ケイケイの映画日記
目次|過去|未来
2024年06月25日(火) |
「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ」 |
大好きな大好きな、アレクサンダー・ペインの作品。寡作な監督なので、「サイドウェイ」以来、20年ぶりのポール・ジアマッティとのコンビだと聞いて、大変楽しみにしていました。期待通りの作品で、今回もシニカルな内容を、ユーモアたっぷり、温かい目で見守る作品。
1970年のボストン近郊の全寮制の男子校であるバートン校。クリスマス休暇前で浮足立つ生徒たちですが、5人の生徒は事情があり、学校に残る事に。お目付け役に指名されたのが、古代史の教師ポール(ポール・ジアマッティ)。厳格で頑固なポールは、生徒たちの嫌われ者です。今年は息子をベトナム戦争で亡くした料理長のメアリー(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)も、残ります。数日後、親と連絡が取れた者は学校から去りますが、独り連絡が取れなかったアンガス(ドミニク・セッサ)だけが、学校に残る羽目に。この事が、三人にとって、大きな節目になるのです。
ペインの一番良いところは、誰もが理解し易いところ。セリフで説明はない箇所も、演出で心に届く。行間を読みたい人は、更に深読みも出来ます。そして笑いの中に、包容力のある、温かい人生の教訓が詰まっていること。今回も監督の作家性が、いっぱい詰まっています。
バートン校は良家の子息が集まる学校のようで、名門を謳っていますが、内実は、親が金にあかせて単位を取って、これまた金に飽かせて大学の推薦を取っている生徒も多いようです。そして問題があって親がお手上げの子も、預けられている。子供から逃げているのです。
ポールはその風潮を苦々しく思っており、寄付金たんまりの生徒も、平気で落第させちゃう。長い物に巻かれない様子は、校長の手に余り、他の教師から浮いています。皮肉なユーモアは、生徒には辛辣過ぎます。嫌われて当然とは思いませんが、孤高と孤独は紙一重。時折覗かせる表情に、寂しさが滲みます。
メアリーは若くして結婚。息子を妊娠中に夫が事故死。忘れ形見を生き甲斐にしていたのでしょう。当時でも「長」の仕事に黒人が就くのは大変だったはずで、裕福な子弟が入学するバートン校に息子が学べたのも、メアリーの、職場と息子への献身があったからだと思いました。辛辣なユーモアではポールの上を行く彼女ですが、生徒たちの寂しさには敏感で、ポールを諭す姿が、温かい。
一人を除き、みんな自分のような親に嫌われた子供だと思っていたアンガス。独り残った事で、負け犬中の負け犬気分。強がりを言っても、みんな親が恋しいのです。「ここには負け犬二人と、哀れな母親だけだ!」と言い放つ彼。抱きしめたくなる。年は18歳頃かな?生い立ちの屈託を、親がどうして理解出来ないのか、私には理解し難い。手はかけずとも、まだまだ心はかけないといけない年齢です。「問題児」に対しての、細やかな視点です。
3人になってからのエピソードが、それぞれ滋味深く、慈愛深く秀逸。一つ一つが味わい深い。後半にかかり、「嘘」が大きなテーマになります。バートン校の校訓に、「嘘はいけない」というのがあって、卒業生であるポールもそれを継承。それが大小嘘をついていたアンガスより、もっともっと大きな嘘でした。でも人生で嘘を付かなかった人なんて、いるのかしら?
嘘も方便とは、また違うポールの嘘。彼に嘘をつかせたた人は、それでポールの人生を救いました。ポールを信頼したからです。ポールと一緒に嘘をついたその人の嘘は、云わば愛ある嘘とでもいいましょうか。
恩送りのように、アンガスのために、嘘をつくポール。アンガスの人生を救いたいのです。3人で過ごした毎日が、彼に何が大切か知らしめたのでしょう。人は一人で生きて行くものではない事。この休暇で、アンガスはポールの想いに、きっと応えてくれるでしょう。もうポールとアンガスは、会う事は無いかも知れません。でも彼らは、もう決して孤独ではありません。
ジアマッティが期待通りの好演です。憎たらしい偉いさんの役も上手いですが、彼には愛を感じる哀愁を背負った役が、私は一番似合うと思う。
ランドルフは、この作品でオスカー受賞です。褐色の肌に、大柄でふくよかな姿は、どうしてこんなに溢れ出る母性を感じさせるんだろう?若くして未亡人となり、誘惑も多かったろうに、息子のため亡き夫への愛のため、自分を律して生きてきた人だと思いました。その有能な人が、感情を溢れさせる場面が圧巻。一緒に涙しました。
セッサはこれが初出演だそう。怒れる孤独な若者の心情が、こちらにも充分響き、私は大いに気に入りました。目元が鋭く、鋭利な刃物を思わす美青年ですが、きっとこれから売れっ子になると思います。ドミニク・セッサ、お見知りおきを。
今作も大満足のペイン。ユーモアで包んだ、ほろ苦く美しい作品です。どうぞご覧になって下さい。
美しさの定義も多様性が尊重される中、今でも百花繚乱のエンタメ界隈で、私が一番美しいと思うのが、今作主演の柴咲コウ。ゴージャスな美貌の持ち主なのに、派手なケバケバしさは無く、艶っぽい役柄も選ばず、知的なクールビューティーなイメージです。その彼女が、全編完璧なフランス語の台詞で挑んだ作品です。多分ツッコミ上等で作っているんだろうなぁ。好きな人は大好き、ダメな人は罵詈雑言の作品だと思う。私は絶賛ではないですが、充分魅了されました。監督は黒沢清。監督のセルフリメイク作です。
8歳の娘が何者かに殺されたアルベール(ダミアン・ボナール)。心労で心療内科に通院している時、医師の小夜子(柴咲コウ)と知り合います。彼女の協力を得て、娘の死に関わるラヴァル(マチュー・アマルリック)や、ゲラン(グレごワール・ゴラン)を次々拉致する二人でしたが、真相に近づくに連れて、思いもよらない展開が待ち受けていました。
と書きましたが、だいたい途中で真相は解ります。見ものなのは、真相に近づく過程だと思う。道の往来で、あんなドンゴロスみたいな袋を引きづっていたら、衆人の目に着くだろうし、拉致の目撃者もいるのに、警察に通報しない。というか、警察の尋問も、「日本人ですよ、アニメですよ」で通り抜けちゃう雑さです。それ以上に、きちんと診察している場面もあるのに、どうして小夜子は拉致監禁の時間が取れるのか?でもそんなの、爪の先程も気になりませんでした。枯れ葉になっていく枝葉なんか、気にしない気にしない。
あのドンゴロスみたいなのは、遺体を入れる袋だったと思います(小夜子は医師)。あそこに入れる、自ら入るというのは、死を意味していたのだと思います。監禁した者には、直接の暴力だけではなく、食欲や排せつという、人間の本能や尊厳を奪い取る様子が描かれます。執拗に何度も描くのは、監禁された人の希望や思考を奪い取るためでしょう。そうさせるには、何故か?相手に対する憎悪です。
恨みを晴らしたいのは自分の筈なのに、どこか逃げ腰のアルベール。娘の死は、自分の行いの地続きであると、心の隅では解っていたはず。その思いを追いやる事に、必死だったのでしょう。自分は被害者であると思い込みたいのです。その卑小さが、見え隠れする演出が上手い。
患者の吉村(西島秀俊)との診察シーンが二度出てきます。一見回復に向かっているような吉村でしたが、小夜子の言葉で、吉村のその後の行動は、予見できました。小夜子は彼が鬱陶しかったから、その言葉をかけたのでは無いと思う。小夜子自身の気持ちだったのでしょう。
終始一貫無表情の小夜子。ゲランに「蛇のような目」で表現されます。彼女は元々そのような目では、なかったはず。あるアジトで木霊のように繰り返す彼女の言葉。何十回と繰り返していた、アルベールの娘の最後も、吹っ飛ばしてしまう程に、心が痛む。
小夜子が何故吉村にならなかったのか?憎悪が彼女を支えていたのだと思う。その憎悪を紐解けば、このお話は、何て辛くて哀しいお話しなのかしらと、思うわけです。
その小夜子に「元気そうだ。穏やかな目をしている」と言い放つ夫(青木崇高)は、「あなたが殺したのね」と言われて、当然だと思いました。この目のどこが穏やかなのか。夫婦で乗り越えるべき事だったのに、夫には人生の過去にあった一コマなのです。
期待の柴咲コウが素晴らしい。私はフランス語は解らないので、上手いのかどうかは判りませんが、耳に聞く限り、フランス人俳優たちと遜色はなかったです。美貌も一切見劣り無し。元作から主人公を女性の変えて、私にはとても共感できる役作り、役柄でした。「蛇の目」には、狂気も憎悪も哀しみも、宿っていたと思います。
黒沢清はあまり縁がなく、特に「トウキョウソナタ」が全然ダメだったので、以降素通りでしたが、「クリーピー」は、楽しんだのよね。私が監督に追いついてきたのかしら?続けて他の作品も観たくなりました。
鑑賞前は、アウシュビッツの収容所の隣で平気で住める家族を、人としての心が無いと、静かに糾弾する作品だと思っていました。それは違っていました。作り手が訴えているのは、誰でもこの人たちになる可能性があるという、恐ろしさでした。ジョナサン・グレイザー。
たくさんのユダヤ人が収容されているアウシュビッツ収容所。壁一枚隔てただけの、その隣の邸宅では、何事もなく、ナチスの親衛隊の将校であるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻のヘートウィヒ(ザンドラ・フュラー)夫婦と子供たちが、平穏な日常を送っていました。
観ていてずっと、これが「ハンナ・アーレント」で貫かれていた、「凡庸な悪」なのだと感じていました。「世界で一番の悪は、ごく平凡な人間が行う悪である」です。そこには信念も悪魔的な意図もない。それが淡々と描かていました。
収容所の中は一切描かれません。しかしもくもくと昇る煙は、たくさんのユダヤ人を焼いているんだと解ります。銃声も度々聞こえる中、収容されたユダヤ人たちの悲鳴も聞こえていたはず。それなのに、お屋敷に住むヘス一家は、贅の限りを尽くした暮らしぶりで、一見幸せそのものです。収容所に関心すら持たない。
花を愛で、ご馳走を食べ、可愛い子供たちは健康に育ち、夫は愛妻家。ごく平凡な人たちです。しかし、裏側では、妻はユダヤ人たちから、剝ぎ取った毛皮をまとい、子供はユダヤ人の死体から取り出した、歯を弄ぶ。温室でガス室ごっこ。年長の子は、メイドと火遊び。妻は体裁だけの幸せを愛し、育児もメイド任せ。夫は愛妻家ではなく、妻の尻に敷かれた恐妻家です。観客から観ると、幸福とは程遠いのに、彼らは観ないふりをしているのではなく、この張りぼての幸福が何か、本当に解らないのです。
何故はりぼての幸福で満足できるのか?良心を置いてきたのではなく、放棄したからだと思いました。アーレントの言う、思考の停止です。放棄しなかった妻の母は、その呵責に耐えられなくなり、豪邸から逃げ出す。会話から妻の母は、元はメイド上がりの様です。元は貧しい暮らしだったと想起しました。今の贅沢な暮らしに憧れ、その憧れが野心となり、手放すもんかの欲となる。妻の心境は共感できずとも、誰もが紐解け、誰しもが妻になり得る危険があるのだと思いました。
時折出てくる影絵風のシーンが印象的。息を殺して、ナチスの抵抗勢力として生きている人たち。真っ暗闇の中、彼らの希望を失わない、強い生命力を感じる演出は、ヘス夫妻との対比にように感じます。「ハーツ&マインド」に出て来た、子供が全て戦争で死んでしまった老人が、「ベトナムは灰になっても、何度でも戦う」と、カッと目を見開いて力強く語った姿を、思い出しました。
病に侵されたヘスが見た「未来」は、凡庸な悪の終焉です。ヘスの肉体を使い、表現していたと感じました。
この作品は、ナチスへの糾弾でも、ドイツが過去を振り返っての贖罪でもありません。「凡庸な悪」は、ナチスだけではなく、地球上のあちこちに蔓延っていて、日常生活の延長なのだと感じます。私は暗澹たる想いではなく、身が引き締まる想いでした。監督のグレイザーはイギリス人。ドイツ人ではない人が作ることで、その意を汲む事が出来るかと思います。
2024年06月02日(日) |
「青春デンデケデケデケ」 |
全くの初見。素直にとても面白かったです。初期から中期の時の大林宜彦は、相性が良かったんだなぁと思い出しました。私にとってロック=ハードロックなので、そっちが題材だと思っていたら、ロックンロールなんですね。聞き覚えのある名曲がたくさん出てきて、今やロックンロールの数々も、古典になってきたんだなと、感慨深いです。
1960年代中頃の四国・香川県の観音寺市。ロックンロールに熱い思いを傾ける、四人の高校生たちの三年間を描いています。
林泰文が衝撃を受けるベンチャーズですが、私が子供の頃は渚ゆう子がカバーした、「京都の恋」が大ヒットしていて、作曲がベンチャーズでした。それで私もベンチャーズを認識。テレビやラジオで定期的に流れるベンチャーズの曲は、まだ小学生だった私も、充分カッコいいと感じました。この辺り、ほんと感性。多感な時に「カッコいい・・・」と衝撃を受ける音楽で、好きなカテゴリー決まるよね。私の場合は、グランドファンクレイルロードの「アメリカンバンド」でした。
当然ですが、演じる四人がとても可愛い。浅野忠信が出ていたのは知らなかったので、あまりの紅顔の美少年っぷりにびっくり。四人の中では、お寺の息子で、親の手伝いでお経も上げるし財テクもするし、恋の指南はするしの、大森嘉之の存在感が出色。人徳も人望もある生臭坊主になりそうでした。林泰文の平凡な素直さも良かったし、永堀剛敏のワンテンポ遅れた、人の良いおっとりした様子も、とても可愛い。それぞれキャラが立っています。
彼らが何の不安もなく、熱い青春を傾けてバンド活動出来るのは、それぞれの家庭に事情があっても、彼らを子供として弟として、守っていたからです。改めて、養育される環境の大切さを痛感しました。水島かおりと尾美としのりは、自分の好きなものより、当時の長女・長男としての、役割を真っ当するため、自分の好きなものを引っ込めたんだよね。それを当然としている事に、少しほろ苦く思います。
構成がとても良く、笑ったり泣いたり、とても素直に心が付いて行き、自分の青春時代も思い出させてくれます。
大人では、岸辺一徳の彼らの教師が印象的です。この時代には戦争に行った先生もいるんだと改めて感じ入ります。道ならぬ片想いを秘めていたのは、既婚者ですが、戦争が挟んだため、本当の恋愛の経験がなかったのかも?と感じました。彼らの上の兄弟ともども、家に縛られ、自由がなかった時代なのだとも思います。今の世の中の自由な価値観は、そうした人たちの想いが積み上がり、アップデートしてきたのでしょうね。
アルバイトで思わぬ世の中の洗礼を受けたのも、彼らがこれから世に出る心の準備ですね。家族の応援している風景との対比が、物語っていました。三年間の宴の終了に、四人が作った絆を映して、四人の新たな旅立ちを祝福しているように感じ、思わずホロホロ涙が出ました。
子供が子供らしく、その時代を真っ当させる事に、大人は責任を持たねばと、改めて痛感した作品です。
|