ケイケイの映画日記
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2011年04月30日(土) 「まほろ駅前多田便利軒」




これも良かった!私的には直前に観た「イジュージョニスト」と同じ味わいで、こちらは三十路の「若者」の「人生は愛おしい」を、ユーモラスにほろ苦く描いています。監督は大森立嗣。私は相性がいいみたいで、多分この監督はこれから追いかけると思います。お父さんの麿赤兒、弟の大森南朋が応援出演しているのも、とても微笑ましいです。

三十路に入った中学の同級生の多田(瑛太)と行天(松田龍平)。今は多田の営む便利屋を、ふとしたことから行天が手伝っています。仕事に行く先々で奇問難問に出会う二人。それを一見淡々と解決していく二人なのでしたが・・・。

画像をご覧下さいませ。主役二人はいつものイケメンじゃないでしょ?うらぶれた三十路男ですが、しかし荒んでいないのも「イリュージョニスト」のタチシェフ氏といっしょ。タチシェフ氏ほど達観はせずとも、二人とも土俵際で踏ん張っています。

二人が持ち込まれる仕事は、犬の世話→実は夜逃げした家の飼い犬の里親探し、引き戸の滑りをよくする→はずが、娼婦に覚せい剤の運び屋から手を切らす、小学生の塾の送り迎え→のはずが、これがまた大変で、と、こんなはずじゃないのにの連続。しかし乗りかかった船だからと、最後まで面倒みてしまう多田。表面はいやいやながら、実は生真面目で責任感が強く誠実です。一方行天はというと、これが全然手伝いなんかせず、飄々といい加減に見えるのですが、実は彼の言動が、多田の心に勇気を与えています。

実は二人ともが、心に傷を負っているのです。行天のその傷の癒し方というのが、「人を愛する」という行為です。それも押し付けにならず、その人の負担にならず、知られぬように。この若さで愛されることより愛することが自分を強くし、人生に希望をもたらすと、どこで悟ったんだろう?

多田はと言うと、順風満帆のはずの人生が、ふとした事から絶望に。生来の生真面目さが彼を転落させはしないものの、心に不自由さを持ったまま生きています。それが行天と生活し始めて、段々と行天の行動を理解するようになってくると、自分自身が見えてくる。以前の彼の人生に喜びを与えていたのは、やはり「愛する」と言う行為だったと。

特別親しくはなかった、かつての同級生という設定が生きています。町でばったり同級生に会った時、瞬間無垢だった自分に戻るという経験は、誰も持っていますから。

まほろ駅前は雑多で猥雑な町。品があるとは言い難いんですが、バイタリティーと不思議な安らぎを感じさせます。昔は三十路に入ると立派な大人でしたが、今はまだまだ若いです。この町でなら、人生の仕切り直しが出来そうな、大らかさと温かさを感じます。

全部のエピソードが気に入っていますが、特に心に残ったのは、母親に不満を抱えているけど、言い出せず多田や行天に反抗する小学生由良のパートです。この子もお母さんを愛しているのねぇ。母親って愛しているのは、頑張っているのは自分ばかりだと思いがちですが、自分も愛されていることに気付いたら、由良の気持ちも解るのかも知れません。世のお母さんは心に余裕を持ちたいですね。「愛されること」は、救われる事です。

その点、人生の最底辺にいるような娼婦のルル(片岡礼子)とハイシー(鈴木杏)の、他者への分け隔てない溢れる愛は素晴らしい。頭の軽い気のいい娼婦以上の豊かさを感じさせるのは、彼女たちが自分の境遇を受け入れて、人生を愛おしいものとしているからかも知れません。

多田の「なんじゃ〜、こりゃ!」にツッコミ入れる行天=松田龍平のお遊びや、由良「このアニメ(フランダースの犬)の最終回を観たらどうなるのかなと思って」「泣く!」と速攻で答える行天など、クスクス笑えるシーンもいっぱい。一見オフビートな装いですが、中身はしっかり生活感が溢れていて、幅広い世代に楽しめる秀作だと思います。


2011年04月26日(火) 「イリュージョニスト」




素晴らしい!誰にでも来る人生の終盤を、哀愁を込めて温かく見守るように描く作品です。監督はシルヴァン・ショメ、脚本はジャック・タチ。大人の、それも中年以降の人のためのようなアニメです。すみません、今回もネタバレです。

老手品師のタチシェフ。時代に取り残され、場末の劇場を回るドサ周りの日々です。次の仕事場所はスコットランドの離島の大衆酒場。そこで出会った小間使いの少女アリスは、タチシェフの事を何でも願い事を叶えてくれる、魔法使いだと思い込みます。やがてタチシェフが島を離れエジンバラに向かう時には、アリスも付いてきます。いつしかアリスに幼い頃に別れた娘を重ねるタチシェフは、アリスの喜ぶ顔見たさにプレゼントを重ね、二人の風変わりな生活が始まります。

冒頭寂れた劇場で、時代遅れの手品をするタチシェフ。ロック人気に追いやられたり、古臭い手品は見破られたりで、本来は痛々しいだけなはずなのに、画面からは洒脱なユーモアが漂い、うらぶれながらも荒まない、タチシェフの品の良さが浮かびます。

スコットランドの大衆酒場では、彼の芸で盛り上がり、何だか私までホッとした気分。気分も良かったんでしょう、身の回りの世話をしてくれるアリスに、ちょっとしたプレゼントの赤い靴を手品で渡すタチシェフ。アリスは14〜5歳でしょうか?本来なら、もう少し大人になるまでここで奉公、分相応の若者と結婚し、慎ましやかにこの島で暮らすはずだったでしょう。そんな自分の未来に漠然と不満があったのかもしれません。無邪気で無知な心が、タチシェフへと向かったのは、私には納得できました。

タチシェフはと言うと、ピークはとっくに過ぎた初老の芸人。老いた身で若者から親愛と尊敬を集めるのは至難の業。おまけに別れた娘をアリスに重ねた彼は、彼女の望む魔法使いたるべく、慣れない副業までして願いを叶えてあげます。

タチシェフが彼女のため、段々芸ではなく、ただの見世物になっていくのに対し、垢抜けない島の少女だったアリスは、洗練されたレディになっていきます。飄々と描いていますが、タチシェフのアリスへの献身です。そこには実の娘への償いがあり、アリスと娘が同化していたのだと思います。そしてアリスの同世代との恋。何も言わず去っていくタチシェフ。これは「父親の愛」ではなく、「娘と別れた父親の愛」だと思いました。

裸で生まれた娘を手塩にかけて育てた父親なら、こんなに苦労して育てたのに、父親に一言も告げず、何だお前は!となって当たり前。しかしタチシェフは、自分の娘の成長を見ていない。娘の事は忘れた事がなくても、お前を愛しているよと、抱きしめたことはないのです。そんな悔恨が戒めとなり、潔く身を引く決心がついたのでしょう。

そんな品格のあるタチシェフにしたのは、アリスの存在です。老いた芸人たちが、次々人間としても落ちぶれていく中、彼に人としての尊厳をもたらしたのは、アリスの笑顔が観たい、ただそれだけで無償の愛を注いだからだと思います。愛するという事は、人に自分の力を超えたエネルギーをもたらすものです。アリスの奥に見える娘を見つめていたタチシェフは、やはり「父親」だったのですね。

段々大人になっていくアリスは、タチシェフが魔法使いではないと、気づいていたでしょう。利用したと映るかもしれませんが、私はそれで良いと思います。若い愛らしさは、無条件に人から愛される理由になると思うから。アリスに残した「魔法使いなんかいない」のタチシェフの言葉は、若さはすぐ過ぎるもの、愛されるだけではなく、愛することを学びなさいと言う、はなむけの言葉のように感じました。

間に挿入される、ユーモアとペーソス溢れる芸人たちの姿は、悲喜こもごもの人生の縮図のように感じました。これから老いに向かう我が身には、とても切なくしみじみ感じ入ってしまいました。特に「戦友」のうさぎを野に放す場面では、泣けて泣けて。

私も大好きな「素晴らしき哉、人生!」という映画、この作品が世代を超えて愛されているのは、人生は素晴らしいと、胸を張っては言えないのを、本当は人々が知っているからだと思います。私も死ぬ時、言えない気がします。でも人生は愛しいもの、そうは言い残せるかもしれない。「イリュージョニスト」は、そんな小さく慎ましやかな希望をもたらしてくれる作品でした。


2011年04月18日(月) 「ビー・デビル」




観た方の評価はイマイチなようですが、そりゃそうだわね。この作品が描いているのは、韓国人社会に深く浸透している儒教精神です。その負の部分を批判している立派な社会派作品で、大いなるフェミニズム作品でもあります。それに気づかなければ、ただのバカな女が発狂するバイオレンスものです。私はしばしば涙ぐんだし、もの凄く溜飲が下がりました。韓国では多くの女性たちが歓声を上げて、この作品を迎えたそう。過剰には描いていますが、大なり小なり未だにこのような蛮行がまかり通っている証明で、震撼しています。監督はキム・ギドクの弟子になるチャン・チョルス。今回私の実体験を交えて細かく感想を入れるので、ネタバレです。

ソウルの銀行に勤めるへウォン(チ・ソンウォン)。都会の諸々のストレスから解放されるため、幼い頃育った離島へと向かいます。笑顔で迎えてくれた幼馴染のボンナム(ソ・ヨンヒ)始め、島には9人の住人しかいません。へウォンの前では明るく振る舞うボンナムですが、島の男たちからは凌辱され、夫からは暴力を日常茶飯受け、年配の女性たちからはこき使われるだけ使われて、まるで奴隷のような扱いを受けており、一人娘だけを生き甲斐に生活していました。島から一度も出た事のないボンナムは、へウォンにソウルに連れて行って欲しいと頼みます。

夫にはDVを受け、ヤク中の弟からは凌辱され、姑にあたる伯母からは一時も休むことも許されず働きづめに働かされるボンナム。皆から罵声を浴びせられながら家事から農作業、養蜂から海女までやり、船で都会に運ぶ島の産物は、全て彼女の仕事です。なのに一円のお金も自由にならない。観ている人は、何故彼女が逃げ出さないのかわからないでしょう。ボンナムはただの愚鈍な女性ではありません。島の古い因習に見える女性の扱いは、実は根強く韓国社会に残る男尊女卑の思想を表しています。

ボンナムがへウォンに憧れるのは、都会的洗練された姿だけではなく、都会の女性は、男尊女卑の扱いから脱皮していると知っているからです。そして在日社会も、一世からの古い慣習を引きづって社会が形成されており、私が結婚した28年前は、そりゃひどいもんでした。

夫の友人の奥さんは、辛辣な言葉を浴びせ続ける姑と何とか心の繋がりを持ちたく、新婚当時自分の結婚前の貯金の100万円(10万じゃないぞ)を誕生日に渡すと、何の言葉もなし。その姑曰く、「家庭の金は自分の息子が働いたもので、例え嫁の持参金でも息子の金。何故母親の私が嫁に礼を言わねばならいないのか?」だったそう。

亡くなった私の姑は、一世の女性にしては開放的で教養があり、愛情の深い人でした。私にも優しい人でした。しかしその姑にして、「女は泣いて泣いてやっと幸せになれる。」「夫婦喧嘩の時は、例え100%夫が悪くても謝るのは妻」「何があっても実家に逃げてはいけない」と教えられました。夫が友人と会話すれば、「だれそれが嫁さんを殴ったそうや」「あの嫁さん、口が達者やからな。」「そうや、殴られるような事言う、女が悪いねん。」当時若い妻だった私が、心の中で握り拳をぷるぷるさせている姿が想像できるでしょ?

私の夫はと言うと、新婚当時から毎日仕事帰りにパチンコ屋で「蛍の光」が流れるまで滞在、当時某スポーツ団体の事務方もしていたので、仕事休みはほとんどそっちに(もちろん無給。家から持ち出しまであり)。初めての妊娠でつわりで寝ていりゃ「つわりで寝ている嫁なんか、聞いたことない!」と詰られ、予定日より10日早く破水して、夫の職場に病院からすぐ来るようにと言われたと電話すりゃ、開口一番「今からパチンコ行こうと思っていたのに」と鬱陶しそうな声。帰宅すりゃ「子供が男でなければ帰ってくるな」。子供が生まれれば少しはましかと思いきや、私が乳飲み子を抱えて熱を出しても、「大丈夫か?」と言いつつ遊びには出掛けて行き、子供が熱を出しても仕事帰りは当然パチンコ。おろおろして病気の子供の世話をする新米母の私に、「夫が仕事して帰ってきたのに、飯も出来てないのか!」と怒鳴る。最初の子で大変だから、妻の手伝いをするという気なんぞ、全くなし。年子の次男が生まれてからも同じようなもん。あげく子供が小さいからと、自分だけ友人とスキーや旅行三昧で私と子供は置いてけ堀。当然家事も子育ても全く手伝いません。長男の時も次男の時も、臨月間近の私を置いて徹夜マージャンなんか平気の平左。少しでも私が抗議するもんなら、女が男に「口答え」するなんて生意気な!とちゃぶ台返し。私は「口の達者な女」なもんで、時には手もあげられました。優しい言葉なんか、かけてもらった記憶はありません。

口を開ければ、夫に尽くしぬいた自分の母親の賛美。お前なんか何が不満なんだ、もっと尽くせという事です。とにかく自分が一番大事。妻は人生のパートナーではなく、自分の人生の添え物です。妻は妻でも刺身のツマなわけ。何度共に歩きたいと訴えても、意味すらわからない。そういう人を観たことがないから。私の父親は84歳、「昔は女なんか、男のついでに生きとったもんや」と平気で言い放ち、同年代の友人は男兄弟と格段に差別され、「ほんま、女はぼろ雑巾の環境やったで」と言います。

これ全て実話です。他にもたっくさん!一晩中話せるくらいこの手の話はあります

まっ、夫にも言い分はあるようで、結婚当時先輩たちとやらに、「女は最初が肝心。夫のいう事には素直にハイと言うように結婚当初は厳しく躾けること。そうしないとつけあがる。」と言われたそう。年に数回の家族サービス、私や子供の誕生日にはパチンコに行かない、他には
薄給の給料袋を封を切らずに渡す、浮気はしていない、そして口には出さずとも家族の事は、心の底から思っているから、自分は充分良い夫だと自信があったそうです(火爆)。はぁ?当然以下の世界。ちなみにその先輩たちとやらは、妻から引導渡されて、続々離婚しています。

書いていて当時を思い出して涙が出ちゃうわ。夫の名誉のため、一応付け加えておきますが、今は大人しいもんです。言い合いになると自分から謝り、私が睨むと上げた拳も下ろします。家事だって少しは手伝います。毎日私の顔色見てます。当然です(きっぱり)。結婚して10年経って三男が生まれた頃くらいでしょうか?夫が徐々に優しく変わってきたのは。正に姑の言うように、韓国の女は「泣かないと幸せにはなれない」のです。しかしそこには、私が男の子ばかりを産んだから、と言うのがあったはず。夫は否定するでしょうが。

何故私が辛抱して離婚しなかったか?儒教精神ではありません。私は不仲の両親の元に育ったため、必ず幸せな家庭を持ちたいと強く思っていたこと。それと母親が私が結婚して6年目に亡くなり、帰る家がなかったからです。この作品のボンナムも、幼い時に両親を亡くしたと思われ、学校にすら行かせてもらえなかった描写が出てきます。そして子供。私の母は生前、「子供が生まれたら、夫に人質に取られたと思え」とよく言っていました。今の日本はシングルマザーも珍しくなく、それだけで差別されるなどないでしょうが、韓国では根強く父親の存在が尊重され、父親の居ない子には差別があります。劇中ボンナムが「やはり子供には父親がいないと・・・」と言いますが、聞き過ごしてしまいそうなごく普通の言葉の裏には、重い事情が隠されています。

そんなボンナムが娘を連れて逃げようと決意したのは、娘が父親に性的虐待に合っている事実を突き止めたから。ボンナムは婚前から村の男たちの慰み者になっていたので、娘は誰の子がわからず、それを承知で嫁に迎え入れたのだから恩がある、と言うのが伯母の言い分です。本当に理不尽な!

娘は性的虐待が何かもわからず、島を出るのを渋ります。しかし「島を出るとお母さんが泣かなくて済むのなら」と承諾。母親が叩かれる姿を見るのが一番辛いのだと言います。私はここで号泣。見つかったボンナムを、夫が髪を引っ張り回し、殴る蹴るの暴行をするのを止めるため、父親の手に噛みつく娘。私も母を殴る父親の手に噛みつきました。このシーンに自分を重ね、実母を重ね、号泣した韓国女性はたくさんいるはずです。挙句の果て、父親に突き飛ばされた娘は、頭を石にぶつけて亡くなってしまいます。日本女性の辛さが砂を噛む思いだとしたら、韓国女性の辛さは、口の中が傷だらけで、血の味を噛み締める思いではないでしょうか?

男尊女卑だけではなく、儒教には長幼の序と言うのもあり、年上の者のいう事が絶対。老人はことさら大切にされます。姑に口答えしようもんなら、犯罪ものです。それを絵に描いたような老女たち。自分も若き日はボンナムと同じ惨めさや辛さを味わったはずなのに。そして長年の習慣か、男に媚び諂う事だけは忘れません。老女の肌に沁みついた、惨めな人生の残骸なのに、彼女たちは気づきません。

「人質」のいなくなったボンナムが、島人を虐殺していくのは道理で、彼女が鎌を振りかざし、血が噴き出すたびに胸のすく思いがしました。本国の女性たちもそうだったでしょう。ハラハラするのではなく、絶対皆殺しにさせてあげたいと思いました。もうこの時点でホラーではないですね。18禁ですが、そういった意味では虐殺場面はオーソドックスで、斬新さはないです。泣きながら、「味噌でも塗っとけば治るわ!」と、息絶えた血だらけの夫の遺体に味噌をぶちまけるボンナムには、私も泣かされました。

これほど酷いのは、今の韓国でもないでしょう。確かに儒教批判はわかりますが、何故これほど大げさに描くのか?そこには本当に儒教の教えは、男であれば、年長者であれば、それだけで素晴らしいと教えているのか?と言う観客への問いではないでしょうか?最低の人間たちに、家畜のように扱われるボンナムが反撃することを正当化して描くのは、女たちよ、立ち上がれ!だけではないと思います。男尊女卑は、男性は女性から尊敬される人間であるべき、年長者は迷える若者を温かく見守り、人生の苦しみを楽へ導ける人であるべき、私は本当の儒教精神はこうであるのに、時の指導者たちは、自分たちに都合よく解釈して広げていったように思うのです。だって若い女性は常に少数派ですから。この作品を作った監督が若い男性だというのは、とても意義があることです。

ここでソウルという都会に住むへウォンの存在が重要になります。悪しき儒教精神から脱却した若い女性はどうなるか?ボンナムの手紙は封も切らないのに、自分が疲れると自然が癒してくれるわと、島へ帰郷。折角癒されに来たのに、ボンナムは煩わしい事を持ち込み、早く逃げなくっちゃと、友人の悲劇を目撃しても傍観者を決め込む。傲慢さが満ち満ちています。せっかく得た人としての権利や責任を、放棄しているのです。

へウォンをも殺そうとしたボンナムは、逆に彼女に殺されてしまいます。作品は傍観者である事も罪だと描いていますが、ボンナムに虐殺された人々と、へウォンの罪は意味が異なります。私は子供を失い人殺しをした女の末路としては、これで良かったと思いました。生き延びるよりボンナムも本望だったでしょう。

殺されるほどの罪ではなかったへウォン。自分で意味を掴もうとしなければ、彼女は傲慢な都会人のままです。ボンナムに報いるように、以前目撃したレイプ事件の目撃者として名乗り出るへウォン。現代の韓国女性としての気概と責任感に溢れており、この手の作品には珍しく後味が爽やかです。

ボンナムとへウォン。二人の若い女性を通して、韓国社会での女性の生き方に言及した作品だと感じました。今春は暴力をテーマにした18禁作品が、こぞって公開されていますが、この作品が一番、私的には傑作だと思います。


2011年04月12日(火) 「ザ・ファイター」




いや〜、びっくりした。イタリア系ならいざ知らず、アイリッシュ系の人たちが、あんなに家族の絆が強いとは。韓国人かと思っちゃったわ。本年度アカデミー賞助演男優賞(クリスチャン・ベイル)・助演女優賞(メリッサ・レオ)受賞作品。暑苦しい家族愛を描きながら、意外と爽やかな後味が残る秀作でした。実話が元にした作品で、監督はデビット・O・ラッセル。

アメリカのマサチューセッツ州のローウェル。貧しい労働者階級が住む町です。かつてシュガー・レイ・レナードをダウンさせたことが唯一の自慢のボクサー、ディッキー(クリスチャン・ベイル)。将来を嘱望されたボクサーだった彼ですが、今は薬に溺れ落ちぶれています。異父弟のミッキー(マーク・ウォルバーグ)は兄を慕いボクサーになりますが、自分たちの都合で無茶な試合を組むマネージャーの母アリス(メリッサ・レオ)とディッキーのせいで、低迷しています。そんなミッキーを心配した父のジョージ(ジャック・マクギー)は、バーで働くシャーリーン(エイミー・アダムス)を紹介します。ほどなく恋仲になった二人ですが、シャーリーンはミッキーが大成するためには、家族と決別すべきだと言い放ちます。

家庭が特異過ぎ。母アリスは二人の息子の他に娘が7人。父親は数人に跨ぎ、どれもこれもが衣食住は未だ親(ってか、ミッキーのファイトマネー)に依存、美貌も教養もなくグータラしているだけの毎日。そこに君臨するのが、その上を行く強者の母親。そりゃディッキーやミッキーの嫁も逃げるわな。

ヤク中で今は往年の見る影もないディッキーが、未だ家族の誇りですが、それはアリスの意向でしょう。ミドルティーンくらいでディッキーを産んだのと思われます。男遍歴を繰り返し、父親違いの子を産み続けても、彼女は決してディッキーの手を離さなかったはず。それはどんな境遇でも、自分は母に愛されているという実感を、ディッキーに植えつけた事でしょう。「長男」を心の支えとするのは、母親としては自然な事で、言わば家族の絆を一つにするイコンがディッキーだったのでしょう。

一見ミッキーを食い物にしているように見える家族。事実シャーリーンはそう感じています。私は違うと思う。家族は心の底から、いつまでも運命共同体でいるのが幸せだと思っているのでしょう。いつ壊れてもおかしくない環境だから生まれた思いなのでしょう。哀しいかなそこに、教育のなさを感じてしまいます。

「9人子供がいても、全部同じように愛しているわ」とアリスは言います。全然違うじゃねーか、なのですが、彼女の中では本気でそうなんでしょうね。確かに子供は一人も捨ててないんだなぁ。こんな境遇なのに子供全員から愛されているのですから、天晴れなもんですよ。

メリッサ・レオは私より一つ年上なだけで、それで設定40歳の息子がいる役は可哀想だと思っていましたが、なんのなんの。いつまでも若々しいことを命題にする女優が多い中、彼女はちょい老け気味なのが功を奏しています。15〜6で産み始めたらこんなもんかな?ビッチな大年増の色気がたっぷり。自分勝手なエゴで子供を束縛する母親ですが、哀れさは微塵もなく、むしろ同じダメな母なら、子供を甘やかすより君臨する方がいいのかと、錯覚してしまいます。

30過ぎても家族の呪縛から逃れられないミッキー。優柔不断で情けなく見えますが、これだけ家族一丸となって固まっている中から抜け出すのは至難の業。他所から誘いを受けて移籍したいのに、母や兄に一喝されるや、それも言い出せず。何とも意志薄弱なのですが、母と気質の似ている恋人シャーリーンを得て、自我が出せるようになったのは、幸せな皮肉ですかね?

落ちぶれて下卑たディッキーを、憑依型の演技でベイルが好演。またも大幅に減量して、ぎらついた目がいっちゃっています。最愛の母の前では、いつまでも希望の星でいたいというマザコンぶりは、母子の背景を考えると切なくなりました。とってもいいんですが、歯並びを変え、ハゲまで作るこの役作り、どうしてもデ・ニーロを彷彿させます。出来ればいつの間にか「普通の役者」になってしまった、デ・ニーロのようにはならないで欲しいな。

ウォルバーグは割を食って影薄いと聞いていましたが、元々ミッキーの役は家族の中でも存在感が薄いです。なのでこれくらいの薄口でOKかと。それより本当はベイルより四つ年上なのに、ちゃんと弟に見えたことに驚愕。私はボクシングはわかりませんが、実際にリングに立って打ち合いもしており、きちんとボクサーに見えました。それも含めて花丸の演技だったと思います。

いつも愛らしく清潔なアダムスが、気の強い安酒場のお姉ちゃん役なんてと興味津々でしたが、無難にこなしています。知らず知らずに挫折した自分の青春を恋人に重ねて、夢を抱いている女性です。それは自己満足なのですが、「あなたのためよ」という気持ちは真実なので始末が悪い。その思い込みは、母アリスそっくりなんだなぁ。中途半端にふくよかところが、何となく今までの荒んだ生活を感じさせて、妙にリアリティがありました。増量したのかしら?でも正直言うと、この手の役は彼女には似合わないと思います。

気の弱いミッキーの父親が一大決心して息子の盾になったり、義理の息子のディッキーがドラッグの溜まり場に行くのを止める様子など、このお父さんの姿は、自己主張の強すぎる登場人物の中、毒下し的存在で素敵でした。爽やかに感じるのは、お父さんのグッジョブのお蔭かも?

ラストの試合は、私は史実を知らないのでとってもハラハラ。シャーリーンを含めて、家族一丸となってミッキーを応援する姿はとても健全で、やはり家族の絆は断ち切るべきではないと感じました。俳優の演技合戦が楽しめる、ボクシングをモチーフにしたホームドラマの秀作でした。


2011年04月05日(火) 「私を離さないで」




とてもとても美しくて切ないお話。手放しで絶賛したいのですが、それなのに出来ない私がいます。あちこち引っ掛かりがあって、素直に泣けないのです。本当に惜しい!原作はカズオ・イシグロ、監督はマーク・ロマネク。

広大で緑豊かな場所にある寄宿舎ヘールシャム。幼い頃からたくさんの子弟たちが、ある秘密を抱えてこの寄宿舎で暮らしています。18歳になり、この寄宿舎を出なければならなくなった生徒たちは、それぞれ農場のコテージで共同生活を送ることになります。仲良しのキャシー(キャリー・マリガン)、ルース(キーラ・ナイトレイ)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)の三人も同じ農場へ。ルースとトミーがカップルになり、微妙な関係が終わりを告げた数年後、彼らの試練が始まります。

前半は70年代とは思えぬクラシックな、ヘールシャルムでの子供たちの生活が描かれます。愛らしく素直な子供たちは一見普通ですが、親は誰も面会に来ず、寄付のおもちゃは誰も使わないようなガラクタばかり。それを大層嬉しそうに受け取る彼らを、蔑みのような目で観る大人たち。実はチラシや予告編で、彼らの秘密は予想がついていましたが、それが確信に変わっていきます。

意外なほど早く、秘密は明かされるのですが、作品はそれがオチではありません。「今まで描かれたことのない秘密」と言うコピーは嘘で、実際は古くから何度も描かれている、アイデンティティを求めて彷徨う若者たちが、静粛に美しく描かれ切ないです。しかし・・・。

本当に情感豊かに彼らの心を掬い取るので、もういいかなぁとも思ったのですが、彼らの生は限りあるもので、もがき苦しみながらも、全員がそれを受け入れます。苦しいでしょう辛いでしょう。実際恋愛したことで、自分たちの存在意義や意味を見つけ出そうとする必死の姿は、本当は滑稽なはずなのに胸を打ちます。でもそうなら、何故逃げないの?

この作品はSFではないので、彼らが反乱を起こさないのはわかります。でもこんなに素直に、自分の人生が限りある事を受け入れられるものでしょうか?校長(シャーロット・ランプリング)は絵を描かすことで、彼らが魂を持っているか探っていた、と言いますが、そんなことをしなくても、幼いころの彼らの様子を見れば、豊かな感情を持っているのはわかるはず。感受性が育てば、自我の目覚めもあるはずでは?この辺字幕の不備もあるのか、絵を描かす事=ギャラリーの存在の意味が、イマイチ掴めませんでした。なので、盛り上がるはずの終盤も消化不良気味に。このの事がどうしても頭をかすめ、ググッと作品に入れませんでした。

私が一番やるせなかったのは、「人生」を終えたルースの扱い。人間の傲慢さが、静寂の中に痛ましく描かれています。恋もし喜怒哀楽の感情も持つ彼ら。普通である事が、一層の哀しさをもたらすという描き方は良かったです。

主役三人は皆好演。特にキャリー・マリガンは憂いと気品と知性を共存させ出色。親しみやすい庶民的な容姿からは結びつかないですが、とにかくスクリーンに映る彼女は、圧倒的に観る者を惹きつけます。なかなか類を見ない個性で、本当に素敵でした。

という事で、やや残念な感想です。私の不満は原作を読めば解消できるかもですが、映画と原作は別物、出来れば映画だけで完結して欲しいなぁと、良い作品だっただけに今回は強く思いました。


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