ケイケイの映画日記
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2026年06月16日(火) 「シラート」




シラートとは、天国と地獄を繋ぐ細い道。その橋は髪の毛より細く、剣より鋭い、と出ます。終わってみれば、その通りだったなと、嘆息しました。まるで予測のつかない展開です。監督はオリベル・ラシェ。

行方不明になった娘を探しに、砂漠のレイブ会場に来たルイス(セルジ・ロペス)。息子のエステバン(ブルーノ・ヌニェス・アルホナ)を伴っています。その会場では娘は見つからず、次のレイブ会場にいるかも知れないとの情報で、二人は次の会場へ向かう5人組のグループに付いて行くことにします。モロッコの砂漠を走る三台の車に、次々と過酷な運命が待ち受けていました。

重低音が響く大音響の中、踊り狂う人々。若者ばかりかと思ったら、老若でした。ディスコやクラブ風でもなく、ましてやヒップホップのようなストリートダンスでもない。音に合わせて、内から湧き上がる感情を露わにしたようなダンスです。

レイブは言葉を知っている程度でしたが、最初はクールだなぁと思っていましたが、段々と自分とは生息地帯が違う気がして、若くても参加はしないだろうと思いました。自分を表現したり発散するなら、私にはレイブは似合わないなと思います。

レイブの輪の中で、浮きまくるルイスとエステバン。初老の父親に小学生くらいの男子。学校は?エステバンの母は?母は亡くなっている気がしました。生きているなら、この状況で息子は行かせない。

当初は足でまとい扱いのルイスでしたが、ガソリン代をルイスが負担すると、きちんと恩義は返す五人組。ロークラス丸出しの出で立ちながら、人柄は悪くなく、段々とお互いの距離も縮みます。それにはエステバンの存在が大きい。子供の力とは、すさまじいもので、そこにいるだけで、周囲を和ませます。

五人の内、一人は義足。一人は片手の手首からありません。次第にディストピア感満載になっていく過酷な砂漠の馳走。そこに埋められたものが発見された時、義足と手首が繋がります。戦争を暗喩しているのでしょう。

「お姉ちゃんは、どうして家から逃げたの?」「逃げたんじゃないよ。出て行ったんだよ。」「前の家族と今の家族と、どちらが好き?」「うーん、今の家族かな?でも探してくれたら、嬉しいと思うよ」。手首のない男性とエステバンの会話です。手首の無い男性は「逃げた」のでしょう。変わってしまったのは自分一人。腫れ物に触る様な扱いが居たたまれず、家を離れたのでしょうか。嫌いになったのではないから、探してくれると嬉しい。相反する繊細な感情は、理解出来る気がしました。

何もない砂漠で、ずっと眉間に皺を寄せながら観ていました。凝視です。その先には、声を出しそうな展開が二回。何も悪い事をしていないのに、身に降りかかる壮絶な災難。彼らを観ていると、人は事があると、そこに意味を求めてしまうけど、その必要は無いのだと言われた気がします。それは、ただの初老の男だったルイスが、神々しい光を放ちながら、「無になれ」と言った言葉に、繋がるのかもしれない。生きる事にも死ぬ事にも「無」である事は、荒ぶる魂の、鎮魂になるのかも知れません。

ラストは、砂漠のノアの箱舟みたいだと思いました。「無」とは何か、今一度考えたいと思います。感想を書くのは難しい作品ですが、観て良かったとは、痛烈に感じる作品です。



2026年06月14日(日) 「Michael/マイケル」




息子に「明日、マイコ〜観てくるわ!」と言うと、「またクィーンの時みたいに、ボロクソ言うんちゃうん?」と宣う。フッフッフッ。息子よ、クィーンはな、あんたの母親が青春賭けた推しやったわけ。マイケルは、好きか嫌いかと聞かれた好き、くらいの薄口に好きな人。楽曲は大好きな曲もある、程度。背景も世間様が知っている以上には、知らんのよ。なので、好きな曲とダンスが観られたら、それでOK!予感的中、めっちゃ楽しめました。監督はアントワン・フークワ。

ステージパパの父親ジェセフ(コールマン・ドミンゴ)の元、黒人兄弟バンドとして売り出すジャクソン5。末弟のマイケル(ジュリアーノ・クルー・ヴァルディ)の歌唱力と愛らしさで、モータウンレコードから声がかかります。エピック移籍後にジャクソンズと名前を変更。ハイティーンになったマイケル(ジャファー・ジャクソン)がソロでリリースした「Don't Stop 'Til You Get Enough」が空前の大ヒット。以降マイケルは、人種を超えて、稀代のアーティストとしての道を歩みだします。

ストーリー的には、年代別に追って再現していました。父親の虐待や詐取、モータウンに見出されてからの躍進、動物園のような自宅、猿のバブルス、ネバーランドへの憧れ、ソロとなりスーパースターへの階段を上り、父との決別、整形、白斑症、火傷、その後の鎮痛剤の依存への予感。こんな感じで、広く見知った事実を、サクサク描いています。

この辺は想定通り。時系列が前後したり、お話しを盛ったり減らしたり、挿げ替えたりは、あるんでしょう。この辺は詳しい方々には、「ボヘンミアン・ラプソディ」の時の私のように、多分不評だと思います。兄弟の数は違うし、一番謎だったのは、姉のラトーヤは出てきますが、多分マイケルの次に成功したはずのジャネットは、存在さえない。

表層的に並べながらも、それなりにマイケルの人生の哀歓が感じられ、決してドライでも、綺麗ごとだけでもありません。この辺はエンタメ作品として、軽めのドラマの盛り込みには安定感のある、フークワの腕前じゃないでしょうか。

という事で、主題はやはり歌とダンスだと思いますが、これは私的に100点満点!聞きたかった曲やダンスは、涙ものの再現力です。ジャファーは自分で歌も歌っているそうですが、とっても似ています。顔も素顔はマイケルとは違いますが、メイクと演技で、全く気になりません。顔は似ていなくても、ジェファーはマイケルの兄・ジャーメインの息子で、実の甥です。こんなに容易にマイケルを重ねる事が出来るのは、血を感じずにはいられません。全編出ずっぱりの大熱演でした。

世界的な大ヒット曲の成り立ちから再現まで、丁寧に時間を取って描いてくれて、大感激です。知らない曲がなく、まるでビートルズだなと思いました。青春の推しはクィーンと書きましたが、正直言うと、途中からどんどんヘビーなハードロックが好きになり、メロディアスでドラマチックなクィーンは、ちょっと違うなとなってきていました(それでもブライアンラブは継続)。「ボヘンミアン・ラプソディ」でも、身を乗り出して聞きたい曲は、それ程ありませんでした。

あぁだけど、マイケルの曲は、全曲ノリノリで、観ながら聞きながら、勝手に身体が動く。ずっと観ていたい。すごいよ、マイケル。全ての曲が時空を超えて、感動を呼ぶなんて。と思った時にハッとしました。これは伝記映画。主人公に敬意が湧くのは、作品として大成功なんじゃないですかね?

マイケルの亡くなるまでの生涯を描くと思っていたので、ジャクソンズを正式に脱退してまでで、正直拍子抜けでした。この後、整形依存、児童への性的虐待事件、白人化した肌は本当に病気なのか?等々、ダークサイドに傾くスーパースターの姿は描かれませんでした。この辺は綺麗ごとだよな。

と、思っていたら、続編の予定もあるんだとか。なら、そう言ってよ〜ん。取り敢えずもう一回観ます。さぁ皆さんご一緒に、フォ〜!





2026年06月02日(火) 「箱の中の羊」




テーマは人間とヒューマノイドの共存かなと思います。それは不発気味ですが、子供を亡くした夫婦の再生だと視線を変えれば、そこは悪くありません。でも良かったとも言えない作品。カンヌで不評だったのは、さもありなん。監督は是枝裕和。

建築家の音々(綾瀬はるか)と工務店を営む健介(大悟)夫妻は、二年前に息子の翔(�斌變ぬ粥砲鯔瓦�しています。その傷が癒えない時、ある会社から翔にそっくりのヒューマノイドを作り、貸与したいとの申し出ありました。契約したいと言う音々に、渋々賛同した健介。音々とは睦まじく、健介とはぎこちなく、ヒューマノイドの翔との生活が始まります。ある日、翔は、同じヒューマノイドの子供たちと出会います。

正直言うと、是枝は苦手です。苦手なので観たり観なかったり。常識的な思考が抜け落ちているのに、さもリアリティがある様に描き、私には上から目線なのが嫌なのです。この作品は後半に向けてファンタジー落しなところが、イマイチ評判が悪いようです。でも一応SFなのが私には功を奏し、リアリティの無さが幸いして、その点は違和感はなかったかな。

ただヒューマノイドの設定が、ご飯も食べられないし、お風呂もダメ。首のボタンで起動とか、25年前のスピルバーグの「AI」の頃とほぼ一緒なのは、如何なものか。もっと進化してなきゃ。母親が子供にご飯を作って食べさせられないのは、痛恨です。男の子なら、尚の事。なら、その葛藤をもっと描いて欲しい。

翔と交流するうちに、心が通い合った一瞬に、喜ぶ健介。しかしその後、咄嗟に外に出て、「危ない危ない、あれは機械」と呟く姿が切ない。容姿だけではなく、ヒューマノイドには、生前の記憶がインプットされています。あんなに息子そっくりでは、正気ではいられない。音々と言えば、むしろその事に喜びを感じています。翔は死んではいない、返ってきたのだと、満面の笑みを浮かべます。これも歪で切ない。渋々でも健介が音々に応じたのは、妻のこの笑顔を、また観たかったからで、心中は複雑なはず。

そうこうしているうちに、翔の死の原因が浮き彫りになる。病死ではなく、事故か誘拐かのようです。デリカシーの足りない実母(余貴美子)が苦手な音々は、「あの時、お母さんがいきなり来なければ、翔は死ななかった」と詰ります。健介が「パチンコはやらん」と言った時、これは翔の死に繋がるなと感じましたが、これは当たっていました。

うーん、これで翔の死を母のせいにするには、無理がある。八つ当たりです。普通、矛先は健介ですよ。母が苦手なのも別に良いけど、あのお母さん、普通にちょい暑苦しいだけの善人だと思う。何故もっと、この夫婦に、盛大に夫婦喧嘩させないのだろうか?させないなら、それに沿った描写が必要だと思います。子を亡くした喪失感が、薄っぺらい。

対して健介は、よく描けていたと思います。ヒューマノイド翔に、翔の死因の記憶がないか、必死な様子や、抱き着いて「ごめんな」と号泣するシーンは、胸に込み上げるものがありました。大悟は終始ずっと好演で、息子に対する罪悪感を、澱の如く心に抱えていたのが解りました。

解らない点が何点かあります。妹は二人目不妊みたいで、下の子は養子を貰っている。妹を音々と逆で、母性豊かで母親向きに描きたかったのでしょう。でも一人子供がいて、もう一人養子を取るケースは、稀だと思う。二人目不妊は良くあることで、不妊治療して出来た子、で良かったかと思います。

怪我をした翔を診るロボットドクター(中島歩)は、ヒューマノイド翔の秘密に気づきます。何故音々に、その事を告げないのか。ドクターがヒューマノイドなら理解出来ますが、人間だと名乗る彼。何かちぐはぐです。

ヒューマノイドを購入した事によって、新たな気付きを得た夫婦が、再生されたような様子は良かったです。でもあの台詞はなんだ。音々「私たち、子供に捨てられたんだよね」健介「普通、そんなもんだろう」。声を大にして言おう、全く違います。

あれは「親」から離れる時期が来たと考えた、親離れ子離れです。親が子に捨てられるのも普通じゃないです。子を虐待した親なら、そういうケースもあるでしょう。自立や結婚すれば、優先順位は代り、親が優先される事はないでしょう。しかし、断言します。子が親を捨て、親が子を捨てる姿は普通ではなく、不幸です。

私の亡くなった母は、私の結婚と同時に父と離婚。親兄弟とも縁を切っていた「不幸」な人でした。病を得て、まだ30前の私に、「私が死んだら、無縁仏の墓に葬って」と胸を張って言いました。その遺言が肩で風を切る様に、カッコ良いと思っている未熟な人です。私は言いました。「ああそうですか、ありがとうと、もし私が答えたら、お母ちゃんの子育ては正解やったんか?娘が二人居るのに、そんな事、出来るわけがないやろ」と答えると、黙り込んでしまいました。浅はかな母です。

あげく、ガンと言う余命を測れる、ある意味ラッキーな病で死んだのに、あれもこれもほっぽり出して、私は死ぬんや!ばかり言いながら、亡くなりました。遺骨は妹と相談して、一心寺に葬り、納骨堂で数年待った後、有難く骨仏となりました。母の我がままで画の強い人生を顧みると、身に余る光栄です。本当に娘を想うなら、娘たちが遺骨の殊遇に困らず、世間にも謗られないように、万端用意しておくもんやで、お母ちゃん。

と、この夫婦の会話を聞き、咄嗟に母の死と為人が浮かびました。未熟で表層的にしか理解出来ていないのに、孤高を装う、です。是枝=母とは違います。でも似た感覚なのよね、私には。人と違う台詞言わせて、悦に入るみたいな。それが私の感覚では、全然決まらない。あー、これが私が是枝が苦手な原因かと、目から鱗でした。

とまぁ、映画の感想になっているのか、なっていないのか。取り敢えず、持ち上げる気には、ならない作品でした。






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