ケイケイの映画日記
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2014年05月30日(金) 「ぼくたちの家族」




平凡な一家の主婦が、突然脳腫瘍で余命一週間と宣告された時、家族はどういう行動を取るか?と言う設定が、突拍子もなくではなく、とても説得力ある描写で綴られます。今まで蓋をしていた事実が、次々明るみに出る様子も、とても他人事とは思えません。ただの難病ものではなく、見終わって観れば、繊細さより骨太さの方が勝る作品です。これもたくさん泣きました。監督は石井裕也。

東京郊外に住む主婦の若菜玲子(原田美枝子)は、小さな会社を経営している夫克明(長塚京三)とふたり暮らし。長男浩介(妻夫木聡)は元引きこもりでしたが、現在はその状況から脱出して会社員となり結婚。妻みゆき(黒川芽以)は妊娠中です。次男の俊平(池松壮亮)は大学生で、既に自宅を出ています。玲子は最近物忘れが激しい上、言動もおかしな事ばかり。病院へ連れていくと、脳腫瘍の疑いが濃く、余命一週間と宣告されます。狼狽する家族。父の会社は多額の借金を背負い、家のローンも残っている。母は家計の苦しさから、カードで借金を重ねている事も発覚。玲子の入院費もままならない現状でした。

原田美枝子初登場シーンが絶品で。呆けたような表情、でこぼこの皮膚感など、いつもの原田美枝子より老けた印象です。そして構図が、とても小さく華奢に玲子を映している。玲子という女性の異変を、カメラは上手く伝えています。そしてこれはカメラさんなのかメイクさんの功績なのか?髪がペタンコで若干薄くなっている。これは中年期以降の女性の特徴です。こんなところから作りこんで行くんだと感心しました。

一般に玲子の症状では、認知症系の病気を疑うはずです。彼女ほどではなくても、最近私も加齢により物忘れが多く、一種ホラーめいて見えて、もうドキドキ。治療費の事、借金の事、お金にまつわる事で一発触発の男三人。狼狽え情緒不安定な父。俺が長男なんだからしっかりしなければと、ガチガチなのがわかる真面目で大人しい長男。へらへら危機感がないようで、冷めた次男など、三人三様です。今まで男性なら有りがちな見栄を張っていた父が、長男に入院費を頼むところなど、どんなに情けない気持ちだったろうと、同情してしまいました。

私の母もガンにかかった時、医療保険にも生命保険にも入っていない事がわかり、私も狼狽した経験があります。当時は私も若く、母は離婚して頼る夫もいないのに、何故いつまでも奥様気分なのかと激怒しましたが、この夫婦もお金のやりくりに困って、保険辞めたのでしょうね。今は怒って悪かったなと思っています。家計が苦しくても保険は辞めちゃダメと、教訓を残してくれましたし。

それと家族の誰かが入院すると、入院費以外に交通費だとかセカンドオピニオンだとか、仕事休まなきゃいけないとか、諸々治療費以外に、かなりのお金がかかる。主婦が入院するので、外食やコンビニばかりになる描写も、節約出来ずお金に直結します。そういう切羽詰まった感が、とてもリアルでした。

腫瘍のせいで、胸にしまっておいた不満や愚痴が口に出る玲子。この場面でまず号泣。彼女の思いは、多かれ少なかれ主婦なら持ち続けているもの。でも私が一番泣いたのは、「それでもお母さん、お父さんが好きだから別れたくないの」の言葉でした。そして幾度となく語られる家族への愛。病んだ彼女はまるで童女のように純真なのです。私はこの言葉の数々が、のちの夫や息子たちの奮闘を促したと思います。

このお父さんね、不甲斐なさばかり強調されていますが、普通に家族を愛してきた人だと思います。だから例え東京郊外で駅から離れていようが、無理して家を買ったんでしょう?これは見栄ではなく、家族を思ってだと思います。妻も本当にハワイに連れて行きたかったんですよ。この不甲斐なさは隠れていたものだったのではなく、老いだと思いました。男盛りの時なら何とかしたはず。莫大な借金を背負って、それでも自己破産しなかったのは、自宅のローンの掛け替え時の保証人に長男がなっているから。息子に自分の借金を背負わせたくなったからです。

恐る恐る母の入院費を妻に頼む長男に対して、子供にお金で迷惑かけるなんて、信じられないと言い切り、嫌味三昧の妻。自分は妊娠中を理由に、姑の見舞いにも行きません。妻の言い分は正に正論。でもね、この正論を全う出来る人って、世の中の何パーセントなんだろうか?人生には不慮の事不足の事がいっぱいで、そこで軌道修正しながら、頑張るもんじゃないのかな?欠陥だらけの両親ながら、そこで息子たちが確信したのは、借金ではなく、自分たちへの愛情でした。

最初の病院で匙を下げられ、自分たちで母を治療してくれる病院を求めて奔走する兄弟。私も息子三人なので、ここでもまた号泣。今日の占いでラッキカラーや数字のゲン担ぎをする次男。その通りに事が運ぶのを、私はご都合主義だと思わない。子供を育てている間に、何かに守られたと、不思議だったり有難い経験をした人は、私だけではないはずです。私がジーンとしたのは、鶴見辰吾の医師が、「若菜君、ここで何件目?僕にも君くらいの息子がいるんだよ」の言葉です。ありふれた言葉ですが、それが責任以上の医師としての感情を動かした理由なんですね。あの先生、「タクシー代あるか?」と聞いていたけど、無いと言えば貸したんでしょうね。

一見冷たいように見える次男ですが、彼がこのようになったのは、兄の引きこもりで、両親の思いが一心に長男に向いた時期があったからだろうと思います。それが軽薄さと冷静が共存するような、彼を作ったのですね。母が次男を話し相手にする様子は、きっと幼い頃からの習慣なのでしょう。慈しむように母の話し相手をする様子に、本来の彼があるのだと思いました。

この作品は原作者の早見和真の実体験が元だそうで、だからなのか、簡素ながら心に響くセリフがいっぱなのです。母が倒れた晩、自宅に泊まった兄弟ですが、きちんとパジャマを着て寝ていた弟に、「パジャマなんか着やがって!」と怒る長男の気持ち、わかるなぁ。俺は着の身着のままなのに、どうしてそんな悠長なのか!と言う気持ちでしょう。この家の諸悪の根源は、自分が引きこもりだったからだと思いつめる長男が、「お母さん、迷惑かけてごめんな」と振り絞るように言うと、母は「そうだっけ?忘れちゃった」と明るく笑う。そうなんです、うちの子供たちも親に迷惑をかけたと言うのですが、私はそんな記憶がない。多分その時は大変だったのだろうけど、今元気で働いている姿を見れば、そんな事はどうでもいい事なんです。出産の痛みと一緒かな?夫だと、こういう訳には行かないんだなぁ。だから「それでも好きなの」が、大事なんですね。

自分たちの知らない親の弱さを目の当たりにした兄弟たちは、今度は自分たちが親を守ろうとする。そしてそれぞれが分相応に成長していく様子に、またまた涙。長男の妻が、自分の家庭を守りながら親を助けようと奔走する自分の夫を、「かっこいい」と表現してくれました。必死で妻子や親を守ろうとする男性は、私も「かっこいい」と心底思います。捨てるよりずっとずっと。

許されるなら、姑の見舞いに行きたいと言う長男の妻。入院費を援助しながら、ここまで頭を垂れる姿は、ひとへに「かっこいい」長男のお陰です。よく息子が結婚したら、他人になると言うでしょう?息子しかいない私は、この言葉を聞くと寂しい限り。お嫁さんが他人で終わるのか、それとも家族の一員となってくれるのか、それは自分の息子次第なのだと、改めて感じ入りました。

出演者は総じて良かったです。特に四人のアンサンブル。家族として違和感がまったくなかったです。チョイ役の鶴見辰吾、板谷由夏、ユースケ・サンタマリア、市川日実子も、全て温かさがあったの良かった。

このお母さん、多分お嬢さん育ちなのでしょうね。キッチンにあった置き手紙の内容、笑ってしまう程浮世離れしている。でもだから、困窮しているのに、引きこもりの息子の傍に居たいからパートを辞めると言う、離れ業ができたのだと思います。お金で苦労させたく無いと言うのも、親心であるのも確か。何を見つめて何を信じるか、その選択は一様ではありません。子育てが終わった私にも、何がベストかわかりません。でも老いては子に従えは、真理なんだと思いました。まだまだ老いたくはないですが、不慮の時は、息子たちを頼ってみたいと思います。


2014年05月21日(水) 「チョコレートドーナツ」




もうわんわん泣きました。ゲイやダウン症児のみならず、様々な差別や偏見に対して想起させてくれる内容で、心温かく、そしてとても誠実な作品です。実話が元の作品で、監督はトラヴィス・ファイン。

1979年のアメリカ。シンガーを夢見ながら、今はゲイの人向きのショーパブでダンサーをしているルディ(アラン・カミング)。パブに初めて立ち寄った検察局のポール(ギャレット・ディラハント)と一目で惹かれ合います。ルディの隣に住む薬物中毒のシングルマザーの逮捕がきっかけで、彼女の息子でダウン症児のマルコ(アイザック・レイヴァ)の世話をするようになったルディ。自分が親代わりになりたくて奔走するルディのため、ポールは三人で暮らすことを提案します。法律にも則り、幸せな日々が続きますが、ゲイへの偏見から、国は彼らからマルコを引き離そうとします。

予告編でのロン毛に無精ひげのカミングからは想像できない、艶やかなダンサーぶりに、まず魅了されます。その時は何故口パク?と思いましたが、それも後から思えば、彼らゲイの人々が、偽りを強いられている象徴だったのですね。

ポールは結婚歴があり、今は独身。ゲイである事は隠しながら仕事に励み、いつか国を変えたくて法律の世界に入ったと言います。この中年男性同士の愛が、本当に麗しくて。だいたい男女の愛を描いても、中年以降は清潔感を感じさせるのは至難の業ですが、キスシーン、全裸でベッドで横たわるシーンにおいても、とても自然で二人の絆が感じられます。それは二人の根底に、自分たちだけではなく、マルコを幸せにしたいと言う、切なる気持ちがあるからだと思います。

二人の不適切な関係が明るみに出るや、ポールは失職し、マルコを二人から取り上げようとします。私が激怒したのは、薬物中毒の母親の方が、ゲイの彼らより養育に適していると描かれていた事です。そんなの有り?薬物は犯罪ですよ。ゲイはそれ以下という事?まるで人間じゃないような扱いに、今から35年以上前は、それが常識だったのですね。元職場の上司など、ポールを憎んでいるとしか思えない。その理由はゲイだからしか見つかりません。今でも無くならない差別が、この作品を生んだのでしょう。

裁判の時の答弁で、ポールが「チビでデブでダウン症のマルコを愛せるのは、僕たちだけだ」と言い切ります。それは差別や偏見の苦しみと哀しみを知る自分たちだからこそ、と言う意味です。「法に正義はないんだな」と呟くポールに、二人が雇った黒人弁護士は、「学校でそう習っただろう。そして『それでも闘うんだ』とな」。この台詞を聞いて、ハッとしました。

この作品が描きたかったのは、ゲイや知的障害だけではなく、人種差別・男女差別・階級差別など、あらゆる偏見や差別に対して、人は闘っていかねばいけないと言いたいのだと。黒人弁護士に言わせた事に、強い主張を感じました。

偏見や差別に関係ない人は、世の中にいるんだろうか?明らかな対象者だけではなく、学歴や年齢や既婚・未婚、子供がいるかいないか、病歴、そんな些細な事まで、世の中は人を偏見の目で見ているはず。差別や偏見の対象ではない人は、世の中にいないと言っていい。それを自覚すれば、自分以外の思考や思想を尊重するようになるんじゃないでしょうか。私は偏見の強い人は、自分の中の被差別対象を隠したい心理があるからだと、思います。

アラン・カミングはたくさん観ていますが、今回がベストアクトに思いました。とにかく母性溢れる様子の自然さに、同じ母親として共感しまくりです。授業参観の様子など、お母さんにしか見えなかったです。人としての心映えの美しさも、強い印象を残します。確か彼自身も同性婚をしていたはず。夫的役割のポールの、誠実感と人柄の良さを感じさせたディラハントにも、好感を持ちました。そしてマルコ役のアイザックは、本当のダウン症児だそう。ちゃんと、そしてきちんとお芝居していました。まずそれにびっくり。自分の可能性を決めちゃいけないんですね。教えて貰いました。

判事の一人は、フランシス・フィッシャー演じる女性でした。黒人弁護士から、尊敬を集めていると語られます。あの時代、女性判事として敬意を集めるには、人知れず苦労がたくさんあったでしょう。二人の気持ちを汲んだ、主文以外の文章が、二人の心を折れさせなかったのかも知れません。当時はそれが精一杯だったのかも。今ならハッピーエンドが好きなマルコを喜ばす結果が出ると思いたい。ラストに流れる高らかルディの熱唱に、希望を感じました。


2014年05月18日(日) 「ブルージャスミン」

本年度アカデミー賞主演女優賞(ケイト・ブランシェット)作品。コメディと紹介している記事がありますが、これ、どこを笑うんですか?イタイ女性の話だと思っていたら、痛々しい女性の話だったと言う。ジャスミンの滑稽さを笑うにも、長く女の人生を送っている私には切なくて無理。最近はライトなコメディが多いアレンしか知らないお若い方には、面食らうだろうシニカルな作品。女性は必見作。監督はウディ・アレン。

実業家だったハル(アレック・ボールドウィン)が詐欺容疑で逮捕され、セレブ生活から転落したジャスミン(ケイト・ブランシェット)。ニューヨークから里子同士の妹で、シングルマザーのジンジャー(サリー・ホーキンス)を頼って、サンフランシスコの質素なジンジャーのアパートまでやってきます。自立を模索する彼女は、ジンジャーの恋人チリ(ボビー・カナヴェイル)の紹介で歯科の受付の仕事をしながら、パソコンの訓練に励む毎日。そんな時パーティーで出会った外交官のドワイト(ピーター・サースガード)と恋仲になり、またセレブの世界へカムバックする事を夢見るジャスミンですが。

無一文どころか莫大な借金さえ背負っていると言うのに、シャネルの服にヴィトンのバッグ、ファーストクラスの飛行機と、まだ現実がわかっていないジャスミンの現在と、我が世の春を謳歌していた過去の彼女の回想が交互に映し出し、その回想シーンで段々と、お話の確信に近づいて行きます。

まずは服装。仕立ての上等そうな趣味の良い上品なファッションのジャスミンに対して、年齢不相応に肌を露出し、頭の悪さ全開の品のないファッションを好むジンジャー。ジンジャーの周辺のロークラスの人々に、あからさまな侮蔑感を持つジャスミンに対して、ジンジャーはこの転落で神経を病んだジャスミンに、自分が必要だと思っている。里親は愛情の注ぎ方で彼女たちを差別したのに、今尚ジンジャーの中に、ジャスミンに対する憧れと親愛が残っているのがわかります。

ジャスミンは同じような下層階級の男ばかりを選ぶジンジャーに対し、「もっと自尊心を持ちなさい」と言う。なら彼女は自尊心を持っているのか?職場の歯科医に言い寄られても、屈辱だと跳ね返しますが、それは歯科医を見下げているからだと思いました。確かにあの歯科医はセクハラまがいだったけど、彼女的には自分に見合う相手ではなかったと言うところ。

自立を目指していたはずが、社交界に復帰できそうなドワイトとの出会いで、あっけなく方向転換。彼女の言う自尊心は、虚栄心じゃないのかなぁ。ジャスミンはドワイトについた嘘を、脚色だと言う。それは自分の背景にあるもので、自分自身の中身は本物だからと。でもそれは違うと言うのは、本当は彼女が一番わかっているから、嘘をつくのですね。

ジャスミンは持ち前の華やかさと美貌、巧みな会話で優れた社交術の持ち主です。でもそれは誰かの妻である以外、存在価値が希薄なのですね。傍らに男性がいてこそ引き立つ女性なのです。反面学歴もなく、仕事のスキルもなく、慈悲深く他者を思いやる母性があるわけでもなく。そう言う自分自身には蓋をして、見て見ぬふりをしていたのだと思います。ちょうどハルが詐欺で富豪になったのを、見て見ぬふりをしていたように。

それなりに自分自身を知っていたから、夫の浮気にデーンと構えてはいられず、心が掻き乱されるのでしょう。彼女も二度目の妻であるから。美貌の衰えに怯えても、美しく年輪を重ねる術は知ろうとはしないジャスミン。やはり見て見ぬふりです。現在のシーンで情緒不安定な彼女が、安定剤や鎮痛剤、アルコールを飲む場面がいっぱい出てきますが、その時のジャスミンの目元は、必ずマスカラやアイラインで滲んでいます。

回想場面で、ハルの浮気を友人から知らされた時の彼女の目元も、アイラインが滲んでいて、はっとしました。セレブからの転落で神経を病んでいたのではなく、夫の浮気が原因で、既に心が荒んでいたのですね。そして全ての不幸は、彼女自身が招いていた事なのです。この浅はかさは、恐怖が招いた事なのです。それをまた露呈したのが、ドワイトについたすぐバレそうな嘘。

でも私はこの浅はかさを、とても笑えない。実の親を知らず大学を中退してまでハルと結婚したのは、必死で幸せになりたかったからのはず。妻の内面の未成熟さを、ハルもまた見て見ぬふりをしているうちに、浮気に激昂する、神経を病んだ妻を持て余すようになっていたのでしょう。いくら高価な装飾品をプレゼントしても、それでは妻を愛しているとは、言えないわ。ジャスミンの結婚生活は全てが虚飾だったのですね。有り余るほどのお金は、人を沈黙させてしまうのでしょう

細い体に似合わぬ、女としてのドスコイ人生を歩むジンジャー。ジャスミンの影響で、ちょい無理目の男にシフトしようとしますが、結局玉砕。首尾よく元サヤに収まる姿は狡猾ですが、手玉の取り方の見事さに、外見ほど軽くないんだと、ここはクスクス。でも天晴れですよ、相手も心底幸せにしているのですから。

エレガントでゴージャスな様子と、狂気じみた表情とを巧みに演じ分けたケイトは、圧巻の演技でした。脚本通りなのか、一度も知性を感じさせなかったところもお見事。サリー・ホーキンスは私はあんまり記憶にないのですが、こちらも本当に上手い。ケイト相手に一歩も引けを取らないお芝居です。オスカー候補になったそうですが、やっぱり私的にはルビタじゃないと思うけどなぁ。

天晴れだけど、私はジンジャーも幸せだとは思わない。そこには本当の男女の愛も、息子たちへの思いも見えてこないから。身の丈に合った幸せって何なんでしょうね。ジャスミンは夜に咲き誇る花だそう。早くジャネット(本当のジャスミンの名前)に戻りなさいと、太陽の下をラストシーンに選んだんじゃないかなぁ。多分違うけどね。そう思いたいです。色んな教訓を感じる作品でした。


2014年05月12日(月) 「プリズナーズ」




子供が神隠しにあったように消えてしまった時、親はどうするか?子供にまつわるアメリカ特有の事情や、根底にキリスト教の信仰心を問う作りになっているので、些かこちらでは解りづらいですが、熱のこもったミステリーです。所々釈然としない部分もありますが、この手の猟奇的な味付けの作品には珍しく、後味の良い作品で、あまりツッコミはしたくありません。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。

工務店を営むケラー(ヒュー・ジャックマン)は、妻グレイス(マリア・ベロ)と息子と娘アナの四人暮らし。感謝祭の日、近所の友人フランクリン(テレンス・ハワード)とナンシー(ヴィオラ・デイビス)の一家と共に過ごす事に。しかしアナとフランクリンの娘の二人が忽然と姿を消します。警察の捜査で、浮かび上がったのが、知的障害の青年アレックス(ポール・ダノ)。辣腕の刑事ロキ(ジェイク・ギレンホール)が捜査に当たりますが、アレックスは証拠不十分で釈放されます。

アナは六歳。少しの距離を歩くのも、ケラーは親か兄かと一緒でないと許しません。神経質なくらいです。うろ覚えなのですが、アメリカでは数多くの子供たちが、毎年神隠しにあったように消えていると言う記事を読んだ事があります。社会問題となっているそう。ケラーの注意は、その事を警戒しているのだと思いました。

アナたちが歌う歌をアレックスが口ずさんでいるのを聞いたケラーは、彼が犯人だと確信。何と今は廃屋と成り果てた自分の実家に拉致し、拷問します。この様子が凄惨で。ちょっとした猟奇もんでした。もちろん特殊メイクなんですが、ダノの顔なんて、ちょっと観ていられないくらいの腫れようです。

ケラーは一見独善的ですが、決して支配者ではなく、妻子の敬意を集め、家族からの抜群の求心力たるや、日本じゃ今や絶滅種の父親。家族は夫が父が、必ず自分たちを守ってくれると信じており、ケラーもまた、それに応えるのが自分の役目だと思っている。この思いが何としても自分が娘を探し出す=アレックスの拉致・拷問に繋がるわけですね。

フランクリンに手伝わせるも、あくまで汚れ仕事の拷問はケラー。ナンシーも拉致を知るところとなりますが、この時のナンシーの反応が怖い。自分の手を汚さず全てケラーのせいにして、娘の居所だけ知ろうとします。アレックスと一緒に地獄に落ちても、娘だけは救い出したいケラーの方が、余程人間らしさがあります。

両家とも元は善良な人々です。犯人の目的は、厚い信仰心を持っているはずの人々が、最愛の子供がいなくなれば、どうなるか?信仰心など吹っ飛ばされるはずだという目論見。俗に神も仏もあるものか、と言う言い回しがありますが、犯人もその事を体験しています。これは元々は自分たちも信仰厚かった犯人の、神への挑戦なのですね。

ミイラ化した死体、20年前行方不明になった子供、謎の迷路。あちこち張り巡らされた伏線が、次々きちんと拾われて行きます。私はミイラの謎は早い段階でわかったのですが、目くらましの人物が現れ、混沌としてきます。ミステリーとしては、秀逸な脚本だと思いました。

一方描き方の方は、アレックスが10歳程度の知能しかないと言いながら、大型の車を乗りこなすのは少し疑問だし、ロキが一人で行動し過ぎるのも謎。ラストの見せ場も、救急車や応援を呼ぶべきだと感じ、個人的には盛り上がりに欠けました。

出演者はダントツでジェイクが素敵!背景は少年院上がりだと語らせるだけですが、辣腕なだけではなく、感情の起伏や人間臭い人情とカン、冷静に事件を見つめる眼差しなど、渋くなる一歩手前の大人っぽさが漂います。狂言回し的に事件を解決して行く役なのですが、今回は主役のジャックマンを食う勢いで、まるで彼が主役みたいでした。ジェイクを初めて見たのは、まだ子供だった「シティ・スリッカーズ」だったもんで、いつまで経っても若造的に思っていましたが、もう30半ばなんですねぇ。素敵な大人の男性になったもんです。

ダノも色んな作品で様々なキャラを演じてくれる人ですが、今回ほど気の毒に思った役はない(笑)。でも彼のキャリアには、今後燦然と輝く役柄だと思います。ジャックマンは、今回演技的には普通かな?でも好漢のイメージが定着しつつある彼が挑んだ新境地としては、評価に値すると思います。ハワードの小心な善人ぶり、ベロの一心に子を案じ夫を心底信頼する妻ぶり、優しさが豹変する過程で、人の心の恐ろしさを的確に表していたデイビスも良かったです。

アレックスの叔母役でメリッサ・レオ。今回おばさんを通り越しお婆ちゃんのような容姿です。これも物語の攪乱の一つだったのかと、今思っています。

「彼は善い人よ」と、ケラーの妻グレイスは言います。恐ろしい一面を見せたナンシーとて、本来は良き妻・母であるはず。ケラーが盲目的・狂信的に家族を守ろうとする姿は、実の父が自殺していた事が起因しているのだと思います。自殺もまた、キリスト教では大罪です。神に見放された人生を送りたくないと、懸命に家族を守ろうとしたであろうケラー。人間は多面性があるもの。罪を犯しても子供を一心に探す姿は、愛なのか執着なのか?信仰心を持っても、いつも善き心で生きる事は難しいのだと痛感します。このまま罰を受け、ケラーは地獄に落ちるのか?と思っていた時に聞こえたもの。罪深さは子への愛だと、神は赦してくれたのかも知れません。そう思えるラストが、罪深き人々も、いつかは必ず救われる日が来るのだと、示唆しているように感じ、救われました。







2014年05月11日(日)

あ行(2014 7月〜)

あぁ、荒野(前後編)
アイアムアヒーロー
愛がなんだ
愛のまなざしを
青いカフタンの仕立て屋
茜色に焼かれる
アクアマン
悪女
悪党に粛清を
悪なき殺人
朝が来る
明日の食卓
アシュラ
アトミック・ブロンド
アスファルト
アナザーラウンド
あの日のように抱きしめて
アデライン 100年目の恋
アバウト・タイム

アメリカン・スナイパー
怪しい彼女
あやしい彼女
アリー/スター誕生
アリスのままで
ある男
ある少年の告白
ある天文学者の恋文
あん

怒り
イコライザー
イコライザー THE FAINAL 
一度も撃ってません
IT/それが見えたら終わり
犬どろぼう完全計画
犬も食わねどチャーリーは笑う
イニシェリン島の精霊
居眠り磐音
いのちのコール ミセス・インガを知っていますか?
イミテーション・ゲーム
イン・ザ・ヒーロー

ウーマン・トーキング 私たちの選択
ウエストサイド・ストーリー
嘘八百
唄う六人の女
海にかかる霧

AIR/エアー
永遠の門 ゴッホの見た未来
エクス・マキナ
エゴイスト
X エックス
エブリシング・エブリウェア・アール・アット・ワンス
エリカ38
エルヴィス

オールユー・ニード・イズ・キル
幼な子われらに生まれ
お嬢さん
黄金のアデーレ 名画の帰還
オデッセイ(MX4D)
オフィシャル・シークレット
オマールの壁
オリエント急行殺人事件


2014年05月10日(土) さ行(2014〜)

さ行(2014〜)

ジャージー・ボーイズ
ショート・ターム


2014年05月06日(火) 「世界の果ての通学路」




ホントにホントに感激した作品。日本じゃ考えられない時間をかけて通学する、四カ国の子供たちが登場するドキュメント。長いだけじゃなくて、危険もいっぱいの通学路を、学ぶため一路邁進する子供達。感動して、びゃーびゃー泣きました。監督はパスカル・プリッソン。

ケニアの山岳。11歳のジャクソンは妹サロメを連れて、象やキリンの群れをかいくぐり、片道二時間の道を走り抜けます。アルゼンチンのアンデス山脈の麓、11歳のカルロスは、妹のミカを連れ、馬に乗りパタゴニアの平原を片道一時間、学校までひた走ります。モロッコの辺境。12歳の少女ザヒラは、友人のジネブやノウラと共に、月曜日の朝四時間かけて学校に通い、金曜日の夕方、また三人で家に戻ります。インドの漁村。足に障害のある13歳のサミュエルは、ボロの手作り車椅子生活。二人の弟がそれを引っ張り、賑やかに一時間15分の道のりを歩きます。

四組とも、その道のりの過酷な事。とにかく舗装したアスファルトなんてないの。文字通り山あり谷あり川あり獣あり。とにかく険しい道程です。どの家の親も、子供たちが無事学校まで辿り着けるよう、神に祈ります。祈らずにはいられない状況が、目の前で繰り広げられます。

突発的なアクシデントが各々にあり。ジャクソンは像の動向を冷静に観察し、カルロスは動かぬ馬を不審に思い、ザヒラたちはノウラが足を痛め、サミュエルたちは近道で車椅子が水没し、果てはタイヤが外れます。それをね、幼いこの子たちが知恵を絞り、次々難関を突破する逞しさが映されます。

ザヒラたちなど、解決策はヒッチハイクですよ。こんな可愛いローティーンの子たち、都会じゃ悪い大人の毒牙にかかること必死で、観ている私はもう心配で。しかしモロッコの田舎では、この子たちは単なる「子供」で、足でまといだと誰も相手にしてくれない。所変われば事情はだいぶ違うようで。

日本じゃお稽古事も送り迎えが普通ですが、親たちはみんながみんな、貧しい中必死の思いで子供たちを学校に行かせているので、送り迎えなんて悠長な事をする暇がない。そこで兄弟に託すのですね。三組とも当然のようにそれを引き受けます。その余りの自然な様子に、兄弟の事で他の子に迷惑をかけちゃいけないと思う親心は、必要ないのだと思い知ります。

ザヒラは数少ない女子生徒。多分パイオニアに近い存在なのでしょう。「しっかり勉強しなさい。お前は奨学金をもらっているのだ」と言い聞かせる父。日本も今では高校が無償の地方もあり、税金で学校に通っている事を、もっと子供に言い聞かせてもいいのだと痛感します。

家庭にいる時は、皆が皆、率先して親の手伝いをする。勉強できる事に感謝するよう教えても、手伝いはいいから勉強しろなんて言う親は、一人もいない。そして子供たちは、底抜けに明るい。もう眩しすぎて感動して涙が出る。日本も昔はこうだったんでしょう。これは子供たちが悪いの?いえいえ、そうじゃない。悪いのは大人です。

子供たちが学校に到着すると、安心して、どっと疲れました。そう、学校は子供にとって、安全地帯なのです。先進国とここが根本的に違うのでしょう。ケニアではその日当番のジャクソンが、国旗を掲揚しましたが、それは「この子達は国の宝」と、表しているように感じました。

最後に四人のインタビューが出てきます。まだ年端の行かぬ子供が、それぞれが自分の背負っているものを、しっかり自覚している事に心底感激。一生懸命勉強して自立して、パイロットになると言うジャクソン。それは家族のためにもなる事だと目を輝かせます。短絡的に働いて賃金を得るのではなく、自分の夢を叶えて、親への感謝も示せる事が目標なのです。立派な自尊心ではありませんか。彼の父は神のご加護と、勉強できる事への感謝を感じろと言ったのみ。それでも正しく親の愛を受け取っている事に、衝撃に近いものを感じました。それほど学校へ行くと言う行為は、希望に満ちたものなのです。学校とは本来そうあるべきものなのだと、改めて感じ入りました。

サミュエルの素直な吐露にも涙。「僕は障害者で、本当なら学校には行かせて貰えない。同じ年の女の子は、健常者で成績もよく、お金持ちだった。それでも学校を辞めさせられた。僕は学校に通えることに感謝している。将来は医者になりたい」。この言葉に涙しない人はいないでしょう。僻地に住む女子たちが学校へ通えるよう活動しているザヒラ。放牧を生業とする家業に役立つため、獣医になりたいカルロスなど、自分だけの事を考えている子は皆無です。
彼らの思う「立派な大人」とは、社会のため、家庭のために、役立つ大人なのです。

日本の子供達と全然違う。希望のない学校、社会にしてしまったのは、私たち大人なのだと、巡り巡って思い当たると、猛然と恥ずかしくなりました。この作品は、女性、貧困、僻地、障害など、あらゆる差別と戦いながら学ぶ子供を映しています。それは社会の差別に通じるものでもあります。平等に皆が教育を受けられる日本ですが、その平等が向学心を奪ってしまうという皮肉を感じました。

「お母ちゃんはどうでもええねん。あんたは自分の幸せだけを考えて」。これは私の母が私に言い続けた言葉です。一見自己犠牲をはらむ親心を込めた言葉に感じますが、自分の事だけを考える子供に育ったら、その子育ては間違いだったのだと、私は思います。ジャクソンが言うように、自分も周囲も幸せになる方法が、必ずあるはずだから。

劇場は子供の日と言う事もあってか、小学校高学年くらいのお子さんを連れ立っての鑑賞も多かったです。学校に通う子供達とその父兄、学校の先生に是非是非ご覧いただきたいです。心が洗われる作品。世の中の全ての子供たちに、神のご加護と祝福を願わずにはいられない作品です。




2014年05月05日(月) 「おとなの恋には嘘がある」




バツイチ中年男女のラブコメ。男女の事情は万国共通なのよねぇと、クスクス笑いながら痛感する作品。主演のジュリア・ルイス=ドレイファスと、ジェームズ・ガンドルフィーニは、奇しくも私と同じ年。そのせいかバツなし街道32年の私にも、胸にストンと収まるお話で、大いに楽しみました。監督はニコール・ホロフセナー。

出張ボディセラピストのエヴァ(ジュリア・ルイス=ドレイファス)は、離婚後一人娘のエレンと暮らしていて、もうじき大学入学のエレンは家を出て、独り暮らしが始まる予定。あるパーティーで詩人のマリアンヌ(キャサリン・キーナー)と意気投合。さっそくマリアンヌはエヴァの顧客となります。一方エヴァは、そのパーティーで知り合ったアルバート(ジェームズ・ガンドルフィーニ)からアプローチを受け、デートを重ねて恋人同士に。しかし容姿から趣味から完璧なマリアンヌが、人生で唯一失敗した結婚相手は、何とアルバートらしいと判明したから、さあ大変!

酸いも甘いも噛み分けた中年男女の恋の始まりの様子の、気さくさと初々しさのブレンド具合が非常によろしい。なぜ離婚したか?子供はどうしているか?元の連れ合いとのセックスは?等々、赤裸々に語り合うも、初回のデートでは次に含みを残しながらもキスはなし。これが駆け引きではなく、軽はずみな行動はしたくないと言う大人の嗜みなのですね。二人の誠実さを表しています。

でも二回目のデートでベッドインすんの(笑)。これもね、中年だから仕方ないですよ。だって時間がないもの。少々ぎこちないながらも、二人が新たな自分のステージにときめいている感じが伝わってくるので、ふしだら感はありません。その後の様子も年甲斐もなくラブラブでイチャイチャではなく、長年連れ添った夫婦のように自然です。真面目なお付き合いなんだなと、二人共にすっかり情が移ってしまう私。

エヴァは仕事柄か、俗に言う「感じのいい人」です。絶えない笑顔に、さりげなくその人の長所を見つけて褒めるのも上手い。誰とでも程よい距離感で付き合える人です。しかしこれってね、悪く言えば八方美人なわけ。そして人の意見に左右され主体性がない。でもこれもね、理解できますよ。一度失敗しているので、次は失敗したくないし、そもそも離婚したことで、自分の男を見る目に自信がないのでしょう。この面倒臭さも中年の恋ならでは。情熱にかまけて、猪突猛進で良かった若い頃とは違います。

そうとは知らぬマリアンヌから、アルバートの悪口を聞かされ続け、感化されまくりのエヴァ。でも事実を知るまでは「良かった」セックスも、ダメに感じるのは如何なものか?マリアンヌが嫌いな部分も、自分にとっては好きな部分かも?ですよね。

と、段々イライラしながら見ていたら、娘のエレンの父親と再婚相手が登場します。それまでこき下ろしていた元夫。再婚家庭が上手く行っているのは、現嫁も変だからだって(笑)。しかし元夫は紳士的な人で、今の妻も常識的な人でした。数々の会話から、夫婦や男女は相性に尽きるんだなぁと、今更ながら実感出来る演出です。

大人の恋愛事情と並行して、進学を通して親離れ子離れが描かれますが、これも小ワザの演出にリアリティがいっぱい。中年の恋には、子供の存在は欠かせないもんですからね。「昨日は何食べた?」と聞いて娘に煙たがられるエヴァですが、これは私も聞きますよ。ちゃんと御飯食べたのか心配だもの。一食くらい抜いても死にゃしないんですが、母親の本能ですかね?うちの息子たちはちゃんと答えてくれるので、なんて優しいのかしらと、ちょっと嬉しかったり(親バカです)。本筋ではクスクスニヤニヤしていた私ですが、エヴァが空港で娘エレンの旅立ちを見送るシーンでは、もう滂沱の涙。一緒に見送った元夫が、「良い子に育ってくれた」と語りますが、それはエヴァに対する最大の労いだと思いました。

エレン、アルバートの娘テス、エレンの親友クロエなど、三人三様に親の庇護から脱却したい、いやいやまだママやパパの子でいたいの、くるくる変わる思春期の子の真っ当な感情も、愛情たっぷりに描けています。

ジュリアはこの作品で初めて観ましたが、キャリアは長いそうで、自然な中年女性の雰囲気が好感が持てます。演技が明るのも良かった。ガンドルフィーニは、よく見かける人ですが、主演は初めて観ました。確かに肥満気味ですが、男性にとって押し出しが効くのは大きなチャームポイント。ちょっと鈍感で大味な感じも、大らかさに通じて、とても素敵です。しかしながら彼は昨年亡くなってしまい、これが遺作となっています。この作品の成功で、きっとオファーもたくさんきたでしょうに、本当に残念です。

さぁ二人の恋はどうなるのでしょう?傷つき戸惑い胸が張り裂けるのは、若い時と同じ。男女は縁と相性だけど、その縁は自分で必死で手繰り寄せたっていいじゃない。面倒くさくたって煩わしくたって、喜びも哀しみも分かち合う人がいる人生は良いものだ、と私は思います。人生下り坂でも、恋をしましょうと言うお話。但し真面目な恋愛に限るって事ですね。


2014年05月01日(木) 「友だちと歩こう」




私の大好きな「いつか読書する日」の、監督・緒方明、脚本・青木研二コンビの作品。「ある過去の行方」の時間を見に、梅田のシネ・リーブルのサイトに飛んで、偶然見つけました。ホームページのプロダクションノートを拝読して、監督の意気に感じて(何と自主映画なんだって!)興行収入に貢献すべく足を運びました。本当はとても厳しい現実を、ユーモアと懐の深さで包み込んだ作品。観て良かった!

四話のオムニパス形式で、ただご近所をぐるぐる回るだけなのに、大冒険活劇を見せられた気がするのですね。主人公は足の悪い老人富男(上田耕一)。富男は団地で一人暮らしの老人。同じ団地に住む友人国雄(高橋長英)と、連れ立って煙草を買いに行くのが日課です。歩くのが遅い二人は、道を這う虫からも抜かれる始末。そこへモラトリアム風な二人組トガシ(斎藤陽一郎)とモウリ(松尾諭)のエピソードが加わります。

日常に転がっている平凡なエピソードを、クスクス笑える仕立てにしていて、ほのぼの癒し系老人モノなのかと思っていたら、段々と人生の厳しさが顔を覗かせる構図です。

最初は「クニちゃん」「トミちゃん」と呼び合うので、二人は昔からの馴染みだと思っていました。それくらい息の合ったコンビぶりなのですが、実はお互い家も訪問した事もなく、若い頃の生業も知らない。老いて偶々出会い、足が悪いという共通項から、「友だち」になったのだとわかります。

富男は元大工、国雄は畳職人。年金は多分額の少ない国民年金。毎日ひと箱ずつタバコを買いに行く二人。あんなに足が悪けりゃ、ヘルパーさんに頼めばいいと思うでしょ?介護保険は一人で自活できない人向けのもので、この二人のように、自分で歩けてご飯を食べられて、何とか頑張って自立している老人は、要支援程度ではないかと思います。そしてヘルパーさんに頼むのも、お金が要るんですよ。二人が吸っている煙草の銘柄は、安い新生とわかば。この辺から、経済的に厳しいのがわかります。毎日ひと箱だけと言うのは、日課として、お互い言わずもがなで安否確認しているのと、生活のリズム付をしているのだと思いました。

この二人が絶品で。哀愁と加齢臭をまき散らしながらも、愛嬌たっぷり。富男は怒ってもいい場面、絶望してもいい場面でも、取りあえず何でも受け止める。そしてタバコ。まぁ一服してから考えようよ、と言うゆったりズムは、老いだけではなく、富雄の人生が様々な苦労を乗り越えてきたであろうと想像させます。人生は四面楚歌ではないと、生きてきた道程で知っているのでしょう。少々ボケてきた国雄を励ましながら傾斜を登る様子は、ちょっとしたスペクタクルです。笑ったけど(笑)。「そこのみにて光輝く」では、貧困の象徴のようだったタバコが、ここでは老人たちの生き甲斐として、描かれます。

冒頭、どうでもいいような音の話に興じるトガシとモウリ。モウリの理屈はよくわからなかったんですが、彼の過去を目の当たりにして、おぼろげながら、何が言いたいか、わかった気が。彼は感傷的に過去に対面しようとしたのに対して、元妻は自分を死んだ事にして、違う男の子を産む、今また別の男(それも冴えない)と同居中。もうガシガシ大地を踏みしめている(笑)。しかりモウリは幻想が打ち砕かれたかもですが、「死んだ」事は、「なかった」事とは、全然意味が違う。だからモウリには「死んで」貰わないと困るのよ!と言うのです。現実を生きる為に、幻想を作ったんですね。負の思い出のあばら家に何故元妻が住み続けるのか?彼女もまた、苦い想い出から逃げきれないのだと思いました。

四人が交差するカフェの店員(林摩耶)が、可愛いのに男前な性格でカッコイイ。トガシとモウリがコーヒー一杯で粘るのには無言で一撃くらわすけど、タバコを買う途中で休憩する富男には、いつもお水だけで休憩させてあげます。その富男が国雄と連れ立って、「今日はコーヒー二つ。年金が出たから奢るよ」という言葉に、じわっと胸に暖かい感情が湧きました。

そうよ、年金が出たんだもん、ちょっと贅沢してもいいよね。積極的でもなく絶望でもなく、一生懸命でもなく。でも与えられた範囲で楽しみを見つけて、友だちも見つけて。あるがままで、少し心豊かに生きている。そして取りあえず微笑み。別に孤独から友人を探していたわけじゃなかったはずの富男と国雄。それが老いて仲良くなったのは、同じ境遇だけではなく、あの素敵な微笑みに秘密があったのかも?友だちは若い時だけじゃなく、いつでも出来るもんなんだね。

トガシに送ったモウリのテープの波の音。「お前に迎えに来て欲しいんじゃないのか?}と言う富男。私もそう思う。だってモウリが言ってたもん、音は耳に聞こえなくても存在するって。もしかしたら、トガシの「友情」を試したかったのかも?

自殺未遂女性が、富男の言葉に返したのも微笑みでした。どんな雄弁にも勝りますよね。他にも楽しく面白いエピソードが、ユーモアいっぱいに描かれます。ご近所には、こんなに愛と冒険が転がっているんなら、さっそく私もお散歩しなきゃ。その時は、友だちと歩こう(笑)。


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