ケイケイの映画日記
目次過去未来


2013年02月28日(木) 「世界にひとつのプレイブック」




本年度アカデミー賞主演女優賞(ジェニファー・ローレンス)受賞作。主人公のパット(ブラッドリー・クーパー)は双極性感情障害(躁うつ病)の設定で、私のように精神科に勤務する者には、物凄く感慨深い思いがこみ上げる作品ですが、それを知らずに観れば、予定調和に事が運ぶ出来の良いロマコメ程度。これがオスカー主部門に軒並みノミニーとは、はて?と思っていたとき、学生時代アメリカの情勢に精通してた講師の先生の言葉が蘇りました。「日本もこれから数十年後、アメリカのように歯科より精神科が増える時代が来る」と言う言葉。幸か不幸か、その時代は到来していませんが、それだけ精神病は、日本よりアメリカではより身近な病だと言う事で、私の思いは、本国アメリカの人たちと共有していたという事でしょう。日本での宣伝や解釈は、微妙に違うと感じるので、今回はネタバレ気味に書きます。繊細な内容になるので、未熟な私よりもっと精神科に精通していらっしゃる方で、「それは違う」と思われる方、遠慮なくご指導ご鞭撻お願い致します。監督はデヴィット・O・ラッセル。

高校教師のパット(ブラッドリー・クーパー)は、妻の浮気の浮気現場に遭遇し、相手の男性に暴力をふるい、司法取引で精神病院に入院となります。母(ジャッキー・ウィーバー)の尽力で、何とか退院とはなったものの、妻には逃げられ仕事は解雇。あれは一時の感情が制御出来なかっただけと、薬物治療を拒否し、あげく接見禁止令まで出ているのに、心身を回復すれば妻は必ず戻ってくると思い込んでいます。そんな彼を心配した友人のロニー(ジョン・オーティス)は、パットを夕食に招待します。そこに現れたのは、彼の妻の妹のティファニー(ジェニファー・ローレンス)。彼女もまた、心身を壊していました。何かとパットの気を引くことを持ちかけるティファニーですが、妻との仲を取り持つと言われ、ダンス大会のパートナーになる事を承諾します。

パットは妻の浮気が原因で、ティファニーは夫の死のショックが原因で病を得たと、宣伝などでは解釈されています。しかしパットはそれ以前に、妄想や激しい感情の高ぶり(校長と喧嘩と表現されている)などが語られるし、後述でステファニーも、「夫とのセックスで感じなくなっていた。自分を構うことで精一杯。なのに夫は子供を欲しがっていた」と語ります。これは二人共、以前から発病していたと考えて良いと思うのです。疲弊した心身を精一杯奮い立たせて、社会人としての責任を全うしていた時に起きた衝撃的な出来事は、単に引き金だったと感じます。

これは誰にでも当はまる事で、日常の生活で問題なければ治療の必要はありませんが、生活に支障をきたして来た時は、心身がサインを出しているはずです。それに気づかず、もう少しもう少しと頑張ってしまうと、状態は悪い方に加速するという訳です。何度も出てくる「サイン」と言う言葉は、この作品でキーワードかと思います。

躁転した状態のパットの描写が絶妙。夜中に急に騒ぎ出し、両親(父・ロバート・デ・ニーロ)は叩き起され、その喧騒に近所まで巻き込みパトカーまで出動します。躁転した患者さんの騒ぎ方は、本当に尋常じゃありません。はしゃいでマックス陽気になるかと思えば、とにかく攻撃的に人を罵る時もあり。同じ人がです。そして夜は眠れない。彼らには彼らの全うな理由があり、誰も悪くはないのです。病がさせる事なのですが、しかし世話する家族はたまったもんじゃありません。冷静さを欠いて当たり前。
「人生、ここにあり!」で、精神病患者の入院が廃止されたイタリアで、「患者が家に帰ってきて、今度は家族が発狂しそうになった」と言う医師の言葉は、家族の心労を思いやった言葉なのです。笑える作りになっているはずが、私にはとても笑えず、涙がこみ上げてきました。大げさでも何でもない、リアルな描写でした。

感情の起伏が抑えられず、激情型のティファニー。二人は薬物治療を拒否していますが、むくむ、太る、やる気がなくなるなどの副作用を理由にしています。薬品名を出し盛り上がる二人に思わずクスクス。何度も「あなたと付き合いたい」とサインを出すティファニーに気づかぬパットは、デートの最中、「俺はあんたみたいな変態じゃないし。俺の方がず〜とまし」発言。これには場内一人で爆笑してしまいました。いやいや何を仰るパットさん。五十歩百歩か、あんたの方が上でっせ。これはよくある事で、自分を病気だと思っていない患者さんでも、他人が「おかしい」のはわかるのです。「あの人、変やで・・・」と、私も時々患者さんから聞くのですが、「いやいや、あんたの方がずっと変やし」とも言えず、「そうですかね〜、私はあんまり解かれへんわー」と答えたりしています(笑)。ティファニーはこの発言に激昂し、凄まじい反応をしますが、これも何かよくわかるので、笑ってしまいました。

この二人は、所謂「病識がない」状態です。適切なカウンセリングと薬物治療が必要なのに、それを拒否または嫌々通っている状態。精神科薬の副作用は、上記に書いた以外にも、便秘・胃痛・振戦などがあり、その副作用を抑えるため、またお薬が出されます。飲みたくない気持ちはとてもわかる。それでも服薬して欲しいのです。パットが自分の状態に気づき、早くに服薬していたら?浮気相手を半殺しになるまで痛めつけなかったと思います。それは「理性」です。精神疾患を患うと、不測の事態には感情失禁が起こり、収集がつかない事があり、他人から見れば、近寄りたくない危険な人に見えるはず。数々の副作用があっても、服薬は私は患者さんに、「人間らしさ」を取り戻させるものだと思っています。

実家に飾ってあった兄と自分の写真が、自分だけ外されいるのを確認するパット。父にとっては不肖の息子なのでしょう。しかし父は血の気が多く、アメフトのスタジアムで乱闘騒ぎを起こし、今じゃお出入り禁止。パットとの親子の絆を確認する手段が「懸け」とくりゃ、まぁ大した親父さんです。しかししみじみと、「お前とどうやって関われば良いのかわからない。父さんを許して欲しい」と言う素直な親心を聞くと、ホロホロしてしまいます。根は良い人なのです。

パットは「僕は父さんに似たんだ」と言います。確かに素因は受け継いでいるのでしょう。ならば何故父と息子は違うのか?パットの場合、環境が病気を誘発したのでしょう。よく精神病は遺伝だと言われます。高血圧、ガン、などは、皆大っぴらに「我が家の血筋」と言うのに、精神病の血筋は、ともすれば「汚い血」の様に言われ、あまり人には言えないものです。もちろん気持ちはすごくわかります。しかし、パットと父の違いを観て、その素因があっても発病するしないは、環境や出来事だと思ってもらえたら、と思うのです。だからパットは、ストレス満開のロニーを気遣うのです。

実は監督の息子さんは、やはり躁うつ病なのだとか。それで描写がリアルなのですね。そして監督もこの作品のデ・ニーロのように血の気が多く、ハリウッドではトラブルの多かったとか。そう思うと、この作品は、至らなかった父としての息子への詫び、ハリウッドへ「悔い改めます」の懺悔と感じるのです。正に負うた子に教えられ、と言う事でしょうか?

夫の死後会社の同僚全部と寝たため、解雇されたティファニー。夫の事故は自分のせいだと、責めていたと思います。手当たり次第と言うのは、夫婦の関係に水をさした原因がセックスだったからなのでしょう。とにかくコミュニケーションが不全で、一生懸命なのに、結果は相手を振り回しているだけのティファニー。そんな彼女のついた「嘘」は、日頃が激情の様子なので、パットを思いやる心が胸に染みます。アンジェリーナ・ジョリーがこの役を熱望していたそうですが、私は若いジェニファーが演じる事で、未熟な痛々しさと純粋さの両方を感じられたので、彼女が適任だと思いました。主要キャストは全てオスカー候補でしたが、作品を代表してと言う意味で、彼女が一番ふさわしいと思います。

忘れちゃならないのが、お母さん。子供を溺愛する過保護ママと宣伝に書いていますが、本当に映画観て書いているのかと。息子が患っていた事は知らなかったはずの母。まずは精神科患者の家族としてビギナーです。そんな母が、我が手で息子を何とかしたいと思うのは当たり前。ちゃんと裁判所で手続きを踏んでいるし、許可も貰っているのだから、過保護だなんて、言われる筋合いはないです。子供を見守るなんて芸当、ず〜と後から出来るもんです。裁判所の採決の時のお達しが、きちんとカウンセリングに通い服薬する事でした。それを母は決して忘れません。渋々でもパットが受診に繋がったのは、彼女のお陰です。そしてあの親父。賭け事で熱くなったのは、今回が初めてではないはず。この夫を支えて家庭を守ってこれたのは、彼女が賢い妻・優しい母であった証拠です。それを表現したのが、団欒の場には必ず登場する、カニの唐揚げだったんでしょう。

退院はさせたものの、アクシデントに「やっぱり退院させるべきではなかった」と泣く母。親の気持ちもぶれています。しかしその母を見つめるパットの悲しげですまない表情を見逃さないで欲しいのです。彼もまた、親に申し訳ないと思っている。お母さん、あなたの息子は冷血漢ではありません。心優しい息子なんです。

劇中でカウンセリングと服薬の必要性をきちんと説き、ダンスによる運動のお蔭で、熟睡し規則正しい生活が出来る様になっていきます。そしてダンス大会に出場すると言う目標でやり甲斐が出来る。二人共生き生きする様子は、精神科患者のお手本のようです。薬は患者を決して廃人にするものではありません。調子が良くなり、減薬していく患者さんを、私は確かに知っています。そうやって頭がすっきりしてきたパットは、ティファニーのサインに気づき、新たな目標ができた今、妻に対しての固執は、間違ったものだったと気づいたのでしょう。精神疾患に完治はなく、寛解もあまりないのが現実。きちんと病識を持ち医師に診てもらう、その重要性が作品に盛り込まれているのは、本当に感激しました。

一見ハッピーエンドのような結末は、ほんの一歩踏み出しただけ。二人は失業中のままだし、周囲も同じです。しかし幸せそうな二人の顔を観て下さい。幸せだと感じられる、その事が大事だと思います。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の出だしは、確か「幸福な家は似かよっているが、不幸な家はそれぞれ異なる」だったと思います。文豪に物申して大変恐縮ですが、現代は幸せの形も異なると思うのです。人間は不完全なもの、人生は皆が欠落を抱えて生きています。人と比べない自分なりの幸せを求め生きて行く、その尊さを教えてくれる作品です。


2013年02月25日(月) 「王になった男」




朝鮮王朝15代王・光海君に、実は影武者がいたとするフィクション。久々に夫と観ましたが、「実話なんやろ?」と誤解する始末(笑)。絢爛たる王朝の様子は描くも、内容は少し薄口。しかし万人向けの娯楽作として、この「軽み」を私は買います。監督はチュ・チャンミン。

暴君として名高い光海君(イ・ビョンホン)。反対勢力の者からの刺客に、常に疑心暗鬼になっていました。側近のホ・ギュン(リュ・スンリョン)に命じて、自分とそっくりの外見を持つ者を探し出し、影武者に仕立てろと銘じます。白羽の矢が止まったのが、腐敗した政治を宴席で風刺していた道化のソハン(ビョンホン二役)。折しも王が病に倒れ、ソハンの影武者生活が始まります。

オープニングで、華麗に当時の様子を再現。お付きの女中たちに身支度をさせせ、「王」になる光海君を流麗に描いています。これ以降も衣装や食卓、調度品など、宮廷内の様子など、上品で絢爛たる李王朝の様式が描かかれており、これは見所の一つ。でも私が一番びっくりしたのは、王は厠が使用できなかった事。何と専用のおまるのような物があって、女中たちの面前で用を足すのです。ひえぇぇぇ!出るものも出ませんって。そういえば「上様」だって、閨には監視役がすぐ横に控えてましたもんね。権力者は大変だ。

冷酷で尊大、しかし威厳のある王に比べて、優しくフレンドリー、しかし庶民的過ぎるソハン。影武者の事を知るのは、宮廷医とホ・ギュンと世話係りのチョ内官のみ。お里の知れるソハンを巧み庇う様子に一味あり。ユーモラスで場内の笑いを誘う場面あり、両側近の人柄を映す描写ありと、面白く観られます。

下賎な身の上のソハンですが、誰にも知られてはいけないと、ホ・ギュンまでもが敬語を使い出すと、段々王としての風格が備わってきます。これはソハンの持っている技量もあるでしょうが、周囲がお膳立てをすれば、その椅子に座った者は、それなりの器になるもんだと感じました。

ビョンホンは典型的な二枚目ではないけれど、アクションにキレがあり、滑舌と声が良く、画像などよりずっとスクリーン映えする人です。今回自慢の体はちょっとだけで、サービス脱ぎもアクションもなかったけれど、瓜二つと言う設定の中、表情と話し方だけで、王とソハンをくっきり描き分け、私はとても上手かったと思います。

権力争い、王妃や毒味係りの少女との顛末など、予定調和にお話は進みますが、退屈はありません。何故かと言うと、「人情」のくすぐり方が上手いから。精力旺盛な王だと言う割には、直接のベッドシーンを省いたのは、幅広い年齢層に観られる作品に仕上げたかったからと感じました。歴史ものでヒットを狙うには、良い作りだと思います。

いつ剣術シーンになるんだろう?と心待ちにしていたので、それが観られたときは、軽くカタルシスがあり。でも個人的には、もう一箇所あれば良かったと思います。

王の「情が映ったか?」のセリフに答えるような、ラストのホ・ギュンの仕草が、一番感動しました。ソハンと心が通い合う瞬間です。王には絶対ないだろう瞬間、権力者の孤独をも感じます。

最近キナ臭い日韓ですが、場内ビョンホンファンと思しきオバさま達が一杯の中、私の横は若いカップルでした。今も昔も、どこの国も政治を司る者は、庶民の感覚とは違います。そこから平和的な着地が見つかればいいなと、ふと思いました。


2013年02月20日(水) 「ゼロ・ダーク・サーティ」




女性監督として、オスカー史上初の監督賞を受賞したキャスリン・ビグロー監督作。主演のジェシカ・チャスティンが25日発表のオスカーで、主演女優賞にノミネートされています。凄惨な拷問場面からのハードな展開に、もし私が監督の才能があっても、この作品は作りたくないなぁ、ビグローはすごいわと感じていました。しかし見終わった後は、紛れもなく女性監督が選んだ題材の作品だと痛感します。ヒロイン・マヤの造形に、ビグローの思いの丈が投影されていると思いました。二時間半の長い作品で、遅々として進まぬ捜査の様子が大半なのに、一瞬たりとも目が離せず緊迫感の持続する作品です。

一向にビン・ラディンの行方がわからぬCIAは、分析官としての優秀さを買い、20代の女性マヤ(ジェシカ・チャスティン)をパキスタンに赴任させます。捜索は困難を極め、収穫も薄く数年が過ぎた時、マヤと親しい同僚女性ジェシカ(ジェニファー・イーリー)が、テロリストによって殺害されます。

冒頭すぐ出てくる凄惨な拷問場面に、居た堪れないマヤの様子を映します。しかしそれから何年もしないうちに、同じように捕まえたテロリストを拷問する彼女。知らず知らずに感覚が麻痺してしまうのでしょう。しかし同僚のダニエル(ジェイソン・クラーク)は、「アメリカに帰国願いを出した。捕虜の拷問に疲れた」と言います。毎日毎日暴力の限りを尽くし、心身を踏みにじる行為は、まともな人間ならば、拷問する方の心も蝕むという事です。

遅々として進まぬ捜索。たった一人のビン・ラディンの連絡係りを追いかけ、数年経つでしょうか?ビン・ラディンではなく連絡係りです。正直びっくりしました。CIAの調査はもっと無敵だと思っていました。上司には成果が上がらぬと叱責され、その上司はまた上から叱責。そして下に行くほど買収や拷問などの汚れ仕事、命を賭けた危険な仕事を引き受けているのは、テロも国家の名の元の諜報機関も同じなのです。

後述にマヤは高卒でリクルートされ、CIAに入職したと言います。これもびっくり。私はCIAは名門大学を出て志願したエリートばかりだと思っていました。テロに殺されたジェシカは三児の母。彼女の手柄を我が事のように喜び、誰にも見せないような屈託のない笑顔を、ジェシカにだけは見せたマヤ。思うに本当の恋も知らず、人生の楽しみも知らない若いうちから、「スパイ」の世界に入ったマヤにとって、普通の女性としての顔も持つジェシカは、姉であり憧れだったのかと思います。この頃から急激にマヤは変貌します。

ビン・ラディン邸が推定される材料の乏しさには、正直仰天しました。あれくらいで、名うてのネイビーシールズを投下し、何人もの犠牲者を出すことを推測出来る事を考えれば、無謀な行為です。マヤはビン・ラディンを見つけたら?の兵士の問いに「私のために殺して」と言います。国家や正義のためではなく、「私のため」にと。この言葉は強烈でした。当初拷問に神経を疲弊させていたマヤは、10年で変わり果てていました。これがCIAで仕事すると言う事なのでしょう。

ジェシカが殺されてからのマヤは、よりファナティックとも言える強固な意思を見せるようになり、やがては上司からも恐れられるような存在になります。しかし彼女のキャリアはビン・ラディンを追い続けて10年、成果の上がらぬ仕事しかしていません。仲間からもはぐれ、孤高とも孤独とも言える存在にいつしかなっている自分に気づきます。しかし不本意ではあっても怯まぬマヤ。段々これは、マヤはビグロー自身じゃないかと思い出します。

ビグローの作品は骨太でハードなアクション映画が多く、他の女性監督が、女性らしい優しい感受性、または子宮感覚と言われるぬめぬめした女性性を前面に出した内容の作品を作ることを思えば、異彩を放っていました。そしてスマッシュヒットはあれど、大ヒットと言える作品はなし。そんな彼女がオスカーを受賞と言うのは、人知れず重荷もあったかと思います。

受賞後ビグローが選んだのは、やはり彼女らしい題材の今作でした。男性社会のハリウッドに生きるビグローが、同じ環境のマヤに自分の信念とも言える、何があっても後退せずの気持ちを投影したと感じるのです。

ビン・ラディン邸襲撃の様子は、正直これもテロと同じだと感じます。無関係な人が何人も死に、怯えまくる女子供。目には目、歯には歯は、結局同じ次元に落ちるという事なのでしょう。

ビン・ラディン殺害確認後、「これはあなた一人のための飛行機だ。どこへ行く?」と聞かれ、虚脱感に包まれ涙するマヤ。「ハート・ロッカー」のラストで、見事な男心の本質を描いたビグローですが、今作では「鉄の女」に成り果てたマヤに、本来の繊細な女性としての感情を表すため、泣かせたのだと思いました。全編出ずっぱりのジェシカですが、これでオスカー逃がしたらどうしたらいいのか?言うくらいの力演・熱演です。是非オスカーを取って欲しいと思いました。

賛否両論の作品ですが、見終わった後の感想は、アルカイーダとCIAは、壮大な同じ穴の狢、これが私の感想です。そのために多くの人々が犠牲になる痛ましさを、強く感じました。決してCIAのプロパガンダ映画では無いと思います。



2013年02月18日(月) 「レッド・ライト」

キリアン・マーフィーがビリングトップなのを観て、老いたりとは言え、ハリウッド重鎮とも言えるデ・ニーロやウィーバーの上を行く扱いに、彼も偉くなったと感心しました。思えば、これもヒントの作品。賛否両論で、特にオチで評価が分かれているようですが、私的には有りのオチでした。超能力の是非を問うたミステリー仕立てにしながら、人間の深層心理や孤独の形に言及した作品です。監督はロドリコ・コルテス。

マーガレット・マシスン博士(シガニー・ウィーバー)と助手のトム・バクリー博士(キリアン・マーフィー)は、大学で教鞭を取りながら、超自然現象や霊能力者たちのペテンを暴いてきました。ある日二人は、伝説の超能力者サイモン・シルバー(ロバート・デ・ニーロ)が、30年ぶりに復活すると耳にします。彼を調査すべきだと言うトムに、及び腰のマーガレット。過去の苦い経験が躊躇させていたのです。

冒頭「ヘルハウス」ばりの、暗闇の中でのオカルトチックな様子が描かれます。そして結論。講義での明快な説明より、この家族の背景を深く知ることに鍵があったのだなと、見終わった後わかりました。

どんなに真実を見たい知りたいと思っていても、人とは自分の見たいように見てしまう。そして思い込み。見終わって痛感するのはその事で、数々の場面が思い起こされます。

しかし大元の内容は良いのですが、その見せ方に少し疑問が。トイレの場面は設定を変えた方が良いし、トムが疑心暗鬼になり、神経を病む場面での盛り上げも、私的には不必要なシーンもあるように感じました。ペテンを解明する人の扱いも、唐突に出現してきます。だから流れが悪く、少々釈然としない部分もあり、この辺はもう少し練ってもらいたかったところです。

印象的だったのは、マーガレットの同僚博士(トビー・ジョーンズ)が、「君はその現象を暴いて、人に感謝されたか?」と言う言葉。人生において、人は何度か奇跡的、またはそれに近い体験があるものです。それらに意味を求めたいのは、唯物的な、目に見える物だけで生きる事が辛いからだと思います。心の目で見えるもの、それを支えに人生を送りたい、その切実な心が生むのだと思います。もちろん私もそう。それは希望や夢を抱かせるから。

数々の伏線が張ってあり、幸か不幸か、私が気になっていた事が当たり、オチについては落胆する事はありませんでした。それよりもシルバー追求に反対するマーガレットに、何故トムが執拗に抗議したのか理由がわかり、そこに深く感じりました。自分は世界でたった一人、それは恐ろしいほど孤独でしょう。繰り返す「自分を偽って生きてはいけない」の言葉。欲しくなかったものを持つ人の孤独は、たくさん映画に描かれますが、この作品には希望はありません。ハリウッドっぽくない陰鬱な描き方は、より効果的で私は好きです。

デ・ニーロの胡散臭い大物ぶりはセリフがなくても大丈夫なくらい、はまり役でした。ウィーバーも硬質の研究者は彼女の独壇場ですが、強気一辺倒ではなく弱さを見せる隙に、人間らしさを醸し出し好演。でもやっぱり一番はマーフィー。彼がトムを演じることで、下手すると際物になった作品が、繊細で深い感情を抱かせるミステリーとなったと思います。思いの他格調高い仕上がりになっており、鑑賞後色々自己問答出来て、私は好きな作品です。


2013年02月16日(土) 「ムーンライズ・キングダム」




12歳の子供の恋の逃避行がお話の軸ですが、それ以外にも、真面目な大人たちの何気ない描写に、人生の機微を感じさせる秀作です。とっても愛せる作品。監督はウェス・アンダーソン。

1965年、アメリカのニューグランド沖に浮かぶ小さな島。所属するボーイスカウトのキャンプに訪れていたサム(ジャレット・ギルマン)と、弁護士の両親(ビル・マーレーとフランシス・マクドーマンド)を持つ島に住む少女スージー(カーラ・ヘイワード)は、一年前より文通を続け愛情を深め、二人で駆け落ちします。慌てたボーイスカウトウォード隊長(エドワード・ノートン)は、島のシャープ警部(ブルース・ウィリス)に捜索を依頼。スージーの両親と共に、島ぐるみで二人を探します。

冒頭から何なんだ、この家はと言う感じで、横の空間ばかり映す家の中が楽しく、キッチュでボップな雰囲気がいっぱい。田舎とは言え、時代が60年代のアメリカなもんで、私が小さい頃テレビドラマでいっぱい観ていた、憧れのアメリカのおうちが再現されています。


サムは両親が事故死して養子に出されるものの、里親とは上手くいかず、家では浮いた状態。キャンプが終わっても帰ってくるなと言われる始末。一方スージーも、一風変わった子で、親は扱いに苦慮しています。お互い家庭で居場所のない二人。そして友達もいない。誰にもわかってもらえない自分を受け入れてくれた異性に対して、「結婚」の二文字が浮かぶのは当然で、愛→即結婚に結びつく様子は、12歳ならではの純粋さ。これが後二つ三つ年上だと、結婚は現実的に無理だとわかりますから。

年齢より幼い風貌のサムは、だけどとてもジェントルマンで、常にスージーを守ろうとします(弱いけど)。待ち合わせ場所に向かう途中、スージーに花束なんか作っちゃって、グッときちゃった。スージーはちょっと大人びた子で、可愛い容姿と年齢に似つかわしくないメイク姿。これゴスっ娘@60年代仕様かしら?このメイクはとても雄弁に彼女の孤独を物語ります。

追跡劇がゆるゆるで楽しいなぁ〜と思っていたら、いきなり流血騒ぎが出てきてびっくり。でもびっくりするけど、何故か笑える。多分サムもスージーも、こう言う事をしでかして、現代だと時間をかけてカウンセリングだと思うんですね。でも昔なんで、福祉局の人(ティルダ・スウィントン)は電気ショックを使うなんて、聞き捨てならない事を言う。もう昔は一か十しかなかったんですね。それを思うと、ドールハウスのような愛らしい風景に騙されてはいけない、「昔」の恐ろしさ・厳しさを感じます。

愛らしい子供たちの逃避行に隠れ見え隠れるする、大人たちの憂鬱の見せ方が秀逸。隊長は間が抜けて頼りないので、善良さが霞みまくり。警部は昔はひと方の人みたいですが、ずっと独身で今じゃスージーのママと不倫。もうこのまま人生を終わってもいいや感たっぷり。スージーが手を焼く子になったのは、多分両親の不仲が原因。抑圧的(には見えなかったけど)なパパに、ママは不満がいっぱいなのでしょう。表面を取り繕っていますが、不倫を心の拠り所としています。妻の浮気を知ってか知らずか、時々爆発してガス抜きするパパの姿が、おかしくも切ない。そしてもっと胸に染み入ったのが、二人のベッドでの会話で、妻から「子供たちの親として生活しましょう」的な言葉が発せられ、「それだけか?」と落胆&絶望気味なパパの様子を描くも、夫婦は変わろうとしないのです。

娘の駆け落ちの原因を多分解っているはずなのに、自分たちを変えず娘を変えようとしている。しかし娘を心から愛し心配しているのもわかる。このどうにもならない感、とても現実的です。それを否定ではなく、もの哀しい切なさに感じさせるところが、私はとても気に入りました。

でもそれじゃ〜、先が見えない!この愛し子たちを救わなきゃ!と言う訳で、監督から駆り出されたのが隊長と警部。一大事に別人の如くの活躍を見せる隊長、決死の場面での警部の申し出など、ホロホロさせてくれます。警部はこのまま終わろうと思っていた人生で、やり残した事が見つかったんじゃないかなぁ。あれはサムのためではなく、自分のためでもあるでしょう。これできっとスージーのママとは別れると思うので、間接的にあの夫婦も変わらずにはいられないでしょう。

腕のある役者が豪華絢爛に出ている割には、とても軽妙な風味です。だから余計に大人たちの悲哀が浮き彫りになるのでしょう。ノートンが半ズボン姿がとても似合っていてびっくり!。育ちの良さを感じさせるも、裏にきっと何かあるぞ〜的な役柄が多い彼ですが、今回徹頭徹尾おぼっちゃまの心意気を見せてくれて、とても楽しいです。アクション抜きのウィリスは、初老の男性の憂いをいい味出して演じていて、今後この手の作品にもっと出て欲しいと思います。

忘れちゃならない主役の二人は、今回デビューの新人だそうですが、絶対名前は覚えて置こうと思います。サムの死を覚悟した場面での、「僕と結婚してくれてありがとう」のセリフには、オバちゃん惚れました。スージーの役柄も、ほとんど無表情、笑顔なしで難しかったと思うけど、こちらにスージーの気持ちがとても良く届きました。

と色々書きましたが、美術やストーリー内容に演出と、この愛らしさは出色です。それだけでもOKの作品。だって可愛いは正義だもん。


2013年02月12日(火) 「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(2D字幕)」

びっくりしました。想像していたのと全然違う映画でした。虎と人間が海に放り出されて漂流して、一緒に227日過ごすなんて、有り得ないでしょう?なので、陸へ生還するまでを、「野生のエルザ」風に、虎と人間の心が通う描き方なのかと想像していていました。確かにそう言う部分もなきにしもあらず。しかしこの作品は、ある仕掛けがあり、そこで唖然とするのですが、再び虎とパイの漂流生活を思い浮かべると、あれもこれも、そういう事だったのか・・・と、一層深く感じ入るようになります。荘厳で崇高な作品。とても感動しました。監督はアン・リー。今回チョイネタバレです。

カナダ人作家(レイフ・スポール)は、小説を書くため、インド人のパイ・パテル(イルファン・カーン)の家を訪れます。そこでパイが体験した、驚愕の冒険を聞くことになります。パイは16歳の時、動物園を経営している父や家族と一緒に、動物ごとインドからカナダへ移住することに。しかし渡航の途中で嵐に合い船は転覆。家族の中で彼だけが救命ボートにしがみつき、助かります。リチャード・パーカーと名付けられたベンガルドラと共に。以降227日、パイ少年と虎の海上での生活が始まります。

結構丹念に少年期のパイ(スラージ・ジャルマ)の生活が描かれます。私が興味を持ったのは、ヒンドゥー教、イスラム教と信仰を持つパイが、キリスト教にも興味を持ち、生活に入り込んでいる事でした。日本ではクリスマスを祝い、お正月に初詣など普通ですが、他の国では必ず信仰は一つ、複数は有り得ません。しかしこれには意味がありました。そして良き両親に恵まれ、良き家庭であると印象づけ、パイは育ちの良い聡明な少年であると認識させます。

漂流開始以降、虎との共存なんて危なくて出来ないので、パイはボートを虎に乗っ取られた形となり、手作りの筏のようなものを作り、そこで過ごします。いつまで経っても恐怖と緊張しかありません。しかしパイの独白で、「リチャードがいてくれて良かった。緊張感のせいで、孤独を感じる暇がなかった」と語るのに、ハッとします。リチャードがいなければ、照りつける太陽を防ぎ、大の字になって眠れ、体力を与えてくれたでしょう。しかしその先の壮絶な孤独は、防ぎようがないはず。この物の捉え方に、私はとても感銘しました。

この心の在り方は、パイなりに三つの信仰から得たものだと思うのです。生きるためには、ベジタリアンである彼が魚を取り、虎にも分け与えます。これは戒律の一つを破っているはず。しかし宗教とは、あれこれ抑圧するものではなく、災難が降りかかって来た時、折れない心を与えるものであって欲しいと、私は思います。わざわざパイを三つの宗教を信仰する設定にしたのは、神は一つである、宗教の行き着くところは、同じはずだと言いたいのだと、取りました。

パイが一つ一つ難儀を乗り越え、会得する様子は、神の与えし試練を不承不承受けているのではなく、あれも試み、これも試み、積極的に戯れているように感じました。心折れることなく頑張るパイに、それでも神様は一つ一つ剥いでいく。最後に残った彼の知恵と文明の証である日記が風で飛ばされた時、いつまでこの聰明な少年は神に試されるのかと、パイと共に私も絶望します。そして絶望の果てに死を覚悟し、初めて心から寄り添うパイと虎。あんな大海にボート一つ、それでも数々の物がパイから奪われる様子を観ていた私は、人とは身ぐるみ剥がされて何もなくなり、生まれたままの姿に近くなった時、始めて真実が見えてくるのだなぁと、ここでも感動しまくります。

死を覚悟した彼に、神が用意したものは?私は生きる力だったと思います。それがあの島だったと思えてなりません。

そして話が終わり、ある仕掛けが語られ、唖然とする私。しかしパイは、作家に「どちらのお話が良い?」と聞くと、即座に作家は満面の笑顔で「虎!」と言い切ります。私も虎!この時咄嗟に私が浮かんだのは、大好きな大好きなジョージ・ロイ・ヒルの「リトル・ロマンス」でした。

家庭に厄介なものを抱えたローティーンの少年少女ダニエルとローレンが、夕暮れ時にためいき橋でキスする二人は、永遠の愛が誓えると言う言い伝えを信じ、フランスからベニスまで行こうとします。しかしこの言い伝えは、チンケな詐欺師の嘘とわかり落胆する二人。しかしローレンが、この言い伝えに賭けた真剣な気持ちを大泣きしながら語るのを聞いた詐欺師は、二人のため、一世一代の善行を働きます。「信じれば、嘘も真実になるのさ」。

ダニエルとローレンは、もう会える事はないでしょう。それは年齢が重なれば、もっと理解出来るはず。でももしかして、もう一度会えるかも?その気持ちは生涯抱き続けるはずなのです。それが「希望」です。大切なのは真実ではなく、その過程で自分が咀嚼し、心の糧を得る事なのだと思います。

パイと虎の物語も一緒。どちらが希望が湧き、人生の指標となる出来事なのか?大切なのは、その事なのだと思います。だってパイが自分の数奇な体験を、生きる糧にした、それは「真実」なのだから。

「虎はあなただ」と、作家は言いました。だから去る時、パイは泣いたのですね。あれは虎と暮らした227日と共に、彼の少年期が幕引きとなり、大人になる惜別の思いなのだと思います。パイの父は「虎とは友だちにはなれない」と言いました。なってはいけないのです。だから虎は振り向かない。パイが虎になったのは、227日だけ。生還したからには、生きるために殺した魚に涙する、本来のパイに戻らなければならないのですから。

荒くれた海上のスペクタルシーンや、幻想的で美しい自然のシーンなど、映像的にも見所がいっぱいで、やっぱり3Dにしとけば良かったと、後悔しました。時間がなかったんですよー。実を言うと、優れた映像作家だと認識はしているものの、アン・リーはそれほど好きな監督ではありません。全部観ているわけじゃないけど、手放しで好きな作品は、「ウェディング・バンケット」だけです。でもこの作品は、二番目に好きなアン・リー作品となりました。




2013年02月10日(日) 「アウトロー」

寒さ厳しい毎日、皆さん如何お過ごしでしょうか?ご多分にもれず、我が家も夫と三男が感染性胃腸炎となり、今頃なら5本は消化しているはずが、ぬわんと今月これが1本目!優先順位下位作品なれど、忙しい時は合間をぬって、気楽にちゃちゃっと観られる作品が最適な訳です。で、この作品です。昔懐かしい雰囲気に彩られたトムちんの俺様映画ですが、トムちんも50代に突入した折、そこはかとなく老いが漂い、それもまた味わい深く感じる作品と仕上がっています。監督はクリストファー・マッカリー。あの「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家です。

ピッツバーグ郊外の川沿い。ある日六発の銃弾が打ち込まれ、5人の罪のない善良な人々が無差別に殺害されます。犯人として捉えられたのは、元米軍スナイパーのジェームズ・バー。証拠も揃い、簡単に事件は落着かと思いきや、バーはジャック・クリーチャー(トム・クルーズ)なる人物を呼べと警察に要求します。ジャックは元エリート軍人でしたが、今は退役。どこからともなく現れては、事件を解決していく「アウトロー」。バーの弁護士ヘレン(ロザムンド・バイク)と協力し、真相を追います。

家なし、職なし、携帯なし。保険の登録番号もなし。この謎の設定、ふた昔前なら「スタイリッシュ」なんでしょうけど、今や絶滅種のヒーロー像で、「ミッション・インポッシブル」シリーズでトムちんのファンになった方々には違和感バリバリでしょうが、映画を見続けてウン十年の者からしたら、絶妙に郷愁を誘うのよね。それを同世代として、今も現役バリバリで頑張るトムちんが演じる訳で、もう中高年には、それだけでも勝ったも同然の設定です。

若いチンピラ相手に無茶苦茶強いトムちん、辣腕弁護士より上を行く頭脳明晰なトムちん、交渉事には応じず常に上から目線のトムちん、上半身裸でフェロモンを振りまきながら、パートナーの美女(ヘレン)には手を出さない(でも冒頭で娼婦は買っている)男の美学を見せるトムちん。と、正に王道俺様映画。トムちんが立派なのは、アクションは自分でやっている事です。カーアクションも素手の勝負、銃撃戦もお茶の子さいさい。これが及第点で鑑賞に耐えうる仕上がりになっています。

懐かしさはムードだけではなくキャスティングにも。オーラスでトムちんと相棒になるのは、何とロバート・デュバル!もう80越えていると思いますが、老人ならではのパワーとユーモアがたっぷりで、とても楽しめます。監督として有名なベルナール・ヘルツォークも悪役で出演です。特異な風貌が、いかがわしく重量感はあるのですが、如何せん役の設定がちとしょぼい。せっかくの起用ですが、生かせているとは思えませんでした。

その他、最近は黒人俳優もハンサムで垢抜けている人ばかりですが、刑事役のデヴィッド・オイェロウォは、シドニー・ポワチエ型のアフリカン感満載で作品の雰囲気にあっていたし、検事役のロバート・ジェンキンスとヘレンが親子と言うのも、ちょっとした仕掛けに生かせています。

筋は正直平凡で、だいたい先は読めますし、悪役はもっと凶悪さを出して欲しかったし、ヘレン親子の葛藤など、多分秀逸であろう原作の、ダイジェスト版的な脚本のように感じました。しかし、アクション以外にも、トムが追われた車から離れ、バスに乗り込むシーンの粋なプロット、上記に書いたデュバルの扱いなど、ニタニタ出来る演出が随所にあり、観ている間飽きません。

平日昼間に観たので、多分観客は10人くらいだと思いきや、その5倍くらいいて、びっくり!この分野はハイクオリティより、観て損は無かったと言う、中の上感が大事なんだと痛感しました。

老けたなぁ〜と、ちょっと心配になったトムちんですが、後半どんどん若返るので大丈夫。それよか、ロザムンド・バイク初登場シーン、あまりにそっけない風情で、その劣化ぶりに仰天しましたが、途中から胸の谷間を強調したり、いつもの美貌を取り戻しホッとしました。これ役柄を途中で手直ししたのかしら?こう言う感じで、のんびり楽しめる作品です。普通ならB級サスペンスとなるはずが、トムが主人公を演じるお蔭で、それなりの風格を感じるのですから、やっぱりトムちんは偉い!


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