ケイケイの映画日記
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2013年01月27日(日) 「アルバート氏の人生」

昨年のオスカーで、主演のグレン・クローズが主演女優賞候補に上がっていたので、ご記憶の方もいるはずの作品。オフブロードウェイで、彼女が精魂込めて演じていた役です。きっと開放感に満ちたハッピーエンドになると予想していたのですが、これがほろ苦い結末。人間としての尊厳・人権・心の開放などを、品格を持って観客に訴えかける秀作です。監督はロドリコ・ガルシア。

19世紀のアイルランド。モリソンズホテルに長年勤めるアルバート・ノックス(グレン・クローズ)は、顧客の信頼も厚い優秀なウェイターです。しかし、同僚と距離を置きながら静かに暮らす彼は、実は女性でした。親を早くに亡くした彼女は、当時のアイルランドで女性が一人で生きる事は厳しく、男性として生きる道を選んだのでした。ある日ホテルの塗装の修理のため、職人のヒューバート(ジャネット・マクティア)と知り合うアルバート。自由に生きる彼に感化されたアルバートは、今までと違う人生を歩もうと決心します。

とにかくクローズの演技が素晴らしいです。メイクの成果もあるでしょうが、立ち振る舞いから容姿まで、一切女性の要素が伺えません。本当に初老の男性です。そして自分を律っする品格と、息を潜めて暮らすような静かな孤独も、深々と伝わってくるのです。

アルバートは名家出身の母が私生児で生んだ子でした。その後里子に出され、養育費を出してくれた母は他界。養育親まで亡くなります。底辺に身を置くしかなく、そこで屈辱的な傷を負い、男性として生きようと決心します。何故男として生きようとしたか、納得出来ると共に、怒りも湧いてきます。

この作品は、軸になるアルバートの数奇な人生の他、女性蔑視、階級社会や貧困、疫病などの、当時のアイルランドの病巣を忍ばせて描いています。ボイラー係のジョー(アーロン・ジョンソン)とメイドのヘレン(ミア・ワシコウシカ)の、一見無軌道に見える恋愛、ヤレル子爵(ジョナサン・リス・マイヤーズ)の無自覚な傍若無人の振る舞い、モリソンズホテルの女主人ベイカー夫人(ポーリーン・コリンズ)の、因業で吝嗇、派手好みな様子を描くことで、底辺の人の悲哀を描いており、巧みな演出と内容の深さに感銘しました。

「品位がなくては生きていけない」とは、アルバートの言葉ですが、それを得るため、このホテルで働いている人々は、皆が必死の思いでこのホテルで職を得ているのがわかります。それが自分の生まれを自覚し、身の丈に合った願いだと思っているのでしょう。それだけでは嫌だったのがジョー。皆に等しくチャンスがあるアメリカに行きたいと言います。軽はずみで短気な若者ですが、ジョーの背景をちらつかせ、彼に理解を示した眼差しが暖いです。ヒューバートの人生も陰影に彩られたもので、アルバート以外の人々の描き方も滋味深く、心に強く残ります。

てっきりアルバートは、女性としての人生を見出すと想像していた私の予想は裏切られ、彼は終生男性のままでした。彼が求めていたのは、女性に戻る事ではなく、孤独を癒す事であった事に、私は深く考えさせられました。自分の性より前に、人は人であるという事です。色んな形の性の在り方が認められつつある現在、ストレートである私は、この事をしっかり受け止めたいと思いました。一度だけ女性の格好に戻ったアルバートが、満面の笑みで駆け出したのは、スカート姿が嬉しかったのではなく、嘘のない開放された自分を満喫したからでしょう。

ラストの展開は、とても複雑で切ない気持ちになりました。私の大好きなガルシア監督の作品とそっくりなのです(題名を出すとネタバレになるので、敢えて秘す)。この時代イングランドには、もうマグダレン修道院はあったと思います。自分の恋する相手に泣かれて抱きつかれた時の、あの華やかな満ち足りたアルバートの笑顔が、私は忘れられません。孤独を癒す事が愛だと思っていた彼が、初めて人を愛する意味を自覚した瞬間だと思います。ヒューバートの決意は、性を超えたアルバートの人生に、敬意と親愛を捧げたいからです。そのお陰で、アルバートの愛する人はマグダレン修道院に行く事もないでしょう。とある事で、一生彼を忘れないであろうと感じさせます。とても切ないのですが、思えばこの展開は、アルバートが生涯かけて残した物が起因するものです。そう思うと、アルバートの人生が報われたような気がして、涙と共に、暖い感情が心に広がっていくのがわかりました。

クローズの他にも、ヒューバート役のマクティアも絶品だったし、可憐で愛らしいミア、粗野で無学な事の悲しさを、瑞々しい若さで演じたアーロンのコンビも、とても素晴らしい。忘れちゃならないのが、コリンズ。敵役を一手に引き受けるやり手の因業バアさんですが、長い芸歴が伊達じゃない憎々しさで、作品を盛り立てていました。

アルバートの真実を知ったホテル付きのドクターは、「嘘の人生は、もう嫌だ」の言葉を残して、ホテルを去って行きます。ただのスキャンダルとして反応するベイカー夫人とは、対照的です。抑圧されたアルバートの人生を観て、何を感じ何を救い取るかは、人それぞれなのでしょう。せっかくこの作品で得た私の感情、実生活で生かしたいと思います。過去を描きながら、現代に生きる者に教える、温故知新な作品。


2013年01月24日(木) 「愛について ある土曜日の面会室」




23日に観て、ずっとこの作品の事を考えています。三つの事柄が同時に進行して、ある土曜日の面会室で重なり合う内容です。三つのうち一つはとても納得でき、もう一つも居心地は悪いなりに咀嚼出来そう。もう一つは疑問がたくさんで、何だこの人たちは!と、普通は怒りたくなるはずが、追いかけて彼らの気持ちを理解したくなるのです。私なりの解釈ですが、若干28歳のレア・フェネール監督は、かなりの大物だと思います。

アルジェリアに住むゾラの元に、フランスにいる息子が死んだと知らせが入ります。殺した相手は息子の同性愛の恋人。事の真相を知りたいゾラは、犯人の姉に偶然を装って近づきます。ロールはサッカーの部活に忙しい快活な少女。恋人のアレクサンドルが暴行で警察に捕まります。16歳の彼女だけでは面会は無理で、偶然知り合った医師に頼み、面会を続けています。ステファンは、母とも恋人エルザとも上手くいきません。ある日エルザが街で暴行を受け、助けたピエールと知り合います。ピエールはステファンの容姿を観て驚愕。自分の友人が刑務所に入っている。当分遊んで暮らせる金を渡すので、友人と入れ替わって、刑務所に入って欲しいと申し出ます。

三つとも、それぞれ全く違うようで、似通っています。それは皆が皆、とても不注意で無用心なのです。ゾラは簡単に犯人の姉に正体が割れてしまうし、姉は姉で、唐突に現れ優しさを見せるゾラを、簡単に信用してしまいます。ロールは顔面傷だらけの、本名も知らないアレクサンドルとすぐ恋仲になります。そして親に相談せず、行き当たりばっかりの行動に出る。浮草暮らしで定職も持たないステファンは、どう考えても堅気でないピエールの申し出を、お金のために受けてしまう。皆が皆、あまりに短絡で刹那的なのです。

私の職場である精神科のクリニックは、全国から生活保護を求めて、たくさんの人がやってくる地域です。その人たちの過去の出来事を知ると、もしかしたら、私も同じ立場だったかも?と思えてなりません。目の前に現れる人生の選択。そういう機会は、幾度となく来るはず。辛い時に、人には隙が出来る。藁をも縋りたくなる。そして自分から悪い方へ悪い方へとチョイスした結果が現在。悲しみや辛さは、正常な判断が出来なくなるのだと思います。もしかして、この作品の登場人物も同じではないのでしょうか?

ゾラの気持ちはよくわかるし、ロールも両親の離婚を匂わせているセリフがありました。弟のせいでやつれ果てた姉は、事件は加害者の家族をも、壮絶な苦悩に苛ますと感じます。ロールに同行する医師の好意を無にするような無礼なアレクサンドルは、多分移民。底辺で生きる辛さを、医師にぶつけているのでしょう。小心者で甲斐性のないステファンが、ピエールの申し出を受けたのは、仕事で酔客にからかわれるエルザを見たからでした。

私にも誰にも、人生で重大な選択があったはず。登場人物たちをそう解釈すると、この人たちは、私だったかも知れないと感じ出すのです。それはもしかして、塀の外の人たちの苦悩を描くことで、塀の中の人たちも、観ている観客と紙一重、簡単にそうなってしまう。私たちだって彼らと同じだと言いたいのかと思い始めると、あれもこれも疑問が解けていき、一人一人がとても愛しく思え、この善良で弱き人たちを、誰も責められないのです。

刑務所に出入りする人は、中も外も、一般的な私たちが想像するフランス人の容姿とは異なり、様々な人種がいるようです。この辺は、フランスの移民事情を表しているのかと思いました。やはり恵まれてはいないようです。

ロールがラストに医師にキスします。それは愛情ではなく、今までの感謝だったと思います。臭いものには蓋をしながら、自分に都合の良い事だけを優先してきた彼女が、ある事を契機に、辛くても正しい選択を決断しようとしているのだと思いました。一番若い彼女に、三つのお話の将来を託しているのでしょう。

しかし私の娘くらいの若い監督が、よくここまで底辺の人たちの心を受け止め、異国の私にまで、彼らに寄り添わせたなと、本当に感心しました。レア・フェネール、次も大いに期待して待っています。


2013年01月20日(日) 「TED テッド」(吹き替え版)




1月一番の期待作。いや〜楽しかった、面白かった!奇想天外な設定の、お下劣おバカ映画を装いながら、恋愛や友情の本質もきちんと描けている秀作です。監督はセス・マクファーレン。

1985年のクリスマス。友達のいない孤独な8歳の少年ジョンは、プレゼントされたテディベアのぬいぐるみに大喜び。早速「テッド」と名づけて、何でも彼に語りかけます。神様にテッドに魂が宿るようお願いすると、翌朝テッドは何と願い通りに。以来27年、片時も離れた事のない一人と一匹は、同じように年を重ね、今じゃ立派な(?)ダメ中年男同士。しかしジョン(マーク・ウォルバーグ)と四年越しの恋人ロリー(ミラ・クニス)との関係が悪化、ジョンはテッドと離れて暮らす決意をするのですが・・・。

冒頭のジョンとテッドの「馴れ初め」から現在に至るまでの紹介が秀逸。ディズニーのような心温まる様相で描きながら、毒がいっぱい。写真での彼らの成長と言うか変遷も楽しく、すんなり今に入っていけます。

外見は愛らしいままなのに、人間のジョン以上にエロくて不良オヤジになっているテッドの様子に、まず爆笑。悪友であり親友である二人の親愛っぷりは、微笑ましくも幼稚丸出しでね、一生中二のようで、男の本質ってもんが描けています(ごめんなさいねー)。

15Rの作品で、直接的なエロシーンはテッドが担当で、これがもう爆笑で。ちょっとここに書くのがはばかれる台詞も、テッド担当。若い頃なら耳まで赤くなったはずですが、お陰さまで私もいい年なんで、大爆笑の連続です。エロがぬいぐるみのお蔭で、抵抗なくに見やすくなっており、かつこのファンタジック(かな?)な設定が妙にリアルに感じ、ここは技ありの感が。

愛するジョンのため、テッドとも上手く付き合いたいロリーですが、ある事で堪忍袋の緒が切れて(当たり前です)、ジョンに自分を取るかテッドを取るかと迫ります。ロリーのキャラが秀逸。社会的にキャリアのある女性ですが、社会的にも人間的にもヘタレのジョンの、内面の純粋さを心から愛しています。同僚にジョンの甲斐性のなさを指摘されると、「私は彼が用務員でも好きよ」と言い切ります。そしてこんなに素敵なのに、ジョンはテッドと自分なら、テッドを取るかも?と怯えています。あぁ恋する女心よ!




そんな愛しいロリーを、小悪魔的な華やか容姿のミラが、とてもキュートに演じています。派手な雰囲気が今回功を奏し、とても情の厚い女性に感じました。自分が経済的に自立するって、本当に良いことですよ。ジョンがヒモのような男では論外ですが、何とか働いています(←ここ重要ポイント)。自分が仕事持っていれば、相手の甲斐性を気にせず好きな男を選べるんだぞ(私は口を酸っぱくして、独身女子職員に説いておるのじゃ)。しかしその仕事も、テッドのお蔭であやふやになってきては、ロリーが激昂するのも、うべなるかな。

ロリーの女心に感情移入して観ていると、何故だかジョンの気持ちもわかるのです。彼も心からロリーを愛しているのに、ロリーの当然の願いは叶えられない。「わかっちゃいるけど、止められない」わけ。この辺りになると、これはうちの夫婦、それも若い頃だわと思い始めます。だからジョンとロリーは、私であなたで彼女で俺なの。お互い高めあって成長したい女と、そうだなぁ〜とぼんやり同感しながら、実は何も考えていない、でも君の事は本当に愛しているんだよ!の成長出来ない男のお話なんだと気づくと、とても身につまされるのです。特に「もう一度、俺頑張るから!」と言えない(正直だから)ジョンに、嘘でもいいから言ってくれたら、信じたいロリーの場面など、涙なくして見られません(いやマジで)。「ブルー・バレンタイン」と、同じことを描いているのに、こっちの方がずっと解り易く愛せます。

その愛せる理由は、もちろんテッドの存在。普通怖いですよ、世間に放り出されたら。ぬいぐるみなんだし。でもテッドを愛すればこそ、「別居」を決意した彼。ジョンの幸せを誰よりも願っていて、彼にはロリーが必要だと認識出来ているのですね。この辺の「男同士」の友情も、つるんでバカやっているシーン、本気の流血の喧嘩(見所です)など、とても実感溢れていたし、ジョンを思うテッドの男げには泣けました。これならあそこがなくても、女性にモテモテなのは、よくわかる(笑)。ここら辺も、男性諸氏はツボにはまると思います。

「フラッシュゴードン」のパロディが多用されていましたが、クィーンの「フラッシュ!アッァー!」の出だしと、扮装くらいしか覚えていない私でも充分楽しめました。その他トム・スケリットなど、往年のハリウッドスターから若手のテイラー・ロートナーまで、セリフやスクリーンに、映画や俳優がわんさか小ネタで登場します。私が一番気に入ったのは、テッドからの着メロが「ナイトライダー」だった事。毎週楽しみにで観ていました。監督、若いのに、だいぶ映画やポップカルチャーに精通しているみたいです。

ロリーが母のような心で二人を受け留め、ホロホロする場面で終わると思いきや、エンディングでまたふざけ倒して、大爆笑のまま鑑賞を終えました。ここまで来ると立派な才能ですよ。監督に憧れる男子続出の予感。


2013年01月17日(木) 「ルーパー LOOPER」




面白かった!近未来、殺し屋となった男が、未来から来た自分を殺さなければならない・・・。何となく既視感満タンのSFです。未来から来た男もブルース・ウィリスなんで、普段ならパスしてもいいんですが、今の若き主人公を、絶賛売り出し中のジョセフ・ゴードン・レヴィットが演じているんですね。だから観ました。何故彼が、如何にもB級っぽいこの作品にキャストされたのか、鑑賞後は物凄く納得。レヴィットの繊細な個性と演技のお蔭で、グンとグレードの上がった作品に仕上がっています。監督はライアン・ジョンソン。

2044年。30年先の2074年にはタイムマシンが開発されていましたが、使用は禁止されていました。しかし未来社会では、人間の体にマイクロチップが埋め込まれ事実上殺人は不可能。そこで犯罪組織は違法にタイムマシンを使って、過去である2044年にターゲットを送り込み殺人を依頼。死体処理も行っていました。その殺し屋たちは「ルーパー」と呼ばれ、ジョー(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)もその一人。淡々と仕事をこなしていた彼の元に送られたターゲットが、2074年の自分(ブルース・ウィリス)であった事から、ジョーの運命の歯車が狂ってきます。

今までの数々のSFアクションから、あれこれ組み合わせたような内容です。ちょっと風呂敷広げ過ぎで、とっちらかった印象があり、途中はあわやトンデモになるのか?とも危惧していました。タイムパラドックしている人間が過去の自分と会話するなど、今まで禁じ手とされてきた描写はありますが、脚本は張ってあった伏線は消化するし、辻褄も合います。私が一瞬トンデモ?と感じたのは、語り口がな滑らかでなかったからかな?キッド・ブルー(ノア・セガン)は、ただの用心棒で良かったし、その分、エドワード・ノートンのバッタもんから脱した、ポール・ダノ演じる別のルーパーを掘り下げる方が良かったかと思いました。

ストーリーは滑らかさにこそ欠けますが、展開は早く、わかりづらい設定は、独白やセリフで説明してくれるので、困りません。ウィリスは老いたりとは言え、やはりアクションは手馴れたもの。長年ハリウッドで主役を張っている人の力量と貫禄を感じます。息子を叱るように若き日の自分を説教する場面は、共感を覚える人も多いはず。私も若い頃の自分に会えたなら、あれもこれも教えたいな。

後半は若い母親サラ(エミリー・ブラント)と幼い息子が、若きジョーと絡みます。ここでミスターマリックみたいな超能力の伏線が、生きるとは思っていませんでした。上手いのか下手なのか、イマイチわからない脚本なんですが(脚本も監督)、とっちらかると、軌道修正してまとめるので、まぁいいかな?と思えます。

と、こそこそ気になりつつ、それでもそんな事どうでもいいわ!と思わせてくれたのが、繊細な青二才感がいっぱいだった、素敵な素敵なレヴィットのお陰。ルーパーを引退したらフランスへ行きたいと言うジョー。将来の事を考えているはずのに、麻薬に溺れ、やるせない死の匂いと空虚さが、そこはかとなくまとわりついています。この憂い、どこから来るのか?と想像しながら観ていたので、自分の生い立ちを語る場面で腑に落ち、ラストの決着の付け方にも納得できます。

そして私が思わず泣いてしまったのが、一度は子供を捨てた事があるサラが、そのせいで懐かぬ自分の息子に対して、「あの子が私を愛してくれなくてもいいの。あの子の傍でずっと世話をしてやりたい」と言う台詞です。この心の底からの母の決意と悔恨の吐露が、若きジョーの心を動かしたに違いありません。エミリー・ブラント、いろんな役柄をこなし、順調に大成しているようで嬉しいです。

老いたジョーが、人生の意義は誰かを想い愛することだと説きます。愛する人のため、危険を冒して過去に舞い戻った老いたジョーですが、若きジョーの行動は、結果的には老いたジョーの心を汲み取ったものだったと思います。随所に心が揺さぶられるシーンがあり、この監督の、アクション抜きのドラマが観たいなと思いました。不敵なふくれっ面が可愛いサラの息子にもご注目下さい。


2013年01月13日(日) 「マリー・アントワネットに別れをつげて」




遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願い致します。

え〜、年末に頑張ります、などどと書きましたが、のんびりしていたら、すっかり出遅れました。今年初映画がこの作品です。すっごく良かった!と書きたいのですが、これがどうも。あの予告編、なんかミスリードの気がするなぁ。締まりの悪い作品でした。監督はブノワ・ジャコー。

1789年、パリのベルサイユ宮殿では、王妃マリー・アントワネット(ダイアン・クリーガー)の「読書係」を、少女シドニー(レア・セドゥ)が務めるていました。王妃に憧れ、身も心も虜のシドニーでしたが、王妃の心は側近のポリニャック夫人(ヴィルジニー・ルドワイヨン)のものでした。折しもバスチーユが陥落。世に言うフランス革命の嵐が吹き荒れ、ギロチンリストが出回ります。その中にはポリニャック夫人の名前も。王妃はシドニーに、夫人の身代りになって欲しいと「命令」します。

と、予告編通りのあらすじなんですが、決定的に違うのが身代りの意味。私はてっきり、シドニーがギロチン台に上ると思っていたのですが、これがさにあらず。まっ、身代わりっちゃ身代わりなんですが、これが肩透かしなのよね。呆然や唖然なら、怒りとか驚愕とかの感情が沸くのでしょうが、肩透かしなので、この気持ちと言うか期待?どこへ持っていけばいいのでしょうか?となる。

そして、この場面は当然最後に用意してあるわけですが、ここまで来るのに演出が平板。ただ出来事を羅列しました的描き方です。恥ずかしながら、途中10分ほど寝落ちしてしまいました。

フランス革命やアントワネットは、深くは知らなくても、「ベルばら」なんかでちょっとは知識はあるわけですよ。王妃がポリニャック夫人に焦がれる様子、二人のキスシーンなど、官能的なんですけど、側近として寵愛するのと、想い人として恋するのは違うと思うんですよ。私としては、フェルゼン!どこに隠れている!の気分なわけ(実在の人物なのよ)。これを知らなきゃ、王妃は夫であるルイ16世は面白味のない人だけれど良人なので、性愛は女性への恋心に変身させて、貞操を守っていると取るのですが。夫人ももちろん夫がいるしね。この辺「寵愛」の表現の仕方も、想像と違いました。この辺は先に先入観を持っていた私が悪いかも?シドニーの背景は、ラストにチラッと語られるだけですが、少女がやんごとなき身分の麗人に心酔するのはよくある事で、レアの好演も相まって、違和感なかったです。

そしてもう一つ違和感がクルーガー。私はこの人は好きな女優さんですが、アントワネットはミスキャストの気がします。アントワネットは「パンが食べられなければ、ケーキを食べればいいわ」の言葉が有名ですが、こういう稚気な言葉を発する人には見えません。傲慢さやわがままさ、それと相反する優しさや、生まれ持っての優美さとの落差も感じられず、魅力に乏しいです。

ロケは実際にベルサイユ宮殿を使っており、空間の使い方、部屋の間取り、衣装・調度品に至るまで、それらは興味深く拝見出来ました。豪華絢爛ではなかったのが、意外でしたが。

もうちょっとしたら盛り上がる、と期待しつつ、そのまま終わってしまったのが、締りが悪い気分になった理由です。ちょっと残念な新春一本目でした。


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