ケイケイの映画日記
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2015年05月24日(日) 「真夜中のゆりかご」




デンマークの名匠スサンネ・ビアが、久々に家庭と言う身近なフィールドを舞台にした、シリアスな人間ドラマ。今回は母性や父性、虐待がテーマです。昨今のイクメンブームに若干の違和感を覚えている私は、まさかデンマークの映画で、その理由を教えて貰えるとは本当にびっくり。この手のテーマには、本当に国境がない事を痛感しました。力作です。

刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は、美しい妻アナ(マリア・ボネヴィー)と、生まれたばかりの息子アレキサンダーと幸せに暮らしています。薬物中毒のトリスタン(ニコライ・リー・コス)を相棒の刑事シモン(ウルリク・トムセン)と捜査している中、偶然彼と妻のサネ(リッケ・マイ・アナスン)が、乳児の息子ソーフスに対して、育児放棄しているのを見つけます。憤懣やるかたないアンドレアス。親としての自覚と、妻への感謝を心して生活しているアンドレアスでしたが、最愛のアレキサンダーが原因不明で急死。取り乱し半狂乱の妻を眠らせた彼は、トリスタンの家に忍び込み、亡くなったアレキサンダーとソーフスを入れかえて、ソーフスを連れて帰ります。

冒頭直後、不衛生でゴミ屋敷のような家の中、糞尿にまみれたソーフスが映り、これはかなりショッキング。毎日のように虐待やネグレクトの報道を目にしますが、それだけでもかなり辛いのに、目の前に表現されると、これはかなりきついです。離婚していますが、子供のいるシモンやアンドレアスの怒りを、観客も共有。ここでトリスタンとサネは、絶対的な悪と印象付けられますが、「子供を取り上げないで!」の、サネの絶叫も脳裏に残ります。

アンドレアスが赤ちゃんを取り換えに行ったのは、警察や救急車が来ると、息子と離されるから、そんな事をすると死んでやると言う妻をなだめる為と、いずれ親から放置され、遠からず死んでいくだろう、ソーフスを救いたいため。後者はよくわかるのですが、前者は意味がわからない。案の定妻からは、「私はアレキサンダーと会いたいのよ!」と詰られる。

この作品、力技で説得力を持たせる演出なのですが、アナの表情や言動、アンドレアスの様子に、私はずっと違和感を持ち続けていました。反対にソーフスの描写は、母親のサネが何故おむつを替えず、ミルクを与えないのか?替えられないし、あげられないのです。この描写は胸を突かれました。ネグレクトを報道されると、それでも母親かと猛烈なバッシングに合う母親たちも、サネのような事情があるのではないか?と立ち止まる事は必要だと思います。

お話は異様とも当然とも思える展開となり、力技でぐいぐい観客を引っ張って行く中、私の違和感がはっきりしてきます。それは父性と母性の違いでした。

アレキサンダーはよく夜泣きをする子で、アンドレアスは自分が面倒みると言う妻を制して、夜中に寝かしつける為、ドライブに連れて行っていました。それを憂鬱そうに見送るアナ。手のかかる子だと言う台詞もありましたが、これは父親としてやり過ぎだと思います。寝不足で仕事で失敗したら?アナは現在は専業主婦のようですし、身の置き所がないでしょう。自分の子を産んでくれた妻に、言葉でも態度でも過剰に感謝を表現する夫。これでは「育児が辛い」と言えず、返ってアナは追い詰められていたのでは?

それなのに、子供を取り換える際、偽装がばれないように、自分の息子の遺体に糞尿をなすりつけるアンドレアス。仰天しました。自分の息子の遺体です。
泣きながらでしたが、全く理解出来ない。これは死んだ子が自分の子でないのもわからないトリスタンとともに、父親と母親は違う、その描写ではなかったかと思います。自分の子に拘るアナなら、決して出来ないはず。そして何度言いくるめても、アレキサンダーの遺体を抱きながら、私の息子は生きていると言い続けるサネの姿の、対比だったと思います。

辿り着いた驚愕の秘密。ですが私は腑に落ちました。母性と言うのは子育てしている間に育つものです。ですが手のかかる子、劣悪な環境に見を置かれた母親たちは、その萌芽をむしられるのです。サネの場合は、クズの夫から逃げる智恵を身に付けるべきだし、救い出せる社会の整備も必要だと思いました。

夫の育児や家事の手伝いは、大いに結構なのですが、昨今のイクメンブームも、母親から母性の芽を摘んでいるのだと、この作品を観て痛感しました。子供からの愛情の対象として、父親は母親には決して勝てないものだと、私は思っています。そして幼い子に取って、自分が一番の存在なのだと言う自負と気概がなければ、育児は出来ません。だから辛抱も我慢も出来るのです。

誤解を恐れず言えば、母親が家事をすることをも大切です。食事を作って「お母さんのご飯は美味しいね」と、赤ちゃんに語りかければ、妻は喜んで次の日もご飯を作るでしょう。そうやって巣作りや、食育も覚えて行くのです。大事なのは、幼い母親である妻を支え励まし、自信を付けさせる事です。母親の代わりになる事ではありません。大事なのは、育児が楽しいと妻に感じさせる事。イクメンで一番大切な事は、それじゃないでしょうか?

何故昔と違い、母性を育てる事が、かように面倒なのか?女性の生き方が多様化し、母親が迷っているからだと思います。過去の価値観と今の価値観の狭間で、自分がどうすればいいのか、混乱しているのだと思います。それを救うのは、夫だけではない筈。社会全体で彼女たちを見守る必要を感じました。監督がその思いを込めて描いたのが、アナやサネだと思いました。

自分も傷つきズタズタになったはずのアンドレアスの、穏やかで安堵した表情と子供の笑顔に、最後の最後救われました。母性の敗者復活はあるのです。母親の先輩である私たちは、虐待する母親を、決して見限ってはいけないのだと思います。子育ての苦労を理解し、喜びを伝えるのは、私たちしか出来ないのだから。アナの母親の存在は、それを私たちに促すだめだったと思います。

骨太の作りの中に、繊細に母性と父性の違いを浮き彫りにし、迷える母親たちに社会の理解を求めた作品。やっぱりスサンネ・ビアは素敵です。


2015年05月20日(水) 「駆込み女と賭出し男」



可もなく不可もなくの大泉洋主演の時代劇かぁ、と食指が湧かなかったのですが、原案井上ひさし、監督原田真人と読んで、俄然興味津々。キャストも腕のある俳優さんが揃っている。初日に観てきましたが、これが大当たり。女の業や哀しさが充満しているはずの駆け込み寺が舞台なのに、情の濃さは残しながら、粋でとても清々しい作品です。

江戸時代の末期。夫からの離縁は容易なのに、妻から離縁は認められていなかった時代。東慶寺と言う縁切り寺で二年過ごせば、晴れて夫から三行半が貰えると言う幕府公認の制度がありました。女たちは、まず御用宿に預けられ、そこで聞き取り調査が行われます。御用宿の主・柏屋源兵衛(樹木希林)の甥で、戯作者志望で医師の信次郎(大泉洋)が江戸を追われて、聞き取り見習いとして、柏谷で働く事になりました。そこで放蕩三昧の夫(武田真治)から暴力を振るわれている、鉄練のごじょ(戸田恵梨香)と、豪商堀切屋(堤真一)の妾・お吟(満島ひかり)が駆け込んできます。

夫から命からがら逃げてきた女たちが主役ですもの、そりゃ切ない話が盛りだくさん。でも被害者意識一辺倒で描くのではなく、ごじょを中心にして彼女たちを理解し、しなやかに生き生き成長していく過程を、温かく見守っているのが良いです。お吟の堀切屋と別れる理由の女の美学も天晴れだし、想像妊娠してしまうおゆき(神野美鈴)の哀しみと愛しさもいい。あれは、信次郎とごじょの逢瀬に、恋しい男を思い出したんでしょうね。恐るべし女性ホルモン(笑)。

出てくる男が、バカばっかりでないところもポイント高し。ごじょの夫は、鉄練の腕が自分より上の女房に嫉妬し卑屈になっていたのでしょう。火脹れで醜くなった妻を「人三化け七」とあざ笑い、浮気する事で自分を慰める卑小な人物です。この夫が最後の最後にどうしたか?暴力振るうより、ずっとずっと男らしいのは、素直に自分の心が語れることです。武田真治の流す涙は、とても綺麗でした。そして妻の妹を遊郭から足抜けさせるため、自分は間抜け呼ばわりされる覚悟の夫も出てくる。男尊女卑の時代に、愛する妻の願いの為ならと言う男性も、ちゃんと居たと言う事です。とっても男らしいぞ!

大泉洋は、「馬面のひょっとこ」だの「きつみと渋みが足りない」とか、そりゃ散々な言われ方です(笑)。でも当時としては珍しいはずのリベラルで気弱な男性を愛嬌たっぷりに好演。落語張りの長台詞もこなしています。びっくりしたのは女性陣。満島ひかりが艶やかでもぉ〜。所作のひとつを取っても、とにかく粋。これが江戸前の色気なのかと感嘆しました。そして戸田恵梨香。決して上手い演技とは思いませんでしたが、ごじょと言う女性の田舎出の泥臭さの中の、芯の強さや心映えの美しさがきちんと感じられました。火傷が治ってからの素顔の美しさも印象的。

「いつまでも妹。べったべった、だんだん」の場面には、号泣。女の友情も捨てたもんじゃないと、この二人には泣かされました。キャストはベテラン揃いなので安定感があり、とても良かったです。ただ一つ気になったのは、東慶寺門跡の法秀尼の陽月華。決して彼女が悪かったとは思いませんが、尼僧姿は化粧も出来ず地味すぎるくらい地味なので、存在感が大事。申し訳ないけど、顔が思い出せないのです。整った美人顔でしたが、印象が薄い。大事な役なので、ここは名の知れた人でやって欲しかったなぁ。

ちょっとエピソード盛り込み過ぎで、収拾が雑なものもあったけど、作り手の気合を感じるので、良しとしよう。江戸の風俗や風習もお勉強できて、得した気分です。笑って泣いてほのぼのして。とっても優秀な娯楽作です。秀逸なフェミニズム映画でもあると思います。


2015年05月16日(土) 「ハーツ・アンド・マインズ」




私が記憶する一番最初の戦争は、ベトナム戦争でした。当時小学校低学年。アメリカの大統領はジョンソンでした。毎日のように新聞やテレビで報道されており、私が子供の頃は、アメリカは正義、アメリカは素晴らしいと刷り込まれていた時代です。劇場で「ポセイドン・アドベンチャー」に感激し、テレビで「12人の怒れる男」を観て、これがヒューマニズムと言うものなんだと解釈していたローティーンの私は、その価値観を素直に受け取っていました。その後、アメリカがベトナムを撤退=負けたと言う報道には、びっくりしたものです。だって絶対勝つと思っていたから。私のその感想は、この作品に出てくる多くの善良で無知な市井のアメリカ人と共有するものだったのだと、この作品を観て思い知りました。監督はピーター・デイヴィス。ベトナム戦争中からカメラを回し、終戦までを追ったドキュメントで、1974年アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門受賞作。

完成から40年経った作品ですが、日本では五年前に一度公開。今年はベトナム戦争終結40周年と言うことでの、公開なのでしょう。十数人に渡るマスコミ関係者、政治家や学者、そして帰還兵とその家族たちのインタビューは、映画でたくさん見知っている事の繰り返しのようで、重さが全然違う。戦争は楽しかったと言う帰還兵は、「爆竹を鳴らすと興奮するだろう?それが爆弾なんだから、興奮がどれくらいかわかるだろう?」と、悪びれず語る姿は、これが生身の人の言葉か?と、嫌悪より戦慄を感じます。

彼らにも言い分があり、高度から落とすのに、爆撃された状態がどうなのか、わからないと言うのです。知っているはずなのに、目を背けている。私がこの作品を観て一番哀しかったのは、負の認識であるはずのベトナム戦争後も、アメリカは各地の紛争に首を突っ込み侵攻している。何も学んでいないのです。

戦争は愛国心だとかプライドだとか宗教だとか、火種の理由を色々つけても、結局はお金を生み出すためのものです。他国の人が壮絶な苦しみに身を置き死んで行く中、軍需特養で儲かる国があり、領土を拡大し潤わす国があるだけ。そこに正義なんか何にもない。戦争は人から、命を希望を夢を奪うだけのものです。

「アメリカはベトナム人を野蛮だと言う。他国に戦争をしかけてくるアメリカこそ、野蛮ではないか」と言う僧侶。「田畑が焼かれ、米が出来なければ他で種を蒔く。何度でも戦う。ベトナムは負けない」。子供七人を枯葉剤で亡くした棺桶屋の主人は、カッと見開いた目で、まっすぐにカメラに向かって語っています。中国に1200年、フランスに100年の支配に抗い、またアメリカと戦っているベトナム人。その負けない気骨にも、深い畏敬の念が湧きます。

ベトナムの捕虜から帰還したある兵士は、子供たちを国のために命を捨てる「立派な兵士」になるよう啓蒙し、年配女性たちには、あなた方の子育てに国の命運はかかっているのだと、「立派な軍国の母」になるよう鼓舞する。その傍ら、「私は息子が死んで誇れるなんて気持ち、わからない」と言う母親の息子は、脱走兵になっている。そしてその脱走兵は、軍には戻るなと言う母に、逃げ回る生活より、ベトナムで何があったか、軍法会議で事実を証言すると、軍に戻って行きます。元捕虜の言い分は正しい。国の命運が母親にかかっているなら、私は脱走兵の母になりたい。みんなが脱走兵なら、戦争はすぐ終わるのだから。

フランスの元大統領は、戦いで苦戦しているとき、アメリカから原爆を二つ譲ると言われたとの言葉に唖然とし、「東洋人の命は西洋人より軽い」と言う学者の言葉に震撼し、「東洋人は汚いドブネズミ(だから殺してよい)」と言う、国内で差別されたと言うネイティブアメリカンの言葉に、差別の根源を観るのです。この思考は、多分今のアメリカでも生きているでしょう。中国も韓国も、日本とお互い嫌い合っているのが、本当にバカバカしくなる。

先の帰還兵は、あなたがした事が、もし家族の身の上に降りかかったら?と言う質問に、一瞬躊躇しながら、「考えない。目を背ける。だから泣けないんだ。泣くと強い男じゃなくなるから」。泣いていい、過ちは悔いて懺悔すればいい。私はそう思う。そう認識しないと、強い男=暴力で相手を屈服させる男なんだと認められないはずです。

「映画は真実を伝え、平和に貢献する義務がある」。この言葉は、オスカー受賞の時、この作品の話しをする製作者に、司会者であった大御所のフランク・シナトラが、「ここで政治の話をするな」と怒ったのを、30代でシナトラより格下であり女性であるシャーリー・マクレーンが止めに入った時の言葉だそうです。40年後ですが、私はシャーリーに敬意を表したい。

人生で大事な事は、今と未来です。大事な今と未来を守るために、人間は過去から学ばねばいけないはず。過ちや苦しみから目を背けないのは、平和な未来を守るため。ネットで知った気になってはいけない。書物を読み、たくさんの人の意見に耳を傾け、その中から取捨選択するリテラシーを育てなければいけないと思うのです。

この作品を観た次の日が母の日でした。独立した上の息子たち二人と、一緒に住んでいる三男から、それぞれプレゼントを貰い、ケーキを囲み談笑しました。健康に恵まれ、この手で我が子を育て、大人になった息子たちは、それぞれが自分の夢を抱いている。私は幸せな母親です。私はこの幸せを、世界中のお母さんたちと分かちあいたいと、切に願います。私の感想が誰かの目に触れ、この作品を観たいと思った方がいれば、これほど嬉しい事はありません。日本がひたひたと戦争に近づきつつある今、それが私がこの作品を観て学んだ、第一歩だから。


2015年05月06日(水) 「Mommy/マミー」




グザヴィエ・ドラン監督、初見参。その才能は、つとに名高かったのですが、タイミングが合わず、今回やっと観る事が出来ました。確かにすごい完成度。本当に25歳の青年が撮ったのか?と思う程、丹念に母親の気持ちを紡ぎ出す場面の連続に、とても感激しました。全編フランス語ですが、カナダの作品。

架空の世界のカナダ。新しい政権が誕生し、発達障害児を抱える親は、法的手段を経ることなく、養育を放棄して施設に入所して良いと言う法案が成立されます。夫に先立たれた46歳のダイアン(アンヌ・ドルヴァル)は、放火をしたせいで矯正施設から強制退所させられた、発達障害の15歳の一人息子スティーヴン(アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)と二人暮らし。情緒不安定で、一度怒り出したら手に負えないスティーブンに、ほとほと手を焼いていた頃、隣人のカイラ(スザンヌ・クレマン)と出会います。彼女も、吃音で教師を休職している状態。親しく交流をしていくうちに、お互いが落ちついた状態になっていくのですが。

まずスティーブンの発達障害の描き方が秀逸。一口に発達障害と言っても、同じではなく、スティーブンの場合はADHD。話を聞かない(聞けない)、片づけられない、自分の気に入らない場合は、手がつけられないくらい暴れる等々。そして生育や本人の元々の気質も加わり、似ているようで、皆少しずつ違います。これらは、一見すると躾の足らない粗野で野蛮な言動に見えるので、始末が悪く身近な人にはとても大変です。それが手に取るようにわかると同時に、父親のいない家庭で、スティーブンが彼なりに、息子として母を支えたい、守りたいと言う強い想いを感じました。それが空回りしてしまう哀しさよ。

手がつけられない時は安定剤、気分が落ち込むとリストカットなど、私が精神科勤務時代の見知った行動も描かれています。あぁどこの国でもそうなんだ、当たり前の事なのに、暗い気分に。

美談めいた作りなら、ここで母親の鑑みたいな女性が出てくるのでしょうが、ダイアンは46歳。腕にはタトゥー、穴あきジーンズをはいて、化粧は濃いはのとってもロックな母ちゃん。気に入らない事には容赦なく噛みつき、少々品はないけど豪快な気質。多分人の同情を呼ぶことはないでしょう。そんなダイアンの心の中は、スティーブンでいっぱい。何ら普通の母親と変わらない、いやそれ以上の愛情を息子に注ぐ様子が描かれ、同じ母親として、何度劇中泣かされた事か。

一生懸命社会のルールを教えるも、一向に意に反さない息子に、ダイアンが諦めずに説いたのは、人種差別はいけない、物を盗んではいけない、でした。息子を憐れんではいないのです。野放図にはしていない。甘える息子が自分の乳房に触れようとすると、きつく叱ります。赤ちゃんめいた息子の行動ですが、自分に依存する、成人男性並みの体格と力を持ち始め息子に、性的暴行させないためだと思います。そして男も作らない。15の息子にお酒を飲ませたり、ゆるゆるの所もある母ちゃんですが、この線引きに私は強く共感。ダイアンが大好きになります。

世界に二人きりみたいな母息子の、煮詰まった世界に風を運んだカイラ。彼女もまた、世の中の息苦しさ(明確に描かれないけど、多分夫)が、吃音と言う形で現れたのだと思いました。世間の枠からはみ出した母と息子の前では、解放されるカイラ。ダイアンたちの前では吃音も直っている。

母と息子の二人のシーンでは、広いスクリーンが1×1で、せせこましく映されるのが、カイラが加わる時から、フルスクリーンで映されます。一気に視界が広がる事で、三人の解放感を表してるのでしょう。

ダイアン親子は、世間一般では底辺だと思います。しかしその日暮らしであっても、刹那的でも享楽的でもありません。必死で職を求め、お金が入るとワインを買い、三人でささやかにパーティーする様子は、自分たちに許される範囲の人生の楽しみを謳歌しているように思えました。障害があるから、底辺だからと、ストイックに我慢だけする必要はないのだと、監督が言っているんだと思ったら、その宴の真っ最中、ダイアンは奈落の底に突き落とされる事に。

ここからが、何をやっても上手くいかない。一生懸命ダイアンが模索し、カイラがサポートして知恵を出し合うのに、スティーブンがぶち壊す。途方にくれたダイアンが出した解決策は。

ダイアンは母親と言う生き物そのものでした。子供を食べさせ寝かせ、必死で教育を受けさせる。必死に息子を「大人」にしようとしているのです。そのためには、干からびかけた自分の女も利用しようとする。貧しくて、みっともなくて、息子への愛情だけで生きている人でした。彼女は母親の根源だと思う。自分の吃音の原因であるはずなのに、「私は家庭を捨てられないの」と、寂しく語ったカイラにも娘がいました。解放感だけではないものを、ダイアンから受け取ったのかもしれません。

ダイアンが、スティーブンがこうだったら、と夢想する場面に、もう泣けて泣けて。私はそれほど息子たちに夢を抱いた母ではありませんでしたが、それでもささやかな希望はありました。母として、そのささやかなものまで望めないとしたら?こんな残酷な事はありません。ダイアンの苦悩を、痛いほど伝えるシーンでした。

終盤のダイアンの涙は、この母を独りにしてはいけない。そういう事だと思います。後半からの出来事は、彼女一人で解決にするには、荷が重すぎるのです。世の中が変わらなければいけない。それはこの作品が描く法案ではないのだと思います。

外に向かって走るスティーブンの笑顔で終わる作品。人によって悲劇にもハッピーにも取れるでしょう。私はハッピーだと思いたい。だって母親にとって、子供の笑顔以上に力をくれるものはないのだから。予想していたより、ずっと明るく現実を見据えた作品でした。ポップでユーモラスな場面もあり、解放感と閉塞感の使い分けも見事で、熟練の監督みたい。何より25歳の青年が、これほど「母なるもの」を理解してくれている事に、とにかく感激しました。そのうちハリウッドに呼ばれるだろうけど、どんな化け方をするのか、とても楽しみです。


2015年05月04日(月) 「海にかかる霧」




紹介だけざっと読んで、面白そうだと選びましたが、劇場に入ってびっくり。オバサマ方で満員(笑)。新入りの乗組員役で、韓流スターのパク・ユチョンが出ていました(この手の事は全然わからん)。オバサマ方の発する独特の熱気に包まれながらの開演でしたが、オバサマ方には気の毒したような、猟奇的な場面が多々ある濃い内容で、韓国独特の因習や現在の世相も感じさせる秀作ミステリーでした。監督はシム・ソンボ。監督と共同で脚本にポン・ジュノが当たっています。

漁船チョンジン号の船長チョルジュ(キム・ユンソク)は、長引く不況と不漁続きで、金銭的困窮を極めていました。ついに以前から誘いのあった、中国からの朝鮮族の密航に手を染めます。しかし思いもよらぬアクシデントが連続し、船上は惨劇の場と化して行きます。

冒頭、乗組員同士が新入りのドンシク(パク・ユチョン)を助けながら、厳しい仕事をこなしていく様子が描かれます。底辺に居ながらも船長を敬い、それなりに団結力のある彼ら。悪人ではありません。チョルジュも同様で、乗組員に対して絶対的権力を持ちますが、暴君ではなく、むしろ彼らの生活面まで考えている。古参の乗組員がドンシクに「自分だけが(この中で)高校出ているからと、偉そうに!」と言いますが、それは他の船員は中卒だと言う事。今や韓国は大卒が当たり前の時代、高校すら出ていない、年も若くない彼らは、この船を廃船してしまえば、たちまち食いはぐれてしまうのです。犯罪である密航に手を染めたのは、船員を思っての事も一因だと思いました。

しかし一番大きかったのは、チョルジュ自身が、船の上でしか生きられない男だと言う事です。久しぶりに陸に上がれば、食堂を営む妻は間男と浮気の真っ最中。ここで一発二発、両方殴られるのだ思ったら、チョルジュは貧相な間男に雑言すら浴びせない。妻からは一方的に罵られる有様。びっくりしました。幾ら時代は変わったと言え、韓国の、それもまだ古い常識に囚われているだろう、田舎の中年男です。この不甲斐なさ。船を維持するため、妻は自分の経営する食堂も抵当に入れて銀行から融資していました。いつしか夫と妻の立場は逆転し、この屈辱にも何も言えぬ関係になったのでしょう。陸に上がれば干上がったも同然なのは、船長である自分も同じなのをわかっていたのでしょう。

自分に楯突く密航者に、問答無用で壮絶な暴力をふるい、「この船では俺が大統領で”父親”だ!」と、宣言するシーンがとても印象的。如何に妻には頭が上がらない関係であったのかも、忍ばれました。

チョルジュから相談のなかった船員たちの意見は二手に分かれます。年長と思しき甲板長や機関長の意見が通り、それなりに一枚岩になる様子は、やはり韓国だなと思わせます。

嵐の中、沖合で密航者がチョンジン号に乗り込む描写が迫力満点。本当に命がけで、失敗は許されない事なんだと、手に取るようにわかります。しかし、密航者の中に女性が数人いるのがわかると、優しげな甲板長は、露骨に嫌な顔をします。「女を船に乗せると不吉だ」。私は女は土俵に上がるな的な因習だと想像しましたが、即物的に女=セックスの意味でした。

溺れたホンメ(ハン・イエリ)をドンシクが命がけで助けたのは、彼の親切心だったと思います。しかしその後の親切心は?彼女が若い女性だったからだと思います。ホンメを演ずるイエリは、まぁその、美しくないと言うか。ええい、はっきり言ってしまおう、私は不細工だと思いました(←ごめん!)。その彼女に恋心を募らせるドンシクですが、これが陸でもそうなのか?と感じます。船の上とは、どんな女も魔性にさせるのだと思いました。それが「女は船に乗せるな」の意味なのです。

そして初印象で、華も無く不細工だと思っていたホンメを、何と私も段々可憐で清楚な女性に感じ始めるのです。これって船上マジックを描いていたのか?
イエリ、上手かったと思います。

そして思いもよらぬアクシデントが起こり、船上は凄惨な修羅場と化します。声のない阿鼻叫喚。この事柄から、船員たちの精神は平常さを失い、気の良い仲間であったのが、そこに”魔性”も加わり、それぞれが違う方向に暴走し始めます。船の上とは密室と同じなのだと感じました。

船を守るためなら、鬼にもなるチョルジュを演じるユンソクが圧巻。気性の荒い男であるのが、妻の前では小さくなる情けなさから一転、船上では首尾一貫「船長」であり続けます。常に血走った眼は、段々哀切から狂気に変わり、それと共に彼も変貌していきます。ユチョン君はこれが初映画だそうですが、素朴な青年の純粋さを失わなわず、泥臭いアクションシーンもラブシーンもこなし、相当頑張っていました。日本のアイドルも事務所がNG減らして、挑戦させてあげたらいいのになぁ。冒頭、出演者のメッセージがありますが、他の船員役の人たちも、それなりに端正な容姿から想像できないほど変貌していて、上手くキャラ作りをしていたと思います。

ラストは、色々想像できると思います。「九老」と言う場所での出来事は、
やはり船上は女を魔性にしてしてしまったと言う事なのかな?ラーメンに青唐辛子を入れる様子が切ない。茫然と見守るドンシクは、事の次第を悟り、やっと夢から覚めた事でしょう。

血生臭い場面も多く、濃霧や嵐の場面では、観ている私まで船酔いしそうになりました。そうそう、魚の匂いも感じたな。汚い場面も多いけど、韓国映画にありがちな過剰描写は意外と少なく、そういう点は賢く描いており、むしろ心理の怖さに焦点を当てたミステリーでした。お勧めです。


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