ケイケイの映画日記
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2012年03月29日(木) 「マリリン 7日間の恋」




ミシェル・ウィリアムズ素晴らしい!この演技で何故オスカーが取れなかったのかしら?確かにメリルも素晴らしかったけど、「サッチャー」は、メリルの力量からしたら、平均点+αくらい。しかしミシェルのマリリンは、容姿も全然違う自分のキャパにほとんどないはずの、稀代のセックスシンボルを演じて、本当にそっくり!外面がそっくりなだけではなく、マリリンの屈託のある内面を理解し、愛情を持って演じているのが手に取るようにわかり、そこにも感動しました。これぞ一世一代の名演技だと思うんだけどなぁ。映画に登場するコリン・クラークの回想録が原作で、作品的にもとても上品な出来栄えで、大変満足しました。監督はサイモン・カーティス。

世界中を虜にしているマリリン・モンロー(ミシェル・ウィリアムズ)。ローレンス・オリヴィエ(ケネス・ブラナー)が監督・出演する「王子と踊り子」に主演するため、三度目の夫アーサー・ミラー(ダグレイ・スコット)と共に、イギリスに招かれます。しかし素顔のマリリンは極度の情緒不安定で、撮影は遅々として進まず、制作側は困惑しオリヴィエは怒り心頭。助監督のコリン(エディ・レッドメイン)に、マリリン番を申し付け、彼女の行動を把握しようとします。

コリンは良家の子息ながら、本人の言うところ落ちこぼれ。しかし愛情には恵まれ、末っ子の利点を生かし、仕事は自分の好きな映画の世界へ焦点を定め、職を得るため猛烈に頑張ります。この様子は、コリンの育ちの良さから来る伸びやかさに感じられ、彼が好青年であると認識出来ます。

記者会見での当意即妙なマリリンの様子は、この作品でハリウッド映画への足がかりを掴みたいオリヴィエの心を大層満足させ、人妻であるマリリンへの邪心も膨らませるのですが、これ以降は、現場は彼女に振り回させられることに。

マリリンは気分の浮き沈みが激しく、安定剤が手放せません。大幅な遅刻はするは、セリフは覚えられない、監督の少しの言葉で傷つき全く仕事になりません。マリリンが精神病を患っていたことは、今では周知の事実ですが、当時はどうだったのかな?異常に自己評価の低い様子は、観ていてとても切ないのですが、これは相当イライラするぞ。しかし束の間、彼女が「マリリン・モンロー」になる時の輝きは眩しいほどで、全てを「なかったこと」にしてしまうのです。

天衣無縫にして天真爛漫、決して男性たちをたぶらかそうとしているわけでないのに、取り巻きの男性たちを、次々と虜にしていくマリリン。落ち込む時の捨てられた子猫のような様子も、守ってあげたくなるでしょう。それに「あのおっぱいとお尻」(プロデューサー談)。もう最強ですよ。とにかく私たちが聞いてきた「マリリン伝説」が、具体的に目の前に突き出されているのです。

彼女の病の原因は、子供の頃母と別れ(精神病院へ入院)、父はおらず、里親を転々とした事に起因しています。マリリン・モンローとしての賞賛は、ノーマ・ジーン・ベイカー(本名)が、生涯欲して止まない「愛」だと感じるのでしょう。だから彼女なりに、一生懸命マリリン・モンローになろうとする。マリリンがコリンに惹かれたのは、愛情豊かに育った青年であった事も理由の一つかも?。家庭に恵まれなかったマリリンが、ウィンザー城の人形の家に魅入る様子が切ないです。コリンに「あなたは帰る家があるの?」問う彼女。寄る辺のない身の上の彼女は、結婚にも憧れがあったでしょうが、その気質のため、結婚と離婚を繰り返します。彼女も可哀そうだし、逃げてしまう夫の気持ちにも理解出来る描き方です。

マリリンだけではなく、当時の映画界の様子も上手く挿入されており、内幕ものとしても楽しめます。撮影の風景、衣装の段取り、台本合せなど。演技の勉強をしていなかったマリリンは、当時リー・ストラスバーグに師事したこと、この作品の主役は、舞台ではオリヴィエの妻だったヴィヴィアン・リーが演じていたことなどが、さらりと挿入されていて、きちんと伝記になっているなと感じました。

舞台と映画での演技の違いや、老いがストレートに映るスクリーンへの恐怖も感じました。ブラナーの滑稽な厚化粧は、当時はちきれそうなマリリンの若さと対比させるため(30歳だけど)、わざとなのでしょう。

この作品はスキャンダラスな官能性を持つ作品ではなく、美しくて儚げなお話と感じるのは、マリリンとコリンがプラトニックだったから。いや本当はどうだかわかりませんよ。でも当時彼女はミラー夫人。一時でも愛した女性を、貶めんとする事を避けたのなら立派な事だし、本当にプラトニックだとして、あの若さで礼節をわきまえられたのなら、尚立派です。思い出は美化しがちなものですが、この作品のように品性を感じさせるのなら、大歓迎です。

しかし美しすぎて、ちと不満も。デイムの称号を賜るシビル・ソーンダイク(ジュディ・デンチ)が、器の大きさを感じさせる大女優と描くのは良いのですが、ヴィヴィアン・リー役がジュリア・オーモンドとは、小物過ぎやしませんか?ヴィヴィアンは礼節を重んじる中に、マリリンへの嫉妬も表現されていますが、彼女も当時絶賛精神病患者のはず。あんなに静静と接せられたのかしら?病気が原因でオリヴィエと別れています。(なので「彼は私を捨てないわ」のセリフが痛々しい)リーの造形には、ちょっと疑問があります。リーの部分は、省いても良かったかな?

エディは、繊細な若いジェントルマンを演じて、すこぶる良かったです。日本じゃブレイク未満ですが、私はずっと期待している俳優なので、これでブレイクしたらいいな。第二のオリヴィエと言われているブラナーがオリヴィエ役なのも、楽屋落ち的で面白い。エマ・ワトソンは、「ハリポタ」以外で初めての映画でしょうか?彼女が演じるには等身大の女性でしたが、軽い役どころでした。これは役の重さより、ブラナーやデンチと言う、英国映画界の重鎮と共演させることに意義があると、周りが踏んだのかな?出演順が、ラストのデンチの一つ前でびっくりでした。

と言う風に、ミシェルの演技以外にも見どころがたくさん!マリリンへの敬意と愛がいっぱい詰まった作品です。マリリンを知らないお若い方から映画好きさんまで、幅広くお薦めします。


2012年03月23日(金) 「昼下がり、ローマの恋」




青年編、中年編、熟年編と、三話で作られたオムニパスの恋愛映画。それぞれに味わい深さがあり、とても気に入りました。登場する美女たちは、皆一様に心寂しく訳ありです。そんな心の底を隠して、ゴージャスに振舞う彼女たちの深情けに、女性の私も共感したり同情したり、とても魅せられました。やっぱりイタリアっていいな!監督はジョヴァンニ・ベロネージ。

青年編。婚約者サラがいながら、出張先で魅惑の美女ミコラと一夜を共にしてしまう弁護士ロベルトのお話。出世して金儲けして有名になって・・・と、人生の目標は立身出世の弁護士君ですが、聡明で美しいフィアンセはマリッジブルーの真っ最中。さてどうなる?なのですが、まぁ落ち着くところに落ち着きます。

三話の中で一番平凡ですが、ミコラとサラの造形と対比に技ありで、二人ともとってもチャーミング。金髪美女のニコラは、奔放な可愛い悪女ですが、彼女の隠された顔に思いを馳せると、なるほどなぁと納得。対する聡明美女のサラの、婚約者に見栄を張らずに、正直に心模様を吐露する素直さにも思わず感激。あっちいったりこっち行ったり、濃い顔のリカルド・スカマルチョが演じている割には、イマイチ陰薄いロベルトですが、美女二人の引き立て役として、これでいいかな?正直あの町が、ロベルトの人生観を変えるほど素晴らしい町には思えなかったけど、何だか気分がいいので良しとしよう。

中年編。キャスターのファビオ(カルロ・ヴェルドーネ)はニュース番組の花形キャスターとしての地位を築き、家庭に置いては妻と可愛い娘に囲まれ、人生順風満帆、のはずが、そうとは知らず精神病を患っているセクシー美女エリアナと、たった一度寝てしまってから、人生が急降下していきます。

いっくらでもホラー自立てにも悲劇にも出来るんですが、これが抱腹絶倒の面白さ!ファビオ役のカルロはもう還暦くらいの人なんですが、未だ油ギッシュで勢力絶倫風の容貌です。喜劇的な演技が非常に上手く、ギョッとしたり二枚目ぶったりの間合いがとっても良いの。直後で必ず笑いが起こります。三話目で非常に可哀想なプロットで、いっぱい殴られるシーンが出てくるんですが、場内爆笑の渦。殴られてるのに〜〜。好きだわ、この人。もう本当に憎めない男性です。奥さんも許してあげたらいいのに。私なら一発殴って水に流すけどなぁ。エリアナの病気が活発な時と収まった時の落差には、とても切なくなりました。

熟年編。リタイアしてアメリカからイタリアに移住した大学教授のエイドリアン(ロバート・デ・ニーロ)。心臓の移植手術を6年前にしています。アパートの管理人と男やもめ同士仲が良いです。ある日パリから管理人の娘ビオラ(モニカ・ベルッチ)が帰ってきます。彼女は何だか訳ありの様子で・・・。

デ・ニーロの何と素敵な事よ。包容力と知性を兼ね備え、人生を達観した老いまで魅力につけています。最近の作品では、怪優っぽい役柄か、彼でなくてもいいような役柄ばっかりなので、もうロマンス物は望めないのかと思っていたのに、どっこいイタリア映画で蘇るとは。

こんな素敵な熟年ですもの、近所のオバチャンに強烈にモーションかけられるのですが、必死で逃げる。心臓のため、セックスはこの六年控えているんですね。円満だった奥さんとも、手術がきっかけで別れてしまったと言います。これもセックスでしょう。欧米では男女は死ぬまで現役が当たり前みたいなので、日本のように、二人で枯れて行かないのでしょう。おまけに子供のいない夫婦だったので、子供の親同士としても生きられなかったのでしょうね。そこまでして身を労わるのは、これは人様から貰った心臓、大事に生命を真っ当したいエイドリアンの決意を感じます。

だから!その決意を翻させるのは、ザ・イタリアの宝石モニカ・ベルッチくらいの美女でなければ。47歳にして美貌に一切陰りのないモニカも、ロバートの前では少女のように愛らしいのですね。昨今年の差婚が流行りですが、過去に傷のある女性を包み込むには、エイドリアンくらいの年輪が必要ではないかと思うのです。あれやこれや絶対絶命の出来事をくぐり抜け、過ぎてしまえば、人生に四面楚歌はないと思えるには、年齢が必要なのです。「私は追いかけられる値打ちのある女じゃないわ」「この新しい心臓が、君を愛すると決めた」「毎朝目覚めたとき、この顔を一番最初に見たい」。ぐっとくる素敵なセリフでした。

そんなエイドリアンに、神様はとても素敵なプレゼントをしてくれます。人並みの経験はそれなりにしているはずの彼の、初めての経験です。人生老いても何があるか、わかりませんぞ。このまま老いて行くはずだったエイドリアンの心に、生きる希望を沸かせたのは「恋」でありました。三話の中で一番好きです。

全てのお話が、年齢相応の哀歓に満ちています。しかし哀愁はあれども、どれも湿っぽさはなく、どんなピンチも笑いに変えてしまう明るさには、ほとほと感心しました。食べて飲んで恋をして、どれも人生を豊かにすることなんだと実感出来ます。映画友達の方が教えてくれた、「観たあと幸せな気分になる」を、読んで下さった方に贈ります。


2012年03月20日(火) 「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」




本年度アカデミー賞主演女優賞(メリル・ストリープ)、メイクアップ賞受賞作品。作品・監督賞など、その他の主要部門には絡んでおらず、出来の方はそれほど期待していませんでしたが、予想通り。一番の見所は、メリルの演技でした。現在認知症を患う元首相を描きながら、彼女の功績や苦難を回想形式にして映しています。狙いは良いのですが、両方にバランスを取る事に気を取られたためか、どちらも踏み込みが甘く、イマイチ物足りない作品に感じてしまいました。監督はフィリダ・ロイド。

政界を引退して数年になるマーガレット・サッチャー。今では認知症を患い、娘とメイドの介護を受けています。亡くなった夫デニス(ジム・ブロードベント)の幻覚が時折見え、彼女と会話します。マーガレットはデニスと出会った時からの事を回想します。

デニスとマーガレットの若かりし頃は、未来への希望や活力を感じさせ、素直な描き方に好感が持てます。マーガレットの生い立ちや議員に当選するまでの暖かい家族風景も、短い時間に上手くまとめています。

議員初当選後、男性議員から女性差別という洗礼を受けた場面から、何故かほとんど一足飛びに党代表選へ。多忙な議員生活で、家族をないがしろにしてきた彼女へ、これ以上まだやるのか?と、夫や娘の風当たりの強さを挿入しています。この辺は理解出来ます。しかし、これ以降マーガレットの家庭人としての風景は一切挿入されず。もちろん、家族の支えもなし。しかしですね、彼女が首相就任時、イギリスは大変な経済危機で、初の女性首相としての彼女への視線は、内外ともに厳しく辛辣であったはず。家族の支えも全くなく、執務だけをがむしゃらにこなしていたのでしょうか?もしなかったのなら、諍いでも良いので、家庭の風景も挿入すべきでは?家庭は政治のため切り捨てた女性でも、葛藤はあったはずではないかと思います。これでは冷淡過ぎです。

時折出てくるデニスの幻覚は、マーガレットに優しかったり辛辣であったり。それは彼女の心の内が出ているのでしょう。私が秀逸だと思ったのは、夫の声さえ聞こえなければ、自分は認知症ではないと考えた彼女が、家の中のありとあらゆる音を出し、幻聴を聞こえなくしようとするシーンです。認知症にしろ、統合失調症にしろ、患っている人は常人には不可解は行動を取りますが、その人なりに統合性は取れているのですね。

そして結構長い時間を割いて、マーガレット在任中の政治の局面を描きます。色々出てきますが、やっぱりハイライトはフォークランド紛争でしょう。この時のことは記憶にありますが、世論は「サッチャーだから戦争になった」風だったような。なので「私はイギリスの母です」と彼女が言うのには、ちょっと違和感がありました。母親は戦争を止める存在だと思うから。

そして議員生活から引退してまで、一環していたのは、女性蔑視と戦う彼女。彼女を首相候補に立てるとき、盟友の男性議員が参謀となり、あれよあれよと言う間に、私たちの記憶する「マーガレット・サッチャー」が出来上がり、目を楽しませてくれたのも束の間、彼はテロで殺害されます。彼女のテロに屈しない信念は、ここからくるのでしょう。

しかし以降は一切誰も彼女の味方はいません。そんな事ってあるのかな?11年間も大英帝国の首相として国の舵を取ってきた人に、一人も参謀がいないとは、とても疑問が残ります。しょうもない男性の陰口や蔑視に孤軍奮闘する彼女からは、気の強いおばさん的なものを感じるのです。一番痛恨に感じたのは、政治家として、人として、マーガレットの優秀さが感じられなかったことです。欠点があるのなら、それを愛すべきという描き方でもなし。好き嫌いは別にして、マーガレット・サッチャーは、歴史に残る女性であるのは確か。男性社会でこんなに頑張ってきました、と言う点のみ強調されている気がします。

退任の彼女を祝福するのも、全て女性。在任中に彼女を励ます同性が出てこなかったのが不思議でしたが、これなら任期中でもいたはずだけどなぁ。例えば国民の普通のおばさんからの励ましの手紙でも可。パイオニア女性を描く女性監督に陥り易い「罠」だと思います。

結局最後まで観られたのは、メリルの芸術とも言える名演技の御陰かな?でも本当言うと、彼女はいつでも上手なので、これが一世一代の演技とは思いませんけどね。メイクは、私はサッチャーのあの小動物的なリスのような可愛い口元がそっくりだったので、それにびっくりしました。どうやって似せたのだろう?

サッチャー家の人が、映画の出来に怒っているという記事を読みましたが、さもありなん。劇中見る娘さんは、母思いの優しい人です。「アイアン・レディ」は首相としてだけだった、と言いたいのかも。


2012年03月15日(木) 「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」




え〜と。まぁこんなもんでしょう。正直言って期待値は割りました。普通はこの手の「2」は、あんまり観ないのですが、前作のロバートとジュードの抜群の相性の良さに惹かれての今回の鑑賞です。それと!あのノオミ・ラパス@本家リスベットの初ハリウッド作品とくりゃ、見逃すわけにはいきませんて。何度も観た予告編も楽しかったし。あの予告編、上手に作ってあったな・・・。監督は引き続きガイ・リッチー。

19世紀末、不可解な爆弾テロが世界各地で勃発し、ホームズ(ロバート・ダウニー・ジュニア)は、その搜索に乗り出し、黒幕がモリアーティ教授(ジャレット・ハリス)ではないかと突き止めます。折しも助手のワトソン(ジュード・ロウ)はメアリー(ケリー・ライリー)と新婚旅行のさなか、襲撃されるはめに。二人は搜索に乗り出しますが、ジプシー占いのシム(ノオミ・ラパス)が、一連の事件の鍵を握っていることを知ります。

予告編くらいコンパクトのまとめてくれりゃ良かったんですが、筋が大雑把にあっちこっち飛ぶので、解りづらい。大まかに「敵は教授」くらいしかわからん。ボケ〜と見ていてもOK!な作品と踏んで、夫を誘ったもんですから、『面白ないと思ってるやろなぁ・・・』と、こちらも気が気じゃない(結果は「ようわからん。おもろない」でした)。「戦火の馬」にしとけば良かったか?と気もそぞろになります。

映像的には前作同様、CGを駆使してあれこれ趣向を凝らして見せてくれるも、ホームズって知性的な推理もんのはずが、アクション映画になること、前作以上なわけ。、「ゴースト・プロトコル」くらい上出来ならいいんですが、それほど目新しいものではありません。

ストーリーそのものは不満がいっぱいなんですが、この作品最大のお約束・ホームズとワトソンの匂い立つ男同士の友情っぷりは健在。私は世間様が言うほど「腐」の匂いは感じませんが、頭良くても男って中学生くらいの精神年齢の人、多いからね。いちゃいちゃつるんでいる感じは、楽しいです。今回はワトソンの妻メアリーまで巻き込み、「しょうがないわねぇ・・・」と言う感じで、妻公認となった模様。ほんと、どちら様も男は手がかかるわ。

そしてノオミ登場!まぁ〜長い髪にウェーブがかかって、綺麗よ〜。ジプシーと言う設定なので、他の御婦人はエレガントでクラシックな装いの中、ノオミはフォークロアっぽいフェミニンさで、小柄な彼女に似合っていました。また殴られて鼻血出してましたが、リスベット級ではなかったけど、今回も闘う女性として活躍しておりました。ジプシーと言う設定自体は、活かし切れていませんが、初ハリウッドですもの、御祝儀で合格じゃないでしょうか(ちょっと甘いか?)。この後リドスコの「エイリアン」前日婦的な「プロメテウス」が控えており、彼女はリプリー的役どころだとか。



ジャレット・ハリスは、シャーロキアンにも支持されているそうで、ホームズもんは子供の時しか読んでない私にも、適役だなと感じるクレバーな大物悪役ぶりでした。他にはホームズの兄役スティーブン・フライもとぼけた味わいで良かったです。

まっ、主役二人のコラボは相変わらず良かったし、登場人物みんなのキャラも楽しめたし、+ーゼロかな?好評のようで、次も作る気満々のラストです。願わくば、それまでジュードの髪が持ちますように・・・。てか、お金持ちなんですから、植毛すれば良いのよね!


2012年03月12日(月) 「SHAME -シェイム-」

傑作だと思います。演技、演出、音楽、小道具に渡る隅々まで無駄がなく、主人公の心模様がくっきり浮かび上がります。出てくるシーンの半分は、主人公のセックスシーンでしょうか?セックス依存症の若い男性の、心の底に秘めた狂おしい感情を二時間弱共有して、とてもとても辛くて、もの凄く切なくなる作品。監督はスティーブ・マクィーン(嘘みたいな名前ですね)。

ニューヨークの高級マンションに住むブランドン(マイケル・ファスベンダー)。仕事もでき容姿も魅力的な彼ですが、恋人はおらず、女性とは心の関わりは持たずセックスするだけ。行きずりの女性や娼婦、パソコンにはアダルトの動画がいっぱいで、風呂場や職場のトイレでもマスターベーションしています。セックス依存症ですが、彼なりに日常生活に支障はなく淡々と毎日が過ぎて行きます。ある日妹のシシー(キャリー・マリガン)が現れ、恋人に振られたため、当分住ませてくれと言います。仕方なく承諾するブランドンですが、人とは深く心を繋ぎたい恋愛体質のシシーの出現は、バランスを保っていたはずのブランドンの生活を、蝕み始めます。

ブランドンはいわゆるヤッピーで、都会に暮らすハイソな男性の歪な孤独を描いた作品だと想像していたのですが、私の解釈が当たっているなら、これはもう、煉獄に身を焼く苦しみでしょう。以下ネタバレ含みます。








冒頭からセックスシーンで、マイケル・ファスベンダーのオール・ヌードが出てきてびっくり。以降あらすじに書いた過激なセックスシーンが満載なのですが、これがちっともエロくない。快感は伴うのでしょう、しかし無機質な排泄行為にしか感じません。これこそがブランドンの心の中なのでしょう。無機質でいなければならない理由は、シシー。ブランドンの愛する女性は、血の繋がったシシーだと思います。依存症とは、何かから逃避したいが為に起こる症状で、それは妹への愛なのだと思います。

お風呂場で全裸姿を兄に見られても笑顔でそのままのシシーに、何か変だなと思いました。その後、幼い子が親にまとわりつくように、何かにつけブランドンにじゃれつくシシー。それと並行して、誰彼構わず男性に愛情を求め、寝てしまう彼女。

シシーもブランドンを兄として以上に愛しているなら、納得出来るのです。妹ではなく、恋しい人への行動だとしたら、全然奇異ではありません。愛する兄とは結ばれる事ができないから、その心を満たしてくれる男性を探したい。すぐ寝てしまうのは、その間だけでも「愛されている」と心が満たされるから。錯覚でも良いのでしょう。

職場のパソコンに猥褻な動画を保存していることがバレて、上司に注意されるブランドンは、職場の同僚をデートに誘います。普通になりたいと願っているのです。ぎこちなく弾まない、しかし誠実な会話。彼女となら恋愛関係になれるかと期待するブランドンですが、何と彼女とはセックス出来ない。少しでも感情が湧くと、ダメなのですね。そこにシシーへの想いの深さを痛切に感じさせます。

私は女性が男性とすぐ寝てしまうのは、自傷行為だと思います。しかしブランドンを観ていると、彼のセックス、いいえ「射精」も、自傷行為のように感じました。後半シシーとの諍いに心乱れる彼は、実際にどんどんインモラルで危険な行動を取ります。それは自分を救われない境遇に置き、貶めたいからかと言う絶望を感じます。もう快楽も快感もないよう無機質なセックスを繰り返すブランドンと、恋愛体質のシシーは、全く違うように見えますが、実は同じで表裏であるのかと思います。

彼らはアイルランドからアメリカに渡ってきています。故郷へは帰らない彼ら。歌手であるシシーの歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」に、滅多に感情を露にしないブランドンが、一筋涙を流します。二人は同じ気持ちを抱いてニューヨークに渡ってきたのでしょう。故郷で何があったのか、映画では語られません。予告編に「逃れられない過去」と出てきます。それがブランドンの「シェイム=恥」なのでしょうか?それはシシーに対する許されない気持ちなのでしょう。

「私たちは悪い人間ではない。居た場所が悪いだけ」とシシーは言います。二人は過去に一線を超えてしまったのか、それとも瀬戸際で留まっているのか。背徳の道には突き進めないブランドンですが、地獄に落ちても構わないように見えるシシーの無数の手首のリストカットの痕は、ブランドンと同じ苦しみを味わっているのだと思うのです。

主役二人が素晴らしいです。何作かファスベンダーの作品は見ていますが、この作品が断トツの演技です。押し出しの効く男性的な見栄えの良い容姿からは、今回のような際物的役柄でも、大器のオーラが垣間見えます。繊細さと線の太さの両方を感じさせるムードも良く、今作では冒頭の電車のシーンでのセクシーさは、もう目が眩むようでした。圧巻は娼婦二人とのセックスシーンの際の射精の表情。哀しみと快感と空虚が入り交じった表情は、本当に痛々しくて可哀そうで、涙がでそうになりました。こんなシーンで女性を泣かせるのは至難の技です。

キャリー・マリガンが演技巧者なのはわかっていますが、今回が一番唸りました。可愛くて無邪気で自堕落なシシー。しかし誰とでも寝る彼女は、女としての薄汚さもあるのです。薄汚さの根元を突き詰めると、彼女の哀しみが噴き出します。女としての薄汚さの中に哀しみを滲ませるのは、これまた至難の技かと思いますが、本当に脱帽の演技でした。

過激で背徳的な題材なのに、とても粛々とした作品です。この二人はこれからも同じ事を繰り返し、苦しみながら生きるのでしょう。時の過ぎ行くまま、きっとそのうち世界で二人きりになるのでしょうね。それは地獄なのか背徳の甘美なのか・・・。ラストのブランドンの号泣は、そのまま今も私の心まで掻きむしるのです。








2012年03月11日(日) 「最高の人生をあなたと」




「おとなのけんか」が結婚15年未満くらいの夫婦なら、こちらは結婚30年と倍の夫婦生活を送ったカップルが主人公です。老いに向かうことに対してのスタンスの違いが、あわや熟年離婚にまで発展しそうになるとは、何年夫婦やってても、男女の仲は面白くて厄介なようで。
コミカルに二人のファインティングを見せながら、悠然とした母や、戸惑う子供たちの様子も情感豊かに描けていて、私はそこに魅せられました。監督はジュリー・カヴラス。老いに向かう夫婦を描くラブコメです。


結婚30年を迎える建築家のアダム(ウィリアム・ハート)とメアリー(イザベラ・ロッセリーニ)夫妻。三人の子供たちは皆独立、隣に住むメアリーの母も元気でいてくれて、介護は無用。これから新たな生活が始まるはずでしたが、忍び寄る老いに向かっての準備まっしぐらに妻に対し、まだまだ現役にこだわる夫は対立。しだいに夫婦仲が険悪になっていきます。

冒頭仕事で賞を受け、スピーチするアダムに対して、「長いスピーチね。私の人生なんか5行で終わるのに」と言うメアリー。これはね、違いますよ。似たような人生を歩んでも、5行だと思うか、400字詰め原稿用紙5枚の人生だったと思うか、それは自分次第。現状に不満がありありなのが、端的にわかるセリフです。

時々の記憶喪失に体力不足、異性には無視されるどころか、バスでは席を譲られる始末。ボランティアをしよと思えば、熟年者はいいように使われる現状に憤慨。自分の老いを認めるしかない状況で、抗わずに長ーい老後に向かって、着々と準備を始めるメアリー。家庭を守り子供を育て、夫へは内助の功、やっと子育てを終えたと思ったら、今度は子供の結婚だ離婚だと、母親として世話を焼くことはいっぱいだったでしょう。あれもこれも済んでから、と思っているうちに、老いへ向かう前の「中年期の青春」を得るタイミングを逃してしまったのでしょう。善良な主婦にありがちな、思い込んだら命懸け、周りを見渡せない猪突猛進ぶりに、彼女が如何に一生懸命家庭を守ったのかが、わかります。

対する夫の方は、現役バリバリの働き盛り。しかし建築家としての腕は良いのでしょうか、長年働く事務所を独立するでもなく、お金儲けより、言わば職人気質の人なのですね。若手からも慕われ、彼が老いを認めず現役にこだわるのもよくわかります。それにハートの旦那さんが、とっても素敵なのね。熟年の心豊かさと、精進して仕事も家庭も結果を出した余裕が、ハゲまでセクシーに見せる。若くて綺麗な娘が迫りたくなのも納得の魅力です。

美人の妻は、今は肥満気味の体なのに、首はシワがいっぱい。同じ60でも男女でこれだけ差があるとは、女って損だわなぁ。夫婦なんだから夫にも同じように老けろと言うのは、気持ちはわかるけど、やっぱりダメですよね。うちは夫が8歳年上で、最近加齢が進み気味。孫もいないのに、家族で「おじいちゃん」とからかっていますが、本当に老け込んだら困るので、もう止めておきましょう。

私がしみじみ胸が熱くなったのは、子供たちの対応です。普段は「パパと兄さんは、経済や時事の話しかしないわ」(妹談)なのに、長男が両親の不仲を心配し、兄弟を呼び寄せ、せっせと世話を焼くのです。メアリーはイタリア人で成人してアメリカに来たのですが、彼だけがママではなくマンマと呼び、家族をラ・ファミリア、末っ子の弟をバンビーノと呼ぶ。最初の子で、イタリア語で話しかけるのも多かったのでしょう。子供の中で、一番長く親子をしているのです。「マンマは家族のために自分の人生を犠牲にした」と、家庭のため教師の職を辞めた母の苦労もしっかり認識しています。そして仕事も家庭も上手く行かない、傷心の父親のハゲ頭も抱きしめる。やっぱり長男よね!

冷静な妹は、母がかつては暑苦しい家族主義者で、「ママもパパの自由を奪った」と冷静に分析しながら、両親の不仲を心配し、「私もたまにはママの世話を焼きたいのよ」と言う場面では、思わずスクリーンに手を伸ばして、私もこの子を抱きしめたくなりました。末っ子は「パパもママも大人なんだから任せたら」とクールを装いながら、実は修復に虎視眈々。三人三様ながら、どうしても親の離婚は避けたい子供たちの姿に、彼らの育った家庭は、さぞ温かく幸せだったのだろうと感じさせます。これは夫婦二人で頑張った結果ですね。決してどちらかではなく。

そんな良き家庭を築いた夫婦でも、ちょっとした諍いから危機が訪れるのですから、夫婦とは難儀ですよね。しかしそれを救ったのは、やっぱり家族の祖母でした。自分たちが築いたと思っている夫婦の絆は、子供や親にも、しっかり支えられて成り立っているんだなぁ。親子、夫婦でも、立場は年月によって、くるくる入れ替わるんだと、改めて感慨深かったです。

「ブルー・ベルベット」の退廃的でミステリアスな美しさが印象深いロッセリーニは、今回まんまるの可愛いおばちゃんでした。ランコムのイメージヒロインとしても長く活躍していましたが、美女だった昔を全く引きづらない怪演で、今回は楽しませてもらいました。若い男はさすがに無理でも、60以上なら、まだまだ全く問題なく落とせますよ!

離婚した長女が「パパとママは30年も夫婦なんてすごいわ。秘訣は何なの?」と尋ねると、「ずっとパパを愛しているのよ」と答えるメアリー。うちも結婚30年目ですが、このメアリーの返事には激しく同意です。最近は「人の人生は平等やからな、私は今まで苦労した分、これから楽できるけど、あんたは苦労ばっかりやで」とか「あんたにかけられた苦労を思うと、子供にかけられた苦労なんか、何でもないわ」と、日々夫を虐めているワタクシですが、これも古女房の味わいと、我慢してもらいましょう。


2012年03月09日(金) 「おとなのけんか」




おもしろ〜い!もう思い当たる事だらけで、中盤からずっと笑いっぱなしでした。80分足らず、二組の夫婦が一軒の家で子供同士の事で話し合うだけが、こんなに面白いなんて。親心は万国共通を実感致しました、ハイ。監督はロマン・ポランスキー。

ペネロペ(ジョディ・フォスター)とマイケル(ジョン・C・ライリー)夫妻の息子が、ナンシー(ケイト・ウィンスレット)とアラン(クリストファ・バルツ)夫妻の子供と喧嘩して、前歯を二本折られます。夫婦して謝りに来たはずが、事態はあらぬ方向へ・・・。

もう大人になったけど、うちも息子三人なのでね、そりゃ子供の頃は謝ったり謝られたり、色々ありました。病院送りも病院送られもあり。謝る時の私の常套句は、「申し訳ありません、親の躾が悪いもので・・・」と、締め括りには「これからもよろしくお付き合いお願い致します」。謝られる時は、「まぁまぁ、そんな、よろしいですよ。男の子ですもん、これくらい。喧嘩もでけへん男の子なんか、あきませんやん」です。そして話しは手短に。色々話すほど、打ち解けるより墓穴を掘ること明白なので。だって色々言いたい事は、ぐっと我慢しているわけで。この親たち、こじれたのは話が長すぎたのよね、うんうん。

最初はお互い誠実に丁寧に相対しているのに、弁護士のアランの携帯が鳴りまくり、話の腰を折るのが悪かった。愛想笑いを浮かべる他の三人に比べ、アランは慇懃無礼どころか、無礼千万。そこには仕事で忙しいのに以上に、男なんだから、喧嘩の一つや二つで、何で男親まで出ていかなければいけないのか?が、ありそう。その辺は実はマイケルとて同じなんですね。夫の個性の違いで、出方が違うだけです。

しかし私も子供が前歯を折った折られたの喧嘩をしたら、「父親の出る幕」だと思うわ。父親と母親って違うのよね〜。誰だって自分の子供が一番可愛いわけで、親の言い分はぐっと堪えているところへ、毒舌と皮肉いっぱいながら、ある意味一番正直に親の気持ちを語っていたのは、アランです。一人、また一人自分の本音を露呈さてしまうと、もう収まらない。お話は夫婦VS夫婦になったり、夫同士妻同士がタッグを組んだり、妻と夫がお互いを攻撃したり、入れ代わり立ち代り、攻守交代でお話は進むんですが、セリフの一つ一つ、動きの一つ一つまで、とにかく面白い。てか、他人の喧嘩は観ていてホント、面白い!

ペネロペはインテリジェンスに対しても、ぐっと背伸びをした思考がありあり。普通で可愛い妻のはずが、独りよがりの平和主義者で独善的。「ジョン・ウェイン型」のマイケルならいざしらず、アランは弁護士ですもの、やり込められて、首に青筋立てながら、涙ながらに必死に応戦する姿が、可愛くもおかしくて。ムキになればなるほど、おかしくて面白いんだなぁ。

ナンシーの仕事で家庭を省みない夫への不満もよーくわかる。この人たち、結婚12〜3年くらいですかね?私が一番夫への不満が多かったのが、この頃です。ナンシーがある行動を取るのですが、もう痛快でね。実は私も覚えがあってね、当時夫はあるアマチュアスポーツ団体の理事をしていて、昼夜土日祝関係なく頭の中はそのことだらけ。その上時間がちょっとでも空くとパチンコ。仕事はそれなり、家庭はほっぱらかしの時代が15年くらい続くわけ。そちら方面で忙しく、子供に当たる夫にキレたワタクシ、そちら方面の大事な書類を、ビリビリに夫の目の前で破いてやったのですね、ワーハッハッハ!

ヒステリーを起こす妻たちに比べ、夫たちは至って冷静。ジョン・ウェインを目指すマイケルは、少々無神経ながらも妻を寛容しているし、アランに至っては、常に悠然で余裕ありまくり。そうそう、これでいいんです。女は身近な事で泣いて喚けばいいのよ。受け止めるのが夫の技量だわよ。アランも言ってたでしょ?「男は女の涙には弱い」と。欧米でもそうなんだねぇ。私最近、映画以外は泣いてないなぁ〜。

冒頭とラストの対比、ハムスターの可愛い顔に思わずニヤリ。「子供の喧嘩に口出しするな」は、これまた万国共通なんだねぇ。暴力は確かにいけないけど、殴られても我慢するのは如何なものか?うちは自分から手を出してはダメと教えてましたが、一発殴られたら、三発殴り返せと教えてきました。暴力の連鎖だ!なんて、言わないように。

子供時代は次男がヘタレで、一発殴られて、親の教えを守り殴り返したら、返り討ちにあって、鼻血が大量に出て大騒ぎで小学校から連絡を受けた私。相手の子もびっくりして、泣きながら「ごめんなさい」と言うのですよ。それ以上何を望もうか、「かまへんかまへん、男同士や、これくらいあるわ」で、事を収めようとしたのに、ぶち壊したのは相手の母親。叔母なる人を連れてきて、二人で「あんたが悪い!」と、担任の先生を責めるではありませんか。指導が悪いから、こんなことをしでかしたんやと言うわけ。私には一瞥もせず謝りもなし。あまりの事に「ちょっとおかしいん違います?」と口を挟んだ私に対して、「あんたかって、うちの子みたいな仕打ちを受けたら、謝る気なんか無くすわ!」と、常識のないことを言うので、その時はワタクシも相手の母親と喧嘩致しました、ハイ。

順調にヘタレ街道を歩む次男は、中学の時は体はでかいのに、ぐじぐじ嫌がらせ受けてね。ナンシーの言うところの「言葉の暴力」ってヤツ?相手は小さいと聞いたので、一発殴って怪我させたら、この作品のようにうちの子が悪くなる。一計を案じたワタクシ、「今度何か言ってきたら、机と椅子、いっぱいひっくり返してゴリラみたいに暴れておいで。相手に手ぇ出したらあかんで。それで先生に怒られたら、お母さん、いつでも学校に行ったるから」とミッションを下しました。次男がミッション決行後、相手は青くなってそれ以降嫌がらせは止まり、先生の知るところでもなかったようです。お陰様で次男はその後も順調に縦も横も成長、現在185cm、人相悪くロングコートを着たら、まるでフランク・シナトラの用心棒のようで、今では誰も手出ししません。ハイハイ。

三男が小学校の時は、「うちの息子がオタクの息子に、砂場で砂かけられました」、と抗議されたことがあります。ワタクシ一応「常識のある親」なので、謝りましたが、本音は「あんたのとこの息子も、砂かけ返せば済むことやんけ」と思ったのは内緒。男子の親が、いちいちそんな事で電話してくんな!と、喉元まで出ましたが、引っ込めました。寸での所でナンシーになるところだったわい。ハイハイハイ。

家庭持ちなら覚えのある、子供や夫婦の問題を、クレバーで超下世話で、ユーモアたっぷりに見せてくれます。しかしイーストウッドといい、ポランスキーといい、身にまとった老いを、円熟と言う名に変身させるんですから、すごいなぁ。


2012年03月07日(水) 「ヒューゴの不思議な発明」(3D字幕)




実は先週の木曜日、映画の日に観ています。レセプトの時期と重なり連続勤務が続いてため、なかなか感想を書く時間がありませんでした。でもそれ以上に、出来の良い作品だとは思いつつ、特別心が動くこともなく、書くのが遅くなった次第です。

1930年のパリ。亡き父(ジュード・ロウ)の残した壊れた機械人形とと共に、駅の時計台の中で暮らす孤児のヒューゴ(エイサ・バターフィールド)。ヒューゴは駅の時計の整備をしながら、機械人形を修理し動かすことを生き甲斐にしていました。足らない部品を調達するため、度々おもちゃ屋から部品を盗んでいたのを、主人のパパ・ジョルジュ(ベン・キングスレー)に見つかり、咎められます。機械人形の存在を知ると、ジョルジュは顔色を変え、ヒューゴに怒りさえ向けます。あきらめないヒューゴは、ジョルジュの養女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合い、協力して機械人形の修理に励むのですが・・・。

事前に全く知らなかったのですが、パパ・ジョルジュの役は実在の人物で、特撮映画で活躍したジョルジュ・メリエスと言う映画監督です。彼を通して、映画への愛を描いています。メリエスは戦前は人気の監督でしたが、戦争で現実の厳しさを嫌というほど知った観客には、彼の作るファンタジックな娯楽作は、絵空事に感じたのでしょう、人気は急降下。不遇のまま、おもちゃ屋の店主として、ひっそりと暮らしていました。

そのメリエスに敬意を払った作品です。3D作品としたのも、メリエスの映画の原点は「見世物」としての娯楽です。映画に新たな付加価値をつけたのが、昨今の3Dブームな訳で、その点を踏まえたものだったのですね。メリエスの特撮場面の再現はとても楽しく、今のCGやVFXとは比べ物にならない稚拙な方法なのですが、しかし映画への愛を非常に感じるものでした。私的にはここらのシーンが一番好きでした。

なのでファンタジックはお子様もの、と言う予想は冒頭のアスレチックのような時計台の中を行き交うヒューゴを描くくらいで終わり、後は子供にもわかり易い展開で、喪失と再生、希望と夢が現実的に描かれます。

全然悪くないんですよ。亡き父を思うヒューゴの気持ち、封印していた苦い記憶との葛藤に苦しむパパ・ジョルジュなど、丁寧に描いていたと思います。映像も綺麗。スコセッシのメリエスに対する敬意も充分感じます。ただ私は、それほど面白くなかったんだなぁ。何故なんだろう?

私が一番印象に残ったのは、サシャ・バロン・コーエン演ずる鉄道公安官。花売り娘(と言うには年食い過ぎているエミリィ・モーティマー)が好きなのに、告白できない彼。ある日勇気を出して声をかけようとすると、義足が外れます。義足の事で卑屈気味になっている彼は、告白を止めてしまいます。その後、悪役扱いだった彼の過去が明るみに出ると、彼に対する見方は一変。彼こそ、メリエスの作品で夢をもらい、戦後は夢を見ることを止めてしまった市井の人々の象徴だったのだと思います。

楽屋裏を楽しく見せてくれたトリュフォーの「アメリカの夜」は大好きなんですけどねぇ。良い作品だと思うけど、私には心で感じる作品ではなく、頭で楽しむ作品だったのが、書く事がない作品にしてしまったようです。ちょっと残念。


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