ケイケイの映画日記
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テレビ放映で観たきりで、30年ぶりくらいで観ました。「異人たち」はこの作品のリメイクですが、設定だけを貰い、新たな視点で描いた作品だと、改めて確認。元作も若かりし頃に観た時より感慨深く観られ、これも好きだと言える作品でした。監督は大林宜彦。
都会のマンションに独り暮らしの英雄(風間杜夫)は、妻と離婚したばかり。多忙な毎日を送っています。気に入らない仕事の成り行きにイライラしている時、同じマンションに住む若い女性のケイ(名取裕子)が、一緒に酒を飲もうと誘いにきますが、けんもほろろに追い返します。程なくして英雄は、何故か12歳の時に事故で死別した両親(片岡鶴太郎・秋吉久美子)と再会。当時のままの若さの両親と逢瀬を重ねる英雄。気持ちが優しくなった彼は、ケイを受け入れ、二人は深い仲になります。
この作品、設定は夏なのですね。忘れていました。今の日本列島のような灼熱の夏ではなく、打ち水や、風通しを良くして涼む夏。日本の盛夏のピーク時にあるのが、お盆。だから独りになった息子を慮って、両親は会いにきたんだと思いました。
不惑の40歳を迎えたのに、妻子とは離別。ある意味浮草稼業の脚本家。ほとんど人がいないマンションに独り住まい。これと言った趣味も友人もなし。こりゃ親も息子が心配で、化けて出てくるわね。なのに英雄は、自分が孤独であるとは、多分気付いていない。気づいていないから、ケイという「魔」が入りこむ隙になったのでしょう。
久々の親子の逢瀬を楽しむ三人。何十年間を取り戻したい息子に対して、親は至って平常心。きっと草葉の陰で見守っていたのでしょうね。手作りの物はアイスクリームだけで、母が作った食事は、結局一度も口にしなかった息子に、落胆する母。これはもう、物凄く解ります。手作りの食事は、母親としての一番の存在意義だもの。
ふとしたはずみでもつれあい、今の自分より若い母に女を感じた秀雄は、「苗字は?」と問います。「原田に決まってるじゃないか。お前と違っていたら、おかしいだろう」と笑います。私は英雄が安堵したように見えました。
これに似たシーンは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の2で、未来から来た息子とは知らない母が、息子に恋してしまい、キスをする。そしたら怪訝な顔になり、「変な感じ。親や兄弟とキスしているみたいよ」と言います。
うちの三男の格言で、「母親より父親が好きなんて、子供が可哀想過ぎる」「世界一の父親も、普通のお母さんには負ける」というのがあってね。なかなか親子の核心を突いておりますでしょう?(笑)。秀雄にも当て嵌まるのだと思いました。
12歳と言えば、世界中で一番好きなのは、まだまだ母親のはずで、でもそれを口にするのは恥ずかしい年齢です。これからゆっくり親離れする時に、いきなり遮断されてしまった英雄。この美しい母を慕う感情が、息子であるのか、男であるのか、戸惑っているんだと思いました。忘れていた、失ってきた息子としての感情だと確認して、安堵したんですね。
秋吉久美子が絶品。気風が良く愛らしいだけではなく、時折覗かせる艶めかしさと、温かい母性も、全て共存させていました。それに飛び切り美しい!職人肌で口は悪いが情の深い父親を、この作品が映画初出演だったそうな、鶴太郎も好演。当時二枚目とは言い難い鶴ちゃんですが、美女の秋吉久美子とお似合いの夫婦でした。それだけ夫婦としての絆の深さを、二人が表現出来ていたということかな?
美しいといえば、名取裕子も息を呑むくらい綺麗でした。秋吉久美子共々、今の60代から70代の女優さんたちの若かりし頃の美しさは、本当に眩しいくらい。今の女優さんで綺麗な人は、誰かしら?直ぐには浮かばない。所謂ルッキズムは駄目ですが、美しい人は賞賛されて良いと思います。
リメイク版もでしたが、親子が再び別れるシーンが特筆もの。「お前を誇りに思う」という両親に、英雄は「僕はお父さんお母さんが思うような、良い人間じゃない。良き夫良き父でもなかった。父母が元気だったら、親孝行もしていない」と、涙ならに吐露するシーンに、涙。それを教えに戻ってきてくれたのよ、親は。息子には早逝した自分たちより、まだまだ人生を取り返せる時間があります。
鏡に映った英雄の顔のメイクや、ケイの正体が暴かれた時の血しぶきは、稚拙で苦笑しましたが、当時の技術を考えれば、まぁご愛嬌かな?稚拙にめげず、ケイの辛さは、私には伝わりましたから。
ラストがリメイク版と大きく異なり、日本の伝統の家族感、死生感が表現されています。心ばかり、でも心の籠った供養で終わるラストも良かった。親だけではなく、ケイにも感謝するは、異人たちと過ごした夏で、生まれ変わったんだなと思いました。こちらも素敵な作品でした。
無言で問題提示したり、解釈を観客に委ねる作品は嫌いではありません。でも心が動かされる場面が少ないと、戸惑うものだなと、この作品を観て感じています。今回は合いませんでした。監督は濱口竜介。今回ラストが重要だと思うので、ネタバレです。
自然に囲まれた長野県水挽町。便利屋の巧(大美賀均)は、この土地で娘の花(西川玲)と暮らしています。自然と共存しながら、穏やかな日々を送っている町の人々でしたが、突然この地にグランピング施設を作る計画が持ち込まれます。
曇り空の中を、延々と下から木々を映すショットに続き、湧水を汲むシーン。鬱蒼とした森の中を、親子で岐路に着くシーン等、冒頭は過疎化が進む土地なのかと感じました。しかし、施設の建設の説明会にきた面々を見ると、老人より中高年が多く、土地に惚れ込んで移住してきた人や若者までいる。何より学童が営めるほど子供がいるので、程ほどの地方なのだと取りました。でも住人6000人のセリフもあったのに、あの人数の説明会参加は、少なくないかな?
冒頭から暫く、素人くさい芝居に、個人的に美しいと思わない自然ばっかり見せられて、寝そうになりました。それが、説明会でお話が動く。適当な計画説明で、煙に巻く予定だった建設側は、住人側の的確で鋭い質問や要望にタジタジで、這う這うの体で終了。どうせ田舎もんで、こちらの言い分で誤魔化せると思っていたのでしょう。
金髪でお洒落っぽい若い男子が、「この会社、本体は芸能プロだよ。コロナの助成金狙いの素人だよ」と、スマホ片手に語るシーンの導入は、都会から離れていても、今は充分情報は入手できると表現していたと思います。情報量=賢さではありませんが、無いとあるとは、雲泥の差だなと感じます。
説明に来ていた高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、本当は畑違いの仕事に嫌気がさし、住人に対して良心が痛み、白紙に戻したいとさえ思っている事。「悪」では、ないのよね。イケイケの社長やコンサルトの板挟みになっています。二人が長野まで行く車中での会話が面白い。仕事に対して岐路に立ち、社会人として迷う様子が、会話からとてもリアルに伝わり、共感します。
蒔き割をしたいと巧に申し出る高橋。なかなか出来なかったけど、出来た時の爽快感を口にします。それだけ人生に迷っているのでしょうが、この事を契機に、この土地を肯定する様子に、浅はかさを感じます。地方は都会の人間の疲れを、癒すだけの場所ではないはず。その思考は傲慢で失礼ではないですか?厳しい自然、日常生活の不便さと共存する覚悟が無ければ、軽々移住を口にすべきではないと思いました。
その後、独りで学童から帰った花が帰宅しない。冒頭でも思っていたけど、車で送迎するような場所、遠さで、親の連絡なしで、子供の意思だけで帰宅を許可する学童って、どうなの?危機管理が無さ過ぎるし、子供を預かる公的機関では、有り得ません。花は寄り道して帰る癖もある。田舎でも変質者はいるし、獣だって出るでしょう。ここはリサーチしたのかな?私的に一番のツッコミはここです。
「金には困っていない」「暇ではない」「花のお迎えを度々忘れる」。これは巧の言葉です。家に飾ってあった妻との三人の写真は、直近のもの。妻が送迎していたので、まだ慣れていない。突然のシングルファーザーで、子育てと仕事の両立で時間がない。妻の死亡保険金が入ってきている。等々想起しました。
そして「鹿は人間を襲わない。襲うのは手負いの鹿だけ」。鹿狩りの発砲の音など、伏線を回収するラスト。見つかった花が近寄ったのは、銃弾が貫通した鹿でした。突然高橋を羽交い絞めする巧に唖然。絶命したように見える高橋のすぐ後に、鼻血を出して眠る様な花。はい?そして息絶えたはずの、高橋が蘇生したかのような、「何だよ・・・」のセリフで終わり。はい?(笑)。
このシーンに限って言えば、花が鹿に襲われる→死ぬかも?→高橋を代りに差し出せば、花の命は助かる→でも高橋生き返る→なので花死亡?みたいな、土俗的な因習に則った、巧の行動かと思いました。
高橋や黛の葛藤も、巧の羽交い絞めも、悪意はないでしょう。社長もコロナ禍で従業員の給料を守らねばならず、補助金を目当てにするのは、理由がある。コンサルも営業テクニックとしては黒ではない。「悪は存在しない」のタイトルは、一見悪に見える方にも、情状酌量のB面がありますよ、との意味でしょうか?
でも私は悪意や悪は世の中に蔓延っていると思っているので、これくらいはでは、騙されないぞ(笑)。「水」が重要なモチーフですが、水は低きに流れ、下流に汚れが溜まるの事実も比喩も、もう私の年齢なら、ありきたり過ぎて、それなりに実践して生きているのでね、あんまり響かなかったなぁ。
キャッチコピーの「これは君の話になる」は、私の解釈では、なりませんでした。罵詈雑言ではありませんが、お金払って、素人くさい芝居を見せられるのは、私は嫌いです。私的に美しいと思う風景もなく、概念も観念も人生に根付いている事を、思わせぶりに描いた作品で、好きな作品ではありませんでした。
2024年05月14日(火) |
「鬼平犯科帳 血闘」 |
偉大な先達を受け継ぐのは、本当に難しいもんだなぁと、痛感しました。この作品単体なら、何の不足もないのに、どうしても吉右衛門版平蔵と比べてしまい、物足りなさが否めません。藤田まこと版「剣客商売」と仲代達也版「三ツ矢清左衛門残日録」を、それぞれ北大路欣也が継いでいますが、それと同種の感覚です。監督は山下智彦。
火付盗賊改方長官の長谷川平蔵(松本幸四郎)。若かりし頃の馴染みであった居酒屋の娘おまさ(中村ゆり)が、平蔵の元にやってきて、平蔵の密偵になりたいと願い出ます。妹のような存在だったおまさを案じ、これを断る平蔵。諦めきれないおまさは、今追っている件で、自分が手柄を立てたなら、密偵にして欲しいと申し出ます。
私はドラマ版の「鬼平犯科帳」が大好きで、今もケーブルで放送していると、ついつい見てしまいます。そして吉右衛門亡き後、平蔵を演じるなら絶対幸四郎だと思っていました。それがこんなに物足りないとは。先に日本映画専門チャンネルで放送された「本所・桜屋敷」でも同じ感想でしたが、それから進歩はなかったかなぁ。人生の詫び寂びや、哀歓・情感が、足りないように思います。
先ず平蔵ですが、比べてしまうと、吉右衛門版にあった、懐の深さとか、清濁飲み合わせて浄化するような、そんな人としての奥行が、幸四郎版には乏しいです。これは演者より、演出の違いのような気が。賊の前で「火付盗賊改、長谷川平蔵である!」が、決まり文句でしたが、幸四郎版は「ある!」が無い(笑)。有る無しでは、こちらの気持ちが全然違う。「ある!」があると、気が上がるんです。この台詞は「水戸黄門」の、「この印籠が目に入らぬか!」ですよ。何でとっちゃったんだろう?
おまさは決死の覚悟で、平蔵が追う網切の甚五郎(北村有起哉)の盗人宿を見つけ出しますが、手下に暴行を受け凌辱され瀕死です。そこへ聞きつけた平蔵が、たった一人でおまさを助けに乗り込む。その時のドラマ版のセリフは、「だれでぇ、お前は!」に対しての平蔵の返事は、「おまさの色よ!」でした。
これが今作では、「お前はおまさの色か!」に対して「おお、そうよ」です。えぇ!何で変えるの?問われるのと、自ら言うのは全然違う。ご存じない向きに解説しますが、平蔵とおまさは、深い男女関係はありません。妹のような愛しさ⇔初恋の人のような淡い乙女の恋心、です。大人になった今、恋心は封印して、慕う気持ちだけを保とうとしているおまさ。梶芽衣子が、感無量の万感の思いの女心の表情を浮かべて、私はこのシーン大好きでした。中村ゆりも負けず劣らずの表情だったのに。おまさの色だと自ら宣言するのは、おまさの汚された身体を浄化してやりたいからなんです。だから、平蔵自ら言わなきゃいけないの。原作は一緒なんだし、別に新機軸で大胆な脚色もしないのなら、以前のままの方が良いです。幸四郎の起用は、吉右衛門を意識しての事でしょう?
久栄(仙道敦子)もなぁ。仙道敦子を観て、如何に多岐川裕美の久栄が素晴らしかったか、再確認しました。年を重ねても可憐で、どこか天然。だけど案外しっかり者の久栄は、仕事で疲弊する夫を癒すに充分だったでしょう。ところが今回の久栄は、なかなか手強く、夫の尻を叩いて出世させたい妻に感じる。仙道敦子は元々清楚な美人なのに、何であんな濃いメイクなんだろう?一瞬般若に見える時もありました。
「梅安」も私は緒形拳の印象が強いですが、小林桂樹や渡辺謙も観ています。これらの人にたちの梅安にあった愛嬌は、トヨエツ版梅安には全くなく、終始クールでニヒルだったトヨエツの梅安には魅了されました。なので新たな世界観で演じるのは賛成ですが、先達を踏襲しているはずの人物像で物足りないのは、残念でした。
新しい造形では、火野正平の彦十と中村ゆりが良かったです。同じ愛嬌でも、誠実だった猫八とは違い、食えない感じが良かった(笑)。長門裕之が演じた猫八には、申し訳ないけど拒否反応が出ましたが、今回の彦十は好ましく思います。お雅も梶芽衣子の印象が深く、ミスキャストかと思いきや、持ち味の儚げで脆い危うさを逆手に取り、芯の強さを浮かび上がらせて、中村ゆりのおまさ、私は大いに有りだと思いました。
前任者踏襲型では、佐嶋の本宮泰風と、木村忠吾の浅利陽介が良かったです。ゲスト扱いでは、引き込み女の志田未来、遊女の松本穂香が、意外なキャスティングだと思いましたが、二人とも好演。あばずれの純情や深情けを、的格に表現出来ていたと思います。北村有起哉は、仕事の出来る公務員からやくざまで、何でも出来る人ですが、今回も下衆な悪党を、憎々しくではなく卑小に感じさせて、良かったです。お父さんとはタイプが違いますが、私は素敵な俳優さんだと思います。柄本明の一人働きの盗賊九平も、いつもながらチャーミングで、とても良かった。彼のお陰で、作品に箔が付いたと思います。
セットや所作、セリフ回しなどは、流石に作り込まれており、チャンバラ場面もふんだんで、堪能出来ました。「鬼平犯科帳」は、幸四郎の祖父八代目幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之助版があり、それぞれのファンが思い入れのある作品。なんだかんだ言って、今の時代劇衰退の時代に、これだけの物を作ったのは、立派だと思います。日本映画専門チャンネルで続々新作が放送されるので、そちらも必ず観たいです。粂八や五郎蔵、伊佐治も出てきて欲しいなぁ。
8年前、「ケンとカズ」(私は未見)が評判を呼んだ、小路紘史の製作・監督・脚本の作品。自主映画の形を取っています。噂に違わぬ力のある監督さんで、やくざ映画として、大変楽しめました。ただ楽しめた分、う〜んと引っ掛かった箇所もあるので、それも書きたいと思います。
裏家業に身を置く孤独な男・辰巳(遠藤雄弥)。昔の恋人京子(亀田七海)の妹、葵(森田想)が起こしたいざこざのため、久しぶりに京子と再会します。しかし、程なく彼女は組の内輪揉めのため、巻き添えで殺害されます。葵は復讐を誓い、辰巳に援護を求めます。
シャブで死んでいく辰巳の弟(藤原季節)のショッキングな冒頭から、暴行で死に逝く者、モノクロの実録物風のオープニング、死体処理の場面など、のっけから、そりゃR15の場面の羅列です。お世辞にも美しいと言える風景など一切なく、汚いセット、汚い場面、暴力シーンの連続ですが、目を覆うかというと、そうでもなく、嫌悪感もない。唯一の嫌悪感は、自分が悪いのに、葵が相手かまわず、唾を吐く事。この子のキャラが、少年院入り寸前の19歳の設定で、傍若無人なクソガキでしたが、パパ活する輩より、ツナギを着て自動車の修理工をするのは、性を売りにせず大変よろしくて、好感が持てます。
「性」の視点で観ると、この手の作品に付き物の、捕らわれたら、女はレイプしてなんぼ、バストもはだけるのが常ですが、それが全くなかった事に感激でした。レイティングの加減で、今はその手のシーンがあれば、R15が難しいのかもですが、ここもポイント高し。
内容は、「レオン」でした。辰巳と葵は年が離れており、葵は辰巳を「おっさん」と呼ぶ。シノギの辛さに、やくざの面々は副業もしており、組と組との抗争ではなく、組内のシャブの盗みあいが元の設定も、世知辛い昨今のやくざの現状を物語っています。実は・・・の黒幕ありぃの、噛ませ犬ありぃの、ライフルの特訓ありぃのの中、迷惑がっていた辰巳が、次第に葵の心情に心寄せていく様子も、澱みがありません。
何故そうなるのかは、弟を見殺しにしてしまった悔恨があるのでしょう。葵に弟を重ねている。愚直で寡黙。しかし、温かい血が流れている男なのは、かつて愛した京子を、看取る場面で解かるのです。「お前の家族はあの娘か?俺達じゃないのか?」と、兄貴(佐藤五郎)に問われるも、葵を選んだ辰巳は、所詮やくざはクズなのだと、深々心に刻んでいたのでしょう。どこか自分に相応しい死に場所を求めていたのかとも、思います。
「風俗に売るぞ」のセリフもあったし、簡単に口封じも出来たのに、葵に対して誰もそうしない。それは彼女が不良でも堅気であったし、クズのはずのやくざにも、心の中に辰巳の弟のような存在があったのかも知れません。その感情を引き出したのも、辰巳です。
遠藤雄弥が、とってもカッコいい!時々見かける顔ですが、出ずっぱりにも健闘しており、堂々の主役っぷりでした。紛れもなくやくざなのに、ずっと清廉さを醸し出しているのは、彼の好演のお陰です。
森田想(こころ)も、とっても良かった!出だしは本当に腹の立つクソガキでしたが、後半からのピュアな心根を全面に出して、一心に姉の復讐を誓う姿は強く印象に残ります。
だからこそ、疑問の葵のセリフがあるんです。辰巳に京子のどこが好きかと問われて、姉のセックスを覗き見した事、男を寝どったのに、姉が許した事を語りますが、せっかくこの子に心を寄せ始めていたのに、ドン引きでした。あくまで私だけかも知れませんが。
そんな下品で下衆な事ではなく、親に早くに死に別れ、代りに育ててくれたとか、どうしようもない不良で、親に折檻されていたのを庇ってくれた等、平凡だけど、これで良かったんじゃないかなぁ。
人に人格があるように、例えヤクザ映画でも、映画には格があるものだと、私は思っています。それは登場人物のキャラに大いに関係があると思います。折角無名に近い俳優さんたちが頑張って、テンポよく面白く、行間もスラスラ読ませてくれていたのに、個人的に、とても残念でした。この作品には「格」があると思っているので。
とは言え、監督のポテンシャルは高く、とても手応えを感じています。早い次作を期待しています。「自分が今日死ぬって、知ってた?」と、銃口を相手に向けて言う葵。19歳の女の子の、このクールでハードボイルドなセリフに、痺れてしまった。今後もこんなセリフやシーン、期待しています。
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