ケイケイの映画日記
目次過去未来


2012年11月25日(日) 「その夜の侍」

元は舞台劇なのだとか。役者さんたちが総じて好演しているので、とても見応えはありましたが、面白くはなかったです。観た直後は、そのことが大いに不満でしたが、一晩寝てみると、それはそれで値打ちがある作品かな?と、気分的には盛り返しています。監督は舞台版も演出している赤堀雅秋。

小さな町工場を経営している中村(堺雅人)。五年前妻(坂井真紀)をひき逃げ事故で亡くし、抜け殻のようなまま日常を過ごしていました。そんな彼を妻の兄青木(新井浩文)は心配して、度々中村の元を訪れています。犯人の木島(山田孝之)は刑務所を最近出所。しかしひき逃げを起こした事の反省もなく、友人の小林(綾野剛)の元に身を寄せながら、傍若無人の限りを尽くしています。そんな木島の元に、「8月10日、お前を殺して俺も死ぬ」と言う脅迫状が毎日届いていました。8月10日は、中村の妻の命日でした。

登場人物はわかる人もおり、そうでない人もあり。一番心を寄せたのは中村です。冴えない中年男で、生前直前の留守電を何度も聞く、遺骨を今でお墓に収められずお膳の上においてあり、部屋には妻の衣服だらけ。ポケットに常に妻のブラジャーを入れている姿など、一歩間違えば変態です。しかし堺雅人は上手かった。仕事で汗まみれなのに純粋な雰囲気、腰が低く寡黙な姿から、善き人である事が伺えます。その様子は未練がましく女々しいのではなく、妻への愛が溢れているのだと感じました。私なんか、右のポケットにパンツ入れてもいいのよと、言いたくなりましたもん。

対する木島は、良心と言うもんが全くないような男。暴力的で奔放、解釈は常に自己中心。吐き気がするような男です。山田孝之は最近こんな役柄ばかりで、お手のもん的に観客を惹きつけます。役柄的には、中村の方が難しいでしょうね。一歩も引けをとらない堺雅人の上手さを、山田孝之を観ながら確認していました。

一つ一つのプロットが息詰まるようなので、見応えがあったのだと思います。でも長いんですよ。暴力シーンしかり、語らうシーンしかり、ラストの雨の対決シーンしかり。長い間に、グワーと気持ちが盛り上がって来る人もいるでしょうけど、私は退屈感の方が大きかったです。何故なら理解出来ない登場人物が多かったから。

筆頭は谷村美月。理不尽に体を求められ、えっ?許してしまうんですか?の次の日は、部屋に上がらせ食事まで作る。「誰かが家にいるっていいですね」ってあなた、一人より狂犬でも誰かといたいの?また出た!バカ女・・・の気分です。これを孤独だからと表現するのは、安易過ぎると思うのですが。嫌々であるならまだしも、結構喜んでいる。田口トモロヲに貸したパジャマ、私なら次の日捨てます。洗濯したって着ませんて。それ以前に貸しません。私が意地悪なの?謎すぎる。

次は義兄。何となくはわかるんですよ。義弟である中村に幸せになってもらわねば、本当は彼も妹の死が吹っ切れないのでしょう。ならば何故木島にあんな形で屈するの?「平凡は全力で作り上げるもんだ」は名台詞だと思います。なのでいくら恫喝されたからと言って、私にはあれが全力とは思えません。

次は田口トモロヲの小林の同僚。木嶋の暴力に合って、支配されているのはわかります。でも更なる他者への暴力の場面で居合わせる必用はないでしょう?その理由が「暇だったから」って、それはないでしょう?ここは猛然とセリフに腹が立ちました。こんな脱力系のセリフで、支配されれているだろう人の心を表現しないですよ。

次は安藤サクラのホテトル嬢の場面。糖尿でセックス出来ないはずの中村が彼女を呼んだのは、「たわいない話」をしかったからでしょう。その気持ちはわかる。でもだらだら同じ事の繰り返しが、またくどい。段々金もらってるんだから、もっと真面目に仕事しろよと、安藤サクラに腹が立つ。

書きながら感じるんですけど、結局この監督の演出が私の感性と合わないのですね。

反対に理解出来たのは小林。彼こそ木島がどんな男か、骨身に沁みているのでしょう。でも行方をくらませて、木島を巻くことは出来たはず。言い訳じみた「あいつには俺がいてやらないと」の台詞も本心、木島に死んでもらいたいと思う気持ちも本心でしょう。これも愛憎かなぁ。

木島が包丁を持ち出したとき、中村が怖いのだと思いました。現状を守りたい人間には暴力は有効であっても、そうでない人間には無効なのですね。それを動物的な嗅覚で嗅ぎ取ったのでしょう。

中村の「君には関係のないことだ」と言う台詞は、自分の心にはお前なんか入って来られないんだと言う事なのでしょうか?そう言いながら、木島に執着する様子は、とても人間臭いと思いました。でも!やっぱりこの台詞へ来るまでのシーンが長い!私的にはあんなに要りません。ラストの締めくくりは悪くなかったけど、プリンも一回でいいよ。

一番好きなシーンは、中村に雇われている工員さんが、彼と何気なく過ごした後の涙です。工員自身何故泣くのかわからないと言います。そんなもんですよ。心の中で社長の幸せを願っている、その気持ちが涙になって現れていたのだと思いました。中村と言う人が、とても良く現れていたシーンだと思います。

書いてて結構いい映画だったのか?と思い直しています。あと10分、いや20分短かったら、感想が変わっていたかも?でもこの尺は面白くなかったです。


2012年11月23日(金) 「ふがいない僕は空を見た」




「あんたは誰にも謝らなくていいよ。生きててね」と語る原田美枝子演じる主人公卓巳(永山絢斗)の母の台詞を聞いたとき、あちこち綻びのあるこの作品に、私が何故惹かれたのか腑に落ちました。他にも二人母親が出てきて、ヒロイン里美(田畑智子)の亡くなった母も含めると、若い彼らが何故あのような行動に出たのか、理解出来る気がしました。監督はタナダユキ。

高校二年の卓巳の家は、母が営む助産院で生計を立てています。卓巳は友人に誘われたコミケであんずと名乗るコスプレ姿の主婦・里美と知り合います。彼女の誘いから情事を重ねる間柄となります。同じ頃、卓巳の親友良太(窪田正孝)は、母親が家出し、認知症の祖母を抱えコンビニでアルバイトしながら貧困に喘いでいました。

冒頭からコスプレ姿の二人のセックスシーンが映り、全然予備知識がなかったので、ちょっとびっくり(18禁と言うのも後で知る)。しかしいつもと違う、笑顔が少なく年齢より幼い憂いのある脆い里美を、田畑智子は好演していました。里美はサラリーマンの夫とふたり暮らしで、不妊治療をしており、姑(銀粉蝶)からはその事できつく当たられています。

この姑の様子が一種ホラー。最初は穏やかに、段々真綿で首を絞めるように、そして恫喝。銀粉蝶がお芝居上手なので、孫に妄執する初老の女の怖さだけではなく、哀しみも感じさせるのです。その思いは理解出来るものの、子供夫婦の事に口出しする浅ましさは、私は嫌いです。このお母さん、夫存命の時から、母親以外の自分はなかったんでしょうね。子供が巣立つ少し前から、女は母親以外の自分も準備しなくちゃ。

夫は無神経で気持ち悪いし、姑はこれだし、そりゃ浮気もしたくなるわなと里美の気持ちは同情できます。しかし専業主婦でコスプレ姿でコミケに行く時間があり、セックスの度(多分)に卓巳にお金を渡す様子は、これはダメでしょ?夫の稼いだ金で浮気なんかするな。里美はアニメの主人公に未だ恋心冷めず女性です。自分のヒーローに似た卓巳との情事は現実逃避であり、お金という媒介を通すことで、かろうじて自分を納得させているのでしょう。幼さと年齢相応の浅はかな「言い訳」。きっと離婚したかったのでしょうけど、母は亡く帰る家がない。それでも突っ走る強さは、彼女にはなかったのでしょう。

ただ何故この夫と結婚したか?虐められていたと語るだけで、その経緯にふれていないので、全面的に彼女に同情出来ません。「ヤリマン」など悪口がかかれているノートを未だ所持しているのも不思議。そのノートには自分が書いたヒーローの似顔絵が書かれていて、捨てるに忍びなかったのかも知れませんが、それなら悪口の部分を破けば済む事。何故「ヤリマン」と呼ばれるようになったのか、そこも描かれないので、せっかく田畑智子が里美を繊細に熱演しているのに、これではただのあばずれのように思えてしまいます。

視点を変えて、何度も繰り返す同じシーンも、わかりづらいだけで上手く機能していません。これは時空を弄らず、そのまま撮った方が良かったと思います。卓巳の心情は描き方が浅いのではなく、永山絢斗の演技が一本調子なので、わかりづらいだけだと思いました。

ある事で卓巳が不登校になってから、主体が良太に移って行きます。監督の思い入れが強いのか、窪田正孝の好演とが相まって、こちらの方が見応えがあります。彼の現状を知る卓巳の母は、お弁当を渡すも良太は廃棄。施しが嫌なのだと思っていましたが、彼が団地の同級生純子と、ある不可思議な行動を取った時、あれは卓巳に対する嫉妬なのだと思いました。同じように父親がいない自分たち。母親に甘えて塞ぎ込む場所のある卓巳対して、高校生の自分から、金をむしる取るような母親しかいない自分。自分を取り巻く劣悪な環境に対して、怒りの矛先を「いい気な親友」(に見えたと思う)にぶつけた良太の心情は、わからなくもないのです。

助産院まで誹謗の対象になっているのに、「あのバカ」としか言わず、怒りもせず学校へ行けとも言わない卓巳の母。その代わり、一緒に恥をかく。冒頭書いた台詞を聞いた時、子供を見守ると言う事は、こういう事なのだと涙が溢れました。思えば苦境に陥る良太を観ながら、私は泣けませんでした。それは良太が歯を食いしばり耐えたから。彼は泣かないのです。知らず知らずに見守る気持ちになっていたのでしょう。私が泣いたら、彼を見守れないもの。卓巳の母のお弁当の気持ちが初めて良太に届いた後は描かれませんでしたが、今後の事は卓巳の母に相談すると思いました。

私も子供に何か特別な事をしてやった母親ではありません。心がけたのは毎日の食事は出来るだけ自分の手で作り、お弁当もしっかり作る。中学を卒業するまでは、子供が家に居る時は私も遊びに出掛けない。仕事以外では帰宅を待って「お帰り」と迎える。それだけです。卓巳の母も、安定した病院の助産師を辞して、自宅で運営の大変な助産院を開いたのは、理想のお産を目指すだけではなく、卓巳の為だったのかも知れません。きっと卓巳の父親が出奔してからなんだろうなぁ。

助産師として、生まれてすぐ亡くなる子供について言及する卓巳の母。何故生まれてきたのか、未だにわからないと。それは私もいつも考えている事です。死産もしかりですが、生まれてすぐ殺されるために生まれて来たような赤ちゃんの事を聞くと、いつもいつも暫く考えてしまいます。何かを親に教えるため?それだけでは、あまりに赤ちゃんたちが不憫です。少しでもそれを探りたくて、たくさんの命を守って下さいと祈る卓巳の母に、とてもとても共鳴したのが、私がこの作品が好きな理由です。この作品に出てくる母親三人は、みんな夫がいません。母親の在り方が、子供の人生を左右すると言われている気がしました。

人間は皆、何かしら欠落を抱えて生きています。それをどう捉えるか、どう対処するかによって、人生が変わって行くと思うのです。逆境を経て各々自分なりの身の施しを学んだ様子が映され、嬉しく思いました。女性だけど男前の助産師みっちゃん先生(梶原阿貴)の痛快さも、お見逃しなく。


2012年11月18日(日) 「チキンとプラム〜あるバイオリン弾き、最後の夢〜」




梅田ガーデンシネマで予告編を観て、ずっと楽しみにしていました。フランスの作品ですが、舞台は原作者で監督でもあるマルジャン・サトラビの故国であるイランです。現在フランス在住の監督ですが、故国への思いは深いようで、一人の男性バイオリニストの一生を描いているようで、実は世相や因習に縛られる人々、とりわけ女性の苦難を描いていたと思います。情熱的なのにクール、ウィットに溢れながらシニカルな秀作。ヴァンサン・パロノーとの共同監督。

1958年のテヘラン。バイオリニストのナセル・アリ(マチュー・アマルリック)は、教師である妻のファランギース(マリア・ディ・メデロス)との間に、二人の子供がいます。バイオリンを弾けなくなった夫に代わり家計を支える妻は、そのストレスで癇癪を起こしてばかり。絶望を感じたナセル・アリは、死ぬ事にします。

オープニングが童話風で愛らしく、クラシックな異国の情緒感がたっぷり。ナセル・アリが死を決意し、亡くなるまでの8日間の出来事を回想で描く手法で、コミカルな作風が段々と現実世界とシンクロし、童話は大人の寓話へと変化して行きます。

ナセル・アリが自死の仕方をあれこれ想像する様子がユーモラス。笑わせながら、彼が唯我独尊の人であり、自分なりの高い美意識を持ち合わせていると感じさせます。ちょっと皮肉っぽいかな?それを裏付けるように、最初は働かぬ夫を詰り、キャンキャン吠えてばかりのように思えた妻は、実は夫を心から愛しており、仕事に家事育児と、一人で抱え込んでいる為のストレスだとわかります。芸術家の孤高のプライドのため、犠牲になった俗世間の人と言う図式に思えました。

ここで重要なのは、夫は母親からの勧めで結婚した妻を、愛せなかったと言う事です。実はナセル・アリには修行時代の若かりし頃、愛を誓ったイラーヌ(ゴルシフテ・ファラハニ)がいましたが、彼女の父親が、先行きの判らぬバイオリニストに娘はやれぬと悲恋に終わった経緯があります。ナセルは彼女を終生愛していました。しかしこれはどうか?子供も出来たし、過去は過去で美しい思い出をとして残し、今の家庭を大切にするべきでは?

しかしダメな夫をアマルリックが憎めぬ男として好演するので、これだけの意味ではないなぁと感じます。ナセルが結婚したのは、公演で世界中を回って帰国した後で、40歳の時。彼が一番輝いていた時です。ママ(イザベラ・ロッセリーニ)が、強くファランギースを嫁にと勧めた理由は、彼女が教師として甲斐性があったからじゃないかな?それは、安定しない職業を選んだ息子の行く末を案じてだったかと思います。それはイランは芸術に対して評価が低いと言うのを表していたのかも?

これ以外にも、監督のサラトビは、アメリカ支配のイランを子供時代に体験し、パーレビ追放からイラン革命を経験し、やがてフランスに渡ったそうです。作中でも共産主義で投獄されたナセリの弟は、ママが全財産を叩いて出獄できた事、革命後アメリカに渡ったナセリの息子の能天気なバカっぷりには、監督のアメリカを観る視線に思えました。これらは、監督の体験から滲みでた思いなのでしょう。

愛らしくユーモラスに、影絵の如くの淡い味わいで描かれていると私が感じていた作品は、しかし、ラスト近くの老いたイラーヌの涙に不意打ちをくらい、号泣する羽目に。イラーヌは父親の決めた人と結婚、安定した人生を送っている様子が描かれていました。しかし結婚前の弾ける笑顔はなく、笑顔は見せても憂いのある表情ばかり。彼女の涙は、愛した人の思い出も忘れなければ生きていけない、そんな抑圧された人生を物語っています。

思えばママも未亡人として苦労し、ため息は煙草の紫煙と一緒に吐き出していたのでしょう。それが毎日二箱吸った理由。思春期から焦がれていた人と結婚したファランギースは、夫の愛を得ることも出来ず専業主婦にも成れず。女は家庭にいてこそ幸せという、価値観に縛られていたのですね。彼女も眉間に皺を寄せ、怖い顔ばかりで、愛らしい独身時代の笑顔はありません。ナセリの娘(成人後キアラ・マストロヤンニ)も、明朗な子供時代の面影はなく、やさぐれて魔女のよう。監督は一見登場人物の中で、一番幸せな女性であったろうイラーヌの涙に、解放されず閉塞感に苛まれるイラン女性の苦悩を込めていたのかと思いました。女同士、その心が届いて、私の号泣に繋がったのかと思いました。

その他印象深かったのは、ナセリが俗物として嫌っていた息子が、一心に父親の回復を祈っていた事。それを感謝もしない傲慢な父親ナセリの様子は、父親ではなく、芸術家の選民意識に感じました。イラーヌの父親は、強い父権を持っていましたが、善き人でしたもの。

弘法筆を選ばすと同じで、ナセリは思い込みを捨て、バイオリンを弾くべきだったと、私は思います。だって彼の人生を彩った女性たちは、皆彼の音色を愛していました。ママがファランギースを選んだのは、心置きなく、息子にバイオリンを弾いて欲しいと思ったからだと思うな。弾き続ければ、ファランギースの心も潤い、イラーヌも彼の姿を影から見られたでしょう。ナセリの師匠の言葉の意味は、バイオリンの中ではなく、弾く人の心にあったと思います。

さらっと、本当に楽しく描いていたので、ラストの情念の篭った涙には、本当にもっていかれました。恋心、イランの内情、女性たちへの思い、芸術とは?などなど、盛りだくさんに描かれている作品です。それがたった90分ちょっと!「ベルセポリス」は未見で超残念。この監督さんも、これから追いかけて行きたいです。


2012年11月15日(木) 「シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語」




夢のようにファンタジックな92分。ご存知シルク・ドゥ・ソレイユの舞台を、ストーリー仕立てにして描いています。ドキュメントの方が良かったと言う感想も目にしますが、こんな夢心地の世界、私は舞台裏なんか知りたくないわ。監督はアンドリュー・アダムソン。製作総指揮はジェームズ・キャメロンです。

サーカスの公演を見に来た少女ミア(エリカ・リンツ)。ブランコ乗りの青年(イゴール・ザリコフ)とお互い心惹かれるものがありましたが、青年が演技の最中落下。巨大な砂の海に飲み込まれてしまいます。後を追ったミアは、不思議は世界に迷い込みます。

内村航平が100人いるみたい!超人的な技が独特の世界観の中、繰り広げられます。7つのパートに分かれており、それぞれポップだったり禍々しかったり躍動的だったり、テーマがそれぞれあるみたいですが、一貫していたのは、幻想的でエレガントな世界でした。人間の身体の表現力には、驚くばかりです。

パフォーマンスは空中ブランコや壮大なジャグラー、中国雑技団的なアクロバットなど、大掛かりなサーカスでは観られる演目でしょうが、とにかく美術が凝っていて目に麗しいです。扮装もシンプルなのから悪趣味までとりどりです。板を垂直に立てた上でのワイアーアクションは、様々アングルから観られて、真正面からのアングルに戻ると、本当にハッとします。ここは映画ならではです。ラスボスみたいな人は怪人フー・マンチュー風だったので、やっぱり香港映画を意識したのかしら?トランポリンを使ったアメコミ風のパフォーマンスは、この人たち、スーツがなくてもスパイダーマンに成れるわと、ニコニコしちゃいました。それぞれにクラシック風、プレスリー、ビートルズなどの曲が流れ、台詞がほとんどない映像を、上手くバックアップしています。

エリカはベリーショートがとてもお似合いで、ボーイッシュではなくガーリーで清楚な雰囲気を醸しだし素敵でした。想像ですが、年齢をごまかすためかな?素朴で好青年風のイゴールとお似合いでした。ラストは二人がキスしてくれるところが映画的。

ただ生だと飽きないのでしょうが、長く感じるパフォーマンスもあり、私は1〜2分切っても良いと思うのもありましたが、これは個人で違うでしょう。私のようにシルクは観たいと思っているけど、未だ果たせずの人には、華麗な入門編になると思います。次回日本に来た時は、絶対観るぞ!


2012年11月11日(日) 「悪の教典」




面白かった!登場人物がすごく多くて、多分貴志祐介の原作では、人物の背景をしっかり描いているのでしょう。しかし二時間の映画では全部描くのは無理。なので主人公の蓮実(伊藤英明)がサイコパスであると言う事のみに力点を置いた描き方で、とても潔いです。この描き方、私は成功していると思います。監督は三池崇史。

高校の英語教師の蓮実聖司は、ハンサムで優秀、生徒からの人気も同僚教師からの人望も厚い先生です。しかし彼は、実はサイコパスのシリアルキラーと言う影の顔を持っていたのです。

予告編で蓮実がガンガン生徒を殺す場面が出ているのは、ある意味大きなネタバレのはずです。それを意に介さず観られる工夫が、あちこちにあります。まず生徒役に新進の有望株がいっぱい出ています。染谷将太と二階堂ふみの「ヒミズ」コンビに、林遣都。「桐島」からは、松岡茉優に浅香航大。青春スポ根俳優・遣都君は、今回意外や文系美術部の子。それも今までの爽やかイメージを覆す役柄で、それが何とも彼の美形にマッチして似合っていました。松岡&浅香組も、今回は純情かつ素朴な役柄で、その落差を楽しんだし、他の主要な生徒も、これから赤丸付きになりそうな子もおり、フレッシュな高校生らしい雰囲気作りが良かったです。

教師の生徒へのセクハラや肉体関係の描写はありますが、レイプや女性との裸はなし。代わりにサービスで出てるのが、ほとんどオールヌードの伊藤英明が体を鍛えるシーンです。私は「蘇る金狼」の松田優作を思い出しました。そうだよな、シリアルキラーは体を鍛えなきゃなと、妙に納得。

「マック・ザ・ナイフ」が流れ、ハスミンのアメリカでのシリアルキラーの様子がブラックユーモアたっぷりに描かれる場面が垢抜けていて秀逸。蓮実が何故サイコパスなのか?全く背景を追わないのです。医者の息子であったが一家惨殺事件の生き残りであること、京大やハーバードを出て、アメリカの一流企業に勤めるも何故か退職。そして教職へ。類い稀な頭脳と容姿を持ったナイスガイは、実はサイコパスだった、理由なんてありませーん!と、それだけで充分に納得。以降の殺戮場面に無理を感じません。

前半は昔懐かしい学園モノの先生って感じの「ハスミン」。いつもの伊藤英明の延長線上の雰囲気です。その魅力的な姿を目に叩き込んでいたのも良かった。かなり血生臭い殺戮場面が繰り返されますが、妙に明るいです。何故か健康的。男子は女子を守ろうとするし、それに応えるかのように、女子は純愛を示めす。そして凶器は散弾銃なので即死。あまりいたぶって楽しむ様子は少なく、それも妙に健康な「殺し」に見えた理由でしょう。ところどころ挿入される緩いギャクも上手く間合いを外してグッド。御蔭で追い詰められる怖さが少し減ってしまったのは、残念です。

伊藤英明は売れっ子で、そうした人がこのようなピカレスクな役柄に臨むのは大変な冒険だったはず。しかしそれはそれは魅力的でした。中途半端な薄汚い犯罪者役より、いっそ突き抜けていて、殻を破るにはふさわしいです。彼の代表作になると思います。吹越満の「ほら、俺性格悪いでしょ?」以下の蓮実への推察は、スゴーく納得。根暗な様子がキモくて本当に上手い。山田孝之は、よくこんな役で出演したなと思いますが、これも彼の男気かな?良かったです。

本当に呆気なくバンバン殺されるので、ラストはどうなるのか読めませんでした。ラストのラストまで、ハスミンは明るく頭脳明晰なまま。あの様子は法律と世の中を知り尽くしてんのよね。To be continuedと出てきたので、次もあるのかな?ジェイソンやフレディに統合性は求めないでしょ?そういうつもりで、ハスミンを観て下さい。


2012年11月09日(金) 「終の信託」




これがあの周防正行の作品かと、呆然としました。最初から最後まで呆然・眠気・怒りが繰り返すだけの作品。それを延々二時間半!女医は大バカ女だわ、患者の嫁は薄らバカだわ、これ尊厳死を問う作品じゃなくて、女性及び医師を冒涜したい作品じゃないの?今回罵詈雑言、ネタバレです。

呼吸器内科の医師折井彩乃(草刈民代)は、同僚医師(浅野忠信)との不倫関係に破れ自殺未遂。鬱々とした日々を過ごす彼女を励ましたのは、患者の江木(役所広司)。やっと立ち直れた彼女は、江木から自分の終末を託されます。後々彩乃の判断で人工呼吸器が外され、江木は死去。しかし6年後、彩乃は嘱託殺人として起訴され、検事・塚原(大沢たかお)と対峙することになります。

とにかく滅茶苦茶な脚本・演出です。検察に呼び出された彩乃の回想が描かれます。これは良し。序盤で綾乃の不倫現場なんですが、これが何と勤めている病棟の空き部屋。おいおい!綾乃は全裸のファックシーンですが、おかしいだろ?いつ誰が来るかもわからないのに、三文ポルノだって、そんな事しないでしょ?これがお互い割り切った大人の関係ならまだしも、綾乃は本気。バッカじゃないの?(バカです)。バレたら大変なこんな所でやってしまう男に、誠意なんかあるわけないじゃん。遊ばれてるのがわからんのか?当時推定40過ぎですが、これで捨てられて自殺未遂とは、女としてあんまり未熟過ぎ。勉強ばっかりしてて、男は初めてだったなら、セリフで言って下さい。それでもバカですが。

次にこの病院、結構な規模の二次救急のようです。深夜は野戦病院の如くのはずなのに、風邪の女子だけの診察シーンで、他はシ〜ン。これも変。眠れず休みたいと言う綾乃に、当直医師が自分の机から洋酒を差し出すのに唖然。「いや、仕事が終わってからですよ」と弁解しますが、仕事場で飲酒すんの?帰りがけに一杯ひっかけるなり、家に帰って飲めば済むこと。アル中ですか?病院内では、彩乃の不倫は公然の秘密みたいで、「眠れない」と言う原因は、破局だと誰だってわかるわ。医師は激務なので眠剤を服用している人が多く、常に手持ちがあるはず。なので綾乃が発作的にアルコールで服用するのは、私でも読めました。ここも大いに疑問。

信じられない。手薄な夜間の救急、それも当直医が自殺未遂って、どれだけ迷惑かけてんの?浅野は綾乃に「俺にあてつけか?」と嫌味を言います。私もそう思う。何が嫌かって、こんな下衆な男と同調したくないわ。死にたかったら他で死ねよと思っていたら、死ぬつもりはなかったんだとさ(by彩乃談)。それなら思い切り精神科受診だろ?アル中当直医は「この事は内密に」とナースに言いますが、患者まで知れ渡ってんじゃん。どうして院長及び理事長が、綾乃を呼び出し事情聴取しないの?こんな状態で診察なんかさせられるかよ。普通謹慎でしょ?医療現場をバカにしてんじゃないよ。

そして江木に励まされ、立ち直る彩乃。しかし回診の時間が長過ぎ。医者ってそんなに暇じゃないぞ。それとプライベートな事、話し過ぎです。患者にとって主治医は一人ですが、医師にとっては多数の中の一人です。人間ですから、そりゃ気になる患者もいるでしょう。患者が心の底まで話すのは有りですが、でもその逆なんて聞いた事ないわ。ここも大問題。

江木は自分はもう働けず家族に厄介ばかりかけている。妻(中村久美)は妻の両親・夫である自分と介護ばかりの人生で可哀想だ。治療費も掛かる。なので延命治療はしたくない。最後は主治医であるあなたに任せると言います。何故妻に言わないのかと言うと、か弱いからだそう。一人で生きていけないと言うセリフもあったし、それなら長男にも遺言しとけば?

そしてこの奥さん、劇中では大層頼りない。夫の体のために天地療養を勧められているのに、慣れた土地が良いと言うし、退院時、ナースステーションに挨拶もしない。あんな誘導のような綾乃のムンテラにも「お金もあまり残っていませんし・・・」とバカみたいな返事しかしない。でも数年前に夫婦でイタリアにオペラ見に行ったんだよね?貧乏な人がそんな事できる?60回れば早期で年金も降りるし、重篤な喘息には、医療補助もあるはずです。ハイとイイエくらいしか言えず、大層地味で常にぼぉーとしていて、所帯やつれした風情は、か弱いのじゃなくて、言葉は悪いですが、ちょっと足らない人みたいなのです。社会的にはか弱くても、家庭と言う庭では、花を咲かせる専業主婦は世の中にいっぱいいます。だから都合20年間介護しながら、あんなまともそうな子供二人を立派に育てて、病弱な夫に寄り添って支えてきたんじゃないの?江木の妻の造形も、世の中の主婦をバカにしているのかと憤慨しました。

で、臨終のシーンが噴飯ものです。呼吸器を抜く前に、家族にお別れをさせるのですが、これが学芸会か?の描き方です。抜管後、静かに死なずに苦しみのたうつ江木に、もう明らかな麻酔の過剰投与。素人が観てもわかる。ナースも「えっ?」だけじゃなくて、止めに入れよ。そして遺体に泣きつく彩乃。おい!あんたが主役になってどうする?その前に死亡宣告しろよ!泣くのは遺族だろうが!泣きたいなら病室出て行け!もうこの辺で私の血管が切れそうになりました。

もう書いてて疲れちゃった。検事も嫌な奴でね、高圧的で無礼千万。人の言葉尻を遮り話しは聞かない。しかし!語る内容は至極真っ当です。語れば語るほど、綾乃の医師及び人としての未熟さが露呈するわけ。それに検察の呼び出しがあれば、先に弁護士に相談するでしょ?素人が裸同然で行きゃ、敵にいいようにされますよこれで勤務病院初の女性部長医師ってどうよ?どこが優秀なの?未熟さなら百回は見た気がするけど、そんなシーンあったっけ?何度も東大出身と連呼されますが、それで「優秀」を表してんの?あの周防正行が?この尋問場面が結構長いのですが、前半のバカ女描写の羅列よりは、まだちゃんとしていました。

草刈民代はヌードの濡れ場もありましたが、脱ぐ必要のない場面です。47歳の年齢を思えば綺麗ですが、四捨五入50の女の裸を見たい人が、そんなにいるとも思えず。そしてこの人、顔が暗いのです。「Shall we ダンス?」の頃は、若くてまだ華もあったので、気になりませんでしたが、今では美人でもありません。終始仏頂面で、表情がないです。台詞も回しも早口で語尾が聞き取りにくい。今後夫の作品以外で需要があるのか、疑問です。

まだ書き足らない気がするわ。ぶっちぎりで今年のワースト1です。


2012年11月04日(日) 「アルゴ」




映画の日、引き続き観たのがこの作品。実話です。もう少し後で観ようと思っていましたが、絶賛の感想があちこちで上がっており、これは早めに観なければと、はしごした次第。いや素晴らしい!ベン・アフレックの監督作はこれが初めてですが、結末のわかっている内容を、緊迫感を最後まで持続させ、ユーモアや感動まで忍ばせるのですから、すごい力量です。イーストウッドの後継者と囁かれるのも、納得でした。

1979年。イランでは革命が起こり、追放したパーレビ元国王の癌治療のための滞在を、アメリカが許したと怒ったイラン人たちは、在イランのアメリカ大使館を占拠。その際命からがら逃げ出した5人の外交官たちは、カナダ大使の私邸に逃げ込みます。見つかれば公開処刑は免れません。刻々とタイムリミットが迫る中、アメリカ国務省はCIAの人質奪還の専門家トニー・メンデス(ベン・アフレック)に白羽の矢を立て、彼にこの件を任せます。悩んだトニーは、息子と会話中にアイデアが浮かびます。それはニセの映画を制作し、そのスタッフとして5人を救出すると言うもの。大胆なこの作戦、果たして成功するのか?

冒頭、漫画を使いイランの政権の移り変わりを簡単に説明しています。このアイデアは良かった。私も当時日本でも大々的に報道されていた事を、段々思い出しました。イランの暴動を人海戦術で再現していて、この様子が圧巻。本当に怖いのです。特に大使館になだれ込む様子は、ドキュメントを見ているようでした。パーレビの悪政を弾圧し解放された、言わば正義であったイラン国民が、今度は正義の名の元、アメリカ人と言うだけで粛清したりなぶりものにしたりと蛮行を尽くす姿がやり切れない。痛みや苦しみを知っていたはずの人々が、被害者が一転加害者となり、同じことを他者に繰り返します。監督アフレックスは終始一貫、憎悪の虚しい連鎖を観客に問うていたと思います。

予告編を観たときは、もっとユーモアがある作りかと思いましたが、それはニセ映画を作る段階に集約されていました。腕の立つベテランメーキャップアーチストのチェンバーズ(ジョン・グッドマン)と老練なプロデューサーのシーゲル(アラン・アーキン)の口から飛び出るハリウッドの内情は、酸いも甘さも毒も利いていて、とにかくニヤニヤしっぱなし。毒舌ながら、ハリウッドで長年生き抜いてきた人に語られると、愛が篭っている気がします。

トニーとシーゲルが、家庭について語る内容が滋味深い。両方人を誑かすのが仕事であること、子供は堅気に育って欲しいと願っている様子は、苦悩ばかりではありません。侘しさ寂しさを感じながらも続けるのは、彼らの仕事への誇りも感じます。

イランに渡ってからは、とにかくハラハラし通しです。二ヶ月間監禁状態であったのに、とにかく励まし合ってきたであろう彼らが、作戦の遂行で対立する様子もすごくわかる。上の気紛れとも言える判断で作戦が頓挫するはずが、トニーの一世一代であろう「男気」には、惚れ惚れしました。彼はCIAの人間。人の死は慣れているはずです。映画ではとかく悪者扱いばかりのCIAですが、私は「ボーン・スプレマシー」でのジョアン・アレンの「私は人殺しをするためにCIAに入ったのではないわ」と言うセリフが、非常に印象に残っています。トニーもきっと同じ気持ちだったのでしょう。

作戦成功の影には二人のキーパーソンが。男気と言えば、トニーの上司(ブライアン・クランストン)の、多分自分の首を賭けたはずの行動は、何の表彰も受けなかったけれど、トニー以上の功績でした。カナダ大使家のメイド、サハルの善意の嘘も、神に背いても命の重さを重視したかったのでしょう。その前に挿入された、呆気なく人が射殺されるシーンが利いていたので、彼女の気持ちがとても理解出来ました。

イラン国外脱出の様子は、とにかく手に汗握ります。彼らは生存していて、成功はわかっているのに、無事飛行機が飛び立った時は涙が出て、拍手したくなりました。この辺の演出力は非常に優れていたと思います。

アフレックは、今回ヒゲだらけで風采の上がらない扮装でしたが、返って優しい目元が引き立ち、誠実で真面目なトニーを演じるのにぴったりでした。他には貫禄たっぷりにハリウッドの重鎮を演じたアーキンです。老獪なのに若々しい、食えない親父っぷりが素敵でした。地味でしたが、ブライアン・クランストンも非常に印象深い好演です。

サスペンスとヒューマニズムが上手く噛み合った秀逸な社会派娯楽作でした。オスカー候補が噂されているらしいですが、それも納得。何部門ノミニーされるか、楽しみです。


2012年11月03日(土) 「危険なメソッド」




1日の映画の日に観てきました。映画の日の鑑賞は久しぶりなので、ずっと前からこの作品に決めていました。クローネンバーグとヴィゴの三度目のコラボ、絶賛売り出し中のファスベンダーで、ユングとフロイトを題材にした心理劇なんですから、めっちゃ期待していました。が!これが非常に退屈。最後まで全く盛り上がらず落胆の極みです。監督はデヴィッド・クローネンバーグ。

1900年の初頭。若き精神科医のユング(マイケル・ファスベンダー)は、新しい患者サビーナ(キーラ・ナイトレイ)に対して、先輩医師であり精神科医として高名なフロイト(ヴィゴ・モーテンセン)の提案する談話療法を試みる事にします。彼女の内なる性的トラウマを発見し治療は成功。しかしフロイトから紹介された医師であり薬物依存患者のオットー(ヴァンサン・カッセル)の登場により、三人は思わぬ方向へ導かれる事になります。

冒頭キーラの興奮した様子がすごい。私はクリニック勤めなんで、空笑くらいのレベルの患者さんは見ますが、あんな大暴れする患者さんは、まだ見たことがありません。まぁ大昔とて、入院レベルなのはわかります。感情失禁の時のキーラの演技がすごくてね、下顎を突き出し、目を見開いての変顔、大暴れの大熱演。しかし目が普通なんですね。本当に精神を病んでいる人の目は、ギラついているか魚が死んだような目です。わずかばかり現場を知っているせいで、熱演は健闘賞止まりに感じました。

そして今回のキーラは、お得意のコスプレモノなのに美しくないのです。髪型がひっつめ過ぎで毛が薄く見え、スリムは容姿は貧相でギスギスに感じます。それが心を病んだ女性の表現なら、アプローチが間違っていると思いました。患者と医師の肉体関係、それも不倫と言う極めつけの背徳なんですから、女性側はもっともっと美しく撮らないとダメなんじゃないかしら?

サビーナのトラウマは幼い時からのスパンキングによる性的興奮です。早い話が自分が変態であることに悩み、精神を病んでしまっています。まぁ可哀想に。この辺を掘り下げるて、お得意のわけわからん世界観を見せてくれるのかと思いきや、お話はサビーナとユングの不倫、嫉妬が絡んだユングとフロイトの友情の亀裂などを、本当は下世話な話を、高尚「風」に描いています。描き方の底が浅いので、あくまで「風」。簡単な言葉で描けばいいものを、難しい言葉の羅列で描くので、白けてくるわけ。

ユングとフロイトの関係も、治療法の対立で袂を分かつ「風」ですが、結局財力のある妻を持つユングと、子沢山で貧乏なフロイトの、お互いの妬みや見下ししか、印象に残りません。と言うか、もしかしたら、高名な精神科医であろう彼らも、自分の感情のコントロールは難しいを言いたかったのかもですが、それなら一言で済むような会話を延々続けるのは、時間が無駄っぽいです。

一番ムカつくのは、ユングがゲス野郎な事。本音を語るオットーの出現により、自分の良識で塞いでいた本音を解き放ってしまい、サビーナと不倫するのは良しとしよう。本当は掟破りの患者との深い関係なんですから、もっと葛藤があっても良かろうに、別れるのは自分の保身ばっかりで、卑小な男なんですね。別に優秀にも見えず、何の功績があったのかもあまり描かれず、美しく財力のある妻(サラ・ガドン)の潤沢な資金によって、研究に困らなかった頭の良かった男、それくらいにしか見えません。せっかく売り出し中のファスベンダーを起用したのに、ちっとも魅力がない。

キーラも微妙なバストを見せながら、スパンキング場面に挑戦していますが、エロスも恍惚感もなく、ただ叩かれているだけ。性の渕の深さに及ぶ事もなし。これは彼女の演技が下手なのか、演出がダメなのか?これなら「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のマリア・ベロの年増のコスプレの方が、ドドメ色ながらまだお色気がありました。

クローネンバーグのお気に入りヴィゴも、今回はその道の大家の爺さんとしか感じず、ファンなので大変残念です。カッセルは怪しく謎めいた雰囲気がとても良く、少ない登場時間ながら、きちんと役割を果たしていました。妻役のガドンも、悩み多き妻を美しく静かに演じて良かったです。

「裸のランチ」とか「クラッシュ」とか、意味わからんけど感性が面白い作品なら良いけど、意味も筋もわかるけど面白くないのは如何なものか?何が言いたかったのか、最後までわかりませんでした。


ケイケイ |MAILHomePage