ケイケイの映画日記
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2018年02月27日(火) 「The Beguiled/ビガイルド  欲望のめざめ」

1971年制作の、ドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はテレビで観たのですが、淫蕩な雰囲気のタイトルとは違い、サイコスリラー的な要素の強い作品だったと記憶しています。私は好きな作品なので、このリメイク作も楽しみにしていました。巷の評判は、シーゲル版の男性目線に対し、こちらソフィア・コッポラ版は、女性目線と書いてありましたが、どこが?(笑)。私は面白くありませんでした。

南北戦争の最中のバージニア州。マーサ(ニコール・キッドマン)を園長とする寄宿女子学園の生徒エイミー(ウーナ・ローレンス)が、きのこ狩りをしていた時、負傷した男性を見つけます。男性は敵方のマクバニー伍長(コリン・ファレル)。マクバニーに懇願され、エイミーは園に彼を連れて帰ります。園には他に、教師のエドウィナ(キルスティン・ダンスト)やアリシア(エル・ファニング)ら五人の思春期の生徒がいました。マーサは人道的見地から、マクバニーを看護する事に決めますが、その事で秩序が守られていた女性たちに、波紋が広がります。

女性目線と言うか、これ小娘目線なのですね。最初の方で、眠っているマクバニーの体を拭く、マーサの緊張した様子が描かれます。でもこれって、50の女の様子かな?私には体が火照ると言うより、恐れと興味が引き起こした緊張に感じました。

老若の女たちがマクバニーに興味を示し、我先に彼に近ずこうとし、マクバニーの方でも、傷が癒えても居座ろうと、みんなに誰彼なしに媚をふる。この様子が、何とも幼稚なんだなぁ。初めてマクバニーをディナーに招待する時、どこにこんな服隠していたの?と言うくらい、まぁみんな着飾ることよ。学園の閉塞性とマクバニーの見てもらいたい女心からです。食卓で、女たちのマウンティングが始まりますが、あんなに欲望剥き出しにするか?それって下品なだけで、女性目線と言われても、違う気が。

私が元作で興味深かったのは、少女たちはともかく、マーサ役のジェラルディン・ペイジや、エドウィナ役のエリザベス・ハートマンが、とても地味な女性で、禁欲と言う言葉がぴったりなのに、妙齢の男が出現した途端、色めきたってしまった事でした。特にペイジは、もう性的な女は卒業した年齢に思えたので、私が若い時分なので、嫌らしさも感じました。今ならわかるのですが。今回のこんな綺麗な女性たちじゃ、何時でも男掴まえられるよなぁ。

不穏な空気の黒人メイド、兄と近親相姦の過去があるマーサの設定など、重要だと思うのですが、今回きれいさっぱり割愛。物足りません。一番分かり易く共感したのは、ビッチな小悪魔アリシアでした。

でも一番私的にダメだったのは、私がファレルに興味がなく、超素敵だった若かりし頃のイーストウッドを覚えている事。今回のマクバニーなんかの比じゃないほど、イーストウッドのマクバニーは、フェロモン振りまいていたぞ(笑)。そりゃ寝た子も起きるわな。

展開も終始遅くのろのろ、最後に向かう驚愕の展開、のはずも、繋がりが悪く盛り上がりません。ちっとも刺激がない。見所は可憐な衣装と、女性好みのお城風の学園のインテリアくらいでした。

ガーリーの巨匠、ソフィア・コッポラらしいと言えば、そうなのでしょうね。彼女のファンなら、もっと見所を見つけられると思います。


2018年02月24日(土) 「グレイテスト・ショーマン」




これも素晴らしいです!何度も書いていますが、私はミュージカルには低体温です。その私が、観た後すぐに、もう一度観たいと思ったほど。やっぱりミュージカルは、内容もさることながら、優れた歌と踊りに尽きるなと痛感しました。監督はマイケル・グレーシー。

幼い時の出会いから、身分違いを乗り越え、駆け落ち同然ながら結ばれたバーナム(ヒュー・ジャックマン)とチャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)。
可愛い娘も2人出来ました。しかし、上流階級出身のチャリティに、貧乏暮らしで苦労させている事に忸怩たる思いのバーナムは、一大決心で、古い博物館を購入します。最初は閑古鳥の鳴いていた館ですが、前代未聞のショーを上演し始めると、連日超満員に。人気劇作家で上流階級のカーライル(ザック・エフロン)を口説き、興行のパートナーになってもらいます。

とにかくゴージャス!冒頭の群舞に、早くも主役のヒューがお出まし。ヒューと言えば、ハンサムで歌って踊れて演技が出来て、そして人柄はハリウッド随一と言う御仁。冒頭からフルスロットルで歌い踊るのですから、掴みは上々以上の感触。

楽曲はどれもこれも印象深く耳に残ります。そして歌唱も、皆が皆、声量たっぷりで素晴らしい。観ながら聞きながら、こちらも運動後のように、心地よく疲労する気分。私が好きなのは、空中ブランコ乗りのアン(デンゼイヤ)とカーライルの切ない逢瀬、ショーに出ている面々の,怒りを込めた群舞です。あぁでも全部かも?(笑)。雑多で猥雑ながら、美しくも力強くもあると言う世界が、繰り広げられます。

ショーに出てくる人たちは、所謂フリークス。バーナムは実在の人物で、詐欺師や山師と言われていたそうで、この作品でも、その片鱗は伺えます。しかし、世間から侮辱され差別されてきた人たちを、人々の前で堂々と演技を披露し、喝采を浴びさせた、アイディアマンとして、描かれています。辛酸を描き、歯を食いしばる様子を描くより、ファミリーとしての絆を強調する作品観は、今の時代にマッチしていると思います。

上昇志向が過ぎて、彼らの存在を疎んじるバーナムに、一時はショックを受けるサーカスの面々ですが、自分たちに誇りと居場所を提供した人として、バーナムを赦す様子に、私は素直に良いシーンだと思いました。

撮影が優秀で、女優がとても美しい。カーライルに一目掘れされるシーンのゼンデイヤは、まるで褐色の天使かと思いました。稀代の歌姫役レベッカ・ファーガソンの独唱シーンは圧巻。彼女が本当に歌っているのなら、お見事の一言。圧倒的な存在感とエレガントな美しさが、まだ目に焼きついています。ミシェルも、たおやかな美しさを感じ、良妻賢母の役にびったりでした。

多分現実は、もっとドロドロした内情で、「愛と哀しみの」がつくくらいじゃ、収まらない世界だったと思います。でもそれを丸ごと描いたって、観客を楽しませ、支持される作品に仕上がるかと言えば、疑問です。物事の光と影に、光に焦点をあて、陰もそこそこ描いたこの作品を、私は支持したいと思います。その思惑で、ヒューをキャストしたんだと思う。

書きながら、また観たくなっちゃった。近年では、一番気に入ったミュージカルです。


2018年02月21日(水) 「僕の名前はズッキーニ」(吹き替え版)




手作り感いっぱいの、フランスのクレイアニメ。私は子供に弱いので、子供が主役だけで高評価してしまい勝ちですが、それを差っ引いても、傑作だと思います。

ある不運な事故が元で、アルコール依存のママを亡くしたイカール。パパは以前に女の人と出て行ってしまい、一人ぼっちに。事故を担当した警官のレイモンに、イカールは「僕はズッキーニ。ママがずっとそう呼んだから」と、ズッキーニと言う名前に拘ります。レイモンに同じ境遇の子供たちが集まるフォンテーヌ孤児院に連れられます。当初はボスのシモンに意地悪されるものの、複雑な事情を抱えた者同士、子供たちは打ち解けて行きます。そんな頃、カミーユと言う少女が園に連れてこられ、ズッキーニは彼女に初恋します。

画像は子供たちのキャラ。可愛いけど、不安げな様子が哀しい。これは不安定な彼らの心情を表しているのでしょう。子供たちの背景は、不法移民で子供だけ残された、親が麻薬中毒や精神疾患を持っている、性的虐待など、共に悲惨な背景。冒頭のズッキーニの母の死の件は、本当に衝撃でした。9歳の子に、こんな大きな荷物を背負わせるなんて。父親が不実な母親を殺した、カミーユもです。

しかし、暗いお話なのかと言うと、さにあらず。孤児院の一般的な印象は、愛情に飢えた子供たちが連想され、良いものではないはずです。でもフォンテーヌ園は違う。厳格ですが温かい園長の下、若い男女の先生2人が、子供たちを心から慈しんでいる。スキー合宿で、ダンスパーティーもあるんだぞ。自分たちは、親に捨てられた子と、自尊心が育たない彼らの元に現れた救世主カミーユ。「魔女のような」叔母と暮らすくらいなら、ここでみんなと暮らしたいと言う。子供たちはカミーユのお陰で、自分の境涯を受け入れ、自身を見つめ直し、確かな友情を育んでいきます。

幼い恋心が描かれたり、「子供って、どうして出来るか知っているか?」と、ワイワイ話す様子など、流石はフランス、早熟だわと思いましたが、それは違うなと感じてきます。愛情に乏しい幼い人生を送ってきた彼らは、自分たちが、何故生まれたのか?その意味を知りたいのだと感じました。

度々ズッキーニに面会に来るレイモン。「仕事だから来るんでしょ?いつか来なくなるんでしょう?」と、切なげに聞くズッキーニに、「そんな事はないよ」と言う。何故なのかは、彼の家を見てわかりました。亡くなった息子の写真が飾られており、その子は、どことなくズッキーニに似ています。「親を捨てていく子供もいるんだよ」と、淡々と語るレイモンですが、先立つ子を持つ親は、このように感じるのだと、涙が止まらなくなりました。

シモンの機転で、無事皆が揃ったのも束の間、子供たちは二手に分かれる事になります。寂しさを隠さない友達に、身の置き所がないズッキーニ。でもシモンの後押しで、決心します。ここも泣いたなぁ。この出来事は、孤児院では宿命みたいなものではないかしら?幸運を喜んでこそ真の友情なんだと、この子たちに教えられます。

この孤児院は私が観る限り、良き保護者たる人たちがいて、子供たちをしっかり導いてくれる、信頼に値する施設です。多くの親に恵まれない子に、悲観するなかれ、ここで居場所も誇りも見つけなさいと、語りかけている気がしました。その役割をカミーユに投影し、子供たちの変化を描いていたのでしょう。子供だけではなく、世の大人は全て、子供たちに信頼される人にならなきゃと、それも心に刻みます。

私が嬉しかったのは、若い男女の先生たちの間に、赤ちゃんが生まれたこと。その生育を子供たちが見るのは、自分たちは、生まれた時は愛情のある両親から生まれたのだと、自分自身を肯定出来るはず。先生たちに受けた愛情を、赤ちゃんに是非注いでね。愛情の循環は、必ず皆に幸せをもたらすはずです。

100点満点と言いたいところですが、苦言も少し。内容的には66分でこれだけ描けるのは素晴らしいですが、時間を考えると、一般は1500円では?私はレディースデーで1100円で観ましたが、たまに映画を観る人は、66分のアニメに、1800円は出しません。当日も一人客がほとんどで、私のような、映画には金に糸目はつけないタイプの方々にお見受けしました。

それと吹き替え版は、何故子供たちの声が大人なんでしょう?字幕版は子供です。私は時間の関係で吹き替え版にしましたが、これなら字幕にすれば良かった。アフレコに問題があるのではなく、最後まで違和感がぬぐえませんでした。

料金のことを書きましたが、お金さえ許せば、少しの空き時間で観られる作品です。私は泣いたり笑ったり、鑑賞後は目がカエルの様に腫れて、困りました。感動は太鼓判の作品です。


2018年02月14日(水) 「悪女/AKUJO」




続け様に観る映画全て感激してしまい、少しクールダウンしようと選んだこの作品。しかし、また興奮したり涙ぐんでしまうと言う(笑)。韓国では珍しい女性のアクション映画。ヒロインのスクヒを演じるキム・オクビンが、スタント使わず、激しいアクションの90%を演じているのも、驚愕です。監督はチョン・ギョンビル。

新婚の夫ジュンサン(シン・ハギュン)を相手組織に殺され、たった一人で乗り込み皆殺しにしたスクヒ(キム・オクビン)。彼女は幼い頃父親を殺され、マフィアのジュンサンに、殺人マシーンとして育てられたのです。警察に拘留されたスクヒでしたが、警察の上層部に目が留まり、国家が運営する暗殺者養成施設に送り込まれます。初めは反抗していたスクヒでしたが、女性上司のクォン(キム・ソヒョン)から妊娠を告げられ、お腹の子ため、生きようと決意。やがて訓練が終わり、10年間指令を真っ当出来たら、開放される約束を胸に、娘ウネと共に娑婆に出るスクヒ。しかし彼女を待ち受けていたものは、壮絶な裏切りでした。

冒頭、ゲームで敵を倒すが如くのアングルで、バッタバッタ大流血付きで、相手がなぎ倒されます。微かに聞こえる息遣いで、殺し屋は女性とわかる。拳銃・ドス・身体全てを使った技で、大虐殺を終えるスクヒ。ここまで7〜8分。ワンカットではないでしょうが、そう見える長回しで、とにかくすさまじいの一言。

ここから、「レオン」「二キータ」を彷彿させる展開に。ジャン・レノ、チェッキー・カリョ、ジャン・ユーグ・アングラードが演じた役をミックスし、それぞれ上司のクォン、ジュンサン(シン・ハギュン)、ヒョンス(ソンジュン)に振り分けられます。既視感のある展開ながら、なかなか面白く、冷徹さや怒り・喜び・愛情・不安など、揺れ動く登場人物の情感を掘り下げるのが上手く、見応えがあります。

難点は過去の回想の挿入の仕方が悪く、あちこち散らかってしまう事。役者の演技である程度カバーは出来ていました。

アクションは全て斬新で秀逸。上記の殺戮場面も、長細いマンションの廊下の撮り方が上手かったですが、バスの中のアクションも同様です。どうして撮ったのかしら?その他印象深いのは、バイクでの長ドス振り回しながらのチェイス。いやもう、凄かったです。これはスタントだと思ったのですが、オクビンが演じているとか。運命の宿敵を追うのに、フロントガラスを割り、ボンネットにまたがり後ろ手で彼女が運転する場面があるのですが、ここはスクヒの怨念と情念を感じて、すごく好きなシーンです。

父親を殺されると言う悲劇から、幸せな子供時代を奪われたスクヒ。純粋に幸せを求める彼女を、愛は素通りして行きます。裏切りに次ぐ裏切りに、傷心する彼女は、嘆き悲しむのではなく、修羅の道を突き進む方を選ぶのです。愛する人に寄り添い、子供を育み家庭を持ちたいと願うのは、古典的な女性の願望ですが、私は決して否定されるものではないと思います。同性としてスクヒの哀しみに、涙を禁じえませんでした。

オクビンは、久しぶりに観ました。以前は可愛かったのに、すっかり大人になって。元々テコンドーなどの有段者で、身体能力が高く、アクションも志願して、銃や剣さばき等習得したとか。演技・アクションとも渾身で、お見事の一言。今後彼女の出演作には、注目したいです。

シン・ハギュンは、渋くなっていて、びっくりしました。こんなに素敵だったら、そりゃ忘れられないわな(笑)。スクヒの女心を浮き彫りにするには、うって付けのキャストでした。夫役ソンジュンの愛ある脇の甘さ、女上司役ソヒョンの、冷徹さに見え隠れする親心も、良かったです。

構成はアクション6割ドラマ4割くらいかな?五分五分かも?両方が噛み合い、お互いを盛り上げます。これもお薦めです。




2018年02月07日(水) 「スリー・ビルボード」

 本年度アカデミー賞主要部門に多数ノミネートされている作品。こんな作品だったとはなぁ。今回も大雑把な粗筋だけ頭に入れて臨んだので、本当に面食らい、感激も倍増したようです。隅々まで演出が行き届いた秀作です。監督はマーティン・マクドナー。

アメリカのミズーリ州の田舎町エビング。ある日閑散として、車もあまり通らないような場所に三枚の立て看板が立ちます。看板主はミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)。娘がレイプの末焼き殺された彼女は、七ヶ月経っても捜査が進展せぬ事に業を煮やし、警察署長ウィロビー(ウッディ・ハレルソン)を、名指しで非難したのです。ウィロビーは地元民から敬愛されており、この看板は町に波紋を呼びます。ウィロビーは紳士的に、看板撤去を願い出ますが、聞く耳を持たないミルドレッド。ウィロビーを慕う差別主義者の警官ディクソン(サム・ロックウェル)は、この看板に猛反発。町民のミルドレッドへの嫌がらせも始まります。そんな時、ある「事件」が起こります。

前半はミルドレッド、ウィロビー、ディクソンの、気質・町で評判・家庭背景を描きます。これがそれほど丹念ではないのに、無駄なシーンがないので、隅々まで頭に入ります。脚本も監督。この演出は、サスペンス的な前半から、後半の悲喜劇的な人間ドラマに移る解釈に、大いに役立ちます。

表面に現れるだけが、その人ではないと言う事。毒舌家で気の強いミルドレッド。その胸中は、察して余りあるはずなのに、行き過ぎた言動で、周りは敵ばかり。動物園勤めの元夫の若い恋人に対して、臭いと小ばかにしたり、自分の窮地を救ってくれた、小人症のジェームズ(ピーター・ディンクレイジ)を見下したり、嫌な女です。そんな彼女に、元夫(ジョン・ホークス)も、哀しさを分ち合ってはくれない。でも娘の死に対して、本当は自分を一番責めているんだと思いました。警察に怒りの矛先を向けるのは、犯人を見つける事しか、娘へ贖罪がないからです。懸命に見守る息子ロビー(ルーカス・ヘッジス)でさえ、母の切ない本心は見つけられない。

差別主義者で、黒人だけではなく、容赦なく白人にも暴力を振るうディクソン。その正義感は、独善的で空回りしている。難のある性格は、生い立ちに理由があるのでしょう。恋人も友人もおらず、好きでマザコンになったのではないはず。孤独を恐れる心が、警官と言う職業を鎧にさせてしまっている。

そして愛妻家で人格者のウィロビーとて、男の美学を装いながら、死を恐れて年の離れた若い妻(アビー・コーニッシュ)を、嘆き悲しませるのです。皆が皆、知らず知らずに多面的な自分を抱えて、持て余している。

愛嬌はあるものの、小賢しい広告屋のレッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が見せた、びっくりする程の器の大きさ。自分の障害を差別される中、誇りと知性を見下す相手に突きつけるジェームズ。元夫の彼女の放つ「怒りは怒りを呼ぶ」と言う言葉の重さ。気の良い頭の軽そうな若い娘は、「どこかの本の端っこに書いてあったのよ」と、賢こぶることなく、無邪気にその教えを守っている。

脇役たちが強く輝く時、ウィロビーの慈愛に満ちた言葉は、ミルドレッドとディクソンにも力を与えます。そこから、伏線と思われた言葉や状況は、次々と梯子を外され、想起した展開は起こりません。ミルドレットやディクソンの、我慢や失望の後に何が残ったのか?私は絶望ではなく、「明日」であると思いました。明日のないウィロビーが、導いてくれたのだと思います。

とにかく端役の隅々まで好演しています。後半からはサム・ロックウェルが主役のような展開ですが、ディクソンに必要だったのは、父性だったのだと知らしめた後の、怒涛の立ち直りと、前半のクソ野郎の演技分けが見事。マクドーマンドは、ある場面で腹の底から搾り出すような声で、「ロビー!」と息子の名を絶叫するのですが、そこが私が一番泣いた場面でした。息子の名を呼ぶのに、娘への悔恨や愛情が一瞬にして浮き上がる演技で、やっぱりこの人はすごいと、実感。ハレルソンは、アクの強い役柄が多く、こんな包容力のある温厚な人を好演するなんてと、意外性に一番感激しました。

広告屋のケイレブ・ランドリー・ジョーンズも、コツコツ個性的な役で結果を出していますが、こんな普通のあんちゃんで泣かせてくれるなんて。オレンジジュースにストローが入っているのを観て、号泣しました。思えば、ここから「赦しの連鎖」が始まったのですね。ロビー役ルーカス・ヘッジスは、マンチェスター・バイ・ザ・シー」の、破天荒な息子と同じ年頃の役ながら、打って変わって、難儀な母親をなだめる優等生で、全く違う顔を見せます。前回のオスカーのノミネートは、フロックじゃないようです。

ラスト、憎しみあっていた2人が、何を語らうか?冒頭からは、想像も出来ない癒しと静寂の空間。赦しあう心は、やがて感謝も希望ももたらすはずです。レイプ殺人と言う忌まわしい事件から得る教訓が、観客の人生にも生かせるのは、凄いと思いませんか?淀川長治の著書で、「映画をたくさん観て、感受性を磨き、自分の人生に生かしなさい」と読んだのは、高校生の頃。この教えを忘れなければ、これからの人生も安寧に暮らせるかな?と思っています。


2018年02月03日(土) 「デトロイト」




今年のオスカーノミネートで、「ゲット・アウト」が躍進しているのを見て、私も面白かったし、いい作品だと思うんですが、えっ?位置的に違う事ない?と違和感がありました。でもこの作品を観て、自分なりに解釈出来たような気がします。監督はキャスリン・ビグロー。

1967年夏のデトロイト。差別に対して抗議する黒人たちは、暴徒化していき、警察だけではなく軍まで借り出されて、街はさながら戦場状態。そんな時、アルジェ・モーテルで、黒人の一人が、ふざけてレース用の銃を警官に向けて、空砲します。狙撃手の発砲だと思った大勢の警官が、モーテルを占拠。偶然居合わせた6人の黒人と2人の白人女性は、クラウス(ウィル・ポールター)らの、厳しい尋問を受けます。しかしそれは、激しい暴力行為を伴う、違法な尋問でした。

デトロイトの暴動は、おぼろげに知るくらい。モーテルの件は、恥ずかしながら初めて知りました。アメリカ人に取っては、誰もが知る歴史な出来事だそうです。

届出のない店でのパーティーの取り締まり、散々探して銃が出てこなくても一晩中暴行。いずれも取っ掛かりは、黒人ですが、それが殺人や強盗を犯すかのような、極悪人扱いです。警察の見解は重大な犯罪に繋がる予兆が有ると言うのでしょう。これが差別の実態だと、観客に知らしめる。「悪いのは黒人」だと。これが白人であれば、軽犯罪で済ます案件です。

私が一番びっくりしたのは、凄惨な暴行を働いているに、クラウスの悪意の無さです。日頃の鬱憤を晴らしているのでも、根性が腐っているのでもない。まるで正義の味方のように、悪の土壌である黒人たちを、成敗している気なのです。だから上司に「差別主義者め!」と罵られても、意味がわからず反省もしない。

お互いを知るのが得策と、温厚な黒人警備員ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)が差し出す暖かいコーヒーに、悪気なく「ニガー」の言葉を使う軍人。テレビのニュースでも、黒人の暴動を、「ニグロたち」と平気で言う。50年前は、社会全体で差別心を植え付け、煽っていた。その事にまず震撼しました。クラウスは、当時のアメリカが作った申し子なのです。

他の黒人とは違うディスミュークス。本当は彼のように、差別を声高に糾弾するより、穏健に相手の懐に入る方が、賢いし知性も感じるアプローチです。しかし、彼のその努力も打ち砕かれる場面では、本当に怒りました。

ビグローは、女性にしては骨太で豪胆な演出力で知られる監督ですが、今回もその作家性は緩むことがありません。鑑賞中まるでドキュメントを観ている様な、緊張感が続きます。凄まじい暴行場面や言葉の暴力の場面では、怒りに震えて席を立ちたくなった程です。

しかし今回は、女性らしい感覚も随所に感じました。白人女性たちは、何故すぐ釈放されなかったか?黒人復員兵(アンソニー・マッキー)と事に及ぼうとしていたからです。白人女は、自分たち白人の男の支配下であり、下賎な黒人と自由にセックスするなんて、持っての他だと言う事です。しかし彼女たちは、決して屈しない。同じ白人女性であるビグローは、彼女たちに願いを込めたんじゃないかな?

裁判の場面で、何度も事実を証言する当事者たちに、弁護士(ジョン・クラシンスキー)は、「あなたに逮捕歴は?」と尋ねる。証言の信憑性の是非を問う、印象操作です。まるでレイプ裁判だと思いました。心身を傷つけられ陵辱された女性たちは、あなたは処女か?男性経験は何人か?と、人前でまた陵辱されるのです。当時のアメリカが、如何に白人男性によって、支配されていたかと言うのがわかる。あの状況下、違法逮捕も多くあったはずで、多くの罪なき黒人が逮捕されていたでしょう。

今でも同じような案件で、白人警官が無罪になる判例が出ているのは、周知の事実。この作品は、古くて新しい題材を、真正面から正攻法で作った作品。今また作る価値は充分だと思いますが、オスカーは斬新な切り口で、インテリジェンスの香る「ゲット・アウト」を選んだようです。要するに逃げたんでしょうね。私はそう感じました。白人女性が作ったのが、許せなかったのなら、まだまだハリウッドも伏魔殿のようです。

ウィルもノミネートないのよな。こんなに怪演・好演したのに。子供の頃から知っているので、この手の役は少し心が痛いのですが、役者としては美味しい役で結果を出したのは、素直に喜ぶべきでしょう。二枚目の容姿でもないし、これから名を残す性格俳優になってほしいです。私は残念ながら「SW」シリーズは興味ないので、ボイエガは二作しか知りません。知的で誠実な雰囲気は、これからデンゼルの後継者にしたいのかも?アクションの彼も観てみたいです。

黒人差別は、日本ではイマイチ肌で感じることは少ないですが、世界で一番差別や偏見を跳ね返してきたのは、私はアメリカの黒人だと思っています。その彼らの過去に何があったのか?今を生きるからこそ、観るべき作品だと思います。



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