ケイケイの映画日記
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2015年06月29日(月) |
「マッド・マックス 怒りのデス・ロード」 |
本当は土曜日に「アリスのままで」とはしごしようと思っていました。しかしこの作品の大評判を聞き、夫を誘うと珍しく観たいと言う。なので日曜日回しに。夫よ、ありがとう。あのままはしごしていたら、「アリスのままで」の感想なんか、ぶっ飛んで書けてなかったわ。後世に語り継がれる作品となるかも知れぬ、快作です。監督は元祖「マッド・マックス」シリーズと同じくジョージ・ミラー。
荒廃した世界。その世界を王国のように仕切るイモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)に捉われた元警官のマックス(トム・ハーディ)。時を同じくして、ジョーの片腕だったフィリオサ(シャーリーズ・セロン)が、ジョーの五人の若き妻たちを連れて逃走。追うジョーと軍団。否応なしにその追跡に巻き込まれたマックスは、隙を見て脱出。フィリオサたちと共に逃走する羽目になります。
「アリスのままに」を見てですね、家族とは夫婦とは?人間の尊厳とは?等々しみじみ反芻しながら、私は涙ぐみながら感想を書いたもんです(めっちゃ感動した作は、泣きながら感想書くのが常)。しかしですね、次の日この作品を観た日にゃ、詫びたり寂びたりした心が木端微塵。だってジョージ・ミラーって70過ぎてんのよね。何を黄昏とるんじゃ、20年早いわ!と、喝を入れられた気分になりまして。
冒頭追われるマックスの場面が出てきて、いいじゃんいいじゃん、このハイテンション!とワクワクしていたら、それがず〜〜〜〜〜〜〜と!でした(笑)。とにかく畳み掛ける重厚なカーアクション@時々素手、時々銃撃戦でして、もう目まぐるしくて。なのに敵味方はちゃんとわかる。ばったばった人が死ぬのに、何故かお祭り気分。戦車に乗ってる兄ちゃんが、最前列でギターかき鳴らしてカッコ良かったのですが、私はだんじりで鐘を鳴らす、または上で踊る大工方を想起していました。
いくら重厚でアドレナリン上りっぱなしのアクションでも、続き過ぎると飽きるのじゃないかと危惧する御貴兄、心配めさるな。二時間ちょっとの作品ですが、体感一時間です。もっと見続けてもいいくらい。考えりゃ、カーニバルは延々一晩中とかあるもんね。
背景なんか説明しないし、アクション凄すぎて目を奪われ、あんまり聞きたいとも思いませんでした(笑)。みんな存在感あるし、だいたいの流れはわかります。日頃映画には脚本が一番大事だと思っていましたが、活劇は余計な事考えさせない見せ方が一番だなと、目から鱗でもありました。
でもちょびっとフェミニズム感も。綺麗なお姉ちゃんたちは、女性性を蹂躙される事に怒りを持ち、婆さんたちも戦闘能力マックスの百戦錬磨。そしてシャーリーズ姐さん。私はこの、華も実も美もある女盛りの彼女を、現在ハリウッド一の女優さんだと思っています。思えば娘(シャーリーズ)を守るため、DV の夫を射殺した母を持つ彼女。その十字架は重いけれども、人として何も卑下する事は無い、胸を張って生きろと、母から教えられたはず。魑魅魍魎の大ハリウッドで苦闘し、大輪の花を咲かせた、そんなシャーリーズを女性軍団のトップに据えるとは、ミラー監督の目もなかなか確か。ただのイカれた爺さんではない模様(笑)。
シャーリーズの坊主頭、あれ自分から言い出したんだって。遠い昔、シガニー・ウィーバーが「エイリアン3」で丸坊主になった時は、確か丸坊主代一億円くらい貰ったはず。当時私なら一千万で全身剃ってもいいわと思ったので、金額は確かです。シャーリーズの場合は、自分から言い出したので、多分アップなしのはず。姐さん、男前よね〜。
主役のはずが、フィリオサのサポートに回ったようなマックスですが、ハーディの程よい存在感と男臭さが絶妙でした。助け助けられ、男女はこうでなくちゃと思わせつつ、色恋は若いニコラス・ホルト君たちに任せ、人としての友愛と絆から一歩踏み出す手前で終息。この塩梅も良かったです。
百聞は一見にしかず。是非ご覧あれ。ただし鑑賞後は息つく暇もなかったので、大変疲れました(笑)。でも爽快です。もう一回観たいです。
大好きなジュリアン・ムーアが、やっとオスカーの主演女優賞を受賞した作品で、受賞前からずっと公開を楽しみにしていて、初日の初回に観てきました。主人公アリスは50歳。私と同世代で、多分この世代では一番関心の高いアルツハイマーをテーマにしています。監督の一人、リチャード・グラツァーは、映画完成後ALSで今年の三月に亡くなっています。病を受け入れながら、誇り高く生きようとするアリスの姿は、多分監督の分身なのかと思います。共同監督ワッシュ・ウェストモアランド。静かな秀作です。
アリスは大学教授として教鞭を執り、家庭においては同じく大学教授の夫(アレック・ボールドウィン)と三人の子供アナ(ケイト・ボスワーズ)・トム(ハンター・パリッシュ)・リディア(クリステン・スチュワート)に恵まれ、充実した日々を送る50歳の女性。しかし酷くなる一方の物忘れを危惧し、受診します。結果は家族性の若年性アルツハイマー。子供たちにも遺伝率が高く、夫婦は家族全員を招いて、アリスの病状について説明します。
まず序盤のアリスの様子が、私にも心当たりがあって、それがまずヒタヒタと恐怖を煽る。特に言葉が思うように出てこない、浮かばない場面など、私もこの数年悩まされているので、本当に他人ごとではないです。場内は同年代の女性が多かったですが、私と同感だったかも?
アリスが老人介護施設を訪ねる場面が辛い。そこには彼女の親くらいの年齢ばかりで、中年の彼女が住処にするには、まだ早すぎるのです。まだまだ研究に励み、自分の夢を追いたかったはずなのに、病気が発覚後の彼女の夢は、長女の出産・長男の医大卒業を見届け、次女の安定した将来を望む事と、子供へとシフトしていきます。自分自身の将来を希望できない辛さを痛感します。
何より辛いのは、子供たちに遺伝する確率が50%と高い事です。「ごめんなさい」と謝るアリス。夫は頼り甲斐があり誠実、若干次女と気持ちの行き違いがあるとはいえ、子供たちは皆良い子に成長して、真剣に彼女の今後を考えてくれている。傍から見れば恵まれた環境です。でもだから辛い。家族、取り分け子供の人生を侵食する苦労を掛けることほど、親にとって辛くて哀しい事はありません。
アリスが「がんの方が良かった」と嘆くのですが、私も本当にそう思う。かつて26年前、54歳の母ががんになった時は、世の中は告知せずの方向で治療は行われ、離婚して夫のいない母のキーパーソンとして、医師と母の治療の相談をするのは、私でした。その時私が痛感したのは、手探りで母の想いを汲もうとしても、結局は母の命を決めるのは自分だと言う事。自分の命は、自分で決断出来ないと言う事実でした。
今は、がんは自分で治療方針を決められます。しかし記憶や人格が低下して「自分が自分でなくなっていく」アルツハイマーは、自分で介護方針が決められない。まだ病気が初期の頃、録画した「私はあなたよ」と言う自分自身を見て微笑むアリスが取った行動。それが何を意味するかも、彼女は解らなかったでしょう。
熟年女性としての美しさと知性に輝いていたアリスから、粛々と病に侵された彼女の変化を映します。ファッショナブルだったのに、カジュアルに装いも変化。時に感情を高ぶらせ手が付けられない様子。自宅のトイレがわからず失禁したり、歯磨き粉の使い方がわからず、鏡に擦り付ける様子も描かれます。この辺りは徘徊やもっと汚い病状も現実ですが、綺麗事なのではなく、映画としては品格と節度を感じ、私は良かったと思います。
同じアルツハイマーの人及び家族に向けて、アリスがスピーチする場面が、この作品の一番のテーマでしょう。学者らしい病に対する分析の内容を、「聞く人はそんな事より、ママが何を感じているかを聞きたいのじゃないの?」と次女にダメだしされて、憤慨する彼女。しかしあのスピーチは、次女の助言を受けて内容を変えたものです。平易な言葉で、今の自分の境涯に対しての恐怖を語り、みっともなく滑稽に変化していく自分に対する恥ずかしさ。人生の全ての記憶を失くす哀しさ。しかしそれは病がさせる事であって、「自分」ではない。病を受け入れて嘆くのはなく、戦うのだと結んだ彼女のスピーチは、人類すべてに向けてのスピーチだと言っても過言ではない、感動的なスピーチでした。病を得て、自分の生死を見つめた監督の想いも、このスピーチに込められていたと思います。
他に心に残ったのは、長女出産でアリスが上手に赤ちゃんを抱いた場面です。彼女の生い立ちや、輝かしいキャリアは、病を得ても人生から無くなったのではありません。しかし全てを忘れても、赤ちゃんを愛しそうに抱く彼女から、彼女の人生で一番大切にしていたものは何だったのかを、見せられたようでした。このシーンは、アリスが最後に語る言葉に繋がると、私は思いました。回想シーンは全くないのに、彼女の人生が静かに浮かび上がる作りも良かったです。
誰でも一番なりたくない病気である認知症。辛い場面を見せられ続けて、それでも不思議と、絶対なりたくないと言う気持ちが薄らいでいるのです。「あるがまま」。それでいいのでしょう。私が認知症になったら、姥捨て山にでも捨てて欲しいですが、それは果たして本当に息子たちのためになるのか?この作品や自分の経験から、感じます。そういう意味では、同世代だけではなく、若い人にも観て欲しい作品です。
当初パスの予定でした。内容や出演者は魅かれるものの、監督が相性の悪い河瀬直美。しかしうなぎ上りの評価に、これ原作あるし(ドリアン助川)、もしかしてイケるかも?のギャンブル気分で観てきました。結果オーライ。じっくり見て行く中で、最後の最後まで温かく引っ張って貰い、ラストにあぁ、と胸にストンと落ちるものをいただきました。素敵な作品です。
小さなどら焼き屋の雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)。ある日店の張り紙を観て、老女の徳江(樹木希林)がアルバイトに雇って欲しいと現れます。年齢が行き過ぎていると断わる千太郎ですが、徳江の置いていったあんを一口食べてびっくり。辛口の彼でもわかる、絶品の美味しさだったのです。早速徳江に働いて貰い、店は大繁盛。しかし心無い噂が立ち、店の客足は急激に減って行きました。徳江は元ハンセン氏病患者だったからです。
少女たちの会話の素人くさいナチュラルさに、あぁ〜やっぱり河瀬直美かぁ〜と苦笑するも(私には合いません)、彼女たちを圧倒も威嚇もせず、自分の演技をする永瀬に、まず感心。
千太郎のどら焼きのあんは、実は業務用。上手く作れないと言います。「どら焼き屋のあんこが、業務用なんて・・・」と、絶句する徳江。お金を貰って商品にしているのに、職人としてのプライドがないと言いたいのでしょう。徳江の様子は、詰るのではなく、諌めると言う感じです。
徳江のあん作りを丁寧に追って、映していく様子は、あんに対する愛情がいっぱい。美味しいものを食べると、幸せになるでしょう?きっと徳江は、どら焼きを食べる人に、幸せになって貰いたいんだと思う。
この作品は、ハンセン氏病に対する誤った偏見を正そうとしているのか?違うと思います。世の中に蔓延る偏見を正そうとしているのか?それも違うと思う。差別や偏見は、世の中から無くなるようなものではない。じゃあ、差別される側は、どうしたらいいのか?自分が生まれてきた意味を考える事、与えられた環境で、丁寧に誠実に生きる事。自分の心は自分のものです。自分で自分を束縛しない。自由になりなさい。徳江は壮絶な不自由にまみれて、でももみくちゃにされなかった、自分の半生を語る事で、千太郎やワカナ(内田伽羅)に、その事を感じて欲しかったんだと思う。
ラストの千太郎の姿は、徳江の言葉の意味を彼が掴み取り、自ら望んだ姿だったと思います。そう解釈した時、千太郎と行動を共にする女子中学生のワカナ(内田伽羅)の存在の意味が、初めてわかりました。ワカナも恵まれぬ家庭に生まれ、世の中の不平等に鬱屈しつつ、受け入れている子です。彼女には境涯に押しつぶされない、心を自由自在に解き放つ子になって欲しい。この作品のメッセージを、未来に繋ぐ存在として、ワカナは存在していたのだと思います。
ワカナに内田伽羅をキャストしたのは、大成功でした。「奇跡」は、彼女の子供ながら楚々とした美少女ぶりが印象的でした。成長した内田伽羅は、私が予想した美少女とは、方向性の違う少女に成長していました。演技自体は稚拙で、もごもごとどら焼きを食べる様子はあどけないのですが、少女ながら威風堂々としているのです。面差しこそ父親に似ていますが、祖父母・両親と、個性的なDNAをたくさん受け継いでいるにも関わらず、誰にも似ていない。伽羅は伽羅なのです。この大物感。大人しく清楚なのですが、とても心の逞しさを感じました。ヒロインであるお祖母ちゃんの口添えもあっての出演かもですが、ワカナの明るい未来を確信させるには、彼女の堂々たる風情が必要だったと思います。
永瀬正敏は、ずっと暗い眼差し。でもぶっきら棒な中に節度のある態度を見せ、千太郎の中に眠る誠実さを見え隠れさせていました。その溜めに溜めた静かな演技があってこそ、男泣きに泣く場面に、共に泣けたのだと思います。そしてラストの晴れ晴れとした笑顔にも、心底良かったと、また泣けました。
今や国民的女優になった樹木希林ですが、そこに存在するだけで、観る者の心を落ち着かせます。難しい言葉を使わなくても、彼女が発するだけで意味を掴もうと、聞く者は思うでしょう。徳江を観ていると、私もお婆さんになるんだなぁと、わくわくします。
心斎橋シネマートで観ましたが、通路に何人も座っていました。こんなの初めて。寡黙な描き方ですが、雄弁に心に響く作品です。
2015年06月06日(土) |
「国際市場で逢いましょう」 |
韓国映画史上、歴代2位の動員数を得た作品。朝鮮動乱後、父不在の家で、幼い頃から家長としての責任を全うした、一人の男性の人生を描いた大河ドラマです。朝鮮戦争で生き別れた親族を探す番組は、昔日本でも中国残留孤児の親探しとしてあったなぁと、驚くほど日本と酷似した状況もあり、日本でも理解しやすい心情を描いているのが、こちらでもヒットの所以だと思います。個人的に私の夫や義兄が心に浮かび、とてもしみじみした感慨に浸った作品です。監督はユン・ジェギュン。
朝鮮戦争の混乱のさなか、はぐれてしまった妹を探しに行った父と、生き別れになってしまったドクス(ファン・ジョンミン)。父方の叔母の家に身を寄せてからも、別れ際父から「お父さんのいない間は、お前が家長。家族の事をしっかり頼むぞ」との言葉を胸に、母と共に弟妹のために、一生懸命働いていました。弟の大学進学のお金のためドイツの炭鉱に、妹の結婚資金や店の権利を得る為、技師としてベトナム戦争に出稼ぎに行きます。そんな彼には、常に妻ヨンジャ(キム・ユンジン)が寄り添っていました。
老いたドクスとヨンジャが、子供や孫に囲まれて仲睦まじく暮らす様子を映しながら、ドクスの回想として、過去が描かれます。最初の父との別れの場面で、既に私は滂沱の涙。以来観ている間、涙と笑いを行ったり来たりで大忙しでした。
せっかくソウル大学に合格したと言うのに、弟は兄ばかりに負担はかけられない。兄は家族の犠牲になっていると、自分も働くと言います。確かにドクスは、家族のために次々自分の夢を握り潰して、家族のために働く事を選びます。しかし彼はそれを犠牲だとは思わなかったと、私は思います。父親の代わりであると言うのは、彼の支えだったと思うのです。傍若無人に振る舞い、わがままばかり言う妹も、ドクスと父が同化していたのでしょう。物心ついた頃から、妹にとって父はドクスだったはず。母は妹を諌めるも、彼が何でも言う事を聞いてやるのは、父を知らない妹を不憫に思っていたからだと思います。
ドクスが頑張れたのは、常に傍に母がいたからだと思います。昔の韓国や日本では、夫亡き後でも「二夫にまみえず」の心があったと思いますが、再婚を選ぶ女性もいたはずです。生死のわからぬ夫を待ち続ける母がいてこそ、彼は頑張れたのでは?結婚してからは妻、そして一生苦楽を共にした親友のダルグ(オ・ダルス)。ドクスが孤独であった事は、人生で一度もない。彼を理解し支える人が、必ず傍らにいたのですね。
夫は両親健在の家庭で育ちましたが、在日一世の親の元、赤貧洗うが如しの生活だったそうです。兄弟は兄と妹二人。義兄は中学生からアルバイトしては、姑にお金を渡していたそう。義兄を真似て夫も同じく。妹たちもそれに倣って、それは各々が結婚するまで続きます。皆親孝行だったと、生前姑は言っていました。その中で一番苦労したのは、私はやはり、両親とずっと暮らした義兄だったと思います。
私の姑は良き人で、お小遣いやプレゼントをした時も、心の籠った礼の言葉を送ってくれる人でした。ある日私がスーパーから帰宅すると、姑がにこにこして待っています。「あんな、この子(留守番していた当時小4の二男)がお茶入れて、自分の食べていたお菓子を皿に分けてくれてな、お母さんもうじき帰ってくるから、待っといてやて。あんたが私を大事にしてくれるから、孫まで大事にしてくれるねん」。横で誇らしそうに胸を張る二男。あの時は嬉しかったなぁ。
そんな姑でしたが、ただ一つ私が不満だったのは、「親孝行するのは、親のためじゃないで。自分のためやで」と度々口にする言葉でした。なんでやの、私はお義母さんに喜んで欲しいと思ってやっているのに。でも口ごたえするでもなく、自分の胸にしまっていました。その言葉を思い出したのが、夫が二度目の失業から、せっかく勤め出した仕事を半年で辞めたいと言った時です。
当時58歳目前。仕事に関しては辛抱強い人で、自分から辞めたいと言った事は無い人です。様子がおかしいので、夫が言い出したら、いつでも辞めて良いと言おうと、心積もりは出来ていました。その時長男が夫に「息子が三人もいてるやんか。こんな時は自分たちを頼って欲しい。お母さんも働いてるやん、休みたいだけ休んでや」と言った言葉に、男泣きに泣く夫が、「俺が頑張って親兄弟のために働いたからや」と言うのです。
夫はその事について、苦労したとか、自分は偉かったとか、私や子供に言った事は皆無でした。いつも当たり前の事をしただけと。その時初めて、姑の言った言葉の意味がわかりました。ドクスが父の写真の前で、「辛かった・・・」と言った時、苦労はしていない、でも辛かった。義兄や夫もそうであったのだろうと、涙が溢れました。この場面でドクスに似た人を思い浮かべたの、私だけではないと思います。韓国や日本で、たくさんそうした人がいたのでしょうね。
そんな夫ですから、兄と二人で家族を養うより、自分一人で私一人を養う方が楽と、結婚してからの方が遊びだします。子供が生まれても自覚なし。自分の親兄弟の為なら我慢できたのに、妻子には出来ないのか!と、私は何度激怒した事か。あれはドクス程には苦労していなかったからだと、妻にも気配り出来るドクスを観て痛感。夫ももっと苦労してたら良かったのに(笑)。
夫は家族の愛情を描く映画やドラマ、ドキュメントを観ても、還暦を過ぎた今でも、親子の愛情にしか涙腺が動かない人でした。それも自分が親の立場ではなく、自分が子供として見るのです。夫婦ものには心が全く動かず。それが朝ドラの「マッサン」を気に入って、観られない時は録画して、総集編まで観ていました。そしたら妻エリー亡き後、妻からの手紙を読みながら涙するマッサンを観て、夫が泣いているのです。驚愕。でも、もうどうでもいいんですが(笑)。私が夫の実家がアウェイだった時に泣いて欲しかったなぁ。
この作品の中で、外国人に向かって二度ほど自分たちの事を、「哀れな韓国人」と赦しを乞います。今では時代が代わり、韓国が移民を受け入れる側。ドクスを通じて、哀れだった時代に持っていた韓国人の矜持が、豊かになった今は、失われてしまったと、訴えていたと思います。
コモ(父親の女兄弟)から受け継いだ店を、ドクスが頑なに守る事に拘ったのは、弟妹を結婚させ、子供を成人させ、母を見送った今、彼に人生に形として残ったものだからだと思います。それを吹き飛ばさせたのは、長年彼を支え、苦労をかけた妻の「愛しているから」の言葉だったのは、嬉しかったです。
形としても残っていますよ。ドクスは「親は家族じゃないのか?」と、家族旅行に行く子供たちに怒っていたけど、ちゃんと「これ法事のお金」と、妻に渡していたでしょう?親孝行は自分のため、なんですね。
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