ケイケイの映画日記
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2010年04月30日(金) 「ダーリンは外国人」




やっとGWです。先週は三本観たのに、仕事激疲れで全く感想書けませんでした。気分は洗濯物が溜まったよう。この作品は一番近い29日に観てきました。実は原作ファンの私、どういう風に映画化されているかな?と、とても興味がありました。映画の方は原作の骨格とモチーフを散りばめた、オリジナルに近いものでした。原作ファンとしては違和感がありましたが、これはこれで、可愛い作品になっています。

漫画家志望の小多里(井上真央)は、言語オタクのアメリカ人トニー(ジョナサン・シェア)と知り合い、恋人同士になります。しばらくして二人は、結婚を前提に一緒に暮らし始めます。数々のカルチャー・ギャップを乗り越え、絆を強める二人ですが、トニーを歓迎する小多里の母(大竹しのぶ)や姉(国仲涼子)と違い、父(國村隼)は国籍の壁を理由に、二人の結婚を反対します。

原作を読まれた方なら納得のはずですが、シェア演じるトニーが絶品。いや演技が上手いわけじゃないんですが、原作で小多里に「草食動物」と例えられるトニーそのまんまなのです。恐ろしく純粋で繊細なハートの持ち主、思いやり溢れ誠実で温厚な人柄。こんないい人、世界中のどこを探したってないと思えるトニーが、そのまんまスクリーンに現れたようなのです。原作は実はトニーのこの人柄が一番の重要ポイントで、彼の並はずれた「いい人」の破壊力はすさまじく、全ての障害は乗り越えるに値あるものと感じさせます。

映画の方は、シェアのキャラに頼った部分が過分にあり、国籍や人種違いから来る、価値観のずれや微妙な違和感が、上手く表現されていたとは思えません。数々のエピソードは、どれもこれも日本人同士だってある類のもの。なので二人が少しずつのずれの積み重ねが増大し、行き違いになる時の小多里の「やっぱり国際結婚は無理なのよ。日本人同士なら言わなくてもわかりあえるのに」と言うセリフは、説得力がありません。

原作の良いところは、数々の壁があっても、結局は人間とは男女とは夫婦とは、基本的には万国いっしょなのだという認識が力強いところです。紆余曲折があっても、その辺をしっかり認識していれば大丈夫という二人の(主に妻。トニーはいつでも飄々としている)爽やかさが、しっかり伺える事に魅力があります。

映画の井上真央演じる小多里は、森ガール風の衣装で可愛いのですが、この辺が少し幼いかな?素直な良い子ですが、原作の小多里は芯がとても強いですが、表面はトニー同様穏やかで、映画のように勝気な印象ではありません。知性も少々落ちるかな?(ごめんね真央ちゃん)私は作者のファンなので、ちょっとこの辺は厳しいかも?それとトニーはしっかり職業を持っていますが、この作品ではちょろっと紹介するだけで、いつも家にいるか、友人といっしょで、あれじゃ妻の甲斐性で暮らしているみたい。この辺も描き方に工夫が欲しかったです。

とはいえ、思いやりと優しさに溢れた描き方は好感が持て、普通に楽しめる事が出来ます。両親の描き方も演じる國村隼と大竹しのぶの好演で、親心から来る心配と人柄は、如何にも日本的な善良な熟年夫婦で好感が持てます。

せっかくシェアと言う逸材を見つけたのですから、全体にもう少し作りこんでいれば、国際結婚を通じて、恋愛や結婚の普遍的な意義や意味が浮かび上がったような気がします。それがちょっと惜しいけど、ほのぼの可愛い作品だったので、私はこれでもOKでした。


2010年04月25日(日) 「フォロー・ミー」(午前十時の映画祭)




今映画祭の目玉作品。なんたってビデオもDVD化もされていません。私は二十歳頃テレビの深夜放送で観て感激。次に観たのは、ケーブルの放送時でした。熱狂的ファンが多い作品として有名で、平日でしたが場内は満員。名匠キャロル・リード監督の遺作で、音楽はジョン・バリー。やっぱり劇場で観ると格別ですね。今回久しぶりに観たせいか、はたまた年のせいか、うるうるあちこちで泣けました。この作品がDVDになっていないなんて、犯罪だと思います。

ロンドンで会計士をしているチャールズ(マイケル・ジェイスン)は順風満帆な仕事とは反対に、新婚のアメリカ人の妻ベリンダ(ミア・ファロー)の近頃の浮ついた様子に、妻の浮気を疑い探偵(トポル)を雇います。

昨今は時空いじり系の作品が多いですが、38年前のこの作品は、前置きして過去の出来事を描いていて、すごくわかり易いです。全ての過去の展開が前置きつきですが、それでもちょっぴりしたサプライズがあったり、ミステリーじゃければ、私はやっぱりこちらが好きだなぁ。

家柄も良く学歴高く教養もあり、おまけに仕事はステイタスの高い仕事のチャールズ。ベリンダは幼い頃両親は離婚、一つの居場所にとどまることはなく、その土地土地で仕事をして暮らしている風来坊。当時の背景からいうと、インドへ訪れた話を入れるなど、ヒッピーだったと思います。正に水と油の夫婦です。

釣り合わぬは不縁の元は万国共通、結婚半年後くらいには「僕の可愛い教え子だった妻は、謎の女の変身する(夫談)」わけです。なまじっか夫に知識があるのがいけない。出歩いてばっかする新妻が、「ボヴァリー夫人」なんかに傾倒しちゃ、そりゃ浮気を疑いますよ。うちの夫ならボヴァリー夫人なんか、内容どころか題名も知らないもん。教養も時として邪魔になるんですね。

二人が魅かれあったのは、お互い自分の人生には無いものがある、その新鮮さだったのだと思います。同じレベルの人々との親交は安定感はあるものの、物足りなさを感じていたチャールズ。彼がベリンダに魅かれた一番の理由は、豊かでユニークな感受性と自由な心だったのだと思います。そう、彼の人生に一番欠如していたのは、「自由」だったんですね。でもこの時点で彼はその事には気付いていません。ベリンダを素直で愛しい「教え子」だと思っています。

ベリンダは両親の離婚体験など、安定した暮らしをしたことがありません。文化的な教養を得る機会も少なかったのでしょう。好奇心が強そうで素直なベリンダが、自分とは別の世界で充実した人生を送っている(ように見える)チャールズに魅かれるのも、これまたとっても自然です。彼を知って、初めて安住の生活というものに、憧れを抱いたのかも知れません。

それが結婚した途端、教養豊かな安定した生活は息苦しく退屈で、自由で豊かな感受性は、未熟で自分勝手に感じ方が変わるわけす。夫にしたら愛情は持っていたけど常に上から目線、妻が自分に合わせるのは当然だったでしょう。妻も教え子ではあっても、自分も彼に与えるものがあり、いっしょに成長して行けるもんだと思っていたのが、待っていたのは息苦しさと誰にも理解されない孤独だけ。その孤独を救ったのが探偵でした。

浮気調査をしていたはずの探偵は、ベリンダを空虚で寂しい現実から逃避させます。その様子が本当に素敵で。探偵に不信感を抱いていた当初から、段々彼の存在を意識し、ベリンダが心通わせる様子が自然に描かれています。常に15m離れて言葉は絶対交わさない。リードするのは探偵だったりベリンダだったり。人がたくさんいる場所を巡っても、当初は群衆の中で、一人孤独を噛みしめるベリンダが、探偵と道連れになって再びその場所を訪れると、そこは楽しさを分かち合う、全く別の場所に感じるのです。慰めの言葉など一切なくても、ベリンダは孤独から救われるわけです。

全てがわかった後漏らす、「私は夫の人生を汚してしまった・・・」というベリンダの言葉に、私は涙が出て出て。ベリンダは玉の輿を狙ったわけではなく、憧れや尊敬出来る人が、たまたま裕福だっただけのこと。彼女は幼稚で未熟な行動も多く、夫には恥をかかせることも多かったでしょう。反省しているのです。しかし常に周囲から浮き上がり見下されて、人として自尊心が保てるでしょうか?そしてその周囲の中に、夫の目線も感じたならば、本当にやり切れないでしょう。でも愛しているんだなぁと、しみじみ感じさせる言葉です。愛していても決して卑屈になりたくない、自分に欠点がいっぱいでも、対等である。それは男女ではとてもとても大切な事だと、私は思います。

とにかくミア・ファローが可愛過ぎ!当時はゴージャスな美人女優がいっぱいいて、彼女のか細いスタイルにファニーフェイスは、ヒロインとしては異質だったと思いますが、本当に妖精のような透明感と新鮮さだなと、改めて感心しました。私は彼女の「カイロの紫のバラ」も大好きですが、年齢はいってましたが、この作品の延長線上のようなヒロインです。

ジェイスンはこの作品しか観た事がありませんが、久しぶりに観ると、中々好演だったです。周囲のスノッブなセレブ達達とも、そこはかとなく違いがあったし、一度も新妻を侮辱する言葉もなかったし、その辺もこの作品に上品さを感じさせる一因になっていると思います。

そしてトポル!この人も大昔テレビで観た「屋根の上のヴィオリン弾き」とこの作品しか知りませんが、断然こっちが好き!まぁ喋る喋る。ユニーク過ぎる探偵というより、ほとんど詐欺師に近いのですが、彼のユーモラスな大らかさと温かさが、この作品を誰からも愛される、一生忘れられない作品にしたのだと思います。彼自身、その背景からも伺えますが、探偵が本当の孤独を知る人だったから、ベリンダの心が理解出来たのだと思います。

ラストの二人の微笑みでまたウルウル。周防正行の「シャル・ウィ・ダンス」の中で、この作品のポスターが貼ってありましたね。あの原日出子の奥さん、彼女の方が夫の浮気を疑っていたけど、夫といっしょに歩みたいのに、夫には置いてけぼりにされてと、とても日本的なベリンダだったのだと思います。周防監督、あの奥さんが好きだったんだなぁ。大阪は終わりましたが、順次上映予定の地域の方は、是非とも見逃さないよう、お勧めします。


2010年04月21日(水) 「アリス・イン・ワンダーランド」(3D 吹替え版)




本当は2D字幕版で観たかったけど、私の愛する布施ラインシネマがいよいよ3D上映を設置。そのこけら落とし上映作がこの作品のため、ご祝儀を兼ねて3D鑑賞しました。が!これ本当にティム・バートン?と、今までそれなりに彼の作品を愛してきた者からしたら、首を傾げる内容で、全体的にただただ平たんに進む大味な内容に、だいぶ落胆しました。正直言って退屈でした。

19歳になったアリス(ミア・ワシコウスカ)は、幼い時のワンダーランドでの体験をすっかり忘れていました。園遊会に母といっしょに招かれたアリスは、思いもよらぬ相手からプロポーズされ困惑。返事まで時間が欲しいと逃げ出してしまいます。そこで白うさぎを観た彼女は追い掛けていき、落とし穴に落ちてしまいます。そこは非情な赤の女王(ヘレナ・ボナム・カーター)が支配するアンダーランド。かつてのワンダーランドです。白うさぎやチェシャ猫、そしてマッド・ハッター(ジョニー・デップ)は、アリスこそこの国を救う救世主だと言います。政権を赤の女王の妹である白の女王(アン・ハサウェイ)に手渡すために、アリスは奮闘することに。

まずは良いところから。美術は確かに色彩豊かで見応えはありました。お茶会のシーンなどは、ティーポットやカップのひとつひとつまで凝っており、中々素敵。しかしパッと観て、「ハリポタ」シリーズと大差はありません。監督がクリス・コロンバスだと言われれば、そう信じちゃう。個人的にはバートンの哀愁のある毒気みたいな、そういう世界観は感じませんでした。致命的なのは、3Dにする必要が全く感じられなかった事。飛び出す画面がいちいちうざったいです。

幼い頃の想像力豊かな感受性の強さを持ったまま大人になりかけのアリスは、現在ちょっと不思議ちゃん扱いで、世間からは浮いています。そんな自分と世間の隔たりに戸惑っている途中に、ワンダーランドへ戻ってしまいます。しかし昔の事を忘れたアリスは、住人たちからは「あのアリスじゃない!」と言われる始末。子供にも戻れず、さりとて分別のある大人にもなれず。どこにも身の置き所のない侘びしさを感じていいはずなのに、アリスからはその困惑や焦燥感が、まるで伝わりません。

お話はその後、段々と昔を思い出し勇気と豊かな感受性を武器に、アリスが「あのアリス」に戻り、暗黒のアンダーランドから、夢と希望のワンダーランドを取り戻そうとします。全くの予定調和。その間間にさすがはジョニデ!という感じで、デップが場面をかっさらってくれますが、それ以外はグロテスクさもロマンチックさも中途半端で、どっちつかずです。

決定的に私が疑問に感じたのは、赤の女王の扱いです。醜い容姿に生まれつき、美しく優しい妹に両親の愛情まで奪われ、心まで醜くなった彼女。本当は愛されたかったのに、誰からも愛してもらえず、「私はやっぱり愛されるより、恐れられる方がいいわ!」というセリフの痛ましさよ。この異形の哀しき女王に、何故最後まで一切の魂の救済がないの?

バートンと言えば、自他共に認めるオタク監督で、理解されぬ異形の人々への、温かい哀歓に満ちた眼差しが真骨頂の人なわけです。多くの私を含む映画好きは、まさにその部分で彼を愛しているんです。それがどうした?何この展開は?と沸々怒りさえ湧いてきた時、ふと思い当りました。

この作品はディズニー制作で、きっとプロデューサーから、あれこれ注文でたんですな。なので面白くも何ともない勧善懲悪のストーリーになったと想像しました。

完璧な容姿と人柄のはずの白の女王のキャラなんですが、鼻に就く過剰なエレガントさ、魔法の薬を作る時の打って変ったビッチさ、極めつけは「私は何も殺さないの」と言いながら、他の者があれこれ殺戮したって、それは構わないという狡猾さ。うーむ、赤の女王を救済出来なかった分、こちらで溜飲を下げたというわけかな?それにしても、一般的にはわかりにくいですね。



しかし見所が少ないこんな作品でも、デップは絶好調。鑑賞前からこのメイクは出回っていたんで、よもやこのなりでは、いつものデップの男っぷりは望めないなと思っていました。しかしこれがやっぱり、素敵だったんだなぁ。マッド・ハッターと言う名前ですから、精神的には病んでいる人なんでしょう。しかしそういう人特有の純粋さや危うさを、少年っぽいのではなく、ちゃんと大人の男としての味わいで好演しています。もちろんいつものバートン作品でお馴染の、「ちょっと変」テイストで。ホント、ジョニー・デップに死角なし!思えば「シザーハンズ」のエドワードだって、彼が演じたからあんなに切なかったんだ。

ヒロインのミアは健闘していますが、ちょっと荷が重かったかな?ファンタジー大作ではなく、リアリティのある青春モノの方が似合いそうな子です。ヘレナはバートンとパートナーになってから、すっかり怪女優ですが、元は「コルセット女優」と謳われた、歴史劇が得意な個性的な演技派女優。次はその演技力と微妙な美貌を生かした作品に出て欲しいです。感心したのはアン・ハサウェイ。真っ白の容姿に眉と唇は黒いゴス風メイクが、とっても怪しい。私が想像した通りなら、バートンの要求にぴったりの白の女王でした。

お子様たちへの教訓もそれほどないし、大人が観ても楽しめず。いったいターゲットは誰?という仕上がりでした。何であちこちで大ヒットしているのか、私的には不思議です。バートンもハリウッドのメインストリート監督となり、段々偉くなって返って自由が利かないのでしょうが、次回はまたいつものオタク全開作品を期待しています。


2010年04月19日(月) 「第9地区」




面白ーい!フェイクドキュメンタリー風の出だしから数分、後は余計な説明なしに、ノンストップで最後まで突っ走ります。ハラハラドキドキ涙あり笑いありの、社会派SFアクション。B級の傑作だと思います。監督は舞台である南アフリカ出身のニール・ブロンカンプ。

南アフリカのヨハネスブルグ。巨大の宇宙船が上空に停滞、探索してみると、栄養失調で難民と化したエイリアン<エビ>たちが多数乗船していました。国は取りあえず”第9地区”と名付けた地域に、エイリアンたちを保護します。それから28年後、第9地区はスラムと化し、周辺住民からは苦情の嵐が、そこで国はもっと僻地にエイリアンたちを強制移住させるべく、プロジェクトを立てます。その最高責任者になったヴィカス(シャールト・コブリー)は、早速第9地区に出向き、エイリアンたちに立ち退きの通達に行きます。しかし不注意から謎の液体を浴びてしまい、体が徐々にエイリアン化して行きます。

とにかく展開がスピーディー。予告編でこんなに見せていいのか?と思っていましたが、あんなの序の口で、飛ばす飛ばす。エイリアンというのは、「エイリアン」系の地球への侵略者型が多数で、たま〜に「ET」系の仲良しになりたいの!系が、映画で今まで描かれてきた世界感です。しかしこの作品のエイリアンたちは、難民という保護されるべき立場。まずはココが目新しいです。

難民エイリアンたちが劣悪な環境で段々暴徒化していくのも、まるで人間世界といっしょ。舞台は南アフリカなので、いやでもこの政策でアパルトヘイトを思い起こします。しかし現実は置いておいて、アパルトヘイトは建前上は現在はなくなっています。となると、次の標的がエイリアンというわけ。「AI」を観た時も、人間がオーガニックと名乗り、古い使いものにならなくなったロボットを晒しものにして壊すのをショーとして見せる場面がありました。ロボットをなぶり者して歓声をあげる人間たち。この作品の中でも同様のシーンがありました。例え地球上から人種差別がなくなっても、こうやって人間は次のターゲットを作り、差別していくのかと薄ら寒くなるのです。

「差別って何故起こるか知っているか?自分より弱い者を作り、あの人たちより自分はまだましだと、優越感を持ちたい人間の弱い心がさせることさ」。これは「ミシシッピー・バーニング」の中で、叩き上げ刑事のジーン・ハックマンが、相棒のキャリア組のウィレム・デフォーに語る言葉です。エイリアンたちに人間の名前を付けているのも残酷です。「ルーツ」のクンタ・キンテは、アフリカから拉致され奴隷として売られた時、トビーと言う名のアメリカ式の名前を付けられています。

エイリアンたちを相手に闇商売をするギャングたちが、ナイジェリア系黒人たちと言うのも象徴的だし、エイリアンたちを保護した国の本当の理由、残虐にエイリアンを殺すのを楽しむ軍人など、胸くそ悪くなる人間たちを、これでもかこれでもかと大量投下して、半エイリアンとなっていくヴィカスに、たっぷりその屈辱と怖さを味わってもらう仕掛けです。

最初はどこにでもいる、小市民なヴィカス。エイリアン移住担当のボスとなり、多くの人々と同じように彼らをなぶり者にしていたヴィカス。ほんと、途中まで自分の事しか考えない男で、よっぽど成り行きで同行者となったエイリアンのクリストファーの方が、心豊かで人間らしいんだよなぁ。しかし仲間である人間から命を狙われ、エイリアンと同じく猫缶や生肉を食い漁る、人ではあらずになってからの彼は、本当にカッコ良かった!人間堕ちて堕ちて堕ちまくって、初めて悟ることもあるんだなぁと、卑小な小者であるヴィカスの「化けっぷり」に納得します。

銃撃戦やと「トランスフォーマー」もどき、飛行船内部やエイリアンVS人間の素手の格闘など、アクション場面やSF場面をふんだんに見せつつ、エイリアン親子の情愛や友情、ヴィカスの妻恋しの部分も情感たっぷりに描いています。みんな無名の役者なのが功を奏して、先が全く読めず、展開も最後まで二転三転し、最後まで楽しめます。

上映時間111分、ヴィカスといっしょに全力疾走した感じ。こちらは追いかけられている訳じゃないので、心地よい疲労感と快感が残ります。ラストはホロッと来ますよ。殺戮場面などちょっとグロイですが、中学生くらいの子供さんがいらっしゃる方は、親子で観て、南アフリカの歴史から紐解いて、この映画が意図するところを、親子で語り合ってもいいかも?是非お勧めします。




2010年04月16日(金) 「息もできない」




予告編を観ただけで心を揺さぶられ、絶対観ようと思っていた作品。発展する韓国社会で、底辺に置き去りにされた人々の苦悩や哀しみが充満していながら、希望も感じさせる作りで、すっかり魅了されました。監督は主演のサンフン役も兼ねるヤン・イクチュン。これが初監督作。忌まわしい負の血の連鎖を暴力描写で描きながら、ベトナム帰り、DV、違法な取り立て、崩壊した家庭など、現在の韓国の様々な社会的要素をも取り入れた傑作だと思います。

チンピラのサンフン(ヤン・イクチュン)。仕事は取り立て屋です。仕事場でも冷酷にして非情、自分の意に添わねば、相手かまわず殴り倒します。幼い時、父親の暴力が原因で母と妹を亡くし、以降父親には憎しみを抱いていますが、異母姉の子ヒョンイル(キム・ヒス)に対しては、不器用な愛情を注ぎます。ひょんなことから、生意気な女子高生ヨニ(キム・コッピ)と知り会います。彼女もまた、精神に異常をきたした父、崩壊した家庭にいけやがさす弟ヨンジェ(イ・ファン)がおり、彼らからの日常的な暴力に悩まされています。お互い境遇は知らないのに、魂が魅かれあうように、交流が始まります。

サンフンは粗野で粗暴、凶暴な男です。口を開けば「クソアマ」「クソ野郎」「クソガキ」など、人を罵る言葉しか出ません。知性や教養からも遠く離れた男です。そんなサンフンの土壌を作っていたのが、父の暴力でした。子供の時に母と妹を奪われ、一見そのうっ憤を老いた父を殴ることで発散しているように見えます。しかし、実の父を殴って楽しいでしょうか?嬉しいでしょうか?サンフンの心は、荒む一方だと思うのです。その辛さを思うと、無性に泣けてしまう私。

家族に暴力をふるっていた父は、今は息子に殴られるだけ。辛いでしょう、哀しいでしょう。韓国社会では父親は絶対の存在。息子に殴られるなどこんな恥はありません。しかしその痛みは息子に殴られる痛みではなく、息子を人を殴る事でしか自分の心を表現出来ない人間にしてしまった、親としての悔恨の痛みです。殴られているだけの父の心は、サンフンにも通じているはずなのに、殴る事が止められないサンフン。父親は十数年前の自分を、息子の中に観ていたはずです。

誰彼なしに殴るサンフンですが、姉と社長(チョン・マンシク)にだけは、口こそ罵りますが、決して手を出しません。姉、兄貴分と言う立場をわきまえているのです。二人はその事に気付いているでしょう。こんな凶暴な男の本心を知っているから、最後まで見捨てずにいたのです。夫のDVから離婚した姉、取り立て屋の社長なのに、決して現場に出ない社長。「誰だってやりたくて、こんなことをしているんじゃない」と言う社員にも温かい社長は、孤児でした。「どんな親でも、おれはいて欲しかった」と、サンフンの父にとお金を渡す社長には、こんな生業である事の、せめても罪滅ぼしの意が汲み取れます。本心は暴力から逃れたいのです。

もうよい年に見えるサンフンのどこにも女性の影が見えないのは、父から受け継いだ暴力的な血を怖れているからなのかも。家庭を持つのが怖いのでしょう。しかし血の繋がった甥ヒョンイルを不器用に愛する姿は、彼が血の濃さを求めているからでしょう。血を呪い血を恋しがるサンフン。

ヨニの家庭も複雑です。ベトナム帰りの父親はそのせいで精神に異常をきたし、妻は亡くなったのに不貞を働いていると思い込んでいます。弟は始終ヨニに暴言を吐き小突きまわす。時々感情を爆発させながら、この家庭を捨てない彼女は、心のどこかで父や弟を理解し赦していたのだと思います。だから不良にならず、同じ境遇のサンフンに、魂が呼応するように引き寄せられたのでしょう。

本当に辛い悩み事は、誰にも言えないものです。人に相談出来る悩み事は、まだ軽いのだと私は思います。排他的になる二人の気持ちが、私には痛いほどわかるのです・お互い交流を重ねても、自分たちの境遇は決して話さない二人。作り話の家族の話をするヨニに、「それなりの家の子だと思っていたよ」と言うサンフンですが、それは彼の思いやりでしょう。チンピラと街をほっつき歩き酒を飲み、夜中に会いたいと言えば出てくる少女が、堅い家の娘だとは誰も思いません。愛でもなく友情でもなく、そんな生易しい感情ではない、突き抜けた二人の魂がぴったり重なった漢江での逢瀬。むせびなく二人の姿に私は号泣。美男美女には遠い男女がただ泣く、そんなシーンがこんなに美しいなんて。

サンフンとヨニ。次第に距離が近くなり、次の段階に二人の交流が深まる気配を見せた頃、サンフンは今までしてきたことの、落とし前をつけられます。それはまるで若い頃の自分に復讐されたが如くです。

明るい兆しを見せながら、暴力の連鎖は断ち切れないのかと、ヨニを絶望させるようなラスト。でも私は、サンフンと交流することで強く生まれ変わったヨニを信じたいです。彼女には出来る事があるはずだから。自分の境遇を受け入れる事、それを学んだのが、サンフンとの逢瀬でした。

インディーズ界の大物俳優だそうなヤン・イクチュンは、私財を投げ打ってこの作品を作ったそうです。彼自身家族の問題に長年悩まされていたそうで、その思いをこの作品にぶつけたそう。各方面でこの作品は絶賛されたそうで、ヤン監督、自分の貴重な体験が映画人として生かされて良かったですね。私も複雑な家庭に育ち、結婚するまで様々な葛藤を抱えて生きてきました。その生い立ちが、私の映画の感想には生きています。多くの方に私の感想を好んでいただけるのは、あの両親あってこそだと、皮肉ではなく本心から思っています。この作品を観て、ヤン監督が私と同じ気持ちであることを、心から信じています。


2010年04月11日(日) 「シャッターアイランド」(超吹替え版)




「結末は決して誰にも話さないで下さい」系ミステリー。そういうウリで宣伝していますが、そのお陰で、私のようなすれっからしの映画好きは、早々にオチがわかってしまいました。雰囲気や細かく行き届いた演出はとても良かったのに、お陰で観終わった後は肩透かしの印象が残ります。時間の関係で「超吹替え版」で観ました。面白かったら字幕版でも観ようと思っていましたが、その必要はなかったです。監督はマーティン・スコセッシ。公開間もないので、頑張ってネタバレなしで書きます。

1954年のアメリカ。連邦保安官テディ(レオナルド・ディカプリオ)は新しい相棒のチャック(マーク・ラファロ)と共に、シャッターアイランドと呼ばれる孤島にある、精神病を患った犯罪者を収監するアッシュクリフ病院に船で向かっています。収監されている患者のレイチェル・ソランド(エミリー・モーティマー)が病院から抜けだし、その調査を依頼されたからです。院長コーリー(ベン・キングスレー)の元、病院は厳重に管理されており、謎は深まるばかり。テディはレイチェルの件の他、亡くなった妻ドロレス(ミシェル・ウィリアムズ)の死に関係しているアンドルー・レディス(イライアス・コティーズ)がこの病院に収監されていると睨み、秘かにその調査も兼ねていましたが・・・。

売り方が間違っていると思います。せっかくキングスレーを筆頭に、胡散臭さ満点の脇役陣(マックス・フォン・シドー、ジャッキー・アール・ヘイリー、コティーズ、パトリシア・クラークソン)がきっちり演じてかく乱してくれているのに、あんなドンデン返し系を売りにしちゃ、早々にオチには気付いてしまいます。

しかしそこはスコセッシ、演出は重厚な中にも幻想的な哀しみがあったり、オドロオドロシい気持ち悪さがあったり、とてもいいです。その辺がドンデン返しのためのドンデン返しに気を取られて、あのプロットこのプロット、煽るだけ煽って始末をつけないシャマランとは大違い。上映30分頃から、後でツッコンでやろうと思って観ていましたが、辻褄はほとんど合ってました。この辺はさすがはスコセッシと言うところで、ネタがばれても、最後まで引っ張る見応えはありました。

が!!!いよいよネタバレの段階になり、えっ?やっぱりその理由だけ?となると、イマイチ今映画化した理由が見つけられません。気持ちはわかりますが、現代は精神的な病も増え、アメリカなどは歯科に行くより精神科に行く人の数の方が多いと聞きます。せっかくスコセッシが撮るなら、今から50年以上前のお話でも、どこかに現代的な味付けが欲しかったです。

ラストの「怪物として生きるか、良い人間として死ぬか」という自問自答は、ある手術を施されることに対しての、精神的な死を意味しているのでしょう。その時その人は、「正気」であったと私は思います。ここでやっと少し気持ちが収まりました。

レオはいつも通りの熱演でした。相変わらず華のある人ですから、内容はイマイチでもそれなりに彼には満足感が得られます。マーク・ラファロは、上り調子なのが実感出来る演技です。ぼちぼち主役が観たいです。今回超吹替え版の翻訳が、例のあの方だったのでちと不安でしたが、別段不具合なく声優陣も役者を立ててでしゃばらない好吹替えでした。でもこれくらいの内容なら、字幕でも混乱することは少ないと思いました。


観てきたことを夫に言うと、「どうやった?」と聞かれたので、「私のような映画のすれっからしは、すぐにオチがわかってまうわ」と言うと「ほな俺みたいな純情なもんは、楽しめると言う事や」と言う返事が返ってきました。うんうん、そーかも?。と言う事で、これからご覧になる方々は、純情でありますよう、祈っています。


2010年04月07日(水) 「やさしい嘘と贈り物」




実はこの作品、チラシに重大なネタバレを書いています。その事について残念だと言う感想が目につきますが、私はそのネタバレを読んだので、この作品を観たいと思いました。個人的にはオチを知っていた為、最初から味わい深く作品を鑑賞出来て、良かったと思っています。なので今回はネタバレです。

一人暮らしの孤独な老人ロバート(マーテイン・ランドー)。仕事先のスーパーでは、共同経営者のマイク(アダム・スコット)に経営を任せ、日長デッサンをしています。そんな時、向えに娘アレックス(エリザベス・バンクス)と越してきた美しい老婦人メアリー(エレン・バースティン)から、食事に誘われます。何十年かぶりのデートに有頂天になるロバート。優しく温かいメアリーとの交流が、孤独なロバートを癒していきますが、そこには秘密がありました。

「私を忘れてしまった夫。もう一度あなたに恋をする」が、チラシのキャッチコピーです。なんの病気かは説明ありませんが、ロバートは認知症を患っている様子です。ロバートは忘れてしまっていますが、メアリーは長年連れ添った妻、マイクとアレックスは子供です。

独り暮らしのロバートは、ルーティーンワークのように毎日味気ない生活の繰り返し。メアリーには、長年大黒柱として家族を養い、立派に勤めを果たしてくれた夫の孤独を観る事に耐えられなかったのでしょう。全くの初対面を装い、ロバートの日常に入り込もうとするメアリー。「上手くいきっこないわ」と娘は母(そして父も)を心配しますが、メアリーはあきらめません。私だって夫の晩年がロバートのようだったら、同じ事をするでしょう。強固な意志の宿るメアリーの顔を観ていたら、胸がいっぱいになって、もう滂沱の涙の私。

デートは数十年ぶりだと思い込んでいるロバートは、メアリーの誘いに有頂天に。ここからは老いた二人の、再びの恋が始まります。その様子がまるでティーンエイジャーのようで、瑞々しく微笑ましいのです。女性が喜ぶトーク術を聞いて回るロバートの様子、一つの毛布で寄り添って膝かけにする時のドキドキ感、子供のようにはしゃぐソリ遊び、そして「ファーストキス」の時の光の演出など、とっても素敵。老人を描くとリアリティを出す為、ともすれば老醜に視点が置かれますが、24 歳だというニコラス・ファクラー監督の老人への敬愛に満ちた演出は、とても品が良く爽やかです。

「君とはずっと前からの付き合いのような気がする」「君といると呼吸しているようだ」。ロバートの正直な言葉に、泣き笑いのような笑みを浮かべるメアリー。どれだけ私は長年連れ添ったあなたの妻よ、と言いたかったでしょう。あぁ書きながら、また涙がでちゃうわ。どんなに記憶が薄れて行こうと、妻が誰かもわからなくなっても、その人を愛した記憶はずっと心に残るのでしょう。私はそう思いたい。

ただ気になったのは、何故ロバートを一人暮らしにさせているかと言う事。スーパーにそのまま勤めさせているのは、治療の一環だとわかります。でもロバートの状態は、一人で暮らさせるには危険も伴う状態です。薬も一日飲むのを忘れたくらいで、あんなに早く症状が進むのでしょうか?この辺は倒れた時に、医師の説明があればと思いました。この作品は、リアリティを感じさせながらも、多分にファンタジー色の強い作品です。事実がわかってからのロバートの混乱も、ショック状態になる前に、一瞬でも記憶が蘇り、彼の家族への笑顔が観たかったですけど、まぁこの辺はいいか。

と、過分に点数が甘くなるのは、ランドーとバースティンという、二人の老名優たちの心のこもった誠実な熱演が、私を感激させたからです。人生の喜びも悲しみも全て忘れてしまい、孤独を託つしか出来なくなった夫。花も嵐も手を携えて踏み越えて来たのに、その思い出も一人で噛みしめるしかなくなった妻。もう一度二人の歴史を作ろうとする姿には、親兄弟より子供より強固な、夫婦というものの縁の強さを感じます。

こんな地味な作品、観る人は高年齢ばかりだろうと思っていたら、若い人も結構いて、ちょっと感激しました。我が家も末っ子が高3になり、いよいよ夫婦だけの時間が来るのは目前です。ロバートとメアリーまで、後20年くらいでしょうか?この二人のような心境になれるよう、夫婦としての第二幕目を大切にしたいなと、しみじみ感じた作品でした。


2010年04月05日(月) 「しあわせの隠れ場所」




久しぶりに仕事休みと映画の日が重なった4/1に観てきました。なんばパークスは夕方の回一本だけになっていて、数年ぶりに梅田ピカデリーまで出向きました。観る前に想像していてた、「可哀想な少年に良き事を施す美談」というのは吹っ飛び、サンドラ・ブロック演じるパワフルなお節介母ちゃんに、共感と親近感を感じまくった二時間でした。本年度アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞作。名作でも傑作でもないけれど、心から愛せる、とても気持ちの良い作品です。

リー・アン・テューイー(サンドラ・ブロック)は、レストランを営む夫のショーン(ティム・マッグロウ)と娘コリンズ(リリー・コリンズ)息子のSJ(ジェイ・ヘッド)と四人家族で、裕福で円満に暮らしていました。ある日その日の寝場所にも困っている黒人少年マイケル(クリントン・アーロン)に出会い、一晩自宅に泊めます。礼儀正しいマイケルに好感を持ったリー・アンは、以降母親のような愛情でマイケルの面倒をみる様になります。

とにかくリー・アンが素敵すぎ。富裕層のお高く止まった御婦人では全然なく、下町の世話好きの肝っ玉母ちゃんが、たまたまお金持ちだった、と言う感じなので、全く嫌味がなく、その豪快な母性には惚れ惚れするほど。「一晩泊めるだけだろう?」と言いつつ、妻の様子でこれは深入りするなと感じるショーンは、学校からのマイルの連絡先を、自宅にします。それを知ったリー・アンは、「だから(夫が)好きよ」とにっこり。私はこのシーンが大好きです。このような善意溢れるお節介は、この妻には日常茶飯なのでしょう。苦笑しつつ、そんな妻を誇りに思う夫の気持ちが表れています。

難しい年頃の聡明な娘は、母の気持ちをくみ取り素直にマイケルを受け入れます。やんちゃな弟は、自分を守ってくれる兄貴が出来た!と大喜び。健やかに育った様子が、これまた観ていて気持ちがいいです。出来過ぎのようなストーリーですが、このお話は実話が元です。テューイー家は、キリスト教信者のようです。ここにこの美談が生まれるベースがあったように感じます。私が短大の時の英会話の講師の先生はカナダ人でした。彼もキリスト教徒で、日本人を養女に迎えていました。「私と妻は三人子供が欲しかったのだが、恵まれなかった。我が家には経済的にも精神的にも、子供三人を育てる余裕がある。だから養女を迎えた」というお話をして下った事がありました。マイケルとの出会いを、神の思し召しと感じたのかもですね。

欠点がないわけではありません。マイケルを引き受けるまでの二方の心模様の描き方が雑だし、登場した実兄の件も放り投げたまま。最初にマイケルの面倒を見ていた黒人の中年男性は、マイケルがテューイー家と出会ったからは全く出てきません。マイケルが育った貧困地域も描き方も、表面的です。この辺の白人と黒人の違いを奥深く対比させていたら、このお話は傑作になったと思います。

しかしながら、それを払拭させる力がリー・アンの造形にありました。恩人として感謝してはいたでしょうが、マイケルはショーンの事を「テューイーさん」と呼んでします。しかしリー・アンは「水臭いのね。リー・アンかママと呼びなさい」と言うのです。つい微笑んでしまう強引さが素敵です。そしてあちらこちらで、マイケルを「私の息子」と呼びます。それも「息子」が窮地に陥った時は必ずです。後見人になる時も、ヤク中で親権を剥奪されたマイケルの実母に会いに行きます。荒んだ実母でしたが、リー・アンは同じ母親同士、決して責めず実母の心に添い話を聞く事で、彼女のマイケルへの愛情を引き出します。

この繊細で愛深い行動には、本当に感激しました。これでマイケルも実母も現実はどうあれ、魂は救われるのです。リー・アンは自分が出来る事出来ない事が、きちんとわかっている人で、決して猪突猛進の人ではありませんでした。昨今ネグレクトが増えていますが、子育ての先輩として、決してそういう母親たちを裁くだけの先輩にはなってはいけないと、つくづく感じました。

そのリー・アンの造形に息吹を吹き込んだのがサンドラです。彼女のセルフイメージがリー・アンに重なり、同性として母として、心からエールを送りたくなる女性を見せてく、オスカー受賞も納得の演技でした。これほど「おめでとう!!」と大声をかけたくなるオスカー受賞者も、他にはいないと思います。

エンディングでは本物のテューイー家とマイケルが登場します。サンドラは今回似合わないブロンドで謎だったのですが、本物のリー・アンがブロンドでした。どのフォトショットも、映画の内容そのままのパワフルな愛に満ちたものでした。もう上映終了の地域も多いでしょうが、DVD化の折にでも、是非ご覧ください。幸せな気分になれること、請け合いです。


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