしくなる。
ずっと空気のにおいをかいで、外を見ていたい。


夜、家に帰る。
ハラレは1,500メートルの高地。
でも、街は結構平らなのに、わたしの家の近くのエリアはひとしきり強い雨が降るとか言われた。そんなわけないじゃないの、といいながらひとり夜道をドライブして帰ったら、家の近くでものすごく激しい雨になった。

ほんとだった。

なぜ?なぜ?




2005年11月17日(木)



 雨季ジンバブエ。

ときどき、雨が降る。
日中はとても暑い。日射しが照りつける。

そして、ざんざん気持ちの良い雨が降る。
ほんとうにたっぷりと。

うっすら砂埃で汚れた車に、ちょうど良いシャワーとなる。


夕べの夢のことは詳しくは書かない。


車でどこかへ出かける不思議な夢を見た。
ひとりで地図を見て、街の中の知らないところへゆくと、そこは幻の町だった。何軒か、知らない店と家があって、旅館みたいなところもあって、なぜだか日本人がたくさんいて日本語の看板があって、それからよく知った顔が酒を飲んで真っ赤になっていた。

すこしいろいろあって、やっぱりそのひととわたしはすれ違った。
そしてすこし泣いた。

わたしはまた、愛用の赤いトヨタRAV4に乗り込み、地図を見て、何にもないいかにもアフリカらしいジンバブエの道を、現実に向かって走っていた。
やがて、知っている町(らしい場所)に出てきた。

太陽は熱く降り注ぎ、土は埃っぽく乾いていた。
去りゆくわたしは、もう哀しくなんかなかった。


2005年11月15日(火)



 語られるべきことばと歴史。

今日は、どうしてもフジコ・ヘミングを渇望していたので、大きなステレオもあることだし、思いっきり好きな感じで奏でてみた。

フジコはショパンというよりリストを弾くピアニストだと思っていたし、いつも彼女の手が奏でるリストの曲がいちばんうつくしく響くのだと信じていた。実際、そうしていると他のピアニストが弾くものなど聴けなくなった。

水曜日の夜に某大使の公邸に行ったけれども、そこで大使が静かにかけたピアノのCDの演奏があまりにお粗末(に聴こえた)で、ショパンやリストを冒涜しているようで、まるで四コマ漫画で夏目漱石の「こころ」を語るかのような、般若心経をロックで演奏したような乱暴な感じがして、思わず眉根を微かに(気づかれぬように)寄せてしまい、社交的会話などどころではなくなって思考が行き詰ってしまうくらい、わたしのなかでそれはフジコの演奏に染まっていた。

もっとも本日最初にスピーカーから奏でられたのはショパンでもリストでもなくシューマンの「トロイメライ」の夢の中のようなメロディだ。
眠たい、どこか不思議なあちらの世界を浮遊しているようなメロディ。
身体中に浴びるように聴いた。しみこませるように、両手をあげ、文字通り頭でメロディをたどる。(つまり、頭をぐるんぐるんと振る)


長くなったので、歴史とことばについては、やっぱりメルマガに書くことにした。

いま、窓を全開にしていたら蚊に刺された気がする。ときに殺生する。

2005年11月04日(金)



 『海辺のカフカ』と文化の日。

ハラレにおける文化の日。
本日くじらは休日なのである。

この住処は少し変わっている。周囲にはジーサンバーサンばかりが住んでいる。それも、ほとんど9割近くはイギリス系およびアイルランド系の白人である。

周囲は塀に囲まれ、南仏のようにこぎれいな建物をならべた大きなコンプレックスなのである。門では、セキュリティガードが24時間管理。中にはコミュニティセンターのほかに、レストラン、バー、病院、薬屋、プール、テニスコート、などなどの設備が整い、池があってほとりには老人ベンチがある。庭はいつもうつくしい花が咲き乱れ、ちいさな白い愛玩犬が、ぬいぐるみのような身体でもこもこと走りまわっている。

リタイアメント・ホームなのだ。
くじらは30歳前にして老人ホーム入りなのである。
もちろん、いわゆる老人ホームではなくて、ごく普通のガーデンフラットがならんでいるだけではあるが。

ここでの生活は始まって一ヶ月と少しではあるが、ジンバブエという国のひとつの側面を見るとき、ここの特殊な生活環境は非常に勉強になるということがわかった。古き良きローデシアに生きた、この国以外に帰る場所のないひとたち。そして、政府の土地強制収用により農地を奪われたひとたちなのである。

いつも灯りがともるあたたかいバーは、ヨーロッパの雰囲気そのまま。
南部アフリカの白人社会。
ひとびとは親切だ。くじらは、若い女の子(!)なのでかわいがられる。
生きた歴史の教科書。ひとりひとりの人生。


休日、勉強しようと思い論文を広げて、おもむろに『海辺のカフカ』を読み始め、一気に上巻を片付けてしまった。村上春樹については、語りつくせないので、語り始めないようにしよう。いつものように、頭が少し混乱した。心が乱された。

日本語の本をむさぼり読むシーズンにいる自分。
とりあえず、今週は『月と六ペンス』も片付けてしまったし。ますます心が乱されるばかり。頭が変になりそう。

身体の中の、物書きの血が強く反応している。麻痺したようで、すこし苦しくて、頭がおかしくって、そして気持ちよくもある。
かなり危ない感じ。


2005年11月03日(木)
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