ケイケイの映画日記
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2011年03月30日(水) 「お家をさがそう」




大好きな大好きなサム・メンデスの作品。現在活躍中の監督の中で、一番好きです。辛辣にシニカルに人生を描く人ですが、その奥に見える真心のある優しさと温かさは、この人ならではのもの。この作品ではその辛辣さは也を潜め、意外なほどストレートな優しさに満ちていて、ある意味新境地ではないかと思いました。ホントに裏切らないなぁ、この人は。大いに笑って、ほこほこ心が温まる大好きな作品です。

バート(ジョン・クラシンスキー)とヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)は、30代半ばの仲睦まじい同棲中のカップル。ヴェローナの妊娠を機に、子育てに適した土地に引っ越そうとします。しかし育児の手伝いを期待していたバートの両親(ジェフ・ダニエルズとキャサリン・オハラ)は、出産前にベルギーに引っ越すと言いだし、計画は振り出しに。親類や友人を頼りに、二人は理想的なお家を求めてアメリカ横断旅行することになります。

行く先々でヴェローナのお腹を観ては、ワ〜、キャ〜!とみんなが歓声を上げる様子が微笑ましいです。そうなんだな、妊婦さんを観ると何だか幸せな気分になり、心が善良になるもんです。妊娠させた張本人のバートはと言うと、これが蚊帳の外で、生まれる前から父親って分が悪いんだと、つくづく感じます。

バートの両親がカッコいい!バートは二男ですが、母親は「23歳であんたを産む時・・・」的苦労話をしていましたから、長男は更に若い時の出産ですね。巷の風聞に寄ると、「子育てを手伝ってもらってありがたい」ならまだしも、「孫の世話をさせて貰って、嬉しいだろう?」的な考えが、未だに若い人にあるようで愕然とします。今の中高年が、孫を生き甲斐にするわけねーだろ。しかし子育てを手伝うため、実家の親が結婚した娘の近所に引っ越す話があるのも事実。いつまで子供子供って言ってんだよ。私はバートのお母さんを目指したいな。アメリカのカップルも子育ては親に依存するのかと、ちょっと意外でした。

行く先々で彼らの目指す子育てとは程遠い家庭を見せられる二人。子供を健康的な環境で、温かく見守って伸び伸び育てたいだけなのに、それが何と難しい事か。全てデフォルメされた感はありますが、共通しているのは、「こうでなければならない、そうでなければ幸せではない」という思い込みです。それが自分の人生を窮屈にして、子供を巻き込んでいるのがわからないのですね。中には「そうでなければならない」に切実に共感してしまう家庭もあります。その前の家庭で無神経な「そうでなければ」に遭遇し、憤慨して痛快なしっぺ返しをした二人ですが、今度は子供に恵まれた自分たちの存在自体が、無自覚に隣人を傷づけることもあるのだと悩んでしまいます。その誠実さが観ていてとても好感が持てました。本当にいいカップルなんですよ。

ヴェローナは22歳の時に両親が亡くなっていて、その心の傷がまだ癒えていないのか、バートの求婚は断り続け、今に至ります。ヴェローナは白人と黒人の混血で、聡明な妹グレイス(カルメン・イジョコ)との会話から、お母さんが白人みたい。「ママのように良いお母さんに成れるわ。ママとパパの話をして。私より姉さんが覚えているはずよ」と、妹らしいグレイスの問いかけに口をつぐむヴェローナ。姉しかしらない両親の諍いも観ていたのかも。彼女の繊細な感受性が見え隠れします。彼女にも「家庭はこうであらねばならない」という、呪縛があるのかも知れません。壊れてしまうことが怖いのですね。

そんな彼女を温かく包むバートが最高!私もこんな人と結婚するはずだったのになぁー。甲斐性もないし頼りがいがあるとも言えず。頓珍漢な励ましには、いっぱい笑いましたが、そこには精一杯の思いやりの心があり、決して無神経ではありません。誠実で温厚なれど、自分やパートナーが侮辱されるや、毅然と言い返す男らしさもあり、身内の一大事にはすぐ駆けつける情の濃い部分もあります。つまり少々頼りないけど、ここ一番は守ってくれる人なのです。これが大事なのよ、男の人は。「姉さんはラッキーよ」と言うグレイス。わかってるんですね。

片方が凹めば片方が励ます姿は、これが支えるという事だなぁと感じました。それが交互に来るのだから最高のパートナー同士だと思います。そんな二人が見つけたお家は、家とは場所や環境よりも、誰が住むか、それが一番大事なんだと感じさせました。

ジョン・クラシンスキーとマーヤ・ルドルフが、本当に素直に好演してくれたおかげで、この平凡で誠実なカップルにすっかり笑わせ泣かせてもらいました。ちなみにジョンの奥さんはエミリー・ブラント、マーヤのパートナーはポール・トーマス・アンダーソンですって。それぞれ地に足ついた、堅実な感じのカップルですね。

これから結婚を考えている人に、是非観てもらいたい作品です。決めた家に住み始めたら、きっとヴェローナはバートの求婚を受け入れるだろうと思います。


2011年03月27日(日) 「トゥルー・グリット」




ヘイリー・スタインフェルド!とにかくマティを演じる彼女が素晴らしい!大物役者やアクの強い名優ばっかり集めているのに、一歩も引けを取りません。かのジョン・ウェインが念願のオスカーを取った「勇気ある追跡」のリメイクで、そんな王道西部劇を、コーエン兄弟がリメイクしたならどうなるのかしら?と興味津々でしたが、いつもの毒気のあるユーモアは影を潜め、オーソドックスで解り易い感動を呼ぶ作品でした。

マティ(ヘイリー・スタインフェルド)は14歳の牧場主の娘。町に出ていた父親が、たった金貨二枚のため、雇い人のチェイニー(ジョシュ・ブローリン)の殺されたと聞き、一人で遺体を引き取りに行きます。チェイニーはインディアン領に向い、お尋ねもののネッド(バリー・ペッパー)の元に逃げ込んだと知り、復讐を誓うマティは、大酒飲みで片目の保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇います。途中で別の件でチェイニーを追うテキサスレンジャーのラビーフと合流、三人で過酷なチェイニーを追う旅が始まります。

マティは気丈で利発で賢い子です。優しく大人しい母は泣いてばかり、幼い弟たちもいます。最愛の父の亡骸を観て涙も流さないのは、その暇もないから。この「泣かないマティ」の姿を観て、ワタクシすっかりこの子の親のような気持ちになってしまい、ここで早や滂沱の涙。以降海千山千の老獪な大人を相手に、知恵と度胸で勝負の交渉術を観てはまた涙。表面には口の達者な生意気な子と映るでしょう。でも私の目には、心臓をバクバクさせながら、一家の暮らしと父の名誉を一身に背負ったマティが見える。

私は子供が早くに大人になるのは不幸だと思っています。貧しい家庭のために、新聞配達をしながら苦学するという手の、年相応の健康的な苦労は良いのです。でもマティの苦労は幼気な少女には過酷なもので、自らその場におかなくても良い類のものです。そこには彼女しかわかり得ない事情があったのでしょう。大人しいばかりの母に代わって、大黒柱にならなければいけないという思い、それは決してマティの我ではなかったと思います。

その感情がマックスになったのが川越のシーン。私はもう号泣。マティの揺らぎない信念を強く印象づけるシーンだったと思います。こうして前半はマティに魅了されっぱなしでした。後半は男二人の子供っぽい諍いを楽しみつつ、次第にチェイニーに近づいていきます。荘厳で厳しい自然、何人もの死体は、マティに自分の行おうとしている復讐が、真の勇気(トゥルー・グリット)なのか?を問いかけているようでした。

観客は年配の男性が多く、事実終盤の銃撃戦では拍手が起こりました。でも往年の西部劇から考えると地味な作りで、西部劇をモチーフの人間ドラマとして観るのが正解な気がします。

とにかくヘイリーの存在感が圧巻。父を亡くして以来肩肘を張っていた彼女が、初めて頼れる大人を得て、生意気な少女が本来の素直さを見せる姿も清々しく好演しています。クレジットも並み居る大物を押しのけ、堂々のラスト。こんな大器に巡り合えるなんて、もっと長生きしなくちゃと思わせるほど嬉しいです。ブリッジスもむさ苦しい大酒飲みを演じても相変わらず素敵だし、マットも二枚目の役が案外似合っていました。バリー・ペッパーは貧相な感じがしてあんまり好きじゃないのですが、髭と埃にまみれると男ぶりがアップしたのが意外。大物悪党の器の大きさもきっちり演じていました。ブローリンは今回特別出演っぽかったです。

でも取りあえず他の人も書いてみました、という程度で、観てから一週間近く経ち、私の脳裏に残っているのは、マティ・ロスと言う少女の全てを懸命に私に届けてくれた、ヘイリーの素晴らしさばかりです。

後日談のほろ苦さが切ないです。追跡の旅を終え、何かを得る時は何かを失うものだという事も知ったマティは、一家を背負い一足飛びに大人になったことでしょう。少女だったマティを知る人は、今は誰もいないのです。コグバーンとラビーフを恋しがるマティ。彼ら健気な少女だったマティを知っています。家族を守った事と引き換えに、少女時代から女性としての幸せも失ったマティ。彼らに会いたいのは、その寂寥感だと思いました。少女時代の自分に、もう一度会いたかったのでしょうね。


2011年03月20日(日) 「ランナウェイズ」




今をときめくダコタ・ファニングとクリスティン・スチュワート主演で、あのガールズバンドのパイオニア、ランナウェイズの伝記が映画化されると聞いて、早二年。全米は昨年三月公開で、やっと日本にやってきました。彼女たちの来日は私が高校生の時で、当時派手に取り上げられていました。正直それほど好きでもなかったバンドなのに、公開が本当に待ち遠しくて。自分の青春時代を思い出したかったのだと思います。少々ぬるくはありますが、甘酸っぱいガールズムービーとして、私的にはとっても満足です。監督はフローリア・シジスモンディ。原作はカリーが書いた「ネオン・エンジェル」、ジェットがプロデューサーに名を連ねています。

1975年のアメリカ。16歳のジョーン・ジェット(クリスティン・スチュワート)は、エレキギターを弾くロックに夢中の女の子。どうしても女の子だけでバンドが組みたい彼女は、プロデューサーのミック・フォーリー(マイケル・シャノン)から、ドラムのサンディ・ウェストを紹介してもらいます。次々メンバーが集まる中、ミックの目に留まったシェリー・カリー(ダコタ・ファニング)がボーカルとして加入。過酷なドサ周りを経て、翌年レコードデビューする彼女たちに待ち受けていたものは・・・。

ざっとメンバー紹介と略歴などしますと、ギター&ボーカルのジョーン、リードギターのリタ・フォード、ドラムのサンディ・ウェスト、ベースのジャッキー・フォックス、そしてボーカルのシェリーが、私が記憶している頃のメンバー。しかしこの作品では、ジャッキーがいなくて、どちらさん?的な子がベース担当で、名前も違う。どうもジャッキー本人が異議申し立てして、それで「存在しなかった」ことになったんだとか。確か来日の時に急に一人で帰国してしまい、急遽ジョーンがベースを弾いたりしていました。その後脱退。なので今も遺恨浅からぬのかも?しばらくして看板だったシェリーも脱退。ボーカルはジョーンが担当、その後79年に解散。シェリーは双子の姉マリーとデュオを組むもあまり売れず。ジョーンの成功は言わずもがな。リタもソロで成功したと記憶しています。サンディは残念ながら4年前に癌で亡くなっています。

私が好きだったのはジョーン・ジェット。来日の時、ジョーンがリードボーカルを取ることもあり、これがかなり好評で、のちのちの姿が既に芽生えていたのかも。ちなみにシェリーは当初日本ではチェリーと呼ばれていたのですが、それは女性器のスラングで、きちんとシェリーと発音して欲しいと要望。来日後シェリーと表記されるようになりました。シェリーの妹マリーは、TOTOのスティーブ・ルカサーと結婚しましたがのちに離婚。我ながら懐かしい事覚えてるなぁ。

私が不思議に思ったのは、当時彼女たちは日本では人気でもアメリカではあまり売れず、話題だけで徒花的存在だったはず。なのに、何故売れっ子の二人を使って映画化したのか?でした。ちょっと調べたら、最近再評価されているんだとか。決して上手くはなかったけど、のちにランナウェイズより成功したゴーゴーズやバングルズに比べて、パンクな歌詞や音のヘビーさなどロック魂という点では、ランナウェイズの方が上だったと思います。画像は当時の彼女たち。可愛いですね。

プロデューサーのフォーリー曰く、「女が許される場所は、台所か男の膝の上」「小人症のバンドを作ろうと思っていたが、楽器が持てなかった。女なら持てる」などなど、男尊女卑を表す辛辣で毒の利いたセリフは、当時女の子がロックすることがどういうことなのかを、端的に表しています。女はロッカーを追いかけまわすグルーピーでいいんだよ!という時代だったのですね。

映画の焦点はジョーンとシェリーに絞られています。同じように荒ぶる心をアナーキーな日常を送ることで、どうにか持ち堪えていた二人。その鬱屈した思いを一身にバンド活動に注ぎます。屈辱的な練習、稼いでいるのに食費さえ満足に与えないフォーリーに耐え、段々逞しく実力を上げていく彼女たち。ツアーの合間のドラッグ、セックス、アルコール、お遊びのような同性愛。行儀が良いとは言い難い無軌道ささえ輝きがあります。希望を持って邁進しているので、「青春の光と影」の影の部分は、それが何かもわからぬのだと感じさせ、上手い語り口だと思いました。

彼女たちの頂点である日本公演の熱狂的な様子が描かれ、彼女たちがキモノを羽織る姿がありますが、あっ!それ「ミュージックライフ」で観た!と、ちょっと嬉しい私。リタが着ていたチープトリックのTシャツは、私も持っていました。有名な「チェリー・ボンブ」でのシェリーのコルセット姿は、東京公演の時に彼女が考えたと描かれていますが、実際はそれより以前からコルセット姿でした。ただ私は、大人たちの考えだと思っていたので、シェリー本人の発案とは意外でした。コルセットは「チェリー・ボンブ」の時が主で、後は画像のジャンプスーツが基本です。

「リンダ・ラブレイス(当時有名なポルノ女優)になるつもり?」と、反対するジョーンを押し切るシェリー。キワモノ的扱いになろうと、客寄せパンダに徹しようとする彼女。それはフォーリーの意図で、バンドで一人フューチャーされることに対する、メンバーへの彼女なりの誠意だったのかも知れません。

複雑な家庭の難儀は全て双子の姉マリー(ライリー・キーオ。なんとプレスリーの孫!)に任せ、自分だけが夢を実現させる事へ罪悪感を感じるシェリー。シェリーのアイドルはデヴィッド・ボウイ。複雑な家庭に嫌悪していた彼女は、「ウェイトレス以外の人生」を目指し、好きな音楽の道に入りますが、ロックには拘っていなかったはず。対するジョーンのアイドルはスージー・クアトロ。のちにセックス・ピストルズに代わり、指向がパンクに移っていくのがわかります。人生の全てをロックに賭けたいのです。その思いの違いが、様々な葛藤を乗り越えられないシェリーにしたのですね。「家族と過ごしたい」シェリー。「家族ってうちらじゃないの?」と答えるジョーン。少女たちの哀しい温度差です。

キワモノの大物と言うと、フォーリーもプロデュースしたことがあるKISS。自分たちであのメイク考え、火を噴くパフォーマンスも考えたとか。浮き沈みを超え、伝説のバンドになったKISSと、4年で解散してしまったランナウェイズ。この作品を観て、単に彼女たちの精進が足りなかっただけではなく、KISSは「大人」で「男」のバンドだったからだなと感じさせます。

クリスティンが当時のジョーンに本当にそっくりなんで、とっても感激しました!女の子っぽい彼女が、美形だけど男前な風情が前面に出ているジョーンを演じて、全く違和感なかったです。ダコタは撮影当時は15歳で、コルセットで歌う姿も披露。その他果敢に演じた大人なラブシーンもあり、子役からは完全に脱皮したと思いました。ステージを降りた時の知られざるシェリーの素顔を、繊細に演じていたと思います。リタも似ていた子を探していましたが、サンディは、もうちょっと美人だったなぁ。

フォーリーを演じたマイケル・シャノンが怪演。やり手の海千山千、彼女たちを食い物にしながら、狡猾に巧みに操っていく様子が本当に憎たらしくて。変態っぽい風情でしたが、彼女たちに手を出さなかったのは、「商品」だったからでしょうか?内容がぬるくなりつつあると、彼が出てきて辛くて苦い現実を映し、画面を引き締めます。容赦なく描かれていますが、ご本人さんはどう思っているのか聞きたいな。ジョーンは以前からレズビアンと囁かれていますが、そういうシーンも入っているのを彼女が許したということは、事実上のカミングアウトでしょうか?

メンバー間の葛藤などは、終盤に出てくるだけで、それまでの経緯は省かれ、二人以外ではサンディが少しふられているだけ。「ランナウェイズ」というタイトルの割には、「シェリー&ジョーン物語」的な作りは、現役時代を知る者には少々物足らないし、著者がシェリーなので、ちょっと言い訳が入る感じもあります。でもあまり美化した感じもないし、まぁいいかな?優等生で何もなかった青春より、夢も後悔もあった方が、青春はいいもんだよと感じさせる、感傷的なラストが素敵です。

少女と言えば、クリスティンもダコタも子役出身。子役から少女期までは何とか持ち堪えるけど、それ以降は大人の思惑やストレスで身を持ち崩して大成せずに終わるのは、映画の世界でもよくある事です。大人の俳優として大成したのは、パッと思いついてもジョディ・フォスターとナタリー・ポートマンくらい。二人には是非ジョディやナタリーに続いて欲しい。懐かしいテイタム・オニール(シェリーの母親役)の顔を観て、そう思いました。
では、当時のランナウェイズをどうぞ。「チェリー・ボンブ」


2011年03月11日(金) 「アンチクライスト」




「ダンサー・イン・ザ・ダーク」以来トリアーが大嫌いです。なので「ドッグヴィル」も「マンダレイ」も未見。私だけかと思っていたら、結構そういう方は多いみたいで安心したり。今回はテーマがそそったし、久しぶりにまともなウィレム・デフォーも観たかったので、観てきました。だがしかし・・・。あぁやっぱりなぁ〜と言う感じ。単純な私には、この人は合いません。

愛し合っている最中に、幼い息子を転落事故で亡くした夫婦(ウィレム・デフォーとシャルロット・ゲンズブール)。哀しみと自責とで精神を病んでしまう妻。セラピストである夫は強引に精神病院から妻を連れ出し、治療のため「エデン」と名付けた森の小屋へ妻と一緒に向かいます。

冒頭クラシック音楽が流れる中でのモノクロ映像は、素晴らしく美しいです。本当は悲惨なはずの赤ちゃんが転落する様子も、まるで天使が舞い降りるかのよう。夫婦の営みの様子も神々しいほど美しい。おぉ、今回は大丈夫か?と期待したのですが、良かったのはここまで。

遅々として容態が回復せぬ妻に、主治医の見解を否定し、セラピストの自分が治療にあたると言う夫。まずここで謎。精神科に限らず、医療で身内が主だった診療にあたるのって、ご法度なんじゃないの?この辺に夫の傲慢さをまず感じます。そしてセックスの最中に亡くなったんだから、普通は怖くてセックス出来なくなれば、可愛げがあるというか普通と言うか、理解はし易い。しかし妻は依存症に近く精力旺盛になっている。なので悲嘆にくれたり、過呼吸になる様子にも、あんまり同情出来ません。この辺の違和感&嫌悪感に、既にトリアーの手のうちにはまってしまったのをじわじわ感じます。

色々妻に問いかけ心理療法を試みる夫。わかったようなわからんようなお話が、中盤結構長く続きます。この辺で隣の人は高鼾でした。そしていよいよ「エデン」の生活が始まります。ここから段々、妻の知られざる顔が暴露されるのですが、その間に死産の小鹿をぶらぶらさせた鹿、「カオスだ」と人間の言葉を話すキツネ、夜な夜なうるさい団栗の落下の大群、気持ちの悪い虫など、自然は癒すどころか薄気味悪さ全開です。その結果、妻の病は加速してしまい・・・。

まぁね、単純に「ミザリー」にはならんわ。普通だとトリアーじゃなくなるし。問題のシーンはこれからたくさん出てきますが、娯楽としての見世物的ではなく、なぜそういう行動に出たか?と言うのがわかるようにはなっているので、人格が壊れていく、または追い詰められ行く怖さは感じましたが、個人的には世間で言うほどの衝撃は受けませんでした。タイトルの意味は「反キリスト」。上記の動物はそれぞれ「悲しみ」「痛み」、のちに出てくるカラスが「絶望」だというのは、さりげなく作中で解説されます。

そして妻の罪悪感の後ろにはもっと根深い事がありました。しかしここがもぉ〜〜〜!!私的には「そんなわけねーだろ!」と、憤懣やるかたない気分になりました。気分は「ダンサー」の時の悪夢再来。いや女性の性欲は否定しませんよ、しかしだね、これで女の性というか業を表現されても笑止千万、だいたい妻の根本には、多分以前から精神的な病があるようです。それが「エデン」に行き、妻=女性の本質的な自己が目覚めたって言うわけ?それでセックスに依存したり嫌悪したりで、罪深い自分を認め、正気と狂気を行きつ戻りするという事?女性蔑視だとカンヌでブーイングが起こったというのもわかるわなぁ。

女性蔑視というより、トリアーは怖いのかとは感じました。あれこれこねくり回して監督の持つ女性観やキリスト教へ原罪を見せられたわけですが、私的には自分とは肌の合わない監督が描くと、理解出来て見応えあっても、こうも心が動かぬもんかを実感しました。でもこの作品でカンヌで賞を取ったシャルロットの大熱演は称賛に価するものだし、デフォーも50半ばの名の通った俳優がやる役ではなく、その男気には感服しました。観て損はないというより、気になるなら観た方が良い作品だと思います。

劇中で夫とのセックスの時、妻がしきりに「hit me」と言うのですが、咄嗟に私の頭に浮かんだのが、「江戸川乱歩の陰獣」の香山美子=大江春泥。情事の最中にこういう事口走る女は危ないんだわと、全く関係ないことを思いました。それくらい淡々と観ていたのね。

一つだけとても気がかりな事が。転落する前、起きだした赤ちゃんは、両親のセックスを観ていて、観客に向いて薄ら笑顔を見せるのです。その直後落下。のちのちわかる母親の罪深さと重ねると、どう解釈すればいいのかしら?母親に罪の深さを思い知らせて、悔い改めよという事でしょうか?だから天使が舞い降りたように私は感じたんでしょうか?でもそうなら、かなり意地悪だよな(でもトリアーならありそうだ)。ここはもうちょっと考えてみたいです。

「ダンサー」では、明らかにヒロインは知的障害と目の障害を背負っていました。それを盾に、ほ〜ら純粋だろ〜と確信犯的にいたいけな観客を泣かすトリアーに、私は傲慢さと欺瞞を感じたのが嫌いな理由です。しかしこれだけ嫌われるというのは、監督として力量は充分だという証拠です。「マンダレイ」の後、うつ病に罹り、この作品は病を得ての撮影だったとか。そのせいかこの作品では迷いも弱音も若干感じました。何だかんだ言って、次も観てもいいかも?


2011年03月08日(火) 「死にゆく妻との旅路」




もう号泣しました。劇場は私前後の年齢のご夫婦がいっぱでしたが、多分私が一番泣いたと思う。この作品の主人公夫婦は11歳の年の差、夫と私は8歳差。既に大人だった男性と、まだまだ子供で世間知らずだった女の子の結婚だったというのが一緒です。さりげなく交わされる夫婦の会話の一端から、二人がどんな夫婦であったかが一瞬にわかり、とにかく夫婦両方の気持ちが手に取るようでした。実際に10年ほど前に、末期がんの妻をワゴン車に乗せ9か月日本全国を放浪、妻は亡くなり保護責任者遺棄致死の罪状で逮捕された男性の手記が原作です。監督は塙幸成。瑞々しい感受性に溢れていた「初恋」の監督さんです。今回ネタバレですが、是非読んでいただきたいです。

石川県で小さな縫製工場を営んでいた清水久典(三浦友和)。4千万円の借金を返済せねばなりません。22年連れ添った11歳年下の妻ひとみ(石田ゆり子)は、ガンに侵され病院から退院直後。金策に走る久典は、ひとみを一人娘沙織に預けます。戻ってきた久典ですが、金策は出来ず自己破産寸前。相談がてらワゴン車に乗り込んだ夫婦は、有り金50万を持ったまま、そのまま宛てのない旅に出ます。

先行きが真っ暗なのに、「おっさん(夫のこと)、知ってるか?これ結婚以来初めてのデートやねんで。」と、嬉しそうにはしゃぐ妻。出掛けるときは、いつも子供もいっしょだったと語ります。娘の沙織は既に結婚して赤ちゃんに恵まれたばかり。今まで幾らでも夫婦二人だけで出かけるチャンスはあったはずです。四千万の借金は膨大ですが、事業でそれだけ借金出来るということは、羽振りの良い時もあったということ。妻は借金は知らなかったようで、家内工業的な事業のはずなのに、妻には手伝わせていなかったのでしょう。入院中の妻に退院時には戻ると言いながら、金策に出る夫。何か月も帰ってこないばかりか、途中で浮気もしています。

放浪中、手作りの味噌汁を妻に差し出す夫。「おいしいなぁ。料理が出来るとは知らんかったわ。一度も作ってくれたこと、なかったやないの」と嬉しそうな妻。この夫は妻を大事にしていたとは言い難かったと思います。妻には仕事をさせず養い、時々の「妻子」への家族サービス。これで妻も充分だと思い、自分ひとり盛大に遊びもしたことでしょう。置き去りにされた妻の哀しさには頭が回らない、そんな「ありふれた中年の夫」であったと思います。

お金があった時もあるでしょうに、妻はセンスがいいとは言い難い、安物の装いばかりです。しかし垢抜けないその服装はいつも少女っぽく、早くに結婚して少女のまま大人になった妻の心が、映し出されているようです。放浪中に住んでいた町と同じスーパーがあり、懐かしがる妻。一緒に働き口が見つかった時に着るのだと、やはり安いスカートを夫にねだります。お金があるときもない時も、常に質素で地味な人だったのでしょう。

「もう『お母さん』は止めて。名前で呼んで欲しいわ」という妻。「家族」と言う枠で夫に接せられるのではなく、妻として観て欲しいと長年思い続けてきたのでしょう。初めは彼女が「おっさん」と夫を呼ぶ度、違和感があったのですが、これは結婚当初、何をしても太刀打ち出来ない大人であった夫に対して、若さを誇示するしかなかったのだと理解できると、その呼び方にいじらしささえ感じます。

二人は当初、借金から逃れるのではなく、働き口を見つけるための旅でした。二人で住み込みで働いて、基盤を作って故郷に帰ろうとしていました。戻って頭を下げて一から出直すことが、夫には出来なかったのでしょう。当然督促は親戚はおろか、新婚間もない娘にも及びます。普通の母親なら娘を思い、家に帰ろうと言うはずですが、妻はそのままの旅を望みます。

妻は自分が癌であることを知っていました。遠からず自分は死んでしまう、その心がいつもの彼女ではない彼女にしたのだと思います。そこには娘を託せる人が出来たという安心感もあったでしょう。しかしそれ以上に、激痛が襲っても絶対に病院はいやだと言う妻から、いつもいつも夫を待ち続けるのがどんなに寂しかったかが、伺えます。死期を感じた今、一度夫と離れたら、もう二度と一緒になれない気がしたのだと思います。

各地を転々としながらその土地のハローワークに出向くも、50を超えた中年男に、全く職はありません。それは選んでいるからだという人もいるでしょうが、本当にこれが現実です。しかし絶望しないのは、二人がいっしょだからです。

現実感薄く、まるで夫婦で旅をしているようだった二人ですが、ひとみの癌が進行してからは一転、夫の介護が始まります。甲斐甲斐しく妻を看病する夫は、どんなに妻が我がままを言っても、「おっさんと結婚したために、こんなことになったんや!」と罵倒されても、一切怒りません。こんな温厚な夫ではなかったはずです。旅の中、何も無くなった自分に喜んで添ってくれる妻に、今までの自分の人生を反省していたのでしょう。妻をこんな環境に置かなければならない、夫としての不甲斐なさを全身で表す場面が秀逸です。この旅は、夫の妻への贖罪の旅でもあったはずです。

しかしこの夫は、途中で妻を捨てることも、妻だけ娘に預けることも、病院に置き去りにすることもしませんでした。妻の願い通りにしてあげた。それは成り行きではなく、夫の意志です。夫は妻の信頼した通りの人であったのです。この人が一番愛しているのは私だ、そういう確信があったからこそ、妻は長年待つことができたのだと思います。

事実妻が亡くなると、夫は妻の遺体と共に故郷へ帰ります。あんなに逃げ回っていた人が。それは途方にくれたのではなく、妻をきちんと葬りたいからだったと思います。ワゴン車の中のそこかしこの妻の残り香を感じ、娘の前で男泣きに泣く夫。この場面の描き方が本当に辛くて。娘など目に入らないのです。しかし物凄い勢いで父をなだめる娘に、ああこの子がいてくれて良かったと、心底思いました。だって夫はこれからも生きていかねばならないのだから。夫は一人ぼっちではないのです。

夫は警察に捕まりますが、妻が不幸だったとは、私はとても思えません。むしろ結婚以来一番幸福だったのではないでしょうか?人にいっぱい迷惑もかけ恥も晒したはずの二人。夫を演じた三浦友和の「この行いが正しかったのか間違いだったのか、わからない」の言葉通り、私もわかりません。ただ私ならしなかったと思う。でもそれは今の私が働いて世間も知り、自分の自由な時間を持って、夫だけを待つ生活をしてないからだと思います。この妻の気持ちは、10年以上前の私です。本当に痛いほど妻の気持ちがわかりました。

三浦友和が絶品。50才を超えて絶好調な人ですが、本来の誠実な持ち味が生かされ、久典の造形に限りなく説得力を持たせています。石田ゆり子も、私が知る限りベストアクトです。彼女の持つ透明感のある美しさや少女っぽい雰囲気が、ちょっと浮世離れした妻の哀歓を、本当に素敵に演じていました。

しかし彼女はこのため減量もしたというのに、それが生かされていません。やつれ方が中途半端なのです。死ぬまで眉とアイラインが施されていましたが、ここはしない方が絶対良かったな。折角の熱演に水を差していました。

各地の風景が、異邦人である二人を優しく包んでいたようで、その土地土地の優しさや厳しさ、生活の息吹を感じました。特に撮影で美しいと思ったのが夕日の描写。この二人は人生で言えば夕暮れです。本当に美しく、彼らが夕日を観て自分たちを奮い立たせていたのが印象的でした。

私は原作は未読なので、この感想は映画からだけのものです。確かに少し美化して描いていたきらいはあり、実際はもっと喧嘩もあったり壮絶な介護もあったかもしれません。しかしリアリティさえあれば良いというものではなし、ありふれた夫婦の特異な一年間を描くことで、夫婦としての至高の愛情を感じたのですから、私はこれで良かったと思います。

トイレがしたいと言いながら、夫におぶってもらうと、「嘘や。おんぶしてほしかっただけ」と、病んだ身で愛らしい嘘を言う妻。そんな妻を喜んでおんぶして走る夫。このシーンが大好きです。お金ではなく大きな家でもなく、夫と共に人生を歩む、それだけで満足な妻が世の中にはたくさんいるのです。世のご主人様に、それがわかってもらえれば嬉しいな。大好きな作品です。






2011年03月06日(日) 「悪魔を見た」





イ・ビョンホン一世一代のアイドル映画
。いや多分彼のキャリアからしたら、もっといい作品には巡り合えると思うけど、この作品のビョンホンは、猟奇場面と対を張るほどカッコいいの。一世一代はちょっと大げさですが、こんな鬼畜映画でアイドルしてた彼に敬意を表して、書いておきます。監督はキム・ジウン。

国家情報員捜査官スヒョン(イ・ビョンホン)の婚約者が殺され、バラバラ死体となって発見されます。重犯罪課の刑事だった婚約者の父親の協力によって、捜査線上に浮かんだのは4人。復讐を誓うスヒョンは、犯人は塾の送迎車の運転手ギョンチョル(チェ・ミンシク)であることを突き止めます。

冒頭から鬼畜猟奇場面が炸裂。以降も断続的に18禁の血みどろで凄惨な場面がこれでもかと繰り返されます。この手の作品は普段は男性が多いのですが、この作品に限りビョンホンお目当ての女性ファンが多かったです。こりゃ何人も退場するわと思っていたのですが、誰もせず。この手を見慣れた私と違い、韓流マダム達には相当きつかったはず。偉いわ、私見直しちゃった。

それもそのはず。この作品のビョンホンは素晴らしくカッコいい!国家のエリートが、愛する婚約者のため地位も名誉も捨て、復讐の鬼と化すわけです。愛のために地獄に堕ちてもいいわけね。鬼畜映画のくせに純愛まっしぐら。ビョンホンの魅力の一つは、身体能力が優れていること。なので身のこなしが鮮やかで、アクション場面にキレがあります。数多い韓流スターの中で、彼が頭一つ抜けているのは、このおかげだと思います。色々使える俳優だと思います。

演技の方も、婚約者の訃報に号泣せず、一筋涙を垂らしながら嗚咽するのが、また決まってね。男が愛する人を思って咽び泣くって素敵よね(←完全に魅入られております)。ギョンチョルも殺人を繰り返す男なんですから、相当腕は立つはずですが、スヒョンにかかると赤子の手をひねるが如く、完敗です。強いはずの敵役のギョンチョルが愚鈍にさえ見えるのも、アイドル映画の鉄則かと。不眠不休で食事も取らず、それであれだけ強いだなんて、あり得ませんが、ビョンホンが素敵だったので不問。

お話は至ってシンプル。色々付加価値を求めて描いていた「冷たい熱帯魚」の方が、手法としては洗練されていると思いますが、こちらの方は婚約者を殺された男の復讐劇なんですから、観ていてとても解りやすい。そして殺人鬼がどうしてこうなったのかなど一切描かかず、モンスターとしてだけ突起させているのが上手いです。なので、一度捕まえたギョンチョルを殺さず、何度もキャッチ&リリースさせて、「段々残酷になっていくぞ・・・」と、一つ一つ痛手を負わせるスヒョンに共感というか、同調出来るのです。被害者が皆、清楚な娘さんだったのも、単純に観客の怒りを引き出させたと思います。

このまま復讐が遂げられるのかなぁと思っていたら、ちゃんとスヒョンも返り血を浴びます。この返り血が絶望的なのも、理不尽だけど復讐の連鎖を描いていたと思います。

私はこの返り血の後のスヒョンの行動がとっても好き。男ならああでなきゃ(きっぱり)。この辺が多分日本人と韓国人の感覚が違うところじゃないかと思います。ただし最後の始末のつけ方は、もっと残忍な方が良かったと思います(←鬼畜)。

偉いのはチェ・ミンシク。ビョンホンありきの制作過程で、この内容で誰が殺人鬼をやるかで、作品のグレードはぐ〜んと違うはず。俳優として気概があるというか、何も考えていないというか、こんな役が好きなだけとか(多分全部)で、ビョンホンを食う勢いで好演。それ以上に私は、ミンシク相手に食われなかったビョンホンの事、見直しましたが。

感傷的なラストも、ビョンホンには似合います。「悪魔を見た」のは、彼自身の中だったわけですね。それにしても韓国の警察間抜けすぎ。確信犯的に描いていたので、国民感情は相当なもんなんでしょう。それを題材の映画が観たいな。

猟奇場面は味の素にするには強烈だし、色々突っ込みもあるんですが、私は途中からアイドル映画として観たので、それなりに面白く観られました。ビョンホンファンの方には是非観て欲しいけど、かなり強烈なので、熟考をお願いします。


2011年03月04日(金) 「英国王のスピーチ」




本年度アカデミー賞、作品・監督・主演男優賞受賞作。私は時代を斬新に切り取って描いていた「ソーシャル・ネットワーク」の方が、作品賞にはふさわしいと感じました。けれど王室を通して、普遍的な人としての生まれ出づる苦悩を描いたこの作品も、なかなかの味わい深さを感じさせてくれます。

英国王(マイケル・ガンホン)の次男ジョージ6世(コリン・ファース)は、幼い時からの吃音に悩み、対外的な公務を嫌っていました。そんな夫を心配するエリザベス妃(ヘレナ・ボナム・カーター)は、何人も治療家を見つけては、夫に紹介していました。風変わりなオーストラリア人のライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)もその一人。誰もジョージ6世の吃音を治せない中、少しづつ成果を見せ始めた頃、兄のエドワード8世(ガイ・ピアース)がアメリカ人女性で離婚歴のあるシンプソン夫人との結婚のため、退位。ジョージ6世が国王となります。

風変わりな方法でジョージにアプローチするローグ。この様子がユーモアたっぷりで、笑いを誘います。やんごとなき身分のお方でも、口汚い言葉を言い募ってストレス発散させたいのかと、親近感が湧きます。そして吃音の原因を探っていくと、そこには平民と同じ苦悩を託つジョージ6世の姿があるのでした。

冒頭、苦手な演説に波立つ気持ちを静めるよう、妻にすがるジョージ。励ます妻。以降この関係はずっと続きます。夫に知られぬよう、あれこれ治療の方法を探す妻。本当は必至だったはずですが、決して夫には押し付けず控えめ、彼の心のままに任せます。この匙加減が絶妙で、押し付けないところに、夫への信頼と愛が偲ばれます。ジョージ6世は吃音で癇癪持ち。しかし気は小さいですが、決して卑小ではなく、誠実で心から妻と二人の娘を愛する良き夫です。妻はきっと、この良き夫に、人としての自信を持って欲しかったのですね。

「あなたの2回のプロポーズを断ったのは、あなたが嫌いじゃなくて、王室に入るのがいやだったのよ」と語るエリザベス。そうだろうなぁ、国王が亡くなった直後の王妃の一番最初の言葉は、次期国王の長男のエドワード8世に向かって「国王万歳」だもの。それがしきたりなのでしょう。夫の死に泣けない妻なんて、私もいやです。エリザベスの言葉は、そんな窮屈な王室も、あなたがいるから飛び込んだのよ、と言う意味でしょう。

タイトルのスピーチは、実際は朴訥に一生懸命語るだけ。決して見事なスピーチではありません。しかしイギリス人でもなく、当時の事も全くわからない私も感動させるスピーチでした。何故なら観客も、吃音に悩み引っ込み思案、急な兄の退位で、なりたくもない王位についた彼の苦労を知っているわけです。同じ内容でも誰が話したかによって、人の受ける印象は違います。国の一大事に国民に語りかけた国王のスピーチは、正に言霊が宿っていたのでしょう。

英語の吃音とはどういう風なのか、私にはわからないけど、ファースの演技が完璧だというのはわかりました。バートンと一緒になってから、ビッチな役ばかり続くカーターですが、今回は久々に「コルセット映画の女王」と謳われた当時を思い出させるエレガントさで、良かったです。ラッシュも実際にオーストラリア人ですが、吃音を治したのが、位の高いイギリスの名医ではなく、実践に長けた訛りのあるオーストラリア人であったというのも、ちょっといいお話です。

当時のスキャンダラスな英王室の様子も描いています。英王室と言うのは昔から、よく言えば開かれた、悪く言えばふしだらな王室のようです。次期国王たる者が、人妻にちょっかいを出したり、また離婚させて自分の妻にしようなどとは、江戸時代の上様みたい。エドワード8世の件は、大昔は「王冠を捨てた恋」として、日本ではロマンチックに語られていましたが、無責任極まりなく不実な事だと、実際はこの作品に描かれているようだったのでしょうね。本当は王妃になる気満々だったシンプソン夫人は、ただの公爵になった夫にがっかりだったかも。

それにしてもチャールズ皇太子は、実直な自分の祖父ではなく、大叔父のエドワード8世に似たんだわと、クスリとしました。エリザベス女王の苦労やいかばかりかと思いますが、女王の芯の強さは、父親譲りなのでしょう。「貧しくとも満足していれば幸せだ」。ローグによると、シェークスピアの言葉だそうですが、恥ずかしながら初めて知りました。でも私がいつも思っていることよ。「豊かでも自分に自信が持てず不幸せ」だったジョージ6世。彼が満足できる人生を掴んだ姿は、市井の人々にも、きっと共感を呼ぶことと思います。


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