ケイケイの映画日記
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2015年08月23日(日) |
「ナイトクローラー」 |
ひえ〜、ジェイク・ギレンホールが登場した瞬間、ハイエナかと思いました(笑)。ギラギラした目の下に隈なんか作っちゃって、思い切りホラー顔してんの。ジェイク演じるルイスは、サイテーのサイテーの下衆野郎で、観ている間中、早く死んじゃえばいいのにと思った程。一種サイコパス的な男なのに、観終わってみれば、ピカレスク・ロマンを観たような気分で、鑑賞後の後味はそれほど悪くありません。オスカー脚本賞にノミニーも納得の面白さでした。監督はダン・ギルロイ。
ロスアンジェルスに住むルイス(ジェイク・ギレンホール)。定職には就かず、コソ泥で生計を立てる日々。ある日彼は、偶然事故現場のパパラッチ=通称ナイトクローラーの存在を知ります。見様見真似で撮影した動画をテレビ局に売り込んだのが、番組ディレクターのニーナ(レネ・ルッソ)に買い取られます。それ以降ナイトクローラーとして頭角を現すルイスですが、特ダネを取りたいあまり、常軌を逸した行動に出るようになります。
この作品でジェイクが大幅な減量をしたのは知っていました。パパラッチの役で何故?と思っていたら、もう観た瞬間納得。繊細な好青年が役どころだったジェイクですが、近年精悍さを増して男っぷりもグングン上昇。この滲み出る気持ち悪さは、あの素敵な容姿では絶対出せません。これも一つのデ・ニーロアプローチか?
ルイスは尊大で傲慢。吝嗇にして何の根拠もないのに自信家。学歴もなく根性も腐っていのに、野心だけはしこたまあると、まるでいいとこなしの男なんですが、ITの腕前だけは長けている。そしてネットの啓発サイトで仕入れた実践方法は、理屈を羅列しているだけで中身がないので、就職活動(?)では素養を見抜かれ、鼻にもかけられません。
それがメディアの世界ではウケルと言う恐ろしさ。法律や倫理観に反していても、それで視聴率が取れるならと、ニーナも悪魔に魂売っちゃうんですね。その隙をルイスに見抜かれて、仕事でも私生活でも陥落させられるニーナ。いやしかしだね、厚化粧でも綺麗でしたよ、レネ・ルッソ。でも還暦よ?いくら仕事絡みだと言え、30半ばの男が口説くか?これもルイスの異常性を表していたのだと思います(熟女好きの皆様、ごめんなさいね)。
段々と事故を「演出」し出すルイス。奇しくもニーナも「題材は白人が被害者で、犯人は黒人かヒスパニッシュのものを」と、ルイスに希望している。ナイトクローラーたちが持ち込むテンコ盛りの動画から、彼女も意図して抜き出して「演出」しているのですね。全てではないでしょうが、これもメディアの本質なんだと思いました。
面白かったのは、口先三寸の嘘で釣った助手のリック(リズ・アーメッド)が、純朴なだけで取りえのなかった男だったのに、段々とルイスの手の内を知ると、腹黒になってくること。人間は環境ですな。殺伐と心が荒むような環境だと、自分の意志に関係なく同化していくもんなんだと、思いました。
ありとあらゆる奇策を繰り出し、特ダネをスクープするルイス。ここで天罰が降りたり、良心の呵責に悩む事も全くなし。ある意味天職なんだと、納得します。作品中、倫理観を訴えるディレクターも出てきて、全てがルイスやニーナのような人だとは思いませんが、ある一定数、この手の虫唾が走る輩が、マスコミやメディアには居るんだろうなぁとは、想像出来ました。彼らのようなモンスターを作っているのは、私たち視聴者なんだと言うのも、忘れちゃいけないのだと思います。
ハリウッドも、トムちんにジョニデ、ブラピと軒並み50代に入り、誰がこれからハリウッドに君臨するのか?と思っていたけど、今回の怪演ぶりを観て、きっとジェイクだと確信しました。でも名前を挙げた人たち路線ではなく、次代のロバート・デ・ニーロではないかしら?期待!
こんだけ頭が回ったりキレたりすれば、他の仕事すればいいのに、と思うけど、どう見ても社会不適合者だから、それも叶わないんでしょうな。 「ゴーン・ガール」のエイミーさながら、あなたの横にサイコパスが!と、恐怖満タンになる作品。如何なる環境・場所に置いても、本質を見抜くリテラシーを育てなければと、教訓を与えてくれる作品です。
これも戦後70年関連の作品。戦場や兵士ではなく、この題材で「女の戦争」が描けるのかと、そこがまず新鮮でした。まるで古い邦画を観ているような錯覚を起こすほど、よく作り込まれています。少々語り口が冗長に感じますが、私は好きな作品です。監督・脚本は荒井晴彦。
第二次大戦末期の東京。19歳の役所勤めの里子(二階堂ふみ)は、8年前に父が亡くなり母(工藤夕貴)と二人暮らし。防空壕が水浸しになった時、隣家の銀行員市毛(長谷川博己)が助け船を出してくれたことから、交流が始まります。市毛は妻子を疎開させており、日常の世話を里子がする事に。段々と里子は、市毛を男性として意識し始めます。
私が古い邦画と錯覚しそうになったのは、美術などのセット、描き方ももちろんですが、一番はふみちゃん。台詞回しがとにかくクラシックで、昔の松竹の女優さんを想起させる品の良さです。当時の邦画をいっぱい観て役作りしたのじゃないかなぁ。やっぱりふみちゃん上手いんだと、序盤で感心しました。
里子に似つかわしい妙齢の男性は、皆戦争に行って、残っているのは年寄りばかり。40前の市毛に相応しいのは、本来なら里子の母です。当時未婚女性が一人暮らしの男性宅に上がり込む等、はしたない真似は許されなかったはずで、礼を尽くすなら母が世話したはず。のちの語りで感じますが、母は里子に「譲った」のでしょうね。明日の生死もわからず、未来への希望もない時代、自分の子が、恋も知らずに娘盛りを過ぎる事が、不憫だったのでしょう。それが例え「不倫」でも。
この時代に、こんなに柔軟に物事を受け止めるお母さんを描いたのが、とても新鮮でした。新鮮と言えば、母の姉、里子の叔母(富田靖子)の描き方もです。戦災で焼け出され、夫や子供が死んだと言うのに、悲しむより先にガツガツ食べ、生への執着を見せる叔母。よく自分だけ生き残った罪悪感は描かれますが、罪悪感を感じるのは、自分の生が確定した以降なんだと、これも改めて感じ入りました。
母との二人暮らしに飽き飽きしながら、自分の女としての心身の成熟を持て余す里子。そのけだるさが絶妙にエロチック。誰も見ていないからと、川辺で胸をはだけて汗を拭う母からも、太陽を浴びた健康的なシチュエーションと裏腹の、満たされない女としてのエロスを感じました。里子が嫌がったのは、みっともないからではなく、母に女を感じたからでしょう。戦争は女から、生の保証を剥ぎ取り、性を封印させるものなんだと感じます。
ストーリーらしいストーリーはあまりなく、終戦へ向かっての市井の若い女性を通して描き、観客それぞれに「戦争」を感じ取って貰う作品かと思います。 長谷川博己はダンディでインテリ風で良かったけど、本当はもっと風采の上がらない人が演じた方が、里子の心情がより浮かんで良かったかな?と、思いました。
茨木のり子の「私が一番きれいだったとき」が、ふみちゃんの朗読で流れ、とても引き締まった思いで締めくくられています。願わくは市毛との関係は泡沫と知り、里子には「戦争」を始めてもらいたくないな。戦後たくさんの里子がいたのだろうと、同性として痛ましい感情に駆られます。充分反戦を感じる作品。
2015年08月17日(月) |
「ボヴァリー夫人とパン屋」 |
あの「ボヴァリー夫人」をモチーフにした、上品な艶笑作。私の大好きなジェマ・アータートンを愛でる作品です。監督はアンヌ・フォンテーヌ。
ノルマンディーの片田舎でパン屋を営むマルタン(ファブリス・ルキーニ)。単調な生活に飽き飽きしている彼の、唯一の趣味は読書。愛読書は、フローベールの「ボヴァリー夫人」。退屈した日々を送る彼の隣家に、イギリスから新婚夫婦が越してくる。何と名前はボヴァリー夫妻!マルタンは魅惑的な若妻のジェマ(ジェマ・アータートン)に、魅かれて行きます。
艶やかで健康的なエロティシズムを振りまきながら、どこかとぼけた味わいを醸し出すのがチャーミングな、ジェマ・アータートン。今回はそこに、触れなば落ちん的憂いが加わって、殿方からすれば、堪らない魅力。ファッションもパンツスタイルはほとんどなく、ちょっとクラシックなワンピーススタイルがとても似合っていて、マルタンが「10年ぶりに性欲が湧いた」と言うのも納得の無敵さです。
まんまと彼女の魅力に囚われたマルタン。さながらストーカーチックな行動ですが、ルキーニのお茶目で他愛ない様子が楽しく、憎めません。皮肉を言う現実家の妻もいい感じ。
私はフランス在住の女性のブログを愛読しているのですが、その方の御主人の故郷がシャンパーニュ地方の片田舎で、仕事して酒盛りして(シャンパーニュだものね)、狩猟するしか楽しみはない感じのところだとか。都会に住むと、田舎の自然に抱かれて癒されるものですが、毎日だと、そこらじゅうに「退屈」の二文字が浮かぶのでしょう。それを体現しているのが、マルタン。
ふってわいたように現れた異国の美女ジェマ・ボヴァリー夫人と、巻き毛も美しい、少女マンガから飛び出てきたようなエルヴェ(ニールス・シュナイダー)がどうなるか?が、彼の一番の関心事になっていきます。
無敵のジェマの艶やかさを楽しみつつ、「ボヴァリー夫人」の足跡を辿る様な展開を楽しんでいたら、お話は急転直下、一気に悲劇に。もやもやしたものが残る悲しみの中、マルタンの息子が発した「アンナ・カレーニナ」の言葉に、場内大爆笑。もちろん、私も大笑い。この息子、親が言う程バカじゃないわね。ちゃんとお父さん(マルタン)の事、お見通しだったんですから。
ボヴァリー夫人からアンナ・カレーニナに鞍替えしたマルタンの、生気を取り戻したような様子が、また可笑しい。監督が女性なので、悲劇のはずが、男性をおちょくっているような味付けも楽しい小品です。家で観るなら、パンとチーズとワインもお忘れなく。
2015年08月14日(金) |
「ミッション:インポッシブル / ローグ・ネイション」 |
御存じトムちんのドル箱シリーズ。何でも全米では、シリーズ最高のオープニング動員記録だとか。作品のクオリティは安定のこのシリーズ、今回はみんな大好きベンジー(だよね?)の出演シーンが大幅アップと言う付録もあって、今回も楽しめる出来でした。監督はクリストファー・マッカリー。
IMFの一員として、謎のシンジケートを追っていたイーサン(トム・クルーズ)。しかしその最中にCIA長官(アレック・ボールドウィン)によって、IMFは解体。CIAに吸収されます。命令を無視してイーサンは単独で行動。シンジケートを追いながら、CIAからも追われるはめに。敵方に捕まったイーサンでしたが、敵方のスパイであるはずの謎の美女イルサ(レベッカ・ファーガソン)に助けられ、脱出。ベンジー(サイモン・ペック)を呼び寄せ、シンジケートの追跡が始まります。
今回も非常に面白いです。シリーズが進むと、どうしてもマンネリになりがちですが、このシリーズの特色であるアクションの見せ方に工夫があり、こんな場所でもアクション出来るのかと、またまた感心。観た事あるような空中からの落下、バイクでのチェイスなども、振付に工夫があるので、飽きません。
この手のシリーズの質を落とさないためには、敵方や脇役が魅力的なのも必須条件。今回出色だったのは、イルサ役のレベッカ・ファーガソン。美脚を惜しげなく見せながら、キレキレのアクションを魅せてくれます。スレンダーなモデル体型でなく、さりとてカーヴィーなグラマーでもない均整の取れたスタイルも美しい。不敵な笑みを浮かべるクール・ビューティーぶりも悪女っぽく、どちらの味方なのか、中盤までかく乱する筋立てと相まって、大変カッコよかったです。知的で酷薄な感じのショーン・ハリスも素敵だったし、中年以降売れまくっているボールドウィンの、貫録あるけどわからずやの長官ぶりも、安定性があって良かったです。
脚本はアクション中心なので、終盤に来て雑になっていますが、それまで充分に楽しませて貰っているので、全然不問。冒頭スタントなしで飛行機に飛び乗るトムちんの映像が、宣伝でバンバン流れていますが、53にして、アクションはほぼ自分でこなしているのは、本当に立派。観客にいいもの見せたい、楽しませたいと思う気持ちが伝わって、その役者バカっぷりに、感動すらしてしまいます。
思えば「怒りのデス・ロード」 も、70歳超えのジョージ・ミラーが、愛着あるはずの若き日の自分の宝物的作品を、猛烈な勢いで破壊力アップして作ってくれたから、映画ファンは狂喜乱舞したんじゃないでしょうか?爺さん、あんた何てクレイジーなんだと。その映画バカっぷりに、心酔したのだと思います。そして観客に場面場面がきちんとわかるよう、工夫して見せる腕もある。円熟度皆無のような世界観に見えて、きちんとベテランの味も忍ばせていたわけです。
トムちんも同じことが言えると思います。プロデュースと主演に限定して、監督になんか手を出さないのも、非常に賢い。そう!ただのバカじゃなくて、役者バカ(笑)。作る方もバカなら、トムちんが命がけなら、私も公開直後に観なくっちゃ!と、意気に感じる私もバカです(笑)。年取ると人生の経験値があがるので、アクション観ても感動出来るもんですねぇ。
トムちんもイーサン役には愛着があるようで、シリーズはまだ続くでしょうが、気になるのは年齢。還暦まで後二作くらい作って、アクション出来なくなれば、潔く主演は誰かに譲るのが良いでしょう。その時はIMF長官の役で出てね。
高校生の時に大岡昇平の原作を読み、大変感動した塚本晋也監督が、いつか映画にしたいと熱望し、苦労に苦労を重ねてやっと実現した作品、と読みました。私は監督と同世代。原作も未読、有名な市川崑作品も未見です。この作品を観て、私がほわんほわんと女子高生活を送っていた時、真逆のような感受性を持つ同世代の男子がいたんだと、とっても恥ずかしくなりました。過激で凄惨なシーンも満載なのに、何故か静寂に包まれたシーンが印象深い作品です。
日本軍の敗戦が濃厚となっていた時のフィリピンレイテ島。田村一等兵(塚本晋也)は肺を病み、上官より野戦病院行きを命じられますが、そこは生死を彷徨う重篤患者ばかりで、田村は追い払われます。再び部隊に戻るも、隊に拒否され行き場の無くなった田村。島を彷徨う中。別の伍長(中村達也)率いる隊と巡り合い、行動を共にすることになります。
冒頭、怒鳴られながら叩かれながら、隊と野戦病院を行ったり来たりする田村の様子が滑稽で。肺病くらいでと言わていますが、結核だったのでしょう。普通なら安静にして養生してとなるのにと、可哀想なはずなのに、可笑しいのです。よくよく考えると、軍隊は上官の命令が至上であり、田村の行動は普通の事。可哀想が度を越すと、可笑しかったり、馬鹿馬鹿しくなるものなのだと、腑に落ちます。これも戦場の実態なのでしょう。
しかし次第に内容は悲惨に。本当に突然空爆が起こり、目の前の人間が吹っ飛ぶ。命からがら逃げてきた同胞の日本兵に、別の隊の伍長は、田村の持っている塩を分けてくれるなら、ついて来て良いと言います。では、塩を持っていなかったら?食料など、価値のあるものを持っていないなら、味方も捨て置かれるのです。田村は肺病持ちで、見るからにひ弱いインテリです。置いて行かれたら、野垂れ死に必死のはず。これも戦場。
この作品では、「戦う」場面は皆無。銃は泣き叫ぶ罪のない現地の人を殺す為だけに使われ、その日本兵たちは、敵軍の一瞬の攻撃で阿鼻叫喚の中、手も足ももがれ、死んでいく。帰国を目指し歩き続ける獣道には、折り重なった兵隊の無残な死体。目を覆いたくなる凄惨さのはずですが、感情が湧かないのです。それは「人」ではなく、「物」であるように感じるからだと思います。この感情こそが、人から尊厳を奪う最もたるものなんだ、これが戦争なんだと、自分もまるでレイテ島を歩き回っている錯覚に陥りました。
そこから先は、餓えから人肉を食べると言うショッキングな展開が待ち受けています。あちこち日本兵がいるのに、原住民を襲っていたのは、最低限の武士の情けであったのかどうか。しかし究極の飢餓には、苦楽を共にした目の前の「味方」を、「獲物」として虎視眈々と狙う。極限の生への渇望は、人間をどこまでも野蛮にも卑しくも獰猛にもしてします。もう敵も味方もないのです。人から根こそぎ人間性を奪うもの、それが戦争であると感じました。
たくさんの精悍で屈強そうな兵士の中、帰国できたのはヘタレでインテリの田村だけです。田村のしたことは、ただ逃げて逃げて逃げまくる。それだけでした。戦争が起これば、逃げるのは正解なんだよ。某議員は、戦争に行きたくないと言うのは、わがままだと言い放っていますが、それは間違い。戦争に行きたくない、始まれば逃げると言うのは、正しい選択なんだと思う。たった一度暴発のような形で、田村は現地人を殺しますが、戦争がなければ、彼は一生人殺しとは無縁の人であったはず。それは戦争に行く人みんなに言える事のはずです。
凄惨な殺戮場面や、汚辱に満ちた場面の連続なのに、私には昼間の生き生きした草花や太陽の輝き、夜の闇の中に浮かぶ月や虫の輝きなど、躍動と静寂を繰り返す、レイテの自然の豊かさが目に焼き付いています。この豊かさの中で行われる、人間たちの蛮行と愚かさまでも、抱擁しているように感じました。自然は「無敵」なのだと、しみじみ思いました。
戦後70年と言う事で、映画もドラマも、たくさんの作品を、色々な切り口で作られている中、この評価は賛否両論のようですが、様々な事を想起出来て、私は大いに「有り」の作品だと思います。
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