ケイケイの映画日記
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2014年04月27日(日) |
「そこのみにて光輝く」 |
佐藤泰志の原作は、24年前に書かれていたものです。それを知らなかったので、前半は今の介護や医療とは隔たりがあり過ぎ、乗れませんでした。しかし後半、主人公の達夫の苦悩の理由が明かされる頃から、一気に登場人物の感情が動き出し、前半を挽回して余りある見応えでした。監督は呉美保。
仕事中の事故がきっかけで仕事を辞めた達夫(綾野剛)。空虚な毎日を送っています。ある日パチンコ屋で人懐こい青年拓児(菅田将暉)と知り合い、友人となります。拓児の家はバラックのボロ屋で、脳梗塞で寝たきりとなった父(田村泰二郎)、父を介護する母(伊佐山ひろ子)、姉の千夏(池脇千鶴)の四人暮らし。拓児は刑務所を仮出所中で、一家の生活は千夏の肩にかかっていました。千夏に惹かれ始める達夫でしたが、ある日千夏が、水産加工のパートの他に、体を売っている事を知ってしまいます。
舞台となっている函館ですが、海の近くでしたが、町もあり、無医村のような僻地には感じませんでした。そんな場所で社会資源を一切借りず、体を売ってまで寝たきりの人を看ている事に、まず疑問が生じました。父が介護保険を使える65歳以下だとしても、この病状なら、身体の方で障害者手帳が申請可能と思います。認められれば、詳しくは長くなるのではぶきますが、医療費はまず大幅に減り、介護保険が使えるようになり、身体介護の負担も大幅に減るはず。
ここは訳ありの弟は置いていおこう。自堕落そうな母ですが、これでまずパートは出来るはず。千夏は合わなくて一ヶ月で事務職を辞めたと言っていますが、週三回のパートも辞めて、普通に水商売を生業としたら、体まで売る必要はないんじゃないの?24年前は、この設定を無学・無知の哀れとして描いて納得出来たのでしょうけど、正直私は哀れではなく、きつくて申し訳ないですが、バカに見えました。
あの家、あの母では、経済的にも情操的にも恵まれぬ姉弟だったでしょう。しかし、親を捨てきれぬ情の為に、私は現代の女性に体を売って欲しくはないです。少しでも外で働いていたりテレビを見たりすれば、どこかに救いの道のヒントがあるはず。行政に掛け合うのが敷居が高ければ、まず医療機関に診療費が安くなる方法はないかと尋ねて欲しい。千夏に持って欲しいのは、そういう気概でした。この辺は脚本を納得できるように変更して欲しかったです。
せっかく底辺の絶望が詩的に胸に迫ってくるのに、チーちゃんが相変わらず上手いのに、これはヒロインの造形で、多分ダメだわと思っていたら、後半達夫の元上司松本(火野正平)登場くらいから、絶望から無偽な日々を送る人たちの感情が、動き出して、俄然私の心も動き出します。そして底辺から抜けだのが、如何に困難かも描かれます。
達夫の苦悩は、多分そうだろうなぁと想像通り。綾野剛が観る者をイラつかせぬ絶妙な塩梅で達夫の孤独を表現してくれたので、何故彼が千夏に惹かれたのか納得できます。「だから私みたいな女」と言った千夏に、違うと言う達夫。千夏は、達夫の苦悩に相応しい汚れた女である自分と感じたのでしょうが、達夫はお互いの傷を知り、舐め合うのではなく、支えられる相手として、千夏を選んだのでしょう。そこに隠し事、嘘がないからです。「その人のお墓参りに行きましょう」と千夏の言葉に、慟哭する達夫。彼が待っていたのは、叱咤激励したり慰めたりする人ではなく、寄り添ってくれる人だったのでしょう。
姉が売春したり、勤め先の社長(高橋和也)の愛人をいやいや続けているのは経済的な為なのに、ヘラヘラ自分の立場がわかっていない拓児。多分幼い頃から劣悪な環境だったでしょう、この子には正常な人としての屈託や葛藤を抱えるという思考が、多分育たなかったんですね。経済的などん底は、人間の療育にも影響するんだと、やるせない思いに。それが達夫といっしょに仕事をする事になり、「これからは、俺と達夫でみんなを養ってやっから!」と言う台詞に、思わず息を呑みました。初めての家族を思いやる言葉に、そう思わせたのは、千夏を思う達夫の愛だったんじゃないかと思いました。
拓児が祭りへ寄り道した時、行っちゃダメ!と思いました。人には危険を回避しようとする知恵がありますが、拓児にはそれがない。事件を起こしますが、この感情の爆発は理解出来るだけに、とても哀しい。とにかく菅田将暉の「底辺」の青年っぷりが、上手くって。無知の哀れを一番感じるのは、彼でした。
底辺の描き方も上手い。酒・タバコ・パチンコの場面がたくさん出てきます。これらは小銭でも出来る嗜好やギャンブルです。お手軽な快楽しか手が出せないのです。私は全部やりません。それは少しでも貯金して、映画を観たり旅行したり、そちらに回す希望があるから。この三つは人生の希望のなさを表現する道具だと思いました。
池脇千鶴は「ジョセと虎と魚たち」でも思い切りよく脱いでいましたが、あれから10年以上、またまた思い切りよく脱いでます。肉付きもよくなって、チーちゃん30代だもんなぁと、変に感慨深い気分に。この気風の良さは、ヨーロッパの女優さんみたいです。絶望から愛が芽生えて、そこからくるくる変わる女心も、しっとりと演じています。
綾野剛や菅田将暉は上記の通り。懐深さは、過去に色々あったのだろうと想起させる火野正平は存在感抜群で、芸歴の長さを感じさせます。粗暴な愛人高橋和也は、下衆な中に牡の哀しみを的確に表現するなんて、ちょっと感激です。伊佐山ひろ子も、どうしようもない母親です感いっぱいで、だから拓児に涙する場面が引き立つのだと思います。
いくらでもまた絶望に戻りそうな状況を、そうさせなかったラスト。「そこのみにて光輝く」だけだった人達は、きっとそこ以外でも輝いてくれるのではないか?私は殺風景な達夫の部屋で、行儀悪くカップラーメンをすする千夏の姿が好きです。嫌いな人と食べる豪勢なディナーより、愛する人と食べるカップラーメンは、さぞ美味しかったはず。愛を知る、このシンプルな事が、人生を変えてくれると教えてくれる作品。
今年のアカデミー賞で、「また」メリル・ストリープが主演女優賞候補となった作品。(ジュリア・ロバーツは助演女優賞候補)。メリルが上手いのは誰もが承知の事。でももう、いい加減にノミニーはいいじゃんと思っていたあなた!(←含む私)。本作を観れば、ひぇ〜、申し訳ございません!と、メリルに土下座して謝りたくなる作品。彼女以外も名のある俳優が大挙出演し、皆が皆感動する程上手いのです。お蔭で私の育った複雑な家庭環境と容易に重ねられ、わんわん泣きました。監督はジョン・ウェルズ。元は舞台劇です。
8月の暑いオクラホマ。父親ベバリー(サム・シェパード)が失踪したと、次女のアイビー(ジュリアンヌ・ニコルソン)から電話を貰った長女バーバラ(ジュリア・ロバーツ)は、夫ビル(ユアン・マクレガー)と娘ジーン(アビゲイル・ブレスリン)と伴い、久々に実家に戻ります。待っていたのは毒舌家で、家族中を傷つけていた母バイオレット(メリル・ストリープ)。早々に喧嘩が始まる中、父が溺死したと連絡が入ります。急の知らせに婚約者(ダーモット・マルロニー)を伴って三女カレン(ジュリエット・ルイス)も駆けつけます。バイオレット妹のマティ・フェイ(マーゴ・マーティンデイル)とその夫チャールズ(クリス・クーパー)、従兄弟のリトル・チャールズ(ベネディクト・カンバーバッチ)と、葬儀のため家族一同が久々に顔を揃えます。
冒頭、病み衰えてしわくちゃの姿で現れるメリルにびっくり。知的で物静か、老いまで味方につけた夫シェパードを相手に、猛々しくビッチに毒づく妻。何が凄いって、「醜い」のです。容姿だけではなく、心が荒み醜く朽ち果てた老齢女性の痛々しさに、まず圧倒されます。
長女は夫と別居中で娘は反抗期。次女は秘密の恋をしていて、三女は男出入りが激しく、今回の婚約者も怪しげ。叔母のマティ・フェイも、秘密(それも爆弾)を抱えています。夫の独白で「夫はアル中、妻は薬中」と出てきますが、何故この夫婦がそうなったのか、壮大な家族の諍いの中に、少しずつ小見出しに母に背景を語らせ、観客に紐解かせるように描かれています。
バイオレットは癌を患っていますが、それ以前から安定剤や睡眠薬・鎮痛剤など、薬を飲んでいたのではないかと思います。心臓までえぐるような言葉を娘たちに発したかと思うと、今度は老いや病など、己の弱さを全面に出し、哀れな母親を装う姿は、私の実母そっくりです。「ママ、ごめんなさい」と謝るバーバラ。親に泣かれたら、子供としては謝るしかないのです。
バーバラは生真面目で潔癖。自分に厳しく他人に厳しく。物凄くわかる。そうやって自分を律していかないと、常に嵐に航海しているような家庭で、溺れてしまうとわかっているから。私の父は四度の結婚離婚を繰り返し、バツイチだった実母は三回目の妻でした。6人兄妹のうち、私と両親とも同じなのは、すぐ下の妹だけ。浮気を繰り返す父、元がエキセントリックで情緒も不安定だった母とは、この映画なんか序の口の諍いが絶えませんでした。
兄二人を連れての再々婚だった父は、そのお礼かどうかは知りませんが、母の実家の経済的な面倒をみて、叔母三人は父が嫁入りをさせます。なのにいつもいつも自分の主張ばかりし、自分の実家でも夫の威を借り君臨する私の母。度が過ぎて、実家とも絶縁状態に。大きな秘密を知りながら、「私は自分が優位に立つ方を選び口をつぐんだ」とは、この作品のバイオレットの台詞ですが、なんて賢いのかしらと感動すらしてしまったわ。私の母とは大違い。きっと小見出しに「私は知っているのよ」と、ちらつかせていたはずです。
アル中で浮気を繰り返す夫に憎悪さえ感じているようなバイオレットが、何故離婚しなかったか?思い出の共有かと思いました。貧しかった生い立ち、子供に全てを捧げて育てた事(注:私の母も口癖だった。当たり前の事を偉そうに言うんじゃない)。何百回と(多分)繰り返す、話をうんざりしながら聞く娘たち。彼女の中では、やはり人生のパートナーは、ベバリーしかいなかったのでしょう。
当たり前の事をさも自分が偉かったように言われたり、自分に関係のない事を引き合いに出され、自分に近しい人の罵詈雑言(それも私には関係なし)を聞かされて。本当に辛いんですよ、聞かされる方は。バイオレットも私の母も、それは子供を服従させる事で、愛されることではないと、わからなかったのでしょう。
たった一度だけ、バイオレットが娘たちに初めて語ったであろう自分の母親の底意地の悪さ。私は母に愛されなかったから、子供を愛する術を知らないと。私の母も同じでした。父ベバリーもそう。何年間も狭い車で暮らした子供の頃の年月が、彼の人生に色濃く反映しているのだと思います。追いかけてくるその辛さからの逃避が、アルコールだったのだと思います。幼い頃両親に死なれ、親戚をたらい回しにされた私の父が重なります。人がそのような姿になったのか?そこには必ず理由があるものです。
心が満身創痍になり、とにかく逃げ出したかった実家。しかし少しのズレにも不寛容な自分に、バーバラは母を見たことでしょう。早くにその事に気づいた私は救われました。何故か?それは私が結婚して数年で、母が亡くなったからです。
私は幸いにも実家近くに住み、まだ若かった母のわがままにも付き合い、ガンの看病もし。二人姉妹だったので、バーバラのような感情を持ちながら、それを押し殺し、アイビーのように接していました。とある病気になったと告白するアイビー。何故バイオレットに言わなかったのか?とバーバラに問われ、「キズモノだと罵られるから」との返答には涙が出ました。姉の代わりに懸命に父母を支えてきたはずなのに、どんなにたくさんの言葉で、傷ついて来たことでしょう。うちの母親も絶対そう言ったわ。カレンの「私はママを愛しているわ」は本心です。三番目なので、ダイレクトに母の「毒」に当たってこなかったのでしょう。それなのに母より自分を優先させる様子は、三番目の特権です。
とんでもない事を仕出かした婚約者を庇うカレン。「人は完璧ではないの。誰でも過ちはある。姉さんのように白黒つけられる事ばかりじゃないわ」の言葉は、普通に聞けばとても寛容です。でもそれは、孤独を恐る心が言わせた言葉で、寛容さではないのです。罰せられるべき事も許してきたであろうカレン。自尊心のなさが男運のなさを招いているのです。彼女も両親から毒を受けているのですね。
叔母役のマーゴを含め、女性陣が100%役柄を観客に伝えるのに対し、男性陣が影が薄いかと言うと、さにあらず。ここに物凄く感心しました。シェパードは登場シーンが少ないのに、知性の中に物憂げな屈託を抱える様子は、母の語る若き頃の魅力の片鱗を感じさせます。大人しく地味な善人チャールズを演じるクーパーは、妻の尻に敷かれているように見えて、実は誰にも負けない夫としての器の大きさを持った人。素晴らしい!息子を演じるカンバーバッチは、いつものカッコ良さはどこへやらですが、負け犬青年の繊細な誠実さを演じて、印象に残ります。
そしてメイドのジョナを演じるミスティ・アッパム。傷つけあう家族を、ひとりひとり救い出す様子は、ネイティブアメリカンの差別を受けながらも、彼女が如何に愛に満ちた家庭に育ったかを、感じさせました。
私の母が亡くなったのは55歳。今から24年前です。生きていれば80前になる母は、どんなお婆さんになっているだろうかと思うこともあった私ですが、この作品を見て、心底母が早く亡くなったのは、子供孝行してくれたんだと、実感しました。
そして韓国に住む87歳の父は、すこぶる壮健。先日帰国していました。今は昔々に捨てたお妾さんに、手厚く世話をしてもらい、その人との間に出来た異母妹は、日本に帰国すると言うと、お小遣いをくれ、二人から一日でも長く生きてと言われているとか。「昔ほかされたのに、そんなに尽くしてくれる人、いてないで。感謝しいや」と私が言うと、「帰ったらお前にそない言われたと伝えるわ」と笑う父。あの嵐のような日々から、穏やかな父の笑顔や、「迷惑かけて悪いな」「ありがとう」等の言葉が聞けるとは、夢にも思いませんでした。六人の父の子供で、今も父と親子関係を継続しているのは、私とその子だけ。そして父親の子で、大人になるまで実の両親と暮らしたのは、私だけです。
仕事で祖父に会えなかった長男から謝りの電話がありました。「お祖父ちゃん、息子(腹違いの兄)には何千万もお金渡したのに、ほったらかしにされて、こんなに世話しているお母さんや韓国の妹は、何にもしてもらってないねんで。」と愚痴ると、「まぁええやんか。お母さんは人の道を全うしてるんやし、代わりにええ事が待っているで」。全くその通り。そうでございます。縁は切れても血は切れない。という事は、縁も切れないのよ。早くに亡くなった母も長生きしている父も、それだけで私に教えてくれる事がいっぱいです。願わくば三姉妹も母を赦し、本当の寛容さを知って欲しいと思います。それが彼女たちが幸せになる近道だから。
2014年04月11日(金) |
「アデル、ブルーは熱い色」 |
昨年度カンヌのパルムドール受賞作品。カンヌ受賞作は個人的に相性が悪いのですが、これは久しぶりに狂おしくて胸が締め付けられる恋愛で、堪能しました。監督はアブデラティシュ・ケシシュ。今回ネタバレです。
高校生のアデル(アデル・エグザルコプロス)は、上級生の恋人がいるものの、周囲とは違和感のある毎日を送っています。ある日恋人とのデートに駆けつけるアデルは、ブルーのショートカットの女性に一瞬で心惹かれます。別の日、戯れてに訪れたバーで、その女性・美大生のエマ(レア・セドゥ)と再会したアデル。幾度の逢瀬を重ねた二人は、やがて身も心も結ばれた恋人同士になります。
モキュメンタリー風なフランスの高校生の日常を描きます。その様子がすごく自然で興味深いです。これが日本から考えると、随分大人なのですね。教材に古典の恋愛小説が出て来て、主人公の恋心を紐解くわけ。さすがおフランスと感心。一目惚れに行動を起こさなかったら、どういう気持ちになるか?と言う先生の問いに、「後悔する」と答えるシーンがあって、それがアデルとエマの最初のすれ違いに被りました。
同級生女子の戯れのキスに、はっきりと自分の愛の嗜好を悟ったアデル。愛の国フランスですもの、同性愛には寛容かと思いきや、これが仲の良い友人たちから猛烈なバッシングを受けます。この辺は日本に住む者の思い込みなんですね。しかし日本じゃ陰口くらいで、こんなに壮大にはやらないな。
二人のデート場面は大変美しい。少しずつ二人が距離を縮めて行く様子には、こちらまでときめいてしまいます。デートだけじゃなく、この作品の特質すべきところは、劣情を催す狂おしさではなく、身も心も醜態までも晒しながら、それでも美しいと思わす事。とにかくピュアなのです。
二人はお互いの両親に相手を紹介します。アーティステックで開放的なエマの両親は、アデルを娘の恋人として歓迎しますが、保守的なアデルの両親もエマを歓待してくれますが、あくまで友人として紹介。さりげなく自分を偽って紹介するエマ。大人の対応ですが、何も罪を犯しているわけでもないのに、自分を「隠す」と言うのは本当に辛いことです。それをごく自然にやってのけるエマに、それまでの辛さが忍ばれました。
話題の二人の長回しのセックスシーンは、私には少々長過ぎで食傷しました。あれで快感が得られるのだろうか?と言う疑問のポージングもあり、お友達から聞いた話によると、女優さん達からは、文句も出たそう。あまり官能的とは思えまえせんでした。ただ体当たりで演じた二人は、賞賛に値する熱演だったと思います(だって7分間のために、10日間もかけたんですって!)
やがてエマは画家として名が売れ始め、アデルは念願だった教師の職につき同棲生活を始める二人。芸術家やインテリばかりのエマの友人たちに、気後れして居心地の悪さを感じるアデル。そんな恋人の寂しさを思いやるどころか、アデルにも自分だけの才能を発揮しろとハッパをかけるエマ。教師と言う立派な職業に付いているのに、アデルには責められているように感じたでしょうね。また自由なエマの周囲は、彼女がレズである事を理解していますが、保守的な仕事に付いているアデルは、同僚に隠しています。アデルの両親には、上手に対応したエマなのに、アデルの辛さには頭が回りません。
「キッズ・オールライト」でもそうでしたが、不思議な事に女性同士のカップルでも、夫と妻のような役割が出来るのです。優秀な方は夫のように振る舞い、凡庸な方は妻として「夫」に尽くす。大人数の料理を一人でホームパーティーで作り、片付けものも一人でするアデル。彼女も職についていて、明日は仕事があるのに。この辺で段々無神経なエマに腹が立ってくる私。多分どっぷり主婦として女として、アデルに感情移入していたのでしょう。この辺りは、ファンタジックではない現実的な問題も浮き彫りにしています。
寂しさからアデルはどうしたか?これもジュリアン・ムーアと同じ。しかし相手が男性だと言うのは、私は最低限の相手への礼節だと思ったのですが、これは違うのかしら?事がわかり、売女とアデルを罵るエマ。取り付く島もありません。号泣して謝るアデル。深々とアデルの寂しさが伝わってきたので、許して上げて欲しいと思いましたが、願いかなわず、二人は別離へ。このシーンは本当に辛くて哀しくて。二人共本当に相手を愛しているのに。エマの泣き叫ぶ様子は、ずっと凛々しくカッコ良かった彼女が、唯一女性らしい悋気を爆発させる様子がみっともなく、しかしそのみっともなさに共感して、またこちらも泣けてきます。
私が一番官能的だと感じたのは、三年後のカフェでの再会のシーン。捨て身で復縁を迫るアデルに心惹かれるも、現在のパートナーに悪いと、断るエマ。キスや抱擁だけで情念を表現する濃密なシーンに、ため息が出ます。これと並ぶシーンは、ちょっと思い当たらないなぁ。
アデル・エグザルコロブスは今回始めて観ましたが、撮影当時まだ19歳。ヌードシーンもたくさん、おまけに恋人は女性という難しい役ですが、とにかく自然で素晴らしい演技。恥じらいの乙女心から燃え盛る女の情念まで、余すところなく私に届けてくれ、すっかりファンに。ふっくらした頬が愛らしい彼女ですが、次に会うときは、大人の顔になっているかも。いつもは女子力満点のレアも、まるで宝塚の男役のようなカッコ良さで、こちらにも心酔しました。とにかく二人の頑張りに拍手を送りたいです。
これほどときめき、切なくて、あぁ良い恋愛映画を観たと満足しきれるのですから、愛にヘテロもゲイもないのだと痛感します。最初は三時間と言う上映時間に怯みましたが、問題ありませんでした。是非この大恋愛映画と格闘して、心地よく疲れて下さい。
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