ケイケイの映画日記
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2018年05月30日(水) 「友罪」

違うと原作者に言われても、誰もが神戸の少年Aを思い浮かべる作品です。その後の「彼」にスポットを当てた内容で、あれこれ詰め込み過ぎて、散漫になって惜しい部分はありますが、力作であると思いました。監督は瀬々敬久。

元週刊誌記者の益田(生田斗馬)は、上司を殴って退職。今は住み込みの町工場で働いています。同時に入った鈴木(瑛太)は、一風変わった青年でしたが、徐々に親しくなり、同僚として友情を育み始めた時、鈴木が17年前、日本を震撼させた殺傷事件の当時14歳犯人・少年Aであると、判明します。

益田と鈴木の心模様を中心に、息子が無免許運転で三人の子を死亡させてしまった息子を持つ山内(佐藤浩市)一家の遺族への贖罪、AV出演で人生が狂った美代子(夏帆)、鈴木が慕う少年院の教官で、仕事熱心なあまり、娘から絶縁された白石(富田靖子)などが絡みます。

予告編で鈴木の父親なのかと思っていた山内ですが、これは別の事件の加害者の父でした。押し付けがましい所はありますが、子供が死亡事件を起こした親として、何年経っても謝罪し続ける様子は、立派だと思います。同じ少年犯罪に悪意があった事件だとて、山内の息子は殺意はなく、鈴木は明確な殺意がある。命の重さは同じでも、罪の深さは全然違うと思いました。

なので、少年犯罪の加害者の親の気持ちを代弁させるには、山内だと的外れだと感じました。やっぱりここは、厳しくとも鈴木の親を持ってこないと。私は未成年の起こした事件は、親も共に償う必要があると思っています。行き来がない方が、加害者の更生に役立つと言うなら、その理由も描いて欲しかったです。

白石は仕事にのめり込み、離婚。娘から「自分の子供よりクズが好きなんでしょう?」と、罵られます。10代の娘の妊娠・堕胎を持ってくるのは、命の尊さを訴え、亡くなった子供たちの命とを絡めているのでしょうが、上手く機能していたとは思えません。私は自分の子供を犠牲を強いる母親が、個人的には大嫌いです。母親が子供を置いて仕事をするのは、いかなる理由でも、母心として大なり小なり後ろめたいものです。夫や子供と話し合うの必要で、落としどころを見出すのが大事だと思います。仕事が本当に母親の人生に不可欠なものであれば、子供はわかってくれるはずです。自分の子供を救えなかった母親が、罪を犯した子供たちを救いたいなど、大変不遜で罪深い。白石のキャラは、独身か子供に恵まれなかった女性なら、文句はありませんでした。

主役二人の背景や、二人が徐々に歩み寄る様子、背景の町工場周辺の描き方は、丁寧で秀逸。益田の過去には、中学時代自殺した友人への罪の思いがあり、それが常に心の底に澱の様に淀んでいるのが、手に取るようにわかります。。あれくらいの規模の町工場なら、外国人労働者がいるなど、社会の縮図的であっても、本当の底辺ではありません。しかし、益田は捨て鉢になって、ここに来たはず。それが怪我の時に見せた同僚の男気、力仕事の後の冷えたビールの美味しさ。徐々にこの場所に馴染み、人生の哀歓を見出す二人。本当の底辺には落ちなかったのです。

なので、若者が場末であろうスナックで、ただ楽しく飲み歌う場面が、この作品の中で光を放つ。あぁ、良かったねと。なのにこの美しく尊い場面が、のちのちとても哀しい場面に転換するのも、これが現実なのだと、胸に突き刺さりました。

瑛太は、少し作りすぎの気もしますが、ラストに見せた涙が本当に辛くて。殴られる場面が多数あり、一度も手を出さない事で、彼の謝罪の気持ちを表していたのは、きちんと観客に伝わりました。彼のした事は生涯許される事ではないけれど、過去に怯えながら、流転の人生を歩むのが、本当に被害者への贖罪なのかと言うと、それは違うと思いました。

生田斗馬は、今回弱さの見せ方がとても胸を打ちました。益田の内なる弱さは、誰もが自分と重ねる事が出来る類です。鈴木の事も、書かずにはいられない記者としての業に、ほんの少し低俗なブンヤ気質も滲ませていて、今回とても良かったです。

山内の息子の婚約者は、「罪を犯した人は、一生幸せになっちゃいけないんですか?」と叫びます。罪にも色々あるけれど、この作品の加害者二人は、厳しいですが、幸せなっちゃいけないと、私は思います。でも幸せではなく、静香に暮らすことは必要なのでは?それが彼らが自分を戒め、謝罪の気持ちを持ち続ける事を、即す事になると思いました。それには、世間も見守る力をつけないと。山本美月と古舘寛治の週刊誌記者の狼藉は、野次馬根性で加害者のその後を知りたがる、世間への戒めだと思いました。


2018年05月20日(日) 「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」




フロリダの安モーテルを舞台に、最低層の子供たちを描きながら、子供が子供である時代、何が一番大事なのかを教えてくれる作品。今の日本の実情と照らし合わせて考える事も充分に出来ます。私は子供が生き生きする作品が大好きですが、それを差し引いても傑作だと思います。ラストは暫し号泣でした。監督はショーン・ベイカー。

フロリダのディズニーワールドの横にある、安モーテル。かつてはディズニーワールドに来る人たちを当て込んでいましたが、老朽化し、現在は行き場のない人々の長期滞在所に。ここに流れついたのが、若いシングルマザーのヘイリー(ブリア・ヴィネイト)と、6歳の娘ムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。同じくここに住み着いているスクーティーやジャンシーと共に、周囲の大人や管理人のボビー(ウィレム・デフォー)に迷惑をかけ通しながら、毎日を楽しく生きているムーニー。しかし、ある事件をきっかけに、それなりに平穏だったムーニーの生活は、追い詰められていきます。

ムーニーたちが、とんでもない悪ガキ(笑)。その無邪気さは天真爛漫を通り越して傍若無人です。近所にこんな子供がいたら、私だって鬼ババァになります。無駄に子供たちが超可愛いのが、始末に悪い。それに拍車をかけるのが、母親のヘイリー。「また何かしたの?」と言うだけで、全く躾をしません。ザンバラの髪をまとめるでもなく、タンクトップに短パン姿からは、あちこち刺青が覗く。家電を買って、惣菜を作る人もいる中、食事は教会の配給と、ダイナー勤めのスクーティーの母親アシュリーが分けてくれるパンケーキ等。部屋はゴミ屋敷寸前。そのくせ、マリファナだけは、欠かしません。自堕落なこと、この上ない。

誰が見ても母親失格のヘイリー。現在無職ですが、元はストリッパー。無料の交通チケットを申請する時(でも却下)「客に手コキしろって言われたの。嫌だと言ったら、ダンスさせてくれなくなった」のが原因。今はチンケな詐欺で小遣いを稼ぐ有様。どこから見ても、ど底辺の母親失格の女性です。観ながら、ため息ばっかり。スクリーンの中へ入って行き、母娘共々、躾したくなりました。それが同じ風景を繰り返し見るうちに、私はこの母と娘に、自分の子育て時代を思い出し、共感して行くのです。

ムーニーは飢えた事がありません。衣食住は守られており、夜はベッドで母と共に眠る。部屋は汚いけれど、ヘイリーは洗濯は欠かさない。何より毎日楽しく「子供らしく」過ごしている。子供が子供でいる時代を、充分エンジョイさせてやれる事は、実は難しい。「子供らしくない子供」。それは親が作っている。

よく虐待する親を子供が庇う時、あんな親でも子供は大切なのだと言われますが、それとは違うヘイリー。ムーニーとヘイリーは心からお互いを愛し、強い絆がある。そうです、ヘイリーはネグレクトでも虐待でもない。ただ真っ当な暮らし方を知らないだけです。彼女自身が、そういう育ち方をしているのでしょう。彼女たちだけではなく、ここの家もない底辺の人々は、彼らなりに一生懸命生きている。それをわかっているから、ボビーは一見疎ましさを装いながら、付かず離れず、慈しみながら見守っているのでしょう。きっと彼も訳ありの人なのです。

ある事故から、母親のアシュリーからムーニーと遊ぶのを禁止されるスクーティー。「こんな事が知れたら、児童局に連絡されるのよ!」。モーテル暮らしを非行の原因と取られるのを、何より母として恐れているアシュリー。彼女も心から息子を愛しているのですね。ヘイリーに伝えても、埒が明かない事は明白で、二人の暮らしを守りたい彼女は、自分もヘイリーと絶交します。

小遣い稼ぎもままならなくなり、アシュリーからの食べ物が手に入らなくなり、モーテルの滞在費をボビーから取り立てられたヘイリーは、何をしたか?お決まりの事です。でもここで思いを巡らせて欲しい。彼女は性的サービスが嫌で、ストリッパーをクビになったのです。私はひとえにムーニーのためだと思いました。やり方は間違っています。世間は短絡的な行動だと思うでしょう。でも娘に食事と寝る場所を与えてやりたい、この知恵のない若い母親の切羽詰った気持ちを、同じ母として子育てしてきた私が、理解してやれなくてどうするのか。私はヘイリーを断罪する、そんな情けない母親ではありません。

観ているうち、監督がこのモーテルの人々にこの上なく暖かい眼差しを送り、社会へ厳しさ目を向けているのを確認します。ヘイリーもアシュリーも母子家庭。ジャンシーは母親が15歳の時生んだ子で、今は祖母が育てている。父親や祖父は、影も形も出てきません。このモーテルを出て行けたのは、父親のいる子でした。日本も同じ状況なのは、ご承知の通り。夢の国ディズニーワールドの隣で、繁栄とは無縁にもがく人々の事を、どれ程の人が考えた事があるのか?とりわけ子供たちの事を。救済の仕方を考えるのは、社会の責任だと語っていると思います。

オスカー候補になった、デフォーが素晴らしい。他人の生活に踏み込むのは、とても厄介な事です。時には悪態を付かれても、彼らにルールを守らせる。それは、ここに居られなくなったら最後、どこにも居場所がなくなるのを、知っているからです。彼の本心を垣間見せる、不審者から子供たちを守るシーンが秀逸。仏心を隠す様子が、滋味深い。

今のままでは、ヘイリーとムーニーの末路は悲惨です。ラストに起こる出来事は、ムーニーの幸せな子供時代の終焉なのでしょう。たった6歳です。ジャンシーに手を引かれ、夢中でディズニーワールドを駆けるムーニー。ジャンシーの世間に対する怒りに満ちた表情が、辛い。それは、彼女たちの母や祖母では、決して連れて行ってもらえない場所。でも子供の特権は希望です。親の轍を踏まず、自分の力でこの場所に来られるようになりなさいとの、監督からのエールと取りました。

虐待が何故起こるかと言うと、私は母性や父性の欠如だと、思うのです。情緒的に難しい人がいるのは、事実。ヘイリーはそれは充分に育っている。引き離す事が、本当に二人の幸せなのか?二人が共に暮らせるようには、急がば回れで、ヘイリーを社会人として、教育しなおすべきだと思いました。この子は娘のためなら、きっと頑張ると思う。時間的に難しい事だと思います。でもそれを考えてこその福祉じゃないのかなぁ。

この作品の何が素晴らしいかと言うと、本来なら蔑まれても仕方のないような日常を映しながら、誰も責めない。観客にどうすれば、この人たちのためになるのか?と、考えさせる事。本当に色々考えました。まだ捕らわれています。監督は是枝監督のファンだそうで、子供たちのスクリーン栄えの素晴らしさは、そこから来ているのでしょう。是枝監督が透明感なら、ベイカー監督は逞しさです。現在私の今年のNO1候補です。


2018年05月16日(水) 「孤狼の血」




広島が舞台の東映のやくざ映画。と言う事で、往年の「仁義なき戦い」や「県警対組織暴力」を懐かしんでか、劇場は男性ファンでいっぱい。暴力場面は凄惨で汚いし血みどろですが、作りはオーソドックス。二時間少し、飽きずに楽しめました。監督は白石和彌。

昭和の終焉が目前の63年の広島の地方都市・呉原。長年地場を取り仕切る暴力団尾谷組と、広島の巨大組織五十子会をバックにする新興勢力の暴力団・加古村組が、丁々発止の睨み合っていました。呉原東署の赴任してきたキャリア組の新人刑事日岡(松阪桃李)は、辣腕だが黒い噂の堪えないベテラン刑事大上(役所広司)と組まされます。折りしも加古村組系列の金融会社の経理担当者上早(駿河学)が行方不明となり、二人は捜査することになります。

のっけから排泄物まみれの豚舎が出てきてびっくり。そこで容赦ない拷問が始まります。同じ映画でも絵空事に近いスプラッタ系は、これ以上に血まみれですが、リアル感に乏しいので、それほど痛みは感じないんですが、やくざ映画は日常散見する事に程々に想像力が働くので、観ていてとっても痛い。そして吐き気を催すくらい、汚い。以降暴力シーンは、山盛りこんな感じです。

尾谷組にから賄賂を取り、一見癒着を思わせる大上。一方正義感の強い正統派刑事日岡も、実は捜査とは別の任務を背負っていました。前半は時代背景も相まってか、回顧ムード満載で、これはこれで楽しめした。後半からは、大上の裏の裏の顔とも言うべき、彼自身が浮かび上がる趣向で、それが進むに連れて、若い日岡の成長物語にもなっています。

「やくざは生かさず殺さず、手なずけるのが大切」的な大上の言葉が、のちのち誰の為に向けられて言葉かと言うのが、解ります。そして、大上に絡む人々たちが言う、「自分たちは大上の駒」と言う台詞。駒にも白い駒黒い駒、グレーの駒、色々あるでしょう。自分たちは駒だと認識している人は白い駒で、極道以上に大上と繋がっていたのでは?そしてやくざはみんな黒い駒。所詮やくざはやくざだと、画面から聞こえる。「堅気を殺ったら、タダでは済まんぞ」と言う台詞は、のちのちの展開には重要だったんだと、後で気が付きます。

しかし駒と言えば、大上だってそう。主任が彼を放し飼いにしていたのは、理解者だったのではなく、その方が自分たちの仕事が、し易かったんじゃないでしょうか?大上だけではなく、現場のノンキャリアの刑事たちは、自分たちはキャリア組の駒だと言う悲哀を、日々たっぷり感じていたはず。それがラストに向けての団結に繋がったのでしょう。

役所広司は、私はこの手の役の彼には正直あまり興味なく、もっと芸術的な演技の時の方が好き。それでも好演だったのは認めます。松阪桃李は、すんごく良かった!正義が何かと問われ、答案用紙の模範解答のような返答しか出来なかった彼が、軽蔑していた大上に惹かれ、敬意を持ち始めるまでの様子を、とても素直に、一生懸命演じています。

他に良かったのは、真木よう子とピエール瀧。真木よう子は、「極道の女」的作品がまた作られたら、主演は彼女がいいな。安っぽい色気を振りまくクラブのママと言う表の顔と、鉄火肌で一途な本当の顔とを、上手に演じ分けていました。恐妻家の右翼を演じたピエール瀧は、強面の顔とは裏腹の、繊細な思考に長けた男の役を好演。もうすっかり性格俳優だなぁ。

その他、チラチラ顔を見た事がある程度の脇役さんたちが、昭和の香りたっぷりにチンピラを演じて、○の演技。竹之内豊、江口洋介のビッグネームたちの初やくざ役は、男前をわざと不潔感たっぷりに変貌させての竹之内豊はぼちぼちです。江口洋介はラスト近くはカッコ良かったですが、全然普段の「江口洋介」で、別段何も感じなかったです。この役、椎名桔平だったらなぁ、とずっと思って観ていましたが、もしかしたら、「アウトレイジ」に出ていたから、外されたかしら?まぁしかし、男優って言うのは、やくざの役をやると、みんな楽しそうね(笑)。

滝藤憲一が日岡の上司役で出てきて、のらくらと日岡に対応する様子にピンと来て、だめじゃん、筋がばればれでと、思いましたが、いやいや解り易く筋をばらしてんだよ、と途中で思い直しました。そうしないと、繋がりが悪いもの。そのためのチキンな役柄の多い、滝藤のキャスティングだったと思います。

ずっとどこかで観たような風景が繰り広げられますが、懐古趣味とかパクリではなく、先達への敬意が感じられ、これがオマージュってもんよねと、一人納得。唯一先達と違うのは、この作品の鑑賞後、肩で風切って歩きたい人はいないと思います。そこは時代を反映した作りなのでしょう。大上の後を、自分なりに継いでいこうと決意した日岡のその後を、観たい気がします。



2018年05月06日(日) 「サバービコン 仮面を被った街」




ジョージ・クルーニー監督、コーエン兄弟脚本作。と言う事で、早速観てきました。ブラックなユーモアを随所に見え隠れさせながら、保険金殺人や黒人差別を描く作品。段々と怖さが募ってきて、私は面白かったです。

1950年代のアメリカ。絵に描いたような明るく正しく楽しいアメリカを体現する理想郷の街、サバービコン。しかし黒人のマイヤーズ一家が越してくると、たちまち街は騒然と化し、人々はマイヤーズ一家を追い出そうと、街中が苛めにかかります。そんな時、隣人のガードナー(マット・デイモン)の家に二人組みの強盗が入ります。一家は、車椅子の妻のローズ(ジュリアン・ムーア)と双子の妹のマーガレット(ムーア二役)と、息子のニッキー(ノア・ジューブ)の4人家族。強盗は家族全員にクロロフォルムを嗅がせて眠らせますが、薬を吸い込み過ぎたローズは、それが元で亡くなってしまいます。

この画像から、マットがシリアルキラーなのかと思っていました(笑)。もっと悪人かも知れません。姑息で卑しい夫です。そして鬼畜!強盗登場で、マットが妙に落ち着いているし、強盗も覆面もしていないし、変だなぁ〜と思っていました。もしかして・・・と、簡単に筋は読めるようになっています。

そこからは確信犯的に、あんたたち、バカなんですか?の連続。よくもまぁ、こんな杜撰な計画を立てたもんだわ。双子姉妹の兄が、「マーガレットはいい人だが、賢くない」と言っていましたが、切羽詰って、保険調査員のオスカー・アイザックにやってしまった事なんて、やっぱりバカでした(笑)。あんな事してね、足がついちゃうと、子供だってわかるもん。

お話は、ローズの死にまつわる不穏な動きと、マイヤーズ一家への、街ぐるみの迫害やデモを、交互に映します。そこには、下等だと忌み嫌われた黒人よりも、白人の方が何十倍も獣じみている、と描いていると、普通に読み取れます。特に白人たちが家に火をつけたり、投石したりの様子は、これって黒人の専売特許ですよね?それを自分たちは格上だと思い込んでいる白人にやらすのは、皮肉で上手い描き方だと思いました。

でもこれだけじゃぁ、ないんだろうなぁ。救いは、さながら暴動のようなマイヤーズ家の片付けに、少数の近所の人と思しき勇気ある白人が手伝いに来ていたこと。そして、ラスト近くテレビに流れる、「私は人種差別主義者じゃないわ。でも近所に黒人が住むなんて嫌よ」的な、白人女性の悪意の無い本音。ガードナー一家も、黒人の地位向上委員会とか、共産党がバックについており、サバービコンに送り込まれたと、囁かれている。悪意の無い、無意識の差別心を持っているのは、多くの善良な白人で、この手が一番手強い。この潜在意識は、鬼畜の所業を働く輩と同じ。ってとこかな?いや知らんけど(笑)。

ムーアは、マットより一回りくらい上ですが、ラブシーンなど違和感なくて、流石です。車椅子前であろうローズの写真が出てきて、女優さんばりにセクシーで美しく(いや本当に女優なんですが)、車椅子の現在の姿はやたらに老けていて、哀しい。何故自分が車椅子になったのかと、知っていたのでしょう。その賢さと、夫の性癖を嫌った事が、彼女の命を奪ったのでしょうね。

作中、唯一の正義と良心として描かれるニッキー。勇気を持って物事にぶつかり、子供には歯が立たない事は、誰に頼よったか?警察ならもっと良かったけど、子供が咄嗟に思い浮かぶなら、この人でしょう。演じるノア君は、怖さと怒りが入り混じった表情、大人の汚さを知って絶望したり虚無になったりする表情がすごく上手い。この子の次も観たいです。

サバービコンという戦場で戦わなくちゃ、大人は本質が見えてこないのに、軽々それを超えてしまうニッキーとマイヤーズ家の一人息子のキャッチボールを映す最後は、私はグッと来ました。

のろのろ不穏な雰囲気が、オスカー・アイザック登場くらいから、急展開していきますので、お楽しみに。会話の妙が面白く、あれこれ梯子を外しながら、上手く伏線を拾っていく様子も、ブラックで上手い。私はクスクスいっぱい笑いました。ガードナーたちには、因果応報が待っていたのだから、暴動する白人たちも、時代が時代だけど、お仕置きが待っていたらいいなぁーと、思います。




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