ケイケイの映画日記
目次|過去|未来
2011年07月31日(日) |
「どついたるねん」「王手」&阪本順治トークショー |
昨日九条のシネヌーヴォでの、「浪花の映画大特集」のうち、この二つを観てきました。映画もさることながら、「王手」上映後には、阪本順治監督のトークショーがあり、そちらが一番のお目当てでした。映画の方は公開当時子育て真っ最中だったもので、どちらも未見。予想以上に楽しめて、昨日は本当に楽しい一日でした。
「どついたるねん」
ご存知監督のデビュー作にして、赤井英和がボクサー引退後の初主演映画です。監督によると、「赤井さんに脚本読んでもらうと、『これいらんの違います?これも、これも』と、それ全部自分の出番のないところばっかりで(笑)。全然違う脚本だったんですが、それをヒントに全編彼だけを主体に描きました」が、成功した一番の要因だと思います。全編赤井の魅力が炸裂していました。
ヤンチャで強烈な自我、瞬間湯沸かし器のように怒り、人の言うことは聞かない。目立つことが大好きでお山の大将でないと気が済まない。こんな男が、とんでもなくチャーミングに感じるのは、監督が相当赤井に入れこんでいたんでしょう。事実脇でとても良い味を出していた原田芳雄から、「お前、赤井しか観てなかっただろう」と言われたそう。赤井演じる英治の表面からは伺いしれない、孤独や寂寥感をすくい上げ、手を差し伸べずにはいられない愛おしさが、本当に上手く描けていました。
「俺は解説はでけへん。コーチもあかん、ジムの経営も無理やとわかってる。俺はボクシングするしか能がないねん!」と、命懸けの復帰を周囲に迫る場面では、一芸に「だけ」秀でた男しかわからぬ葛藤が、哀切にこちらにも届き、思わずほろっときました。
ボクシングシーンも本職の大和武士、大和田正晴が出演。大変迫力あるものになっています。赤井は頭に爆弾を抱えているようなものなのに、臆せずファイトシーンも力演。元ボクサーの本能的な凄みも感じました。赤井を引退に追い込んだ大和田の出演は、「本気で殴り合いをした相手と、試合後は抱き合って健闘を称える。そんなスポーツはボクシングしかない。だから自分はボクシングが好きだ」と語ったボクサーがいましたが、その言葉が大いに納得出来るものでした。元全日本チャンプでも、その末路の厳しさも描いていて、「ボクサー」というものの光と影、性を充分に感じさせてくれます。
美川憲一はいらんかったかな?あれはオカマさんではなく、普通にクラブのママじゃだめだったんでしょうか?ボクシングはナヨナヨしたイメージのオカマでも、男の闘う本能を目覚めさすと言いたかったんでしょうが、ならば女でも良かったと思います。セリフで「ボクシングは男だけのもんや」と出てきますが、現在女子ボクサーもおり、時代の変化も感じます。他には気の強い大阪の女子を演じた、相楽晴子がとても良かったです。今彼女のポジションの女優っていませんね。汗臭く泥くさいのに爽やかな、青春映画の秀作でした。
「王手」 「『どついたるねん』は、赤井の地じゃないか。演じていたんじゃない。そう言われて、俳優赤井英和の魅力を映そうと、ボクシングではなく、勝負する彼を描きたかった」のが、将棋が題材の「王手」製作の始まりだそうです。この作品でも期待に応えていたと思います。
通天閣下の将棋場で、真剣師(掛け将棋)を生業にしているのが赤井の役です。将棋は全くわからない私ですが、確かに将棋で格闘技をしている熱気が十分感じられます。将棋は文化的なイメージがあり、プロの将棋士も知的で静かな佇まいの人が多いですが、赤井の真剣師はやくざ紛いで教養がなく、しかし男のバイタリティを感じさせ、上手く真剣師という仕事を浮かび上がらせていました。確かに地の延長線上の役柄ですが、ボクシング抜きで好演していました。
プロの将棋士を目指す赤井の後輩に加藤雅也。私はニヒルでクール、ハンサムで押し出しの効く彼しか知らなかったので、こんなうらなりのようなウジウジした役にびっくり。しかも上手い!大阪弁も全く問題ないやんと思いきや、奈良県出身なのでした。広田玲央奈の憂いのある、ちょっと天然っぽいストリッパーも良かったです。
赤井の師匠役で若山富三郎。確かこの作品が遺作のはずです。いぶし銀の渋さで、重厚で軽妙な、さすがの演技でした。この大俳優に阪本監督は何度もNG出したとか。「今考えると恐ろしい。若くて知らないということは怖いですね」と仰っていました。うんうん。でも一度もいやな顔はされなかったとか。流石は大御所、きっと当時の若き監督の才能を見抜いていて、盛立てるお気持ちだったかも。
赤井VS若山の対局が終わり、通天閣からの風景が一変、海に変わるシーンが深い余韻を残します。これは当時ですので、ロケしたのかなと思っていたら、ビンゴ。監督によると、「CGは使わなかったと言うか、使い方がわかりませんでした。それでプロデューサーの荒戸(源次郎)さんに相談して、東尋坊にセットを建てたんです」。今では考えられない気前の良さですね。
「どついたるねん」以上に新世界のディープな雰囲気が味わえるロケが楽しいです。今はすっかり小奇麗な観光地になった新世界ですが、当時はこんな小汚くて猥雑で、底辺の人のための街でした。金子信雄演じる街の実力者が「出身がどこでも、この街に住んだら、立派なここの住人や」のセリフは、訳ありの人や社会的弱者を包み込む、この街の懐の深さを浮かび上がらせて秀逸。現在の阿倍野・天王寺界隈は再開発され、お洒落なショッピングモールができ、街は区画整理されています。すっかり陽の当たる人だけの街です。光りあれば影があり、影でしか生きられない人もいるはず。表面だけ美しく、置いて行かれた人の救済はなく、それでいいのかなぁと、ちょっと感傷的になりました。
これだけ抜群の存在感を示した赤井ですが、現在俳優としてはそれほど活躍せず。監督によると原田芳雄からは、「三船敏郎になれる。存在感ではなくぞんざい感で」と言われたそう。監督は口篭りながら、「うん、まぁ25キロほど痩せたら・・・」だそうです。そうやねぇ、当時の引き締まったボディ、両作品でも惜しげなく披露してたもんね。今の彼は「じゃりん子チエ」が実写可されたら、テツの役がぴったりだと思います。
阪本監督は画像で見るよりずっとハンサムで、紳士的で腰の低い温厚そうな方でした。「大鹿村」については、原田さんは悲痛な様子はなく、いやな台詞は「言わない」と拒否されたり、本当にいつもの原田さんだったとか。壮絶な演技など言われているが、原田芳雄の本当の演技力は、あんなもんじゃないとも仰っていました。とにかく和やかな現場だったそうです。
「『大鹿村』の脚本は、基本は荒井(晴彦)さんです。しょうもないギャグは僕が入れました。滑ってますけど・・・」は、謙遜半分自嘲半分ですね。「どついたるねん」の果物籠の熨斗の文字「お詫びのしるし」や、「王手」の「この兄ちゃん、コンドーム欲しいんやて」や、扇子に書かれた「欧陽菲菲」のギャグ、最高でした。監督、子供の頃吉本新喜劇がお好きだったんですね。初期のファンキーで泥臭いギャグ満載の、バイタリティ溢れる両作品を観て、近年は演出もすっかり洗練されはったなぁと感じました。また大阪を舞台の作品を是非撮って欲しいけど、監督の垢抜けた佇まいを観て、作るなら半年くらい大阪に戻って暮らして欲しいなぁと思います。そしたらギャグも滑りませんよ、きっと。
2011年07月22日(金) |
「大鹿村騒動記」を観て思うこと |
前回の日記に感想を書いた「大鹿村騒動記」の主演俳優、原田芳雄が亡くなりました。舞台挨拶を観て、その心意気に感動し初日に観ましたが、こんなに早く亡くなるなんて。私は原田芳雄は俳優として好きだけど、特別ファンではありません。そんな一介の映画好きが、亡くなったと聞いた時、とても胸に込み上げる事があったので、書いておこうと思います。
原田芳雄は、私が子供の頃から映画にテレビに売れっ子でした。数多くの映画主演作もありますが、私は未見もいっぱいです。若い時って、異性の俳優に対しては、過分に好みのタイプで好き嫌いがあるでしょう?私は子供の頃から一貫して、育ちの良い爽やかな優男(優男が最優先)タイプが好きでした。だからもうこんな人、有り得ないわけ。↓
ワイルド、男臭い、粗野、汚い、ぎらついている、全部ダメです。だいたいお風呂に入ってなさそうでしょ?、この頃の原田芳雄。それが絶対毎日お風呂に入っている風に見えたうちの夫が、結婚当初二日くらいお風呂に入らなくても平気なのを知り、男ってそういうもんなんだと初めて知りました。清潔第一で脱毛したり、体臭を異常に気にする今の男子には考えられない「昔の男の人たち」。
それが中年期に入り、ぎらつき感がマイルドになり、豪快な風貌はそのまま、お茶目な少年ぽさも醸し出しながら、この人は少しずつ変貌していきます。私が良い俳優さんだと認識するようになったのは、この頃から。
特に熟年期に入り、今迄共演は考えられなかった人たちと共演して、違和感ないのには感心していました。それもビッグな存在感はそのままなのに。彼がずっと使われ続けていたのは、脇に回って作り手の要求する存在感も出しながら、決して他の人を食うようなお芝居をしなかったからかも知れません。
「大鹿村」の原田芳雄は、いつものチョイ悪親父で豪快で、でもお茶目で本当は温かい優しい人でした。それ以上でもそれ以下でもありません。「いつものように素敵な原田芳雄」、それだけです。私は亡くなったと聞いた時、それが心底すごい事だと思ったんです。名のある俳優さんの遺作は、渾身の力演を見せたり、死の影がちらつく場合も多いけど、本当にいつもの原田芳雄でした。聞けば撮影は二週間の大急ぎ、撮影の合間は、かなりの疲労が彼を襲っていたそうです。それを平常に見えるように演じていたわけです。
病み衰えた舞台挨拶の彼は、でもとても綺麗な目をしていました。失礼ながら病の71才の人の目ではなく、少年のような澄んだ眼差しでした。私は素人レビュアーの末端の人間で、自己満足で映画の感想を書くようになって7年です。もし彼が亡くなってから観たら、映画の感想が割増になるかもしれない。そんなことはしちゃいけない、一介の映画ファンが、この大俳優が渾身の力を振り絞って舞台挨拶に立つ、その事に報いるには、初日に真摯に観て、一生懸命感想を書く、それしかありませんでした。
制作事情も色々あったようですが、自分の感想を読み返してみると、それなりにキャスト・スタッフの思いを、私は受け取れたのではないかと自負しています。今日は仕事がお昼からだったので、ネットでたくさん彼の映像を観てました。涙が出なかったのは、この人には、涙が似合わないからでしょう。「大鹿村」は、決して傑作でも名作でもありませんが、楽しく温かい作品であることは間違いありません。どうぞ皆さん、劇場で映画俳優原田芳雄のラストを楽しんで下さい。
原田さん、映画やテレビでたくさん楽しませてもらって、本当にありがとうございました。私が一番好きなあなたの作品は「父と暮せば」です。これから追悼上映もあるでしょうし、また再見したいと思います。ご冥福をお祈り致します。
主演の原田芳雄の試写会の舞台挨拶を観て、絶対初日に見ようと思いました。豪放磊落な男っぷりで映画ファンを魅了してきた人です。あの病み衰えた姿を人目に晒すのは、俳優として勇気がいったことでしょう。きっと主演俳優としての責任感が、そうさせたのでしょうね。特別ファンではない私ですが、敬意を表して初日の初回に観ました。そこそこ入った場内は、常にクスクス大らかな笑いに包まれ、とっても気持ち良い時間が過ごせました。監督は阪本順治。
300年に渡る伝統の、村民が演じる歌舞伎が自慢の長野県大鹿村。その歌舞伎の花形役者の善(原田芳雄)は、鹿料理店のオーナーです。18年前妻の貴子(大楠道代)と親友の治(岸辺一徳)が駈落ちし、今は一人。最近アルバイトに若い男の子雷音(冨浦智嗣)を雇いました。そんな時なんと貴子と治が帰ってきます。65才の貴子は認知症を患い、どうにもならなくなった治は、貴子を善に返したいと言います。折しも村は今年の歌舞伎の準備で大わらわ。善は無事に舞台に立てることが出来るのでしょうか?
キャストは上記の他、石橋蓮司、三国連太郎、佐藤浩市、松たか子、小倉一郎、でんでん、瑛太、等々地味目に超豪華。皆芸達者なので、登場人物は多いですが、キャラはくっきり。描かれるのは熟年の三角関係と歌舞伎を中心に、認知症、ジェンダーに対する悩み、過疎化する村の悩みなどです。やや盛り込み過ぎる気はしますが、どのパートにも含みを持たせて上手く描けています。この作品は千円均一での興行で、幅広い層に観てもらうには、あんまり小難しいのはどうかと思うので、浅からず深からずのこの描き方は、私は良かったと思います。
私が感じたテーマは、「恩讐を超えて」だと思いました。登場人物の大半は皆それぞれ年を重ねた人ばかり。恨み辛みや悲しかった事、たくさんあるでしょう。そんなのは墓場に入るまでに捨てて、穏やかな気持ちで先の見えた人生を暮らしたほうがいいですよね?三国連太郎扮する貴子の父親は、業の深さや因縁を感じる過去を振り返りながら、自省と村の平穏を願い木彫りの仏像を彫っています。彼はこのテーマの象徴なのでしょう。
その具体的な例えが善・貴子・治の三角関係。寝取られ夫が妻を迎え入れやすくするため、認知症を持ってきたのは良かったです。認知症の様相はもっと深刻なものも多く、正直これくらいの描写で、舞台を降りる降りないに持っていくのは、えっ?とは思いましたが、この作品が認知症の中で焦点を合わせたのは、「忘れる」と言う病状です。
長い人生の恥ずかしかった事悲しかった事、全て覚えていたら、辛くって生きていけないですよ。だから人は神様から、老いると「忘れる」と言うプレゼントをもらうんじゃないかな?童女のような愛らしい貴子の様子もまた、認知症の一つの様相でもあり、私はこれで良かったかと思います。
ジェンダーに苦しむ雷音を、「あいつ、ちょっと微妙だよな」と言いつつ受け入れる村の大人たち。雷音に「来年はきっと人気の女形だ」と軽口を言う善。そこにはこの村に、男性が女性を演じる歌舞伎が根付いている事を感じます。そして伝統を守るため、戦時中には女性だけで歌舞伎を守ったと言う柔軟な思考。この村の大らかな懐の深さは、異端の者にも居場所を与えてくれるのです。作り手の大鹿村への愛も感じました。
60過ぎた男女の三角関係の描き方も、どろどろしがちになるのを、上品にユーモラスに描いています。人っていい年になっても、男女間の煩悩は、若い頃とそれほど変わらないものです。料理を振舞う貴子に、昔はこんな薄味じゃなかった、あいつ(治)の味だろうとネチネチ拗ねる善。あぁもう、ちっちゃい。男の男女間に置けるちっちゃさ全開。でもね、これ原田芳雄が言うから、ちっちゃさ=男の可愛げに感じるんであってね、本当にちっちゃい男が演じたら、たた見苦しいだけなんだな。
反対に善の好物の塩辛を嬉しそうに万引きする貴子に、「俺、塩辛は大嫌いなんだ・・・」と言う治には、哀愁がいっぱいです。遠慮がちに「貴ちゃん」と言い続ける治にとって、18年暮らしても貴子は「俺の女」ではなかったのでしょう。きっとずっと「間男」だったんですねぇ。善が瞬時に夫にもどるのとは大違い。治はずっと貴子が好きだったのでしょうが、貴子は出奔ありきで、目の前に居たのが自分だっただけ、その想いが拭いきれなかったのでしょう。なのでたった一度、「貴子!」と治が絶叫した場面は、彼女の安否が忍ばれる場面だったので、本当に好きだったんだなぁと、胸に残りました。岸辺一徳は、尊大な偉いさんの役柄より、私はこういう貧乏臭い男の真心を感じさせる役柄の方が好きです。
ただちょっと引っ掛かったのは、別の男と肌を合わせた妻を、いくら認知症と言えど、善が簡単に引き受けることです。男って、いくら夢にまで見た忘れられない女房だって、そんな簡単に割り切れるもんじゃないでしょう?葛藤が薄過ぎる気がしました。熟年の濡れ場なんかは見苦しいので要りませんが、寝ているときに、たまたま自分に触れてきた妻を払い除ける、そんなシーンのひとつでもあれば、ラストに手を握りあって眠る夫婦のシーンが、もっと生きたと思います。
サラっと描いているので少しコクが足らないのが残念ですが、たくさん詰め込んでも、それぞれに意味を持たせて、うんうんと頷かせてもらえます。歌舞伎の場面もふんだんにあり、腕のある役者さんたちは、さすが器用に演じていて見応えもありました。作り手が一番に楽しんでいるのではなく(三谷幸喜は往々にしてそんな気がする)、観客に楽しんでもらおう!を一番に考えて作っているなと感じ、私は十分堪能出来た作品です。
それにしても老女になって、男二人から想われる貴子は、女冥利につきますねぇ。羨ましいわ。私も間男作らなきゃ(嘘)。そして原田芳雄の一日も早い回復を祈っています。この作品、ヒットして欲しいな。
2011年07月07日(木) |
「BIUTIFUL ビューティフル」 |
私の天敵・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の作品。デビュー作の「アモーレス・ペロス」が唯一心に残る作品で、「21グラム」「バベル」と、私的には評価尻下がりの監督です。そんな事言いながら、「セプテンバー11」の中の一作まで観てたりして、全部観てるのね。力のある監督だとは理解していますが、わかる人だけにわかればいいんだよ的上から目線、いつまでやるんだよ!と言う感じの時空イジリ系の作風(芸風)が鼻につき、合わない監督でした。それが今回初めて大好きだと言える作品に巡り合え、とっても感慨深いです。
スペインのバルセロナに住むウスバル(ハビエル・バルデム)。仕事はセネガルや中国からの不法滞在者に仕事を斡旋したり、警察に賄賂を渡してお目溢しの仲介役など、裏稼業です。精神疾患を患う妻マランブラ(マリセル・アルバレス)とは別居中で、男手で小学生の娘と息子を懸命に育てています。体調の悪さに病院を受診したウスバルは、そこでガンに冒され、余命2ヶ月と宣告されます。
ウスバル自身も幼い時に母に死に別れ、父とは生まれる前に別れています。途中で挿入される刹那的な享楽を感じさせるシーンを観ると、結婚前の彼は真面目に暮らしていたとは言い難かったと想像します。生業はどうあれ、彼を心の真っ当な人間にしたのは、子供の存在だと感じました。子供たちを父性的に厳格に躾ながらも、細やかな母性的な愛情も熱心に注ぐウスバル。
ここで描かれるスペインは、カラフルで情熱的な国ではなく、最底辺の貧困にあえぐ人々です。しかし彼らが寒々として暮らしているかと言うと、そうではありません。貧困に苦しみながら、あの家この家庭に、必ず貼ってある家族の写真。そこかしこに親を慕い、子を愛する親がいます。しかしそんなありふれた人々が懸命に生きているのに、起こるのは悪いことだらけ。
マランブラは「双極性感情障害」と字幕に出ていましたが、いわゆる躁鬱病です。この作品の短い紹介を読んだ時、薬物依存の妻と記されていましたが、大間違いも甚だしいです。この病気は確かな薬物治療と休息が必要なのに、マランブラは子供に母乳をあげられないからと言う理由で、服薬を止めてしまって、怪しげな民間療法に頼り、病気が悪化しています。一見とてもいい加減な母親に見えるのですが、監督は丁寧に繊細に、彼女の家族への必死の愛を描いています。
写真しか知らない父親に、とある事で初めて会えたウスバル。自分の年齢より若い父親に触れながら、笑顔で温かな涙を流す彼。自分たちを捨てて行った父親。憎んだ事もあったでしょう。しかし自分も父親になり、もしかしたら父は生き延びて、家族にお金を送りたかったから、自分だけ逃亡したのかも知れない。自分の死後、子供たちが路頭に迷わないように、必死でお金を貯めているウスバル。きっと父親と自分が重なったのだと思います。私もここで涙が出ました。
貧困、父性愛、不法労働者、精神疾患。様々な問題を折り込みながら、その全てがきちんと整理されて、心に深く残る演出です。それも時空いじらずに。やればできるじゃん!余計に感じたのは、主人公が「シックス・センス」を思わす霊能力があったり、中国人労働者のトップが、ゲイであること。描いても付加価値は感じられず、無いほうが良かったです。
今までのイニャリトゥの作品は、どれも綿密に計算されていても、自分からは遠い遠い人たちばかり。しかしこの作品の人々も遠い存在のはずなのに、道を歩けば出会してしまいそうな人に思えるのです。特異な状況に置かれた彼らは、何ら私と違いのない人です。今まで上段から苦しみ葛藤する人々を描いていると感じたイニャリトゥですが、この作品では腰を曲げて、もしかしたら膝をついて語りかけ、苦悩する彼らの肩を抱きながら描いたと感じ、そこに胸が打たれました。
いっぱい好きなシーンがありますが、上に書いた父とのシーンの他、セネガル人の若い母イヘと、ウスバルの子供二人が、初めて心を繋ぐ学校からのお迎えのシーンが好きです。その時他人の子供へも慈愛に満ちた笑顔を見せるイヘ。彼女の笑顔は、全ての母親の象徴でした。そのイヘが、自分との悪と戦いながら出した結論が、辛い事ばかり起こるこの作品に、大きな光明を与えています。
「美しい」と言う意味のタイトルは、綴りが間違っています。何故そうなのか、劇中に出てきます。学のなさ、貧困、病気、妻との離別。彼の子育てはどんなに大変だったでしょう。しかしどんなにみっともなくても、ウスバルの人生を、私は「美しい」と思います。それは一般的な「 beautiful」ではないけれど、あるがままの彼の「biutiful」な人生だったと思うから。
|