ケイケイの映画日記
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2014年11月23日(日) |
「ショート・ターム」 |
情緒不安定なティーンエイジャーを短期で預かる施設が舞台。日本では無名の監督・キャストによる地味な作品です。ですが、メンヘラと呼ばれたり、世間から疎外されがちな彼らの気持ちに寄り添って、深々と共感出来る作品になっており、希望と勇気が湧いてきます。監督はダスティン・ダニエル・クレットン。
虐待やネグレクトなど、親の養育不能で暮らせない子供たちを預かる施設ショート・ターム。ここでケアマネとして働くグレイス(ブリー・ラーソン)は、恋人で同僚のメイスン(ジョン・ギャラガー・JR)やその他の職員と共に、彼らの世話をしています。ある日母を亡くし父と二人暮らしのジェイデン(ケイトリン・デヴァー)と言う少女が施設にやってきます。彼女に自分を重ねるグレイスもまた、暗い秘密を秘密を抱えていました。
子供が生まれて初めて愛情を受けるのは親です。無条件の愛情を注いでくれる親の存在は、この世で自分の居場所を作り、子供に自信を与えるもの。それを与えられなかった子供たちは、どうすればいいか?自分が変わる、それしかないのです。親を恨む時間があれば、自分の将来に希望を持ち日々を励む。その指導をするグレイスたちですが、言うは易しで、彼らには中々伝わらないのが、もどかしい。
不謹慎ですが、自傷行為をしたり、キーキー発狂したような様子の彼らを観て、精神科に勤めていた時を思い出し、何だか懐かしい気に捉われました。一人一人は、悪い子などおらず、情緒が安定しているときは、いい子たちばかりでした。この作品の子供たちもそう。しかし少しの不安も乗り越えられず、この面倒くささ。この作品の秀逸なところは、その面倒くささも無理のない事だと、この子たちのような子と縁のない人にも、納得できるよう描いている事です。
この面倒くささのために、人と上手にコミュニケーションが取れず、傷ついてきた子供たち。監督は自分の実体験を元にこの作品を作ったとか。この子たちが何故こうなったのか?表層的にではなく、きちんと理解して欲しかったのでしょう。同情や非難ではなく、まず理解。
その面倒くささのトップが、何とグレイス。妊娠がわかると、すぐに中絶手術の予約をするのに、その一方で予約を隠してメイスンに妊娠を告げて喜ばせたりする。自分を肯定出来ないため、自信が持てず、人の良さが滲み出ているようなメイスンが、どこまで自分を受け入れてくれるか、試しているかのようです。
同じく肉親の愛を知らないグレイスとメイスンですが、ラテン系の養父母に慈しみ育てられたメイスンは、「親の愛」を知っている。対するグレイスは。小見出しに二人の育った環境の違いを映し、グレイスに対しても観客に理解を求めています。
父親との関係に暗い秘密があるのに、誕生日に迎えに来て貰えなかった事に、寂しさから感情を爆発させるジェイデン。憎くて怯える相手でも、年若い彼女には愛情の対象は父親しかいない。本人にしかわからぬ辛さです。グレイスにしてもジェイデンにしても、この複雑な彼女たちの葛藤を理解出来なければ、私たちは手を差し伸べても、跳ねつけられるだけです。
一見法令順守で冷たいように感じる所長の言動ですが、彼も若い頃は派手に始末書を書いたりして、ショート・タームの子供たちと共に、傷ついてきたのではないかと思います。介護・医療・福祉の現場では、それぞれに分があり、それを逸脱する事は出来ません。その中でやり甲斐を見つけるのは、本当に難しい。そのもどかしさを一番知っているのは、実は所長ではないかと思いました。
しかし、ジェイデンに勇気を与えたのは、グレイスの越権行為とも言える行動でした。グレイス自身、自分の過去への復讐か、ジェイデンの為なのか、わからなくなっている。しかし「やり過ぎよ」とグレイスを諌めるジェイデンの微かな笑顔には、嬉しさも透けて見えるのです。言えるのは、自分に罰が下ろうとも、ジェイデンを救いたい。グレイスの行動にジェイデンはしっかりと愛情を受け取ったのです。それはグレイスが自分の殻を破るきっかけでもありました。
大学を休学してショート・タームに子供たちの世話をしにきたネイト(ラミ・マレック)。自己紹介の時、「恵まれない君達」と言ってしまいます。これは世間の本音のはず。子供たちから激怒されます。恵まれない子供たちに「施し」をすることで、自分探しを完結させようと思っていたのかな?しかし、杓子定規で融通が利かず、子供たちとも馴染めない彼が、手の焼ける彼らにうんざりしながら、少しずつ彼らに寄り添い信頼を得る姿は、監督が世の中に望んでいる事ではないかと思います。ネイトの変貌こそ、ショート・タームの子たちの希望なのです。
荒れるジェイデンを慰めるため、ショート・タームの子供たちが作った誕生日カード。「良いお母さんになるよ」と、グレイスを励ますジェイデンなど、何気ない描写が、これほど心に染み入るとは。私の気持ちが彼らに寄り添っていたからだと思います。
同じ少年が裸で逃げ出すシーンで始まり、同じシーンで終わるこの作品。しかしのメイスンの話すエピソードの違い。ジェイデンの描く絵の違い。小さな違いに、ショート・タームの希望が見える。この小さな希望を糧に、また頑張る職員たち。他者の幸せを願える人の人生は、豊かな人生だと思います。
このポスター、素敵でしょ?私は今年一番のポスターだと思います。射るようにも、助けを求めているようにも見える宮沢りえの表情に、期待値上げて観ましたが、残念ながらヒロインには共感出来ず。全体的に中途半端な作品に感じました。監督は吉田大八。
銀行の渉外担当の契約社員の梨花(宮沢りえ)。エリートの夫(田辺誠一)と二人暮らしです。顧客の平林(石橋蓮司)の大学生の孫光太(池松壮亮)から好意を寄せられ、二人は不倫関係に。光太が授業料を払うのに困窮していると知った梨花は、祖父である平林の預金を勝手に解約。次々と顧客の預金を横領していきます。
解説では冷えた夫婦関係となっていますが、夫、私には申し分ないように思えました。仲良く一緒に出社するし、出張にカルチェの時計をお土産に買うしで、妻に関心がないなんて、とんでもない。自分はエリート社員なんだからと、契約社員の妻をもっと小バカにする夫は、当時(20年前)もっといたはずです。なので、唐突に梨花が不倫に走るのに、まず納得いきません。
ずっと専業主婦で、パートから頑張って契約社員になった達成感はわかる。お給料が増えたので、今までより少し良い物を買うのも、自分への褒美なんでしょう。彼女の少女時代が回想され、人に尽くす事に歪な感覚を持っていたことがわかります。と言う事は、光太への「貢ぎ」は、若い男性の肉体に溺れてのではなく、可哀想な子だから、私が救ってあげなくちゃ的な感情だと、本人は解釈している。
でもそこで自分の貯金ではなく、横領と言う形はやはり歪。う〜ん。梨花は根本的には思考が成長しなかったと言う事?それじゃ社会生活に不適合な訳ありの人でしょう。そうでも解釈しないと、横領で得たお金で、三日の豪遊で150万使ったり、お洒落なマンションを光太に与えたりの暴走が理解できません。
作り手はそういうのを描きたかったのかなぁ・・・。違うと思うんですけど。普通の主婦が、簡単に横領に走った。それは「孤独」を託つ誰しも待ち受けている落とし穴だと、言いたかったと思います。でも私の目に映る梨花は、誰か愛(大きく間違っていますが)を与えなければ生きていけない、一種依存症的な特別な人です。ならば夫が買ってきた時計に対して、素直に喜べない彼女の気持ちも理解出来ます。時計は貰うのではなく買い与えたい女性なんですね、梨花は。
ならもっとピカレスクに走って作ればいいのに、お金の使い方も面白味がなく中途半端。光太への執着も薄く、年下男性へのドロドロした愛憎を描く事もない。もちろん良人である夫への詫びや葛藤も最後までない。何の罪科もないのに、こんな可哀想な旦那さんいませんよ。そんな特別な人の暴走を見せられても、爽快感も解放感もありません。何がきっかけだったのか、わからないのです。
面白かったのは、必死で偽装工作する梨花の様子です。なるほどと感心すると共に、何でこの智恵を全うな事に使えないのだろうと思います。他には銀行内部の様子も見られた事。普段知りえない部分ですから。
映画化の際に作った厳格で優秀なベテラン行員隅を演じた小林聡美が、キャラも彼女も出色。彼女の演技とセリフだけで、どんな人生を送ってきたか、独り暮らしの家まで透けて見える。隅もまた、女性としては恵まれぬ人生を送り、頑なで融通の利かない性格です。優秀でありながら敗北感や屈辱を受ける彼女は、梨花よりもっと孤独なはず。何故彼女は梨花にはならなかったのか?自分の弱点を知っていたからだと思います。二人が対峙する場面で、情けと素直な自分の心の吐露を語る隅の姿は、この作品で一番心に残り秀逸でした。小林聡美、やっぱり上手いなぁ。
ここからどうなるのか?ハラハラしていたら、げんなりする展開。名前を出すと結末がわかってしまうので伏せますが、銀行勤めだった某女性の犯罪を思い出しました。そして梨花の行動を暗に肯定しているような描き方にも疑問が湧きます。
宮沢りえが熱演ではなく、抑えた演技で好演していたのと、小林聡美のお蔭で何とか最後までそれなりに見られました。与えられるより、与える愛の方が幸せ、が座右の銘の梨花。子供がいないのが皮肉でした。我が子こそ与える愛の権化。時間も心もお金も、自分から全て詐取していくのに、それでも無条件に愛しいのは、私には我が子だけでした。彼女に子供がいたら、この犯罪は起こらなかったかも知れません。でもそれはそれで、別の犯罪に走っちゃうかも?いやだから、そういう女性を描きたかった作品では、ないと思います。
2014年11月10日(月) |
「福福荘の福ちゃん」 |
森三中の大島美幸が、女性に奥手のオッサンを演じる話題の作品。どうしてそんな変わったキャスティングで?と言うのは、作品を観ればわかります。女性が男性を演じると言う外連が全く外連でなく、福ちゃんから醸し出される包容力と温もりに、とても幸せにして貰いました。監督は藤田容介。
ボロアパートに住む福ちゃんこと福田辰男(大島美幸)は、腕の良い塗装職人。真面目で人柄の良い彼を慕っている同僚はたくさん。でも女性が苦手で、未だ彼女のいない福ちゃんを心配した親友の島木(荒川良々)は、妻良美(黒川芽衣)の友人を紹介するも、上手く行かず。そんな時、福ちゃんの女性恐怖症を作った原因の同級生・千穂(水川あさみ)が、福福荘にやってきます。
大島美幸のこの笑顔、素敵でしょう?笑顔だけではなく、実に表情が豊かで感心しました。最初こそ違和感はないけど、やっぱり大島美幸だよと思っていましたが、作品が進むに連れ、彼女が福ちゃんに見えてくる。男性とか女性とか言う以前に、大島美幸=福ちゃんが、私の中で無理なく同化していきました。この感覚、もしかしてとても大事なのかも?男性である、女性であると言う前に、一人の人間としての存在や値打ちが大切なのだと感じます。
昔の過ちに気づき、福ちゃんに謝罪する千穂は、最初は喫茶店のママ(真行寺君枝)の指摘が怖くて、会いに行ったんだと思います。でも平易ながら心に沁みた福ちゃんの言葉を、写真として表現したくなったんでしょう。それぐらい彼の喜怒哀楽の表情は、素直に観る者の感情に入ってくる。「バカにしてんのか?ちきしょう!」と男泣きに泣く福ちゃんに、私も思わず貰い泣きしましたから。だから千穂は、福ちゃんの「笑顔」に拘ったんだと思います。
笑いの中、そこかしこに、誰かが誰かを大事に思う気持ちが溢れているのも、この作品を得難いものしています。少々お節介ながら、そのお節介が相手の殻を破る事に貢献している。それらが本当にさりげなく、通り過ぎてしまいそうに描かれています。
東大出の人がいくら引き籠りだったからって、職人を社会復帰の第一歩に選ぶのは、どれだけプライドを捨てて勇気がいった事か。自分を怪我させた相手の心配をするのが、どれほど美しい事か。本当はみんな、とてもとても難しい事。それを現実味を帯びて観客に届けるには、逆説的だけど、女性に男性を演じて貰うしかなかったのかもですね。宝塚は女性がエレガントでダンディな理想の男性を演じて、夢を与えますが、大島美幸は、冴えないオッサンを演じて、観客に生きる希望や勇気を与えたと思います。
中原丈雄の有名カメラマンの台詞で、「そこにある、見えないものを表現するのが、写真家にとって唯一必要な素質」みたいなセリフは、芸術全般に言えるのだと思います。観る者は心を動かされる。それが感動なんだと思います。映画だってそう。セクハラ変態親父にも花を持たせたのは、オールヌードにまでなってくれた北見敏行への、監督の贖罪でしょうか?(笑)。
福ばっかり並ぶタイトルも、観終わってみれば意味が深いなと感じます。鑑賞後はきっと、福々しく円満な気持ちで劇場を後に出来る作品。
デンゼル様主演の限りなくB級っぽいアクション。しかしね、B級アクションの上出来なのは、その辺の下手な人間ドラマよりずっと面白い。気の利いたセリフや上玉の悪役などを配し、それがまたデンゼルのカリスマ性を引き立て、とっても楽しめる作品に仕上がっています。監督はアントワン・フークワ。
ホームセンターに勤める初老のマッコール。仕事ができユーモアもある彼は、背景に謎めいたものを感じさせながら、同僚たちから信頼されています。不眠のマッコールは夜中に開いている行きつけのダイナーがあり、娼婦のテリー(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合い心を通わせます。ある日元締めのロシアンマフィアの手下に逆らったとして、テリーが暴行を受けた事を知ったマッコールは、持ち前の正義感から手下たちを一網打尽。しかし、その鮮やかな手口に危険なものを感じるマフィアの元締めは、犯人探しに残虐非道なテディ(マートン・ソーカス)を送り込みます。
要するにだね、デンゼル様は必殺仕事人なわけ。でも誰からもお金貰わないの。あるのはザ・正義だけ。それだけでここまでやるか?いや、出来るのか?と言う問題にぶち当たるんですが、それを全て納得させてしまうのが、「主演デンゼル・ワシントン」。イマドキ還暦を前にして、愚直なまでに正義を追及するタフガイを演じて、この華やかさに納得させてしまうのは、彼しかいません(50過ぎてから突然アクションに目覚めたリーアム・ニーソンは除く)。ビックネームでも、そろそろ主演じゃお客さんを呼べない年齢ですが、何が偉いって、お客さんいっぱいだったの。
内容も小見出しでマッコールの背景を浮き彫りにさせながら、要所要所にマッコールを引き立てるアクションを挿入。体は穢れても清純な心を感じさせる娼婦のクロエ、心優しいスパニッシュの同僚の太っちょ君など、チャーミングな脇の存在感も忘れません。デンゼルの年齢が年齢なので、走る場面は少なく、格闘シーンもほどほど。かくれんぼ的な演出と銃撃戦で賄い、緊迫感と華やかさも不足なくありました。特に後半のホームセンターを舞台にしたアクション場面は、これが武器になるのかと、目新しいとまでは行かないまでも、充分楽しませて貰えます。
あっ、危ない!敵が近づく!と思ったら大丈夫だったり、身体能力だけではなく、かなり頭のいいマッコール。この手の作品ではお馴染みの元〇〇〇です。その設定が生かせているんだかどうか、あんまりわかんないんですが、取りあえずそこから紐解けるようにはなっています。
デンゼルだけカッコ良ければ、それでOKだったんですが、敵役のソーカスがとっても良かった!全身刺青が入った異常者的な男で、暴力性と残虐性が凄まじい。なのにそれが超クールで知性まで感じさせちゃうのは、ソーカスのお手柄だと思います。この手の作品の格を上げるのは、やっぱり悪役ですから。クロエたんは、もっと出番が多いと思っていたので残念。でも汚れ役をやっても愛らしさはピカイチで、眠っていたマッコールの正義感を呼び覚ますのも納得です。
しかしイチ三下やくざをぶちのめしたのが、あれよあれよと言う間に、壮大な敵まで辿り着くのはびっくりですが、最後まで無敵の強さを誇る我が君に、何の文句がございましょうか。あんな事しでかして、またしれ〜と行きつけのダイナーに行くのに苦笑いですが、最後まで大物や名優としてではなく、花形役者デンゼル・ワシントンで締めくくった作品。ちなみにシリーズ化する布石を打ってありました。次があるなら、またフークワに監督してほしいなぁ。
2014年11月01日(土) |
「ニンフォマニアック Vol2」 |
いやいやいや、途中で激怒しかけたら肩すかしで、ラース君のしてやったりの顔が浮かび、地団駄踏んだりしましたが、今回も面白かったです。監督の新境地と言うより、心機一転の告白作かな?今回も面白かったです!
ジェローム(シャイア・ラブーフ)と結婚したジョー(ステイシー・マーティン)は、息子に恵まれるも性欲は収まらず。自分の体力に限界を感じるジェロームは、ジョーに他の男と寝るように勧めます。かくしてジョーは夫がありながら男漁りの日々。しかし不感症に陥ったままのジョー(ここから回想もシャルロットに交代)は、焦りからSMで治療する怪しげな男K(ジェイミー・ベル)の門を叩きます。
今回も笑ったけど、個人的には笑いは半減したかな?まだステイシーの時のスプーンがチャリ〜ンも、個人的にはあー、そうですか程度だったので。ただ涙ながらに妻に浮気を勧めるジェロームには笑いました(これも鬼畜か?)。
シャルロットに交代した時は正直がっくり。ラブーフ君と並ぶと、とても夫婦に見えない。姉と弟を越して、叔母と甥くらいな感じで、ちょっと無理がありました。裸になっても、同じスレンダーでも若々しく肌にハリのあったステイシーと比べると、だいぶ残念な感じ(完全にオヤジ目線)。それは終盤再登場するジェロームにつちても言える。ラブーフ君の色男ぶりが私は気に入っていたので、老けメイクでラブーフにやって欲しかったなぁ。
画像に使われている黒人男性二人とのシーンは、ボカシ付のシーンが爆笑でした(結構笑ってるじゃん>ワタシ)。やっぱ裸は若い子に限るなと思っていたら、K登場シーンから演技力も必要になってくるからか、俄然シャルロットが頑張って、ドドメ色ながら結構エロエロでした。過激な個所はボディダブルでしょうが。
だがしかし!「アンチクライスト」の悪夢再来か?と思わすその後のプロットやシーンに激怒しかかった私は、さぁかかってこんかい!と戦闘能力マックスになっていると、完全に肩透かし。「あーた、落ちると思ったでしょう〜?」的な監督の笑みが浮かぶ。今回は案外とお茶目なラース君。その後の全然納得の展開に、あら??と思ったのは、私と同じアンチに人だけかしら?
その後のジョーの姿は、依存症状態を行ったり来たり。この姿は薬やアルコールと同じなのですね。「私は色情狂の自分が好きです」なんて言っている段階では、絶対治らない。あらゆるものを失っても、まだわからない彼女を観ていると、セックスだけではなく、依存症そのものの辛さを描いているのかと感じてきます。
終盤でこれが男だったら、ジョーは批判されただろうか?的お説法をするセリグマンにも、感動すら覚えた私。もう取っても清々しい。改心したんだね、監督〜!と思っていたら、大ラスであのオチ(笑)。そういやジョーに「あなたの話なんて、何にも面白くないわ」とセリグマンに告げさせてましたっけ。あれは正しかったんだよ。ジェロームは小心者、黒人の兄ちゃんたちは間抜。Kはご大層なそぶりでしたが、もしかしたらEDかも?(笑)セリグマンも無駄に博識の俗物ときた。女性を描くと見せかけて、実は男性を描いていたのかも?
もしかして、これは今の監督の自分を表している気持ち?意味ありげに感動や好奇心を誘う作風で、インテリジェンスがあると持ち上げられているトリアーですが、自分でもうシャッポを脱いだんじゃないかなぁ。心機一転するため、ジョーに手伝って貰ったんじゃないかと思います。
なら当然次も観たいと思います!私の読みが当たっていますように。
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