ケイケイの映画日記
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2012年10月29日(月) 「最終目的地」

名匠ジェームズ・アイボリー監督の作品。もう84歳なのですね。この年齢らしい地味深さと、年齢に似つかわしくない瑞々しさとが共存した、とても美しくて清楚な作品。

アメリカの大学で研究室に所属するオマー(オマー・メトワリー)は、一作の名著だけ残し自殺した作家ユルスの自伝を書くため、遺族の許可を得るため、はるばるウルグアイの人里離れた邸宅を訪ねます。遺族は未亡人のキャロライン(ローラ・リニー)と愛人のアーデン(シャルロット・ゲンズブール)と、ユルスの間に出来た娘。広大な敷地の離れにユルスの兄アダム(アンソニー・ホプキンス)と彼の25年来のパートナーであるピート(真田広之)が住んでいます。頑なに自伝を嫌がるキャロラインのため、滞在が長引き、オマーとアーデンの間には、仄かな愛が芽生えますが、オマーが怪我押をし、彼の恋人ディアドラ(アレクサンドラ・マリア・ララ)も、アメリカからやってきます。

ウルグアイにやってきた言葉のわからにオマーに、賑やかに手を貸すこの地の人々。湿り気のある風景も温かく感じ、作り手の思いが伝わります。大らかな風土は、正妻と愛人の同居と言う奇妙さ、同性愛の年の差カップルも抱擁してくれるのでしょう。

ユルスが生きている時は、家庭の中で妻の存在感が一番大きかったはず。しかし夫亡き後、「家族」を見渡してみれば、血の繋がった娘と伯父、娘の母親であるアーデン、そしてアダムと養子縁組しているピートと、皆が繋がっているのに対して、妻であるキャロラインだけが浮遊していたはずです。その苦しみが、オマーを最初に見る時の窓に映る、彼女の般若のような顔だったのでしょう。心優しい家族たちは、その事に気づきながら、妻のプライドを傷つける事なく暮らしてたはずです。そこへ部外者のオマーの登場で、一気にそれぞれの気持ちが吹き出したのだと思いました。

人生には喜怒哀楽の感情の他に、「苦さ」があると思うのです。苦しさ悲しさに通じるけれども、それらを受け入れ飲み込む感情。挫折や思い通りにならない人生に、もどかしさを感じながら生きている人々が持つ気持ちです。ディアドラは若くて才色兼備。物事も白か黒しかなく、正しい事しか言わず自分の気持ちに正直です。しかしそこには、他者への思いやりはありません。

決して悪人ではなく、オマーへの愛を充分感じる彼女は、彼の地では空回りばかり。彼女の人生にはなかった、NOばかり言われる毎日です。人生の淵でもがきながら、しかし相手を傷つけないように慮って生きてきた彼ら。それを肥やしに、知らず知らず強さに衣替えしたのでしょうね。そんな人たちの前では、一般的な定義の正義=ディアドラなんて、値打ちのないもんだなぁと感じます。人生には白黒だけではなく、様々な濁った色もあり。それを知るのは人生の苦味を知っている人なのでしょう。

この家の人たちは、いつもいつも自分は捨てられるのではない?そういう恐ろしさに苛まれて暮らしていました。オマーの登場によって、皆が自分の確固たる居場所を見つけられた姿が心優しいです。

真田広之が、名優たちに混じって遜色なく映画の世界観にマッチしているのに、すごく感心しました。ラストの描写がウィっとに富み、微笑ましいです。ディアドラも人生の苦味を知ったのですね。でも性格は変わらないみたい。学習しても、自分は自分であるべきです。最終目的地は、人それぞれなのですから。





2012年10月28日(日) 「エクスペンタブルズ2」




私ゴトですが、10/26は誕生日でした。当日は家族に祝って貰い有り難や。その時夫が「明日は昼ご飯奢るわ。それから映画でも観よか?」と言うのです。まぁありがとう、お父さん♪とくれば、当然ご飯も映画もゴチと思うでしょ?それがチケットカウンターまで来たらアナタ、「映画も俺が払うのか?」えぇぇぇ!何それ?お父さんが払ってくれると思って、悪いからコレにしたんやんか。それやったら、一人で別の映画観たのに!と憤りましたが、私もひとつ歳を重ねて大人になってます(←なり過ぎの年齢)、そのまま私が払い、スクリーンへ。しかしこれが面白かったのだな。夫と一緒ではなかったら、多分観ていないので、ちょっと得したかも?監督はサイモン・ウェスト。

バーニー率いる凄腕軍団の「エクスペンタブルズ」。今回のミッションはCIAより墜落した輸送機に積まれていたデータボックスの回収です。しかし簡単に事が運ぼうとしたとき、ヴェラン(ジャン・クロード・バンダム)率いる悪党集団に阻止され、あげく不幸な事が起こります。怒りに燃えた軍団は、復讐に立ち上がります。

歌で言えば、全編サビのような作品。銃撃戦、人海作戦の格闘、ジェット機や戦車での追撃、ドカンドカンの爆撃大作戦。只々これの繰り返しです。しかしロートルと言えど、一時代を飾ったアクション俳優たちは、キラ星の如く老いて今でも華やか。見応えも楽しさも充分です。出演は上記の二人の他、シュワちゃん、ウィリス、ドルフ・ラングレン、チャック・ノリスなど。現役からはジェイソン・ステイサムとジェット・リー。今回若手としてリアム・ヘムズワースが爽やかに出演。クリス・へムズワースに似てるなぁと観ていたら、弟なのでした。紅一点はユー・ナン。私の大好きな「ツゥヤーの結婚」ヒロインですが、全然違うのでびっくり。今回は現代的で知的な印象の役です。

ワクワクするけど、ドキドキはしない。これだけのメンツですもの、バンダム一人なんて、お茶の子さいさいですわよ〜と思って見てたら、その通りになります。バンダムって性格悪いらしいし。関係ないか。シュワちゃんに向かって「失敗したら、溶鉱炉に溶かすぞ」とか、「I will be back」の多用他、ユーモア溢れる気の効いた台詞が、楽しさをアップしてくれます。ちょこっと心温まるエピソードも入れてみました的なところも、展開の邪魔になっていません。

ところで個人的に私が楽しみにしていたのは、チャック・ノリス。初登場シーンは絶対これだと思い、横の夫に「チャック・ノリス出てくるで!」と囁いたところ、「そうか」だけ。えっ?

大昔家事や育児に忙しく映画館なんか行けなかった時、週末にレンタルビデオを観るのが、私の最大の楽しみでした。夫はアート系など辛気臭い映画は大嫌い。私が充分娯楽作だと思う作品でも、行間なんか読んでたまるかの人なので、当然私とは嗜好が違います。しかし私も夫に合わせているうち、シカトしていたB級アクションの面白さもわかってきました。で、夫のいない時は私だけが好きなもの、夫の居るときは二人とも楽しめるもので、作品は選んでいたわけね。

当時うちの夫婦に大人気だったのが、チャック・ノリス。「地獄のヒーロー」シリーズや「デルタ・フォース」なんか、めっちゃ楽しんで二人で観たなぁ。作品は今じゃ何にも覚えていませんが、温厚で思慮深そうなノリスの風貌に、彼が一味違うアクションスターに見えたもんです。もしかしたら風貌に騙されてたのかも?でも思い出の俳優であるのは確かなはずなのに、終わって「チャック・ノリスの事覚えてる?」と夫に聞くと「ブルース・リーに負けた男やろ?」と言う返事。何?その一般的な答え?「『地獄のヒーロー』は?」と聞くと、「そんなんもあったな」ですと。えぇぇぇ!これ程思い出に差があるとは・・・。何十年暮らしても、夫婦はわからん事だらけですね。

と言う具合に、ガハガハ喜ぶばかりではなく、色々感慨深い思いにも駆られたので、私的に有意義な鑑賞でした。昨日「1」をテレビでやってましたが、更に進化した感じです。テレビだと言うのを差し引いても、こちらがもっと潔くて面白かったです。ドロドロ、パッツンパッツンのスタローンの顔も、終わり頃には男前に見えてきます。私は時間の関係で字幕で観ましたが、これは吹き替え版の方が面白いかも?かつて「エクスペンタブルズ」の面々にワクワクした方には、皆さんご満足出来る作品です。


2012年10月20日(土) 「イラン式料理本」




実に愉快痛快!監督のモハマド・ジルワーニが、自分の身近な老若の100歳から若妻世代までの女性に、料理についてインタビューし、調理の様子を映すドキュメント。もう、みんなとお友達になりたいわ。特に私と同世代以上の女性たちは、翻訳機があれば一晩中だって楽しくお喋り出来そうです。台所を預かる主婦の哀歓は万国共通であると共に、しっかりイランのお国模様も見えてきます。秀作「別離」の主婦シミンが、何故あんなに娘テルメーのアメリカ留学に固執したか、それも感じ取れます。

登場の女性たちは、監督の実母、義母、妻、妹、友人の母(100歳!)、母の友人、叔母の7人です。台所に監督がお邪魔して、調理の間、自由に皆に語って貰います。口の減らない人、大人しい人、気の強い人。様々な家庭の事情が垣間見られます。

伝統的な手のかかる家庭料理を作る中年女性たちには、主婦としての誇りが感じられます。結婚年齢は一様に早く、13,4歳のローティーンだと語られ、100歳のおばあちゃんなど、何と9歳!。そして口を揃えて「姑に躾けられた。最初は何も出来ず怒られてばかり」。まだまだ自我が確立する前の結婚は、婚家に馴染みやすく口答えもせず、夫側には都合良かったのでしょうね。しかし低年齢の結婚は、=低学歴でもあります。これはセネガルの佳作「母たちの村」でも描かれる、女性たちには学をつけず、「心を閉じ込めよう」とする行為だと思います。それが当たり前だった時代に嫁いで来た母たちは、娘には学をつけ、この悪しき環境から脱して欲しいという気持ちが、「別離」のシミンだったのだと、気がつきます。

しかしながら、そんな封建的な時代もくぐり抜け、今やイランの女性もぐっと強くなったとか。イラン版肝っ玉母さんの義母が語る、嫁人生の痛快な事ったらないの。結婚当初は同居で、家族分+毎日来る友人知人のために、山のような料理を作ったとか。「夫とは日に一時間くらいしか一緒にいなかった。やっと独立して二人だけになり、嬉しくていちゃいちゃしていたら、子供が五人も出来ちゃった」。アハハハハ!この人が料理自慢のようで、「最近の若い子は料理を嫌がる」と文句を言いつつ、手のかかるイラン料理を丹精込めて作って行きます。

姑さん登場からがハイライト。「お義母さん、何故若い頃は私を苛めたの?」「苛めたんじゃない。躾たんだよ。」「あれは苛めよ。あら、お母さんがごちゃごちゃ言うから、間違ったじゃないの」「・・・悪かったよ」「いいのよ、今は私がボスだから」ガハハハハ!
と言うところで、夫が登場。母に親愛の情を示すと、「母親には挨拶して、妻には?全くこれだから」「母さんはお客じゃないか。お前には二人ががりでも勝てやしないよ・・・」「そうよ、体重だってあんたの二倍よ」。

もう圧巻の面白さ!何処の国も古女房てのは、強いもんなんですね。この強さ、苦労の数ほどスペックが上がる。妻と言うのは、とにかく結婚当初から今に至るまで、流した涙は全部覚えているもんです。うちの夫が私が初めての子を妊娠中、「俺の家系には一切悪い血は流れてないから、生まれて来た子に何かあったら、全部お前のせいやぞ」と言われた事、死ぬまでどころか、墓場に入ってもワタシ、絶対忘れませんから。だから数十分の彼女の語りで、「おしん」のような苦労や怨念がわかるのです。この辺の感覚は日本もいっしょですね。いや、万国共通の主婦感覚かな?

そんな義母に育てられたはずの監督夫人は、インスタント料理のオンパレードで、急に友人を連れて来た夫を詰る詰る。まぁ気持ちはわかるけど、開き直りは戴けません。ちょっとくらい恥だと思わなきゃ。それは「料理を作るのは妻」と言う概念に、不満がいっぱいなのでしょう。

出てくる料理は軒並み五時間以上かかるのに、老いも若きも夫たちは一様に、「一時間くらいか?」とのたまう。あんたたち、バカですか?当然の如く後片付けも労いの言葉もなし。妻たちが痛々しくて見て居られません。その中で異彩を放つのが監督のお父さん。監督の母はイラン型良妻賢母と言う風情で、穏やかな優しそうな人です。お父さんもまた、この年代には珍しく、後片付けを手伝い、妻に労いや感謝の言葉を忘れません。この夫にしてこの妻ありなのでしょう、一方通行ではこうは行きません。一方監督の義母さんは夫を教育して、「今は優しくなった」のだとか。あら、うちと同じね。この辺の事情も、どの国にも当てはまります。

私の母は料理下手でした。当時まだ珍しかった冷凍食品がお弁当に詰められ、女の子のお弁当なのに彩も考えず、茶色ばっかり。色取り取りの友達のお弁当が羨ましくて。夕食はと言うと、市場の天ぷらやさんで「別注で揚げてもらったから」と鼻高々で冷えた天ぷらを出され、肉屋でまた別注でオーダーカットした、サーロインステーキとご飯「だけ」、味噌汁もサラダもなしの、豪華で貧しい食卓。煮物などはお惣菜屋さんで買い、気合が入るのは法事とお節だけ。時々手料理は作りますが、魚を焼いただけでも「手料理」なので、自分は料理が上手いと錯覚していました。

文句は言いたかったけど、言いません。言うと天地がひっくり返るくらい怒るので。母が料理に情熱を持てなかったのは、夫である私の父との不仲が原因です。子供は愛していても、砂の城のような家庭は愛せない。なさぬ仲の息子たち(私の腹違いの兄たち)の料理なんか、作るのはまっぴら。でも自分の娘たちは可愛い。それが子供には分不相応な、オーダーカットのサーロインだったり、特上の握り寿司が食卓にしょっちゅう並ぶ理由です。

料理というのは、作るだけじゃない。予算を決めてスーパーに行き、材料を吟味して調理にかかり、後片付けまで。家族の誰かが風邪をひけば温かいものを、お腹をこわせば消化の良いものを。今日は上等のお肉が安くてすき焼きにしたいけど、夫が職場の宴会なので、別の日にしましょう。こんな風に家族の顔を思い浮かべながら、主婦は毎日の料理を作っています。だから、家のご飯を食べたら、ホッとするでしょう?それは家庭の味=妻・母の愛情だからです。

長男次男が小さい時、夫婦喧嘩して夫が出ていった後、床に座り大泣きしていた私に近づいてきた三歳の長男は、ぞうきん(小さいので、タオルを置いてあるところまで背が届かない)を持ってきて、私の涙をふいてくれました。「お父さんが悪いねぇ。お母さんは悪くないよ。僕、わかってるから。でもお父さんの晩ご飯は作ってあげてね」と言います。近寄って来た次男共々、ついでにぞうきんも握り締め、そんな長男を抱きしめて、また大泣きする私。そして気を取り直し、幼子二人を自転車の前と後ろに乗せて、スーパーに買い出しに行った日が、昨日の事のようです。

監督の友人は、童女のような100歳の母を愛しげに何度も抱きしめ、そしてキスする様子が微笑ましくて。もう料理は作れなくて、まだらボケのようなママは、でもしっかり料理のレシピは覚えており、語ってくれるのです。この母と息子にも、私と長男のような思い出があるのかな?彼にもお袋の味は、記憶に舌に、しっかり残っているのでしょう。

母の料理に不満がいっぱいだった私は、結婚したら、ご飯は絶対手料理中心で、と決めていました。うちの息子たちは有難い事に私の手料理を、「お母さんの料理は美味しいか、めっちゃ美味しいの二種類しかない」と言ってくれます。あな嬉しや。夫はと言うと、毎回「今日は美味しかった」ですと。毎回なら「今日も」やろ?また教育しなきゃ。本当に息子三人、心身ともに健康に育ってくれて嬉しい限り。これみんな、私の作るご飯の御蔭ですから。夫よ、わかってる?

料理を征する者は、家庭を征す。若い奥さん方、家庭のイニシアチブを取るには手料理ですよ。くれぐれもあっと驚く映画の結末のようにならない事を祈ります。ご主人方もね。


2012年10月14日(日) 「推理作家ポー 最期の5日間」

観たい映画というのは、公開後すぐ観ないといけない。何故なら、ちょっと時間が経つと評判が否応なしに目につき、見る気がなくなるから。それで「ハンガーゲーム」も「ボーン・レガシイ」もパスしてしまい、観る作品がなくなってしまった仕事休みの金曜日。もったいないじゃないか、と選んだのが金曜初日のこの作品。ポーの作品は子供の頃に読んだくらいで知らないけど、ミステリーは割合好きだし、15Rだし(そういう作品が好き)でチョイス。大阪市内のシネコンはどこでもやっていますが、これを見たら、TOHOのポイントが貯まるので、チケット屋で前売りゲットして、なんばTOHOで観てきました。長々書きましたが、初日に観てよかったわ。そうじゃなければ観なかった作品。
最後まで盛り上がりに欠けました。監督はジェームズ・マクティーブ。

数々の名作を書いてきたエドガー・アラン・ポー(ジョン・キューザック)。妻を亡くした失意から筆が折れてしまい、今はアルコール漬けで落ちぶれ果てています。その頃、猟奇的な母娘の殺人事件が起こり、刑事フィールズ(ルーク・エヴァンス)は、それがポーの作品の模倣と見抜きます。フィールズはポーに捜査の協力を要請します。その頃、ポーの恋人であるエミリー(アリス・イブ)の父親ハミルトン大尉(ブレンダン・グリースン)が主催する仮面舞踏会が開かれ、エミリーが誘拐されます。犯人はポーに対して、事件を元に新聞小説を書けば、エミリーにたどり着けると挑戦状を書いて寄越します。受けて立つポーでしたが・・・。

時代は19世紀半ばのアメリカ、ボルティモア。ゴシック調のミステリーを期待していました。冒頭こそ、禍々しく美しい出だしで、これは期待できるなと思いましたが、これ以降が盛り上がりません。きっとポーに精通する方は熱狂するのでしょうが、如何せん私はポーの門外漢。殺され方に彼の作品へのオマージュがあるのでしょうが、それがさっぱりわからない。猟奇的な殺害方法も、演出の仕方にインパクトがなく、薄い印象しか残りませんでした。ただの変態的ではなく品の良さは感じるので、尚更残念。思えば「セブン」は、本当に名作だったなぁ。

舞踏会や室内の様子、衣装など、美術が全部「それなり」の印象で、品は良いのですが格調高さは感じられず凡庸な印象です。

肝心のストーリーは、愛に殉じるポーの切なさを描くのか、ミステリーの謎解きに重きを置きたいのか、これも散漫な印象です。名士の令嬢エミリーとは年の差のあるカップルなようで、どこでどういう風に二人が惹かれあったのかが描かれていないので、妻の死から立ち上がるきっかけとなったのがエミリー、と言うポーの台詞が頼り。だから必死になって彼女を救おうとするポーにも、通り一遍の感情しか湧きません。ミステリーの方も、普通はあちこち伏線が張られていて、解決に向かう時、一気に謎解きが始まるはずが、あれではこじつけのようで、カタルシスがありません。私は書けなくなったポーが、自作自演で、作家としての最後の炎を燃やしたのかと想像していました。

キューザックは私は好きな人なんですが、個人的に髭が似合っていると思えず、落ちぶれ感よりコント風のおかしさを感じて、最後まで馴染めません。演技は安定してたんだけど。対する刑事役のルーク・エヴァンスは、いつもの色男ブリを封印して、切れ者の刑事役を凛々しく演じて二重丸。もしルークがポー役なら、うらぶれ落ちぶれても、目の煌きにポーの才気を感じさせたはずで、配役が逆だったら良かったのにと、ずーと思いながら観ていました。

まっ、盛り上がらずと言うか、ラストまで薄口の感じです。終わり方はカッコ良く決まってました。ポーの愛読者の方のご意見が聞いてみたいです。


2012年10月08日(月) 「アウトレイジ ビヨンド」

めちゃくちゃ気に入った「アウトレイジ」の続編。続編が作られるとは、北野監督も思っていなかったのでしょう、前作で刑務所で木村(中野英雄)に刺されて死んだと思われた大友(ビートたけし)が、まさかの復活。前作では冒頭からウハウハ大喜びしましたが、今回はそれなりに面白かった程度です。でも見ている間は、退屈はなかったです。監督は北野武。

山王組会長が加藤(三浦友和)に変わって5年。今は政治の世界にも力を持つ大組織になっています。外様の石原(加瀬亮)が若頭に着き、前会長のボディガードだった舟木(田中哲司)が重用され、古参の幹部たち(中尾彬、名高達郎、三石研)らには、不満が高まっていました。それを山王会の縮小に利用しようと、マル暴の刑事・片岡(小日向文世)は、幹部たちを焚き付け、関西一の巨大暴力団花菱会の会長(神山繁)や幹部(西田敏行・塩見三省)を引き合わせるも失敗。次の手として片岡は、やくざ組織からは死んだと思われていた大友(ビートたけし)を、超法規的に仮出所させます。

前作も結構豪華キャストでしたが、今回は上を行きます。花菱会武闘派の先鋒に高橋克典を配し、全編セリフ一切なしで登場場面も少しなど、本当に豪華な使い方。でもこれは案外儲け役で、彼の存在感を際立たたせていて、とってもカッコ良かったです。木村の子分のチンピラ役で、新井浩文&桐谷健太。ホントにただのチンピラ役で、絶賛売り出し中のこの子たちを使うなんてと、監督のブランド力を実感します。

ただ前作は相当な数の登場人物のキャラが全て際立っていて、悪い奴でもチャーミングさが楽しめたのですが、今回はそれがない。山王会幹部たちは似たりよったりのヘタレだし、前作では頭の切れる冷酷なインテリやくざぶりが素敵だった加瀬亮は、今回は弱い犬は吠える例えなんでしょうけど、キャンキャン吠えてばっかり。小日向文世も、刑事としての仕事も狡猾に遂行しながらの悪い奴だったのが、今回は卑劣な面ばかりが強調されて、面白いキャラじゃないです。西田・塩見コンビも違いがほとんどない。キャラを楽しむという点では、断然前作の方が上です。

中野英雄は義理人情を重んじる古風なやくざで、彼には共感出来るのですが、イマイチ魅力が薄いです。ん〜、これは私の好みの問題かしら?小日向文世の処世術に懐疑的で、傍観者を決め込む刑事・繁田(松重豊)は、観客の分身なんでしょう、これのキャラの設定は良かったです。ラストにも上手く繋がっていました。俳優ビートだけしは存在感はあるんですが、如何せん演技が下手。なので、峠を過ぎた自分の老いを素直に受け入れたい、でもそれができない老ヤクザ大友のもどかしい怒りが、上手く私には伝わってきませんでした。

大友が浮かぶには、サブキャラをもっと掘り下げた方が良かったかと思います。新井&桐谷コンビは、あれくらいの役振りではもったいない。彼らの役を膨らませたら良かったんじゃないかなぁ。多分前作のヒットで、急遽続編制作が決まったのでしょう。お金も大事だもの。それで脚本を練る時間がなかったのかしら?

殺し方は、今回はバンバン拳銃で大量死がメインでした。前作の石橋蓮司の歯医者の場面や、椎名桔平の殺され方みたいな、秀逸な暴力の「見せ方」は、私的にはなかったです。調書の場面など、ブラックにクスクス笑わせる描写は多々有り、それは流石に上手いと思いました。

不満は数々あり、前作のように手放しでは喜べませんが、、上に書いているように観ている間は飽きません。それこそ監督の技量なんでしょう。今回は久々に夫と観ましたが、周りを見渡せば男性客ばかりではなく、カップルの女性客もたくさんいました。このカテゴリーは最近はあまり見かけず、夫もケーブルテレビで時代劇かVシネ専門チャンネルばかり見ています。需要はあるんですから、これくらいのクオリティなら、掘り起こせるはずです。事実劇場は満員でした。

次も予定があるとか。今回韓国人フィクサーが大友の後見役として登場していましたが、大友は韓国人の通名によく使われる日本名です。自作では大友の出自が絡んでくるのかも?一般受けするヒット作も作って下さいね、監督。作家性を前面に押し出した作品と、上手く共存させて下さい。


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