ケイケイの映画日記
目次|過去|未来
1800円出して観ました。実に10年ぶりくらい。えっ?定価やん?と思われるでしょうが、私くらい数を観る人は、まず1800円で観ることはないです。各サービスデーを使ったり、各映画館の会員になったり、チケット屋で買ったり、ネットで落としたり、ポイントでタダで観たりと、手筈は色々。約二週間ぶりの映画だったのでね、あんまり考え込む作品はいやでした。なんかこうね、パーっと!華やかで筋もちゃんとした作品が観たかったのよん。なんばパークスで上映の作品は、ほぼ必ずチケット屋で1300円の前売りが公開後もあるのでね、お気楽に難波に出たら、どこにもない!他に観たい作品は難波でやってないし、余分に電車賃使って梅田に出るより、自分の映画的直感を頼りに、潔く1800円出したところ、これが大当り!二回ほど涙も流し、色んな意味で大満足の作品でした。監督はピーター・チャン。
1917年、中国雲南省の小さな村。静かなこの村に、見るからに怪しい二人の不審な男たちがやってきます。案の定二人は両替商で強盗に入ります。その場に居合わせた紙職人のジンシー(ドニー・イェン)が揉み合う内に、二人は死んでしまいます。二人の内一人は指名手配の凶悪犯。何故丸腰のジンシーが、屈強な二人と戦えたのか?捜査に当たったシュウ(金城武)は疑問をだきます。
冒頭、妻アユー(タン・ウェイ)と二人の息子たちと、つましくも穏やかに生活するジンシーの暮らしぶりが描写されます。しかし!まさかドニーが温厚で誠実なだけの父親や夫であるはずはないと感じるので、この幸せな風景は、後々まで強く自分の中で引っ張ります。
シュウは頭脳明晰なのか、ただの妄想炸裂のイカれた刑事なのか、その様子は紙一重。すんごい推理力を発揮するかと思えば、とんでもないドジを踏んだり、大真面目なのに結構笑えるキャラでした。私はちょこっと「スリーピー・ホロウ」のイカボットを思い出したけど、決して腰抜けではありません。その推理の内容も、おぉこれこそ中国四千年かと思いきや、ちょっと「必殺」の仕事人のお歴々が想起されたり、深いのか戯画のようなのか、よくわからんけど面白いので可。金城君は今回ちょっと大根に戻っていますが、その大根加減がシュウのキャラと絶妙にマッチしており、好演に見えます。もう元の「大」大根には戻らないようで、ホッと致しました(ちなみにファンです)。
中盤以降、段々とジンシーの過去が明るみに出ます。これからお待ちかね、ドニーのアクションシーンが炸裂。推理物から武侠映画へと上手くシフトしていきます。自分の汚れた残忍な過去から必死で逃れたいジンシー。ここで冒頭の幸せな風景が思い出されます。人として正しく真っ当な暮らしは、例え貧しくとも、季節の移り変わりを肌で感じ、喜怒哀楽を感じる人生であるはず。それは良き心をもたらすものです。それに引き換え、裏の暗闇ばかりに生きる人生は、人間らしい感情とはかけ離れた暮らしだったでしょう。一度「善」に目覚めたジンシーを、また悪の世界に引きずり込もうとする者たちに知らせてしまったのが、正義の立場であるシュウであるのが皮肉。
シュウの「正義」についても、簡単に答えが出せないのも深みを作っています。非情に成りきれないシュウを、アユーは「あの人は自分が優しい人だとわかっていない」と評すのも、心優しいです。
アユーにも辛い過去があり、必死で今の家庭を守ろうとする姿が健気で切ない。「あなたはあの時、出会ったのが私でなくても、この村にいついた?」と、夫ジンシーに尋ねる様子に、ワタクシ落涙。そうですよ、女性は素直に自分の心を愛する男性に伝えねば。タン・ウェイ好演でした。そんな過去があったから、眠る時も夫の寝間着を掴みながら眠るのですね。冒頭の何気ない平凡な描写は、本当は、夫婦ともが必死で築いた、平和な風景だったのです。
もう一つ泣いたのが、「ある父親」が、子供の頃の息子との思い出を語ったところ。あぁ親と言うもんは、子供がもうすっかり忘れた出来事も、一つとして忘れず、脳裏に焼き付けているのだと、自分を重ねてしまいました。それを語ることで、去りたい子供を迷わすのですね。ある意味卑怯なのですが、親を追う子供が大人になれば、今度は親が子供を追うのだなと、人の世の常を、深く感じ入った次第です。その父親は怖い怖いお父さん。しかし紛れも無く父親であるのです。怖ければ怖いほど、私には切なかったです
と、このように、派手に見せ場を作りながら、色々人の世や人生についても、深くも浅くも感じられて、とっても満足しておりました。私は監督のチャンの作品では、「ラヴソング」が大好きで、彼の武侠映画って、はて?だったのですが、とても面白く観られて、チャンの力量と共に、この手の映画は中国の人には、魂が呼応するもんなのだろうと感じました。伝説のジミー・ウォングの衰えぬアクションもたっぷり拝めます。当時カンフー映画に熱狂した現在熟年の方々にもご満足いただける作品です。金城君目当ての女性にはちょっと違うかも?今回はワタクシ、ドニー萌え致しました。
本年度アカデミー賞外国語映画賞受賞作。個人的に本ちゃんの作品賞より、外国語映画賞の方が作品の出来は優秀だと思っています。今年はイランの作品です。イランの映画はアッバス・キアロスタミの作品など、時々は日本に公開されており、お国柄もその都度知って新鮮な思いを抱きますが、今作は万国共通と言っていいほど、どの国の人が観ても我が身に置き換えられる内容です。口論の応酬や息詰まる展開に、とっても体力のいる鑑賞でした。人生の中で避けて通れない、とても大切な事がぎっしり描かれている作品です。監督はアスガー・ファルハディ。
テヘランに住むナデル(ベイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)夫妻。一人娘テルメー(サリナ・ファルファディ)に外国で教育を受けさせたいシミンは、認知症の父親を置いてはいけないと同行を拒否する夫ナデルに対して、離婚訴訟を起こします。決着が着かぬまま、しばらくシミンは実家に戻ることに。自分が仕事の間、父を看てもうらおうと、ナデルは家政婦のラジエー(サエル・バトヤ)を雇います。数日後、ラジエーは外出の折父をベッドに拘束。ナデルとテルメーが帰宅すると、父親はベッドから転げ落ちていました。激怒したナデルは、ラジエーに首を宣告し、詰め寄る彼女を振り払う際、ラジエーは転倒します。その後、妊娠中だったラジエーは流産。ナデルはお腹の子を殺した罪で起訴されます。
冒頭、日本で言えば家庭裁判所でしょうか?シミンからから起こされた離婚訴訟で、口論する二人だけが映されます。二人とも本心は離婚を良しとしないのに、妻は娘のため外国に付いてきて欲しい、夫は認知症の父を置いていけないと話しは平行線。これだけだと、イランでも教育は受けられるのに、身勝手な妻の要求に思えます。シミンは調停員からも、あなたの話は離婚理由にならないと言われます。しかし明確に夫に一緒に来て欲しい、なら離婚しないと願う妻に対し、妻が望むから離婚も止むおえずと言う夫は、ずるいです。妻のせいですか?行って欲しくないなら、何故行くなと言えないの?一見シミンの高望みのせいに感じる離婚理由には、隠された事があるはずです。
シミンの居なくなった家で、義父は「シミンは?」と何度も聞きます。息子も孫のテルメーの名も一度も呼びません。これは如何にシミンが甲斐甲斐しく義父を世話していたかと言う描写だと思いました。独りで家庭を切り盛りし、シミンは辛くなったのでしょう。娘にもっと手をかけてやれたらと、いつも願っていたのでは?それが手枷足枷のない、外国での教育を望んだ理由だと思いました。
一方のナデルは、仕事中以外は父の世話をしようと決めています。イランにも介護施設はあるでしょうが、頭にはありません。立派だと思いました。涙を流しながら父を入浴させる様子が痛ましい。家事、子育てと経験してきた女性には、その延長線上の介護ですが、男性にとっては身内の認知症は、まず無念さが先に立つのでしょう。
ラジエー夫婦もまた複雑です。ラジエーが妊娠中にも関わらず、夫に内緒で働こうとしたのは、夫ホジェットが失業中だったから。自分の妻が侮辱されたと知って、ナデルに襲いかかるホジェットは、一見夫の誇りを持った人に見えますが、妻を窮状に追い込んだのは自分だという自覚は全くなし。裁判所でも、まるでやくざまがいにナデルを恫喝します。このホジェットが私は腹立たしくて。ろくでなしのくせに口だけは立つ。ラジエーは信心深い女性で、他の女性たちはスカーフを被っただけなのに対し、彼女は一貫して伝統的なチャドル姿でした。やはりイスラムでも離婚は厳禁なのかと想像しました。
登場人物は誰もが市井の平凡な人々で、まずそこで感情移入し易いです。複雑に絡み合った感情と出来事が、とても上手く整理された脚本です。誰もが自分の立場だけを主張し、灰色は白だと言い張る。しかし本当は自分の負い目にも気づいている。しかし親の介護や金銭が絡むと、本音を言わないのではなく言えないのです。自分だけではなく、家族にまで事が及ぶから。良き事も悪しき事も。これが「家庭」の本質ではないでしょうか?
ナデルは本当にラジエーの妊娠を知らなかったのか?ラジエーは父を拘束してどこに行っていたのか?その二点の真相が、ミステリーの如く場面を釘づけにします。派手なアクションもなく口論の場面がほとんどなのに、この緊迫感、見事だと思いました。
映画は信仰についても深く考察しています。イスラム教の人はみんな信仰心がとても厚いように感じますが、それも人によりけりだと言うのがわかります。本当に真実を告白すれば、許されるのか?現実は観る者に委ねられ、葛藤の真っただ中にいる彼らに、とても人間らしいものを感じます。この葛藤は信仰というより、私は「良心」だと思いました。しかし泥棒の濡れ衣を着せられたとき、猛然とナデルに抗議し、使用人だからと卑屈にならず、「私に敬意を払いなさい!」と胸を張ったラジエー。貧しい暮らしの中、彼女に人としての誇りを失わせなかったのは、私はやはり信仰だと思いました。
それに比べれば、ナデルの「誇り」は、何だか男性専科の誇りのような気がします。ろくでなしのホジェットといい、まだまだイラン女性は解放されてはいないのでしょう。これはどこの国もですかね?シミンがテルメーに外国での教育を望んだのは、それも理由だったかも?しかし本音を隠しての夫婦の軋轢は、娘のためのはずだったのに、今は娘は置き去りで、一番の被害者はテルメーです。やっぱりぶつかり合う時は直球でなくちゃ。「誇り」が邪魔をして、話をすり替えるて進めると、結果が不毛なのは、これもどこの国も同じです。
イラン特有の事柄を散りばめながらも、親の介護、子供の教育、夫婦の不仲、夫の失業など、どこの国の人が観ても、自分に置き換えて、深く考えながら観られる作品です。お見事でした。
まずいなぁ、観てから一週間経っちゃった。観る前はスタイリッシュな犯罪ものと予想していましたが、実際はちょっと古風で、寡黙で不器用な訳ありの男の純情物語でした。それに犯罪や暴力の場面などが上手くマッチ、懐かしくもカッコイイ作品です。監督はデンマークのニコラス・ウィンディング・レフン。
映画のスタントをしているドライバー(ライアン・ゴズリング)。映画の仕事がない時は、町の自動車修理工場で仕事をしています。実はそれは表の仕事で、裏では犯罪者を抜群の運転テクニックで逃亡に成功させる逃がし屋もしています。アパートの隣人アイリーン(キャリー・マリガン)と幼い息子と親しくなる彼。仄かにお互い恋心を感じますが、アイリーンの夫が刑務所から出所。思いを断ち切るはずが、また犯罪組織に誘われるアイリーンの夫の窮地を知ります。アイリーン親子の幸せを願うドライバーは、これ一回限りで夫に足を洗わせる約束を組織と交わし、逃がし屋を請け負ったのですが・・・。
得たいの知れない俳優と言えば、ライアン・ゴズリング。ある時は一心に恋人を思う男性(「君に読む物語」)、ある時はラブドールに恋する純朴な青年(「ラース、とその彼女」)、またある時は人として成長著しい恋女房に捨てられる情けない夫(「ブルーバレンタイン」)、そしてたまにはイケメンのプレイボーイも演じなくっちゃ(「ラブ・アゲイン」)と、本当に多種多様。そのどれもが印象に残る演技です。彼がどんな役柄でも何故こなせるかと言うと、突出した個性が見当たらないからだと、私は思うのだけど。ハンサムと言えばそうだし、普通にも見える。優しげな目元は温厚にも見えるけど、心の中までは読めない。そんなライアンが役名もない、素顔も過去も得体の知れない役を演じて、これまたすんごく良いのです。今回もまた観た事がない役で、どんだけキャパが広いのか?
お話はシンプルで、愛してしまった隣人の人妻の幸せを願うべく、犯罪に手を染めた主人公が、陰謀に巻き込まれるお話。前半は叙情豊かにドライバーとアイリーン、息子の幸せな風景を映しロマンチック。手を握っただけでプラトニックなのは、アイリーンが人妻だからでしょうね。夫は刑務所に入っているような男なんだから、俺が幸せにしてやるぞと、押し倒しちゃえ!と、私なんか思ったんだけど。でも出来ないのは、彼の背景に何かあると感じます。
それを表現していたのが、エレベーターのシーン。たった一度のくちづけの後、それはそれは凄惨な場面が映ります。ドライバーの過去に何があったのかは、一切語られません。でもこのシーンを観れば、ただの逃がし屋だけではなく、彼が堅気ではないのは歴然です。彼はどこから来たのかもわからない。彼自身も逃げているのかも?普通の幸せは望めないのに、三人で過ごす日々は、彼に家庭という夢を見させてしまったのだと思いました。なのであのシーンは、アイリーンの目前で、と言うのに意味があると思いました。彼女にも自分の気持ちにも、引導を渡すために。
犯罪に巻き込まれてからは、一気にバイオレンスタッチに。一瞬の隙にバタバタ殺されていきます。それも血まみれ。顔一面に返り血が飛んだライアンの顔は鬼の形相で、観ている私の血も煮沸しそうでした。ライアンはこんな演技も出来るんだ〜と又感心しました。展開がスピーディーなのも良かったです。
音楽や夜の風景、車の使い方など、70年〜80年代の犯罪映画の雰囲気でした。キャリー・マリガンは、自分から出演を希望したと読みましたが、う〜ん、ちょっと違うかな?いや演技は上手なので観ていて違和感はないのですが、もう少し世帯窶れした、昔は清楚な美少女だったという風情の人が良かったかも。後はアルバート・ブルックが老けてしまって哀しかったけど、でも悪役も貫録あって上手かったから、良しとしよう。彼は「ブロード・キャスト・ニュース」が好きです。何となく続編作るような気がするのは、私だけ?血なまぐさい映画が大丈夫と言う向きには、お薦めの作品です。
本年度アカデミー賞・作品・監督(ミシェル・アザナヴィシウス)主演男優賞(ジャン・デュジャルダン)受賞作品。チャーミングで素敵な作品です。なのに、劇場はガラガラ。これは他の地方もそうみたいです。確かになぁ。これはシネコン拡大公開よりミニシアターが似合う作品です。観る人を選ぶ作品で、私のように浴びるほど映画を観ている者には、ニコニコして観られますが、オスカー受賞作だ、どんなに面白いんだろう?と思って観た人は、イマイチかも。
サイレント映画の大スター、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)。民衆を虜にしている彼は、ある日彼に憧れる女優志願の若い女性ペピー・ミラーと出会います。偶然彼の作品のエキストラに出演することになったペピーは、ジョージからアドバイスを受けて有頂天です。そんな時、時代はサイレントからトーキー映画に移りだし、プロデューサーのジマー(ジョン・グッドマン)から、これからの作品は全てトーキーだと告げられます。しかし自分はアーティストだと信じ、トーキーを嫌うジョージは、ジマーと袂を分かち、サイレント映画を作ります。しかし時代に乗り遅れたジョージの作品は興行的に失敗し、彼は落ちぶれて行きます。その頃ペピーは順調にスターの階段を上り、今やハリウッドの恋人でした。
ハリウッドのサイレント時代を描いていますが、この作品はフランス映画。主役二人はフランス人ですが、グッドマンの他、ジョージの運転手にジェームズ・クロムウェル、妻にペネロープ・アン・ミラーと、要所の配役はベテランアメリカ人俳優で固めています。ちょこっとマルカム・マクダウェルも出演。すごいお爺さんになっていてびっくりしたけど、思えば彼も70近いんですよね。
作品は基本的にサイレントでモノクロ。ジョージの名前は、サイレント時代の大スター、ルドルフ・ヴァレンティノをもじっているのでしょう(違うか?)。撮影風景が続々映されて、おぉ、これはダグラス・フェアバンクスの冒険活劇風だな、ジョージとペピーの踊りのシーンはアステアとロジャースだ、落ちぶれたジョージの風情は、「サンセット大通り」のノーマ・デズモンドを彷彿させるわ(ノーマの方がもっと迫力あってゴージャスで妖怪風だけど)とか、観ていて色々想起させます。この監督さん、私たちみたいに映画大好きな人なんでしょうね。
お話の展開は、ほとんど鉄板。予想通りに進む中、主役二人の魅力が作品を引っ張って行くのに重要ですが、私は充分楽しませてもらいました。ジャンは隣にはいない、ゴージャスなハリウッドスターのオーラが感じられました。ベレニスはちょっとグラマラスさに欠けますが、色んな表情を見せる大きな目が印象的で、大好きになりました。ちなみに監督夫人だとか。
ペピーはジョージの大ファンだったはず。憧れの存在だった彼に近づきたくて、懸命に頑張ったのでしょう。タキシードのシーンの情感溢れる女心の様子は、今後名シーンとして語り継がれるかも?不遇の彼を見ていられず、手を差し伸べていくうちに、憧れがいつしか愛に変わって行く様子も、手に取るようにわかりました。
トーキー出現の折にジョージの見た夢は、いつか誰かにスターの座を追われる、その怖れが常に彼の心の底に染み付いているのだと思いました。スターの宿命ですね。スターとしてのプライドはズタボロでも、彼には人として、アーティストとしての誇りは残っているはず。再びその誇りを想い出させてくれたのが、ペピーの献身的な愛だった、と言う筋運びは、予想できても嬉しく感じました。
サイレントと言うことで、顔の表情の豊かさや、ややオーバーアクト気味の演技が要求されたかと思いますが、それが鼻に付くこともなく、自然な流れで観られました。ただ多少解りづらい箇所もあります。何故ジョージがあれほどトーキーを嫌ったのかが、イマイチ解りません。それとジョージと妻の不仲ですが、不仲になった原因がイマイチわからない。二人が段々遠ざかり、喧嘩も出来ないほど冷えきった仲を描くのには、あんなに心染み入るのに何故?ペピーとの仲を邪推と言う線は違うでしょうし、過去のジョージの女癖の悪さを感じさせるのにも弱いです。
そして素敵な作品で私も好きですが、ユニークな小品佳作であり、私的にはオスカー受賞もちょっと違う気が。こららの点を踏まえて、ご覧になる時の参考にして下されば幸いです。
2012年04月05日(木) |
「ヘルプ〜心がつなぐストーリー」 |
もうわんわん泣いちゃった!人種差別を描いた傑作に、アラン・パーカーの「ミシシッピー・バーニング」があります。南部出身の叩き上げ刑事ジーン・ハックマンが、キャリア組の若い上司ウィレム・デフォーに、「差別の根源は何か知っているか?貧しい者が自分より下の者を作って安心したいんだ。あいつより俺はまだ幸せだとな。」と言う台詞を、私は忘れられません。この作品の舞台もミシシッピ。1960年代初頭の南部の悪しき因習深き土地で起こる出来事を観て、差別を無くすのは教育なのだとも痛感させました。本年度アカデミー賞助演女優賞受賞(オクタビア・スペンサー)。監督はテイト・テイラー。
四年間の大学生活から故郷のミシシッピに戻ったスキーター(エマ・ストーン)。ジャーナリストか作家になって自立しようと一生懸命な彼女に対し、町は昔のままで、年頃の女性たちや親の関心は、良い相手を見つけて結婚することだけです。未だ黒人差別の強い土地柄で、若手の婦人会のリーダーで、スキーターの友人であるヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)は、衛生上からメイド専用にトイレを作る法案を、市議会に提出すると言い出します。メイドたちに育ててもらいながら、大人になると差別する。その事に強い疑問を持ったスキーターは、直にメイドたちにインタビューして本当の気持ちを聞きだし、本にしたいと思い立ちます。
差別を扱う作品は、とかく差別する側にアホかバカか憎々しい人が集まり、被差別者は心映えが美しく、忍耐強く頑張る人ばかりを描く図式が多いですが、この作品では、黒人たちの意識を改革する糸口を作ったのは、白人の上流階級の娘であるスキーターです。その他ジェシカ・チャスティン扮する気の良い主婦シーリアは黒人メイドを友人として扱うし、メイドたちも陰では白人雇い主の悪口は言いたい放題、やむなく罪を犯す人もいます。これがとても気に入りました。全ての差別者→悪、被差別者→善であるはずないもの。
ヒリーたちと同じく育ったはずのスキーターだけが、何故黒人差別に疑問をもったのか?根底には幼い頃から常に彼女を励まし、支えてくれたメイドのコンスタンティン(シシリー・タイスン)の存在があったからですが、それ以上にミシシッピから出て、よその土地の大学へ通った事だと思います。親元から離れ大学へ通う事で視野が広がり成長したのです。何という有意義な結果でしょう。スキーターの造形に、とても好感が持てたのも私的にポイント高し。
婦人会のリーダーのヒリーは、ガチガチの差別主義者。なのに慈善事業として、チャリティで得たお金はアフリカに贈るのだとか。メイドたちは、元を辿れば、アフリカから連れてこられた人の子孫。なのにこの偽善と欺瞞に何も感じていません。家事と子育てはメイド任せ、美しく着飾りパーティーに通い、暇つぶしにブリッジやお茶会。脳みそ腐りそうな生活なのに、気位ばかり高い。冒頭、この作品の主人公エイビリーン(ヴィオラ・デイビス)が、自分の雇い主エリザベスの事を、「奥様は鬱病だ。若くして子供を産む娘は皆こうなる。」と言う独白が入りますが、毎日こんな暮らしをしていては、そりゃ病気にもなりますよ。
強引なヒリーに意見出来ず、気が咎めながら付き合いするエルザベスの姿は、スキーターの母親とも重なります。本当は全ての人が差別を良しとはしていないのに、強い者には巻かれて暮らすのが安心なのです。これはPTAや職場、地域や学校で、女性なら誰でも経験済みなはず。差別とは、根っこは皆一緒なんだなぁ。
最初はスキーターの申し出を、自分の暮らしどころか、生命さえ危ないと断るエイビリーンでしたが、勇気を出して引き受けます。ミニーが続き、それ以降ある事をきっかけに、輪が広がります。彼らが奴隷と変わらぬ暮らしに、失っていた自尊心を取り戻す様子が壮観です。
シーリアは上流階級の出身ではないですが、桁外れにお金持ちの夫と結婚します。気は優しいけど少々天然で空気が読めません。夫はヒリーの元彼。ヒリーが先導をして、仲間外れにして見下す材料に十分です。しかし夫がヒリーではなくシーリアを選んだのは、玉の輿を喜ぶでもなく、夫に見合う女性になろう一生懸命な、健気さと純粋さに惹かれたのでしょう。あなたは奥様だからとミニーがたしなめるのに、一緒にランチを取ろうとするシーリア。毒舌家ながら、料理自慢で温かいミニーを慕っているのです。多分シーリアは、メイドを雇う暮らしをしていなかったのでしょう。この夫婦の他にも、インタビューで優しかった雇い主の想い出話をする老メイドたちを配し、白人にも見易く共感を得られる作りにしたので、素直に観てもらえるでしょう。大切なのは両方に観て貰うこと。過去を知ることは今に繋がり、未来を作って行く事だから。
オスカーの主演女優賞候補にもなったヴィオラ・デイビスは、抑えた演技の中、黒人である苦しみから、段々と気難しくなっていくエイビリーンの過去まで想起させます。オクタビアももちろん良いです。白人には時として牙を向くのに、夫のDVには耐え忍ぶ姿もまた、当時の黒人女性の典型だったのかも知れません。ジェシカ・チャスティンは儲け役ですが、「ツリー・オブ・ライフ」とは180度違う女性役ですが、難なくこなしています。
以上はオスカーノミニー、又は受賞者ですが、私がすごく気に入ったのはエマとブライス。エマは溌剌として聡明なスキーターを、彼女自身かしら?と感じさせる演技でした。新作の「スパイダーマン」は興味なかったけど、エマがヒロインなので是非観なくっちゃ。ブライスは敵役ですが、姿形も一番60年代が似合い、鼻持ちならないヒリーを、何だか嬉々として演じているのです。美貌の人ですが、案外コメディも行けるかも?
ラストは曖昧です。この後も黒人たちの風雪は続く予感を残しながら、しかし生まれ変わったように強くなった彼女たちを映します。今の権利を勝ち取るのに、50年かかったのですね。黒人差別だけではなく、女性の開放も忍ばせて描いた作品です。二時間半があっという間で、温故知新と言う言葉を贈りたい作品です。
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