ケイケイの映画日記
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全編字幕なし・音楽なし・セリフなしの、ウクライナの聾学校が舞台の作品。この手のアート系作品はまず私には合わない(笑)。それでも観ようと思ったのは、最近仕事にもだいぶ慣れ、ちょっと気持ちに余裕が出来てきたので。遊んでみようか、後学になるかも?的な気持ちで観ました。鑑賞直後は期待値下げたのが良かったのか、合わないけど色々触発された程度でしたが、一日経ち二日経ち、この作品の事ばっかり考えている自分がいるのです。あれやこれやが、段々光明が差すように、私なりに解釈することが出来ました。監督はミロスラヴ・スラボシュピツキー。
とある全寮制の聾学校に入学した少年セルゲイ(グレゴリー・フェセンコ)。そこは窃盗や売春など犯罪が組織化された世界でした。当初暴力の洗礼を受けたセルゲイですが、徐々に頭角を現します。しかしリーダーの愛人の少女アナ(ヤナ・ノヴィコバ)を愛してしまった事から、歯車が狂い始めます。
出演者は本当に聾唖者だそう。字幕なしでわかるのかなぁと不安でしたが、手話はわからずとも、登場人物の鋭い表情のあれこれや、表現豊かな身振り手振りで、何となくわかります。ウクライナと言う国をよく知らないので、イマイチ咀嚼出来ない箇所も、その後の場面展開で事情が判明します。時間通り追う一見ドキュメンタリー風の撮り方も、計算しているのでしょう。
障害者を主役に据えると、障害に屈せず豊かな人生を勝ち取る的な美談に流れがちです。冒頭、小学生くらいの子たちの、晴れやかな卒業式風景はその通り。しかし、それを経た学年のこの作品の登場人物たちは、強盗・恐喝・売春などが組織立って行われ、それに教師まで一枚噛んでいる始末。リーダーの子に上納金を渡すなど、歴然としたヒエラルキーがあります。セルゲイがのし上がっていく様子など、他国のマフィア映画と寸分たがわずです。
何故そうなるのか?私は貧しいからだと思いました。彼らの住む学生寮や校舎は、とにかく古い。老朽化だけではなく、とても不衛生だしプライバシーと言うものも皆無。日本のこの手の公的施設では、まずお目にかかれぬ代物でした。世の中に出るのを目前にした子たちが、障害を持つ自分の将来を直視した結論なのかと感じます。もうこの辺の流れは、良い悪いの理屈じゃないと思う。
モデルでも通用しそうな、伸びやかな肢体と顔立ちの少年少女たちですが、セルゲイだけが少し異質の、負けん気の強い顔立ちです。これは意図的なものかな?恋もしたい年頃の子です、好きになったアナを独占したいでしょう。二人のセックスの様子が生々しく描かれ、当初こそ娼婦性を感じさせたアナですが、段々とセルゲイに好意を持ち始め、普通の男女の愛し合う様相になる。でもアナはしっかりお金は受け取るのですね。一線を引いているのに、セルゲイにはわからない。音もなくセリフもない素っ裸のセックスシーンの変遷だけで、若い男女の心の移り変わりがわかる演出はお見事です。
恋心に盲目的になり、数々失態を冒すセルゲイ。数々の特権は剥奪され、グループの最下層になります。ここからの反撃の演出が圧巻。目を覆う蛮行が繰り広げられますが、何故誰にも止められず可能だったのか?彼らが聾唖だからです。中盤でも耳が聞こえない悲惨さを感じる場面がありました。耳を塞ぎ、声も出さず、耐え忍んでいるだけだと、いつかこうやって爆発してしまうのだと、監督が国を憂いているのかと感じたのですが、それは深読みなのかな?
犯罪に加担している大人も聾唖であったり、非合法であろう危険で不衛生な堕胎の場面、仕切りがなく丸見えのトイレなど、日本では考えられない風景が、淡々と描かれるだけに、尚衝撃的です。この衝撃性や汚辱さを緩和するため、少年少女たちは美男美女を使っているのだと思います。後から考えると、非常に綿密に計算された、知的な作品だと気づきます。
聾唖の人は、聞こえない分、体で感じる能力が長けていると聞きます。観ると言うより体感する作品かな?中々に味わえない経験でした。観て良かったです。
ホラーかと思いました(笑)。手に汗握るし、展開の先は読めないし、確かに面白い作品です。でもそれはサスペンスフルな部分が大きく、そこにスポ根的な爽やかさや、厚みのあるヒューマニズムを見出すのは、ちょっと違うかなと個人的には思います。監督はデミアン・チャゼル。本年度アカデミー賞助演男優賞(J・K・シモンズ)受賞作。
一流のジャズドラマーを目指して、名門の音楽大学シェイファー音楽院に入学したニーマン(マイルズ・テラー)。実力者のフレッチャー教授(J・K・シモンズ)の目に止まり、彼のバンドに誘われたニーマンは有頂天になります。しかしフレッチャーの指導は、厳しさを通り越してまるで狂気の沙汰。フレッチャーの理不尽な罵声やしごきに耐えるニーマンでしたが・・・。
噂に聞いていたシモンズのキャラは、確かにキューブリックの「フルメタル・ジャケット」のR・りー・アーメイを彷彿させる鬼を通り越した狂気の人物。口汚く演奏と何も関係のない事柄まで罵る様子は、昨今流行り(?)のモラハラの典型のよう。
まぁ前半は良いのです、ここから耐えに耐えたニーマンの成長した姿が観られるのだと予想したから。しかし期待を裏切り続けるニーマン君、フレッチャーの気ちがいじみた指導を一つ一つクリアして行くにしたがい、彼まで鼻持ちならない尊大な男になっていく。予想を覆すこの展開に、へっ???となりましたが、以降も続々先の読めない展開が待っていて、その度にこちらも混乱。これはニーマンの焦燥に、こちらが付きあったからなのでしょう。この辺はすごく面白かったです。
鬼か〇チガイがと思うような、胸糞悪いフレッチャーが、時折見せる人間臭い表情と穏やかな眼差し。おぉ、きっとこれが彼の本質なのね、やっぱり厳しさはニーマンのためだったんだよ!と思うと・・・(笑)。オスカー受賞のシモンズは、確かにすごく上手かったです。狂気と狂気の間に垣間見せる柔らかい表情など、本当の最後まで観客を煙に巻きます。本当はどんな人なのか、未だにわかんないもん。
確かにラストの展開は圧巻で、服従からの展開は鮮やかですが、立場が逆転しただけです。それでいいのか?クラブ活動などで同じような事柄が起こって、これは指導だ、本人の素質を開花させるためだと、フレッチャー側の人が人本気でそう思ったなら?私は違うと思います。あれだけ人を貶め傷つけ、尊厳をめちゃくちゃにするのが、指導だとは思いません。フレッチャーはいくら名指導者だとしても、人格は破壊された人だと思います。
私は某大阪の体育系の高校で自殺者を出した事件や、女子柔道の指導者のモラハラ事件を思い出しました。この映画を引用して、これは愛情だ指導の一環だと言うのは、私は決して認めたくないです。
それより私が感銘を受けたのは、ニーマンのお父さん。母が出奔し、息子を男手一つで育てて、普段は本人の自主性に任せるも苦境に陥ると、矢面に立っても息子を守ろうとする。その後見解が違っても息子の意見を尊重し、失敗したら抱きしめて、そしてまた見守る。親の理想を観た思いです。ニーマンの最後の逆襲は、世界中が自分の敵でも味方してくれる人がいる、その安心感が、彼を奮い立たせたと思いました。
シェイファーはバークレー音楽院がモデルかなと思います。世界的に著名な学校ですが、それでも二流の大学の体育会系より下に観られるのですね。あれはニーマンの僻みでは、ないでしょう。
観ている間はとっても面白いけど、消化不良のカタルシスだったのが残念。サスペンスとして見るなら、OKの作品です。
2015年04月18日(土) |
「ソロモンの偽証 後編・裁判」 |
好調に終わった「前半」より、待ちに待った作品。先週公開初日に観てきました。大長編の原作故、描き込み不足のところも多々ありましたが、本当によく頑張った中学生たちの清々しさに免じて、不問にしたいと思います。監督は成島出。
柏木卓也(望月望)の死の真相を探るべく、城東第三中学校での裁判が始まります。検事側・弁護側に別れ、想定外の事実が明るみに出る中、事態は予想しなかった方向に向かいます。
父兄や教師、同じ学校の生徒たちが傍聴する中、裁判シーンからの始まりです。意外としっかりした構成で、きちんと審議は進んで行きます。拙い感覚も残しながら、大人に茶番とは言わせない、子供らしい正義感と真摯に事件に向かい合っている感情が伝わってきて、感心しました。
前篇では子供たちの添え物だった大人たちの存在が、クローズアップされているのが印象的。我が子を信じて見守る親。先走って子供の感情を逆なでする親。両方親として心底子供を心配しているのです。後者を演じているのは、樹里(石井杏奈)の母(永作博美)。童顔でとても中学生の子供がいるとは見えない彼女の必死の攻防は、ともすれば浅知恵に終始します。必死で子供を守ろうとすればするほど、自分も子供も、そして他の子供も傷つけている。でも相談する夫が傍にいたら?母子家庭ではないのに、一度も画面に出てこなかった父。追い詰められた樹里の行動は、自分の母親そっくりなのです。母も子育てに追い詰められている。これは世間にいっぱいありそうだなぁと、私はこの鬱陶しい母親の愛を、責める事は出来ません。
対する涼子(藤野涼子)の両親(佐々木蔵之介・夏川結衣)は、優等生である我が子が、死を意識するほど傷ついていたのに気付けなかった事を、恥じている。悩みは全部相談してくれる、把握していると安心していたのでしょう。決して自信ではないはず。我が子と良い関係にあるのが隠れ蓑になり、子供の自我の発露に気づかず、今も自分たちの掌で、天真爛漫に伸び伸びしていると思ってしまう。これもいっぱいありそうなケース。この両親の、そこからの巻き返しに共感しました。
そして娘を亡くした松子(富田望生)の両親(塚地武雅・池谷のぶえ)。裁判をしても、娘が戻ってくるわけではないと虚無感を持ちながら、真実を知ろうとする子供たちを、しっかり見届けようとする誠実さに心打たれました。これは辛さが先に立ち、なかなか出来ない事です。
佐々木刑事(田畑智子)や津崎元校長(小日向文代)の証言に、子供たちへの愛を感じます。涼子が教師として子供を救えなかった事に傷ついているはずの津崎へ、感謝の言葉を述べたシーンはとても良かった。大人だって傷つくのです。そして教師を育てるのは、生徒と保護者だ。重要な証言をしてくれる津川雅彦には、親だけで子供は育つはずはなく、世間に見守られて人になっていくのだと、今更ながら痛感。自分は今この位置なのだと、再確認しました。
真実に至るまでは、本物の検察・弁護士さながら、自分たちの足で証拠や証人を探しだし、推理するようすは、観ているこちらも緊張感いっぱい。真摯で純粋で一生懸命な姿は、こちらも真剣に観なければと、居住まいを正そうと思いました。
多分キーパーソンであろう含みを前半に感じさせて終わった神原(稲垣瑞生)。その正体が明かされます。「今の両親のお蔭で僕が生きている」と言う感情が胸を打ちます。苦しい事ばかりではなかった、楽しい事もあったのだと言う、亡くなった両親との生活。自分の生い立ちに葛藤がある彼には、自分の生を肯定するきっかけであったでしょう。ただ、こんな手の込んだ事をしなくても、と言う疑問は残ります。
そして柏木の死の真相。原作ではもっと肉付けがあったでしょうね。柏木の両親は良き人たちに感じました。何故この両親の元でも居場所がなかったのか?「口先だけの偽善者」と、前篇で涼子や神原を罵る彼に嫌な尊大さや感じた私は、今回もそれが払拭できず。神原への虐め暴言、人格障害を想起させる面倒くささなど、虐めの被害者であるのに柏木に、同情や共感が湧かないのです。柏木君は、もっと描きこまなくちゃダメだったんじゃないかなぁ。松子ちゃんの場合は、とても上手く描けています。
それでも「この裁判が出来たのは、14歳だったから」と言う大人になった涼子の言葉で、この疑問も不問にしたいと思います。彼ら彼女らが、今の自分の全てぶつけた裁判であったと、そこにとても納得したからです。
私も過去を振り返って、到らない親であったと反省。もう一度子育てがしたくなりました。中高生たち、そしてその父母に、バイブルになれる作品だと思います。
2015年04月12日(日) |
「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 |
本年度アカデミー賞作品・監督・脚本・撮影賞受賞作。オスカー授賞式の司会者、ニール・パトリック・ハリスのブリーフ一丁の姿は、この作品のパロディだったのね。長らくその作家性が、私には天敵のように思えた監督のイニャリトゥですが(そう言いつつ作品は全部観ている)ですが、前作の「BIUTIFUL」で、初めて苦手意識を払拭。今回も上から目線は皆無。だらしなくてセルフコントロールがまるで利かない、面倒臭い登場人物全てを、愛しく描いた作品。端正に夫婦の愛と苦悩を描いた「博士と彼女のセオリー」や、秀逸なミステリーにコクのある人間ドラマを織り込ませた「イミテーション・ゲーム」を蹴散らして、猥雑で下品で熱気溢れるこの作品のメッセージを汲み取り、オスカーに選んだハリウッドは、やっぱり捨てたもんじゃないです。監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。
かつてスーパーヒーロー物の「バードマン」に主演し、一世を風靡したリーガン(マイケル・キートン)。しかしそのイメージを払拭できず、20年後の現在は鳴かず飛ばず。再起を期して、レイモンド・カーヴァー原作の舞台劇を脚本・演出・主演とこなして、ブロードウェイに進出しようとします。ところが稽古中に共演者が大けがをしてしまい、出演者は交替。代役の人気俳優マイク(エドワード・ノートン)に振り回され、リーガンの神経は粉々に。果たして舞台は無事に幕を開けられるのか?
冒頭宙に浮き、冥想しているリーガンにびっくり。「バードマン」演じるリーガンは、本物のミュータントだったの?と、途中まで半信半疑でしたが、時々現れるバードマンの幻視やら、幻聴に反応する様子など、どうも幻覚らしいとわかります。幻聴はどうもリーガンの本音らしく、彼のプライドをいたぶり、良からぬこともけしかけます。
ほとんどが、ワンシーンワンカットの長回しに見えます(ちょっと編集もあり)。そして登場人物全てのアップが多用され、これがすごい迫力。美しく映っている人はほとんどなく、生々しい喜怒哀楽の感情が露わになっています。ずっと緊張感が持続したのは、撮影のエマニュエル・ルベッキの技ありだと思いました。
SNSやネットに再生される数が、人気のバロメーターだと言うリーガンの娘サム(エマ・ストーン)やマイクですが、そうなんでしょうか?言い尽くされているネットの功罪や信憑性を、今更イニャリトゥが問う訳はないはずで、ここはそれに踊らされ、神経をすり減らし、自分を見失う側の悲哀を描いたのだと思います。
映画上りの俳優の舞台を憎悪する、演劇評論家の重鎮タビサ(リンゼイ・ダンカン)。彼女の批評の優劣で、舞台は続行か中止かが決まるほど。能面のような彼女のアップは、一切感情が表に出ない。それっておかしくない?自分の目で観て心で感じる事が、本物じゃないの?批評に一喜一憂するのはバカバカしい事だと、イニャリトゥが批評家に喧嘩売っているのかも?
今のハリウッドは安直なヒーロー物ばかりだ、舞台にこそ役者の本懐があるのさと描きながら、実はこの作品、映画への熱烈な愛を語った作品です。ヒーロー物を小ばかにしながら、その時得た名声が忘れられない。染み付いたイメージを払拭したいのに、リーガン=バードマンと認知する大衆を捨てきれない。取り直しがきかない狂想曲的な熱気に満ちた演劇の裏舞台の、ひりつく様な陶酔感を描けば描くほど、リーガンの本音は、映画が恋しいのです。何故なら彼の役者人生の全ては、映画にあるのだから。「バードマン」役者、上等じゃないですか。リーガンが自分の心を認めた瞬間を描く、荒唐無稽な場面には、思わず目頭が熱くなりました。
マイケル・キートンはご存じ初代バットマン。ジリ貧とまで行かなくても、その後キャリアが尻しぼみなのは確か。役柄と重なる彼のキャリアに、野次馬的好奇心で観る観客を向うに回し、唸らせる様な熱演です。演じる事に熱中するあまり、人格破壊寸前の役者の悲哀を演じたナオミ・ワッツやノートンもお見事。少々お下劣なキャラのマイクですが、ノートンの好演あって、下劣さより狂気の中の悲しさを感じます。アップの多様で、誰一人として美しく撮られていなかったのに、私はノートンってハンサムだなぁと改めて感じました。ノートンは当代一の人気俳優役。この存在感、もっともっと評価されていい俳優だと痛感しました。一般人であるリーガンの元妻役エイミー・ライアンの落ち着きや、俳優たちの丁々発止の喧騒に、懸命に踏みとどまったマネージャー役のザック・ガリフィナーキスの頑張りが、一層俳優たちの哀歓を浮き彫りにしていました。
助演女優賞にノミニーのエマは、その喧騒に巻き込まれてしまったため、神経を病んでしまった娘サムです。彼女の大きな目は、いつも快活に輝くのに、今回は憂いがあって曇っており、ラストで初めて、彼女らしい輝きを見せます。あの輝きは、ハッピーエンドと捉えていいのでしょう。タビサの書いた批評の意味は、監督の映画への気持ちだと思いました。私が映画が大好きになったのは、ハリウッド大作からでした。この作品は、ハリウッドで巨匠となりつつあるメキシコ人イニャリトゥの、熱烈なハリウッドへのラブレターだと思います。
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