ケイケイの映画日記
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2011年05月28日(土) |
「ブルーバレンタイン」 |
非常に身につまされる感慨深い作品でした。一度でも結婚したことがある人なら、理由はどうあれ、このすれ違い感は思い当たるはずです。賛否両論ある作品ですが、私は好きな作品です。監督はデレク・シアンフランス。
ディーン(ランアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の夫婦は結婚七年。娘フランキーがいますが、フランキーはディーンの実の子ではありません。結婚後看護師資格を取り、家庭と仕事を両立させるシンディは、夫と父親だけで満足しているディーンに不満が募っています。7年暮らした夫婦が別れを決意する一日を、かつての出会いから結婚するまでの幸せだった日々を回想しながら描きます。
二人の出会いは老人ホーム。ディーンは破たんした家庭に育ち、シンディは表面は良き家庭ですが、威圧的な父親の存在で、母と共に息を潜める様に暮らしていました。お互い恵まれたと言い難い家庭で育った二人。老人を思いやる様子は、彼らの心根の優しさと共に、愛されたい孤独も透けて見えます。二人とも温かい家庭に憧れたあったのでは?
大学で医師を目指していたシンディ。結婚・出産を経て看護師の資格を取り働いている頑張り屋です。対するディーンは、朝から酒を飲み塗装の仕事をしています。「何かしたいことはないの?」と妻から聞かれ、「夫と父親である以外、何が必要だ」と答える夫。7年の結婚生活で一生懸命人間として成長していった妻に対して、結婚が人生のゴールだと思っている夫。
このすれ違いが夫婦が段々とダメになっていた原因です。気を使い遠回しに夫に成長してくれと説くシンディ。しかし夫は何故妻子を愛してる自分だけじゃだめなのか?と、ストレートに妻に迫る。夫は妻より甲斐性がないこと、妻は家庭をおろそかにして仕事をしていること、お互いが引け目を感じています。細かい描写でそんなイライラも手に取るようにわかる。
そんなすれ違いを埋めようと夫が提案したのが、ラブホテルでの子供抜きの一泊。なんだかなぁ・・・。渋々同意した妻の思い遣りは、夫に通じているのかいないのか。シンディは不貞腐れた表情は見せても、一度も夫に声を荒げません。喧嘩しないのです。ストレートに自分の感情を見せる夫に対し、これは「あきらめ」ではなく、血の繋がらない娘を慈しんでくれる、夫への遠慮なのかと感じました。本音を言えない、飲み込み続けているうち、愛情が失われていったように感じました。今のシンディの実家には、あの威圧的だった父親が、見る影もなく老いた姿で住んでいますが、母の姿は見えません。シンディの母も、夫とぶつかるより家を出ることを選択したのでしょう。
でも私ならこの夫は捨てられません。私は結婚して丸28年。彼らの4倍結婚生活を送っています。嫌と言うほどシンディの葛藤がわかる。でも私は捨てられない。例え自分が遠慮する立場であろうと、私ならありったけの本音を言ってしまいます。ラストの大ゲンカ、あれがあの安いラブホテルで起こっていたら、二人はどうなっていたのかなぁと思います。私は喧嘩しないのは不毛だと思うけど、喧嘩することで神経すり減らすのが不毛だと思う人の気持ちもわかるけどね。でも自分に甲斐性がありゃ、これだけ妻子を愛してくれる夫なら、私なら愚痴を言いつつ受け入れてしまいます。出来ないのがシンディの「プライド」なのかも。
結婚には色々なステージがあり、その時々にお互いの実家や仕事、子供や経済的な事などで、諍いや絆が深まって行ったり、それこそ山あり谷あり。確かにこの作品のコピー「永遠の愛などない」は当たっています。しかし正しくは「永遠の同じ愛」はなくても、形の変わる愛はあるものです。私は夫婦が長年暮らすと、愛はなくなり親兄弟のような親愛の情が残るのだと思っていました。一つ山を越え谷から這い上がると、違う自分たちが待っている。一人で超えるより這い上がるより、やはり心強いものです。この年になり、周りを見渡し、夫婦を持ち堪えるのは情ではなく、やはり男女の愛なんだと実感しています。
この二人ももうちょっと頑張って欲しかったなぁ、次は違う展開があるのにと、結婚生活の先輩として少し残念でした。ブルーを基調とした撮影は美しく、テーマと相まって哀愁を帯びて感じました。世間で言われるほど鬱々とはせず、通り過ぎた過去を観る気がした作品です。映画を観る前に私の感想を読んで、別れを考えなす方がいたら、嬉しいな。
2011年05月19日(木) |
「ブラック・スワン」 |
もう、予想していたのと、全然違うじゃございませんか。実は私、昨年の12月から精神科のクリニックの受付をしており、ちったぁ精神疾患についてお勉強しておるわけです。そんな素人に毛が生えた程度のワタクシめでも、これってこの病気じゃないの???と、始まってすぐ感じました。以降稚拙に分析してしまい、素直に作品に入れませんでした。あぁ残念!監督はダーレン・アロノフスキー。本年度アカデミー賞主演女優賞受賞作品(ナタリー・ポートマン)。
ニューヨークのダンサーのニナ(ナタリー・ポートマン)は、同じくダンサーだった母(バーバラ・ハーシー)の期待を一身に背負い、厳しい練習に励んでいます。そんな時バレエ団のプリマであるべス(ウィノナ・ライダー)が引退、座付きの振付監督トマ(ヴァンサン・カッセル)は、「白鳥の湖」の主役に、ニナを抜擢されます。優等生のニナは、清楚な白鳥は完璧に踊れますが、官能的な黒鳥は上手く表現できません。ライバルの奔放なリリー(ミラ・クニス)に役を取られるのではないかと、疑心暗鬼になるニナ。次第に精神が蝕まれていきます。
え〜と、予告編で出ていた幻覚、私は主役に抜擢されたプレッシャーやストレスで、次第に神経をすり減らしたヒロインが観たのだと思っていたのですよ。しかしだね、それがまだオーディションに行く前の段階から、幻覚やドッペルゲンガーを観る訳です。自傷行為もあり。もちろん抜擢後はその病的な状態が加速。はい???
抜擢される前から病に罹っているんですね。当方ドクターじゃないんで、病名は恐れ多くてここでは書けませんが、とってもポピュラーな精神疾患が思い浮かぶ。ここで根本的な視点が激変してしまい、以降精神疾患を抱えた人の物語として観てしまいました。
当初は少しかまい過ぎるけど、仲の良い母娘に思えたのが、次第に母は娘の年齢には不相応の溺愛と抑圧を繰り返し、ニナの神経を蝕む根本なのがわかります。会話から母はかつて座付き監督(トマとは別)と関係を持ち、キャリアを捨ててニナをシングルで出産。以降自分の果たせなかった夢を娘に託しているのがわかります。娘にもしっかりその事は伝えています。
でも母は同じダンサーでも群舞の一人。出産は28歳と、既に先は見えていたその他大勢の一人だったわけ。出産を大成出来なかった事の言い訳にしたいのでしょう。おまけに自分より美貌と才に恵まれた娘に、嫉妬もしている。正常な親子関係を営んでいる方には、えぇぇ〜?と驚かれるかもですが、同性の娘に嫉妬する母親、いるんです。その嫉妬は邪悪だとはわかっているので、子供を束縛し同化して運命共同体になる事で、折り合いをつけるわけです。ややこしいでしょ?私の母も同じような人だったので、この辺の描写はよーくわかる。
ニナはと言うと、大人になって母の嘘と執着の愛に苦しみながらも、愛され保護されている事には素直に感謝しているので、反発心も抑え込みます。まぁ反発すると、この手のお母さんは発狂するしね。正確に言うと、子供が言う事聞くようにヒステリーを起こすわけ(ケーキのプロット参照)。無自覚の狂ったふりです。そうすると、子供は学習しているので反発はせず(後で面倒くさい)、代わりに自分の神経に変調をきたす。おまけにストイックなダンサーの日常、ライバルたちとの葛藤が、それに拍車をかけます。
ニナは性的にも奥手。これは自分が婚外で出生している(私の想像)事に起因しているのでは?母に感謝は出来ても、やはり辛いのでしょう。自分自身で自己評価が低いのかも。トマに気があっても、無理に異性やセックスへの憧れや欲望を抑え込んでいるので、ドッペルゲンガーはセクシーで、ドッペルゲンガーを実在したような、奔放なリリーが非常に気になる。セックスに恐れがあるのも、妊娠を嫌悪する気持ちがあるからでしょうか?それで現実と幻覚が行ったり来たりしながらも、性の相手は女性なのでしょう。
等々、つらつら考えて観ていると、もう映画を楽しむどころじゃーないわけ。血が噴き出したり生爪を剥いだり、悪魔が見えたり、本当は観客としては怖がらないといけなのでしょうが、もうこんな恐ろしい幻覚が見えるニナが、うちの患者さんたちと重なってしまい、可哀想で可哀想で。あんなのが現実に見えたら、本当に怖いですよ。早く病院に行きなさいよ、お薬飲みなさい。バレリーナとしては生きていけなくても、人としての人生があるのよ、と痛々しい思いで観てしまい、「あなたは病気なのよ!」と終盤で叫ぶ母に対しては、それなら早く病院に連れて行けよ、お前、母親だろう?!と、母としての未熟さに怒り心頭。作り手の思惑ダダはずれの感想へ、まっしぐらです。
ナタリーは、演技も上手だし良い女優さんだと思っていましたが、少々味気ないとも思っていたのも事実。そんな私のナタリー像と今回のニナはぴったり重なり、対照的な白鳥と黒鳥の場面など、鬼気迫るようで、とても良かったです。ミラ・クニスは今回初めて観ましたが、キュートにしてコケットリー、若々しいセクシーさが発散されていて、大好きになりました。小悪魔的な雰囲気で、性悪なのか、ただ奔放なだけなのか、ニナを悩ます様子も作品のアクセントとして、上手く機能していました。カッセルは年取って段々アクが減って、よくなったきた感じです。厳しく腕の立つ監督と、洗練されたプレイボーイの両方、きちんと演じていました。
そうだなぁ、母親は置いといて、例えばトマが、ニナを女性として開花させるのに、あんな手練手管を使わず、厳しくも「君なら出来る」的アメリカンな方法で彼女を鍛えたとしたら?ストレートに両手を大きく広げて、ニナを受け止めたら?結果は違っていたかもなぁ。誰でも支えてくれる人と環境が大切なんですよ。それは精神疾患に限らずね。結末はバッドではないけれど、やはり悲劇だと思います。白鳥=オデットに重ねているのでしょう。
他はもうちょっとバレエの場面が観たかったかな?でも「白鳥の湖」を持ってきたのは良かったです。ストーリーに踊り、音楽など、すごくポピュラーなものですから、門外漢にも理解出来ましたから。それとクレジットでウィノナの名前を発見して大ショック。役名を観てこれまたショック。全く気付かなかったの。あんなギスギスで花がなくなっちゃって、キャリアじり貧なんですねぇ。私生活を整えて、まだまだ若いのだから頑張って欲しいと思いました。
と、こんな感じの感想です。医療機関の受付は長いのですが、精神科は難しいです。入職した当初感じた事と今では、180度変化した視点もあります。自己満足な接遇になっていないか?常に気をつけなくちゃいけないし、他の科目では、すぐにどの患者さんとの距離感も掴めたのに、未だに手探りの人もいます。でも他の科目より、精神科の患者さんたちは大人しくて純粋だと、個人的には感じています。年長者でも「可愛い!」と思える人も多いです。やっかいな人もいますが、それはどの科目で働いても居ますから。そう言った意味では、疑似体験出来たので観て良かったと思っています。って、全然映画の感想ちゃうやん・・・。
映画には名作や傑作と言う冠が付かなくても、心の底から観る者の心を震わせる作品があります。「八日目の蝉」は、俳優・監督・脚本家、その他の作り手全ての方が、真面目に誠実に、そして一生懸命、「母性」と言うものの本質を観客に伝えたくて作ったのだと、私には感じられました。出てくる全ての母と娘たちの心に寄り添いながら、私も懸命に彼女たちの幸せを願った作品です。監督は成島出。
希和子(永作博美)は上司である丈博(田中哲司)と不倫して妊娠。丈博の「時期がくれば妻とは離婚」と言う言葉を信じて、今回は彼の願いで中絶します。しかしその後遺症で希和子は妊娠出来ない体に。不実な丈博は妻恵津子(森口瑤子)には出産させていました。その子・恵理菜の顔を一目見たら、丈博をあきらめようと思っていた希和子ですが、自分に笑いかける四か月の恵理菜を見て、思わず誘拐してしまいます。恵理菜を薫(渡邊このみ)と名付け、一心に愛を注ぐ希和子。希和子は四年の逃亡の果て、警察に捕まります。そして家族の元に戻った恵理菜(井上真央)は21歳。かつての過去が彼女を呪縛し、両親にも友人にも心を開かない女性になっていました。そんな彼女にインタビューしたいと千草(小池栄子)と言うルポライターが近づきます。恵理菜は不倫相手岸田(劇団ひとり)の子を宿していました。昔の希和子のように。
母親と言うのは、産んだだけでなれるものではありません。育てる過程で母になっていくものです。親にとっては子供はいつまでも子供ですが、それは大きくなった子供の向こうに、幼い頃の残像を観ているからです。そして子供も、自分に一心に愛情を注ぐ相手=母親を認識し、自分の世界の中心に、一番大切な人として母親を置くのだと思います。
作品は繊細に登場人物の心理を描きます。丈博の不実も一切責めず、子供を中絶した罰で子が産めなくなったのだと自責する希和子。忍びこんだ希和子に笑顔を見せた赤ちゃんの恵理菜。本当に純真な素晴らしい笑顔でした。子供を誘拐する彼女を、誰もが擁護したくなったと思います。
子供は5歳までに一生分の親孝行をすると聞いた事があります。恵津子にはその記憶がありません。冒頭、裁判で般若のような恐ろしい恵津子の顔が映されます。これでもかと希和子を罵る恵津子。他罰一方です。この作品では恵津子が悪いような描き方ですが、それは作り手の意図と言うより、世間の目を表しているのではないでしょうか?
マスコミの格好の餌食であったろう事件です。幸薄く大人しそうな外見。男の甘い言葉に騙された哀れで可哀想な女希和子。おまけに子供は健康に育っています。対する恵津子は派手で気の強そうな外見。いつも鬼のような形相で希和子を責め立てる。きっと世間は、あんな性格だから亭主が浮気したのだ、戸締りもせず赤ちゃんを置いて外出するいい加減な母親。好きなように書いたでしょう。世間は他罰する人より自罰する人を好むのです。被害者なのに、理不尽な中傷が恵津子を追い詰めたでしょう。
この幸せな生活がいつ終わりを告げるか、一日も安らかな日はなかったでしょう。しかし薫を育てることで、笑顔も涙も見せる希和子。心豊かな日々です。対する恵津子は、一度たりとて笑顔を見せません。いつまで経っても、娘は「ちゃん」付けでしか呼ぶことが出来ない。懐かない娘を責め、原因を作った夫も責めたでしょう。恵津子は気の強い派手な女から、まろやかで優しい母と変化する時間を、希和子によって奪われたのだと観たら、形相からほとばしる恵津子の涙は、血を流しているように見えるのです。大切な思い出を封印し、希和子を悪魔のような女だと娘に教え込む恵津子。行き場のない思いは、希和子を憎む事で逃げ道にしたのだと思います。
人とは全く違った環境で育った恵理菜。誰も自分を愛してくれず、母の心の中に棲む鬼は、自分のせいだと思い込んでいます。そんな彼女が、不器用で同じように心に傷を持つ千草の後押しで、希和子に愛された日々を思い出す過程で挿入される、過去の日々。一つ一つが美しく印象的です。住民票も保険証もなく、やがてこの素晴らしい日々が終わりを告げるのは、希和子自身が一番よくわかっていたはず。その日が来た時、娘のために最後にした事は、刑事たちに「この子は晩御飯を食べていません。よろしくお願いします」でした。
母親と言うのは、子供が幼い頃一番気にするのは、食事と睡眠です。希和子はもう二度と娘には会えない、刑務所に入る、世間の罵声が待っている。そんな絶望より貴和子が心配したのは、娘の食事でした。この思いは母親だけが持つ感情です。彼女が立派に「母親になった」証しだと思いました。
とにかく泣いて泣いて泣きまくりました。女優陣が本当に素晴らしい!彼女たちが泣く度、私も泣きました。誰も彼もが私の心に入ってくるのです。永作博美は多分今年の主演女優賞候補に挙がるでしょう。小池栄子は、後姿に卑屈さがいっぱい。妙な馴れ馴れしさも彼女の素性が明かされると納得で、愛おしくなります。本当にどんな役でもこなせるようになったね。井上真央は元気いっぱいの彼女しか知らなかったので、こんな内面に陰りのある役がこなせるなんてと、びっくりしました。特筆すべきは、森口瑤子。子供の前で形相しか見せられない母の不幸を、ありったけの力で表現していたと思います。彼女の好演なくば、恵津子はただの敵役だったと思います。
赤ちゃんと渡辺このみちゃんの素晴らしい演技は、どうして引き出したんでしょう?監督の苦労が忍ばれます。前作の「孤高のメス」も観ていますが、医療や母性を題材に、人生の喜びと哀しみを真摯に切り取る様子は熱く、とても真心のある監督さんだと感じています。
ラスト、涙ながらに自分の人生を選択した恵理菜は、きっとこれから二人の母の自分への愛が、理解出来る事だと思います。恵津子も失われた日々を取り戻せるでしょう。そして出来れば恵理菜の選択を、誰か希和子に伝えて欲しいと思いました。それは恵理菜からの赦しだと思うから。
2011年05月03日(火) |
「キッズ・オールライト」 |
とっても大好き!昨年から楽しみにしていて、即行観てきました。20年近く一生懸命家庭を築いてきた同性愛カップルと子供たちを軸に、普遍的な家族の絆を考えるヒューマン・コメディの秀作です。監督は自身も同性愛者だとカミングアウトしているリサ・チョロデンコ。
ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)は中年の同性愛カップル。それぞれジョニ(ミア・ワシコウスカ)とレイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)を人工授精で産み、ママが二人とユニークだけど、幸せな家庭を築いています。しかし年頃になった子供たちは、自分たちの遺伝子上の父親を探し当て、コンタクトを取ります。その人は独身で許容力の高いチャーミングなポール(マーク・ラファロ)。”パパ”に魅かれていく子供たちに困惑するママ二人は、事態を収束すべく、ポールを自宅に招きます。
同性愛カップルの家庭なんて、本当はとても遠い存在のはず。私はストレートで子供も夫との間に三人と、至って平凡なものですが、これがもう主要人物5人に共感同感しまくり。なんて上手い脚本と演出かと唸ります。
ニックは医師で大黒柱として家計を支え、ジュールスは専業主婦的生活。しかしジュールスは養われていることに卑屈になっている。これがストレートの家庭なら、何贅沢言ってんのよ〜、幸せじゃん!となるのですが、養われている相手が同性なので、ジュールスの憂鬱が手に取るように共感出来ます。おまけにニックの産んだジョニは優等生の良い子なのに、自分の産んだレイザーは何を考えているんだかわからない。これは男女の違いなのに、そこでまた卑屈になり、ニックに当たる。この見当違いの感情も非常にリアル。しかしこの良くも悪くも、自分の心を素直に出せるジュールスの自由な感受性を、ニックは愛したのだと感じます。
対するニックは理屈っぽく威圧的ではありますが、家族を第一に考え、いつも模索しています。少々の鬱陶しさも含めて良い「旦那さん」です。しかし家庭に綻びが見え始めてから発露する感情は、まさしく女性のそれ。そう、ニックは性同一性障害の男になりたい女性ではなく、普通の女性なのですね。ただ愛の対象が同性だっただけ。私がしっかりしなきゃ、頑張らなきゃと、ストイックに自分を律していたはず。そんな彼女が好きだったのが、当時男性主導の音楽界で、悲鳴を上げつつ歌い、恋を重ねて、したたかにしなやかに生きたジョニ・ミッチェルだったなんて、思わず泣けてきました。
ジョニはそんなママ・ニックそっくり。ママ二人という環境は、世間から奇異の目で観られたはず。それを跳ね返すべく強い心と愛情を、ママたちは子供たちに注いだのでしょう。何をしても「ママたちが哀しむ」「ママたちが喜ぶ」を尺度にしてしまう。ジョニが優等生で生真面目過ぎるほどなのは、そうしないと繊細な自分を守れないからなのです。しかしママたちはそれに気づかず、自分たちの子育てが正しかったと喜びます。このお互いを思うすれ違い、どこの家庭にも転がっているはず。
レイザーの鬱屈した気持ちもすごーくわかる。だって女ばかりの家庭ですよ。自分の居場所を外へ求めるのは無理からぬこと。思考より感情が先立つのはママのジュールス譲りだしね。男性に疎いジョニが、父親と言う安心感からどんどんポールに近づいて行くのに対し、父親の理想像を持っていたレイザーが、一定の距離を保って付き合っているのは、この子はお姉ちゃんほど束縛されていなかったのだと思いました。いや、お姉ちゃんは自ら束縛されたんだけど。
重要人物のポールなんですが、ニック以外からは歓迎を受けます。そりゃそうですよね、ニックの役割は父親だったんですから。自由で気ままに生きて50近く。でも風来坊の根なし草ではなく、大人として社会への責任はきちんと果たして、気軽に付き合う若いセックスフレンドもいて、中々充実した日々です。そんな人生が彼にゆとりをもたせ、誰をも否定しないキャパの広さを感じさせる人にしています。
満たされない日々を送るジュールスと、初めて「家庭」に新鮮な安らぎを覚えるポール。次第に親密になっていくのには、子供と言う介在があったからです。だってレイザーは遺伝子上は二人の子供だもの。それが安心感を与え、迷える心に拍車をかける。子はかすがいと言う言葉は、これには当てはまりませんが、遺伝子の持つ吸引力にはすごく納得させられます。
さぁどうなっちゃうんだろう?とハラハラしましたが、この家庭は砂の城ではなかったのです。ポールは自分の子供二人が良い子で嬉しかったでしょう。しかし父親ではありません。養い躾け自分の時間を犠牲にして、愛情を注ぐ、それが子育てです。子供たちがしっかりその事を認識していたのは、とても嬉しかったです。如何に二人のママが、一生懸命子供たちを愛したかの証のようです。
演じ手が全て素晴らしい!熟年大物女優のベニング&ムーアはこの作品でも絶好調。本当に何でも演じられるのねと感心。ベニングは限りなく誠実で理知的で男勝り、ムーアは老いても愛らしく、二人が結婚生活を継続出来ている様子もすごく納得。あのキスは長年人生を共にしている人のキスですよ。表現出来過ぎていて、本当にびっくり。ミアは「アリス・イン・ワンダーランド」より、ずっとずっと魅力的だったし、ジョシュも思春期男子の、家庭の事情で爆発できない憂鬱を、すごーく上手く表現していました。
そしてラファロ!本当は敵役のはずの役柄ですが、彼の好演で監督の意図通り共感の出来る、魅力的な人に感じました。髭面にワイルドな風貌から醸し出し温かなセクシーさは、男性だけが出せるもの。ポールが自分を父親と錯覚してしまう気持ちもわかるし、突然の家族の出現に、このまま年取っていいのか?と迷う気持ちも本当によく伝わります。ゲイのトム・フォードが撮った「シングルマン」のジュリアン・ムーアの役柄のように、これがレズビアンの監督の男性への見識のような気がして、好感が持てました。これもラファロありきですね。この作品でグッと女性ファンが増えるかも?
ラスト近くのジュールスの家族へ向けての正直な言葉には、思わず号泣してしまいました。本当は母なんて妻なんて、賢くもなくいつも迷いながら、でも必死で家庭を支えているのです。小さいもんですよ。しかし夫と子供たちを愛しているとは、心の底から言えるのです。結婚には様々なステージがあって、そのどれもが楽あれば苦あり。継続させていくのは、それはそれは大変です。たまに寄り道があってもいいじゃないですか。それはストレートでも同性愛でもいっしょ。監督がそれを言いたかったのなら、大成功の作品です。
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