ケイケイの映画日記
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先週土曜日、テアトル梅田で、主演の仲村トオルと万田邦敏監督の舞台挨拶があったので、午前中仕事を終えて駆け付けました。仲村トオルは地味にファンだし、監督の「接吻」はとても好きなので期待値マックスで鑑賞。上映前にトークで、監督が「人生の深淵も描いていないし、元気が出る内容でもない。変な映画です。でも僕は面白いと思っています。ご自分で様々な観方をして下さい」との事。観る前に聞いていて良かった(笑)。でなけりゃ罵詈雑言だったはず。お陰で面白く鑑賞出来ました、ハイ。今回ネタバレです。
精神科医の滝沢(仲村トオル)。6年前に妻の薫(中村ゆり)を亡くし、今もその哀しさから妻の幻影を観てしまい、安定剤が手放せません。ある日患者として出会った綾子(杉野希妃)と恋に落ちます。しかしいつまでも薫が忘れられない滝沢に、綾子は嫉妬を隠しません。
ほんと、変な映画ですよ(笑)。監督さんには悪いが、前半は色々脚本が雑で破綻していたと思う。綾子は虚言癖が酷く、あれは人格障害じゃないかなぁ。患者は後出しで色々出してくるけど、それを引き出すのが医師であって、精神科医なら少ない受診回数でも判ると思うぞ。
先に綾子が滝沢を好きになり、患者とは付き合いませんと言われ、もう治りました、大丈夫。患者じゃないので付き合いましょう(by綾子)→それでは付き合いましょう(by滝沢)。一連の流れに、コメディかと思いました(笑)。いくら何でも、この流れはないだろうが。メンヘラの綾子が有りきなので、患者で登場させたのでしょうが、ここは患者じゃない方が良かった。
何の仕事をしている全く判らないのに、何でメゾネット付きの高そうなマンションに住んでるの?>綾子。最後まで仕事は何か出てこなかったけど、これなら風俗嬢の設定の方が解り易い。服装もそれっぽくケバかったし。
亡き妻を思い出すと言う理由で、中学生の息子は薫の両親に任せっきりで、父親としては失格の滝沢。同じ境遇の女子生徒が息子と絡みますが、これが絡んだだけでした。何かの伏線かと思いきや放りっぱなしで意味不明。
まぁこれには理由があって、滝沢も病気なのよね。伏せられていたメンヘラが暴露されてからの綾子や、病気が露になってくる滝沢を描く後半は、確かに人生の深淵は描いていないけど、精神疾患及びメンヘラの深淵は描けているなと思いました。
これらが露になる切欠になるのが、薫の弟の茂(斎藤工)の登場。斎藤工、すごく良かったんですよ。トークで仲村トオルが、監督は自分にはあれこれ演技をつけるのに、斎藤君には何を言わなかった。何故だろう?的なお話をされましたが、そんなの私にも解ります。斎藤工は元から変だからです(笑)。監督は彼は出来上がっているので、その世界観を壊したくなっかったそうです。
そして滝沢、綾子、茂の中で、一番変な世界観を持つ斎藤工が、一番まともと言う不思議(笑)。病んでいる者同士の、脆弱な世界で二人きりの滝沢と綾子に相反する、強固な意志を感じる茂も、本当は姉の事で傷ついているはずです。滝沢を許せない茂の感情が、滝沢と綾子に不穏な空気をもたらすのは、上手い展開です。
薫と仲の良かった茂は、あなたが姉を殺したと滝沢を詰る。実は薫は病気で亡くなったのではなく、鬱病の悪化で自殺。これも茂は他の医者に診せろと進言したのに、滝沢は無視して自分が診察したのです。薫は優秀な医大生だったのを、唐突にアメリカに留学するので付いてきて欲しいと滝沢に言われ、医大を中退していました。
「智恵子抄」的な夫婦関係が、薫の心を蝕んでいたんでしょうね。妻の優秀さに嫉妬し、成長を奪い常に自分の下に置きたかった滝沢。薫の幻影は、亡き妻への愛ではなく、罪悪感が見せていると解ります。私は滝沢のような男を知っている。それは私の夫です。
私は薫ほど優秀でもなく、至って普通の女性で短大を出た年に結婚。夫婦で家庭を育むのだと思っていたのは私だけで、夫はとにかく訳の分からぬ事を言い募り、マウントを取るのに必死。それでも年も離れているし、当時の感覚もあって、夫唱婦随で歩もうと思っていました。しかしその夫唱婦随は、夫婦で天と地の差があり、夫の夫唱婦随は、暴言や侮辱されても、妻は黙って従うものと言う代物。当然盛大に喧嘩もしたし、言い尽くせぬほどの忍従の日々でした。(今は違うよ、念のため。家では私が一番偉いです)。
薫の幻影が「あなたは私の幸せを望んだか?」と言う言葉に、自分がぴったり重なり、ため息と共に思わず涙が出ました。監督は滝沢は仲村トオルを宛書きしたそうです。滝沢も夫も間違いなく善良な人間です。その善良な男が、愛する女性を妻にした途端、自分の所有物として、自分の思いのままに生きさそうとする。妻の人生なのに、自分の気持ちを優先させるのです。全て無自覚に。 そして、それが妻への愛だと思い込んでいる。その罪の深さを、仲村トオルのような、実直で誠実を絵に描いたような男性に演じて貰う事に、深い意味があったと思いました。
綾子の前にはたくさん獲物=男が通り過ぎたでしょう。今度は滝沢がネギを背負ってやってきた。きっちり捕まった滝沢ですが、彼女に出会わなければ、薫の幻影は、自分の亡き妻への愛情だと錯覚したまま、綺麗ごとで自分を美化して生きたかも知れません。そういう意味では、綾子は菩薩だったのかも?しかしこの綾子がなぁ。
すごく魅力に乏しいのです。杉野希妃は、綾子が全然愛せなくて、演じるのに苦慮したそうですが、「さもありなん。嘘八百で周囲を振り回し、これでもかの愛情を自分に示さないと、自殺すると喚く。いやもう、人格障害の嫌なところだけがてんこ盛りに描かれています。生まれながらの虚言癖である、いやいやそうなったのには理由がある。そのどちらでも哀しい綾子には違いないのに、綾子の嘘を暴くだけ暴いて、何故そうなったのかは、全く描いていません。私は初めて杉野希妃を見るので楽しみにしていましたが、これでは彼女が気の毒でした。私は精神科に勤めていたので、綾子は人格障害なんだと理解しましたが、普通はなんだ、この女!でお仕舞なんじゃないかな。
ラスト、「真実」を告げ憎悪していた滝沢を救おうと、茂が「義兄さん!」と滝沢を呼ぶ温かさに、救われる気持ちがしました。綾子のような人は、あれしか魂は救われないし、憑き物が落ちたような滝沢は、二度と薫の幻影は観ないと思います。
個人的には面白く観ましたが、一般的にはどうですかね?お時間があれば、お確かめ下さい。
2021年11月12日(金) |
「きのう何食べた?」 |
ドラマ版の大ファンです。原作も数話読んでいて、とにかくこの作品が大好きな私、初日に劇場に駆け付けました。サービスデーと相まって、劇場は超満員(ほぼ女性ばっか9。ドラマ版の世界観を踏襲して、中年のゲイカップルのユーモアとペーソス溢れる日常が、食を通じて生活感たっぷりに描かれています。あの場面この場面、滋味深い演出が、心に染み渡りました。監督は中江和仁。
弁護士のシロさん(西島秀俊)と美容師のケンジ(内野聖陽)は、中年のゲイカップル。念願だった京都旅行を、シロさんから持ち掛けられたケンジは有頂天で当日を迎えます。開けっ広げで、周囲にゲイだとカミングアウトしているケンジに対して、職業柄もあり、公的にはゲイで有る事は秘密のシロさん。それが誰憚る事なく、カップルとして行動するシロさんに、ケンジは訝しく思い、せっかくの旅行なのに気もそぞろ。これには訳があり、シロさんのケンジへの罪滅ぼしだったのです。
出だしから覚えのあるすれ違いのユーモア、ケンジの乙女心(そうなの〜女子より乙女なの〜)が炸裂するあれこれで、ドラマファンは一気に勘を取り戻したんじゃないかなぁ。
このドラマ版及びこの作品、私は基本的にホームドラマだと思います。ゲイを描くと、世の中に理解されない辛さや厳しさや、耽美的な美しさを強調する作品が多く、生活感に乏しいのです。ところがこの作品は、食や住まいや仕事、周囲の友人同僚や、ゲイの息子を持つ親の気持ちが、誠実に丁寧に描かれています。とにかく自然体。彼らの近所に住んでいるような気になり、気分は彼らのお友達。そのお陰で、二人の悲喜こもごもの感情に、こちらも自然と寄り添えるのです。
愛情表現も身体的にはハグぐらいで、品の良さが感じられます。これは元はドラマと言うのもありますが、過激な表現が無い分、二人に親近感が湧くのです。
シロさんの両親は、頭では息子がゲイで有る事は受け入れているのですが、心が追い付かない。その事に親子同士で申し訳なく思っている。そしてケンジに対しても。誰も悪くないのに、責めているのではないのに、この感情。大喧嘩したり絶縁を描くより、同性愛者の苦しみを感じます。
もう一つのゲイカップルの小日向さん(山本耕史)と航君(磯村勇斗)が、航君の家出に、「僕たちのような間柄は、一瞬で崩れてしまうんですよ!」と、航君の大好きなわさビーフをしこたま抱えながら言います(←笑って泣けるシーン)。うーん、きっと自分たちの特異性を自覚しているのでしょうね。でもこれは違うね。男女だって、うちのようにもうじき結婚生活39年のもんだって、崩れる時は一瞬ですよ。
若い時は長年暮らした夫婦は、語らずとも阿吽の呼吸で、空気のような、いてもいなくても気にならない存在になるのが理想と聞きましたが、それも嘘。それじゃ、片方が亡くならないと、存在の大切さが解らないよ。会話を欠かさず相談し合い、常にお互いを一番大切にしなければ、人生を共にしている意味がないです。
なので、頭では理解している母親の久栄はシロさんに言います。「あなたの家族を一番大切になさい」。意味は充分わかりますが、これも意義あり。そこ「家族」ではなく、「家庭」です。だって結婚しようが別所帯になろうが、親は親、子供は子供でしょう?私はお嫁さんも孫も入れて、今うちは7人家族だと思っています。優先すべきは「家庭」です。
家庭は安定だけではなく、成長も即すもの。ドラマ版でのシロさんは、善人なれど、体裁と冷徹が過ぎる人に感じました。それが素直な愛情表現を、惜しみなく自分に与えるケンジによって、少しずつシロさんに笑顔が増えてきます。ケンジには自分に合わせてくれることを望んでいたのが、段々ケンジの要望に応えよう、ケンジの笑顔が観たいシロさんになってきました。家庭生活の醍醐味ですね。伴侶としてケンジがシロさんを育てたのだと思います。なんら男女のカップルと変わりません。
大阪は何年か前、ゲイカップルに里親の許可が降りたと読みました。私はとても素晴らしい事だと思いました。お父さんが二人でも、お母さんが二人でも、子供にとって誰よりも自分を慈しむ存在は、尊いものです。私は「足るを知る」事は、人生で重要な事だと思っています。でもその「足る」範囲の中、精一杯あれこれチャレンジすることは、もっと大切だと思う。ゲイカップルが借り腹して産んで貰うより、実親と縁の薄かった子と縁を紡ぐ方が、私は執着のない、開放的な愛を、子供に注げるように思います。
ひょんな事からシロさんと買い物友達として知り合った主婦の佳代子さん(田中美佐子)。シロさんがゲイと知った時、とてもニュートラルに受け入れます。何かのアンケートで、同性愛に違和感がないと答えたのは、50代の主婦が多かったそうで、はたと思い当たったのが数々のコミック。小日向さんが航君の事を「ジルベールのよう」と言った時、おぉ!と、心の中でどよめいた50女は多いはずです。少女期にBLコミックの金字塔、「風と木の唄」や「ポーの一族」を、一度は手にしたはず。自分を鑑みても、ゲイを受け入れる土壌が、乙女時代に形成されているのでしょう。してみれば、昨今LGBT教育が小中学校で開始されているのは、朗報です。
劇場版が初見の人は、男くさい、男の中の男的なイメージの内野聖陽に、びっくりするんじゃないかしら?体をくねらせ、「いや〜ん!」と照れる様子も愛らしく、中年男が麗しい乙女に見えるこの錯覚(笑)。素直で繊細、そして陽気な、人柄抜群のケンジを本当に自然に体現しています。私はケンジ目当てでこの作品を観ていると言っても過言ではありません(きっぱり)。彼を観ていると、心が洗われて、明日も頑張ろう!と、元気が湧いてきます。せっかく映画になったんだし、是非賞レースにも参戦して欲しいな。
ドラマファンにはお馴染みのメンバー勢揃いだったのも、嬉しい限り。初見の人は、出来ればウィキ等で、相関図やキャラなど頭に入れてから観ると、よりよく理解できると思います。最後に、シロさんの料理ですが、あれを男二人暮らしで二万円で本当にやりくりできるのか?月二万円の家庭で、ハーゲンダッツは買えんぞ(きっぱり)。やっぱりレシピ本買うかなぁ。すっかり手の内に嵌って、幸せでござる。
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