ケイケイの映画日記
目次過去未来


2014年03月30日(日) 「白ゆき姫殺人事件」




原作が湊かなえなので、どんなに意地悪い内容だろうか?と期待しながら見に行きました(笑)。私のように映画をたくさん観ている人間には、特に目新しい題材ではなかったですが、ミステリー仕立てでtwitterを上手に題材に取り入れ、氾濫するネットやマスメディアに対して、リテラシーを育てる重要さを感じさせる仕上がりになっており、面白く観ました。監督は中村義洋。

化粧品会社美人OLの三木典子(奈々緒)が、殺された上丸焦げにされた遺体で見つかります。ちょうどその頃、ワイドショーのしがないディレクター赤星(綾野剛)の元に、典子と同僚の友人の里沙子(蓮佛美沙子)から、事件についての電話が入ります。容疑者として、やはり同僚の城野美姫(井上真央)が疑われていると言うのです。赤星はさっそく取材に取り掛かり、匿名の容疑者として、連日美姫の私生活から過去までが暴かれます。果たして美姫は、本当に犯人なのか?

赤星が里沙子との携帯での会話を、そのまま実況中継の如くtwitterに垂れ流す様子は、もうそれだけで「ダメじゃん、こいつ」感満載(笑)。裏付けのない情報が、ネットに飛び交っているのを暗喩しています。

地味で面白みのない女性として同僚から語られる美姫。ストーカーのように付きまとわれたと証言する上司(金子ノブアキ)。如何に彼女が純粋な女性かを訴える大学時代の親友みのり(谷村美月)。変わり者であったかのように証言する中学時代の同級生たち。各々モザイクをかけた証言者の様子も映します。そして出来上がったのは、不気味な女性として美姫が浮かび上がるように、番組に演出され編集されたテープです。

それを端的に現したのが、両親のようす(ダンカン、秋野暢子)。必死で涙ながらに娘を庇う母の様子はカットで、土下座して謝る父親の様子のみ挿入。もちろん、全てそうではないでしょうが、連日私たちが目にするテレビの報道には、往々にしてこういう事もあると、肝に命じる必要ありです。

証拠は状況だけで、一切警察の報道はなし。なのに連日ワイドショーでは匿名で、ネットでは実名や写真を晒され、犯人として叩かれまくる美姫。自分には関係のない人まで、まるで魔女狩です。この様子は本当に怖い。私もこうやってネットに生息する人間の一人ですが、この日記から私が誰か、探そうと思えばきっとすぐなのでしょう。注意を払って書いているつもりですが、どこかで見知らぬ人が、私の感想を不快に思い同じような行動を起こしたら?あぁ怖っ!

様々な人たちが同じ場面を語るのですが、そこには必ず自分の主観が交じると言う描写が上手い。そして記憶の曖昧さと捏造。典子の「そんな事言ってくれるのは、〇〇ちゃんだけよ」の言葉が二度出てきますが、二人の女性が自分だけに向けて言った、と描写されて、これは上手いなぁと感心。

記憶と言うのは実に曖昧で、昔感動した作品を再見した時、感動したセリフは一言だけで、後は自分が付け足した記憶で愕然とする時があります。酷い時なんか、場面すら違う(笑)。これなら私だけの問題で済みますが、仕事や他人が絡むと実に面倒です。記録の大切さも痛感します。

井上真央は、証言により様々な顔を演じ分けており、微妙な箇所も繊細に演じ分け、意外と演技派だと感心しました。菜々緒は演じているのを始めて観ましたが、これが拾い物。テレビの時は綺麗な子だなぁだけでしたが、性格の良い美人OLだけのはずないじゃん、この子が〜、感を、最初から絶妙に漂わせているのです。女性は美人に生まれるのが絶対得だけど、それだけでは人生全てを謳歌するのは無理ですよって、教訓も感じるのは、美人へのやっかみかしら?(笑)。

始末のつけ方はちょっと強引な気がしますが、まぁいいでしょう。伏線は既出済でしたから。立場の逆転で、マスコミやネットからの攻撃も一変する様子も盛り込んでいます。至近な例では、世間の小保方晴子氏の扱いに苦々しく思っていたので、描写のバカっぽさに、少し溜飲が下がりました。

今では生まれた時からネットが存在する人もいるでしょうね。ニュースソースはネットやマスコミ、人からの伝聞、それだけでは事実を語るのは不十分だと感じたら、それだけでも意義のある作品。ある人の灯す灯りが、自分の目で観て感じる事の大切さを表現していて、暖かい気持ちになりました。


2014年03月21日(金) 「それでも夜は明ける」




本年度アカデミー賞作品賞受賞作。掛け値なしで秀作です。でも何だか私には、逃げたなぁ感が残る作品でした。監督はスティーブ・マクィーン。この作品も実話が元です。

1841年ニューヨークで暮らす音楽家のソロモン(キウェテル・イジョホー)は、自由黒人として妻子と幸せに暮らしていました。ところがサーカスでの二週間の興行を終えた時、興行主に騙され拉致されて、南部の奴隷市場に売られてしまいます。何度彼が自分は自由黒人だと訴えても無駄だと悟るのに、時間はかかりませんでした。

恥ずかしながら当時のアメリカで、これ程黒人に対しての扱いが違うとは、知りませんでした。ニューヨークでは親しい間柄の白人もいて、現代とほとんど変わりません。一転ニューオリンズでは、奴隷と言うより家畜扱い。アメリカは州により法律が違いますが、こんなところでアメリカの広大さを思い知るとは。

ソロモンの雇い主は温厚なフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)と、非情なエップス(マイケル・ファスベンダー)。一見奴隷達に優しいフォードですが、教養があり仕事が出来るソロモンが、奴隷の見張り役のデイビッツ(ポール・ダノ)に目をつけられると、面倒な事になったと、さっさと借金のかたにエップスに売り飛ばします。この卑小さ。そして中途半端な温情は、差別と対峙するとき、返って仇となるのだと言う教訓を残します。

作品の中で一番印象深かったのは、エップス。猛烈な敵役ながら、自分の価値観を信じて疑わず、女性として心惹かれる奴隷のパッツィ(ルビタ・ニョンゴ)を虐待することを「娯楽」と言い、愛するのではなく、支配する事で自分の気持ちを収めています。ファスベンダーの好演と相まって、世にはびこる差別主義者の心のうちの一端を見た思いです。

ソロモンは当初こそ反抗していましたが、売られてからは、じっと我慢の日々。彼には知性も理性もあるので、如何に状況が四面楚歌かと言うのがわかります。罰と称して奴隷達が鞭打たれる場面は凄惨で、残虐映画の趣すらあります。実際にあった事だと思うと正視に耐えませんが、観なければいけないのでしょうね。

作りも端正で格調高く、娯楽性もほどほどに取り入れて、出演者の演技も上々。でもイマイチ私の胸は熱くなりません。頭で秀作だと理解しても心が震えない。それはソロモンが解放される鍵を握る白人バスを、ブラット・ピットが演じたからです。

彼はこの作品のプロデューサも兼ね、作品賞受賞は長年ハリウッドに貢献しながら、受賞からは見放されていた彼に取っては、喜びもひとしおだと思います。その事に何ら異議はないのですが、何故アメリカ人の彼が「良い白人」のカナダ人を演じるのか?この役得感が、疑問なのです。振り返れば監督・主演ともに黒人ですが、二人共イギリス人。オスカー受賞のニョンゴはケニア人。農場主を演じるカンバーバッチもファスベンダーもイギリスとドイツ人。主要キャストとスタッフは、ほとんど外国人で、ネイティブのアメリカ人が「外国人」の役。首を傾げませんか?

この作品は奴隷制度をテーマに、差別を無くしたい作品なはず。こういう作品が繰り返し作られるのは意義がある事で、温故知新の精神も正しいものです。しかし人種差別が悪なのは、周知の事。なのに無くならない現実があるわけです。

この作品をKKK団に属するような人が観て改心するのか?現在貧困の底で苦しんでいる黒人が観て、明日への勇気が貰えるのか?答えはNOだと思います。辛辣な表現で申し訳ないですが、この作品を観て感動するのは、黒人白人とも、差別から遠いと、自分で思っている人なんじゃないかと思います。

こんなにしっかり作りこんでいるのに、どこか教科書通り。実話だと言うのに、何故かフィクションのように感じてしまうのです。ブラピが演じるなら、エップスだと思いました。年は取りましたが、アメリカ人でハリウッド型美男子の彼が冷酷非情なエップスを演じれば、観客の恐怖や怒りは、ファスベンダー以上だったと思います。ブラピは良い役者だもの。

作り手の思い入れに、熱さや「入魂」と言う言葉が想起出来なかったのは、私だけかもわかりません。でも現在自分が感じている本心なので、書いておきます。この題材で私が一番感銘を受けたのは、アラン・パーカーの「ミシッシピ・バーニング」です。舞台の町の黒人たちもこの作品の奴隷たちのように、四面楚歌の毎日。それを救ったのは、ジーン・ハックマンやウィレム・デフォーのFBIの外部の頑張りだけではなく、猛烈な差別主義者を夫に持った、フランシス・マクドーマンドの勇気だったと思います。差別を無くすのは、外部からや被差別者の頑張りだけではなく、差別する側の内部からの勇気が必要条件だと、私は思います。

私がこの作品で一番感動したのは、再会した妻子に、「長年放ってしまい、済まなかった」です。誘拐され奴隷に売られ、心身を蹂躙される生活を送りながら、自分は夫・父親であるという事を、彼は忘れなかった事です。そのお蔭で自暴自棄にならずにすんだ。知性や誠実さは、自分の身を守ってくれるという事なのですね。


2014年03月20日(木) 「あなたを抱きしめる日まで」




50年前に別れた息子を探し当てる、王道の母ものだと思って、大判のハンカチを握りしめて劇場に向かいました(多分大泣きするはずだから)。しかし展開は意外な方向へ。人身売買や宗教にも深く言及し、世話物と言うより、母の愛でくるまれた、立派な社会派ドラマでした。監督はスティーブン・フリアーズ。実在の女性フィロミナ・リーの出来事を書いた、ジャーナリストのマーティン・シックススミスの著書が原作です。

50年前、未婚で息子アンソニーを生んだ主婦フィロミナ(ジュディ・デンチ)。50年間隠し続けていた事実を、やっとの思いで娘に打ち明けます。若きフィロミナは修道院に入れられ、そこでアンソニーを出産。修道院には同じ境遇の娘たちがたくさんおり、彼女たちは、ただ働き同然で重労働を課せられていました。アンソニーが3歳の時、修道院はアンソニーを養子に出してしまったのです。母の意を汲んだ娘は、パーティーで知り合ったジャーナリスト、マーティン(スティーブ・クーガン、脚本も)に、アンソニー探しを懇願する。折しもマーティンは、あらぬ疑いをかけられ、BBCをクビになったばかり。このネタを記事にする事に起死回生を賭けて、アンソニー探しを承諾します。

てっきりマグダレン修道院だと思っていたら、別の修道院でした。「マグダレンの祈り」よりはましに見えるものの、実際は50歩100歩だったでしょうね。こんな修道院が他にもたくさんあったのでしょうか?神の名の元、罪を犯したとされた娘たちは、過酷な労働に耐え、一日に一時間だけ子供たちに会えるを生き甲斐にしています。走って我が子に会いに行く若い母たちの様子に、はや私の涙腺は決壊。子供を抱きしめキスする様子、アンソニーが里親に連れ去られるシーンなど、もう大号泣でした。

しかしその後、デンチ登場からはフリアーズの「泣かせ」の演出は抑制的です。今思えば、壮絶な苦しみを受け止め、乗り越えてきた50年のフィロミナの歳月を表していたのでしょう。

フィロミナとマーティンの道行の様子がユーモラス。庶民的で下世話、敬虔なカトリック信者のおばちゃんのフィロミナに対し、マーティンは中産階級のインテリ記者で無神論者。老齢のフィロミナに対して表面的には敬意は表するものの、常に上から目線で、下賎な者と見下しています。しかし嫌味な感じはなく、天真爛漫なフィロミナに対し、手を焼くマーティンと言う図式が楽しいです。

アンソニーはアメリカに養子に出されているのですが、当時赤ちゃんたちが売られていた事。その事実を修道院は伏せていました。「マグダレンの祈り」の時もそうでしたが、神の名を語り蛮行を働く「神の使い」=「人間」に、怒りが湧きます。

マーティンの所在は意外に早くわかるのですが、それ以降がミステリー調に真実に向かって歩みだします。この真実を探る道中でフィロミナとマーティンの間柄は、近づいたりすれ違ったり。彼女に手を焼いてしたはずのマーティンが、やがて自分の母のように彼女を心配し、最後には親しみを込めて敬愛する様子は、ひとえにフィロミナの息子を思う気持ちが、そうさせたのです。この辺はとても素直に納得させてくれる作りです。

お話は当時の共和党政権の問題点、宗教観にも深く言及。一度罪を犯したフィロミナは、永遠に赦されないのか?キリスト教の七つの大罪とは、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。どんな宗教にも教義はありますが、私が個人的に思うには、その幹は一緒なのに、人により枝葉を違って見ているのではないか?という事。人により解釈が異なるように思うのです。シスターヒルデガートは、女として快楽を知り、母となる喜びを知った多くの若い女性たちを指導する時、そこに嫉妬はなかったのか?それを自分に都合よく解釈して、真実の自分の心に向かう事はなかったのでしょう。

対するフィロミナは、赦すと言います。釈然としないマーティンに、「怒るより赦す人生の方が良い」と言い切ります。辛い時苦しい時、彼女はいつも「赦す」と言う選択をしてきのでしょう。何故赦せるのか?それは神を信じていたから。生きるよすがだったのでしょう。自分に与えられたものとして、受け止めてきたのだと思います。知識の薄い、下層階級の老婦人であるフィロミナの強靭な心に、これが宗教の真髄なのかと、感じ入りました。

対するマーティンは「自分は赦せない」と言います。ちなみに私も同意見。それでもフィロミナの意見を尊重するマーティンに成長させたのは、神でも宗教でもなく、彼女の母性だったと思います。

オスカーは逃しましたが、やっぱりデンチはすごい。今回はクセのない本当に善良な普通のおばちゃんです。普通の人ほど、演じるのは難しいはずなのに、本当にチャーミングです。可愛いだけではない、母の子を思う愛情の深さと強さは、何よりも尊い。私もそうでなければと、改めて心に誓いました。クーガンは皮肉屋のインテリからの変遷を、スマートに演じていて素敵でした。小さなマリア像の扱いと、ラストの「その小説の筋を教えて」の車の中の会話のお茶目さが、壮大に流れそうになる感覚を、身近な等身大の物語として引き戻し、観客の人生とリンクさせてくれます。

私が一番感じたのは、息子三人を成人するまで我が手で育てられた、その平凡な事に、心から感謝した事です。社会派の側面や宗教の教義まで上手に折込ながら、でも世の中で最強なのは母の愛だよと、胸を張りたくなる作品です。


2014年03月18日(火) 「ネブラスカ」




大好きなアレクサンダー・ペインの作品。ペインの作品で共通しているのは、おっとりとしたユーモアの中に、情感豊かに人生の哀歓を描いている事です。この作品も父と息子の珍道中と見せながら、身近な家族や親戚のしがらみを描きながら、老い様子や、家族の姿、お金に振り回される人の本能なども浮き上がらせて、やはり唸らせてくれます。大好きな作品。

高齢の老人ウディ(ブルース・ダーン)は、最近まだらボケ症状が発し、家族は認知症を疑っています。最近は古いタイプの詐欺だと言っているのに、100万ドルのクジが当たったので、遠方のネブラスカまで、受け取りに行くと譲りません。次男のデイビッド(ウィル・フォーテ)は、母ケイト(ジューン・スキップ)が止めるのも聞かず、父が納得するまで付き合う気で、ネブラスカへ出発します。

この作品はモノクロです。最初から違和感なかったのは、ダーンの登場シーンから始まったからでしょう。この作品は様々な描き方で、老いを描いています。感心したのは、男女の老いの違いもしっかり描いている事。男はボーっと無口になり、女は毒舌家で気が強くなる。そして地味を通り越した薄汚い様子。映画ではクリストファー・プラマーやマックス・フォン・シドーなど、今なお端正な魅力に溢れる美老人が出てきますが、実際はこの作品のダーンのように、白くなった鼻毛が伸び放題、ハゲで白髪のヘアスタイルにも無頓着な人が多いもの。それをそのままカラーで映せば、感受性が呼応する前に、老醜の部分だけが突出してしまうのではないでしょうか?老いの哀しみをユーモアに見せようとしたのは、監督の高齢者への敬意じゃないでしょうか?

デイビッドが良い息子で、もう泣けて泣けて。大酒飲みで家庭を顧みなかっ父のため、母は美容院を開き家庭を支えていました。そのツケが回ってきたかのように、今じゃガミガミ妻から言われっぱなしの父。そして母は超がつく毒舌家。優秀な兄は常に母の味方で、次男の自分は父をかばっているつもりなのに、当の父親は気が弱く優しいデイビッドに、「そんなだから、お前はいつも兄貴に負けるんだ」と言う始末。全くもぉ。でもこれは、有りがちな家庭の風景です。デイビッドがこんなに孝行息子なのは、しっかりと親から愛情を受けて育った証のように感じます。

デイビッドは最近同棲を解消したばかり。結婚を口に出さない彼に、女性が業を煮やしたようです。これは両親の夫婦関係、自身の人としての自信のなさが、結婚を躊躇させたように感じました。

旅の中、デイビッドは親孝行しているつもりが、途中で親戚縁者と出会ううちに、図らずも自分の知らない両親の姿を知ることになります。親子は一番近い血縁です。お互い何でも知っていると思いがちですが、濃密に過ごすのは、実は僅かな時間だけ。親から聞く昔の話には、主観・美化に、少しの捏造もあるはず。人の記憶とは曖昧なものです。

知りたくなかった話、聞けて良かった話。それを取捨選択して、デイヴィッドは何を思ったか?両親の味方をし、親のプライドを尊重し守ったのでした。あちこちに散りばめられた何気ない演出で、笑いと涙が心から溢れそうになりました。私が特に好きだったシーンは、兄弟二人で父を愚弄した昔馴染み(ステイシー・キーチ)に仕返しする場面。いい年の大人が嬉々として、まるで子供のようなのです。人が子供に戻れるのは、育った親の元だと言うことでしょうか?その後の脱力感満点のユーモアも楽しいです。

他に私が好きだったシーンは、妹から昔の借金を返してくれと言われた時、妻のケイトが「お釣りが来るほど返した」と、きっぱり言い返したシーン。妻を守るのが夫なら、夫を守るのも妻。それが自分の親族であれです。妻も夫も、いつまで経っても自分の実家を優先する人がいますが、このシーンには溜飲が下がりました。いつも父に毒づいている母しか知らない息子たちの、意外そうな、でも嬉しそうな顔のショットも良かったです。

父は何故家族に猛反対されても、100万ドルに拘ったのか?私には意外な真意ではありませんでしたけど、紹介ではちょっと伏せてますね。ちなみにこの映画をかいつまんで夫に話して、どうしてだと思う?と聞くと、一発で当てました。これも親の業みたいなもんかな?特に父親には。

当たってもいないクジに、他人までが狂乱する様子も、人の本能的な欲を浮き彫りにして秀逸。老いた父に最後に花を持たせたのは、お金ではなく息子の父への愛情だったと言う落としどころは、押し付けがましさは全くないのに、素直に家族とはいいもんだと、しみじみと泣けてきました。

オスカー取れなかったけど、ダーンのまだらボケ演技は最高にチャーミング。時々昔の頑固親父に戻るタイミングも絶妙で、大いに楽しませて貰いました。ジューン・スキップの肝っ玉母さんぶりも最高です。彼女もオスカー逃しましたが、私はニョンゴよりスキップの方が断然良かったです。スキップはどこかで観たなぁと思ってましたが、ペインの「アバウト・シュミット」で、夫に先立ち、夫役のニコルソンを大層悲しました人です。あのニコルソンが妻を懐かしむあまり、妻の使っていたコールドクリームを顔に塗りたくり「妻に会いたい・・・」と泣かせた人ですもの、若い時町中の男が、ブルマの中を狙ったのも当然ですって(笑)。フォーテはこの作品で初めて観ましたが、そのせいか役柄のデイビッドと同化して観てしまい、とても好感が持てました。

気弱で優しい好青年デイビッドは、散々迷惑かけられたのに、「僕も父さんと旅して楽しかったよ」と言いました。今更親に社交辞令を言っても仕方なし、彼の本心だと思います。親を見つめる事は、自分を見つめ直す事でもあります。彼がこの旅で得たのは、多分勇気と愛情の本質を知った事。家に戻って、元カノにプロポーズすると、期待したいです。

豪華さは微塵もなく、出演者から演出まで地味なのに、この心豊かさは何なのだろう?と言うくらい、素敵な作品。邦画でもこういう作品を期待したいな。ペイン監督、万歳!


2014年03月13日(木) 「ラブレース」




1972年に制作されたアメリカの伝説的ポルノ映画「ディープ・スロート」に主演した、リンダ・ラブレースの伝記。知っている事も知らない事もあり、興味深く観ました。作りの詰めが甘く、人物の掘り下げや疑問のある描き方もありましたが、主演のアマンダ・セイフライドの熱演を始め、役者さんたちが脚本の脈絡以上の演技をしてくれたと感じたので、私には好印象の作品です。当時の風俗やファッション、音楽も懐かしく思い出しました。監督はロブ・エブスタン。

1970年のアメリカ。敬虔なカトリック信者の両親(父ロバート・パトリック、母シャロン・ストーン)の元に生まれたリンダ(アマンダ・セイフライド)。躾の厳しい母親に息の詰まる毎日を送っています。そんな時出会ったバー経営者のチャック(ピーター・サースガード)と恋に落ちます。親の許しを得て同棲・結婚する二人。しかしチャックのバーの経営は思わしくなく、お金のため、リンダはポルノ映画に出演する事になります。

この作品の日本公開は1975年。私は当時中学生で、「スクリーン」誌をこよなく愛読しておりまして、この作品も話題沸騰でした。アンダーグラウンドのポルノが、遠い日本の中学生にまで轟いていたのですから、当時のアメリカの騒ぎ方は尋常ならざるもので、大人の男性のみならず、女性も大挙押しかけ大ヒットし、社会現象になったとか。

簡単に筋を説明すると、セックスに絶頂を得られない女性が、喉の奥深くにクリトリスを発見。男性の性器を飲み込む事で絶頂感を得る、そう言う内容です。日本での出来の評価は芳しくなく、プレイメイト系美女ばかりの米ポルノ女優の中、平凡なリンダは容姿に物足りないとの烙印が押されていた記憶があります。

本物のリンダ。普通に可愛いですね。劇中でもそう表現されていました。

この作品でも、リンダは容姿に欠けるとの監督ダミアーノ(ハンク・アザリア)の発言があります。それを補ってあまりあるのが、フェラのテクニック(!)だったとは。そりゃ日本上映ではカットとボカシばかりのはずですから、わかりますまいて。

両親が厳しいとの描き方ですが、う〜ん、アメリカと日本じゃ違ったでしょうが、私は親の躾としては当たり前の範疇だと思いました。リンダには二十歳前で子供を生み、里子に出した経緯があります。カトリックだから堕胎は出来ない。未婚の娘の妊娠は、親にとっても重大な事で、親が至らなかったからと、自分を責めて当然の出来事。リンダも痛みは感じているから、親の言いつけは守っていますが、素因として遊び好きなのは明白。それを知る親が繰り返さぬようにと、厳しかったんじゃないかなぁ。

チャックと同棲してからは、表層的なリンダのサクセスストーリーの前半と、リンダの視点からの、夫のDVと借金に悩まされた生活の後半が描かれます。前半の映画撮影場面は、現場の暖かさをユーモアにくるみながら描き、卑猥な感じはありません。特に先輩女優や相手役のハリー・リームズ(アダム・ブロディ)やカメラマン(チョイ出だけど、ウェス・ベントリー好演)が、ふんだんなヌードやセックスシーンを前に緊張するリンダを気遣う様子が素敵です。ちょっとしてバックステージものの風情でした。

一転、リンダの視点で描かれる世界は最悪です。夫からの売春強要、DVが主なもので、時代の寵児扱いのリンダのマスコミへの出演料は、一円も彼女の手に渡らずチャックのものとなります。そう「もの」。前半部分で、リンダの太ももの痣を見つけた先輩女優に、「私が転んだの」と答えるリンダに、先輩は「私もよ」と答えます。ここで、あぁ暴力を受けているのだとわかります。先輩女優の言葉は、その数の多さを示しているのでしょう。

私が前半で気になったのは、繰り返されるチャックの「お前は誰の女だ?」「お前は俺のものだ」と言う言葉。リンダは「あなたのものよ」と答えます。う〜ん、若い時には有りがちな錯覚ですね。それが愛情表現だと思っている。違うのです。自分は誰のものでもなく、自分自身のもの。自分の所有物扱いや束縛せず、尊重してこそ愛のはず。

この「俺のもの」思考は洋の東西を問わないのかと、暗澹たる思いに駆られたのは、耐え兼ねたリンダが実家に戻った際の、母の発言です。「殴られるのは、あんたが悪いからだ。妻は夫を喜ばすものだ」と言う返事。それは夫によりけりでしょう。一度「失敗」しているリンダに、二度と同じ轍を踏ましたくない母もまた、18の時に出産した我が子を里子に出していました。この叱責に込められた母の愛情はわかる。でも売春まで強要させられていると母が知ったら?また違う言葉が出たはず。しかし言えないリンダ。何故言わないのか?自分のプライドではなく、母の怒りを買う事が怖かったのでしょう。

母は自分の過去を心底悔やみ、「神様が授けて下さった」リンダの誠実な父に誠心誠意尽くして結果を得た。だから娘にも導いているつもりが、娘は母ほど後悔しておらず、相手を間違えた。なんて哀しいすれ違いでしょう。親子が本当の信頼関係を結ぶのは、簡単ではないのです。

有名になったのに、寂しさのあまり実家に電話するリンダ。父が「お前の映画を観た。悲しかった。母さんはお前がテレビに出ると消しているよ。お父さんたちは、どこでお前の育て方を間違ったんだろう?」この言葉は、娘を責めているのではありません。自分たちを責めているのです。このシーンでは親の立場に立ってしまい、物凄く泣けました。

金の成る木のリンダを、チャックは手放しません。やっとの事でプロデューサーのロマーノ(クリス・ノース)の助けを得て、チャックから開放される彼女。逃げ出すチャンスはいくらでもあるのにと思って見ていましたが、それが出来ないのがDVの恐ろしさなのでしょう。

そして六年後、自叙伝を出すリンダ。結婚して子供もいます。しかしDV撲滅はわかりますが、ポルノ産業にも牙を向く内容らしい。いやいや、業界の人があなたを食い物にしたんじゃなくて、夫が食い物にしたんだよ。この辺は事実に則ってあるでしょうから、納得させるには描き方に工夫が必要だと思いました。彼女を取り巻く人たちで彼女を蹂躙したのは、業界の人たちではなく、夫と売春客だけでした。柳の下を狙うのは、産業面から考えれば当たり前ですから。

何故彼女が六年後、こうした行動を起こしたのか?私が想像するには、「リンダ・ラブレース」はポルノ女優として商標登録しているようなもの。どこにいても、彼女だとわかるでしょう。リンダ・スーザン・ボアマン(本名)の人生の中で、悪しき想い出だった「リンダ・ラブレース」から再生するために、真実を語るという攻撃的な方法に出たのだと思います。そこには夫や子供が後ろ指さされないように、そして親への贖罪があったと思います。この辺のリンダの感情の軌跡は、描き込んで欲しかったかと思います。

アマンダは清楚な役柄が多いのに、体当たりで演じて脱ぎっぷりもよく、とても好感が持てました。実際のリンダより美人なので、ソバカスを描いてみたり、逆メイクで平凡に映るように工夫したり、暴力場面にもきちんと応じて、熱演でした。サースガードは、この手の男性に惹かれる事事態、リンダのお里が知れるようなチャックを好演。最低の夫ながら、彼女を支配しながら依存している様子も、相変わらず上手いです。

私が感心したのは、シャロン・ストーン。いつもの美貌をかなぐり捨てての怖いお母さんぶりは、出色でした。猛母でしたが、その厳しさに母としての愛情もわかり、不器用な人だと可哀相に思いました。これは女優として新たなステージに立ったと言うシャロンの宣言かしら?でもあれだけの美貌の人ですもの、目指すならヘレン・ミレン系の、カッコイイおばさんを目指して欲しいです。パトリックの妻の思いを汲んで、誠実な良人である役作りも、とても良かったです。







紆余曲折を経てのめでたしめでたしのラストは、月並みですが良かったです。まー、しかし、やはり女の一生は男次第、平凡な方が良いと言う人生を今再現する意味は?40年前と今とは、さほど違いは無いようです。映画ではなく、そういう世の中に対して、少し残念に思いました。


2014年03月08日(土) 「東京難民」




父親の送金が停止し、坂を転げるように転落する大学生が主人公の作品で、現代の世相を反映した社会派作品。監督の佐々部清の作品を全部観ているわけではありませんが、底の浅い「善」の描き方に退屈を感じる事もしばしばでした。しかしこの作品では、主人公・修に、やはり底の浅い未熟さを託す事で、くっきりと監督のメッセージを受け取る事が出来ました。観ていて辛く、ホラーのようなサスペンスフルな展開ですが、随所に胸を打つ場面のある秀作です。

三流大学に通う修(中村蒼)は、お気楽な毎日を送っています。しかし父親が蒸発し、学費を滞納したため除籍。住んでいたマンションも追い出されます。お金に窮する彼は、日雇いの仕事で食い繋ぎネットカフェを転々。やがてはホストとなるのですが。

まず宿無しとなった修が、誰も頼る人がおらず、ネットカフェに直行する事にびっくりしました。「小さい時からひとり部屋で、横に人がいると眠れない」と言う独白が入りますが、今は非常事態。本音で辛さを聞いて貰える友人はおらず、戯れにセックスしても、心配してくれる恋人もいない。本人は一人っ子かもしれませんが、叔父も叔母もいないのでしょうか?あまりに希薄な人間関係に、やるせないものを感じます。

ネットカフェにも段階がある事、住所不定には警察は厳しく、一見華やかなホスト稼業の厳しさと非情さ、日雇いの土木作業の劣悪な労働条件、貧困ビジネスなど、知っている事ばかりなのに、順を追って描かれると本当に怖い。これは一つの逆モデルケースなのだと思います。一つ間違えば誰にでも起こり得る事です。

最初はやけくそから所持金をパチンコですってしまう甘ちゃんの修ですが、過酷なホスト稼業に飛び込んでからは、次第に根性も座ってきます。ですが、やっと出来た指名客の看護師・茜(大塚千弘)の懐具合を気にする様子は、まだまだ甘い。この後にも、自分のしでかした事の償いのため、余計な事をし続ける修。正直イライラします。

その余計な事は、どんな苦境に陥っても直らない。当初はその甘さに、ただの自己満足だと突き放して観ていた私ですが、これは違うのだと感じ始めます。どんな環境に陥っても、修は非情にも冷酷にもなれない。自分の行動で迷惑を掛けた人には謝罪したいのです。人間はどんな劣悪な環境に陥っても、「良心」はどこかに残るもの。それが人間らしさだと言いたいのだと思う。自分の身が危うくとも、人殺しなんて出来るはずもない。愚直な修や、ホストの同僚順矢(青柳翔)を見て、監督が何が言いたいのか、わかりました。いつになく厳しい描き方ですが、これは佐々部監督が描き続けてきた事です。ある意味、集大成なのかもしれません。

しかしこの生活が一年二年と続けば、修の心はどうなるかわかりません。劣悪な環境は、健全な精神を蝕むものです。そして慣れ。修の流転を半年間の出来事として描いたのは、その為だと思いました。

私が考え込んでしまったのは、千弘です。純朴そうな修に惹かれているのだと思っていたら、「私が好きだったのは、ホストの修よ!」と叫んだ時。彼女がホストクラブの騒々しさに孤独を紛らわし、修に貢ぐことで、自分を高い女だと思い込もうとしていたとは、全く思っていなかったからです。あの毒々しい豪華さに空虚を感じるのは、私が孤独ではないからなのでしょう。

反対にとても納得したのは、過酷な土木作業の場面で、額に汗して働く修が、初めて心の底からの笑顔を見せた事です。そして各々の仕事の教訓や問題点がが描かれ、そこに立ち止まる人々の人生が、有言無言で、こちらの語りかける様子は、是非社会に巣立つ前の、若い子に見て欲しいと思いました。

うちの息子たち三人は既に社会人ですが、修のような事が学生時代に起こったら、どうしたでしょう?一目散に義兄の家に行ったはずです。義妹もいるし、私の妹もいる。どの家も暖かく迎えてくれるはずです。逆の立場であっても、夫も私もそうするでしょう。そう言い切れるまでには、長い年月、お互いが努力して積み上げてきた信頼関係があります。頑張ってきて良かったなと、つくづく思いました。今までの佐々部作品と違うのは、画面で全て画面で描いてしまうのではなく、こちらに想起させてくれるという点です。

どんな人もそこに至るまでには、そうなる理由があるのです。理由を全く描かないのに、そう感じさせてくれた井上順は絶品でした。何十年と第一線で活躍する人は、やはり年季が違うのだと痛感しました。金子ノブアキ扮するホストクラブの経営者しかり。非情な彼にも、修のような過去があったかも知れない。冒頭の「あいつはもう終わっている」という場面は、途中でまた繰り返されますが、二回目は温情に私には聞こえました。勝ちもせず、さりとて負けもせず。仕切り直しの第一歩を踏みしめる修の人生が、穏やかなものである事を、願わずにはいられません。


2014年03月01日(土) 「ダラス・バイヤーズクラブ」




先週木曜日、そぼ降る雨の中テアトル梅田で観てきました。上映10分前に到着。オスカー主要部門にノミネートされている映画好きは外せない作品ゆえ、席は前の方でも空いていたらラッキーかと思っていましたが、何と整理番号は13番!大阪では名の知れたミニシアターですらこの有様ですから。自分の好みと一般的な好みは、大きく隔たりがあると痛感する瞬間です。映画好きだけが観るには、勿体無い作品です。生臭い語り口の中、人間として再生していく主人公に、心の底から魅せられました。監督はジャン=マルク・バレ。今回もちょいネタバレです。

1985年のダラス。電気技師のロン(マシュー・マコノヒー)は、酒と女とドラッグにまみれた生活を送っていました。仕事の最中の感電で病院に運ばれた彼は、血液検査からエイズを発症している事がわかります。エイズは同性愛者が発症する病気と認識のあった彼は、余命30日を宣告されても、意に介しません。しかし体調不良に本を読みあさった彼は、自分がエイズだと認めざる負えません。彼は特効薬を求めてメキシコに渡り、そこで政府が無認可の薬を手にいれます。トランスジェンダーのレイヨン(ジャレット・レト)の協力により、薬を売りさばくロン。そして「ダラス・バイヤーズクラブ」を名乗り、世界各国を股にして、エイズに苦しむ人々のため、無認可の薬を手に入れるロンでしたが。

噂には聞いていましたが、20kg減量してこの役に臨んだマコノヒーの変貌ぶりに、まず仰天。タフガイでハンサムな彼が、痩せただけではなく、下卑たチンピラに成り下がっていました。まずここで大ショック。マコノヒーの並々ならぬ、この役に対する意気込みが伝わってきます。

「ロック・ハドソンもエイズで死んだ。タフガイを演じていたけど、ゲイだったんだ」と、小馬鹿にするようなロン。しかし出演作を問われ、「北北西に進路を取れ」と答える様子は、ハドソンについて表面的なイメージしか知らないのだとわかります。この作品に出演していたのは、ケーリー・グラント。これはエイズだけではなく、世間に蔓延る間違った認識と無知さを暗喩しいているのだと思いました。

友人だと思っていた連中はロンをまるでばい菌扱い。ゲイだったのかと囃したて、血を浴びるとエイズが感染ると、誰も寄り付きません。死を宣告され、ボロの車の中で一人号泣するロンの姿に、壮絶な孤独を感じ、その痛みに私も共に泣きました。

メキシコで米国では未承認の薬を手に入れ、病院で知り合ったレイヨンを相棒にします。「彼女」の導きで、当時エイズ罹患の中心だった、ゲイの人々に薬を売りさばくロン。職を失った彼に、生きる道はこれしかありません。しかし嫌々ながらゲイの人々と付き合っているうちに、彼らの本当の姿を知ります。それはストレートの自分と変わらない、普通の人だと言う事。レイヨンに無礼を働くかつての友人を、羽交い絞めにして謝罪させるロンは、最高にカッコよかったです。

熱演はマコノヒーだけではありません。ジャレット・レトが本当に上手い。とにかく可愛い女性にしか見えないのです。ケバケバしい装いでも、どこか少女っぽく可憐な雰囲気は、本物の女性が持つものでした。同性愛者の友人を多数持つ「彼女」もまた、深い孤独に苛まれています。その孤独の根源にも深くため息をつき、誰も悪くはないのに、この哀しさ辛さは何なのだろう?と、また考え込んでしまいました。一度だけスーツ姿で「男装」するレイヨンですが、これがまるでコスプレですか?と言うくらい、似合わない。爪の先までトランスジェンダーを表現するのかと、監督とレトに脱帽でした。

ビジネスマンよろしく、ありとあらゆる手を尽くして、世界中で認可されているエイズの特効薬を仕入れるロン。彼自身も小康を取り戻して行きます。しかし無認可の薬の販売を国が黙っているはずがなく、ロンは当局の取締に合います。製薬会社と医師の癒着で、効果が薄く副作用の強い薬が、アメリカでは広く処方されているのが実情でしたが、取り締まり事態は不合理ですが、理解できるものでした。裁判の結果も妥当なものです。

しかしこの事が、持ち前のロンの反骨心に火をつけます。金儲けを主体に薬を販売していたのが、いつしか持ち出しで赤字になろうと、薬を仕入れるロン。裁判まで起こすのは、エイズに罹り人間以下の扱いを受けた者として、人としての誇りを賭けたものだったのでしょう。エイズが彼を変えたのだと思いました。何より彼には、たくさんの支援者や友人が出来たのです。今は孤独に車で泣いていた彼ではありません。裁判の後、拍手で迎えられる彼を観たときは、胸が熱くなりました。

バイヤーズクラブに来た女性を見て、「彼女もエイズなのか?」と受付の女性に聞くロン。直後は二人のセックスシーンでした。クスクス笑いを起きましたが、私は笑うどころか、涙が出ました。感染させてはいけないと、あんなに女好きだった人が、ずっと我慢していたのだと思います。如何にロンが、真摯にエイズと向かいあっているかがわかる、良いシーンでした。

ファーストシーン、ロデオ会場の薄暗い軒下で、商売女と3Pに耽っていた彼が、ラストは陽光燦々と降り注ぐ中、ロデオに出場していました。女・酒・薬にギャンブル等の、快楽だけが生きている証だったロン。それが今は、人としての尊厳を持ち、自分と同じ苦しみを持つ人々の為に生きている。人生の手応えが変わったのです。日陰から日向へ、ロンの人生が変わった事を表現していたと思います。

ひとつの最悪のはずの事をきっかけに、変貌していったロンの人生は、誰しもが自分の人生と照らし合わせて観る事が出来ると思います。崖っぷちで生き残った彼の生き様に、観ている私も奮い立つものがありました。さぁオスカー発表は明後日。レオに主演男優賞は取って欲しかったけど、この作品を観て、是非マコノヒー&レトに受賞して欲しいと思います。






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