ケイケイの映画日記
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2010年03月31日(水) 「NINE」




えーと。公開して10日くらいなんですが、もう感想出尽くしちゃった感のある作品。ロブ・マーシャルは、「シカゴ」もミュージカル好きさんには散々非難轟々だったけど、私はそれほどミュージカルがわからないので、楽しめた口です。なので今回もそれなりに楽しんできました。「シカゴ」の方が良かったけどね。

イタリアの名匠グイド(ダニエル・デイ・ルイス)は、スランプに陥り映画が撮れません。そんな彼を、妻(マリオン・コティヤール)、愛人(ペネロペ・クルス)、母(ソフィア・ローレン)、仕事のパートナー(ジュディ・デンチ)、雑誌記者(ケイト・ハドソン)、娼婦(ファーギー)、グイドのミューズ(ニコール・キッドマン)が取り巻きます。

フェリーニの「81/2」をミュージカル仕立てにした作品。元作と比べると全然ダメダメと言う声が多いので、BSで録画したものは、あえて再見せずに臨みました。中学生くらいの頃テレビで観ました。大昔はレンタルもなく、名作がテレビ放映される時は、当時の私みたいな映画小娘は、万難を排してテレビに向かったもんですが、これがさっぱり覚えておりません。多分面白くなかったんだわ。こう言う事はティーンエイジャーの頃は多発しておりまして、「ベニスに死す」も淀川センセイが大絶賛されていたので、期待満々観たのですが、これもさっぱり。しかし10年くらい前に再見した時は、その美意識の高さに大感動したんですから、年を食うと良い事もあるものです。

そのせいか豪華キャストが奏でる歌と踊り、充分に楽しめました。女優さんたちの衣装は、ご高齢のお二方以外は基本露出しまくりで、皆さんとてもセクシーです。特にペネロペ。コルセット風の衣装に身を包んで歌い踊りますが、これがもう、女の私でもドキドキするほど、ダイナマイトなお色気です。裸見せるよりず〜と色っぽい。現在ノリにノッテる彼女、もっと観たかったです。

取りあえずみんな自分で歌っているのも好ましいです。ファーギーは本職歌手なんで、やっぱり声量があって上手いのはもちろんですが、意外と上手かったのが、「シネマ・イタリアーノ」を歌ったケイト・ハドソン。踊れるなんて知らんかった。この曲に一番ノレました。歌も歌ったけど、演技で魅せてくれたのは、マリオン・コティヤール。豊満系の美女軍団に圧倒されることなく、清楚で芯の強い妻の気丈さと意地を、とてもよく表現出来ていました。改めてお芝居上手いなぁと感心しました。オスカー取るとダメになって行く人の方が多いですが、彼女はこれからもっともっと大成すると思います。

主役のルイスなんですが、今回いつもの濃〜い彼からは意外なほど軽妙で、豪華女優陣に押され気味だったのが、返って良かったです。私は「存在の耐えられない軽さ」の彼が大好きで、それ以降この作品の彼を越えるルイスをまだ観ていません。でもこのグイドは結構肉薄していました。思えば「存在の〜」のトマシュは硬骨漢の色男、こちらグイドは軟弱なアーティスト系の色男と、結局私は色男のルイスが好きなのねと、やっと納得しました。

まっ、内容はあってないようなもんです。映画監督の映画が作れない苦悩があんまり伝わってこなかったのは痛恨ですが、豪華絢爛、目と耳の保養には充分なる作品でした。明日は映画の日で、どなたでも千円。千円なら文句はあんまり出ないと思うな。どうぞお気楽に観て下さい。


2010年03月26日(金) 「マイレージ、マイライフ」




「サンキュー・スモーキング」「JUNO」のジェイソン・ライトマン監督作品。今年のアカデミー賞、作品・監督・主演男優・助演女優ノミネート作品。個人的に「JUNO」は好きになれませんでしたが、作品の完成度には文句ありません。若干32歳の若きこの監督、近い将来必ず21世紀のアメリカ映画の名匠となる人です。この作品で三作目ですが、本当に全部劇場で観てきて良かった!

年間322日は出張のライアン(ジョージ・クルーニー)。全米を飛行機で駆け回っています。仕事は大手企業から委託されたリストラ請負人。「バックパックに入らない人生の荷物は、一切背負わない」をモットーに、面倒な人間関係には、一切関わらない主義。毎日のように使う飛行機のマイレージを1000万マイル貯めるのが目標。自分なりに順風満帆の彼の人生でしたが、出張中出会った同じ価値観のキャリアウーマンのアレックス(ヴェラ・ファーミガ)、新入社員のナタリー(アナ・ケンドリックス)の二人の女性との出会いが、彼の人生を方向転換させることになります。

冷徹なリストラ稼業に励むライアンが、非情な人間かと言えば、さにあらず。宣告相手の気持ちを尊重し、出来るだけ心をほぐして同意してもらおうと、敬意を払っています。しかしそこへ登場するのが、新人のナタリー。リストラ宣告をネットでしちゃおうという大胆なアイディアを会社に提出し、採用されます。これで人件費も交通費も大幅に浮いて来ます。経費節減したい会社ですが、ライアンは大反対。自分のクビも危うくなるし、第一命の次に大事なマイルが貯められなくなります。

私だってネットでリストラ宣告だなんて、ふざけた話だと思います。この小娘は大人の人生を何だと思ってんだ!と憤慨しておりましたら、案の定ナタリーは、ライアンと同行してリストラ宣告されて、嘆き悲しみ、当たり散らす人々を目の当たりにし、心底狼狽してしまいます。この辺は世間知らずの若いナタリーの純粋さを、素直に表現出来ていました。

同じ出張族でキャラリウーマンのアレックスに、同族意識と親近感を覚えるライアン。いつもは女性とは都合よく一夜限りの付き合いなのに、彼女とは日を合わせて何度も会います。そこには会社の転換で些か動揺していたのと、妹の結婚で、普段は疎遠にしていた姉妹と会う事で、里心めいたものが起こったはず。人生とは何事もタイミングです。

彼氏といっしょに居たいがために、今の会社に入ったナタリーなのに、彼氏はナタリーにメールで別れを告げます。まるで彼女がした事のしっぺ返しみたい。大泣きに泣くナタリーが、自分の理想の人を語るのですが、どんな人柄なのかは全くなく、出てくるのは条件のみ。若いなぁ。私のように苦笑するアレックスですが、彼女の語る理想の人は、いやに現実感や生活感を感じさせて、私には違和感がありました。彼女のようなキャリアの女性には、似つかわしくなかったからです。

前夜を共にした朝もそう。「I like you」とアレックスに笑顔を向けるライアンに対し、「I like you too」と返すアレックスの言葉は、意味が違うように、私には感じられました。その謎は、終盤に解けました。

バックパックに入らない物と、少しずつ関わって行くうち、充足される自分の心に気付く彼。UP IN THE AIR(原題・不安定)な地に足がつかない生活から、ライアンは抜けだそうとするのですが、これが意外な展開なのです。でも私にはものすごく納得出来るものでした。

これでトントン拍子にハッピーになられちゃ、連れ合いの実家に自分の実家、その他の親戚づきあいに近所づきあい、PTAに職場の人間関係にエトセトラ・エトセトラ。そんなわずらわしい面倒臭い人間関係を、受け入れて納得して関わってきた、私を含めた多くの人は立つ瀬がないでしょ?ライアンの場合は、自分の生き方を反省したのではなく、ちょっと寂しくなって心境が変化しただけ。このくらいでハッピーになれるほど、世の中甘くはないわけです。

映画はしかし、この後の描き方が秀逸です。ライアンの仕事や生活は何も変わらないのに、一皮むけたライアンの、複雑な心境が手に取るようにわかるのです。例えば飛行機の中で機長に、「あなたのお住まいは?」と聞かれたライアンは、「ここだ」と応えます。以前なら胸を張って答えたはずの言葉が、今では虚しいライアンの心を象徴する言葉になっていました。

冒頭リストラに「ローンはどうするんだ?子供の教育費は?」「妻に何ていえばいいんだ?」と、怒り狂い落胆していた人々がラスト再び出てきます。そしてどん底の苦しみから彼らを救ったのは、家族だったと口々に語ります。それはライアンと観客に向けた、今後のライアンの生き方のヒントなのでしょう。

クルーニー、ファーミガ、ケンドリックスは全てオスカーノミニーです。クルーニーは、セルフイメージを少々変化球っぽくした役柄がとてもマッチ。立派な大人なんだけど、どこかしら子供っぽさが抜けない彼の特性も生かせています。ケンドリックスは、嫌味に観えがちなナタリーを、実は純情で可愛い子なんだと、しっかり観客に感じさせる好演でした。

私が一番感心したのが、ヴェラ・ファーミガ。アレックスを演じて絶品でした。大胆で美しくて包容力があって。狡猾なのですが、決して食えない女ではありません。理想の人を語る中に、彼女の全てがあったのだと思いました。リストラされた人々やライアン同様、会社に翻弄されるまいとして、アレックスは自分で自分を作り上げたのでしょう。ライアンに電話を入れる姿は、私は彼女なりの誠意だと思いました。空港ではなく、ライアンが自宅に帰る電車の中で受けたというのが、そのことを表していると思います。

曖昧な着地ですが、ライアンがナタリーに向けた餞、マイレージの使い方を見ると、ちょっと嬉しい気がします。以前とは違う、厳しい表情で空港を見上げるライアンとは反対に、私には彼が地に足着いた、着実な人生を歩み始める一歩のような気がしました。





2010年03月22日(月) 「プリンセスと魔法のキス」(字幕版)




お友達のvertigoさんが一大キャンペーン中の作品。気にはなっていたので、それでは!と観てきました。1920年代のニューオーリンズを舞台に、有名な「かえるの王子」をモチーフにしながら、伝統と新しさを上手くミックスして、大人から子供まで楽しめる、堂々のミュージカルアニメ。監督はジョン・マスカーとロン・クレメンツ。

貧しい黒人家庭に育ち、亡くなった父の夢を受け継ぎ、レストランを開くのが夢のティアナ。朝から晩まで夢の実現のため、働きづめです。ある日幼馴染で裕福な白人のシャーロットから、彼女の家でマルドニア王国のナヴィーン王子を招いて仮面舞踏会を開くので、ティアナ御自慢のベニエをたくさん作って欲しいと頼まれます。このお金でレストランが開けると張り切る彼女でしたが、あることから失意のどん底に。そこへ自分はナヴィーン王子だと名乗るカエルが一匹。彼は世界制覇を企むドクター・ファシリエの魔法によって、カエルに変身させられていました。プリンセスの格好をしたティアナを、本物だと勘違いした王子は、彼女にキスをせがみます。しかし魔法が解けるはずが、何とティアナまでカエルの姿に!二人は人間の姿に戻してくれる魔法使いママ・オーディーの元へ、旅に出ます。

懐かしい2Dアニメです。冒頭の風景や挿入されるジャズをベースにした歌が、一気に当時のニューオーリンズに連れて行ってくれ、ご機嫌な気分に。

冒頭幼い頃のティアナとシャーロットが映されます。貧富の差こそあれ、仲良く遊ぶ二人。しかし屈託なく王子様との結婚を憧れるシャーロットに対し、子供心にも懐疑的に思うティアナとの対比は、当時の白人と黒人の経済的な差を表わしていたと思います。

場面は鮮やかに変わって、夢の実現のため、働いて働いて働きづめのティアナが映されます。睡眠も削って恋もせぬ彼女を、ママは心配します。ここで私が注目したのは、ティアナが親しく付き合っている友人たちは皆黒人でしたが、白人のシャーロットの存在です。友情はまだ続いているようで、陽気でキュートな我がまま娘に育ったシャーロットですが、貧しいティアナにも常に対等。ティアナへ仕事としてベニエを頼む際も、金に糸目はつけませんが、きちんとした労働に対して、賃金を払うという姿勢で、憐みも蔑みもありません。それどころか、友達でしょ?頼むわよ〜という、ティアナに対する素直な甘えさえ感じます。この自然な描き方は、大昔の黒人と白人を描いて要る点を考慮すれば、画期的です。

二人がカエルになって以降の珍道中は、いつもながらの手慣れたディズニー調で、お子さんたち共々、安定して楽しめます。人間とセッションしたいのに、化け物扱いされて傷ついているトランペット吹きのワニのルイス、不器用だけど誠実で勇気あるホタルのレイも協力してくれます。王子は実は放蕩の限りを尽くし、王様からは勘当された身なのです。あきれるティアナですが、彼女もまた夢の実現のため、ワーカホリックである自分に気がつきません。ちょっと思ったんですが、この王様立派ですよね。実の息子なれど国民を守れる器じゃないので、王位は継がせないというこの気概は素晴らしい。どこぞの国の議員さんたちに聞かせたいわ。

アリとキリギリスのような二人が、破れ鍋に綴じ蓋風に、お互いに刺激し合って歩み寄って行く姿が微笑ましいです。一時の刹那的な快楽でしか自分を慰められなかった王子は、夢を語る時の生き生きしたティアナに憧れ、ティアナは根性無しの王子を教育的指導しているうちに、パートナーと共に歩む充実感を実感し始めます。特にティアナは、「パパは店を持つよりもっと大切な物を持っていたわ」という、ママの言葉には耳を貸しませんでしたが、パパの夢は愛しい家族のためだったのだ、店を開くだけが目的ではなかったんだと自ら悟る場面は、あざとさもなくとても感動的です。

紆余曲折を経て、どうなるか?ディズニーなのでハッピーエンドは間違いなしですが、そこへ行くまで主要キャラの哀しい死が待っています。しかしその昇華の仕方が素晴らしく、私は泣いてしまいました。黒人少女が主人公で有る点と共に、子供たちに現実を目の当たりにさせながらに、現実と共存しながらの夢も希望も忘れさせません。

現実と言えば、シャーロット。頑張る善良な黒人を描くと、白人のお金持ちキャラはとかく意地悪に描かれますが、シャーロットは常にティアナの良き友人です。大昔アーサー・ヘイリーの「ルーツ」がドラマ化された折、同じ様なシチュエーションの場面がありました。農場主の白人の娘と、主人公で奴隷のクンタ・キンテの娘キジー。幼い頃から共に育った二人は、大の仲良し。しかしキジーが同じ奴隷の黒人と愛し合い、逃げようとすると、白人の娘は密告するのです。奴隷たちから「あんないいご主人様はいない」と慕われていた農場主は、娘に「お前はそれで良かったのか?」と問います。娘は「当たり前よ。くろんぼうのくせに、私に逆らうからよ」。人格者ですが、規律は守る父親の落胆した顔を、私は今でも覚えています。キジーはペットで有っても、友人ではなかったのです。

このドラマから30年。当時は黒人の出演する映画は、黒人たちだけが観るため作られたものばかり。今では学校や会社で、当たり前のように黒人の同僚が描かれています。ティアナとシャーロットの自然体の友情は、「ルーツ」を覚えている私には、アメリカの現実は進歩しているんだと、とても感慨深いものでした。

リアリティを求めぬ2Dアニメの特性を生かして、動物たちと歌い踊るシーンや、魔法の場面も楽しいです。特にママ・オーディの魔法は、確かにプードゥー教なんですが、実写するとオドロオドロシイものが、とてもユーモラスで気に入りました。字幕版はティアナ役のアニカ・ノニ・ローズなど、実力派の歌声も本格的で、ミュージカル作品としても秀逸です。ちなみに友人が三歳の孫娘といっしょに吹替え版を観たそうですが、大変喜んでいたそう。春休み、お子さんたちと是非いっしょに楽しんで下さい。


2010年03月21日(日) 「噂のモーガン夫妻」




ラブコメキングのヒュー・グラントと、「SATC」のキャリー役で、一躍全米イチのファッション・リーダーに躍り出た、サラ・ジェシカ・パーカー共演のロマンチック・コメディ。緩くてまったりしているけど、すれ違う夫婦の気持ちにリアリティがあって、既婚者が観ると、味わい深いもんがある作品です。監督はマーク・ローレンス。

ニューヨークに住むポール(ヒュー・グラント)とメリル(サラ・ジェシカ・パーカー)夫妻。夫は敏腕弁護士で妻は大きな物件ばかり扱う不動産会社社長のセレブ夫妻ですが、ポールの浮気で現在別居三か月。寄りを戻したいポールは、何とかメリルと話し合う場を設けたのですが、何とその後殺人事件に遭遇。二人は犯人を目撃します。警察により「証人保護プログラム」が適用され、二人はワイオミングのレイという片田舎へ送られてしまいます。彼らを自宅で保護し世話をしてくれるのは、保安官のクレイ(サム・エリオット)とエマ(メアリー・スティーンバージェン)の熟年夫妻。二人の温かい人柄と、大らかな土地柄に影響された二人に、次第に心の変化が生じてきます。

まったりしているんですが、テンポはなかなかよろしいです。二人がセレブカップルだというのもちゃんと筋に絡んでいるし、小ネタの笑いが随所でヒットし、始終笑えます。大都会NY式の洗練された「良識」を持ちこむメリルが、超ド田舎ワイオミングの泥臭い習慣に一蹴されるシーンなんか、とっても愉快。民主党支持者は、ワイオミングじゃ住めないみたいよ。

熊に襲われたりのドタバタコメディ風味も出しながら、しかしお話は夫婦の危機の確信へと進みます。とある事で焦燥感に駆られたメリルと、それにげんなりしてしまい浮気してしまったポール。これは両方に同情出来ます。どういう家庭を持ちたいか?という、夫婦のアイデンティティにも関わる問題ですもん。傷ついた自分の自尊心を守りたいため、お互いちゃんと話し合いも喧嘩もしなかったんだね。クレイ宅で夜中に白熱の大夫婦喧嘩する二人に、「殺人鬼を預かった時の方がましだった」と、ため息交じりに寝床で言うクレイに大爆笑。このテイストでオトすユーモアも、全部ヒット。脚本と演出が上手く噛み合っています。

NYの喧騒と多忙さから解放された二人は、次第にのんびり大らかなレイの土地柄に馴染んで行きます。この辺はありきたりな都会人の変貌ですが、レイの人々がキャラ立ちの良いチャーミングな人ばっかりなので、こちらも納得。町の数少ない娯楽場のビンゴ会場でビンゴしたくらいで、抱きあって喜ぶ二人。自分達の収入から思えば微々たるもんのはず。都会では味わえない、人としての原理的な喜びを得るに従って、二人は次第に歩み寄って行きます。

このまま大丈夫そうだと思わせといて、この後また二転三転。メリルにも秘密があって、そのことで今度は立場が逆転。この時の夫婦の反応が、男らしい妻と女々しい夫なのが、妙に生々しくて感慨深かったです。でもラストは予想通りのハッピーエンド。特に最後は顔が自然にほころんでしまうようなオチで、とても後味が良く幸せな気分になりました。

ヒュー様はセレブな職業に英国紳士らしい皮肉屋、しかし女性が好きで優しくてと、いつもながらの彼に、都会じゃ辣腕でも田舎じゃ全く使えない男ぶりが笑わせます。ひ弱さまでがチャーミングに見えるのはさすがヒュー様ですが、私が超気になったのは、容姿の劣化ぶり。ハッキリ言ってすごく老けてました。心配だわ。彼には一生ラブコメキングでいて欲しいのですが、生き残る為には、ちょっと方向転換を視野に入れてもいいかも。

サラも良かったです。マシュー・ブロデリクと結婚した時は、小粒なカップルで良い意味でお似合いだと思いましたが、ホップステップで瞬く間に夫を追い越したサラ。今じゃエスコートされても人の良さだけが取り柄のような夫、夫婦生活を維持しているだけで、彼女の株が上がろうというものです。日本では受けにくい顔立ちですが、演技などトータルバランスを加味すると、40代では一番輝かしいコメディエンヌだと思います。

この二人を引きたてつつ、自分達も存在感マックスと言うベテランバイプレーヤぶりを見せた、エリオットをスティンバージェンもお見事でした。特にスティーンバージェンは、私が大好きな女優さんで、どんな役柄にも女性としての豊かさを吹き込む人です。出演シーンもたっぷりあって、個人的にはそれが一番嬉しかったです。薪割りシーン、上手でした。「フレンズ」(大昔のフランス映画の方)のアニセー・アルビナが薪を割るシーンを思い出しちゃった。

くらたまが、「夫にこんなもんプレゼントされたら、私はキレます!」と、チラシに書いてましたが、私はキレないけど、氷の彫刻も自分の名前のついた星も、確かにヤダな。エマが嬉しかったという牛は、もっといや。
亡くなった母は、父の浮気が発覚する度、宝石を買わせていましが、「事情があって鑑定書がつけられませんが、その分お買い得ですよ・・・」と囁かれ、復讐込みで喜んでころこんで大きなダイヤを買っていましたが、ある時鑑定に出してみたら、全部二級品以下だったというおまけ付き。私の夫は婚約の時以来、宝石を買ってくれた事はないけれど、その代わり浮気もしたことがありません。その方が幸せってもんです。でも宝石買うお金がないから、浮気しないのかしら?


2010年03月19日(金) 「フィリップ、君を愛してる!」



思わず腐女子デビューしたくなった作品。もう本当に危ないわ。芸達者はこれだからもう〜。一途なんだけど、こんなふざけたお話しが実話だとは、あな恐ろしや。笑って、ときめいて、しんみりして。あっ!と驚き、またニヤニヤしてと、とっても楽しい作品です。監督はグレン・フィカーラ。

妻子とともに平凡に幸せに暮らしていたスティーブン(ジム・キャリー)。警官を辞した後の事業も成功、何の不満もない生活に観えたのですが、実は彼は隠れゲイ。妻子に内緒でゲイライフを楽しんでいたのですが、運悪く交通事故で急死に一生を得ます。それを機会に、嘘の暮らしは辞めようと思ったスティーブンは、妻子にゲイ宣言し、美男子のジミー(ロドリゴ・サントロ)という恋人も得ます。しかし理想のゲイライフには、潤沢なお金が必要で、スティーブンはIQ169の頭脳を生かし、詐欺を働いてお金を得ていました。しかし年貢の納め時が来て、彼は御用に。しかし留置所生活で彼を待っていたのは、運命の人フィリップ(ユアン・マクレガー)でした。以降、スティーブンの人生は、フィリップに捧げるものとなるのです。

とにかく主役二人がとってもいいです。ジム・キャリーは、「暑苦しいよ」の一歩手前の怪演で、とっても楽しんでやっているのが観ていてわかります。チラシに、プロデューサーとして出資しても出たい作品として、「トゥルーマン・ショー」、「エターナル・サンシャイン」と並んで、この作品も入っていますが、どれもこれも私が大好きなキャリーの作品なので、まんざらリップサービスではないと思います。張り切ってヌードも満載です。

そしてユアン・マクレガー!可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い!ワタクシ萌えまくりました。お人好しで純粋で正直で。男子たるもの、絶対守ってあげなくては!(あれ???)。スティーブンを追いかけ、内股で一生懸命、それも自分の大嫌いな運動場を走り抜け、「愛してるよ!」と絶叫するんですよ。フィリップは近頃の女性が失った美しき心映えを、とにかくいっぱい持っている訳です。それをあなた、誰が演じるかってユアン・マクレガーですよ、「トレスポ」ですよ、オビ=ワン・ケノービですよ、40前のおっさんですよ?心底感心&驚愕しました。この作品、出資はフランスでフランス映画なんですが、それだってオスカーにノミネート出来たと思うんですよ。やっぱオスカー会員はゲイに偏見あるんでしょうか?心優しきオム・ファタール(運命の男)ぶりに、すっかり魅了されてしまいました。

スティーブンがゲイである自分を偽って、警官までして模範的な人生を送ってきた裏には、実の母親に捨てられたことが起因しているのだと思います。自分が養子だとわかった日から、誰よりもいい子になろうと頑張ってきたのに、探し当てた実母からは冷たくあしらわれ、家の中では血を分けた兄弟のバースデーパーティーです。自分だけが蚊帳の外。ライトに笑わせていますが、スティーブンの胸中の無念さ切なさは、いかばかりであったろうと思うのです。心はいつもいつも、幸せな家庭を切望していたと思います。

だからゲイを隠して結婚。元妻も良い人で、別れてからも良好な関係を結べたのは、元妻の寛大さと、妻子が自分の「家庭」であるという気持ちが、スティーブンにあったからでしょう。

あぁでもね、その感謝の気持ちを表現するのが、スティーブンの場合、お金なんだよなぁ。素敵なゲイライフを送るには、お金がしこたま必要と思っているのはスティーブンだけで、前彼のジミー(ロドリゴ・サントロ@少し美貌が衰えたけど、彼も好演)もフィリップも、そのままのスティーブンが傍にいてくれることを望んでいました。お金がなきゃ、愛する人を守れないと思い込んでいるのは、スティーブンだけなのです。例えそれが詐欺で得たお金であっても。「僕に何か隠していること、ない?」と、疑心暗鬼の愛するフィリップにも嘘をつくスティーブン。

これも母親に捨てられた、愛されなかったという自縛が、彼の心から終生離れなかったからでしょう。自信のなさはお金に換えて、お金と詐欺が、スティーブンの愛情表現だったのですね。本当に罪作りな親ですよ。あの手この手の詐欺の手口は一種爽快です。こんなに頭いいんなら、別で使えば真っ当にでもお金持ちになれるのに、とも思われるでしょうが、だから別モンなんですよ。詐欺を成功させる事が、スティーブンの自信回復なんだなと感じました。

「本当の君が知りたいんだ。僕には嘘をつかないでくれ」というフィリップ。でも本当の自分なんて、スティーブンにもわからない。真実なのは、フィリップを心から愛しているということだけです。それでいいんだと思う。愛は求め合い奪い合うものですが、私は一番大事だと思うのは、何があっても相手を丸ごと受け入れることだと思っています。だから「私を愛しているなら、××は止めて!」は、ちょっと違うんだよなぁとは、私もこの年になってようやくわかることです。

しかし別に爽やかでも大してイケメンでも渋くもない50前(キャリー)と40前のオッサン二人の純愛に、私は何度切なくて涙ぐんだことか。もうね、病院での二人の電話の会話なんてね、私は号泣しましたよ。しかしその後、目が点になる展開に。すっかり私も騙されちゃった。でも痛快だったです。

脱獄と詐欺を繰り返した本物のスティーブンは、現在禁固167年。殺人などない軽犯罪では、異例の重さの量刑です。23時間は監視付きの生活ですが、また脱獄してくれないかしら?と、不謹慎なこと考えているのは、私だけではありますまいて。


2010年03月17日(水) 「渇き」

パク・チャヌクの描く吸血鬼映画。毎度毎度「血」を描くことには心血注ぐパク監督、テーマがツゥー・マッチじゃございませんか。今回ヌードも見せるということで、10キロ減量したガンちゃんが男前だと評判ですが、現在の韓国映画界をしょって立つ大物ソン・ガンホに一歩も引けをとらない、つーか若干食っちゃってる感もある、新星キム・オクビンが素晴らしい!色々ごった煮で、楽しめる作品でした。

病院で重篤な患者たちを看取ることしかできない自分に無力を感じる神父サンヒョン(ソン・ガンホ)。彼は死を覚悟しながら、秘密に研究されている病の実験台になることにします。ほどなく彼も感染し死亡。するはずだったのですが、輸血で蘇ります。しかしその輸血の血の中に吸血鬼の血が混じっており、あろうことかサンヒョンは感染し、吸血鬼になってしまいます。町では奇跡の神父として崇められていたサンヒョンですが、幼馴染のガンウ(シン・ハギュン)とその母(キム・ヘスク)に頼まれ、ガンウの病室に出向くと、そこにはガンウの妻でやはり幼馴染のテジュ(キム・オクビン)がいました。

ガンちゃんは吸血鬼となっても聖職者として己を律し、殺人は犯しません。まぁ間違った血の入手方法ですが。それがテジュと不倫関係になってから、一気にタガが外れたように、背徳一直線になってしまいます。

幼い時に家族から置き去りにされ、ガンウの母に育てられたテジュ。私はもっとなぶり者にされて育ったのかと想像していたんですが、「犬のように育てられた」というのは、忠犬のように忠実に誠実に私たちには接するんだよ、ということでしょう。大しててひどい仕打ちをされているようには見えません。

テジュが日々鬱屈した感情を持て余し、行き所のないエネルギーが充満している描写の数々が上手い。のちのち出てくる彼女の性悪な気質も見え隠れさせています。そりゃこの娘に病弱で薄らバカの夫を宛がうなんて、無理だわなぁ。

二人が魅かれあうのは、二人とも親から捨てられたと言う共通項があったからかと思いました。サンヒョンは施設で育ち、神を親と思い暮らしていたでしょうが、今はこのザマ。テジュはもっと根深くその辛さを感じていたでしょう。韓国人は特に血に拘る民族で、親兄弟の顔も知らない育ち方の辛さは、日本の人の想像以上だと思います。「お腹いっぱいは食べさせてくれた」と言いながら、「私の誕生日は祝ってもらったことはない」と、義母を恨むテジュ。「私にはお前しかいない・・・」と言いながら、サンヒョンがテジュに施したことなどは、孤独からの恐れだと思うのです。

欲望に駆られる聖職者も出てくるし、一見罪を犯した聖職者の葛藤を描いているように感じますが、根本には親のいない者同士の連帯感があるんじゃないかと感じました。「私はキリスト教信者ではないわ」と嘯くテジュと、もはや神から見放されたサンヒョン。いつまでもウジウジしたサンヒョンと、輝くばかりに生き生きと変貌していくテジュの対照的な姿は、深読みすると、いくらキリスト教が布教しても、儒教的精神からは絶対に脱却出来ないんですよ、と言いいたのかも。義母の扱いにもそれが現れていました。

今回確かにガンちゃんは美青年で素敵でした。しかし点滴の管から血をチューチュー吸ったり、恋しいテジュの誘惑にタジタジなったりと、彼ならではの間の取り方とユーモアで、やっぱりガンちゃんはガンちゃんだと確認出来て、嬉しかったりします。

キム・オクビンは今回初めて観ましたが、いや素晴らしい!ヌードあり流血シーンあり特殊メイクありで、汚れ役と言ってもいいくらいなんですが、どのシーンもとてもチャーミングです。生気のない初登場シーンから、段々と魔性の女として変貌していく姿は、如何に今までの人生が抑圧されていたかと感じさせ、悪女っぷりにも応援したくなります。ただの性悪女では無いと表現した、ラストも良かったです。世界で二人っきりなんだよねぇ。

他はシン・ハギュンがすごーく良かったです。頭の弱い夫ですが、テジュを純朴に信頼しきっているのがよくわかります。彼が素直で可愛い亭主だったので、より二人の背徳感や罪悪感が身近に感じられました。義母役のヘスクは、ちょっと白石加代子に似てて、中々の怪演で楽しかったです。

出血大サービスの流血シーンは元より、バイオレンス、官能、ヴァンパイアの特性など、これでもかと過剰気味に描いています。でもチャヌクも段々手法が洗練されてきたというか、嫌悪感を抱かせず、上手くユーモアで緩ませていましたので、観易くなっています。でも気の弱い人は、やっぱり辞めた方が賢明かも?韓国映画らしい作品です。


2010年03月14日(日) 「シャーロック・ホームズ」




うん、まあ面白かったです。何か偉そうな書き方ですんません。面白いんだけど、予想と大幅に違ってたもんでね、戸惑いがあるわけですよ。世界で一番有名な探偵シャーロック・ホームズとその相棒ワトソン君ですが、私は小学生の頃、少年少女版で読んだだけで、ちゃんとした原作は未読です。なので頭脳明晰で落ち着いたホームズ、少々間が抜けているけど、お茶目で憎めないワトソン君というイメージが、ずっと長年インプットされていたわけです。そしたら今回大アクション活劇にして、ホームズとワトソン君の役回り逆だったのです。しかし、原作はこちらが本来の姿なんですって。あぁ、知らなんだ!監督はガイ・リッチー@マドンナの元夫。

19世紀末のロンドン。若い女性が殺害される事件が頻繁に起こり、スコットランドヤードの要請により、ホームズ(ロバート・ダウニー・jr)と相棒ワトソン(ジュード・ロウ)の手によって、ブラックウッド卿(マーク・ストロング)が逮捕されます。しかし黒魔術を操るブラックウッド卿は、処刑されたはずなのに蘇り、世界を支配しようと暗躍します。それに対抗するホームズとワトソンの活躍が始ります。

冒頭悪漢相手に大立ち回りするホームズに、まず「へっ?」と思う私。高速で対抗手段に思考を巡らせ実践する姿なんかは、頭脳明晰というより、ほとんど格闘オタクの世界。と思ったら、本当に格闘オタク的場面も出てきました。まぁ違和感あったけど、ロバートが演じてるんで不問にしようっと。(←オイ!)。

ワトソンは愛しいメアリー(ケリー・ライリー)と婚約中。やくざな探偵稼業からは足を洗いたい模様。だって医師という立派な仕事があるんですから、落ち着きたいですよね。うんうん、いい心がけだわ。しかし今まで名コンビで数々の難事件を解決してきたワトソンに未練タラタラのホームズは、あろうことか、メアリーに嫉妬しわざと怒らせたりします。お前、小学生か?なんですが、ずっと楽しくつるんでいたのに、邪魔もんが入って!と言う感じなんでしょうね。某所では、ホームズとワトソンを同性愛的に描いてけしからん!と言われているそうですが、全然そんな隠微な雰囲気はないです。男性の子供っぽさは表してはいますが。

推理物的に観ると、なんてことはない内容です。面白味の薄さは、危機また危機のアクション場面で補う感じです。アクションは新鮮味はないけど、まずまず良かったかな?敵役のストロングなんですが、「ワールド・オブ・ライズ」に続き、またまたアンディ・ガルシアと見間違ってしまいました。私の中では、ガルシアのバッタもん的イメージが濃厚になってしまい、神秘性が激減。もうちょっと大物で、いかがわしい雰囲気の人が良かったです。役を膨らませて、ノートン先生なんてダメですか?ホームズの探偵としての優れた洞察力観察力は何度も披露されますが、あんまり頭が良くは感じません。謎解きや推理の仕方にも、古畑任三郎や明智小五郎が匂うのだわ。しかし一番感じる印象はアクションヒーローです。

見応えがあるんだかないんだかわからないまま、それでもそこそこ面白いと感じながら観たのは、ひとえにロバートの魅力でしょう。颯爽とした探偵の時の様子とは一転、私生活はだらしなくて無頓着。しかし憎からぬ思っているアイリーン(レイチェル・マクアダムス)への不器用な接し方や、いつまでも子供っぽさの抜けないやんちゃでお茶目な姿は、大人の男の花と可愛さがいっぱい。なので、やるときゃやるんだぜ!的姿やワトソンへの厚い友情を見せる姿が、一層引き立ちます。これが他の人が演じたら、違和感バリバリが残ったであろう今回のホームズ像ですが、大いに楽しめました。

対するワトソン君のジュードですが、こちらも花丸あげて良い出来です。真面目で知的な雰囲気を漂わせながら、探偵稼業の抗し難い魅力と、婚約者アイリーンとの狭間で「適当」に悩む姿も、ジュードが演じると麗しいです。暴走するホームズを諌めたりサポートするのも彼の役目で、力関係のある相棒ではなく、対等の間柄に描いたのも良かったです。俺がいなきゃこいつはと言う、男女とはまた別の、男同士の友情も上手く描けています。

花のある役者同士(ロバート&ジュード)が噛み合って、上手く相乗効果が上がったのが、勝因かと思います。19世紀末のロンドンの様子も素敵なんですが、ところどころ、あ〜CGだね、と感じてしまい、イマイチ乗れなかったのが残念。ホームズものとして観ると?がつく出来ですが、スター俳優映画と思って観れば、全然問題なし。続編もあるみたいです。もちろん私は観るつもり。


2010年03月12日(金) 「シャネル&ストラヴィンスキー」




直前に観た私のテリトリーだった「フローズン・リバー」とうって変って、こちら完全な門外漢作品。ファッションについてあまりわからないし、クラシック音楽に関しても、学校で習ったレベルなもんで、本来ならパスの作品なんですが、私のマッツ・ミケルセンが主演なので観てきました。マッツは元より、シャネル役のアナ・ムグラリスがとても素敵で、結構楽しめました。普通に描くと通俗的になる三角関係を、ランクアップして見せたと言う感じでしょうか?私的にはそういう感想です。監督はヤン・クーネン。

1913年のパリ。シャンゼリゼ劇場で上演されたストランヴィンスキー(ミケルセン)が作曲を担当した「春の祭典」は、その斬新さ故、観客には受け入れられず、野次と嘲笑で劇場は騒然となります。一人ココ・シャネル(ムグラリス)だけが、ストラヴィンスキーの才能に目をつけます。それから七年後、愛するカペルとの死別を経て、ファッション界に確固たる地位を築いた彼女は、パリで経済的に困窮しているストラヴィンスキーに援助を申し出ます。ストラヴィンスキーは妻子と共に、シャネルの別荘に移り住み、作曲活動に専念するのですが・・・。

あんまり知らないとは言え、そこはワタクシも女ですもの、劇中出てくる素敵なお洋服には目を見張ります。何でもアナが着ている衣装は、カール・ラガーフェルドがこの作品のためデザインしたものだそうです。当時にも今の感覚にもマッチしており、シャネル社が全面的に協賛している作品らしく、調度品の数々もシックでゴージャスで、実に素敵です。

で、大ひんしゅくをかった「春の祭典」の舞台場面なんですが、今の感覚で観れば中々面白いです。でも確かに「白鳥の湖」を求めていた観客にとっては、これはただのおふざけと騒音でしょう。だってた山海塾みたいなんだもん。これでストランヴィスキーの才能を見抜いたシャネルは、さすがと言うところです。

才能と才能のぶつかり合いは、丁々発止と言う感じではなく、常にシャネルがリードします。年齢ではストランヴィンスキーの方が上なんですが、何とも手の中で転がされているようなんだなぁ。彼の妻(エレーナ・もロゾーワ)は夫の書きなぐった音を譜面に起こすと言う、作曲の校正みたいなこともしており、公私共のパートナーでもあります。この妻は中々見上げた人で、家族ごとシャネルの世話になったことへの感謝は述べながら、夫を寝どったシャネルに対して、「良心の呵責はないのか?」と、きっぱり立ち向かいます。シャネルの大物ぶりにも、一歩も引けを取りません。礼節と品格は失わず、そして夫へ愛もしっかり示すと言う天晴れなもの。おまけに怖い!ブランコに乗ったシーンなんか、「シャイニング」級の恐ろしさだよ。

大物女性二人に挟まれたストラヴィンスキーなんですが、あっち行ったりこっち行ったり、もうちっちゃいの。確かに溢れる才能は感じるんですが、一人じゃ何にも出来ないんです。しかしですね、長身でマッチョなのに、三叉神経がビリビリしていそうな神経質で優柔不断なインテリなへたれ男を、マッツが演じると、超セクシーなんですねぇ〜〜〜。私の愛して止まないマッツ・ミケルセンのお姿がそこにあるわけで、大変眼福でございました。

アナ・ムグラリスは名前だけしか知りませんでしたが、とっても素敵な女優さんです。クールを越えて辛い辛いジンジャー風味のシャネルを好演。常にタバコを口にし、従業員の賃上げ要求も却下、仕事にはとてもシビアですが、芸術を愛し育てようとする姿には、潤沢なお金の使い方も知っている人だとわかります。ストラヴィンスキーは「君は服屋で芸術家ではない」と言います。私もそう思う。ファッションは文化であっても芸術だとは思いません。これは言いかえれば、そこでしかシャネルを凌駕出来ないストラヴィンスキーの遠吠えなのでしょう。口した途端、負け犬になることがわからないのでしょうね。

妻「良心の呵責はないのか?」シャネル「ないわ」の会話の後の顛末は、あの妻であったからこそでしょう。普通の女が一番怖くて強いんだよなぁ。普通の女ではないシャネルの哀しみも感じました。

二時間ちょっと、別世界に連れて行ってもらえる作品です。大阪は始まったばかりですが、早く終わりそうなので、ご興味のある方はどうぞお早めに。


2010年03月10日(水) 「フローズン・リバー」




2008年度サンダンス映画祭グランプリ作品。名脇役女優のメリッサ・レオが、今作品で2009年度オスカーの主演女優賞にノミネートされています。もっともっと重苦しい母性充満の作品かと思いきや、意外と想像できる範囲内の描き方で、幅広い層に受け入れられる秀作だと思いました。監督はこれが長編作品は初めての女性監督コートニー・ハント。脚本も担当していますが、唸りたくなるほどこちらも秀逸です。

1ドルショップでパートで働くレイ(メリッサ・レオ)。ギャンブル依存症の夫は家にあるお金を全部持ち去って出奔。そこには新しい新居である、トレーラーの資金も入っていました。途方にくれるレイは、夫を探しにいったビンゴ会場で、偶然夫の車を発見。しかし若い女性が乗って行くのを目撃し追跡。女性はモホーク族の保留地に住むライラ(ミスティ・アッバム)。ライラは国境近くのカナダからの密入国の手伝いをしており、その場の成り行き上レイも手伝うはめに。ライラは夫を亡くし、一人息子は姑に取られ、息子と暮らす為の資金を貯める為この稼業をしていました。お金の必要なシングルマザー二人は、コンビを組み密入国に手を染める様になります。

冒頭途方にくれたレイの顔のアップにびっくり。メリッサは今年50歳の人ですが、年齢よりさらに老けて見える深い皺が顔に刻まれています。そして一筋の涙。嗚咽を漏らさないその姿に、万策尽きているのだとわかるのです。このシーン、本当に絶妙のタイミングで撮られており、すっかり感心しました。

レイの子供は15歳と5歳の男の子が二人。子供たちに夫の悪口は言いませんが、長男には母の父への憎しみが伝わっています。なけなしのお金を渡し、お昼代にしろと言い二人を学校に送り出します。着替えの時に見えたレイの身体の無数のタトゥーは、彼女の過去を物語り、家は貧しい白人の象徴のようなトレーラー暮らし。自分が学校を辞めて働くと言う長男を押しとどめるレイの姿からは、何としても子供たちだけは教育を受けさせ、この環境から抜けださせたい母心を強く感じます。

先住民であるモホーク族ですが、アメリカ政府の容認の元、部族会議を開き自分達で自治しているようです。政府との友好関係を維持していくためにも、犯罪は御法度。ライラの夫も同じ犯罪に手を染め亡くなっており、彼女は仲間たちから再び法を犯さないよう、見張られています。

まともな職もなく貧困にあえぐ母二人。一人は女としての盛りはとうに過ぎ、もう一人は容姿に恵まれず。女を武器に生きる事は出来ません。各々が子供のために出した切実な答えが、犯罪でした。しかしお話は、彼女たちに同調するように見せながら、少しずつ小見出しに、その生き方を否定するのです。

レイは常に銃を持ち歩き、夫も探さない。誰にも相談せず何事も自分だけで片付けようとします。さぞ頼りない夫だったのでしょう。彼女の「私が私が」という気持ちは、痛いほど実感出来ます。しかし子供たちは二人とも父を恋しがり、長男は良い父だったと断言します。母が仕事の間、幼い弟の面倒を見るのは兄の仕事。その温かい接し方は、私は彼が父にしてもらったことだと思いました。遊びたい盛りに毎日子守りです。しかしレイは労うどころか、如何に自分が大変かを息子にぼやくだけ。不始末をすれば怒鳴り散らす。父を詰る母に、「32ヶ月はギャンブルをしなかった」と口答えする長男。彼には頑張っても頑張っても認めてもらえず、妻に追い詰められた父親の気持ちがわかるのです。世間はプロセスがどうあれ、結果だけで判断するのが常。だから家庭だけでも、頑張ったプロセスを認める事は、必ず明日への活力になるのだと、私は思います。その役割をするのが、母・妻ではないでしょうか?結果長男も優しさから、犯罪の真似ごとをしてしまうのに、母はその心の中を観ようともせず叱るだけ。親が曲がれば子供も曲がる。それがレイには見えない。

対するライラも、子供を取り上げられたことのみに固執し、何故取り上げられたかは観ようとしない。目が悪いので他の仕事は出来ないというライラ。メガネは頭痛がするのだと。夫もこの仕事をしていた事、他の仕事は出来ないことを勝手な免罪符にしている彼女。姑は真っ当な稼業につかない母親だから、孫は渡せなかったのでしょう。ライラは本質を観ようとしていないのではなく、観たくないのです。何故なら一刻も早くお金を貯めて、子供を取り戻したいから。

そんな彼女たちの心を一変させたのは、密入国のパキスタン人の荷物を捨てたことからです。中身を知るや、一目散に我が身を省みず取り戻しに行く彼女たち。これが男の小悪党ならば、そのままにしていたと思います。母性がさせたことなのです。

最初に変化したのはライラ。まだ目が覚めないレイは、いやがるライラを誘い込みます。最初の出会いとは逆。しかし最後にお互いがお互いを庇う姿は、母親同士だと言う共通の絆があったからでしょう。「私が私が」のレイが、夜道を彷徨いながら脳裏に浮かんだのは、パキスタン人の若い母だったのでは?子供といっしょに暮らす事。母親にはそれ以上の幸せはありません。それ以外はみんな付録。ここでライラを置き去りにしたら、彼女には永遠に子供と暮らす日は来ないのです。貧しい生活の中、子供と暮らせる事だけを生き甲斐にしてきたはずのレイだからこそ、あの選択を選んだのだと思います。

親が真っ当になれば、子供も真っ当に。事の次第を知ってか知らずか、警察官の長男への温情が観客の心も包み込みます。ラストに見せる希望の光が、地に足がついているのが素晴らしい。子供のため、その思いは何よりも尊いが故、歪んでしまった母性さえ、人は寛容しがちです。だから誰も教えてくれない。自分で変化しなければいけないのです。レイとライラのもがく姿は、私を含む全ての母親への、自警と希望だと思います。


2010年03月07日(日) 「ハート・ロッカー」




明日発表の今年度アカデミー賞主要部門を、「アバター」と一騎打ちの作品。どうしても発表前に観ておきたく、疲れてヘロヘロだったんですが初日に観てきました。「アバター」ね、私も良いと思っています。しかし卑しくもオスカー受賞作が、あれくらいの内容でいいのか?という点では、疑問が残るのです。「ハートロッカー」の監督は、キャメロンの元嫁キャスリン・ビグローでして、この人は女性監督特有らしい、私の嫌いな「子宮感覚」というものは皆無。ノーラ・エフロンやペニー・マーシャルら女性監督たちの長所である母性も温もりもすっぱり捨てて、とにかく潔い男前な監督です。今回も期待大で観ました。結果軍配は個人的には「ハートロッカー」に挙げたいと思います。

2004年イラクのバクダッド。アメリカから派兵されたブラボー中隊の爆弾処理班に殉職者が出た為、ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)がリーダーとして赴任してきます。引き続き任務にあたるサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッチ技術兵(ブライアン・ジェラティ)でしたが、前任者と違い、身の安全を無視して爆弾処理をし、チームワークを乱すジェームズに困惑し、足並みが揃いません。ブラボー中隊がアメリカへ帰国まであと38日、彼らは無事アメリカへ帰国出来るのか?

冒頭の爆弾処理シーンから緊張感がいっぱいです。軽口を叩きあいながらの仕事ですが、常に死と背中合わせの仕事なのです。手ブレの激しい撮影はドキュメントタッチで、一気に物語に引き込まれます。

遠隔操作ロボットを使わず、防弾服を着ただけで爆弾処理するジェームズと衝突するサンボーン。サンボーンは冷静沈着で生真面目。生命の安全を一番とし長く諜報部に居たと言います。エルドリッチは生と死と常に背中合わせの最前線で、心のバランスが保てません。二人とも前線に出るのは初めてなのかと思いました。対する不可解な行動を取るジェームズは、「アフガンにも赴任した」「処理した爆弾は873」というセリフと共に、映画の最初に出た言葉、「戦争は麻薬」という言葉が重なり、これが彼の行動を紐解く鍵になります。

前線の場面はバクダットの街中が舞台とあって、至近戦での派手な映画的演出の銃撃戦ありません。代わりにほんの少しの油断で、あっけなく命を落とす場面が続出。今笑顔で喋っていた人が、次の瞬間亡くなっているのです。これで冷静でいろと言うのは、絶対無理。そんな中特に秀逸だったのは、砂漠での攻防戦です。きつい日差しの時分から夕暮れまで、埃まみれになり、顔にハエがたかる中、構えた銃を一度も外さないサンボーン。サポートするジェームズとエルドリッチ。銃撃戦は最初だけ、あとは重苦しい静寂に包まれるのですが、緊張感は持続したまま。終わった時は観ているこちらも、激しい疲労感を覚えました。

同じ釜の飯を食いながら、連帯感が結べるかと思えば、次の瞬間は一発触発。なかなか距離感が掴めない三人。サンボーンが命知らずのジェームズに嫌悪を抱くのは、仲間の死が即、自分もその内死んでしまうのだという感情に結びつくからなのでしょう。それゆえ一呼吸置いた後のサンボーンのジェームズへの思いやりの言葉、自分自身の心の吐露は、胸に沁みます。

アメリカに妻子を残し出征しているジェームズ。男の子がいるという彼は、現地の少年に目をかけ、彼の安否を気使うあまり、常軌を逸した行動に出ます。一見無謀な行為に見えるこの行動こそが、ジェームズの人間らしさのように感じました。

国のため正義のためという大義名分ではなく、敵味方関係なく爆弾を処理するジェームズ。迷彩服を着たまま頭からシャワーを浴びる彼から、血が滴ります。そして咽び泣く。血を流し血を浴びながら、頭は空っぽ。しかし心は苦しみと言う感情で満ち満ちているのが、手に取るように理解出来ます。

最近の戦争を描く作品は、どれもこれも核には反戦があります。特にアメリカが描く戦争映画は、自国の反省を促したい内容ばかりです。しかしこの作品は、観ている間ずっと、好戦でもなければ反戦でもない。自国批判もありません。戦争映画では見慣れたサンボーンやエルドリッチのような兵士も描いていますが、主役はジェームズ。戦場でしか生きられない彼。泣くほど苦しいのに、彼は爆弾処理こそが一番の自分の居場所だと確信しているのです。「戦争は麻薬」、この言葉が彼に重なります。

そのラストのジェームズの選択には、恥ずかしながら私はとても共感してしまいました。しかしこの選択こそ共感こそ、不幸なのだと思います。何故私は共感した自分を恥じたのか?それはジェームズを身近に感じたからでしょう。サンボーンたちのような兵士と同じくらいたくさん、ジェームズのような兵士もいるのだと知らしめること。この作品に反戦の部分を感じたいならば、ここなのではないかと思います。男の子が欲しいと言っていたサンボーン。男の子の父親であるジェームズの選択を見ると、いつサンボーンもジェームズのようになってもおかしくない、そういう暗示に感じました。

主役のレナーはハンサムではなく、敵役か悪役が向く容姿ですが、今回難しいジェームズの内面を好演。オスカーの主演男優賞にもノミニーも納得の演技で、是非この作品以降も出演作が観たいです。マッキーとジェラティも地味ながら好演でした。ビグローはあまり名の知れた俳優を使いたくなかったそうで、その意図に三人とも上手く応えていたと思います。

こういう「拘り」は、男性特有のものではないかと思います。それを命懸けの「戦争」と言う場に持ち込んだのは、私は新鮮に感じました。ジェームズが自分の本心を吐露する相手に選んだのは、妻では無く同僚でもなく、赤ちゃんである彼の息子。子供が女の子なら、彼は誰にもこの思いを告げなかったでしょう。この思いやラストの選択が理解出来るか、それともバカバカしいと思うかで、作品はまるで違った感想になるかと思います。戦争映画としては、新たな視点の作品として、エポックメイキング的な作品になるかも知れません。

女性が男性心理を描くのは難しいと思われているのでしょう。女性監督の作品と言えば、押し並べて女性の特徴を生かした作品ばかりです。その中でビグローの作る作品は、異彩を放っているものばかり。しかし男性監督だって、巧みに女性心理を描き、納得させる作品を作っている監督は、いっぱいいるじゃないですか。その逆だって大丈夫だと証明してみせた「ハート・ロッカー」、是非明日は監督賞を取ってもらいたいです。


2010年03月05日(金) 「霜花店(サンファジョム) 運命、その愛」




うわ〜、もうすんごい!絢爛豪華な歴史大作にて、超娯楽作!お友達の北京波さんが絶賛していらしたので観てきました。これほどまでサービス精神旺盛で楽しましてくれるとは、本当に嬉しいです。内容は高麗時代末期の歴史劇+家督相続のお家騒動+アクション+BL(ボーイズラブ)+不倫の18禁。下手したらキワモノになるところを、適度な深みまで持たせて描くとは、本当に大したもんです。監督はユ・ハ。

時代は韓国高麗時代の末期。高麗王(チュ・ジンモ)は元からの王妃(ソン・ジヒョ)を娶っていましたが、世継ぎはおりません。その元から世継ぎが生まれなければ、元からの縁戚を世継ぎにせよと迫られます。実は王は女性を愛せず、近衛部隊の乾龍衛の隊長ホンニム(チョ・インソン)を超愛していました。悩んだ末、王はホンニムに自分の代わりに王妃を身ごもらせるよう命じます。

再現した高麗王朝の美術が素晴らしいです。衣装・調度品が美しく、宴の様子も風雅な花見の様子と、豪快な戦の勝利の宴がきちん描き分けられ、乾龍衛@戦隊モノ風のイケメンの集まりの剣舞、美女の踊りや琴なども挿入して楽しませてくれます。

アクションも短剣・長刀、弓矢を駆使、馬まできっちり使い込んで、きちんと殺陣も決めて見応え充分。陰謀渦巻くお世継ぎ争いの始末の付け方には出血大サービス付きだし、さらし首やひょえぇぇぇ!の拷問、というか罰の与え方などなど、これでもかこれでもかと、画面は次から次へと飽きさせません。

普通この手の作品は、その代わりに中身が薄いか、変に芸術ぶって深みを出そうとして失敗するんでありますが、この作品、王がホモセクシャルだと言う設定を最大限に活用し、誰にでも理解しやすく訴えやすいという、「愛の在り方」で深みを作ったのが大成功。

高麗王は文武両道、眉目秀麗、王としての器も手腕も充分で、セックスこそないけれど、王妃に対しての充分な思いやりと優しさも描かれてもいます。しかし古今東西、王様の一番大事な事は、お世継ぎを作ることです。どんなに政に手腕を発揮しようが、そんなものは大臣なり参謀なり、ブレーンがしっかりしていれば大丈夫なこと。お世継ぎだけは王様しか作れない。その哀しさを画面いっぱい拡げる事で、作品に奥行きを与えています。

この王妃も天晴れな妃で、世継ぎがないと責められる王を庇い、指一本触れられたこともないのに、「世継ぎがいないのはこの私のせい。何故私を責めない!」と一席ぶつんですね。性愛はないけど、友愛はあると私は観ました。しかしセックスが無い子供がいない、この唯一の事が、この夫婦を壮絶な悲劇に陥れるのです。

ホンニムと王との関係も、直江兼継と上杉景勝のような絆に、セックスがプラスされる訳ですね。ホンニムは幼少の頃から王の側近として育てられ、世間も女性も知りません。そして王は憧れに値する主です。何の疑問も持たず暮らしていたのが、王の命令で全てが壊れていく。

男と男、主と側近、王と王妃、王妃と夫の男。様々な感情が入り乱れ、普通ならドロドロするところですが、その心模様を繊細に美しく、そして激しく大胆に18禁の濡れ場付きで描いているので、これがもう手に取るように三人の心が理解でき、とても切なく哀しいです。

ラスト近く、王が「お前は私のことを、一度でも本当に愛したことがあるか?」という問いに対するホンニムの返事は、本当に痛切です。私が同性愛者なら、多分一晩中泣きます。しかしこの答えを引き出したのは、誰あろう王自身なんですから、本当に愛って残酷よね。

かような豪華絢爛たる作品なのに、最初はキャストが小粒じゃないか?と危惧していましたが、何の何の。三人とも素晴らしい演技です。チョ・インソンは素直に伸び伸び演じて好感が持てます。チュ・ジンモは、誰もが羨む全てを兼ね備えているのに、ただホモセクシャルであるがため、一番願う愛は得られず、全てを失ってしまうと言う哀しい王を、繊細さとスケールの大きさを併せ持って演じています。

ソン・ジヒョは、最初こそ容姿が庶民的過ぎて王妃は似合わないと思いましたが、物語が進むに連れ、堂々たる女っぷりで圧巻でした。特にホンニムとの最初の睦の時は、屈辱と恥ずかしさをいっぱい浮かべ、哀しさを誘いましたが、二度目は恥ずかしさの中に期待を感じる表情を浮かべ、三度目の時は、男に抱かれる悦びを、本当に微かに滲ます表情をするのです。何て上手な人かしらと感心しました。それ以降の狂ったように情欲に身を任せる様子も、ずっと処女妻だったんだから、当たり前だよなぁと同情すら沸くのです。

過激な描写がいっぱいにも関わらず、演出は品を失わず堂々の風格でした。本当に拾いもんです。劇場は韓流マダムがいっぱいで、場違いの気がするでしょうが、映画好きさんにこそ観て欲しい作品です。


2010年03月03日(水) 「明日に向って撃て!」(午前十時の映画祭)




大好きなジョージ・ロイ・ヒル作品第二段。今回これだけは何があっても絶対観ようと思っていた作品です。何故かというと、劇場は初めてだから。私はローティーン時代から成人まで、ずっと「スクリーン」を読んでいましたが、そこの読者投稿欄に毎週のように賛美が送られていたのが、この作品です。今は亡き戎橋劇場で時々上映されていたのですが、当時は自分独りで映画館へは行けず、涙を飲んで見送っていたわけ。もちろんテレビやビデオでは幾度となく観ていますが、今回本当に久しぶりに観て、ほとんどのシーンを覚えている事に感激。そして若かりし頃観た時と、同じ様な感慨も再び抱きました。何故かと言うと、この作品は、アウトローの長過ぎた青春を描いているからです。

銀行強盗や列車強盗を繰り返すブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)。二度現金輸送中の列車を襲った事から、そこの社長は激怒。腕利きの者たちを集めて、二人を追います。命からがら逃げ切った二人は、サンダンスの恋人エッタ(キャサリン・ロス)を連れ、南米ボリビアに新たな展開を求めて出発します。

純然たる西部劇です。登場人物のいでたち、ガンさばき、酒場の様子に馬の使い方。この作品が今も色褪せないのは、西部劇だからというのも、あるのでしょう。

冒頭で既に「盛りは過ぎた」というセリフが出てくるし、追いつめられると軍隊に入るなど、虫のいいことを言う二人。自分達の時代のドアが少しずつ閉じられていくのをわかっているのに、変化しない、したくない。否応なく「老い」の兆しが見える年齢ならともかく、この二人くらいなら、その気持ちはとてもわかるのです。

どうしようもないアウトローなのに超素敵に見えるのは、もちろんニューマンとレッドフォードの功績ですが、襲うのは会社や銀行のお金で、個人はなし。何度もサンダンスの御自慢の早打ちのシーンがありますが、殺しはラスト近く山賊だけです。この辺は観客に嫌悪感を抱かせない上手い脚本だなぁと思います。

サンダンスがエッタを連れて行きたくなったのも、いつ死ぬかわからないという実感が、目の前に突き出されたからだと思いました。応じるエッタの感情は、今も昔も変わらない女心もあるんだと思わせます。

演じるキャサリン・ロスは、ヒット作を数々持つ主役二人に比べ、この作品と「卒業」くらいしか、有名どころの作品はありません。それも主役ではなく相手役です。私は若い頃、そんな一発屋めいた役者は可哀想だと思っていました。しかし「美人で頭が良くて、優しくて上品で、そんな女を探す」と言ったサンダンスの恋人として登場したシーンを観て、ロスはなんて幸せな女優さんだろうと思いました。私はあの大きな目の愛らしい顔立ちから衣装まで、全部覚えていたからです。私は一生彼女のことを忘れないはず。そんな人が世界中にいるんですもんね。

ブッチとエッタの自転車のシーン、サンダンスの「Ican't swim!」のシーン、そして映画史に残るラスト。その他どのシーンを切り取ってもユーモアに満ち、そして美しいです。二人は南米のボリビア、当時とてつもな田舎町の警察に包囲され、命を落とします。数々の悪行を働き、盛りを過ぎて都落ちしたアウトローには、似つかわしい最後です。しかしこのラストさえ、青春の終わりを潔く感じさせ、胸に沁みる美しさです。この情感の豊かさこそが、この作品が永遠に愛される理由かもしれません。


2010年03月01日(月) 「スティング」(午前十時の映画祭)

私の大好きな大好きな大好きな大好きな(もうええか)、ジョージ・ロイ・ヒルの作品。ついでに書くと、私が男優で一番好きなのが、この作品の主演のポール・ニューマンです。中年以降もとても素敵でしたが、若かりし頃の吸いこまれそうな青い瞳は本当に素敵で、20世紀イチの美男子俳優は、私はドロンじゃなくてニューマンだと思っています。大毎地下で「追憶」と二本立てで観ています。確かレッドフォード特集だったかな?とにかく初見の時は面白くて大興奮してしまった作品で、私の大好きな作品です。1973年度アカデミー賞、作品・監督・脚本など、7部門受賞作。

1930年代のシカゴ。若いフッカー(ロバート・レッドフォード)は、三人組で詐欺を働いていました。しかし知らずにNYの大物ロネガン(ロバート・ショウ)の手下の金を巻き上げてしまい、仲間の一人でフッカーを一人前にしてくれたルーサーが殺されてしまいます。復讐を誓うフッカーは、生前ルーサーが紹介してくれた名うての詐欺師ヘンリー(ポール・ニューマン)を訪ねます。

そりゃあもう、これで脚本賞(デヴィッド・S・ウォード)が取れなきゃ、どんな作品が取るんだ?と言うほど、二転三転するストーリーは本当に面白い!テンポも速からず遅からず、知性もユーモアも風格もたっぷりなんですよ〜。

当時レッドフォードは上昇気流まっしぐらのスター俳優で年齢は30代後半。観た時は私が若過ぎて、フッカーは全然青二才には見えなかったんですが、今回確かに若さを確認して納得。いえね、テレビ放送時、吹替えが柴田恭平だったわけなんですが、ワタクシ当時ものすごーく腹が立ちまして。当時の柴田恭平は本当に若造で、何でレッドフォードがこいつなんだよ!くらい憤慨しておったのですが、役柄的には合っていたわけです。(声は合ってません)。

私が大好きなニューマンは当時50歳前で男性として渋さ満開の時です。今回再見してみて、一番印象に残ったセリフは、「俺は復讐のために詐欺をしたことはない」でした。若い頃は単純にフッカーの心意気に共鳴しての協力だったと記憶していましたが、そうではなく、相手が超大物のロネガンだったからなんですね。この大仕事をやってのけたいという、詐欺師の性が、あちこちに感じられるのです。今は堅気の仕事をしている連中の嬉々とした仕事ぶりにも、雀百までだなぁとクスクス。「相手がペテンにかけられたとわかっちゃいけない」というセリフも印象的。詐欺師道があるんだわ。

サリーノのプロットは、人間の固定観念を上手く利用してるんだなぁと痛感。その他、何でこの人がニューマンの愛人役なの?と不満だったアイリーン・ブレナンの、年増女の包容力と心意気を今回は感じて、とっても納得。ルーサーが黒人だという点も効いていて、その他あれもこれも、今回は興奮せずに味わい深く楽しみました。

ホントにホントに面白い作品です。USJの街並みは、多分「スティング」から引用してると思われます。美術も衣装もしっかり作り込んであるのも今回再確認。お馴染のテーマ「テンターティナー」と共に、どうぞご覧になって下さい。




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